サフィズムの幻想 夏の特別シナリオ              「ニコルがちゅぱちゅぱ」  あたしの禁煙にいちばん初めに気付いたのは、案の定杏里のやつだった。  あいつは、こういうことに関しちゃひとの三十倍くらいは目聡いとは分かっていたけど、 まさか一日も待たずに見抜かれるとは思わなかった。  ……というか、一週間でやっと一箱吸い切る程度のゆるーい喫煙者なあたしにとって、 一日なんて禁煙のうちに入らないんだが、あいつはあたしのどこを見てその単語を連想し たんだろうか。「あれ、そういえば禁煙した?」なんて、挨拶代わりに「前髪切った?」 と確認するかのようにさり気なく聞いてきたときは、今更ながらに杏里・アンリエットっ て女はどうしようもないくらいにバケモノなんだって実感したぜ。……こいつの尋常じゃ ない鋭さにいちいち付き合っていたら疲れるだけだって分かっているんだけどさ。そうい う覚悟を決めていても、驚かされちまったんだ。  そのときは「ん、まーね」なんて、なんでもないように装ったけど、正直言って禁煙を 見抜かれたのはショックだし悔しかった。そしてそれ以上に恥ずかしかった。だって禁煙 なんてアピールしてもかっこ悪いだけじゃないか。好きで始めたものを「やめます」なん て宣言するのは、あたしには「ださい」の最たるものだったんだ。  ……それに理由も理由だったし、ね。  喫煙大国イタリアで生まれて、ガキの頃から親父のMSフィルターをくすねてはぷかぷか と吹かしていたあたしがどうして唐突に禁煙なんかを始めたかというと、それはアメリカ からヨーロッパに逆輸入されたペストの如き禁煙ブームの流れに乗った―――わけじゃ当 然なくて、杏里との明るい未来設計のため―――でもなくて、あたしが紫煙をくゆらして いるところを杏里以外のやつに見られちまったからなんだ。しかもそれが、顔見知り程度 の生徒だとか賄賂のきくPSとかじゃなくて、あの<Aルマ・ハミルトンだっていうんだ からたまったもんじゃない。……やれやれ。フィレンツェの下町仕込みのあたしの警戒心 も錆び付いたもんだぜ。本気で情けなくなってくる。  ことの成り行きは単純で説明の必要すらない。あたしはその日、いつものように午前の 講義を自主的に休講して、あたしが勝手に「喫煙所」と定めた船尾のオープンデッキの片 隅で、苦くてまずいキャンディをしゃぶっていた。あたしはヘヴィーでもチェーンでもな いから、毎日のようにそこでサボっているわけじゃない。ただその日は、なんとなく喫い たくなったってだけなんだ。―――なのにアルマは、狙いすましたかのようにあたしが煙 草に火を点けたタイミングで「喫煙所」に上がってきた。  その日、アルマはからだの都合で講義を休んで伏せっていた。……まぁなんだ。二日目 で重かったようなんだ。それで、ふと風を浴びたくなって外に出たらしいんだけど、どう してあの時間帯に、あのだだっ広い船尾デッキの中でいっちばん人目につきにくい「喫煙 所」に足を運んだのか。杏里に言わせれば「運命」にでもなるんだろうけど、あたしなら こんな説得力に欠けるシナリオは書いたりしない。  煙草をくわえたまま唖然とするあたしに、アルマは「おっとりと驚く」という器用な表 情で応えてから、回れ右してそのまま船尾デッキから降りていった。  ……それが一昨日の話で、あたしは昨日も講義には出てないから、アルマがその件につ いてどう思っているかは分からない。確認する勇気もまだない。  アルマは真面目な子だけれど、ヘレナのような堅物とは違う。あたしが校則を破って喫 煙していたと知っても、これからの付き合いを考えたりするとは思えない。思いたくない。 だけどその一方で、どうしようもないほどにお嬢様だって事実もあるから、あたしの不安 は時間を重ねるごとに増えていった。  少しでも憂いを誤魔化すために、電算室でスウェーデンの喫煙率について調べたりもし た。スウェーデンは喫煙年齢の制限がないってことを知ったときは、安堵のあまり椅子か らずり落ちそうになったけど、その直後に先進諸国の中で喫煙率がもっとも低いという事 実を知らされて、一気にどん底へと叩き返された。  色々考えた末に、やめるしかないなって結論に辿り着いた。アルマのご機嫌を取るため じゃなくて、たかが煙草のためにこんな面倒くさいことになっちまったのが、馬鹿らしく てしょうがなかったんだ。今までだって気分転換のために喫っていただけだから、禁煙し たところでなんの支障もない……とそのときは思ってた。  部屋に残っていた予備の煙草は、カートンごと喫煙仲間のマルレーナにくれてやった。 ライターと灰皿は全部処分して、念のためにガムやキャンディを大量に買い込んだ。これ で週明けの月曜日からは、アルマといつも通りに学校で顔を合わせられるはずだ。  ……そうなるはずだった。はずだったんだけど。                 * * * * 「ねえニコル、まーた爪を噛んでるよ?」  杏里の声を聞いてあたしはぐっと息を詰まらせた。反射的に唇から親指を離す。……ま ただ。また無意識のうちに親指の爪を噛んじまった。杏里の注意もこれで何度目だろうか。 あたしは抗いようのない苛立ちに煽られて、幼児のように爪を囓る癖がついていた。  禁煙を始めてから今日で三日目。憂鬱な(というよりもかったるい)月曜日を直前に控 えた日曜日、あたしの忍耐力は限界に達していた。  耐えられると思っていた。禁煙なんて楽勝だと笑っていた。だって、あたしの喫煙ペー スなんてたかが知れているから、やめようと思えばいつだってやめられるはずだ。そんな 風に考えていたんだけど――― 「……そもそも禁煙なんてしたことないんだから、楽勝かどうかなんて分かるはずがなか ったんだよなぁ」  情けない話だが、ニコル・ジラルドは禁断症状に苦しんでいた。  今まで三日間喫わないなんてことはざらだったし、機会を逸すれば一週間ニコチンとは 無縁ということだってあったのに、「禁煙」を意識してしまうと今までの喫煙ペースはど こへ行ったのやら、無性に喫いたい衝動に侵される。  それでも昨日一昨日の二日間はガムを噛み散らしてキャンディをしゃぶりにしゃぶって なんとか誤魔化したんだけど、さすがにもう我慢の限界だ。このままひとりで引きこもっ ていたら茶葉をお札で巻いて吸い始めかねないと懸念したあたしは、杏里を部屋に呼んで 気を紛らわすことにした。杏里はあたしが喫煙者だということを知っている数少ない生徒 だから、気兼ねなく悶え苦しむことができるんだ。  杏里は夏らしくアイボリーのベアトップに薄手のパーカーを引っかけ、下は七分丈の黒 いレースレギンスにローライズが際どいデニムのホットパンツを重ねていた。杏里にして はけっこうカジュアルな服装だとは思うが、重ね着がしつこいのはいつも通りだ。日本人 ってのはみんなこうなのかね。鼎も制服の上から白衣を羽織っているし。  あたしはタンクトップにハーフパンツという、いつも通りの色気のない格好。こういう ラフなスタイルが杏里を無闇に興奮させちまうってことは分かっているから、こいつと会 うときはそれなりに考えた服装をするように心掛けているんだけど……今日はそんな余裕 もなく、部屋着のままで迎え入れちまったわけだ。 「じゃあ一緒に映画でも観ようか」なんて、杏里のやつは嬉々として招きに応じてくれた けれど、申し訳ないことに禁煙対策としての効果はまったく発揮されなかった。  持ってきてくれたDVDも頭に入ってこない。……ていうか、またこのイギリス映画かよ。 タイトルはなんだったっけ。英国のパブリック・スクールを舞台にした古い映画で、ビー ジーズの歌がしつこく流れるんだ。日本では大ヒットしたらしいけど、あたしはこの船に 乗るまでは見たことも聞いたこともなかった。杏里はこのタイトルが大のお気に入りで、 暇があれば食い入るように観賞して、その度に感動の涙を流している。  いや、初めて観たときはそれなりに面白かったけどさ? こう何度も何度も観せられち ゃさすがに退屈するっての。せめて杏里が持ってきてくれた映画がまだ未見のタイトルだ ったなら、ちょっとは集中できたかもしれないのに。 「ニコル、爪、爪」  あ、また噛んでた。油断するとすぐこれだ。 「せっかくボクが塗ってあげたのに」 「……悪い」  こればかりは素直に謝るしかない。  実は映画を見始める前に、杏里はあたしの親指にマニキュアを塗ってくれたんだ。しか もただ塗るだけはなく、ラインストーンやビーズを使ってネイルアートまで施してくれた。 あたしなんかの指にはもったいないぐらい鮮やかな出来映えだ。左右の親指だけとはいえ、 これを一時間とかけずに仕上げる杏里の手先の器用さには感心を通り越して感服しちまう。  ……が、そんな傑作のネイルアートも、あたしが苛立ちに任せてがじがじと囓ってしま ったせいで台無しだった。親指を噛まないようにという杏里の目論見は功を奏さなかった わけだ。……これはさすがに悪いと思っている。 「マニキュアなんてまた塗ればいいんだから、気にすることはないさ。でも肝心の爪がぼ ろぼろのぼこぼこだったら、塗りようがないよ」 「あー、うん、分かっちゃいるんだがね」  そう言いながらもあたしの親指は唇へと伸びていく。その手を杏里がはしっと掴んだ。 「こうなったらもう、噛めないようにするしかないね」 「へ?」 「ニコル、確か手錠を持っていたよね。あれをまた使おうよ。後ろ手にがっちり拘束すれ ば、噛みたくたって噛めるもんじゃないさ」  いやいやいや待て待て。こいつは何を言い出すんだ。 「それじゃ日常生活すら覚束なくなるんだが」 「でも、持っているのに使わないなんてもったいないじゃないか」 「あんたが怪しい通販で買い付けて、あたしの部屋に持ちこんだまま置いていっただけだ ろう。ていうか、あれって手首がこすれて痛いんだよ。あんたも一度は嵌められる側にな ってみたらどうなんだい」 「そうだね。今度からはタオルで縛ろう」 「いやいや、そういう話じゃないから」  そもそもあたしは、禁煙の件をあんたにどうにかしてもらおうなんて思ってない!  ……なんて言っても無駄なんだろうな。マニキュアを台無しにしてしまった手前、今日 はあたしのほうが弱い。  杏里は一緒に映画を観て感動する≠ニいうメニューは諦めたのか、ベッドに腰を下ろ すあたしの隣に寝そべると、ぐぐっと伸びをした。天井を仰ぎながら話しかけてくる。 「そこまで辛いのなら、無理して禁煙する必要なんてないと思うんだけどね」 「……そんなこと言うのはあんたぐらいのもんだよ」  杏里にはアルマの件は話していない。相談するにはあまりに馬鹿らしい内容だと思うし、 それで「じゃあボクがアルマに聞いてみるよ!」なんて先走られたら目も当てられないか らだ。……こいつに隠し事をするのって、けっこうしんどいんだけどね。 「ボクは煙草を喫っているときのニコル、好きだったよ」  寝そべったまま、あたしの顔を見上げて杏里は言った。 「横顔が、さ。かっこ良かったな」 「な、なにを―――」  突然言うのか。  馬鹿、としか返事のしようがなかった。不意打ちでそんなことを言われても困るだけだ。 そこで杏里の甘言に乗ってまた喫い始めたら、最高にかっこ悪いじゃないか。かっこ良い あたしの横顔を見せられなくなっちまうのはもったいないけど、ここは初志貫徹といくし かない。  杏里はごろりと転がって、あたしの太股に頭を乗せた。 「ほんとにやめちゃうのかい?」  なにを今更。 「やめるんじゃなくて、もうやめた。煙草も全部片づけた」 「灰皿も?」 「そんなの当たり前だろう」 「ボクがプレゼントしたやつもかい?」 「あれは―――」  杏里があたしにプレゼントしてくれた卓上灰皿というのは、ラピスラズリの原石から削 りだして作った豪快な一品だ。目が痛くなるほどに真っ青な色合いはアドリア海の海面を 彷彿とさせてくれる。眺めていると、その青さにほんとに溺れそうになるぐらいだ。 「ニコルには胸焼けするぐらい青い色が似合うんだ」というのが杏里の言で、そのために ソフィア先生がアフガニスタン中の土産屋を梯子させられるはめになったという曰く付き の一品でもある。……ソフィア先生がうっかり「今度中東のほうに行くのだけれど、なん か土産の希望はある?」なんて聞いちまったのが運の尽きだったんだろう。アフガニスタ ンが「天空の破片」の世界有数の産地だと知っていた杏里は、臆面もなく「ニコルのため に」鉱石から直接削りだした灰皿が欲しいなんて注文しやがったんだ。まったく、杏里の プレゼントなのかソフィア先生のプレゼントなのか。  あたしは呆れ混じりに答えた。 「あれを捨てるわけないだろ」  貰い物まで処分するほどやきは回っていないし、そもそもあのラピスラズリを灰皿とし て使ったことなんて一度もない。あんなに深く吸い込まれる青味を持つ鉱石に、煙草の火 種を押しつけるような真似、あたしにはできなかった。死蔵させるのもどうかと思ってア ロマテラピーを焚く香炉の代わりに使っている。  あのラピスラズリの灰皿は色々な意味でお気に入りなんだ。捨てるもんか、絶対に。 「ニコルが本気だっていうことは分かったけどさ」  勝手知ったるなんとやら。杏里は特に断りも入れずに、冷蔵庫からミルクピッチャーを 取り出した。中味はあたしが朝のうちに作り置きしたアイスココアだ。背の高いタンブラ ーに氷をめいっぱい詰め込み、よく冷えたココアを注ぎ込むのがあたしのお気に入りの飲 み方だった。当然、杏里はタンブラーを二つ用意する。 「どうするんだい? 今のニコルの状態は、禁煙は成功しているとはとても言えないよ。 このままだと、爪どころか親指すら食い千切りかねないからね。なんとかそのおしゃぶり 癖を治さないと」 「おしゃぶり癖って言うな」  まあほんとのことなんだけどさ。  杏里からタンブラーを受け取って喉を潤す。生クリームを乗せたいね、なんて杏里が感 想を述べている間にあたしはさっさと飲み干した。氷が溶けないうちに飲んじまうのがア イスココアの基本だ。  口元についたひげ≠手の甲で拭いつつ、あたしは「うーん」と唸った。ガムとかキ ャンディとか、煙草の代替になりそうなものは既に試している。それで効果がない以上、 この苦しみに慣れるまで耐え続けるしかないんじゃないか、ってのがあたしの考えなんだ けど。―――杏里は大反対みたいだ。 「ニコルはそれでいいかもしれないけどさ! ボクはイヤだよ。キミの麗しい爪がこれ以 上虐げられるのを黙って見ていることなんてできやしない。ボクはキミの爪を守るために 戦うよ! そりゃあ、ニコルが禁断の症状に悩ましく狂う姿を見ていると、ドキドキして くるけどさ。だからってねぇ……」 「まーねー」  最後は余計すぎるが、確かに親指を噛む癖っていうのはかっこの良いもんじゃない。ほ んとにこれが癖になっちまって、外でも平気で噛むようになったらあたしが今まで築き上 げたキャラクターってもんが丸つぶれだ。今のうちに矯正しようという杏里の考え自体は 間違っていない。  ―――なんて考えている間にも、あたしの唇はいつの間にか親指の爪を捕まえている。  ……これは重症だ。 「やっぱ手錠しかないんじゃない?」 「それは最後の手段で頼む」 「そうだね。その前にタオルでソフトにいこう」 「……」  こいつは素で言ってるのか、それともそういうプレイを希望しているのか? 後者だっ たら、杏里が望むのならあたしは別に―――って、そうじゃなくて。  そもそもこいつの場合、あたしの禁煙の苦しみすら性的興奮の一貫と見なしている節が あるから、とてもじゃないけど真面目な応対なんてしてられない。この苦しみは喫煙者じ ゃないと分かるもんじゃないんだ。  だからこいつが「倫理的に話し合おう」なんて言い出したときも、あたしは「はいはい」 と適当な返事しか返せなかった。……というか、倫理(=モラル)ってあんたにいちばん 欠けてるもんだろうが。せめて「理性的に話し合おう」にしてくれ。まぁ、こいつが理性 的かどうかは甚だ疑問なんだが。 「代替のなにかを求めるってことは、つまりニコルは口寂しいってことだろう? 口がお 留守だと落ち着かないから、爪を噛んだりするんだ」  杏里は倫理的でも理性的でもなく、常識的なことを言い出した。  ……うん、まぁそれは分かっちゃいるんだけどさ。分かったところでどうしようもない のが現状なんだよ、杏里? 「キミの口は寂しがっているんだよ。煙草という友人を失って、寂慮に泣いているんだ。 ニコルはニコルの口の支配者として、彼女の寂しさを慰める義務がある!」  ……常識的ですらなくなった。 「でも、あたしのお口は新しい友人には満足してくれなかったんだぜ?」  一応付き合ってやる。 「アンブロッソリーのミルクハニーもキャドバリーのチョコレートガムも、あたしのお口 の友人としては不釣り合いなんだとさ」 「だからって、親指の爪と付き合うのはよくないよ」 「そんなのは分かってるって」  分かっていてもやめられない。  あたしはわざとらしく左手で右手首を掴んで、親指を唇から引き剥がした。対処法が提 示されない限り、あたしの親指は迫害され続ける運命なんだ。 「それともあんたは、とっておきの友人候補を知っているとでも言うのかい?」  杏里は「まあね」と自信ありげに答えると、人さし指をあたしの鼻先に示した。ぴんと 反った彼女の指は、相変わらず芯のある細さを称えていて、見惚れるほどに優雅だ。  ……が、どうも様子がおかしい。なにか言葉が続くかと思ったが、杏里はあたしを指さ したまま艶然と微笑んでいるだけだ。 「……なに?」  思わずあたしは尋ねてしまう。 「これだよ、これ」  急かすように杏里は言った。指さすポーズを維持するのはけっこう疲れるらしい。 「これって?」 「だから、指」 「あんたの?」 「うん、ボクの」 「……これ?」  あたしを指さす杏里の人さし指を、あたしは指さした。 「うん、これ」  ……意図がまったく読めないんだけど。 「だから、これがキミの寂しがり屋のお口の、新しい友達になるってことさ」  これでキミの親指は救われた、と杏里はご満悦の笑みをこぼすが、あたしはまったく話 についていけてない。あまりに奇抜な友人≠前にして「……はぁ?」と返すのが精一 杯だった。―――まぁ、なんだ。悪い予感だけはするよ、うん。                 * * * * 「……なあ、ほんとにするのかよ」  返事は分かり切っていても、確かめずにはいられない。 「そんなに構えるようなことかい?」  杏里は飄々と言ってのける。 「今までだって、何度もしてきたじゃないか」 「そうだけどさ……今までのは流れというか、雰囲気というか、状況というか、そういう ものもあったんだし……こう、改めてやってみて≠ニ言われても」  恥ずかしいわけですよ。  杏里の用意した友人≠ヘ案の定ろくなものじゃなかった。「キミの親指の代わりにボ クの人さし指を咥えればいいんだよ」という非倫理的かつ非理性的な、非常識極まりない 治療法≠ノ、あたしはげんなりとしつつ却下をしたんだけれど、「じゃあ手錠だね」と 返されては言葉に詰まるしかない。ていうか、その二択かよ。 「あんたの指を咥えたところで、なんの問題の解決にもならないだろ」 「そんなことはないさ。ニコルは優しいからね。自分の指を噛み砕いても、ボクの指なら 優しくしゃぶってくれると信じてる」  そう自信たっぷりに杏里は言うけれど、それがなんの代替になるんだかあたしにはさっ ぱり分からない。もし仮に、杏里の指を咥えることであたしの心が安まったとしても、四 六時中一緒にいない限り「杏里の人さし指」の代替品としてあたしは自分の親指の爪を噛 むことになるだろう。それじゃなんの解決にもならない。  ……まさか、あたしの禁煙が成功するまでずっと一緒にいようとでも言い出すつもりじ ゃないだろうな。それを確認するのは怖かったので、あたしは新しい友人≠フ問題点に ついて突っ込むことができなかった。だいたい、杏里の指を拒んだら手錠が待っているん だから、あたしに選択の余地はない。  ……ま、覚悟を決めるかね。指の一本や二本を咥えるぐらいで必死に抵抗するのも、癪 と言えば癪だし。そっちのほうが杏里の思惑通りになっていそうだし。 「あむ」  そろそろと差し出された杏里の人さし指を、あたしはぱくりと咥えこんだ。  十秒ほどの沈黙。その間、あたしはずっとしゃぶっている。当然、噛んだりはしない。  他人様の指を堂々と咥えているあたしは大概に間抜けだけど、他人様に堂々と指を咥え られている杏里はそれにも増して間が抜けている。そもそも向かい合って咥えたり咥えさ せたりしている時点で、二人ともどうしようもなく間抜けだった。 「具合はどうだい?」  まるでマッサージの調子を確かめるかのように、杏里は尋ねる。 「んー」  あたしは杏里の指を咥えたまま考えた。  ……まあ悪い気分じゃないな。というか、あんまり認めたくないけれど、とても落ち着 く。さっきまでの苛立ちが嘘のように静まっちまった。恐るべし杏里の指。  こうやって黙って咥えているだけで禁断症状が消えるのなら、これからもこの友人 とは付き合い続けていくべきなのかもしれない。……そりゃ、傍目から見たら間抜け極ま りない絵図だっていうのは分かっているけどさ。ほんとに落ち着くんだよ、これ。  杏里の指を咥えたままぼんやりとする。躯の力がいい具合に抜けてきた。これはこれで 癖になりそうなのが怖い。けど平和だ。とても安らかな気分だ。  ―――こうしてニコル・ジラルドの禁煙は成功し、彼女の親指の爪は無事保護されまし たとさ。めでたしめでたし。  ……って流れになるはずなんだけど、どうも杏里は不満みたいだ。あたしはこれ以上な いってぐらいに満足しているのに、あろうことか「なーんかつまらないなぁ」なんて言い 出した。いやいや、つまるつまらないの問題じゃないから。 「これってただ咥えているだけじゃないか。それじゃ退屈だよ。せっかく口には唇があっ て歯があって舌があるんだから、もっと色々試すべきだとボクは思うな」 「色々と試すって……」  あたしは咥えているだけで十二分に幸せなんだけど。 「ニコルは謙虚だね。でも駄目だよ。せっかくボクとキミという二人がいるんだから、試 行錯誤を重ねて、もっともっと深い満足を見つけ出すべきだ」  言うが早いか、杏里はあたしの唇から友人≠しゅっと抜いてしまった。 「あ……」  安らぎが遠ざかったせいであたしは落胆に覚えたけれど、「次にこいつはなにをしでか すんだ」という警戒心がそれを上回った。だから杏里が「ボクが見本を見せてあげるよ」 なんて言い出したときも、驚愕より「やっぱりな……」という諦念のほうが強かった。  拒否権は……あるのかもしれないけど、そもそも拒否する余裕がない。杏里は電光石火 の早業であたしの手を取ると、人さし指を唇へと導いていった。そして口の中で舌を使っ てちろちろと舐め出す。―――いや、これはおかしいだろ! 「なにを考えているんだあんたは!」  慌てて腕を引く。 「なにって見本だけど?」 「それをあたしにやらせるつもりか?! そうなのか?!」 「いやだなぁ。もう何度もしてくれたじゃないか」 「そういう話をしているんじゃなくて―――」  いや、そういう話なのか? なんかもう、自分でもよく分からなくなってきちまった。 「これからニコルはボクの指なしでは生きていけない躯になるんだよ? なのに、ただ 咥えるだけじゃつまらないだろう? だから趣向を凝らそうって話さ」 「……無茶苦茶語弊がある言い方だな、それ」 「いやなのかい?」 「だから恥ずかしいんだって」 「じゃあ手錠だね」 じゃあ≠ノなってねえ。繋がってねえ。  こういう杏里の思い付きをあたしが拒めるはずはないんだけど、だからって安売りする つもりはない。十分弱の交渉の末、杏里が五千ニコル支払うことで決着した。……うーん、 安いのか高いのかよく分からん。だけどニコル≠フ支払いについて、杏里はかなり慎重 だから「じゃあ一億ニコルで」と言っても怒濤の勢いで値切られるだけだ。そして値段交 渉については杏里のほうが一枚上手だった。 「こんな感じ。分かるかい?」  杏里はあたしの指先に口づけをしてから、そっと舌の先を這わせた。 「指にジャムでも塗っていると考えておくれ。それを綺麗に舐め取るイメージで、こうや って……」  唾液で濡れそぼるような大胆な舌使いではなくて、舌先と唇を使って控えめに舐めてゆ くのがまたいやらしい。なんか変な気分だ。いや、こんなことをされて変な気分になるな というほうが無理ってもんだろう。しかも杏里の場合、舌使いだけじゃなくてあたしの手 を取る指の動きまで色々な意味で色々と危険だから油断ならない。  十分ほど丁寧に教育≠オてもらった後、ようやくあたしの人さし指は解放された。  ……ほんとにやれやれだよ。あたしは疲れた溜息とも熱っぽい吐息ともつかぬものを吐 き出した。杏里はというと、期待に満ちた視線を投げつけてくる。更なるいやな予感。  唾液に濡れた唇が淫靡に輝いた。 「さあ、今度はニコルの番だよ。ボクが教えた通りに咥えてごらん」  え、やっぱそういう流れなのか。                  * * * * 「あ、顎が……顎が死ぬ。顎が死んだ。あたしの顎が死んじまった」  疲れた、を通り越して感覚がない。口が開いているのか閉じているのかすらはっきりし ない。一晩中、杏里のを咥えたりあたしのを咥えられたりして酷使しまくったせいで、あ たしの顎は完璧に壊れてしまった。唾液が口内に溜まってしかたがない。こりゃしゃべる のも億劫だぞ。  結局、杏里の荒治療は一日がかりだった。あのまま夜に突入して、夜通しぶっ続けて、 気付けば船窓から覗く空は白んでいたという……まぁいつも通りと言えばいつも通りなお 約束のオチだ。どうも杏里はあたしが相手だと持久力とか耐久力とかの限界に挑戦したく なるらしい。あいつはあのまま気絶するように眠れたから良いんだけど……あたしはそう もいかない。今日という月曜日だけは、なんとしても登校しなくちゃならないんだ。  あたしは軽くシャワーを浴びて汗やらなにやらを流し落とすと、制服に袖を通し、裸で ベッドに倒れる(この状況を「寝る」と形容するのは難しい)杏里を放置して部屋を出た。  登校時間まではまだ余裕がある。というか早すぎる。早いなんてもんじゃない。まだ目 を覚ましていない生徒だって多いであろう時間帯だ。―――けど、あたしの目当てのお嬢 様は、こんな朝も早くから購買部通りのカフェテラスに繰り出して、朝食後のお茶を楽し むのが日課になっている。誰にも邪魔されずに話をしたいなら、そこを狙うしかない。  さすがにこの時間じゃまだ部屋から出てはいないかもしれないが、それだったら先に席 を取って待っていればいい。あたしはお気に入りのチペワのエンジニアブーツ(当然、学 校指定のものじゃない)で廊下の絨毯を踏みしめながら船上のオープンデッキを目指した。 ……いや、目指そうとした。  あたしが部屋を出てから十歩も進まないうちに、ハプニングは起こった。廊下の奥の部 屋の扉が、がちゃりと開いたんだ。「あの部屋はやばい」と思ったときにはもう遅い。腰 まで伸ばした黄金色の髪を神々しいぐらいに輝かせて、アルマ・ハミルトンそのひとが姿 を見せた。一瞬だけ遅れてアルマもあたしに気付く。当然のように目を丸めた。  ……なんてこった。いくらなんでもこのタイミングはないぜ。あたしにだって覚悟とか 心の準備とか、そういう繊細なものが必要なときだってあるってのに。 「や、やあアルマ。ボンジョルノ」  下手に沈黙を長引かせると余計に気まずいので、あたしは引きつった笑顔で挨拶をした。 「グモロン。おはようございます、ニコルさん」  アルマも戸惑っているように見える……のは、あたしの気のせいだろうか。やっぱり、 木曜日のことをまだ引きずってるのかな。あれから四日も経ってるんだから、時間が解決 してくれるだろう―――なんて、そんな淡い期待もしたけれど、もしかしたら余計に不信 感を抱かせる結果になったかもしれない。学校が休みの間に会っておくべきだったか? 「今日はお早いんですね。ニコルさんとこんな時間に会えるなんて、思ってもみませんで した。ちょっとだけ新鮮です」 「う、うん、まあね」  ……まずい。声が裏返り気味だ。  というか、今のアルマの言葉は素直な感想なんだろうか。それとも皮肉? いや、馬鹿 な。アルマは嫌味だとか皮肉だとかを言う子じゃない。いくらあたしが動転しているから って、アルマの言動まで疑ってかかるのは間違っている。だいたい、あたしが午前中はい つもいっつも寝こけているのはどうしようもないくらいに歴然とした事実じゃないか。  あたしは渇いた笑いで誤魔化しつつ、一応の目的を語った。 「たまにはアルマと一緒に朝のお茶を飲むのも悪くないかな、なんて考えていたんだ」 「そうなんですの?」  そう言って顔を綻ばせる。アルマ必殺の黄金スマイル。その表情の眩しさにあたしは安 堵を覚えた。どうやらあたしの焦燥は見当違いだったみたいだ。いつも通りのアルマ・ハ ミルトンじゃないか。 「良かったわ。私も、ニコルさんと是非お話がしたいと思っていたところなんです」 「ぐ……」  時間差攻撃か?!  話したいことって、やっぱあのことか。やっぱやっぱアルマは気にしていたのか。ヤニ 臭い女の子とは友達付き合いできないのか。キスしたときに口臭が気になるのか。  ……って、落ち着けあたし。  さすがにこの動揺はあたしらしくない。ニコル・ジラルドっていうのはもっとクレバー で油断ならない女だったはずだ。アルマの天然ものの攻撃力の高さなんて、もう何度も身 をもって体験しているんだから、ここは覚悟を決めて勝負に出るしかない。 「じゃあ、購買部通りのカフェまで一緒していいかい?」  ……けど、ここで切り出す必要はないよな? いや、あたしがへたれとか、そういうこ とじゃなくて。さすがにここで話し合うのは一般生徒の迷惑だから、うん。 「もちろんです」 「や、良かった。実はあたし、お腹がぺこぺこでさ。昨日の昼からなにも食ってないんだ。 あそこってこんな早朝からがっつりいけるのかな」 「メニューには出ていなくても、頼めば作ってくれると思いますわ」  あははは、なんて空虚な笑いを響かせながら、あたしはアルマと肩を並べてオープンデ ッキを目指した。道中(なんて言うほど大した道のりじゃないんだけど)、会話が途切れ る度にあたしは死にそうな気分に見舞われて、ほんとにどうでもいい話のネタを、例え蕾 のままだったとしても無理に花咲かせたのだった。あー、かっこ悪い。  それからオープンカフェに到着して、テーブルを挟んで二人が席に着くまでにかかった 時間は五分程度ってとこだろうか。あたしは、その時間に交わした雑談とそれに応じるア ルマの表情から、四日前の煙草の件について彼女は一切気にかけていないと判断した。煙 草どころか、それに関する話題すら出てこない。  ……まあ喫った喫わない程度のことでぐだぐだと悩んでいたあたしのほうがおかしかっ たってことだ。今日までの四日間が無為に思えてしかたないし、杏里との過激な特訓 も完全に水の泡だけど、アルマと揉めずに済んだのならそれが最高の結末だ。  肩の荷が下りると途端に腹が減る。重圧が逃れるとたちまち胃が自己主張を始める。給 仕にダイエットコーラとなにか食いでのあるメニューをキッチンのお任せで注文したとき、 あたしは上機嫌のあまり一緒にワインすら頼みそうになっていた。……いや、さすがに控 えたけどさ。飲みたかったんだよ。  しばらく待つと、アルマのためのティーセットとあたしのダイエットコーラが運ばれて きた。殊勝なことに、カップはあたしの分まで用意されている。 「食前になってしまいますが、ニコルさんもご一緒しませんか」 「もちろん頂くよ。や、悪いね」  ポットの中でお茶が蒸れるのを待ってから、給仕が慣れた手つきで飴色の液体をカップ に注ぎ込む。朝はストレートで飲むのが北欧紅茶の流儀らしい。このセーデルブレンドっ てお茶は、アルマと一緒にもう何度も飲んでいるから、楽しみ方も一応は心得ている。南 スウェーデンの花と果物の風味に心を溶かしながら、あたしはカップに口をつけた。 「それで、ニコルさん。煙草のことなんですけど―――」 「ぶふっ」  しっかり覚えてるのかい!  ……あーあ、真っ白なテーブルクロスに飴色の斑点が。月曜日の始まりから早速汚すな んて、あたしはメイドの敵だな。次の掃除のとき、どんな嫌がらせをされることやら。 「えーと、あ、アルマ?」 「四日前のことです」  それはもちろん分かっている。 「煙草のことです」  それも分かっているんだけどな……。  アルマは決然とした口調で言葉を紡ぎ、表情もいつもの温厚さが消し飛んで「きりっ」 としている。こういう凛々しい風格を称えたアルマには、あたしはとても敵わない。  ていうか、そんなに怒っているんですか? 「あ、あたしもそのことでアルマに説明しなくちゃいけないなと思っていたんだぜ?」  もう完全に終わったことだと早とちりしていたけどさ。 「そうですか」  と、アルマは頷く。 「でも、わたくしの話を先に聞いてください」  アルマが自分を優先させるなんて! こ、これってかなり本気じゃないか? お嬢様の あまりの迫力に、あたしは「シー」と答えることしかできなかった。  そこでアルマの表情に翳りが走る。 「ニコルさんは、お煙草を吸っていらっしゃったんですね……」 「う、うん。ほんとにたまにね」  それも過去の話だ。杏里のお陰であたしは煙草なしでも生けていける躯になった。そう いう風に改造させられたんだ。だからもう、アルマが心を痛める理由なんてどこにもない。 「まさかニコルさんが紙巻き煙草を吸っていたなんて……」  え、そこが問題なの? 紙巻きだから駄目なの? 「私、紙巻き煙草がどういうものか、お父様から聞いています」 「……あー、ちょっと待って」 「はい?」  アルマはきょとんと首を傾げる。  この流れ、アルマと知り合ってから今日まで何十回経験しただろうなぁ。 「確認したいんだけど、アルマのお父さんって嫌煙家?」 「いえ、愛煙家ですわ。葉巻が大好きで、コレクションまでしていらっしゃいます。だか ら最近の北欧の禁煙ブームにはかなり憤慨しているようです」 「葉巻しか吸わないのかい」 「はい。紙巻き煙草を吸うかたは味音痴か自殺志願者だけだって。ストックホルムの街を 歩いていても、路上喫煙しているひとをまったく見ないのは、スウェーデン人の精神が健 全なせいであり、逆に紙巻き煙草を吸っているひとが至る所で見受けられる国は、それだ け病んでいる証拠だと教えてくれました」  なんだその理屈は。間違っているのか正しいのかすらよく分からない。というか、なん で紙巻き煙草限定なんだよ。葉巻は煙を吸い込まないから躯に悪くないってか? 「……ま、あんたの親父が葉巻を愛しているということだけは分かったよ」 「わたくし、ニコルさんが自殺を望むほど思い詰めているなんて考えもしませんでしたわ。 ……いえ、違いますね。ニコルさんが悪いんじゃありません。紙巻き煙草が、ニコルさん の絶望感を拡大させているんです。紙巻き煙草が諸悪の根源なんです。だから私、ニコル さんになんとか紙巻き煙草をやめてもらう方法は無いのかってずっと考えていまして、そ れでこんなに時間がかかってしまって―――」 「あー、アルマ? そのことなら、あたしはもう大丈夫だから―――」  アルマはあたしの話なんて聞こうともせず、思い詰めた表情のままテーブルの上に身を 乗り出した。ずい、とあたしに顔を近づける。畢竟、あたしは引いた姿勢になるわけだ。 「それでわたくし、ソヨンさんに相談したのです!」 「はぁ?」  なんでそこでソヨンの名前が出てくるんだ?! ていうか、あたしが喫煙者だってこと 知ってるやつは少ないんだから、あんまり言いふらさないで欲しいっていうか……よりに もよってソヨンかよっていうかごにょごにょごにょ。 「お煙草というのは依存症を誘発するため、やめるときに大変な苦しみを伴うと聞いてい ます。その苦痛を少しでも和らげるために、煙草の代替となるものに頼るときもあるんで すとか。それで、どういうものが代替品に相応しいかをソヨンさんに相談したのです」 「へー、ソヨンにねえ。ふーん」  もはや棒読みしかできない。だってソヨンだぜ?  よりにもよってこのタイミングで給仕が、あたしが注文した朝食を持ってきた。これは ペンネアラビアータかな。まぁ、あり合わせの材料で手早く作れるメニューなんてパスタ ぐらいだろう。夏野菜がごろごろと入っていてなかなか食いでがありそうだけど、生憎と あたしの食欲は減衰の一途を辿っている。それでもフォークで茄子を突っついたりするん だけど、口に入れる気分にはどうしてもなれなかった。  その間にも、アルマの語り口は熱くなる一方だ。 「ニコルさん!」  アルマは更にぐぐいと身を乗り出して、あたしの鼻先をびしりと指さした。あまりに近 いせいで、あたしは背中を背もたれにぴったりとくっつけざるを得なくなる。 「ニコルさん!」  更に指が鋭く突き出された。今にも刺し貫かれそうだ。 「ニコルさん! ……ニコルさん!」  ……え、続かないの? 「な、なに?」  まさか指をさされて名前を呼ばれるだけで終わるとは思わなかったから、そうとしか尋 ねようがない。 「ニコルさん、これです。これなのですわ」  急かすようにアルマは言った。指さすポーズを維持するのはけっこう疲れるらしい。 「これって?」 「だから、指です」 「アルマの?」 「ええ、わたくしの」 「……」  ―――なんだこの既視感。あたしはまったく同じシチュエーションを、十七時間ぐらい 前に体験しているような気がするんだが。  ソヨンはいったい、アルマにどんな解決策を提示したんだ。アルマが言う代替品≠チ てなんなんだ。……いや、聞くまでもない。聞きたくもない。やめろ、やめてくれ。 「私の指が、ニコルさんの絶望を食い止める城壁となるのだと―――そう、ソヨンさんは おっしゃってくれました」  あたしは静かにフォークを置いた。  カフェチェアの背もたれに全体重を預けて、脱力した姿勢のまま空を仰ぐ。「に、ニコ ルさん?」と不安げな声が、空の下からこぼれた。  杏里は自分の人さし指こそがあたしの口のかけがえのない友人だと確信していたようだ けど、どうやらそういういかれた発想ができるのはこの船にひとりだけじゃなかったらし い。まったく、ソヨンは大したやつだよ。それにしても……いや、まいったね。ここに来 て、まさか新しい友人≠ェできるなんて。なんか、煙草を吸っていた頃よりよっぽど不 健康(もとい不健全)な気がするんだけど、これはあたしの錯覚なのかそうなのか。  あたしは朝焼けの空を見上げたままぼやいた。 「禁煙、やめようかね……」  そうしてあたしは意識を地上(てか海上)に戻すと、アルマが用意してくれた二人目の 友人≠ノ、昨晩の特訓≠フ成果を見せてやることにした。  ソヨンの期待通りに。それ以上に、杏里の期待通りに。  アルマの指も、悪くはなかった。  THE END 【なんかもう色々とあれな後日談】 杏里 「ああ、もう駄目だ!」 ソヨン 「あ、杏里さん?! どうしたんですか、杏里さん! しっかりしてください!」 杏里 「ソヨン、ボクはもう駄目だよ……」 ソヨン 「そんなのイヤです! なにがあったんですか、杏里さん!」 杏里 「実は、キミのために禁煙を始めたんだけど……その禁断症状がついに、ボクの魂の最後 の聖域を蝕み始めたんだ。今日まで長いこと堪え忍んできたけど、どうやら限界みたいだ。 ありがとう、ソヨン。キミのために命を燃やすことができてボクは幸せだ」 ソヨン 「あ、あたしのために? 杏里さんがあたしのために―――」 杏里 「そうだよ、キミのためにやめたんだ。喜んでくれる……よね?」 ソヨン 「でも、これでお別れなんてあたしイヤですよ! ずっと杏里さんと一緒にいたいです!」 杏里 「ああ、ボクはほんとに幸せものだ。最期に、キミから斯くまで愛されていることを確か められるなんて。……でもね、ソヨン。ボクは煙草をやめた代償として、親指を噛まず にはいられない病気≠ノ発症してしまったんだ。いつでもどこでも、ちゅぱちゅぱかじか じと自分の親指の爪を噛んでいるのさ。間抜け極まりないだろう? そんなかっこ悪い病 気と付き合うぐらいなら、死んだほうがマシさ。だからボクは死ぬんだ!」 ソヨン 「そんな! 大丈夫です。親指をしゃぶっている杏里さんもかわいいと思います!」 杏里 「え、ほんと? ……って、駄目だよ。かわいいのはソヨンだけで充分だ。ボクは潔くて かっこ良くて凛々しくてみんなの憧れの王子様な杏里・アンリエットでいたいんだ。どこ の世界に、親指をしゃぶりながらガラスの靴を履かせたり、塔から身を投げて失明したり する王子様がいるのさ」 ソヨン 「駄目ですか?」 杏里 「駄目だよ、さすがに」 ソヨン 「でもでも、このままじゃ杏里さんが―――」 杏里 「そう、ボクは死ぬ!」 ソヨン 「ああ、どうにかしないと。……そうだ! 杏里さん、指をしゃぶらずにはいられないの なら、あたしの指をしゃぶってください。あたしの指で杏里さんを救えるのなら、何本だ ってしゃぶっていいです。大放出です!」 杏里 「ほんとかい? ソヨン、ほんとにキミの指をしゃぶってもいいのかい?」 ソヨン 「もちろんです。遠慮せずにたくさんどうぞ」 杏里 「い、いや、一本で充分だよ。じゃあ人さし指から賞玩しようかな。わあ、これで助かっ たぞ。あむ……れろれろれろ」 ソヨン 「あ、杏里さん。舌の動きがなんかエッチですよ」 杏里 「そうかい? こっちのほうがよかったかな。……ちゅっちゅっちゅっ」 ソヨン 「杏里さん、くすぐったい! くすぐったいです! きゃはははは!」 杏里 「え、そこで笑っちゃうの? ちょっとショックだなぁ。まだまだ開発の余地あり、か。 じゃあ、これなんかはどうだろ。……ちゅぱちゅぱちゅぱ」 ソヨン 「ん、くすぐったいけど……なんかぞくぞくします」 杏里 「なるほどなるほど、これは今後のための勉強になるね。ところでどうだい、ソヨン。キ ミも一本いってみないかい? ボクの小指をキミに捧げるよ」 ソヨン 「良いんですか? あたし、禁断症状なんて出てませんけど」 杏里 「ほんとはいけないんだけどね。今夜はとても、キミに指をしゃぶってもらいたい気分な んだ。だから二人っきりの秘密ということで、ぱくりといっておくれよ」 ソヨン 「ありがとうございます! じゃあ早速―――がぶ」 杏里 「ぐえ」 ソヨン 「あ、ごめんなさい! あたしったら、つい歯を立てちゃいました」 杏里 「い、いや、大丈夫だよ。こういうワイルドな刺激も嫌いじゃない」 ソヨン 「じゅーじゅーじゅー」 杏里 「お、いい感じだね。どうだい、お味のほうは?」 ソヨン 「おいしいです! とってもおいしいですよ、杏里さん。これなら一晩中だってしゃぶり 続けていられそうです」 杏里 「それは魅力的な提案だ」 ソヨン 「杏里さんこそ、あたしの人さし指はどうでした?」 杏里 「とっても官能的だったよ。お代わりがしたくなるね」 ソヨン 「どうぞどうぞ、まだ他に十九本もあるんですから。それで、味のほうは?」 杏里 「ああ、キムチの味がした」 ソヨン 「ほんとですか? 嬉しいです!」 ニコル 「いや、嬉しいのかよ」 (二人にとってだけ)めでたしめでたし