これは、もうひとつの零姫のお話。  彼女がクーロンに転生するより、ひとつ前のお話。  零姫とアセルスの終わりなき因縁の、ほんの一幕。  二人の妖魔公がもっとも烈しく戦っていた時代のお話。                 *  *  *  *  リージョン・ムスペルニブルの天候は、ヴァジュイールが支配しているという。飛び抜 けて強大な魔力は天道にまで干渉し、思うがままに空の流れを操るのだ。  ―――この伝説を聞き知っていたアセルスは、灰色に濁った曇天に更なる暗い翳りが走 ったとき、即座に襲撃の予兆を察知した。  不純を司る二角獣―――漆黒の愛馬バイコーンの手綱を引き、自分に続く騎馬隊の面々 に警戒を呼びかける。バイコーンが銀色のたてがみを燃え上がらせて嘶くと、魔性を伴う 高圧の言霊が兵士たちの精神に直接危険を訴えた。歴戦の勇士たちの顔に緊張が走る。見 上げると、天蓋は尋常ではない勢いで闇の帳に隠されようとしていた。 「アセルス様」  軍馬にまたがるラスタバンが、アセルスの横に並んだ。 「来ますか」 「来るな」  アセルスは自分の参謀には視線を向けず、剣呑な空を睨んだまま言った。 「攪乱や足止めなどといった、生ぬるい攻撃ではないだろう。この雲の流れの速さ……す ぐにでも始まるぞ。大隊の進軍を止める暇はないし、止めるわけにもいかん。一度足を止 めてしまったら、あれを動かすには一日がかりだ。このまま迎え撃つぞ」 「狙いはアセルス様です。ここは危険です。後方にお下がりください。重装騎兵が、アセ ルス様の盾となります」  ふん、とアセルスは鼻を鳴らした。あんな着膨れた兵種を引き連れては、バイコーン自 慢の脚力が死んでしまう。この参謀は、敵地にあってなぜアセルスが鎧を着ようとしない のか理解していない。……いや、理解した上で頑なに拒否しているのか。 「狙いは砲だ。私が遊撃の刃となって、個々に迎撃する」 「アセルス様!」 「砲を潰されては戦に負ける」 「アセルス様が死ねば、ファシナトゥールが滅びます」  ラスタバンの諫言を無視して、アセルスはぐいと手綱を引っ張った。バイコーンの前脚 が持ち上がる。妖魔公の口端に意地の悪い笑みが浮かんだ。 「そんなに大事ならば、命に替えても守ってみせろ」  ただし追いつけたらの話だがな。アセルスは竿立ちになった愛馬を巧みに操って、馬体 を反転させた。軍列を外れたバイコーンは、整地のされていない野道を進軍方向とは真逆 に走り始める。ラスタバンは言葉にならない呻きを唱えると、軽率極まりない行動をとる 総大将の背中を指さした。 「親衛隊! ユサール小隊はアセルス様に続け。絶対に振り切られるな。ドルマンの小隊 はその予備につけ。他の部隊は警戒待機。周辺への注意を怠るな!」  ラスタバンの指示が的確ならば、それに呼応する親衛隊の動きも的確だった。最速の機 動力を誇る軽装騎兵の小隊は、素早く陣形を構築してアセルスの背面についた。  ―――と同時に、分厚い暗雲に覆われた空が、ついに攻撃≠開始する。  一千万の弓兵による総攻撃が始まったのかと錯覚するような豪雨が、親衛隊と砲兵独立 大隊で構成される一千三百の軍列に襲いかかった。  気を抜けばたちまち馬上から弾き飛ばされそうな、横殴りの雨。あまりにも激しすぎて 正面を向くことすら難しい。視界はゼロに等しかった。衣服は強制的に洗濯され、水分を 吸って鉛のように重くなる。土は泥となり、足場を不安にさせた。  熱帯のリージョンでも、ここまで凄烈に雨が降ることはないだろう。ましてリージョン ・ムスペルニブルは寒冷地域であり、アセルスたちが進む場所は岩肌を剥き出しにした寂 寥の山岳地帯だ。強風を伴う豪雨とは、あまりに似つかわしくない。  ……やはり、ヴァジュイールの伝説は本当であったか。  アセルスが大軍を引き連れてムスペルニブルに攻め入ってから暫く経つが、不快にして 理不尽な気候の気まぐれが、ヴァジュイールの軍を味方することが今までも幾度かあった。  幸運と呼ぶには都合がよすぎる。この豪雨でアセルスの疑惑は確信に変わった。ヴァジ ュイールは真実、天候を操作するのだ。嵐を呼び、雹の槍を降らせるのだ。なんと桁外れ な魔力か。ムスペルニブルにあってヴァジュイールの力は神に等しい。 「だが、空を泣かせた程度でこのアセルスは止められんぞ!」  暴雨の壁がアセルスを遮る。だが、バイコーンは雨粒の矢を一万も十万も浴びようと疾 走を止めようとせず、それどころか強靱な黒檀の足が山道を蹴り付ける度に速力は増し、 豪雨に逆らう一陣の風となりつつあった。  アセルスは濡れ髪をかきあげて、前方を注視する。独立砲兵大隊が擁する十二門の攻城 砲のうち、いちばん先頭を進むクニークルス≠ニウルペース≠ェ見えてきた。   馬上の人であるアセルスですら、近付いて見上げなければ全容を掴めないほど巨大な大 砲。水牛の魔獣が二十匹がかりで曳いているが、それでも力が足りないらしく、ミノタウ ロスやゴートギガースなど、怪力自慢で構成された砲兵たちが巨砲を後ろから押している。 彼等も必死だが、進みは芳しくない。荒れ狂う暴雨の跳梁が砲兵部隊の進軍を阻んでいた。 瞼すら開くことが困難な猛雨の中を、進めと命令するほうが無茶だ。  風に煽られ、巨砲が転倒するようなことになれば立て直すのに数時間はかかる。大隊の 砲兵たちは雨中の巨砲のご機嫌とりに必死で、周囲への注意は完全に忘れていた。砲の護 衛のために配備された親衛隊の上級妖兵は、最精鋭だけあって全身濡れ鼠となっても警戒 を怠っていないが、いかんせん数が少なすぎる。一騎当千と怖れられる親衛隊と言えども、 この悪天候に襲撃を重ねられれば苦戦は必死。そこを付け入られて砲を破壊されれば、ア セルスの負けだ。  このゲームの勝利条件は、十二門の攻城砲を無傷で最前線まで護送すること。だからヴ ァジュイールも、妙手を凝らして砲を潰しにかかる。 クニークルス≠ニウルペース≠フ二門を曳く中隊に近付きながら、アセルスは襲撃の 瞬間を覚悟した。顔面に雨粒が直撃するのも厭わず、正面を直視する。  どこだ。奴等は、どこから来る。  斥候と偵察を兼ねて、空には飛翔能力を有した妖魔が何十匹も飛び回っている。山岳地帯 と言えども、緩急がなだらかで視界がきくこの地理では不意打ちは不可能―――と思われた が、それもこの豪雨が覆してしまった。この雨とこの風では、空の連中は一匹たりとも無事 に済んではいまい。アセルスの軍列はいま、丸裸も同然だ。  ―――攻撃は予想通り、側面から来た。 「アセルス様!」  追従する騎兵の叫びが耳に届く頃には、アセルスもその変化≠ノは気付いていた。  山道から外れた岩石地帯。寂寞の風景がどこまでも続く裸の大地に、影が蠢く。民家二軒 分はありそうな巨大な岩が暴風に押されてぐらりと揺れたかと思うと、次の瞬間、あろうこ とか立ち上がった≠フだ。天を衝くほどの巨人が数秒で生成される。巨人は四肢を鱗のよ うに細かい岩で構築し、地響きを立てながら攻城砲を擁する砲兵の集団に歩み寄った。 「アースゴーレム!」  魔術で駆動する人形だ。自由意思を持たない変わりに、命令には愚直に従う。「砲を破壊 せよ」と命ぜられれば、雑兵などには目もくれずに砲を目指すだろう。  これもヴァジュイールの魔術なのか。奴はもはや用兵すら必要とせず、自然物、無機物か ら思うがままに兵を生み出すことができるのか。感嘆と屈辱を同時に覚えつつ、アセルスは バイコーンの馬体に拍車をかけた。漆黒の巨馬が一気に加速する。空気の壁をぶち抜き、一 個の弾丸となってアセルスはゴーレムに急接近した。  躯が馴染んでいないのか、ゴーレムの動きは鈍重だ。バイコーンの足ならば、この不細工 な岩人形が生まれ落ちて初めての一歩を踏み締めるより疾く肉薄できるだろう。……が、そ の先はどうする。肩に背負った月下美人を抜き払ったところで、急所を持たない人形相手に は効果が薄い。岩石のどこを斬り捨てようが、岩は岩のままだ。  ―――気は進まないが、仕方ない。  アセルスは忌々しそうに口元を歪めると、左手の人さし指を犬歯で軽く噛んだ。舌を舐め る鉄の味。傷口と自らの血を媒介に、己の心象風景を現実に侵食させる。  ヴァジュイールの領地では思うように現実と夢現の境界線をいじれない。支配率は精々一 厘といったところか。―――我が魔剣を呼び出すには充分すぎる数値だ。  アセルスの左手が宙空に伸びた。大気しかないはずの空間。だが、彼女の指先が絡めたの は華美な装飾が施された剣の柄だった。ずるりと、虚無から赤黒い刀身が露わになる。  ―――魔剣幻魔=B  月下美人と対を為す、妖魔公アセルスの愛剣である。  幻魔はアセルスの生命力の結晶。即ち、彼女の内なる世界が剣のかたちをとって現実に顕 現したのである。故に定石に縛られず、故に無限の可能性を持つ。正しく渾沌の刃だ。  幻魔はアセルスの意思に則って、自由自在にかたちを変える。精緻な魔力の調整によって、 幻魔の禍々しくも優美なフォルムは細く長く先細り、そこから灼熱の炎が溢れ出す。  炎槍ヴォルケイトス―――アセルスがイメージさえできれば、幻魔はあらゆる魔剣・神剣 をコピーできる。剣のかたちに縛られず、このように長槍に変形することも可能だった。  左手一本で器用に幻魔/ヴォルケイトスを構え、ゴーレムに立ち向かう。バイコーンが地 面を蹴り抜き、正面から突撃した。ゴーレムは腕を薙ぎ払って進路を阻む。土石流の如き迫 力だが、いかんせん動きが鈍重だ。バイコーンはゴーレムの巨腕に飛び乗ると、そのまま岩 の体躯を地面に見立て、躰の中心部に向けて疾走した。  騎馬一体となったランス・チャージにより、ゴーレムの胸部が穿ち抜かれ、炎が全身を包 む。これが物理的な攻撃だけであれば、ゴーレムは灼熱を物ともせずバイコーンを馬上の妖 魔公ごと振り落としたろうが、幻魔/ヴォルケイトスは妖魔アセルスの化身。穿たれた疵口 から浸蝕する彼女の魔力によって、たちまちヴァジュイールの支配は揺らぎ、無機物を駆動 させる魔術情報は混乱の末に霧散する。ゴーレムは元の石くれへと戻った。  巨人を一瞬で撃滅した戦果により、嵐の渦中であるにも関わらず砲兵の間で歓声が走る。 アセルスはそれを当然のように受け止めたが、注意はまったく別の方角を向いていた。軍列 を挟むかたちで、周囲の岩石地帯からさらに二体三体とゴーレムが生み出されてゆく。  この調子なら、二十や三十は簡単に生成されてしまいそうだ。そのサイズを考えれば、一 軍に匹敵する戦力である。どうやらヴァジュイールは、十二門の砲に均等に兵を送り込むの ではなく、一問一問確実に潰してゆく戦術を選んだようだ。あるいはついでに敵の大将まで 血祭りにあげようと考えているのか。  これはアセルスにとっても都合がよかった。戦力が一門の砲に集中するということは戦場 が限定されているということ。縦に長く伸びた砲兵大隊と十二門の砲すべてを護らずとも、 この場だけを護りきれば急場はしのげる。例え一体や二体、他の砲にゴーレムが襲いかかろ うとも、親衛隊ならば退けるぐらいの働きはできるはずだ。  豪雨の勢いは緩める気配を見せず、雨滴の弾丸は容赦なくアセルスを叩くが、燃え盛る幻 魔/ヴォルケイトスを片手に漆黒の馬に跨る彼女は、己の力と勝利と絶対的に確信していた。  それはゴーレムに囲まれた砲兵中隊と親衛隊の面々も同様だ。勝利を疑うには、敗北に脅 えるには、彼等の君主はあまりに美しく、あまりに凜として、戦場に立ちすぎていた。                 *  *  *  *  六時間後。  鬼神の働きで三十二体のゴーレムを全滅せしめたアセルスと砲兵大隊、そして十二門の 攻城砲は、ついに岩石地帯を突破して、最前線との中継点となる師団駐屯地に到着した。  攻城砲を護りきるという目的は遂行した。大部隊との合流を果たした以上、最前線に砲 を運ぶことは、そこまでの困難ではない。これでヴァジュイールの居城への進路を阻む、 あの厄介なベラトリックス城塞も陥落することだろう。勝利が見えてきた。  豪雨に揉まれ、ゴーレムとの熾烈な戦闘を切り抜けたことにより、アセルスは疲労の極 みに達していた。夜会衣装の如くきらびやかだった戦闘装束も、いまは無残な体をさらし、 まるでぼろ切れのようだ。一秒でも疾く湯浴みをしたいと思う反面、現在のこの濁った空 模様がいつまた豪雨に――あるいはよりたちの悪い雷雨に――豹変するか分からない以上、 警戒態勢を解けないというジレンマもあった。ムスペルニブルにおける天候の変化はすべ てヴァジュイールの攻撃だとアセルスは見なすようにしていた。  砲兵大隊を警護していたときとは違い、師団駐屯地の守りは万全だ。かりそめの野営地 ではあるが、嵐に襲われた程度で混乱したりはしない。だから、休息を取るならいましか ないと分かっているのだが、アセルスの武人としての気性がそれを許してくれなぁった。  いざ戦闘が始まれば、真っ先に自分が陣頭に立たなければ。それが妖魔公としての己の 務めだ、とアセルスは頑なに信じている。さらに言うなら、さっさと攻城砲を最前線に輸 送してヴァジュイールの居城までの血路を開くまでは、休息など取れようものかとすら考 えている。オルロワージュ無きいま、ヴァジュイールだけが唯一最大の敵だ。  バイコーンから降りたアセルスは、君主のために張られた大天幕にはあえて入らず、他 の待機中の兵に混じって駐屯地の散策を始めた。  泥と雨、そして自らの血で汚れきったこの格好では、誰も彼女が総大将アセルスだとは 気付かない。そうでなくても小娘然とした年格好なのだ。彼女には他者を威圧する君主の 風格というものが欠けていた。―――そして、そんなものは必要ないとすら考えていた。  私はただ凛々しく、気高く、美しくさえあればいい。  駐屯地には数万規模の妖魔兵や魔獣が留まっている。その兵種は様々で、種族も上級妖 魔から下級妖魔まで雑多極まる。軍隊≠ニいうコミュニティでなければたちまち瓦解す るであろう渾沌の野営地。それ故に活気に溢れ、喧噪が夜空に谺する。  警戒という名目の散歩でアセルスの目に入ったのは、妖魔兵と戦争から金の臭いを嗅ぎ 取り、羽虫の如く集まった輜重隊の広場だった。 隊≠ニいっても後方の兵站を請け負う部隊というわけではなく、勝手にファシナトゥー ルの軍列のあとに続いてきた商売人たちの一行だ。彼等は家族も家財道具もすべて持ち出 し、自らの生活を賭けて戦争に挑む。兵隊と違うのは、彼等が戦う場所は戦場ではなく、 駐屯地や野営地といった兵士たちが休息を取る場所というところだ。  食料を欲しがる兵には食料をあてがい、女が欲しい兵には女を当てがう。駐屯地には下 級妖魔の傭兵部隊も大勢いる。彼等は戦場ごとに給金が支払われるため、懐が潤っている。 そして、次の戦場を生きて帰れるか分からないため、さっさと遊んで、さっさと使い切り たがっていた。そういった散財の手助けをしてやりたいと商人たちは考えているのだ。  同じ妖魔軍でも、ファシナトゥール勤めの正規軍などは絶対に寄りつこうとしない、よ く言えば生命力に満ちた、悪く言えば底辺の妖魔が集まる場所だった。  アセルスは疲れた躰を引きずって、屋台街の体を為す輜重隊の広場を歩いた。彼女の本 能がそうさせるのか。足は自然と、春を売る店が集合した一角へと誘われてしまう。  幌馬車が所狭しと密集し、狭い場所に無理矢理張った天幕が傾いている。中ではいった いどんな行為が行われているのやら。半人半獣の娼婦に袖を引かれた回数は数知れず。そ の度にアセルスは窒息しそうなほどの汗の臭いに顔を歪めた。  ―――なんとも獣じみた場所だな。  あまりに不潔さに目眩さえ覚える。同じ行為でも、それを行う者の品位によってこうも 印象が変わるものなのか。  ここは自分がいていい場所ではない。そう覚ったアセルスは、しつこく腕を組もうとす る娼婦を引き剥がし、踵を返した。  その瞬間。  唐突に、腹部に痛みを覚えた。まるで刃に刺されたかのようだが、外的な負傷による痛 みとは違う。もっと鋭く、しかし鈍く―――そして深い。あえて似たもの探すなら、まだ 自分が人間であったときに悩まされていた月経の痛みのような。  生殖機能を持たないアセルスが、この痛みを覚えるとき。それは、自分の中に流れる血 が騒いでいるときだけだ。血と血が共鳴して沸き立っているときだ。  この近くに、自分と同じ血族がいる。  しかし、オルロワージュは斃れ、彼が飼っていた寵姫の悉くはアセルス自ら硝子の棺桶 に封印した。オルロワージュの血族は彼女ただひとりのはずだ。  ―――いや、違う。そうじゃない。  例外がひとりだけ、存在する。  オルロワージュを打ち倒したアセルスとは別の方法で自由を勝ち取った彼女なら。主人 への逆吸血によって血の縛りから解放された彼女なら。  先代の、始まりの寵姫ならば。  ……零姫ならば。 「そうか、おまえなのか」  アセルスの口元に狂喜が浮かぶ。脇に立っていた半獣の娼婦が思わず竦んでしまうほど の笑み。妖魔の君はくつくつと肩を震わせて嗤った。  そうだ、そうだったな―――。  宿敵はヴァジュイールだけではない。征服すべきはムスペルニブルだけではない。  なんという幸運だろうか。なんという不運だろうか。逆吸血によってオルロワージュの 血盟から逃れた彼女の血は薄い。よほどに接近していなければまず共鳴はしない。輜重隊 の広場どころか、この売春窟のどこかにいるはずだ。  アセルスがもし大人しく大天幕で躰を休めていたら。アセルスがもし駐屯地の散策をし ようだなんて思わなければ。―――この再会は果たされなかった。 「……運命は常に戯れによって回っている」  共鳴だけでは近くにいる≠ニいうことしか分からない。だが、それさえ分かればアセ ルスには充分だ。手当たり次第に幌馬車や天幕のカーテンを破って、それらしい女の姿を 探す。唐突に寝床を荒らされ、愉しみを奪われた無頼の傭兵たちは侮られてはたまるかア セルスの胸ぐらを掴んで抵抗をするが、いかんせん相手が悪い。彼女も自軍の戦力を削っ てヴァジュイールに利するような愚かな真似はしないが、それでも腕の一本や二本は躊躇 なく叩き折った。  喧噪が悲鳴に変わる。ほうほうのていで乱入者の暴力から逃げ出した娼婦や傭兵は、し かし売春窟の外へと脱出することは叶わない。  いつの間にか親衛隊の面々が売春窟を包囲していた。蟻の子一匹ピグミー一匹見逃すま いと厳しい眼光を巡らす。  五つほど幌馬車と天幕を荒らしたあとで、アセルスは天幕―――というより、ろくに洗 濯もしていない布きれを合わせて屋根にしただけのスペースに行き着いた。  とうに逃げ去ってしまったのだろう。主人の姿も客の姿も見当たらない。天幕には、痩 せ細った少女がひとりいるだけだ。  もう何週間も風呂に入っていないだろう。垢まみれの上、体臭もきつい。が、間違いな く上物だった。磨けば光るなどという生ぬるいものではない。ゴミ同然の生活を強いられ てもなお輝きを鈍らせようとしない可憐さ。  少女は見る限り、人間のようだった。年は十二か十三。初潮を迎えてまだ間もないとい ったところか。  切る術を持たないという理由だけで伸ばしたであろう銀髪は腰まで達し、意思の光が見 えない瞳は蒼く済んでいる。あの寵姫の面影は……ない。覚醒はまだしていないようだ。  こういう境遇に置かれた子供にはままあることなのだろうが、どうやら感情が死にかけ ているようだ。唐突に天幕に押し入ってきたアセルスを前にして、ろくな反応を示さない。 ただぼんやりとその瑠璃色の瞳で見上げてくるだけだ。  ―――哀れなものだな。だが、同情はせん。  アセルスは確信した。間違いなく彼女だ、と。  根拠は腹部の痛みと、こんな最下層の売春窟にあるまじき少女の美しさ。あの寵姫の転 生の運命として、必ずひとを惑わすほど蠱惑的な容姿に育つというものがある。  幼くして心を凍えさせるほど美しい娘など滅多にいない。血の疼きが示す通り、彼女こ そが―――彼女こそが――― 「久しぶりだな、零姫よ」  アセルスは銀髪の少女の手首を掴むと、強引に立ち上がらせた。 「覚悟しろ。そして悦べ。今日から貴様は、私のものだ」                                  Prologue 完