サフィズムの幻想 春の特別シナリオ               『イライザさんの土曜日』  イライザは早引けが苦手だ。同僚が走り回っている中、自分だけ抜けるような行為は気 が咎める。一日暇を頂く方がまだやましさは少ない。  一番都合が良いのは最後まで働くことだ。イライザは労働を望んでいた。  この境遇を幸せだなんて思わない。受け入れるには苛酷すぎる。しかし、幸せは無くて も模索する義務が自分にはあった。常に積極的でいたいのだ。だから「お先に失礼致しま す」なんて言葉は口にしたくなかった。誰に強いられるでも無く、イライザは自ら進んで 汗を流す。「不幸」を享受するような真似だけはできない。  班長もメイド長もそんな彼女の性分を理解し、評価もしてくれた。    だけど、お節介なベスは許してくれなかった。   「私は休んでいるわ、イライザ」  ベスは説教をするとき、決まって口調が穏やかになる。 「あなたが大浴場の掃除当番の日でも、天京院さんの研究が一段落つく日でも、その日が 私の休暇であったならば休むし、仕事が残っていなければ上がるわ。ねえ、あなたはそん なわたしを軽蔑するのかしら。薄情な友人だって見下すのかしら」  軽蔑だなんてとんでもなかった。ベスは当然の権利を駆使しているに過ぎない。 「そうね。でも、あなたが今日みたいにオフの日まで顔を出すと、私は不安になるの。私 もイライザという理想に倣わなくちゃいけないのかしらって。だから私の休暇のために、 私が仕事を忘れて昼まで枕を抱くために、あなたも休んでちょうだい。私を労ってよ」 『私と一緒に働くがイヤなの? 一緒に働いちゃ駄目?』―――誰かさんみたいに、そう 返せれば、あるいは勝てたかもしれない。 「青春は有限なのよ。あなたが仕事を120%こなすのは素晴らしいことだわ。感謝もしてい る。だけど、超過分の20%はゼロから創りだしているわけじゃないのを、あなたは学ぶべ きよ。その20%は別の何かを犠牲にすることで補っているの。あなたの場合、それが若さ だったり、青春だったり……そういうもの。無駄遣いは許されないわ。だから、ほら、今 日はもうお上がりなさい。自分の青春を労るのも大事よ」  今日はイライザの負けだった。彼女は素直にベスの行為を受け入れ「お先に失礼致しま す」を口にした。 「青春を満喫して」とベスは言った。  午後から訪れる春の時か。ベスのようにベッドに齧り付くのは、確かにもったいない。    H.B.Pの船尾デッキはイライザお気に入りの休憩場所だ。船首デッキと違い一般利用を 目的としていないため人気が無いの理由だ。一般生徒は学舎棟裏からテニスコートを経て しか立ち入れない。徒歩で10分以上かかるというだけで、せわしない乙女達は近寄ろうと もしないのだ。広大で整然とし過ぎているというのも不人気な理由なのかもしれない。少 女の気紛れな興味を惹き付けるセールスが、船尾デッキには無かった。  現在の航路だと午後の陽射しは強烈だ。イライザは部屋で私服に着替えると、パラソル を用意して船尾に出た。青春の有効活用とは言い難いが私室に篭もるよりは健康だろう。  ウッドトップのコーヒーテーブルにパラソルを差し、デッキチェアを広げる。ダスター で潮を拭き取ればイライザ専用の庭園は完成する。小規模な運動場ほどのスペースに、ぽ つねんとテーブルが佇んでいる様子はシュールだが、ポーラースターらしい光景だとイラ イザは肯定している。  早速、デッキチェアに腰掛けて、足を伸ばした。購入1ヶ月目にしてようやく主人を受け 入れたモスグリーンのラバーブーツは馴染みがいい。たまには自分のためにお洒落をして あげないと、と改めてイライザは実感した。久しぶりに外着を選ぶだけで――誰に見せる というわけでもないのに――楽しい一時を過ごせた。  上下はピンストライプのクレリックシャツにコーデュロイのハーフパンツでユニセック スに決めてみた。風が強いため、タータンチェックのロングストールを上衣代わりにして いる。トラッドなスコティッシュスタイルを意識したのだが、少し大人しすぎるかもしれ ない―――なんて考えを巡らすだけでも、心が安らぐ。自分のためにお洒落をするという のはやはり大切だった。ベスには感謝しても感謝しきれない。  イライザは気持ちを切り替えるのが得意だった。休むときは芯から休むこともできるの だ。さあ、退屈を贅沢に味わおう。胸に悦びを秘めて、イライザはウォーターフォードの バルーン(ブランデーグラス)にブランデーを注いだ。 「―――ディオニソス、どういうことかしら。ヘリオスはまだ活動中だというのに……あ なた、真っ昼間から何をしているの」  イライザは取り乱したりなんてしなかった。気配を覚れなかったことに若干の敗北感を 覚えつつも、浮かび上がる笑顔に狂いはない。 「クローエ様……あら、どうしましょう。はしたない所を見せてしまいましたわ」  ゆったりとしたオリーブのマリンパンツに白のハイネック。彼女が羽織るマリオマッテ オのジャケットはあの人のプレゼントだと一目で見抜いてしまう自分は、浅ましいのだろ うか。クローエを認めたイライザはすぐに立ち上がると、恐縮してみせた。 「別に責めたつもりはないわ。驚いただけよ。それより、珍しいわね」 「アルコールが、でしょうか。それとも私の私服姿が?」 「ここにいることがよ。随分とリラックスしていたわね。……そう、このコーヒーテーブ ルを用意したのはあなただったのね」  あなたって本当にそう言うのが好きね、とクローエはぼやいた。 「私も驚きました。クローエ様もここをご利用なさっているのですか」 「数少ない聖域の一つよ。波の音が強すぎて読書には不向きだけど、安らぎは得られるわ。 ―――ご一緒してもよろしいかしら?」  意外な誘いだったが断る理由もない。「もちろん、けっこうですわ」と微笑んだ。  クローエはアイアンウッドのデッキチェアを広げると端に腰掛ける。イライザは自分用 の一脚しか椅子を用意していないから、彼女が自前で用意したのだろう。 「クローエ様、どうかおくつろぎください。私はお茶を煎れて来ますわ」 「……ちょっと正気?」  白亜の国の少女は眉を顰めた。 「ここは船上の孤島よ。最寄りの給湯室でも10分はかかるわ」 「ご安心ください。私の足なら30分で用意できます」 「冗談じゃないわ。あなた、今日はオフなんでしょう? 貴重な30分を浪費させるわけに はいかないわ。良いから座りなさい。お願いよ」  彼女もか。なぜ、皆そうまでして休ませたがるのだろう。 「でも、クローエ様のお飲み物がないというのは……」 「あるじゃない。それでけっこうよ」  クリスタルのカットが鮮やかなブランデーのボトルに、クローエは目配せした。 「今日の私は愚かなマイナデスよ。あなたさえよろしければ、付き合いたいわね」  まったく今日はなんて日だろうか。ベスには強情を張られ、クローエはあろうことか酒 精を求められ、その上喚き立てる者≠自称するなんて。 「でも、グラスは1つしか用意していませんわ」 「十分よ」  驚くイライザを尻目にクローエはグラスを傾けた。唇を濡らすように舐める。 「……美味しいわ。とても滑らか。悔しいけれど、メタクサより好みよ」 「アルマニャックですわクローエ様。マルセル・トレプー、フランスのブランデーです」 「ランカスターがアルマニャックを嗜好するだなんて。天敵だとばかり思っていたわ」 「オルレアンの屈辱の味が致します」 「それまで好き勝手に蹂躙してきたのだから、許してお上げなさいな」  もう一口含むと、グラスをテーブルに戻した。  今度はイライザが傾ける。口元がすぼまったチュリーップ型のバルーンを手中で揺らし た。琥珀色のアクアビタエ(生命の水)が喉を灼く。香気、舌触りともに申し分なかった。 思わず口元に笑みが零れる。 「美味しいです」 「あなたのお酒ですからね。それにしても不道徳で不健康だわ。こんな、土曜日の昼間から」  クローエはグラスを受け取ると、暫く香気を愉しんだ。 「クローエ様のお国では、夕暮れ前から酒盛りを始められると聞きましたが」 「英国人は正午に必ずお茶を嗜む、みたいなことを言わないで欲しいわね。私は違うわよ。 ……でも良いの。今日は安息日よ。こうして何をするでもなく、ただ時を過ごすことを主 もお望みになっておられるわ」  クローエの飲みっぷりは見事だった。いくら口当たりが良いとはいえ、アルコール度数 50度弱のブランデーを一口で煽るとは。  不覚なのは、イライザが立ち上がる隙も与えず、クローエが手酌で空いたグラスに酒精 を注いでしまったことか。 「職務精神はともかく、あなたの好意を拒むつもりはないの」  グラスはイライザへの手元へ。 「次はお願いしたいわ」  好意を素直に受け取れないのはイライザも同じだ。クローエと差し向かいで、アルコー ルを交えて談笑しているという風景に違和感を覚えてしまう自分を、イライザは恥じた。 だけど、訝しまずにはいられない。このお方、何をお考えになっているのかしら。  イライザはクローエが好きだ。学生時代でこそ「気取りきった女」と毛嫌いしていたが、 こうして学徒の立場から離れてみると、非常に明晰で気配りのうまい女性だと知れる。一 緒に時間を過ごして疲れを覚えないというのは、それだけで貴重だ。きっと掛け替えのな い友人なのだろう。  だけどこれは違う気がする。この距離は些か近すぎはしないか。私と彼女の距離ではな い。そんな愚かな考えに囚われる自分が、イライザは恥ずかしくてしかたなかった。自分 は外面以上に楽天家だと自覚はしているが、やはりあの人のようにはなれそうにない。 「よろしければスイーツなどいかがでしょうか」  ただ、この流れる時間が不快だとは決して思わない。有意義なオフになりそうだった。 「アルマニャックには甘いものがとても合うんです」  ブリキのキャンディボックスをテーブルに置いた。 「本当はチョコレイトと合わせるのが理想なのですが……」 「良いこと聞いたわ。チョコならあるわよ」  帆布のトートバックから高級装飾品でも梱包しているかのようなゴールドのケースをク ローエは取り出した。 「ゴディバ、ですか」  更にピエールマルコリーニ、ジャン=ポール・エヴァンと丁寧にラッピングされたケー スをテーブルに並べる。 「……ミシェル様を餌付けでもされる気ですか?」 「やめて頂戴。グラディウスの月になってまで、その名を聞きたくはないわ。……先月の 残り物よ。既製品は保存がきくから後回しにしてしまったの」 「さすがクローエ様ですわ。私はもう、とっくに食べきってしまいました」  そもそもイライザはバレンタインなんて指折る程度しか受け取っていなかった。生徒と メイドの壁は他人が思うよりも厚いみたいだ。その旨を伝えるとクローエは失笑した。 「あなたが厚くさせているのでしょう、壁を。あなたや誰かさんが受け取らないせいで、 行き場を失ったクピドは私ばかりを責め立てるわ。あなたはともかく……こんな悪習を流 行らせた張本人は、責任ぐらい取って欲しいものね」  そのための回収班(ミシェル)ではないのかしら、とイライザは思ったが、誰も有効に 活用してないのだから意味は無い。 「誤解ですわ、クローエ様」  アルマニャックにはカカオ50%のビターチョコがよく合う。クローエから1つ頂いて、ブ ランデーと一緒に含んだ。 「誤解なものですか」クローエは苦々しく言い放つ。 「私は拒んでなどいませんわ。ただ黙っているだけです」 「そっち? つまり誰かさんの方は肯定するわけね」 「真理に立ち向かうつもりはございませんわ」  クローエのピッチが速い。イライザが舐めるように飲み、あくまで「酒精を愉しんでい る」のに対して、彼女はぐいぐいと杯を傾ける。その癖、顔色はまったく変えないのだか ら怖ろしい。 「それにしたって、あなたの言い分は許容しかねるわ。ファーストの頃のあなたを知る者 なら、イライザ・ランカスターの沈黙≠怖れるのは当然よ。あれに言葉を掛けられる 〈勇にして無謀〉なヘラクレスが、かつていたかしら」 「1人だけなら思い当たりますわね。果敢なエルキュール(ヘラクレス)様を」 「そんなこと、言われるまでもないわ」 「沈黙≠ヘクローエ様の専売。故に、あの方の〈勇にして無謀〉も知り抜いていらっし ゃるのですね。―――あ、ところで。よろしかったのですか」 「何がよ」クローエは憮然と答える。 「チョコレイトです。せっかくのもらい物を私が頂いてしまっては、悪くないでしょうか」 「そんなにつまんでおいてよく言うわね。けっこうよ。食べているのはあくまで私。あ なたは付き合ってもらっているだけよ。それに、ただ酒というのも気が引けるわ」    それから暫くは無言が続いた。バルーンを譲り合って、生命の水を消費させてゆく。話 題の泉は無限に湧き出る―――なんて間柄ではないのだから仕方ないとイライザは思う。 会話を尽きさせぬ技術ぐらい彼女は持っていたが、駆使しようとも思わない。そういった 気を使い合う関係でもないのだ。  今の構図はイライザ・ランカスターとクローエ・ウィザースプーンの関係そのものでは ないかと考えて、彼女は胸裏で微笑んだ。互いに本音を吐露できるほど強くは出来ていな いのならば、黙り合っている方がいい。口を開けば鎌のかけ合いをしてしまう2人なのだ から、尚更だ。  しかし、気に掛かることもある。  沈黙は酒精を進めた。封を切ったばかりのボトルは速くも半分消費されている。身体が 熱い。相手に絡みたくてうずうずする。かつての悪癖が芽吹こうとしていた。  酔っているのだ、自分は。  イライザは頬が火照っているのを自覚した。なんてことだろう。「交互に飲む」という この形だと、自分のペースなど保ちようがない。クローエがさらさらと飲み下すものだか ら、必然イライザの飲酒量も増える。いつもより酔いが早いのも仕方なかった。  一方、クローエの顔色は石膏のままだ。 「……お強いのですね、クローエ様。私もお酒には自信があったのですが、敵いそうにあ りません」 「私も酔っているわ。顔に出ない体質なだけよ」  本当かしら、と彼女の表情をまじまじと窺う。長い歴史を誇ればこそ、ここまで完全に 近付けるギリシアの美。一分の狂いも見出せなかった。彼女の鉄の自制心がそうさせてい るのだろうか。  迷惑そうに――あるいは戸惑い、恥じるように―― 一瞥された。視線が一瞬だけ重な り、すぐに逸らされる。不躾なことをしていると気付き、イライザは慌てて目を伏せた。  やはり酔っているのだ。普段ならばこんな非礼は絶対にしない。悪い癖―――昔の癖が 出ていた。相手の瞳を常に射る。決して目線を逸らさない。瞳の奥に何が宿っているのか、 無理にでも読み取ろうと試みる。昔はいつもそうだった。イライザは自分の緋色の双眸が 如何に鋭いが心得ている。だからこそ、今は視線を合わせるような真似は避けていたとい うのに。  だが同時に覚りもした。なるほど確かに彼女は酔っている。一瞬だけ重なり合った視線。 そこには必死で自分を隠そうとする、理性の揺らぎが見えた。先程から水平線を眩しそう に眺めているのも、平素を装うためか。  自然と表情も晴れ渡るものだ。 「そう言えばクローエ様、どうして今日はこちらにいらっしゃったのですか」  直裁的な質問はフェイク、本題を眩ますための搦め手だ。こういう展開になるのだけは 避けようとしていたのに―――アルコールのせいで自制がきかなくなっている。そういう ことにしておいて、イライザは言葉を続けた。 「確か、今日はヘレナ様とお勉強会だと聞いていましたが」 「お勉強会? 誰から聞いたの」 「昨晩、ヘレナ様から」  クローエは忌々しげに頭を抑えた。 「……勉強会なんて私には不要だし、そもそも不効率よ。互いに高め合うにしても、同じ 空間で過ごす必要性は皆無じゃないの。私はただ、今度の試験でニコルとあの人が企んで いることについてヘレナと話し合っただけよ。一時間もかからなかったわ」 「あら、そうだったのですか」 「なんて白々しい……」 「でも、なぜ、その帰り道にこちらまでお寄りになったのでしょうか」  顎に指を当てて、思考のポーズを作る。 「今日は図書館は館内整理日よ」 「いえ、そうではなく、クローエ様のお部屋には杏里様が―――」 「ちょっと!」  遮られることは分かっていたから、首を傾げるだけにした。 「……あなた、今日はオフでしょう。どうして」 「私、今日は早引けです。午後上がりでございます。本当は定時だったのですが、仕事が 早く片付きましたので」  なんてこと―――と呟いて、デッキチェアの背もたれに倒れ込んだ。窺うまでもなく顔 色は蒼白だ。呆気に取られたまま、空を見つめている。 「そう、午前に私の部屋を掃除するのはあなただったのね」  イライザは満足そうに頷いた。全身の震えを抑えるので忙しい。クローエは本人が自覚 している以上に、動じやすい性質なのだ。だからこそ絡みたくなってしまう。 「総て勘違い。私の怒りはなんだったのかしら……」  太陽を仰ぐ様子は、受難を受け入れる信徒のそれだった。 「クローエ様はお怒りだったのですか」 「……あなたね。早引けだなんて今までしたこと無かったじゃない」 「はい。今日はエリザベスに負けてしまいました」 「あ、そう」  咎めるような口調はすぐに消えた。さすがは理性の人か。 「良いわ。あなたは何も悪くないもの。勝手に私が勘違いして、先走っただけだわ」  まったく馬鹿馬鹿しい、とクローエは立ち上がった。酔いは醒めてしまったようだ。 「お帰りですか?」 「帰らないわよ。でも、ここにもいたくないわ」 「でも、杏里様が待っていらっしゃるのでしょう」 「……嫌よ。今日はどちらにせよ、会いたい気分じゃないの。安息日なのだもの。寝かし ておくわ」  イライザは提案する。 「ならば、いかがでしょうか。私のお部屋で続きを楽しむというのは。生徒との接触はあ まり推奨されておりませんが、幸い今夜はベスも夜勤ですから」 「嬲るつもりかしら。私がいまどういう気分でいるかぐらい、あなたなら分かりそうなも のだけれど」 「さあ、私には分かりかねますわ」  パラソルを畳み、デッキチェアを片付ける。イライザは、彼女が慰めを欲しているのを 知っていた。自分のせいでこのような思いをさせてしまった―――すまないと思いつつも 自分がいまとても愉快であることを隠すことはできない。ならばいっそ、最後まで付き合 って欲しかった。なぜなら、今日は私の休日なんですもの。                  ※  ※  ※ 「つまり、私服姿のイライザを認めたクローエは、彼女が休暇なんだと勘違いして『せ っかくの貴重なイライザの休みを一緒に過ごしてやらないなんてどういうことだ!』と頭 に血は昇っちまったワケだ。何せその時間、杏里の馬鹿はクローエの部屋でいびきをかい ていたんだものな。でも、だからって『会え』と急き立てるのは自分のキャラじゃない。 そんな義理もない。そうといって、海を眺めるイライザの後ろ姿には底知れぬ寂しさが秘 められている。……結局、殉教者クローエは耐えきれずに声をかけちまったって理屈さね。 ついでに、あんたの帰りを部屋で待っているはずの杏里には『絶対に会ってやらない』と 胸に誓って! はは、そりゃ傑作だよ。クローエ、あんたも意外に―――」 「せい!」  一筋の光芒は正確にニコル・ジラルドの頭頂を捉えた。フィレンツェの不良少女は、悲 鳴すらあげる間もなく絨毯に倒れ込む。まさに電光石火の一閃だ。 「クローエ先輩、そんな恥ずかしがることじゃないですよ。あたし、感動しちゃいました。 クローエ先輩、すっごく格好良いです! こういう話、あたしの友達がとても悦ぶ―――」 「あなたも!」  今宵、クローエの踵の冴えには鬼気迫るものがあった。「来る!」と覚悟を決めていた はずのファン・ソヨンさえ、呆気なく絨毯に沈む。今の彼女は修羅そのものだ。 「イライザ、あなた何を考えているの……」  肩で息をしながら、元クラスメイトを睨み付ける。 「なぜ、よりによってこの2人を呼んだのよ。お酒の場に呼んではいけない2人よこれは!」 「まったくだわ。こういうのは3人でゆっくりと片付けてゆくべきよ」  パイナップルジュースをちびちびと飲みながら、ヘレナ・ブルーリュカは深く頷く。  クローエは半眼で級友を睨んだ。 「……あなたね。自分がいるのはさも当然みたいに言わないで頂戴」 「え、私も?!」  思わず嘆息してしまう。 「あなたの嗅覚って、風紀よりもこういうのを強く嗅ぎ分けるわよね。恐れ入るわ」 「そんな、私はただあなたとイライザが喧嘩したと聞いて……」 「してないわよ! ……お願いだからニコルの言うことを真に受けないで」  2人のやり取りを見守るイライザは、先程から忍び笑いが耐えない。ベスとイライザの 2人が生活するだけでも窮屈な個室に、5人も詰め込まれているのだ。彼女の性分からして、 熱気と騒乱で辟易するはずなのだが、そんな様子は見せない。心から愉しんでいる風情だ。 「でも私、クローエの気持ちも分かるわ。イライザ、あなたはオフの日は必ず杏里と一緒 だったじゃない。それは誰でも誤解するわよ。クローエでなくとも怒りを覚えるわ」 「……あなた、人の話をまったく聞いてないわね」  勝手にしなさい、とクローエは部屋の隅に引っ込んだ。イライザはそれを目で追う。ヘ レナが、いかに自分の休暇が希少なのかを説き「あなたはもっと休むべきよ」と余計なこ とを言っていたが、イライザの耳には届かない。自己嫌悪に浸る図書館の君を恍惚の表情 で見守っていた。  彼女はいま罪悪感に苛まれ、悶えている。級友の貴重な休暇の日に、あの人と過ごして しまったという罪を。そんな独占行為に、どこか優柔不断を覚えている自分の惨めさを。 それらが総て勘違いだったせいで生まれた、途方もない虚しさを。一瞬でもあの人を誤解 し、憎んでしまった自分の迂闊さを。―――あらゆる咎が、彼女を裡側から犯していた。  それを想像するだけで、たまらなく愛おしさを覚える。  でも、ただ一つ。この誤解だけは正しておきたかった。 「ヘレナ様は勘違いしていらっしゃるみたいですね」 「あ―――え、何かしら」 「確かに、私が休暇の日は杏里様と恐れ多くもご一緒に過ごす傾向がございます。あの方 に可愛がってもらえるのは、これ以上にない至福ですわ。ですが、そうでない日も当然ご ざいます。例えば今日のように」  ふっとクローエは顔をあげた。イライザは優しく微笑みかける。 「1人になりたいときもあれば、心を許せる友人と午後を目一杯に使って雑談に興じたい ―――そう思うときもあるのです。ですからヘレナ様、そのような心配りは無用ですわ」 「イライザ……」  責めるつもりは無かったのだが、口調に棘が含まれていたのかもしれない。それっきり ヘレナは黙ってしまった。  イライザはベッドの端から立ち上がると、膝を抱えるクローエの下まで歩み寄る。 「クローエ様、今日の午後は本当に愉しませて頂きました」 「イライザ・ランカスターさん。あなたも誤解をしているようね」  図書館の君は瞼を細めた。 「はい?」 「私も愉しんでいたのよ、本当に。切っ掛けは不純だったかも知れないけど、それでもあ のアルマニャックの味を忘れるなんてことはできないわ。とても有意義な時間だった…… それだけは信じて頂戴」  廊下の窓から、船尾デッキに佇むイライザの後ろ姿を認めた時、クローエは無視して直 帰するという選択もあった。なのに彼女はこの道を選び、それに後悔は無いと言い切った。  あのクローエ・ウィザースプーンが後悔をしていないと言うのだ! 「……私もです、クローエ様」  頬を撫でる。初めて彼女の肌に触れた。 「本当に、最高の土曜日でしたわ」  弾力の弱い、緊張によって保たれる張り詰めた肌だった。                    ※  ※  ※  秒針が時を穿つ。心臓の鼓動が、生という行為を促す。  彼女は焦っていた。  珍しく、息苦しさを覚えていた。  伝声管に囲まれた級友の私室に、1人取り残されて。 「クローエってば遅いな。もう土曜日が終わっちゃうよ。帰ったら続きをしようって約束 したのに、どうしたことだろう。ボクを焦らしているのかな。ああ、もう、この行き場を 無くした身体の火照りはどうすればいいんだー!」  時報が鳴り響く。ソヨンが気絶をしたまま眠りに落ちた、その時間―――杏里・アンリ エットは諦めを拒み続けながら、想い人の帰還を待っていた。                               To be continued...