第一話 カリヨン  ギリシャ式鐘楼の見晴し台が美しいカリヨン広場は、空中庭園と並んで船内で人気のあ るスポットだ。この全長1キロに渡る学園船の生徒数は200人に満たないというのに、朝か ら昼にかけて人気が途絶えることはない。特に正午を過ぎたあたりからは、H.B.ポーラー スターでも屈指の賑わいを見せる。正しく少女たちの憩いの場だった。  その広大なカリヨン広場の一角を利用して、オープンタイプのカフェが営業している。 給仕はみな船内メイドで、いつものお仕着せ姿でテーブルを回っていた。有志のメイドた ちが切り盛りするオープンカフェだ。多忙なメイドが仲間同士暇を作りあって営業してい るので、開店時間は正午から日没までの4時間程度しかない。席数も少なく、まさに黄金 の午後℃d様のカフェだった。立地の良さと気軽な雰囲気が幸いして店は常に満員御礼。 購買部通りのカフェと並んで生徒から強い支持を受けている。  一応の店長であるイライザ・ランカスターは、午後の清掃を早々に切り上げると遅れて 営業に参加した。方々でメイド服が慌ただしく――しかし素人目から見ると優雅に無音で ――動き回っている。  イライザはこのオープンカフェが好きだった。この店のせいでただでさえ希少な休みは 削られ、ランチをとる暇すらも確保できないというのに、イライザは積極的に店を仕切り カリヨン広場を賑わしていた。何せ、船内メイドに転職してから――いや、もしかしたら 生まれて初めて――自分の意思で物事を為しているのだ。楽しむなと言うほうが無理であ った。売り上げも順調に伸びている。はした金額は借金返済の足しにもならないが、自分 で稼ぐという行為は実に心地よかった。また、生徒たちに満足な一時を提供するのもメイ ド冥利に尽きた。つまりイライザは満たされているのだ。  短い営業時間は瞬く間に過ぎ去り、傾いた陽は海面へと達し、空を赤く染めた。店内で 軽食の調理に追われていたイライザはようやく一息を吐くと、客席に姿を現す。閉店時 間を迎えたいま、客席に残った生徒の数も僅かだ。  イライザの緋色の瞳が、幾人かの少女のうちから見知った人影を認めた。途端、疲労に 負けた背筋が伸びる。 「杏里様……」  イライザの「理由」がそこにいた。  露台から船外が一望できる席に座り、ひとりで落日の様子を眺めている。白磁の肌に東 洋の陰影を掘り込んだ横顔が夕陽を浴びて、ひどく物憂げだ。  あの席取り、あの呆け具合、あの45度に傾けた黄昏の面持ち。ふと思うところがあり、 イライザは素早く伝票を確認した。注文は目いっぱい渋く煎れたセイロンティにブルーベ リージャムとブランデー。このオーダー……メイドの直感は疑念へと変貌してゆく。  疑念を確信に変えるため、給仕を続けながら杏里を2分15秒だけ観測した。その間、瑞々 しい唇から漏れた吐息の数は7回。20秒に1度のペースだ。これはもう疑いようがない。イ ライザは自分も嘆息したくなる気持ちを抑えて、愛しの人が陣取るテーブルへと近付いた。 「杏里様、お茶を煎れ直しますか」  カップに注がれたセイロンティはすっかり冷めている。  杏里は青黒色の瞳でメイドを見上げた。 「……やあ、イライザじゃないか」 「はい、私でございます」 「ごらんよ、夕陽がとても綺麗だ」  空を指し示す。 「同じ場所でも時間によってこうも異なる表情を見せつけてくれるなんて、これだからボ クはこの船を離れられないんだね。ねえ、イライザ。良かったら、ちょっとだけ一緒に眺 めてみないかい? キミとこの感動を共有したいんだ。会計はボクが持つよ」 「せっかくの杏里様の誘いをお断りするのは心苦しいのですが……」  イライザはスカートの裾を持ち上げ、メイド服を強調した。 「仕事中ですので」 「そう、そうだったよね。思えばここはキミの店だった」 「そんな恐れ多い……あくまで有志の営業でございます、杏里様。私はただ仕入れと経理 と給仕と仕込みと調理と皿洗いと清掃を務めているだけですわ」 「それはもうキミの店というか、キミだけの店と言った感じだねぇ」 「もちろん冗談です。みんなで協力して営業致しておりますわ」  黄昏の少女はメイドの冗談に微笑で応えた。なんと儚い表情だろうか。イライザは胸に 疼くもの感じつつ、それを振り切るようにテーブルから離れた。冷め切った杏里の紅茶を 下げると一礼して店内へと引っ込む。杏里は名残惜しげにメイドの背中を追ったが、やが て夕陽に視線を戻した。  3分ほど時間が流れた。陽は確実に沈んでいく。 「───幸い、杏里様の他にお客様はいません」  慌てて振り向いた。そこには変わらぬ笑みを称えるメイドの姿が。  杏里の口元にも笑みが広がる。イライザは新しく煎れたセイロンティのセット一式を杏 里の前に置くと、トレイを胸に抱いた。ティーカップの数は二つだ。 「閉店作業に移るまで5分間、休憩をとろうと思います。ご一緒させていただいてもよろし いでしょうか」  杏里の表情に僅かだが光が差す。「もちろんだよ、お姫様」  イライザは手ずからカップにティーを満たすと杏里の横に落ち着いた。ジャムを舐め、 セイロンティを舌で転がして味わう。甘みと苦味の絶妙なブレンドが疲弊した身体に染み 渡った。ロシア式の飲み方は邪道に思えてしかたないのだが、味だけは認められた。  杏里はやはり、紅茶には手をつけようとしない。 「……差し出がましいことを申しますが」  5分という時間はあまりに短い。イライザはさっさと本題を切り出すことにした。 「杏里様は何かお悩みのようですね」  見れば分かる。確かめるまでもないことだ。が、杏里の全身からは『尋ねてくれオーラ』 がこれでもかと発せられている。今日は悪戯をして遊ぶ気分ではない。放置して自分の嗜 虐心を吟味するような真似はせず、素直に尋ねた。 「私にできることであれば、遠慮なくご用命ください」 「イライザ。キミって子はいつでもボクに優しくしてくれる上に、ボクのことなら何でも お見通しと来ているんだね」  ええ、その通りでしょう。イライザは、今から憂鬱の吐息とともに紡がれる悩みの文句 だって推察できた。わざわざ相談を受ける必要なんてないのだ。叶うことなら聞きたくな かった。ずっとこうして2人でお茶をして、自分を、自分だけを褒めて欲しかった。 「実は、ボク……」  だけど、そういうわけにはいかないことをイライザは悟っている。この席に杏里を認め たときから全てを覚悟していた。杏里・アンリエットはいつだって単純過ぎる女だ。態度 や物腰でその時の感情は大体把握できた。空を広く一望できる座席。セイロンティにブル ーベリージャム。20秒に1度の嘆息。斜め45度の憂鬱。そして、オープンカフェ。そこから 導き出される杏里の想いはたった一つしかあり得ない。  つまり、 「……恋をしてしまったんだ」  その言葉は魔術の詠唱。ルーンの呟き。杏里は勿体ぶりながら一語一句を紡いだ。 「あら、まあ」とイライザは一応驚いてやるが、確信が事実に変わったに過ぎない。結局 全ては彼女の予想通りだったというわけだ。お相手はファーストのメルセデスかクローデ ィアだろう。子猫ちゃん候補筆頭の二人だ。 「杏里様らしいお悩みですわ」  それにしても、このお方は私が鋼鉄でできているとでも思っているのだろうか。 「それで、杏里様をこうまで悩ます罪人とは誰でしょうか」  知りたくもなかった。少なくとも本人の口からは。 「ニキだよ」 「……はい?」  無様にも聞き返す。 「ニキ様とは……あのニキ様でございますか? ニキ・バルドレッティ?」 「だ、駄目だよイライザ!」 「はい?」 「突然、その名を口に出さないでおくれ。ボクの心の準備ができていないんだ。今だって 危うく心臓が破裂するところだったよ。さあ、追いついて深呼吸を───うん、大丈夫だ。 いいよ、イライザ。もう一度その甘美な名を、ボクに聞かしておくれ」 「……」  その恍惚とした表情。魂をここに留めながら、どこか別世界に旅立とうとしている様子 はまさに本物だ。疑いようもなく、杏里・アンリエットは恋をしていた。しかし、なぜ?  困惑という名の津波によって、猛っていた妬みや恨みが駆逐される。嫉妬を覚えている 場合ではなかった。このお方はいったい何を言っているのだろう。  だって、ニキ様は既に─── 「ボクの身も心も、ニキというコンキスタドールに再征服されてしまったんだ。ああ、ど うしようイライザ。ボク、どうすればいいのかな。彼女を想うと、胸がたまらなく苦しい んだ」  そんなこと、知るものですか。  きっちり5分経ったことを確認して、イライザは席を立った。