サフィズムの幻想 春の特別シナリオ              「耳たぶハンター・ソヨン」  かっちり朝六時に目が覚めました。  目覚まし時計なんて必要ない。ファン・ソヨンのからだは、そういう仕組みでできてい るんです。日が変わると同時にお休みして、ぴったり六時間後に健康的な目覚めを得る。 たぶん、生まれたときから続けている方程式。  ……でも、何回くり返してもこの瞬間だけは慣れません。あたしは生まれたままの姿で ――つまり下着すらつけるのを忘れて――寝入っていたことに気づいて、慌ててシーツを 胸まで引き寄せた。別に、誰に見られているわけでもないんだけど、そうせずにはいられ なかったんです。  いつもは顔を洗うまで眠気が取れないんだけど、お陰ですっかり頭が晴れてしまった。 顔が赤くなるのを意識しながら、ベッドから降りる。  下着、キャミソール、ブラウス、制服の上衣―――リボンまでしめて、ようやく一息が つけた。一息ついてから、自分の慌てぶりに気づく。  まだ寝癖も取っていないのに先に制服を着るなんて間が抜けている。鎧のように着固め てからシャワーを浴びたいなんて思い始めるあたしはドジだ。でも、こんな汗っぽいから だで授業に出るなんて考えれない。  どうしよう。まだ時間はある。シャワーを借りちゃおうかな。でも、この部屋のシャワ ーを使うのは恥ずかしい。何回か使わせてもらったことがあるけど、やっぱり慣れない。  一度部屋に戻ろうか。―――うぅん、そんな時間はないです。六時半にはルネを起こし て一緒に朝ご飯を食べなくちゃいけないんだから。  もっと早く起きるべきだったんだ。融通の利かないからだを「バカ」と責めつつ、あた しはベッドのほうへ振り返った。  杏里さんは枕に顔をうずめて、深い眠りについたままだ。あたしは「ふぅ」と胸をなで 下ろす。寝たふりをして、あたしの着替えを後ろから眺めていた―――なんて可能性も、 このひとの場合は十分にあり得たから。  杏里さんはうつぶせで寝るのが好きだ。杏里さんは枕に頭を乗っけない。いっつも抱き 締める。あたしが枕になるときもある。きっとなにかを抱いていないと安眠できないひと なんだ。……それ、ちょっと分かります。だって、あたしもそうだから。  杏里さんのむきだしの背中とお尻を見ていると、こっちが恥ずかしくなってくるから、 そっとシーツをかけてあげる。そして、ほんとに寝てるか確かめるため、指先でほっぺを 何度かつついてみた。「杏里さーん」と小声で呼びかけてもみる。  反応も返答もない。よし、ちゃんと寝ている。杏里さんは朝が弱いから、この時間に起 きているはずなんて無いんだけれど。それでも念には念が必要だから、確認したんです。 「杏里さん、お風呂ちょっと借りますね」  すっごく小声で囁いた。起きていても聞こえないぐらいに、小さく。だって、勝手にお 風呂を借りるわけにはいかないけど、だからって起こしてしまうと後が困るから。  ―――そう、起こすつもりなんて無かったのに。 「じゃあ一緒に入ろう、ソヨン!」 「わあ!」  杏里さんはシーツを蹴飛ばすと、あたしの首に両腕を回して抱きついてきた。ちっちゃ なあたしのからだで支えられるはずがないから、当然ベッドに倒れこむ。マットのスプリ ングがきしきしと笑った。 「あ、杏里さん――お、起きていたんですか――」 「おはようソヨン。いい朝だね」 「外なんて一回も見てないじゃないですかー!」 「天気なんてどうでもいいさ。キミの愛らしいさえずりで目覚めを迎えることができた。 それがなによりの至福なんだ。これに勝る朝の訪れがあるものか」  杏里さんは裸の胸に、あたしの顔をぎゅうぎゅうと押しつけてくる。……昨日の夜のこ とが否応なく連想させらる。いまの杏里さんのからだは、昨夜と違って温かかった。きっ とベッドに入っていたからだ。  ……やっぱり慣れない。こういうのは、どうしても慣れません。だからつい、からだを 強引に引き離してしまった。  別にいつものことだからでしょうか。杏里さんは特に気にした風でもなく、上半身を起 こすと、シャギーな黒髪をぽりぽりとかいた。……このひとは露出癖があるから、前を隠 そうともしません。 「い、いつから起きていたんですか」 「んー」天井に視線を迷わせる。まだ、完全には目が覚めてないらしい。「一緒にお風呂 に入るんだろう? だから、起きなくちゃって」 「言ってません! 言ってません! 借りるだけです」  ……ほんとに杏里さんは杏里さんだ。あんなに小声で起きちゃうなんて。間違って蹴っ てしまったときも、起きようとしなかったのに。 「借りるだけって、それじゃあ一緒に入ればいいじゃないか。ソヨンの頭を洗ってあげる よ。ボクってシャンプー得意なんだ。まさに夢心地。天国までの弾丸特急」  言いながら指をわきわきとさせる杏里さんは、どう見てもシャンプー以外のことをお風 呂でやろうとしています。それに、例え素直にシャワーを浴びるとしても、杏里さんとは 無理です。他の子ならぜんぜん平気なんだけど……杏里さんとだけはダメです。 「女の子同士なのに、そんなのおかしいよ!」  ……言うと思った。 「べ、別に女の子同士だからって、無理に一緒に入ることはないですよ。あたしも杏里さ んももう大きいんですから、シャワーぐらいひとりで入ったほうがいいです」 「こんなにちっちゃくてかわいいソヨンをひとりでシャワーに入れるだって? 冗談じゃ ない! ボクを見損なわないでおくれ。そんな危なっかしいことができるものか。ボクは キミから一秒たりとも目を離しはしないよ」 「お風呂でそんなにじろじろと見ないでください!」  壁かけ時計に視線を向ける。現在時刻は六時十分。三十分にはルネを起こさなくちゃい けないんだから、シャワーを浴びる時間は十分しかない。杏里さんを説得する余裕はなか った。それに、こうなったらこのひとは絶対に折れないことを、あたしは知っている。  溜息をつく。杏里さんを起こしちゃったのが失敗だった。 「あたし、三十分にはルネの部屋に行かなくちゃいけないんです」 「ウィ」  杏里さんは笑顔でうなづく。 「だから、変なことをしないって約束してください」 「ウィ」 「あと、あんまり見るのも禁止です」 「ウィ」 「その……あと、さわったりも……」 「ウィ」  杏里さんのにこにこ顔は変わらない。そんなに無邪気に喜ばれると、あたしの胸まで騒 いでくる。―――ああ、ダメ! これが杏里さんのペースなんだから。こんなことをして いるうちにも、ルネを起こす時間は確実に近づいてくる。  あたしは息を吸いこみ、覚悟を決めた。 「じゃあ早く、あたしの頭を洗ってください!」 「ウィ!」  あたしと杏里さんは、慌ただしくバスルームへ駆けこんでいきました。  あんな風に警戒してしまったけれど、シャンプーをしてからだを洗って髪の毛を渇かし て洗顔して化粧水をつけて―――なんて忙しいことを十五分足らずの時間でやってしまえ たのは、杏里さんのお陰だった。  杏里さんが手伝ってくれなかったら、さっと汗を流しただけで出なくちゃいけなかった と思う。全部任せて洗ってもらうのは子供みたいで抵抗があったけれど、杏里さんはてき ぱきとやってくれたので、気づいたら終わっていた。魔法のような手際の良さ。感心はし ても、恥ずかしがることなんてなにも無かった……と、思います。  いやらしい目つきで見られたり。必要以上にさわってきたり。そういうことはまったく してきませんでした。杏里さんは「ウィ」とうなづいてくれたから。きっと約束を守って くれたんです。  あたしは知っている。このひとは、こういうところが誠実なんだって。  ……今度は、あたしが杏里さんの髪の毛を洗ってあげますね。そう、胸のうちで約束す る。言葉にはしない。だって言えるわけないもの。恥ずかしくって。  制服を着るのまで助けてもらった。時間は六時二十五分―――「間に合いそうかい」と、 杏里さんはあたしの胸のリボンを結びながら心配してくれた。  ファーストクラスの寮までは駆け足でも五分以上かかるけど、少しぐらいの遅刻なら問 題はない。あたしは感謝の気持ちを声量に変えた。 「大丈夫です。杏里さんのお陰で、つるつるになれました」 「ああ、いまのキミは世界で誰よりも美しい。見ているだけで誇らしくなってくる。こん なにまぶしい輝きを帯びた宝石を、この部屋にいつまでも留めておくわけにはいかないね。 ボクの小鳥よ、巣立ちたまえ。そしてその麗しの翼を存分に見せつけてやるんだ」  うっかり涙ぐんでしまう。涙もろいあたしの性分。あたしをきれいだとか美しいとか言 ってくれるのは杏里さんだけだ。言われて嬉しいのも、杏里さんだけだ。 「杏里さんも……とても……きれいです」そこで、涙をぬぐって破顔した。「でも、いい 加減にお洋服ぐらいは着てください」  杏里さんは起きてから今までずっと裸のままだ。シャワーから上がっても、なにも着よ うとしない。いつものことだけど、これも慣れない。どうしても目のやり場に困ってしま う。  これは失礼、と杏里さんはウィンクした。 「ボクはお風呂で二度寝するから、このままでいいんだよ」 「授業には出ないとダメですよ?」  分かっているよ、と微笑んで、杏里さんはあたしの頬に手を当てた。指先が輪郭をなぞ っていく。それだけで心臓がうるさくなって、あたしは杏里さんを見上げたまま動けなく なってしまった。「さあ、もう行かなくちゃ―――」と声をかけてくれても、その場に留 まったままだ。  ……この金縛りを解く方法を、杏里さんは知っています。あたしが教えなくても、実行 してくれます。だから、あたしは静かに瞼を伏せました。  目をつむっていても、杏里さんの唇が近づいて来るのが気配で分かる。  あたしの胸は期待で破裂しそう。昨日の夜、数え切れないくらい重ね合ったのに、あた しはまたこのひとの唇を欲しがっている。……杏里さんも同じなのかな。もしそうなら、 とても嬉しいです。涙が出てしまうくらいに、嬉しいです。  そうして、あたしの唇に杏里さんの吐息がかかって―――あたしのからだは緊張でがち がちになって―――昨夜の感触を思い出して―――杏里さんの吐息は、唇から頬へ、そし て耳へと移動していって―――  ……ん、耳? 「ひゃあああああ?!」  背筋を電撃が貫きました! ほんとにびりびりってしました! 金縛りを無理矢理解除 されて、思わず後ろに跳んでしまったあたしは、入り口のドアに後頭部をぶつけてしまう。  さよならの口づけの行方。それはあたしの唇ではなく耳たぶでした。杏里さんは唇をわ たしの耳に押し当てると、舌先でちろりと耳たぶを舐めたんです。ちろりって舐めたんで す! 「な、な、な、な、な―――」  予想外の攻撃に、あたしの頭の中は真っ白。だって、耳を舐めるなんて。耳にキスをす るなんて。そんなの聞いたことないです! ……その始めてとか、じゃないけれど。でも、 こんなときにやられるなんて予想できないですよ。  くすぐったいを百倍したような電撃的な刺激。不意打ちだったせいもあって、必要以上 に驚いてしまった気がする。あたしはなんとか息を整えると、杏里さんと向き合った。 「もう! なんてことするんですか」 「お別れのキスだけど?」  悪びれもなく、このひとは言う。 「違います。そんなの違います! そういうのは、唇に―――」  ウィ、と杏里さんはうなづいて、今度こそ唇にさよならを捧げてくれた。  ……これも不意打ち。あたしは黙ってしまう。  唇が触れ合う感触はとても心地がよくて、あたしはまた金縛りにあってしまう。あと一 秒だけ。もう一秒だけ。その繰り返しが、いったい何秒続いただろう。ようやく杏里さん が離れたときには、もうルネを起こさなくちゃいけない時間になっていた。完璧に遅刻だ。  名残惜しげに唇をなでながら、私は杏里さんの部屋を後にする。杏里さんはやっぱり裸 のままで、静かな微笑みを浮かべて見送ってくれた。  ああ、でも―――ソヨンはいま、いけない子になっているです。  あたしはこの時、杏里さんのことも、唇に残った温もりのことも、あまり考えることは できませんでした。あたしの意識は耳たぶに集中していました。杏里さんの舌先がちろり と滑った耳たぶのことばかり考えていました。 「……どうしよう。まだ、心臓がびっくりしているよ」  エレベーターの中でほうっと息をつく。からだが火照ってしかたない。耳を舐められた だけなのに、こんなにドキドキするなんて。  なるほど、なるほどなー。……気づいたら、あたしはそう呟いていました。衝撃はいつ の間にか感心に姿を変えていました。                  *  *  *  ルネ・ロスチャイルドをあたしが起こすようになったのは、一ヶ月ぐらい前からです。  ルネは杏里さんやニコルほどじゃないけれど、朝が弱い。それにひとりじゃ起きられな いし、すぐ朝食を抜いちゃうって悪い癖も持っている。  イゾルデ先輩はイライザさんに面倒を見るように頼んだんだけど、イライザさんの朝は 目まいがするほど忙しいから、少しでも負担を軽くさせてあげられれば―――と思って、 テコンドーの朝練がない日はあたしが起こすようになったんです。  ルネは目を離すとすぐにふらふらとどこかへ行ってしまう子。だから、誰かがしっかり とついていてあげなくちゃいけない。ニコルはお節介を焼くなよ、なんて言うけれど、放 っておけないんだからしかたないよ。  それに、ルネは転入してきたばかりなんだから。お節介がいちばん必要な子なんだもの。    合い鍵をもらっているから、インターホンを鳴らす必要はない。杏里さんの部屋で過ご すことに比べたら、こっちはずっと気楽だ。あたしはカードキーをリーダーに滑らせると、 遠慮なくドアを開けた。 「ルネー、起きてる? 朝だよ!」  時間は六時四十分。十分の遅刻だ。九時十分に教室にいれば良いんだから、まだ余裕は あるけれど、これからルネの朝の支度を手伝って、購買部通りのオープンカフェで朝食を 食べることを考えると、一分でも時間が惜しい。 「遅れてごめん!」と息を切らしながら、あたしはルネの部屋に飛びこんでいった。   ―――でも、ルネは起きていた。あたしが手伝うまでもなく、制服まで着ちゃっている。 いつもなら時間ぎりぎりまで起きようとしないのに、今日に限ってどうしてだろう。  ルネは大きなプラズマテレビの目の前に陣取っていた。手にはテレビゲームのコントロ ーラーがしっかりと握られている。口元は「にへらっ」と歪んでいて、まばたきもしない でテレビ画面を見入っていた。  目は充血して真っ赤っか。気のせいか、あんなにまぶしい金髪も今朝はくすんで見えた。 「ルネ! まさか―――」  ベッドに目を向ける。ベッドカバーに乱れはない。多分、メイドが整えたときのまま。 「昨日、帰ってからずっとゲームをしていたの!?」  ルネはあたしが来たことにすら気づいていないのか、にへらにへらと笑ったままだ。指 先だけは忙しくコントローラーのボタンを叩いている。  あたしはしばらくの間、呆れてなにも言えなかった。どこまで放っておけない子なんだ ろう。きっと夕ご飯も食べていないに違いない。餓死するまでゲームを続けていそうな様 子だった。イゾルデ先輩がイライザさんに世話を頼む気持ちがよく分かる。この子にひと り暮らしなんて無理なんだ。生活って言葉を知らなすぎるよ。 「もう、ルネったら!」  あたしはわざと足音を立てた。テレビ画面が目まぐるしく光っている。ルネは返事をし ない。あたしはちょっとだけむっとして、「えい」とテレビを消してしまった。 「わー?!」ルネの吸血鬼みたいな目がまん丸に見開かれる。「な、なにするの! なん で消すの! 早くつけてつけて! いまハイスコアを更新中なんだから―――!」  あたしは知っている。テレビを消しただけじゃ、ゲームは止まらない。前にゲーム機の コンセントをぶつりと抜いたとき、本気でルネが落ちこんでしまったから、それからはテ レビのほうを消すようにしていた。それくらいはやらないとダメ。口で注意しても、ルネ は絶対にゲームを止めようとしないんだから。  ちょっとはゲームを控えなくちゃ、目が悪くなっちゃうよ。なんて、そんな注意はいま さらしても無駄って分かってる。だから、ルネが文句を言いながらもゲーム機の電源を切 るのを確認したら、さっさとバスルームへ連れて行った。 「お風呂ぉ? 別にいーよぉ。制服着ているんだから、このまま行けばいいのに」 「ダメだよ。昨日から着たきりなんだから。ほら、脱いで脱いで」  まるで手のかかる子供。ビジターズの子を相手にしているみたい。あたしは船内でもか なり小さいけれど、ルネは輪をかけてちびっ子だから、余計にそう錯覚してしまう。  制服を脱がしてバスルームに放りこんだ。こうすればルネも渋々だけどからだを洗い出 すから、あたしはその間に新しい着替えと今日の教科の準備をしておく。  もう! なんで、あたしがこんなことまでしなくちゃいけないの。―――ルネはひとり で登校させると、文房具もテキストも持たない。スクールバッグを改造したゲームホルダ ーにゲーム機を背負って、場所も授業も選ばずにぴこぴことやり始める。あの子ったら、 「テキストは全部データ化しているからいらないよ」なんて意味の分からない言い訳が、 本気で通ると思っているのかな。 「もう上がるよー?」  バスルームからルネの声が響いてくる。 「まだ五分も入ってないじゃない。ちゃんと洗うまで出てきちゃダメ」 「洗ったってばー!」 「じゃあ、もう一回」 「ええー!」 「早く!」  返事は遠すぎて聞こえなかった。代わりに、バスルームの扉が閉じる音がした。  お風呂嫌いなルネとあたしのいつものやりとり。いっそ、あたしも一緒に入ってからだ を洗ってあげたほうが良いのかもしれない。……よく考えると、ルネとシャワーを浴びれ ば杏里さんの手を煩わせることもなかったんだ。  五分後にルネはまた上がろうとしたから、それも却下して次の五分後でようやくバスタ オルを手渡してあげた。  ルネがからだを拭いている間、あたしはドライヤーをかける係だ。あたしと違ってルネ の髪の毛は長いから渇くまで時間がかかる。この子にドライヤーを任せたら放課後になっ ちゃうよ。  でも、ルネの髪をいじるのは嫌いじゃないんだ。あたしは彼女の柔らかい金髪に櫛を通 すのが好きだった。あたしはこんな短い髪型で癖もつかないから、女の子らしい髪質を持 ったルネに憧れる。憧れて、つい遊びたくなってしまう。  ルネはニコルと違って、髪をさわられてもいやがらない。ただされるがままだ。こうい うところが素直でかわいいって思う。……別にニコルがかわいくないとは言わないけど。  ドレッサーのスツールに座らせて、背中から髪を梳く。「授業中に寝ちゃダメだよ?」 と声をかけると、真っ赤な目をしばたたかせて「エイ・オーケイ」とうなづいた。  ―――そんな、とき。髪をうしろでまとめて、いつものようにシニョンにしてあげると、 露わになったルネの耳が視界に飛びこんだ。  別にルネの横顔なんて珍しくないし、髪だっていつもあたしが整えているのに。今朝に 限ってどうしてだろう。あたしはルネの耳から視線を外せなかった。視界の中で、ルネの 褐色の耳たぶだけが浮き上がってくる。  思い出すのは三十分前の出来事。まだあたしの耳に残る電撃的な感触。あたしの心臓は、 あの時の衝撃を忘れていない。  思わずごくり、と唾を飲み下してしまう。  あたしは、あたしがしようとしていることに抗うことができなかった。抗おうとすらし なかった。杏里さんがあたしにくれた興奮が、好奇心に成長している。学んだものは活か さなくちゃ。あたしはそう自分に言い聞かせて、ルネの横顔に顔を近づけて―――  耳たぶを甘く、噛んだ。 「わああああああああ?!」  反応は劇的だった。ルネは驚きのあまり、スツールが転げ落ちてしまう。よっぽど背筋 にすごいものが走ったのか、床に倒れたまま両腕で自分のからだを抱き締めていた。 「だ、大丈夫?」 「い、いまのなに?! ソヨンはなにをしたの?」 「ん、ちょっと耳たぶを噛んでみたですよ」 「なんで?! なんでそんなことするの!?」 「さあ、なんでだろ」  ほんとに不思議だった。自分でもよく分からない。ただ、ルネの耳たぶを見ていると無 性にどきどきしてきて、噛まずにはいられなかったんだ。 「おかしいよ! ソヨンおかしいよ!」 「いいじゃん別にそんなこと。ほら、早く制服着て。朝ご飯食べに行こうよ」 「よくない! 絶対によくないよ!」 「もう! 言うことを聞かないとまた噛むよ」 「えー! イヤだ! やめて!」  意地悪だとは分かっていたけど、ルネの反応があまりに面白くって、あたしはつい声を あげて笑ってしまった。ルネは噛まれた耳を押さえたまま、目を丸くしている。 「ごめんごめん」と謝って制服の上衣を着せた。謝っているのに、ルネはしつこく「もう しないでよ」と確認してくるから、「今日はもうしないよ」と答える。 「明日もしないでよ! これからずっとしたらイヤだよ!」  朝食の間もそんな感じで、ルネはずっと警戒を続けていた。ちらちらと不機嫌と恐怖が 混ざった視線を投げてくる。あたしはくすくす笑いがこみ上げるのを抑えるので必死だ。  ルネのあの時の反応。意識すると、彼女の耳たぶの舌触りがよみがえる。杏里さんはあ たしにとんでもないことをしてくれました。とってもいけないことを教えてしまいました。  あたしは自分の欲求を素直に認めた。もっとたくさん食べてみたい。もっと色んな子の 味を知りたい。―――こんな楽しい遊び、絶対に我慢できないですよ。 「朝ご飯おいしいね、ルネ」  あたしが声をかけると、ルネはびくりと肩を震わせた。                  *  *  * 「あれ、ソヨンひとり? 他の連中はどうしたのさ」  ドアを開けるなり、ニコルはあたしの挨拶にも答えずに廊下の左右を見渡した。  どうしたって―――それはまず、あたしが尋ねるべき質問だと思う。ニキの部屋をノッ クしたのに、ニコルが出てくるんだから。  別にそのこと自体は珍しくない。ニコルはニキの部屋にフリーパスなんだもの。けど、 今はお昼休みで、ニコルは午前の授業に出てこなかったんだから、まさかニキのところに いるとは思わない。どうせ寝坊しているんだろうな、なんて考えていたのに。  膨れながらそのことを伝えると、ニコルは面倒くさそうに「昨晩はこっちに泊まったん だよ」と答えた。まるでそれはいつものことで、そんな当然の事実を質問するあたしがお かしいかのように。―――でも、午前の授業をさぼった理由にはなってないよ。 「寝てたんだよ寝てた。当たり前だろう? それ以外にどんな理由があるっていうのさ」  なぜか誇らしそうにニコルは言う。 「で、他の連中は? なんでソヨンだけなんだい」 「アルマはソフィア先生にランチを誘われちゃったんだって。ルネは今日はイゾルデ先輩 と一緒に食べるって言ってた。アンはどこかに行っちゃったみたい。ニコルは午前の授業 に出ていなかったから、誘えなかったんだ」  おいおい、とニコルは苦笑する。 「だから、あたしはここにいるって。まあ事情は分かったよ。三人なら、わざわざ出かけ る必要はないね。ここで食っちゃおうぜ。ほら、上がりなよ」  ニコルは勝手知ったる顔で、部屋の奥へと引っこんでいった。  ルネを叩き起こすのが朝の恒例なら、これは昼の恒例。授業には参加しないで、自室で 独自の学習プログラムを進めているニキを、ニコルたちと一緒にお昼ご飯に誘うのは毎日 の日課だった。  ニキはファーストクラスの生徒の中でも特別不思議な子。あたしがニコルたちと付き合 うようになったのは杏里さんと仲良くなってからで、今ではすっかり仲良くなれたと思っ ているけど、ニキとはまだ言葉を交わしたことはありません。……別に仲が悪いってわけ じゃなんです。もう何十回もニキとは遊んでいるし、こうして毎日お昼ご飯も一緒に食べ ているんだから。コミュニケーションだってうまく取れているってあたしは信じてます。 でも、それが「会話」というかたちにならないのが、ニキの不思議なんだ。  ニキとお喋りができるひとは船内でも杏里さんぐらい。イライザさんやニコルでやっと 声が聞けるんだから、付き合いが短いあたしとはボディーランゲージだけになっちゃうの もしょうがない。  今日だってこうしてノックはしてみたけど、もしニコルがいなかったら、一緒にお昼ご 飯を食べてくれたかどうかは分からない。ニコルのマイペースさには呆れるけど、ニキの 部屋にいてくれたのは安心した。  ワイン色のカーペットがかわいいニキの部屋で、ニコルは早くもお弁当を広げている。 「今日は三人だからここで食べることにしたんだ。ニキも切り上げて、食べようぜ」  猫脚のピアノ椅子に座っていたニキは、ピアノの譜面台に立てかけたノートを見つめた まま、視線を逸らさないでこくりとうなづいた。 「アンニョンハシムニッカ! こんにちは、ニキ」  あたしが挨拶をするとニキはまた無言でうなづく。サファイヤみたいな碧い眼はノート を注視したままだけど、がんばって歓迎しようとしてくれていることは分かる。 「新曲を作りたいんだってさ。構想段階だと、いっつもノートと睨めっこしてるんだ」  ニキはちゃんと制服を着込んでいるのに、ニコルはお尻まで隠れちゃうだぶだぶのTシ ャツにホットパンツなんてだらしない私服姿。カーペットに直に腰を下ろすと、多分ギャ レーに作らせたお弁当――二人前のクラブサンド――をほおばり始めた。  ピクニックじゃないんだから、地べたに直接なんてはしたないよ。そう、注意しようと 思って、ニキの部屋にはソファはあってもテーブルはないことに気がついた。グランドピ アノが空間の殆どを占領しているから、どうしても家具は少なめになってしまうんです。  ニキもニコルの隣に座って、クラブサンドに手を出した。きっと二人はいつもこんな風 に食事をしているんだ。お行儀は悪いけれど、郷に入ったら郷に従わなくちゃいけないと きもある。あたしも二人の向かいに座って、持参したお弁当の蓋を開けた。 「焼き肉弁当かよ! 相変わらずソヨンの昼飯は重いね」  両手にクラブサンドを持ってニコルは言う。 「韓国では焼き肉じゃないお弁当のほうが珍しいくらいなんだよ」 「ほんとかよ。でも、不思議だよね。ソヨンは肉ばっか食べてる割にはちびなんだから」 「ニコルよりかは大きいよ!」 「なんだとぅ!」  あたしとニコルがお喋りしている間も、ニキは黙々と食べ続けていた。  最近気づいたんだけど、ニキはけっこー健啖家みたい。一定のペースを守って、ひたす ら食べている。ひとは見かけによらないっていうか……この場合、発育通りの食事量なの かもしれない。ニキはファーストクラスの中では背が大きいほうだし、プロポーションも あたしやニコルではお話にならないぐらいだから。  逆にニコルは食べるより喋るのが好きなんだと思う。クラブサンドを三切れも食べたら 満足したのか、手を止めてあたしとのお話に夢中になっている。 「なんかグラッパが飲みたくなってくるね」  グラッパはイタリアのブランデーで、ニコルはよく食後酒として飲んでいた。 「午後の授業に出ないつもりなの? ダメだよさぼったら。ほんとは午前の授業だって出 て欲しかったのに。ニコルってば最近はすぐ休むんだもん」 「へいへい、分かってますよ」  ニキがデザートのチョコレートを淡々と囓っているのを横目に、ニコルは胸を反らすと 小さく伸びをした。 「じゃあ、そろそろ支度でも始めようかね」  そう言うと、長い髪の毛をうしろできつくまとめて、手首にはめていたヘアゴムで手早 く縛ってしまう。垂らしっ放しだった髪型が一瞬でオールバックに早変わり。前髪のとば りから解放されたニコルの瞳が、挑戦的にあたしを見つめた。 「え―――」  普段の彼女からは想像できない、きりっとした印象。その髪型だとまるでニコルじゃな いみたい。始めて見る友人の凛々しい表情に、あたしはつい見とれてしまう。 「ん? どうしたんだよ」 「いや、えっと……髪型が……」 「だって顔を洗うとき邪魔だろう? そんなにおかしいかね」  そんなことは無いけど。絶対に無いけど。  オールバックだと、当然のように耳が露出するわけでして。あたしの意識はすっかりそ っちに移ってしまいまして。ニコルの耳たぶはルネより薄くて、ユッケのような歯ごたえ を期待できるわけでして。―――あたしはもう我慢できず、上半身を「ずずい」と乗り出 してしまったですよ。 「おい、なんか近いぞ」 「ニコル……」 「……なんか息が荒いぞ」 「ねえ、ちょっとだけ―――」 「なんかめちゃくちゃ怪しいぞ!」  ニキはチョコレートを片づけて、フルーツに取りかかっていた。カットしたキウイをフ ォークで突き刺して、機械のように口元に運んでいる。  このタイミングを逃すわけにはいきませんでした。あたしはニコルの上半身にあたしの 上半身を重ねるようにして押し倒した。抵抗……らしきそぶりはニコルもしたかもしれな いけど、彼女の非力さはファーストクラスでもトップクラスだから、あたしは気づくこと ができません。気づかないってことにして、杏里さんにされたように―――ルネにしたよ うに―――ニコルの耳たぶを頂いちゃいました。かぷりって。 「ぎゃあああああああああ!」  ついでだから逆の耳も。 「うぎゃああああああああ!」  そうしてようやく離してあげる。  ニコルは自分の運動神経の限界に挑戦して、床を這うようにあたしから逃げた。全身が がたがたに震えている。露わになった両眼であたしの顔を凝視しながら、唇をぱくぱくと 動かした。言葉はどこかに置いてきちゃったらしいです。 「モッツァレッラチーズの味……」  自分の唇を指先で触れながらそう言うと、「んなわけあるかっ」とようやくニコルは声 を出した。でも、震えはまだ収まりそうにないみたい。  取りあえず、これでニコルも攻略済み。想像以上に激しい感度。ルネよりもよっぽど大 袈裟に反応してくれた。それってやっぱり、そういうことだから?  だとしたら、気になってくるのは――― 「……ニキ」  食事の手を止めて、あたしとニコルの様子を唖然と見守っていたニキが、この時ようや く自分の運命に気づいてくれた。眼を見開いて、ぶんぶんと首を横に振る。 「……っ……ぁ!」 「大丈夫だよ。ちょっと味見するだけだから」  後ずさりを始めるけど、ここは密室で、ニキに逃げ場なんてありません。ボディランゲ ージも今日に限ってなぜか意味が不明瞭。別にいやがってるわけじゃないよね、とあたし は好意的に解釈をするです。 「ちょっとだけだから……全部は食べないから……」  カーペットに膝をついて、猫のような姿勢でニキという食べ応えたっぷりの獲物に狙い を定める。口元には自然と笑みが。―――どうしよう。心臓がすごくうるさいです。 「お、おい。やめろよ、ニキが怖がっているだろう!」  ニコルは制止の声をあげるだけ。まださっきの余韻が抜けていないのか、あたしには近 づこうとしない。つまり、これは食べてもいいってことだよね? 「……う……ぁ……っ!」 「ニキ、独り占めはずるいんだよ?」  窓から射しこむ陽に当たって神秘的な輝きを帯びる銀髪の奥には、食べ頃のお耳が隠れ ているです。ニキの歯ごたえ舌触りを想像しながら、あたしは捕食行動を開始――― 「失礼します。少しお耳を拝借しますね」 「え?」  背後から熱い吐息が耳にかかった。次の瞬間、ぬるりとあたしの耳の穴になにかが―― なにかって、そんなの考えるまでも無いけれど――侵入したんです。 「あ―――」  悲鳴をあげる余裕すらありませんでした。緊張と虚脱が同時に襲ってきたような不思議 な感覚。がくりと腰が砕けて、あたしは尻餅をついた。  すると、バランスを崩したあたしの背中を誰かが抱きとめた。意識が半分溶けたまま夢 心地で振り向くと、そこには紅の瞳が二つ。こんなに金髪の巻き毛が似合うひとなんて、 船内でもひとりしかいない。 「ソヨン様。今日はまた随分とご機嫌がよろしいみたいですね」 「イライザ!」  ニコルの声で、あたしははっと我に返る。  い、イライザさん? じゃあ、今のもイライザさんがやったことなの? そ、その、舌 の先っぽであたしの耳の穴を―――気配なんてまったく感じさせずに―――狙いあたわず、 ナイフで心臓をひと突きしたかのような鮮やかな手並みで―――杏里さんのとは、また違 った感触でした。杏里さんが「びり」っと電撃的なら、イライザさんのは「ふわ」っと宙 に投げ出されたような感じ。今でもまだ、ぼうっとしているあたしがいます。 「ニキ様、勝手にお部屋に入ってしまったことはお詫びいたしますわ。あまりに楽しそう な戯れをしていらっしゃったので、つい私も混ざりたくなってしまったんです」 「いや、ナイスタイミングだったよイライザ」  ニキの代わりにニコルが返事した。ニコルは、まだ怯えが抜けないニキを抱いて、よし よしと頭で撫でている。 「まったく、ソヨンはなに考えているのさ。こんな唐突に……その、ひとを驚かすような ことしてさ。本気でびっくりしたじゃないか。あー、まだぞっとしているよ」  言い訳をしないと。なんでもいい。とにかく取り繕わないと。今になってあたしは、他 のひとはともかく、ニキにだけは手を出しちゃいけなかったことに気づいた。―――だ、 だってイライザさんがあたしを見ている。いつもと変わらない柔和な笑み。鉄壁の笑み。 ……でも、目は笑っていないです。あたしがイライザさんより先にニキの耳たぶを食べよ うとしたことを怒っているです。……ううん、必ずしもそれが理由とは限らないけど、怒 っていることは間違いないです。  説明が必要だった。でないとあたしは明日、この船にいない。根拠はなかったけど、か なり深い部分で確信できた。イライザさんの微笑みがあたしを本能で脅えさせます。 「こ、これは―――」  声が裏返らないように注意をしながら、あたしは言った。 「挨拶。挨拶だったですよ」 「あいさつぅ? なにを言ってるのさあんたは。どこの国に、相手の耳を囓るような挨拶 があるっていうんだい」 「いいえ、ニコル様。私は何度かその挨拶をされた経験がありますわ。そして、恐らくは ニコル様も」 「え、じゃあ―――」 「そ、そうです! 杏里さんが教えてくれたんですよ。スキンシップのひとつだって」 「スキンシップって……まぁ、間違っちゃいないけどね。でも、そりゃソヨンには必要の ない挨拶だろう。ていうか、あのバカにしか通じない挨拶だ」 「……ぁ……」  ニコルの胸で身を竦めていたニキが、控えめに身振りを示した。あたしにはどういう意 味か分からなかったけど、そのジェスチャーを見た途端、イライザさんの笑みにちょっと だけど暖かみのような――むしろ人間味とも言える――ものが戻ってきた。  あらあら、と笑いかけてきます。 「ニキ様は、杏里様の挨拶ならしかたがない、とおっしゃっていますわ」  ……それはつまり、許してもらえたってことだよね?  いつもから友情の大切さは噛み締めているけど、今日ほどそれを実感したことはないか もしれない。あたしは今、またひとつ賢くなってしまいました。「赦し」ってこういうこ とだったんだね……。  恐る恐るイライザさんの表情を窺うと、あの不変の微笑みで「良かったですね、ソヨン 様」と言ってきた。……なにが良かったのかは、聞かないほうが正解なんだと思います。                  *  *  *  アルマさんは、ニコルやルネみたいに大袈裟な反応はしなかった。まず目を丸めて息を 呑み、次に頬を紅潮させて―――最後に、溜息のように「まあ」と言葉をこぼした。  とってもおしとやかで、とってもかわいらしい反応。アルマさんはやっぱり、誰よりも お嬢さまなんだとあたしは再確認する。舌先に覚えた感触も上品な甘さだ。 「今のは……?」  不意を打たれたにも関わらず、アルマさんはいつものペースを崩さない。あたしはそれ が嬉しくて、授業中だということも忘れて「挨拶だよ!」と言ってしまった。  お昼休みも無事(?)に終わって、今はレイチェル先生の環太平洋史の授業中。あたし は大講堂でアルマさんの隣の席を選ぶと、ちらちらと横顔を窺って「挨拶」のチャンスを 狙っていたんです。  耳元で秘密を囁くように唇を近づけた後に、今回は耳たぶを甘噛みするんじゃなくて、 ちろりと伸ばした舌で耳の穴に潜行してみた。これはさっきイライザさんから教えてもら ったスタイル。杏里さんのに負けず具合は良しです。 「挨拶? まあ、そうなのですか。ソヨン様のお国には、このような挨拶が……」 「おいおい、本気にするなよアルマ」アルマの右隣――つまり、あたしの隣の隣――に座 っていたニコルが、呆れながら会話に入る。「そんな挨拶があるわけないだろう? 今日 のソヨンはなんかおかしいんだよ。相手にしてると逆の耳まで犯されるぜ」 「いえ、でも―――」アルマさんは胸に手を当てた。いかにもどきどきしてますってポー ズだ。「少し驚いてしまいました。だって、とても不思議な感じでしたので」  ニコルが奥で苦笑を漏らす。あたしの左隣に座っているルネは、「不思議ぃ?」と小さ な顔を精一杯に歪ませた。 「気持ち悪いだけだよ!」 「ルネはまだ子供だから分からないんだよ」とあたしはルネのほうに顔を向ける。「これ から毎日してあげれば、この挨拶にも慣れると思うよ?」 「ひぃ! やだ! 慣れたくない!」  ルネは短く悲鳴をあげると、密閉型のヘッドフォンで両耳を隠してしまった。あたしは くすくすと肩を揺らす。ほんとにかわいい反応なんだから。 「―――わたし、わたしには?」 「わあ!」  背後の席列に座っていたはずのアンが、いつの間にかあたしとアルマの間に滑りこんで いた。焦点の定まらない黄金色の瞳をぼんやりとあたしに向けて、天国に一番近い笑みを 浮かべている。 「わたしにもその挨拶をして欲しいのだわ」  つ、ついに希望者まで? 願ったり叶ったりだけど、アルマさんの上品な反応に続くか たちでアンまでスムーズに味わえちゃうとなると、気後れをしてしまう。 「い、いいの?」 「もちろんよ。吸引は鼻腔からがお勧めよ」 「え―――と、普通に口からにしておきますです」  もう四回目だけど、この瞬間の胸の高鳴りは落ち着きを覚えない。アルマさんの興味深 げな視線を感じながら、アンの耳たぶに舌を這わせた。  味は……よく分かりません。アンの反応も、目に見えるかたちではなし。いつもと変わ らず、起きているのか寝ているのかよく分からない曖昧な表情をしている。 「ありがとう。じゃあ、次はボゲードンにもお願いね」  なんて、当たり前のように言ってくる。 「う、うーん、それはちょっと無理かな」 「あら、それは残念。でも確かに、ボゲードンの耳の場所を教えずに挨拶を求めるのは不 親切ね。……ねえ、ボゲードンの耳ってどこにあるのかしら?」 「さ、さあ。どこなんだろう。あたしにも分からないや」  ならちょっと聞いてくるわ、と言い残して、アンは自分の席に戻った。段差がある後列 によじ登る格好で。……相変わらず、アンはアクロバットな女の子だ。  アルマとあたしの間を遮るものは無くなった。「あの、それなら……」とアルマは照れ を見せながら、生真面目な表情で提案をする。 「挨拶なら、私もお返しをしたほうがよろしいのでしょうか」 「お返し?」 「はい。とても恥ずかしいですけれど、それが礼儀ならしかたありません」  なるほど。これが挨拶なら、あたしは味見するだけではなく、されるほうにも回れるん だ。杏里さんにされたように、イライザさんにされたように―――アルマにも、あたしの 耳たぶを差し出せる。悪くない提案です。 「あ、じゃあお願いしちゃおうかな」なんてせっかくあたしが乗り気で返事したのに、ニ コルの嘆息が邪魔をしてきた。 「アルマ、悪いことは言わないからやめとけって。ソヨンもソヨンだよ。杏里のバカの習 慣を変に流行らせるような真似、あたしは感心しないぜ」  ……う、見抜かれてます。  確かにあたしは、この杏里さん式の挨拶をファーストクラスに流行らせて、女の子の耳 たぶを噛んだり舐めたりすることのハードルを下げたがっているです。  アルマは話が分からず、きょとんと首を傾げている。どっちに従うべきか分からないよ うだ。あたしは考える暇を与えないように、アルマの目の前に横顔を近づけた。 「ね、ちょっとだけいいから。アルマもやってみようよ。ね?」  そんなあたしの様子がよっぽど面白かったのか、アルマは口元にてのひらを当てて、く すくすと笑いを押し殺した。 「まあソヨン様ったら。まるで杏里様みたい」 「……それ、全然笑えないって」  ニコルは本気で呆れている。 「どうしましょう。とても緊張します」  アルマはもう一押しだ。 「でも、お互いが仲良しなことを確認できるんだよ?」 「そ、そうですね。―――それではソヨン様、お耳をお借りします」 「うんうん!」  ためらいがちにだけどアルマが顔を近づけた。横目で盗み見ると、唇が割れて、奥でか わいらしい舌が小刻みに震えている。あたしの期待はもう最高潮。あれがもう少しであた しの耳を―――耳を――― 「なにしてるの?」 「わあ!?」  期待は最悪のかたちで裏切られてしまいました。唐突に、あたしの視界を占領する女性 の顔―――この授業を担任するレイチェル・フォックス先生だ。あたしは今の今まで、授 業中だということを完璧に忘れていたことに気づきました。あたしたちの席列はよっぽど うるさかったに違いないです。心なしか、他の子たちからの視線が痛い。ニコルが「あー あ」と肩を竦めるのが分かった。……こ、これは絶対に怒られるよ。 「ねえねえ、なにしてるの?」  レイチェル先生は高い上背を活かして、上半身を長机に乗り出している。ルネの席を乗 り越えて、あたしの目の前にまで顔を近づけていた。……いや、この先生なんかほんとに 近いです。しかも気のせいか目が輝いているですよ。自分の授業を台無しにされたはずな のに、お説教とかいう雰囲気じゃないです。 「えーと―――」  あたしが答えあぐねていると、アルマさんが善意の助け船をよこしてくれた。 「申し訳ありません、フォックス先生。ソヨン様と新しい挨拶のことについて、つい私 語をしてしまいました。授業の迷惑になったことを、なんとお詫びすればいいか……」 「新しい挨拶? それなにかしら? 先生も知りたい知りたいー」 「ええ。相手のお耳をちろりと舐めることなんですけど……」 「すっごい素敵!」  ああ、素直ってなんて美しいのかな。あたしががっくりとうなだれると、ニコルは声を あげて笑った。 「ねえソヨンさん、先生にもその挨拶をしてみない? ねえねえソヨンさん、先生もその 遊びに混ぜて欲しいの。ねえねえねえソヨンさん、ほら、舐めて舐めてー」 「ち、近いです! レイチェル先生、顔が近いです!」  強引に身を乗り出してくるから、先生のからだの下でルネが潰れている。あたしは怖く なってついテキストで先生の顔をはたいてしまいました。 「ねえねえねえねえねえ!」  ……ぜ、全然ダメージがないです。  例えるなら今のレイチェル先生は陽気なゾンビ。どんな攻撃も気づかない。一度食らい ついたら離さない。あたしが「きゃー」と叫んで、ばしばし叩いているのに「舐めて舐め て」としか言ってきません。なんかこの先生卑猥です!  このままだとルネは窒息死か圧死をしてしまいそうだし、あたしも杏里さんに捧げたは ずの純潔を奪われそう。……これはしかたがないことです。相手は先生だけど、きっと正 当防衛だと認められるはず。クラスの生徒が証人です。 「ごめんなさい、レイチェル先生!」  叫ぶと同時に、座っていた椅子から背後に――アルマさんの方向に――からだのバネだ けを使って飛び上がる。宙に浮くと同時に、ぐるりとひねりを加えて、振り向きざまに飛 び後ろ廻し蹴り(ティオティフリギ)をレイチェル先生の顎先に命中させました。  あたしは蹴りの反動も利用して、アルマの頭上を飛び越え、ニコルの背中にお尻から着 地する。「なんであたしなんだよ?!」と叫びながら、ニコルがむぎゅうと潰れた。  レイチェル先生は脳震盪で完全に沈黙。まさかこんなに綺麗に技が決まるなんて。あた しはふぅと胸をなで下ろした。環太平洋史の授業がこれでお終いなのは、間違いない。                  *  *  * 「……ふぅ、えらい目にあったです」  授業の終わりを告げるベルが鳴ると、気絶しているレイチェル先生を教室に残してあた したちは解散した。帰路はひとそれぞれ。ニコルのように自分の部屋に直帰する子もいれ ば、ルネのように先輩のところに遊びに行く子もいる。あたしはみんなと別れて、ひとり で大廊下を歩いていた。  放課後の始まりは管理からの解放。廊下で足を止めてお喋りに興じる子たちが目立つ。 もう時間割には縛られていないのだから、行き先を決めて動く必要もないんだ。特に理由 もなく、大廊下という学園の中心地にふらふらと足を運んじゃう女の子も多い。  もちろん、そうじゃない子もいます。ちゃんとした目的を持って歩く女の子。例えばあ たしです。  ルネ、ニコル、アルマ、アン―――あたしが挨拶≠ナきた四人を思い出すと、自然と 唇が湿ってくる。杏里さんにイライザさん―――あたしに挨拶≠してきた二人を思い 出すと、左の耳が熱くなってくる。朝から放課後までの十時間足らずで、あたしは昨日ま でのあたしには想像できないくらい、貴重な経験を積むことができた。  この経験をどう活かすべきか。この経験から、どう次につなげるか。あたしはすでに、 ひとつの答えを得ているです。  あたしの「今日」は、きっとこのときのために用意されていた。  軽い駆け足で屋外へ。沈み始めた太陽を背中に、あたしはアリーナを目指しました。  船内のスポーツ施設の中心地であるドーム状のアリーナは、複雑に階層分けがされてい ている。あたしが所属しているテコンドー部の武道場は一階のC区画だ。  更衣室で手早く道着を着る。グローブをつけてキックシューズをはくと、はやる気持ち に背中を押されながら、道場へと駆けこみました。 「おはようございます、クローエ先輩!」  サンドバッグを相手にキックの練習をしていた先輩が、あたしの挨拶に動きを止めた。 振り返って、いつも通りの冷めた目線で「おはよう」と返してくれる。 「いつにも増して元気なのね。……今日は部活動の日ではないけれど?」  知っています。そして、クローエ先輩がトレーニングに道場を使う日だということも。  先輩のからだはもうだいぶ暖まっているようだ。胸が一定のペースで上下している。汗 でうなじに張りついた道着の襟が色っぽかった。憧れの黒髪もしっとりしている。 「クローエ先輩! あたし、先輩と組手がやりたいです、組手!」 「……正気?」  先輩はタオルで首を拭きながら、あたしを睨んだ。……まあ、そういう反応をされると は予想していました。先輩とあたしでは実力の桁が十個ほど違う上に、体格に差がありす ぎます。勝負どころか、練習相手としてもお互いに適切じゃないです。 「約束組手……って、わけじゃあなさそうね」 「はい! 組手試合がしたいです」 「……あなたにしては、随分と好戦的なのね。ついに意地の悪い先輩を叩きのめしたくな ったのかしら。気持ちは分からないでもないけれど、賢い手段とは言えないわ」  だって叩きのめされるのはあなただもの、とクローエ先輩は続けた。 「まあ断る理由はないから受けて立つわ。同じサンドバッグでも、動いてくれたほうが稽 古にもなるし。……安心しなさい。ちゃんと手加減はするわ。ただ、今日の夕飯は諦める のね。食べても吐くだけよ」  この先輩は物騒なことをしれっと言います。もしあなたを蹴り殺してしまったら、責任 は部長やコーチではなくて私になるのかしら―――なんてことまで言い出し始めました。  ……あたしはもしかしたら、とんでもない過失を犯そうとしているのかも。いまになっ て後悔が全身に染み渡ってくる。初めはいいアイデアかと思ったけど、よく考えてみると 武道場はクローエ先輩のホームだ。図書室のほうが命の危険はよっぽど少ない。  ……でも。ここで退いてしまったら、今日のすべてが無駄になっちゃう。せっかく学ん だことが、昇華されないまましなびちゃう。それはすごく歯がゆいです。  覚悟はとっくに決まっていたはず。それに、いまさら「やっぱりやめます」なんて言え ない。冷静さを見失わなければ、活路は必ず切り開ける。なにもクローエ先輩に勝負で勝 とうって言うんじゃないんだから。……あたしはただクローエ先輩の耳を、 「やります!」帯を強く締め直した。「やらせてください、クローエ先輩!」  先輩も先輩で、この状況には困惑しているようだった。あたしの気合いに呆気を取られ て、反応が一瞬も二瞬も遅れた。 「本気で決闘をするつもりじゃないでしょうね? 私、なにかあなたに憎まれるようなこ とをしたかしら。自分ではそれなりに良い先輩を努めていたつもりだったのだけれど」 「そんな! あたし、クローエ先輩を嫌ったことなんてないですよ。誰よりも尊敬してい ます。憧れています。だから、先輩にご指導をお願いしたいんです」 「……そう、ありがとう」ちょっとだけ先輩の表情が和らいだ。安心したように見えるの は気のせいだろうか。「なら、プロテクターをつけなさい。早速、始めましょう」 「いえ、このままでいいです」 「はぁ?」 「このままでいいです」  プロテクターなんてつけていたら、それこそサンドバッグです。せめてヘッドギアぐら い……とクローエ先輩は言うけど、ヘッドギアが一番ダメなんです。あんなのを装着して いたら、頭が大きくなりすぎて先輩の耳に唇が届きません。  先輩はしばらく頭を抑えてから「……好きにしなさい」と言ってくれた。 「はい! よろしくお願いします」  ―――そうしてあたしとクローエ先輩は、武道場の真ん中で相対しました。  先輩との組手は始めてじゃありません。約束組手や自由組手も含めると、何十回もやっ ている。それはつまり、先輩の強さを何十回も思い知らされているということ。あたしで は奇蹟を味方につけても「いい勝負」すらできない。こうやって向かい合ってみると、改 めてその事実を痛感するのです。ほんとにすごいプレッシャー。 「さ、仕掛けてきなさい」  クローエ先輩はからだを横に構えもしないで、両手を広げた。  それなら遠慮なく―――「やあ!」とマットを蹴る。が、クローエ先輩な何気なく右脚 を持ち上げて、足の裏であたしの進路を阻んだ。中段への前蹴り(ミルギ)だ―――と思 った次の瞬間には、側頭部に火花が散った。上段への廻し蹴り(トリョチャギ)。あたし は防御すらできず、マットに沈んだ。前蹴りがあたしのからだを止めたと同時に、同じ脚 で側頭部を刈ってきた。まさに電光石火の早業だ。 「いつも注意していることだけれど」先輩は軽くステップを踏みながら、倒れたあたしを 見下ろしている。「視野が狭すぎるわ。力も入りすぎている。それじゃあいつまで経って も相手の技を見切れないわよ。ただでさえあなたは小さいせいで、自分の間合いに相手を 捉えるのに苦労するんだから。もうちょっと賢く立ち回らないと伸びないわよ」 「は、はい……」  痛みはなかった。衝撃が突き抜けただけだ。先輩は手加減をしてくれている。脚がちょ っとふらついたけど、これなら続けられそうだ。  それからさらに、中段への廻し蹴り(トリョチャギ)で有効打を三回、後ろ蹴り(ティ チャギ)を二回浴びせられた。上段への攻撃となると、もう数え切れないぐらいだ。  誰でも予想できる当然の状況。組手を始めて十五分―――あたしはクローエ先輩に一発 も技をかけられないまま、満身創痍になっていた。  近づけない。間合いの外から脚が伸びてくる。まるで城塞か砦みたい。先輩の脚は攻撃 しかしていないはずなのに、あたしには途方もなく堅固な守りに感じられた。  リーチが違いすぎるんだ。手も足も出ない。クローエ先輩の階級はフライ級なのに対し て、あたしは一番下のフィン級。いち階級しか違わないはずなのに、体格の差は絶対的な 壁としてあたしの前に立ちふさがっていた。  あたしの脚が届く範囲に先輩はまったく入ってこない。飛びこむしかないんだ。でも、 それは当たり前の帰結で、クローエ先輩だって見抜いている。  なら――― 「そ、そういえば先輩……」 「なにかしら」  組手中の私語は歓迎しないというのが、表情から分かる。ごめんなさい先輩。でも、こ れだけは報告したいんです。 「今日、大技に成功したんです。ティオティフリギですよ。ほんとにきれいに決まりまし た。クローエ先輩にも見てもらいたかったです」 「武道場の外でテコンドーの技を使うのは危険よ。褒められたことじゃないわ」  ……クローエ先輩がそれを言いますか? 「それで、誰に最高の跳び蹴りをお見舞いしたのかしら」 「レイチェル先生です」 「……はい?」 「レイチェル先生です。授業中に」 「……」  先輩は目を剥いて、あたしを見つめた。そんなに驚いたのでしょうか。ステップすら踏 むことを忘れています。―――今しかない、とあたしは踏みこんだ。  が、すぐに先輩の足刀があたしの胸を打つ。びしっと脚を伸ばした横蹴り(ヨプチャギ) だ。肺から酸素を押し出されて、あたしは「かはっ」と呻くけれど―――いつもに比べた ら、ぜんぜん軽いです。不意を打たれたせいか、体重が乗り切っていない。  あたしは足を止めず、からだを前に倒した。先輩は間を置かず、逆の脚で中段へのトリ ョチャギを放ってくる。草刈り鎌のような回し蹴り。でも、これは軌道を読めました。ぎ りぎりでガードに成功。衝撃で何歩か後じさってしまうけど、なんとかこらえ切れた―― ―と思ったと瞬間に、真逆の右半身に同じトリョチャギが食いこんだ。  左右交互に放つ二段廻し蹴り(ヤンバルチャギ)だ。これは疑いようもなく有効打。で も、あたしは足を止めずまた一歩踏みこんだ。  あたしの間合いとしても近すぎるぐらいの、肉薄ともいえる相対距離。うしろに退かな くちゃクローエ先輩は技をかけようがない。これなら―――と思ったら、側頭部に外廻し の半月蹴り(パンダルチャギ)が盛大に命中。先輩は、姿勢をうしろに流して作った空間 に、右足を無理矢理ねじこんでいた。  がくり、と膝が崩れる。クローエ先輩の足が下がる。さすがにダウンすると思ったので しょう。でも、あたしは傾いだからだを根性だけで制御。せっかくここまで近づいたのに、 もう成功は目の前なのに―――ここで諦めるわけにはいきません。  あたしは目まいを無視して吼えました。 「やああ!」  前進、というより身を投げ出したといったほうが正しいです。あたしはクローエ先輩の 膝に足を乗せると、両腕を広げて上半身にかじりつきました。  もちろん、こんな技はテコンドーにはありません。ていうか反則です。 「ソヨン、あなた―――」 「先輩、失礼します!」  すべてはこの瞬間のために。  さっきまでの力みは嘘のように消えました。あたしは脅えるように――でも、積極性は 忘れずに――クローエ先輩の耳を視界に捉えると、唇でついばんだ。  口中に含んだそれを、舌先でゆっくりと味わう。  やわらかい。なんて新発見。クローエ先輩はとてもやわらかいです!  ソヨンは感動を隠せません。恐怖を押し殺して挑んで良かった。死ぬかもしれないとい うリスクがあってすら、この瞬間に勝る快感はないです。  でも、いちばん期待していたクローエ先輩の反応は――― 「……?」 「ひゃあ」とも「きゃあ」とも言ってくれません。構えを解いて、あたしに抱きつかれた まま銅像のように佇立しています。……ちょっと、おかしい。今までのパターンだと、み んな大なり小なりかわいい反応をしてくれたのに。これはちょっと想定外ですよ。  そうしているうちに、クローエ先輩はゆっくりとおもてをあげて、深々と―――それこ そ、道場が海底に沈むぐらいに深い溜息を漏らした。 「なにか考えあってのことだとは思っていたけれど―――」先輩は、あたしの道着の襟を ぐいと持ち上げる。片手で軽々と。「……そう、これのことだったのね」 「あ―――」と思う間もなく、床に叩きつけられた。あたしの軽いからだは何度かマット の上でバウンドまでする。痛い。これは痛いですよ、クローエ先輩!  先輩はいつもの三倍増しで、冷え切った視線を投げてくる。凍える瞳の奥には、怒りや 呆れはあっても動揺や羞恥は見えません。  ……そ、そんな。あんなにしっかりと食べたのに、まったく通じていないなんて。クロ ーエ先輩は鉄の女なのでしょうか。すごく敏感そうに見えるのに。 「このケルベロスのあぎとが―――」そう言って、先輩は踵を持ち上げた。「あなたをハ デスの国に叩き落とす前に、あなたの些細な疑問に答えてあげるわ」  あたしはよろよろと起きあがるけど、目は先輩のおみ足を注視したまま離れない。剣の 切っ先のような踵に意識が吸い寄せられる。 「ど、どうして―――」  あの刺激に無反応なんてことができるのか。  なんとか疑問を口にすると、先輩は艶然と微笑んだ。 「あなたじゃ感じないからよ」  稲妻が走った。空気を切り裂く怒りの槌。一筋の閃光となったクローエ先輩のネリョチ ャギが、あたしの意識を余さず収穫してくれました。  奈落へと叩き落とされた思考の中で、あたしは考えます。あたしの短かった人生。完敗 に完敗を三乗してもまだ足りない、惨めな末路。あたしは自分の身の程も弁えずに先輩に 挑んで、そして首を刈られた。  負けです。負けすぎです。あたしは負け犬です。それは言い訳しないです。でも、あた しの惨敗と同時に、揺るがしようのない事実もあるです。  それは、クローエ先輩の耳たぶを味わえたということ。あたしの目的は達せられたとい うこと。クローエ先輩のは……とても、やわらかかった。癖になりそうなぐらい、やわら かかったですよ。美味しかったです、ほんとに。  だから後悔はありません。武道場に横たわるあたしの亡骸は、満足そうに微笑んでいる に違いないです。                  *  *  *  目覚めてみると、武道場にはあたしひとりしかいなかった。トレーニング用の機材はき れいに片づけられていて、ご丁寧に消灯までしてある。当然、先輩の姿はない。あたしを 捨ててさっさと帰ってしまったんだ。……まあいつものことです。  更衣室でシャワーを浴びる。打ち身やすり傷がひどく染みた。からだが鉛のように重い です。頭もくらくらというか、ふわふわというか……とにかくダメージが抜けきっていな い。今日の夕飯どころか明日の朝食だって食べられそうになかった。  危うげな足取りでアリーナから離れる。陽は沈みきっていた。時刻を確認すると、九時 を過ぎている。あたしはいったい何時間昏倒していたんでしょうか。今になってクローエ 先輩の容赦のなさが怖ろしくなってきた。  向かう先は右舷上層寮。特に意識もしないで勝手に足が進路を決めてくれた。  でもよく考えてみると、放課後の部活動が終わるとあたしが必ずあそこに寄るようにし ている。今日は部活ってわけじゃなかったけど、からだを動かしたんだから、同じ日課と してあそこに顔を出すのは当たり前なんです。……そう、自分に言い聞かせた。  足を引きずっていた割には快調なペースで、気づくと扉の前に立っていた。途中ですれ 違った生徒たちはみんな深紫色の制服姿で、セーラー服姿のあたしを珍しそうに一瞥して いた。それもいつものこと。普通はファーストクラスの子がサードクラスの寮には近づい たりしないんだ。―――そう、ここは学園の最上級生の住居ブロック。  控えめにノックをする。 「開いてるよ」  返事は早かった。 「失礼します」  ドアを開けると同時に、むせ返るほど濃厚なコーヒーの匂いが襲いかかってきた。まる で見えない壁みたいだ。慣れていない子だと、窒息をしてしまうかもしれない。  部屋の主は、がらくたと本の山に守られるようにしてソファに腰を埋めていた。今はど うやら研究中では無いらしい。珍しいこともあるものです。 「アンニョン・ハシムニカ! こんばんはです、かなえさん」  かなえさんはあたしの挨拶に、口元をほころばして歓迎してくれた。 「やあ、よく来たねソヨン。適当にくつろいでいけばいい。私もちょうど休憩をとってい たところだ。どうも研究が煮詰まっていてね」  ええ、是非そうします。あたしはミキサー付きのがらくたを乗りこえて、かなえさんが 座っているソファに近づいた。 「ん?」  かなえさんは早くもあたしの様子がいつもと違うことに気づいたみたいです。眼鏡の位 置を直して、あたしを観察した。 「なにか嬉しいことでもあったのかな。随分と機嫌がいいじゃないか」  ええ、今日はたくさん楽しいことがありました。一日の締めくくりとして、これからも っと楽しいことが待っています。  あたしは苦労して隣に座ると――スペースを作るために、分厚い装丁本を床に何冊も落 とさなくちゃいけなかったです――入れ替わるようにして、かなえさんは立ち上がった。 「じゃあ、コーヒーでも煎れるよ」 「あ、待ってください!」  慌てて腕を取り、引きとめた。かなえさんは腰を浮かしたまま、訝しむような表情であ たしを見下ろす。 「コーヒーもいただきます。でも、その前にお願いしたいことがあるんです」 「お願いねえ……。ろくでもないことで無ければいいんだが。まあ聞いてから判断しても 遅くはない、か。それで、どんな無茶な内容なんだい」  はい、とあたしはうなづいた。  あたしの目は、滝のように流れ落ちる黒髪を魅入ってる。正確には、黒髪から覗く白蝋 のような耳たぶを。  あたしは生唾をごくりと飲み下して言いました。 「ちょっとお耳を貸して欲しいです」  かなえさんは、別に誰も聞き耳なんてたてていないよ、と苦笑してから、あたしに顔を 近づけました。あたしは唇の間から、ちろりと舌の先っぽを突き出して―――  かなえさんに教えてあげました。杏里さんの、やり方を。 「耳たぶハンター・ソヨン」  THE END