第二話 図書室の君  学舎棟の閉館間際。次々と退室していく生徒の流れに逆らって、アイーシャ・スカーレ ット・ヤンは図書室に滑り込んだ。最近、この時間に図書室を利用するのが日課となって いる。あと30分早く訪れたいと常々思っているのだが、過密スケジュールがそれを許して くれない。学園唯一の特進生であるアイーシャは必修授業が一般生徒の倍近くある。  本来3年をかけて学ぶ知識をたった1年で吸収するのだから当然と言えば当然だ。が、朝 から夜まで続く授業のお陰で施設の利用が限られてしまうのは頭が痛い。閉館まで残り5分 で書物の城塞を攻略するのは、アイーシャの手に余る作戦だ。  だから最近は、城攻めを得意とする傭兵を雇うことにしていた。あらかじめ読みたい本 を伝えれば──例えタイトルや著者名が不明瞭でも──「これだ!」というものを選んで、 取り置いてくれる。「図書室の君」の名に恥じぬ活躍。実に心強い味方だ。  報酬は週に一度、コーヒーを一杯と日替わりのケーキをご馳走してあげること。それだ けで、数万冊の蔵書からアイーシャに相応しい一冊を選び出してくれるのだ。なぜ、そん な親切をしてくれるのか──なんとこの仕事を持ちかけたのは彼女のほうだった──初め は理解できず、アイーシャは戸惑った。だけど、最近になってようやく「図書館の君」が 如何なる人物なのか分かってきた。つまりはそういう行為を腹案なくできる人なのだ。  貸し出しカウンターに足を運ぶと、目当ての書籍はすぐに見つかった。カウンターの脇 に無造作に詰まれている。既にアイーシャ名義で貸し出し済みだ。彼女はありがたくそれ をトートバッグに閉まった。だが、肝心のカウンターの主が見当たらない。目的を達した とは言え、礼の一つもなく退室するのは気が引けた。この時間はいつもカウンターの裏で 読書をしているはずなのだが。  お花摘みにでもでかけているのだろうか。数分待ってみたが、待ち人は来ない。  仕方なく、主の姿を探すことにした。ポーラースターの図書室は広い上に、本棚が多す ぎて迷宮のごとき作りになっている。日中はともかく、利用者がいない閉室後にさまよう のは危険だ。そうと知りつつ、アイーシャは奥へ奥へと進んでいく。  ───私、変なことをしているわ。  カウンターで待っていれば、彼女のほうから姿を見せるだろうに。なぜわざわざ危険を 冒してまで森に立ち入るのか。たかだか一言お礼を言うだけなのに、なぜこうも執着する。 「ありがとう」とはそんなに大切な言葉なのか。 私には分かりようがないけれど。きっと言わなくてはいけない言葉なのだわ  だから自然と彼女の姿を求めてしまう。  本棚の森が開けた。蔵書に四方を囲まれた読書席、図書室のオアシスだ。樫材の堅固な テーブルに人の姿は───いた。  しかし図書室の君ではない。ファーストクラスの制服にグレイの頭髪。あまりに白すぎ る肌は、昼を知らぬ夜の精霊のようだ。思わず、少女の名を口ずさむ。 「……バルトレッティさん?」  アイーシャには気付いていない。テーブルに置いた左手の甲を一心に見つめている。  周囲を見回した。他に人影はない。 彼女、一人なのかしら  アイーシャがニキ・バルトレッティについて知ることは少ない。一時はクラスメイトだ ったが、教室で彼女を見たことは一度としてなかった。対人恐怖症の登校拒否少女――― その程度の知識しか無い。いや、「無かった」と言うべきか。最近、誰かさんのお陰で知 り合い以上(或いは他人以下かしら?)の関係にもなり、何度か言葉も交えたが、それで もやはり直接の面識は薄い。一対一の邂逅となると初めてだ。  いつも一緒にいる友人の姿は見当たらない。それも当然だ。ニコルとアルマは先程、購 買部のカフェで見掛けた。イライザはこの時間、自由が利くことはないだろう。となると、 消去法であの人が一緒だということになるが―――いない。  ならば、本当に一人なのだろうか。彼女が? それこそあり得ないような気がした。  いつものアイーシャなら、気には留めても行動に起こすことは無かっただろう。所詮、 自分とは無関係の事柄なのだ。だけど、今は違う。ニキは、あの人の大事な子だ。そして いつかは友達になれるかも知れない子でもあるのだ。それは十分行動を促す理由になった。 「ねえ―――」  喉が緊張に強張る。アイーシャは、自分の思考が肝心な部分を無視していることに気付 いた。ニキ・バルトレッティはいったい図書室で一人、何をやっているのだろうか。テー ブルに置いた左手を食い入るように見つめて、掲げた右手には―――果てしない物語。  ミヒャエル・エンデだ。四隅を金属で補強したあかがね色の豪華装丁本。ニキ・バルト レッティはそれを右手一本で頭上に持ち上げている。本の重みに耐えきれず、だいぶ揺れ ているが……彼女はいったい、何を?  思考を閃きが蹂躙する。恐るべき考え。まさか、と思いつつ絨毯を蹴った。  だが遅い。ニキ・バルトレッティは右手を振り落とす。果てしない物語とともに。目指 すは断頭台に据えられた左手。か弱い少女の膂力では、まさか肉が潰れるなんてことはな いだろうが―――本はあまりに重く、頑健だった。  間に合わない! 一瞬後に展開される未来を拒み、アイーシャは咄嗟に瞼を閉じた。 「―――まったく、今年のファーストは豊作ね」  響くはずのニキ・バルトレッティの悲鳴に代わって、アイーシャの耳に届いたのは聞く 者を酔わすハスキーな美声。瞼を開くと、そこには見知った友人≠フ姿が。  ニキからハードカバーを取り上げていた。 「初めは杏里だけだったのよ。少なくとも1年間は彼女だけで十分だったわ。それが、今年 はニコルにアンシャーリー、そしてソヨン。何てことかしら。ニキ、この上私はあなたに まで神意の怒鎚を落とさなくてならないの? いい加減にしてもらいたいものだわ。ゼウ スの神雷も、こうまで濫用されれば、まるで有り難みなんて無くなってしまうもの」  図書館の君。静寂の代行者。人間決戦兵器。踵に魔剣(グラム)を持つ女―――クロー エ・ウィザースプーン! その名を叫びながら、アイーシャは聖女の下へと駆け寄った。 「あら、アイーシャ。あなたもいたのね」  後輩の凶行を止めたばかりだというのに、クローエの言葉にで緊張はない。 「カウンターの本は見付けてくれたかしら。量子力学って素敵ね。カントの現象学を彷彿 とさせるわ。あなた、とっても素敵な授業の選び方をしているのね」 「え、ええ。それは有り難いんだけど……」  クローエが右手で軽々と持つハードカバーに目をやる。アイーシャの自然に気付いたギ リシャの美女――それは世界を統べる美だ――は音もなく微笑んだ。 「意外だわ。あなたもエンデが好きなの?」   常々思うのだが、彼女はあの人とよく似ている。どこまでも自分の時間で生きているの だ。だが、今回ばかりはそれに付き合ってもいられなかった。 「そうじゃなくて、この子……いま……」 「ああ」短い相槌を打って、クローエは視線をニキに移した。学園でも屈指の長身を誇る 二人に囲まれて、少女は身を竦ませるばかりだ。 「安心なさい、私は何も尋ねないわ。人は本と違い、読み物ではないもの。私はただこの 神域の財産が、知識の源泉以外の目的で使用されることを阻んだだけよ」  それは恐怖か、はたまた悔恨か、ニキは顔を俯けたまま全身を震わせていた。安心を諭 したいが、アイーシャは彼女に何を言えば良いのか分からない。ニキを常に引っ張るニコ ルやあの人に比べて、彼女はあまりに奥手すぎた。  救いの目をクローエに向ける。彼女は目を逸らして答えた 「……ニコルを探すか、イライザを呼ぶことね。それともアイーシャ、あなたが送る?  どのみち彼女、一人では帰れないでしょう。ここは―――もう、閉館よ」  だが、ニキ・バルトレッティはその場を動こうとしなかった。アイーシャは彼女の横に 座ると、出来る限り優しく――だが、内心で脅えを抱きつつ――言葉をかける。 「私……では、何も力になれない? バルトレッティさん、私はあまりにあなたのことを 知らなすぎるけど……だからこそ、力になれる時もあると思うの」  クローエが非難の目を向けてくるのが分かった。正気を疑っているかもしれない。しか し、だからと言ってここでニキを捨て置くことはできなかった。彼女はかつての級友で、 今は守るべき下級生で―――あの人への想いを共有できる仲間なのだ。  クローエが大袈裟に嘆息する。 「アイーシャ、あなた変わったわ」 「そう?」 「悪い兆候ね。あの人の真似をするということは、東に背を向けて荒野を進むということ よ。まったく褒められないわ。……心、改めなさい」 「外れ。不正解よ」 「何ですって?」 「だって、これは……あなたが私にしてくれたことの真似だもの」  クローエが動きを止めた。ゆっくりと黒い視線をアイーシャに這わす。なんて高潔で、 確固たる意思を孕んだ瞳だろう。アイーシャは吐息を漏らさずにはいられなかった。 「不愉快だわ。そう言うところもそっくり。本当に、悪い子に育ったのね」  クローエは無表情のまま、ニキの右隣の椅子に腰掛けた。これでアイーシャとクローエ はニキを挟んで席に着いたことになる。 「クローエ、ありがとう。あなたは、やはり……」 「勘違いしないことね。私はただ、彼女の神音を奏でる指先に執着があるだけよ。この子 の指は価値ある光よ。だから、彼女も図書室の財産の一つに数えることにしたの。それだ ったら……閉館後も、居残ることは許される。そうでしょう?」 「ええ、その通りよ」  アイーシャは微笑して、頷いた。 「それにしても……」クローエは一転して、表情を苦々しげに歪める。「何をやっている のかしら、あのオルフェウスは。これはあの人の仕事であって、私の領分じゃないわ」  アイーシャもそれには深く同感だった。