サフィズムの幻想 クリスマス特別シナリオ                   『水葬』  杏里には鳥かごよりも水槽が似合う。  そう気付いたのは、ふとした偶然から。  彼女が水面を切り裂いて、水しぶきの宝石に輝きながら彼岸を目指す様子にほうっと 見入っていたときに。―――その美しさがあまりに秩序だっていて、一つの狂いも許して いなかったため。眺める私が抵抗も煩いもなく彼女に魅せられてしまったがため。  水の中では静かなのね、なんて。当たり前の感想を呟いて、嗚呼、彼女を飾るには水槽 しかないと思い至った。  今まで、私は彼女をずっと鳥かごに飼っていた。昼夜問わず囀りに悩まされる忌々しい 鳥かごに。……水の中なら音はないのに。そんな簡単なことに気付かないまま。    右舷下層の体育施設。喫水線より下に位置する「水中プール」―――競技用の短水路プ ールは、H.B.ポーラースターでは珍しくもない「無用の形骸」の一つだ。  水泳部も水泳の授業もないため利用する機会は無く、水浴びや運動目的なら船上の大プ ールや人工ビーチのほうが色気がある。この競技用プールは開放的で透明度の高いデザイ ンを好むポーラースターにあって、異端的に「遊び」がない。競技用の名に恥じぬ実用性 一点張りの無機的な設計。下層部ゆえに窓はないため、陽光は差し込まず、ダウンライト のわざとらしい光だけで屋内プールを照らしている。  喫水線下―――水中にあって水中に溺れるというのは、あまり愉快なものではない。屋 内照明の輝度は高いけれど、人工の灯火では不安という影までは拭えず、どうしても深海 の昏さを意識してしまう。外が知れぬ密閉構造だからこそ、奈落へと引きずり込まれる錯 覚が忍び寄ってくるのだ。  生理的な嫌悪……というよりも、恐怖心か。それが、学園の乙女たちの足を遠退かせる 理由なのだろう。  密室といっても二十五メートルプールを収容するだけの体積があるのだから、視覚的な 息苦しさなど感じようがないはずなのだが。  お陰で入学してから今日まで、一人を除いて一度も私以外の利用者を見たことはない。  このプールの主は、私。「図書館の君」などと私を呼ぶ子たちも、まさか君主の座を掛 け持ちしているとは思うまい。  私はこの屋内競技用プールを気に入っていた。軽薄で媚びに満ちた大プールよりよっぽ ど快適だ。カラカラ浴場にパルテノン神殿―――あの大プールにあるのは深みのない模倣 ばかり。歴史も無い癖に荘厳さを掻き立てようとするのは、ポーラースターの悪い癖だっ た。……お兄様なら、あんなデザインを許しはしない。お父様らしい戯れだ。  私は信じて疑わなかった。船上の大プールと対をなすのが、船底の近いこの競技用プー ルだと。  無機質な表情の裏に懊悩を抱えて、光から逃れるように深く深く沈んでゆく。お兄様の 芸術は、お父様とは違い、目では見えない。外観は同じでも、このプールはオリュンピア 祭典競技に用いられるような施設とは違う。  重力の底に立つような圧迫感は、これより深くは沈めないという安心感を与えてくれる。 隔離された空間とは「殻」に等しい。お兄様はこの羊水の海を潜り、誰の胎内に還ること を望んだのだろうか。……真っ先に自分の名を思い浮かべるいやらしさには、ほんとに辟 易する。    杏里が私の殻に平然と踏み入って来るのはいつものことだから、私は怒りも呆れもしな かった。 「やあ、どこに行くんだい?」  道場の方角じゃないから、気になって声をかけてみたんだ。―――そう、あなたは好奇 に満ちた瞳で語るけれど。……ねえ、あなたの発見って新しくも何もないのよ。私があな たとこうして会話するようになってから、もう一年が経っていて、その間に百回は屋内プ ールに足を運んでいるのに。どうしてあなたは今になってそれに気付くのかしら。 「別に。あなたには関係ないでしょ」と素っ気なく答えても、しつこく付きまとわれるの は分かり切っていたから、手短に真実を告げる。 「プールよ」 「プール? へえ、泳ぐのかい!」 「ええ。当然でしょ。それがプールという施設の利用目的なのだから」  あなたのように、他のことに使ったりはしないわ。  エントランスからエレベーターに乗り込むと、彼女もまた閉まる扉の隙間をするりと滑 り込んで私と肩を並べた。……答えようと答えなかろうと、彼女は付きまとうのだ。分か り切ったこと。だから反応しない。 「ん? 船上には行かないのかい」  分かり切った質問。私が地下のボタンを押すのを認めて、尋ねられた。 「大プールに行くんだろう?」 「あそこは娯楽施設。泳ぐためにある場所じゃないわ」  彼女は大プールの他に、ポーラースターが三つも短水路プールを擁していることを知ら なかった。その中でも最深部のプールは、私以外に利用者がまったくいないことも。 「へえ、本気で初耳だよ。それってファーストの子とかも知らないんじゃないかな。プー ルと言えば普通は大プールだからね」  僅かに間を空けてから、彼女は征服行為を開始する。 「……ボクも行っていい?」  その質問にどれほどの意味があるのかしら。あなたが傲慢に「行く」と断言すれば、世 界は従順に付き従うというのに。あえて私に答えを委ねるなんて。 「好きになさい」  それが精一杯の抵抗。 「でもあなた、水着はどうするの」 「そのプールってクローエしか利用していないんだろう? だったら、別に水着はいらな いんじゃないかな。タオルは更衣室に備え付けのがあるし」 「駄目よ。娯楽施設ではないと言ったでしょう」  頭の中で、ここから左舷上層寮―――セカンドクラスの宿舎へ続くルートを探す。更衣 室で待っていても良かったが、彼女が道に迷う可能性を考えると、部屋までついて行って あげた方が確実だ。  ……もう、私の殻はとっくに破られているのだから。ならば、さっさと誘い込んだほう が心は傷まない。  こうして、私は杏里・アンリエットを水槽に飼うことに成功した。  私と彼女が着る水着は学園指定のワンピース―――所謂「スクール水着」というものだ が、見栄えばかりを重んじるH.B.ポーラースターの例に漏れず、学校指定とはいえ水着の デザインは垢抜けている。  それも当然。どうやって説き伏せたのかは知らないが、オーストリアのファッションデ ザイナー、キャロル・クリスチャン・ポエルがデザインを担当しているのだから。  ワンピース水着という女性的なラインがもっとも強調される衣装に、ユニセックスなラ インを与え、そうして培ったギャルソンヌ・スタイルを嘲笑うかのように喉元と腰に薔薇 の飾りを施す。あまりに挑戦的で、だからこそポーラースターらしいスクール水着。 「学校指定」を理由にして、私はただ、ポエルデザインのスクール水着を着た彼女が見た かっただけなのかもしれない。  ここはポーラースターの水槽なのだから鑑賞者が必要だ。一緒に泳いだり競争したりす るなんて馬鹿げている。だから、私がルールを決めた。  一人が泳いでいる間、もう一人はプールサイドから水槽を鑑賞する。二往復―――百メ ートル泳ぐごとに交代することで、水の檻にたゆたう姿を交互に見せつけ合う。 「見られているほうが緊張するから、フォームも整うよ」  そう言って、彼女は私のアイデアに賛同した。私の意図からかけ離れた発想だが、的は 射ている。相変わらずのとぼけた鋭さの持ち主。確かに、「見られている」という意識は 緊張を掻き立てる。もう、今までのように井戸の底で溺れているわけにはいかない。ここ は私だけの殻では無くなってしまったのだ。私は彼女が期待するような、凛々しくも厳し い泳法でお兄様の海を切り開かなくてはならない。  どうやら、この水槽は私を一方的に鑑賞者には仕立てあげてはくれないようだ。檻の外 と裡の定義は極めて曖昧。気付いたら私が水槽に飼われていた、なんてことになりかねな い。  彼女に観察され続けるのは、彼女を観察し続けるのと同じくらいに毒のある誘いだ。身 を任せれば簡単に官能に融けられる。けれど、蒐集家の彼女は多くの水槽を持っている。 私にはここしかない。だから、私は彼女を眺める。水が滴る顎先を。水滴の化粧に輝く横 顔を。無造作にかき上げられた黒髪を。水衣を脱ぎ落として陸に上がる肢体を。酸素を求 めて上下する胸の丘を。濡れた瞳を。―――私は飽きずに見澄ます。  百メートルは拍子抜けするほど短い。私は水槽の外にいて、鑑賞をする側に立っている のだから、いつまでもプールサイドから彼女を眺めていたかった。 「さあ、キミの番(シーン)だよ」  差し伸べられた手をとって立ち上がる。  耳に届く微かな息切れが私の胸を騒がせた。もっと長く、もっと疾く泳いで、より大き な疲労を彼女に覚えて欲しかった。私は彼女の疲れが見たい。  交代のとき決まって私が憮然として無口なのは、意識が醒めきっているせいだ。せっか くの陶酔が、百メートルという刹那の距離に阻害される。なんて歯がゆさだろう。  私が泳ぐ二往復は、次の二往復を鑑賞するための期待と焦燥に満ちている。余裕など欠 片もない。必死に彼岸を目指して無様にもがくだけ。溺死体のなり損ない。なのに、溺れ かけの私を見て彼女は「セ・ボー!」と絶賛する。時を忘れるほどに麗しく、まるで水の 精霊オンディーヌのようなのだとか。……だったら、あなたというハンスを泡に変えてし まっても良いのかしら。 「もしかしたらボク、泳げないかもしれない」なんて言って、初めの頃は自分のシーンを たった一回泳ぎ切るだけで精一杯だった彼女も、僅か数回の経験で見事にマーメイドの役 を勝ち取った。今ではフォームもスピードも水槽に馴染みきっている。私が教えられるよ うなことは何もない。  彼女の理解力の高さ、飲み込みの速さにはいつも呆れさせられる。この水槽は、元々は 私だけの殻だったはずなのに、今ではすっかり彼女が主役だ。  輝かずにはいられない存在というのは、同時に闇を濃くする。  お兄様の水槽で自由に泳ぐ彼女を見ると、遅かれ早かれ私たちはこういう関係になるし か無かったのだろう、と思う。彼女の輝きを誇らしく思えるいまの関係だから、妬みとも 憎しみとも無縁でいられた。彼女を憎むような私なんて惨めすぎる。  私という器を曇らせないためには、自分が望む理想の私を維持するためには、彼女を求 め受け容れるしかない。彼女の才覚を妬んだり、劣等感を抱くような無様な自分を見たく ないから。―――なんて卑怯な。彼女の手管はいつでも狡猾だ。私の逃げ道を私の手で閉 ざさせる。彼女が私を求めてきたはずなのに、私から彼女を求めるように仕向けさせる。  やはり、水槽の裡にいるのは私なのだろうか。……いいえ、それは分かり切ったこと。 私に限らず、彼女を取り巻く全ての子は展示物のようなものだった。  ただ私は、彼女の水槽の中で自分だけの水槽を持とうとしているだけ。喫水線の下、水 中にあって水中に溺れる屋内プールという形骸を利用して。    観賞会の頻度は週に二度か三度。平日は就寝前の零時頃。休日は目覚めの早朝。  私は二日に一度のペースで通っていたから、彼女を必ず観賞できたわけではない。約束 も交わさないため、更衣室に入ったら彼女が先客としていたり、私が泳いでいると後から やってくるようなことが多かった。彼女は純粋に運動を目的としているのだろう。  二ヶ月も続けると、彼女の身体は目に見えて引き締まった。元から贅肉なんてない鋭い ラインの持ち主だったけど、運動をするとやはり違う。水流の壁に身体の丸みを削がれ、 性の境界性を更に曖昧にさせた。中性的過ぎて、浮き世だって見える始末だ。制服の上か らでも変容は知れるが、真価を発揮するのは裸体を晒した時だろう。性を切り捨てた彼女 の姿は、肉なんて淫靡な素材より清廉な陶器に近い。これから彼女の枕になる子は、今ま で以上の恍惚を強いられるに違いない。……難儀なことだ。  性を忘れた彼女を見ると、お兄様を思い出さずにはいられない。二往復を終えて、大き く息継ぎをした直後の横顔は、戦慄するほどお兄様に相似している。  底の知れない絶望を称えたお兄様の横顔。私は懐疑する。お兄様が作った水槽を漂うこ とで、彼女はお兄様に浸蝕されているのではないだろうか。彼女という器が、この水槽か らお兄様の形骸を汲み取っているのではないだろうか。  だとしたら、私はこの水槽を直ちに封印すべきだ。彼女はお兄様ではないのだから。彼 女は彼女でしかないと私は自覚し、それでも求められるようになったのだから。もう、彼 女からお兄様を見出すような真似はしたくない。  だけど、私はこの儀式を止めることができなかった。お兄様からの贈り物。静寂の中で 彼女を観察する術を与えてくれた水槽を自分の手で壊すことなんて、できない。  そうしている間にも、彼女は泳ぎ続ける。水中からプールサイドに上がる度にお兄様に 近付いていく。私は観察することしかできない。それが私の望みだから。  この水槽がどうして設計されたのか。今になってようやく気付いた。  きっと、お兄様という海に私が抱かれるためだ。  船の半分を手がけたお兄様の憂いはこの奈落に沈澱した。船上のお父様の大プールと対 になる、お兄様という陰の吹き溜まり。そこで泳ぐということはお兄様の絶望に浸るとい うこと。私はお兄様の形骸に抱かれて魂の慰撫を続ける。  杏里を招き入れるべきではなかった。調和を狂わすべきではなかった。ここはお兄様と 私だけの世界。第三者が踏み入るには深すぎた。  この船に染みついたお兄様の残滓が私に縋る。忘れないでくれと。想い出になんてしな いでくれと。―――せっかく克服しかけていたのに。過去の傷みを、あれは愛情だったの だと受け容れられるようになっていたのに。  お兄様が観賞したいのは、平穏を見つけた私ではなく傷みに喘ぐ私なのか。だから彼女 に浸蝕して、私の疵を開こうとする。おぼろげになったお兄様のかんばせを、いまいちど 想起させようとする。……このままじゃいけない。 「今日の杏里様、なんだか人がお変わりになったみたいですわ」  私の部屋に朝食を運んだ折に、イライザ・ランカスターはさり気なく彼女のことを口に した。露骨な牽制。探りを入れてきているのは明らか。イライザが私の前で彼女の話題を 振るときは、決まって打算と策謀が秘められている。 「そうかしら」返事は素っ気なく。本から視線も逸らさずに。 「はい、とても大人びた印象を覚えます。気のせいか、口数も少なくなったような。何か に悩んでいるって風ではないのですけど」  あえて言うなら、何もかもに悩んでいる。そんな感じですわ。―――カップを床に落と さずに済んだのは、ひとえに私の意地の成果だ。イライザに動揺を気取られるのは面白く ない。 「そうかしら。私は気付かなかったわ」  やはり素っ気なく、語尾に震えが走らないよう努める。 「……そうですね。きっと私の気のせいですわ」  イライザが一礼して立ち去った後も、硬直はほぐれなかった。「何もかも悩んでいるよ うだ」なんて、そんなのはお兄様の在り方じゃない。  イライザは確かに鋭い女だ。屋内プールで私が杏里と戯れていることも知っているのだ ろう。が、より深き真実には辿り着きようがない。杏里が変わった、という印象を覚えた のなら、それは本心からの感想に違いない。  懐疑が湧き出す。杏里が変わる? それは、水槽の外にまでお兄様の影響が顕現してい るということか。ほんとにお兄様は彼女に取って代わろうとしているのか。……ただ、私 を傷めるためだけに。  私の懐疑を確信に至らせたのは、彼女が一人で屋内プールに通うようになったからだ。  ……いや、違う。そうじゃない。今までずっと私は勘違いをしていた。  彼女は、私がいるときにだけプールに顔を出しているのだと驕っていた。真実は違う。 彼女は一人でお兄様の水槽に飛び込むこともあった。私がいないときは、一人でお兄様の 海を泳いでいた。―――最近は、そのペースが上がっている。私が更衣室に入ると、彼女 の服が脱ぎ散らかしてあるのを頻繁に見かけるようになった。  彼女は一人で泳ぐ。そこに私はいないのに。 「やあ、クローエ」  私を認めると、彼女は決まって微笑みかけてくれた。……この笑みは誰のものだったか しら。お兄様も、こんな風に微笑んではくれた気がする。  私は私の不安を払拭できない。どうして一人で泳ぐの。そう問い詰めたい衝動を押し殺 すのが難しい。いっそ正面から問い質してしまえば楽なのに、気取り屋の自分が「寂しが ってるように思われたくない」と自制を要求して来る。どうしろって言うの。  暫く会わない方が良いのかもしれない。私がプール通いをやめて、彼女との接触も断つ のが一番確実な手段だ。あの水槽に私がいないと知れば、お兄様も彼女に入り込むのはや めるだろう。お兄様の目的はいつまでも私と一緒にいることなのだから。 「でも……ほんとにそうなの?」  なぜ、そう言い切れるの。お兄様が何を望んでいたかなんて、私は一度だって理解した ことはない。ただ、彼を絶望から守ってあげたいとぼんやり考えていただけだ。お兄様を 悩ませる虚無の正体なんてまったく知らなかった。なのに、どうしてお兄様の目的が私だ と傲岸に断言できるのか。―――それは、私がそう在って欲しいと願っているから。  過去を忘れられないのは私か。お兄様の海に抱かれるのを望んでいたのは私か。  お兄様の水槽には、私の代わりに彼女が溺れている。なら、私はもう用済みだなのだと 考えるのが自然だ。私がお兄様を捨てようとしているのではなく、お兄様が私を捨てよう としている。杏里を連れて、もっと深い自我(イド)に沈もうとしている。  ……そんなの、駄目。  私は、私が定めたルールを私の手で放棄した。気付いたら彼女の観賞をやめてプールに 飛び込んでいた。自分の手で水槽を叩き割ってしまった。  水温が低い。肌に突き刺さる凍え。お兄様が私を拒んでいる。……それでもいい。お兄 様の黄昏はお兄様だけのものだ。私に担えるものじゃない。―――でも、杏里は連れて行 かせない。彼女がいなくなってしまうと今の私が保てなくなる。私は気に入っているのだ、 今の在り方を。今の心地よい距離感を。狭めるのも遠ざけるのも許さない。  彼女は彼岸を目指して悠然と泳いでいる。あの横顔がお兄様のものなのか杏里のものな のか、私には判断がつかない。境界性が融けかかっている。急がなくては。  水を蹴った。しゃにむにかき分けた。彼女を意識した「見せるため」の泳法ではなく、 スピードだけを優先した獰猛な泳ぎ。いくら彼女が上達したと言っても、練度も筋肉の仕 上がりも違う。瞬く間に距離を詰めていった。 「クローエ?!」  杏里が私に気付いた。泳ぐの止めて水中に立つ。私はお兄様の海を大きく蹴り抜いて彼 女の胸に飛び込んだ。「杏里!」 「ど、どうしたんだい。交互に泳ぐってルールなんだろう?」 「説明は後よ。もう上がるわ。あなたも一緒に」 「ええ? だってキミは来たばかりじゃ……」 「良いから」  腕を取ってプールサイドまで引っ張る。杏里は素直だった。私の強引さに圧倒されてい るのか。確かに私らしくないやり方だ。でも今は手段を選べない。  シャワールームに連れ込む。タイル張りの壁に彼女の背中を押しつけると、コックを捻 った。初めは冷水が、徐々に温水に変わって二人に降り注ぐ。  コックを全解放したため、シャワーの水量は土砂のようだ。この水流で、彼女の髪から 肌から肢体からお兄様の海よ流れ落ちろ。  震える指先を彼女の頬に持っていき、指の腹で強くぬぐう。ファンデーションを無理に 洗い落とすように、不器用な指使いで彼女の顔を撫で回した。 「く、クローエ?」  杏里は為すがまま。訳も分からず、しかし私の追い詰められた表情に気圧されて抵抗す ることもできず、消極的に私の指を受け容れた。  私は丹念にお兄様の残滓をぬぐい取ってゆく。彼女に染み付いた形骸の澱を新鮮な水流 で洗い落とす。シャワーの雨は、肢体にまとった思念の泥を愉快なぐらいに呆気なく流し てくれた。排水溝で渦をまくお兄様の絶望。より深くへ沈むため、旅立っていく。  髪は手櫛で梳いた。顔は指を使ったが、胸や腹部はどうするべきだろうか。舐めれば効 率よく汚れが落ちるかもしれない。私の体内にお兄様が入り込むのは構わない。彼女から お兄様のにおいが消えてくれるのなら、私がどれだけ沈もうとも知ったことか。  落ちろ、落ちろ、落ちろ。  お願い、落ちて! 「クローエ……」  洗浄作業に没頭していた私の手を、彼女がそっと握ってくれた。 「ちょっと、くすぐったいよ」  私を覗き込む彼女の瞳に、お兄様はいなかった。 「杏里……」  安堵の脱力を覚える。私は彼女をお兄様と呼ばずに済んだ。いつか、ふとした拍子に呼 んでしまうかもしれない。そんな怖れに悩まされ続けたけど、もう脅える必要は無さそう だ。間違えようもなく、彼女は杏里・アンリエットだった。 「―――杏里、声を」 「ん?」 「もっと声を聞かせて頂戴」  そして、愚かな私を貶しなさい。  杏里には水槽が似合うだなんて、あまりに浅はかな発想だった。彼女から煩わしい囀り を取り上げるのは彼女自体を喪失するに等しい。杏里を見失った私が、彼女の横顔にお兄 様を見出すのは当然の成り行きだ。  誰のせいでもない。私を溺れさせていたのは私自身だった。 「……私、きっとあなたに謝らなければいけないわ」  もったいぶった言い回しをしても、杏里は「何を?」とは尋ねてくれない。口元に恩愛 を称えながら「その必要はないよ」と首を振るだけだ。 「クローエが間違ったことをするはずないじゃないか。もし、キミが罪悪を覚えるほど追 い詰められているのだとしたら、それはボクの過ちだ。ボクが悪いに決まっている。キミ が咎を受けることは絶対にない。セカイってそういう風に出来ているんだよ」  なんて騒々しい囀り。陸に上がった途端にこれか。鳥かごではやはり、私に平穏を与え てくれはしない。私を苛立たせてばかりいる。 「……うるさいわよ、杏里」 「酷いなぁ。キミが声を聞きたいって言ったんじゃないか」 「ええ。でも、うるさいという事実に変わりはないわ」  ふふ、と杏里は笑みをこぼす。「やっぱり、悪いのはボクってことだね」  私は、他人と自分の距離を操作する術に長けている。長い間そう信じていた。でも、真 実は違った。いくら楽観的で自意識過剰な私でも、この有り様を見てまだ距離のとり方に 優れているなどとは思えない。勘違いにも程がある。  私は離れるか近付くしかできない女だ。中間というものがない。お兄様もそうだった。 両極端で不器用な愛情乞食。きっとウィザースプーンの血統なのだろう。  杏里は、私という繊細な殻が破れないよう大事に護ってくれる。「クローエ・ウィザー スプーンらしく在れ」―――彼女から発せられる無言のプレッシャーが、私を形作る。  心地よい距離を見つけるのはいつだって彼女だ。距離感の操作が達者なのは彼女だ。だ から、深く想いを通わせながら関係を続けることができる。  お兄様と私が壊れてしまったのは、二人とも「相手と自分」の距離を測る定規を持ち合 わせていなかったから。杏里はそうじゃない。杏里はお兄様とは違う。  水槽では駄目なのだ。鳥かごでなくては「私」を保てない。互いの距離が狂ってしまう。 「杏里……」  熱い視線を向けるだけで、私の求めを察してくれた。 「ウィ」彼女は短く頷く。「お姫様の注文通りに」 「シャワーの温度を上げて」 「ウィ」  杏里は従順にコックを捻る。 「脱がして」 「ウィ」  肩紐がはらりと落ちた。水気を吸って肌に張り付いた水着が引き剥がされてゆく。くる ぶしまでワンピースが下ろされると、私の片足を持ち上げてくれた。素早く水着を引き抜 く。逆の足も同じように。 「キスをして」 「ウィ」  私の唇を彼女の舌が割った。瞼を閉じ、唇以外の感覚を切り離す。一分間、杏里の舌だ けを感じ続けた。 「……場所が違うわよ、杏里」  離れた唇を名残惜しげに見つめながら、オーダーを続ける。 「誰がそこに口づけて欲しいと言ったのかしら」 「ウィ」  今度は首筋から鎖骨へ、鎖骨から胸へと唇を這わしてきた。まさに手当たり次第。全身 くまなく口づけをすれば、いつか答えに当たるだろうという安易な考え。全身を舐め回さ れるこっちの都合は取り上げてくれない。お陰で喉から漏れる吐息を殺すのも一苦労だ。 「杏里……」  両手で彼女の頬を包み込む。 「あなた、綺麗になったわ」  でも、少しお兄様に似すぎている。 「……私、もうここへは来ないから。泳ぐなら、これからは一人で泳いで頂戴」 「ボクのせいなのかい?」 「思い上がらないで。そんなわけないじゃない。ただ飽きただけよ。また気が向いたら通 うようになるわ」  ポーラースターに入学して、時間が疵を癒すこともあると知った。お兄様の影が濃すぎ るあの水槽から私は暫く離れるが、それは永遠ではない。時を重ねて向き合えるようにな れたら、またお兄様の海をたゆたおう。  お兄様の執着を拒む気はない。私はお兄様を愛していた。きっと今でも愛している。薄 れつつある記憶にあっても、その事実だけは揺るがない。  杏里をお兄様の水槽に残すのは、少し怖い。でも、彼女の横顔からお兄様の面影を見出 すのは私の傲慢な自意識。誰かに責任を押しつけるのは間違っている。  シャワーのスコールを浴びながら、二人は泳ぎ続けた。私の殻は融解寸前。もうこれ以 上は保たない。だから――若干、屈辱的ではあるものの――最後のオーダーを口にした。 「杏里、抱いて」 「……ウィ」  そうして私は、彼女に溺れた。                                  THE END 【色々と台無しな後日談】 イライザ 失礼します。クローエ様、お茶の用意ができましたわ。 クローエ ご苦労様。そのテーブルに置いてくれれば良いわ。 イライザ かしこまりました。 クローエ ……ところであなた。前に「杏里が変わった」だなんて言ったけ れど、あれは結局なんだったの。 ニコルやソヨンにも聞いてみたのだけれど、杏里はいつも通りこ の上なく杏里だよ、という返事しか返って来なかったわよ。 イライザ さあ。そんなこと、言いましたか? クローエ 言ったわ。間違いなく、絶対に。 イライザ ああ、思い出しました。先週のことですね。 あれは杏里様、二日目だったんですわ。それがあまりにお辛そう だったので、つい心配事をこぼしてしまったんです。 クローエ ……はぁ? イライザ 杏里様は軽い方なのに、先週はどうも重かったみたいで。口数が あんなに減るなんて、耐え難い苦痛だったに違いありません。 でも、痛みに堪える杏里様というのも新鮮で、そこに沈みがちな 黄昏の印象を覚えてしまったのです。 はぁ……勝手ながらも、ついうっとりと見入ってしまいましたわ。 杏里様を虐めると、ああいう顔をなさるのですね。 クローエ あなた……。 イライザ あら? クローエ様はお気づきになられなかったのですか。 そう言えば、あの時も「知らないわ」と一蹴なされましたものね。 でも、杏里様の周期ぐらいは把握しておいても損はないと思いますわ。 私は仕事上、杏里様に限らずクローエ様の――― クローエ 聞いてないわよ、そんなこと! ああ、もう、あなたって何なの?! めでたくなしめでたくなし (下品なオチで謝罪)