サフィズムの幻想 初夏の特別シナリオ       『フィーネ・プリマヴェーラ さよならイゾルデ!』                  上編 「―――ねえ、知ってる? ニコルが、天京院センパイの部屋を不法占拠したんだって」    学園生活最後の日にもたらされるニュースとして、それは不適切のように思われた。  だが、イゾルデは特に不快を表情には出さなかった。僅かに目を細めた程度だ。  彼女にとって秩序は何より重んずべきもので、例え今日が最後になろうと、三年間保た れ続けた調和――オープンカフェでの朝食――を崩すつもりは微塵もない。 「ねえ……聞いてる?」  情報のは運び手は、イゾルデの傍らに立ったまま不安げに声を投げる。 「なぜだ」短く問うた。 「……え? なぜって」 「どうして―――」  少女は慌てて用意した言葉を引き出した。 「そ、卒業させたくないんだって。学園に残って欲しいんだって。バっカだよね。サード になったら、あとは卒業するしかないのに。そんなの当たり前の話なのに。寂しいから、 卒業しないでくれって、そんなの子供のやることだよ」 「違う」  カプチーノ・カップをソーサーに戻すと、橙色の瞳で睨め付けた。柔らかそうな金髪が、 イゾルデの放つ圧力にぶるりと震える。 「ルネ・ロスチャイルド。私が尋ねているのは、なぜお前がここに来たのかということだ」  購買部通りのオープンカフェで、早めの朝食をとるのがイゾルデ・メディチの日課だ。  開店と同時に足を運び、焼き立てのクロワッサンとカプチーノをゆっくりと楽しむ。  これこそ伝統的なコンチネンタルスタイル―――イタリア人としての矜持を満たす、 簡素ながらも風情ある朝食風景だ。朝からゆで卵やトースト、シリアルを口に放り込む ような奴はイタリア人ではない。イゾルデはそう信じていた。  三年間続けられた習慣―――『あの日』から苛まれ続けた悪夢が失せ、安眠を取り戻そ うと、狂うことはない。ついにイゾルデは、一分も遅れることなく最後の日まで、午前 六時きっかりに朝食を取り続けた。  ルネをイレギュラーと認めたのは、彼女が編入してから四ヶ月、一度だってイゾルデと 朝食をともにしたことなど無かったからだ。授業開始時刻ぎりぎりにカフェに駆け込んで くる少女が、なぜ今日に限って二番目の客になっているのか。夜更けまでテレビゲームに 遊び呆けているような生活サイクルの少女が起きられる時間ではないし、今日は授業も 無いのだから、起きる必要すらない。 「……いちゃ、駄目だった?」  恐る恐るルネは問い返す。 「そうは言っていない。理由が知りたいだけだ」 「だって、今日で……」  イズーとお別れだから。ぼそりと呟いた。 「最後ぐらい一緒に朝ご飯を食べたかったんだ」 「私は拒んだつもりはない。ただお前が起きられなかっただけだ」 「そ、そうだけど! ……だから、昨日は早く寝たんだよ」  イゾルデは、テーブルを挟んで向かいの席を指差した。ルネの顔がぱっと晴れ渡る。 「いひひっ」と笑うと、カフェチェアーに飛び乗った。  給仕に「イズーと同じの!」と満面の笑みで注文すると、イゾルデに向き直って、 「なにを食べているの?」と質問する。 「見ての通りだ」 「パンとコーヒーだけ?」 「それが正しい朝食だ」  えー、とルネは口を尖らせる。 「クロワッサンはオーストリア生まれだろう」 「あたし、オーストリア人じゃないよ」  案の定、運ばれてきたカプチーノは彼女には苦すぎたし、クロワッサンはバターすら 添えられていなかった。なんと味気ない朝食だろうか。ルネはチーズやヨーグルトを追加 注文しようか迷ったが、今日はイゾルデに最後まで付き合うんだと決意したことを思い 出し、我慢することにした。  イゾルデは特にルネに注意を払うこともなく、いつものようにゆっくりと朝の時間を 満喫した。もう五月も終わるというのに、潮を孕んだ風は相変わらず冷たい。  冷気は緊張を促す。実に心地よい風だった。門出の朝に相応しい。  さっさとクロワッサンを片付けてしまったルネは、エスプレッソと呼んでも差し支えが ないほど微量のスチームミルクが加えられただけのカプチーノに挑戦している。  ついばむように口に含んでは「うへえ」と表情に苦味を走らせる。 「……驚かないんだね」 「何がだ」 「ニコルのこと。立て籠もりのこと。すっごくバカなこと!」 「ああ……」  その話ならイゾルデはとっくに知っていた。先日まで寮管理委員に所属し、右舷上層寮 (つまりはサードクラス宿舎)の寮長を務めていたのだ。知らないはずがなかった。セカ ンドクラスのヘレナ・ブルリューカを召喚し、大体の事情も聞いている。前代未聞の事件 だが「生徒間個人の問題」ということで今は落ち着きを見せている。無事寮長を引退した イゾルデが首を突っ込むほどの大事件ではない。 「アンリエットの奴が主犯だったか? あいつのことだ。どうせ、天京院が卒業する前に 何かをやらかすと思っていた。この程度なら可愛いものだ。好きにやらせておけばいい」 「そーいうもんなのー?」  むしろルネがむくれている事実の方がイゾルデは理解できなかった。  ふと思い至る。そう言えば、立て籠もりはアンリエットやニコルの他にも、若干名の 生徒が加担している。かつて、勇ましくも自分に挑戦してきたハミルトンもリストアップ されていた。まさかルネは気にしているのだろうか。仲間外れにされたことを。  ……彼女が天京院の卒業を引き留める理由などないはずだが。 「ね! イズーってばさ!」  一転して、ルネの声が明るくなる。 「迎えの小型艇は午前最後の便だったよね? だったらそれまで一緒に遊ぼうよ」 「無理だ」きっぱりと拒絶した。「挨拶が残っている」 「えー、昨日も一昨日もさんざん回っていたじゃない。パーティにも出ずっぱりでさー」 「この学園の卒業とはそう言うものだ。社交の場として利用した以上、利用されることも また覚悟しなくてはならない。私はこの船を去るが、人の付き合いは次のステージに持ち 越されるだけだ。アンリエット達のように、大袈裟に喚き立てる方がどうかしている」  イゾルデの説得をルネが理解するはずもなく、彼女は不平をこぼし続ける。「だったら お前も付き合え」と言えば「そんなの余計に退屈だもん!」と拒まれた。  ルネがイゾルデに寄せる信頼と依存――― 一瞬だけ、メディチの女の胸を騒がせた。  これから先、この少女は一人で学園生活を過ごしてゆけるのだろうか。イゾルデ無し で、満足に青春の日々を送ることができるのだろうか。―――そうできるよう教育はして きた。だが確信は持てなかった。それほど自分に寄せるルネの信頼は強い。  イゾルデは席を立ち上がると、懸念を振り払った。自分が悩んだところでどうなる問題 でもない。一人で生きてゆけるかどうか、ではない。生きてゆかなくてはならないのだ。  無情に聞こえるかもしれないが、ルネ自身が選んだ道なのだから仕方ない。 「私はもう行くぞ」  三年間世話になった給仕の、別れを惜しむ言葉を聞き届けたイゾルデは、手袋をはめる と席を立った。ルネが頭を上げる。背中に向けて叫んだ。 「見送りには行かせてよ!」 「十一時に学園正門、エントランスだ。遅れても待たんぞ」 「エイ・オーケイ!」  ルネは力いっぱい頷く。  イゾルデはさっさと足を進めた。直後にルネが呟いた言葉を、努めて聞かないように。 「……ニコルはバカだよ。イズーがいなくなっちゃうのに、何やってんのさ」              * * * *               ルネにはああ言ったが、迎えの便がくるまで特に予定というものは無かった。挨拶も 格式張った相手には既に済ませている。あとは馴染みの数人と言葉を交わす程度で、それ も大した時間は取られまい。船から去る日になってようやく一息が吐けるとは。ここ一ヶ 月間――特に式典から今日までの数日間――の慌ただしさから、ようやく解放されたイゾ ルデは、一人になることを望んでいた。ルネには悪いが、自分はあまりに孤独に馴れすぎ てしまった。自分を保つためには、独りになるしかない者もいるのだ。  厳格と怜悧で知られるイゾルデ・メディチだが、顔の広さと社交性の良さに関しては 船内でも飛び抜けている。教師連中からの信頼も厚く、他を圧倒する家柄の良さのため サードクラス――否、全生徒の――代表格として、今日までH.B.Pに君臨してきた。必然、 人の付き合いも他の生徒より求められた。昨日まで連日のように夜会が続き、昼は後任の 委員会への引き継ぎに忙殺された。下船後も付き合いを続けたいと強く望む者は、生徒 教師問わず多くいた。そして、イゾルデはそういったことに煩わしさを感じない性質で あったため、余計に多くの人が彼女との面会を求めた。  人の繋がりは――特に、H.B.Pなどという世界規模で活躍する者が集まる場では―― 十年後、二十年後、必ずメディチの血肉となる。そもそも自分がこの学園に入学したのは、 勉学のためでも青春を満喫するためでもない。やがて世界に轟かすことになるであろう メディチの威光を、事前に浸透させておく……所謂下準備のためなのだ。時間を惜しんで 人の付き合いを疎かにするような真似は、愚の骨頂であった。  下船したところでイゾルデ・メディチという個人に終わりはないのだ。彼女にとって 卒業は役所の転属異動と何ら変わりない。人の付き合いは途切れない。メディチの名は 永遠に付きまとう。ただ環境が変わるだけだ。そこには冒険も挑戦も介在する余地はなか った。自分がメディチであることを受け入れた時から今日まで、全ては予定通りに進んで いる。―――だが、疲れは誤魔化せない。休息は必要だ。今日という空白をイゾルデは 十二分に活かすつもりでいた。  朝食を終えた彼女は、まず私室に戻った。下船まで部屋に帰るつもりは無かったから、 不備はないか最後の確認が必要だ。イゾルデはまだフィレンツェに戻る気はない。家具や 調度品は彼女が入学してから揃えたものだから、全て処分する。彼女を慕う後輩たちが 引き取りを強く希望したので粗大ゴミにはならずに済んだ。船から持ち出すのは衣類と 必要最低限の書物ぐらいか。他の生徒に比べると、イゾルデは格段に私物が少なかった。  つと、ライティングビュローに注意を向ける。木目が麗しいテーブルに、フォトフレーム が伏せられていた。写真などの小物は全て一つにまとめて送らせたはずだが。訝しみながら 写真立てを表に返す。視界に飛び込んできた情景に、思わず「ああ」と頷いた。  それは入学の折、感傷のために持ち込んだ写真でだった。そして憎悪と哀愁のあまり、 自分には不要のものだと決め付けた過去でもあった。とっくに処分したとばかり思っていた が、部屋の奥に眠っていたらしい。自分が朝食を取っている間に、掃除に入ったメイドが 発見したのだろうか。  イゾルデはフォトフレームから写真を抜き出すと、制服の内ポケットにしまった。  他に私物はないか確認して部屋を後にする。二年半の不眠に根気よく付き合ってくれた 我が仮宿―――特に後ろ髪を引き摺られることもなく、事務的に扉を閉じた。  学園長が自分のために時間を空けてくれたとジョアンナ女史から聞かされたため―― しかし、女史はそう言っておきながら三十分もイゾルデを引き留めた――予定を変えて、 学園長室へと向かった。相変わらず操舵輪を握ったままだったが「あんたほど面白味の ある面白くない女は初めてだったよ」と有り難い(?)言葉をくださったので、いね満足 ではあった。 「あんたが入学した頃からね、あたしゃあんたを潰してやろうって決めていたんだ。だっ てそうだろう? 理事連中も教師陣もPSもみんなあんたに惚れ込んでいるんだもーん。 ぜんっぜん面白くないから、あたしが潰して盛り上げてあげようかなーって」 「そうでしたか」 「そうそう。まぁ結局、鼻っ面の一つもへし折れずに今日を迎えちゃったんだけどね」  反応に困る告白だった。イゾルデの記憶をいくら探っても、学園長と深く付き合いを 持ったことなどない。プライベートな会話をするのだって今日が初めてだった。  挑戦はつねに正面から受けて立つのがイゾルデの流儀だ。学園長の策謀に気付いていれ ば、もう少し面白い学園生活が送れたのかもしれないが……。 「こっちゃバレないようにしていたんだよ! だって怖いもん!」 「そうでしたか」 「ファーストクラスのジラルドの一件だってそうだ。巧妙に隠しやがって。あたしが気付 いた時には全部終わっていたよ。あたしにも手稿見せろ!」 「そうでしたか」 「そうでしたっつーの! あたしを負け犬を蔑む目で見るなー!」  学園長は愛刀の和泉守を持ち出して決闘まで申し込んだが、駆け込んだPSや指導部に 静止されてお流れになった。イゾルデが退出時に聞いた学園長の言葉は「なんであたしが 怒られなくちゃいけない?!」だった。学園長らしい別れ方だと思う。  鉄面皮の裏で、イゾルデは苦笑を隠すのに腐心した。  ギャレーのシェフや、イゾルデの担当だったメイド達とも別れの挨拶を交わした。  三年間イゾルデに仕えてきた労働者たちは「向上の機会が減ってしまいます」と言って、 悲しんだ。芸術に深い理解を示す彼女の舌を満足させることがシェフの誇りであり、不眠 に悩まされる彼女の生活から不快を可能な限り取り払うのがメイドの矜持だったからだ。  イゾルデから「ペルフェット!」や「ご苦労」と労いの言葉をかけられるのは、彼女 たちにとって無上の喜びだった。  ペネローペとの別れは淡泊なものだった。彼女はメディチ家お抱えの料理人であり、 イゾルデはこの有能な(そして変わり者でもある)シェフを手放す気は無かったからだ。 まだ暫くは船に残りたいと希望したたため一時の別れとはなるが、それだけのことに過ぎ ない。優秀な人材は悉くメディチの庇護を受けるべきなのだから、イゾルデとペネローペ の関係はまだまだ続く。  ペネは自分の店で最後の昼食を取ることを強く薦めたが、ランチ艇で移動する間、胃袋 には何も入れたくなかったから辞退した。どうせ彼女が悪戯を仕込んでくるのは分かって いたし、それにあえて乗ってやるほど情は厚くない。  ルネの偏食に関して一つ二つ言伝を残して別れた。    右舷から購買部通りを経由して空中庭園まで歩いた。最近はめっきり遠ざかってしまった が散歩は嫌いではない。インソムニアに悩まされていた頃は、気を紛らわすためによく校内 を徘徊したものだ。目的もなく歩を重ねるのは贅沢な楽しみであった。  全面ガラス張りのドーム状建築物―――熱帯植物園を抜けて「海が見える丘」で立ち 止まる。途中、見知った生徒や教師とすれ違うと短く別れの挨拶を交わした。  こうして高所から水平線を一望しても、センチメンタルな想いに浸る気配はない。今日 で去りし学園の日々も、明日から訪れる新たな環境も、イゾルデの中では同じ日常に過ぎ なかった。彼女ほど淡泊ではないにしても、他の卒業生だって似たような意識のはずだ。 H.B.Pは社交界の縮小版と呼ぶべきもの。過程に過ぎぬこの学園に独立した意義を見出す のは難しい。「学園の日々よ!」と高らかに唄うには、あまりに利害が、家柄が、多くの 財界人の意図が、絡みすぎていた。―――そして、イゾルデはそれ等を可能な限り利用 した。イゾルデに取ってこの学園は、あまりに、あまりに情動とは無縁の場所だ。  自分に悲しみを覚える権利はない。    アイーシャ・スカーレット・ヤンの姿を認めたのは、中庭に降りるため植物園に戻った ときだ。彼女が管理しているのであろう、熱帯系の樹林に水をまいていた。  ホースから噴き出す水に、射し込んだ陽光が煌めく。園内は湿気が高く、立っている だけで汗が滲み出た。表情にこそ出さないものの――冬将軍に蹂躙されようと、イゾルデ の顔はぴくりとも動くまい――フィレンツェの乾燥した夏期で育った彼女にとって、じく じくと身体を攻め立てる湿潤の高い熱気は天敵だった。不快感がこみ上げる。  だが、アイーシャを眺めていると苛立たしい熱気も意識の彼方に消え去った。褐色の肌 が鋭い黒髪とよく似合うクラスメイトは、植物園内における清涼剤だった。熱帯植物だけ はなく、それを見るイゾルデにまでオアシスの潤いを与えててくれる。赤道直下の国で 育ったにも関わらず、太陽よりも月を彷彿とさせる女―――憂いを秘めた表情と、陶器の 如く繊細そうな細身の長身が、熱気とは対極の位置にある何かを放射させていた。  彼女も同じサードクラスなのだから、今日か明日にでも船を降りるはずだ。だとしたら、 植物たちへ送る最後の手向けとして水をやっているのか。邪魔をするのは忍びない。  ようやくアイーシャは眺望者の存在に気付いたが、イゾルデはとくに挨拶を交わそう ともせず、踵を返した。そう言えばアンリエットが囲っている女の一人だったな、などと 考えつつ温室を去ろうとする。背中から声が掛かったのはその時だ。 「あの、メディチさん」  呼び止められたことを意外に感じつつ振り返る。クラスメイトではあるが面識は僅かだ。 イゾルデの記憶に残る限り言葉を交わしたことはない。社交の場に顔も見せない孤高の女 だった。別れを惜しむ間柄でも無いはずだが。 「何か?」 「その……船にはいつお降りになるのでしょうか」  アイーシャは蛇口を締めて、放水を止めた。 「午前最後の便だ」 「そうですか……」  サードクラスと言えど年齢はルネと同じなのだが、そうとは思えぬ大人びた風貌に、 物憂げな瞳。身長はイゾルデにこそ及ばぬものが、あのアンリエットより長身に見える。 熱帯系の植物に囲まれている姿を見ると、オリエンタリズムの神秘を否が応でも意識させ られた。白色人種には出せぬ魅力を秘めている。 「もし……差し障りがないようでしたら、お茶に誘ってもよろしいでしょうか」  イゾルデが無意識に放つプレッシャーに萎縮しながらも、アイーシャは最後まで言葉を 紡いだ。メディチの顔が怪訝に歪む。クラスメイトの意図が読めなかった。 「まずは誘いに対して感謝を示させて頂く。だが理解しかねる提案だ。アイーシャ・スカ ーレット・ヤン、てっきりお前は私との――いや、私に限らず他の生徒とも――付き合い を望んでいないと思っていたのだがな。別にそれを批難するつもりはないが、今日に至っ てどういう心変わりだ」  イゾルデのはっきりとした物言いにアイーシャは驚きの表情を見せたが、すぐに口元を 綻ばせた。「最近はそうでもないんですよ」と言って微笑む。 「メディチさんの言う通り、私はずっとクラスメイトとの交わりを拒んでいました。でも、 今はそうした態度を取っていたことを後悔しています。だから……その、私が、あなたを お茶に誘うのは……そこまで不思議なことじゃないと思うの」  それもアンリエットのお陰か―――喉まで出かかった言葉を飲み下した。アイーシャ なりに勇気を振り絞って話しかけたのだろう。同学年と言っても、年齢は二つ下なのだ。 ファーストで臆することなくイゾルデに話しかけられる人物など、ルネを除けば二人しか 知らない。アイーシャの決心は評価すべきだった。  グリモルディの腕時計で時刻を確認する。ルネとの待ち合わせの時間まで、まだ余裕が ある。クラスメイトと親交を深めることも決して無駄ではない。馴れ合いは厭うが、実務 以外の人付き合いを頭ごなしに拒むほどイゾルデは無粋ではなかった。 「良いだろう。だが店はお前が選べ」 「カリヨン広場のカフェーなんて、どうでしょう」  有志のメイド達によって経営されているオープンカフェだ。味は悪くない。立地の良さ とフランクな雰囲気が相成って連日繁盛している。学生たちの人気店だ。だが、その雑多 な雰囲気が、物静かなアイーシャや厳粛な空気を好む自分にはそぐわない気がした。  そんなイゾルデの考えに気付いたのか、アイーシャは慌てて補足する。 「実は人を待たせているんです」 「ほう?」 「ええ。よろしければ、メディチさんもご一緒にと思って」  まさかアンリエットということはあるまい。彼女は現在、立て籠もりの真っ最中だ。 優雅にお茶を愉しめる身分ではなかった。だが、他にこの褐色の少女と付き合いがある 生徒など思い付かない。 「あの……何か、問題があるかしら?」 「いや、そういうことならカリヨンのカフェーで構わない。だが、名前だけは聞いておき たい。誰がお前を待っているんだ」  アイーシャは笑みを作った。それは強い陽射しのような笑みだった。だからこそ、彼女 の中に潜む闇がはっきりと感じられた。 「―――天京院鼎さんです」              * * * *              「無様だな、天京院」  意外なゲストを迎えて驚くクラスメイトに向けて放った第一声。カフェーで不機嫌そう にコーヒーを啜っていた天京院鼎は、目を剥くことで応えた。 「何を―――」 「私はお前を少し買い被っていたようだ。確かに、お前は品行方正とは言い難い。問題児 だと断言してやろう。だからこの程度の事件、さして驚くに値はしないかもしれない。 お前の研究とやらのお陰で船が被った今までの損害に比べれば、あまりに規模は小さい」  イゾルデは天京院の傍らに立ったまま「だが」と付け加えた。 「今までお前は、自分の失態は自分で鎮火してきた。他人に被害を及ぼすことは決して無 かった。研究の狂気と人徳者としての分別が天秤の上で釣り合っていたのだ。私はこれを 評価していた。―――昨日まではな」  顔を合わすなり放たれたイゾルデの鋭い口舌。天京院は説明を求めるように、アイーシ ャに視線を送った。だが、彼女もまさかこんな事態になるとは思わなかったのか、為す術 もなく立ち竦んでいる。 「今回の事件にはつくづく失望させられたよ。お前はどう受け止めているか知らんが、 あれは歴とした右舷上層寮の規律への挑戦だ。寮管理委員会を虚仮にしている。お前が その明晰な頭脳でどう足掻いても、もはや委員の顔に塗りたくられた泥は拭えない」 「あれは杏里たちが勝手にやったことだ。私だって困っている!」  天京院はカフェテーブルを荒々しく叩いた。その音に驚いた周囲の生徒が好奇の視線 を送ってくるが、イゾルデの存在に気付いて慌てて逸らした。  メディチの女は鼻を鳴らしてせせら笑う。 「だが、火種はお前だった。被害を拡大させる燃料となったのもお前だ」 「……来るなり説教か。立派なご意見だということは認めるよ」  天京院も疲れているのだろう。いつも以上に余裕を感じられない。苛立ちをイゾルデに ぶつけても無駄だと覚ったのか、矛先をアイーシャに変える。 「これはどういうことだ。なぜ彼女がここにいる。私は君と待ち合わせをしていたはずだ」 「あの……」  アイーシャの表情はいまや蒼白だった。馴れないことはするものじゃない―――後悔の 色が表情にありありと浮かんでいる。 「私、メディチさんがそのことで怒っているなんて、知らなくて……」  天京院は頭を振った。「もういい」と手で制する。 「イゾルデ・メディチ。君が右舷上層寮の寮長だったことは知っている。だが、これは君 には関わりがない話だ。生徒間個人の問題で、そのことは学園長も認めている」 「ヘレナ・ブルリューカの懇願のお陰だな。お前の力ではない」 「……やけに絡むじゃないか」  張り詰めた緊張に沈黙がかけ合わされ、今にも火花が散りそうな一触即発の空気が展開 する。教師ですら逆らえないと言われるサードクラスの威厳と畏怖の代名詞―――イゾルデ ・メディチと学園内切っての問題児、天京院鼎。異色の組み合わせが、声を荒げて睨み合っ ているのだ。そのプレッシャーは半端な好奇心を駆逐し、周囲の生徒をこそこそと退散さ せた。下手に関われば飛び火だけで全身火傷する。  と、その時。 「―――メディチ様、この件は天京院様も深く悩まれています。寮管理委員会に所属して いたものとして面子に拘るお気持ちは理解できますが、どうかこの場は天京院様のお顔を 立てては頂けないでしょうか」  手を伸ばせば途端に弾かれそうなほど濃厚な緊張の坩堝に、まるで臆することなく踏み 入るメイドの姿―――イゾルデは「ほう」と短く感嘆の吐息を漏らした。 「……イライザ・ランカスターか。そう言えばこの店はお前が仕切っていたな」 「メイド達の有志によって営業させて頂いておりますわ」  取りあえず、お座りになったらいかがでしょうか。ランカスターに勧められるがままに、 イゾルデはカフェチェアーに腰を下ろした。先の発言―――使用人の分際を弁えぬ出過ぎ た言葉ではあったが、タイミングは完璧だった。 「ブルリューカにしろランカスターにしろ……良い友人を持つということは、それだけで 強力な武器になる。せいぜい厚い友情に感謝するのだな、天京院」  イゾルデの挑発。反応するだけでも苛立たしいのか、天京院はそっぽを向いたまま答え ようともしなかった。  ランカスターは一礼すると、滑らかな所作でテーブルの上にトロフィー型のワインクー ラーを置いた。満載されたロックアイスの隙間から、ワインボトルがそそり立っている。 「……アルコールを注文したのか?」  アイーシャに問いかけた。彼女は首を振って否定する。  ランカスターが人数分のワイングラスを並べると、営業スマイルにしてはあまりに魅力 に溢れる笑みを作った。 「こちらは当店からのサービスでございます。アイーシャ様、天京院様、メディチ様―― ―ご卒業、おめでとうございます。私たちメイドからのせめてもの心づくし。どうぞ遠慮 無く飲み干してくださいませ」 「げ」と天京院の口から呻きが漏れた。アイーシャも苦笑いを隠せない。イゾルデだけが 口端を吊り上げて、ふっと鼻で嗤った。 「―――『友よ、古き昔のために、親愛のこの一杯を飲み干そうではないか』」  ランカスターは聞き慣れたメロディを口ずさんだ。「あら」とアイーシャは口に手を 当てる。天京院も眉を寄せた。理学一辺倒の彼女ですら耳に馴染みのある旋律。 「『我ら二人は丘を駈け、可憐な雛菊を折ったものだ。だが古き昔より時は去り、我らは よろめくばかりの距離を隔て彷徨っていた』―――」  イゾルデが歌詞を引き継いだ。 「『いまここに、我らは手をとる。いま我らは、良き友情の杯を飲み干すのだ。古き昔の ために』―――なるほど、卒業に酒杯は欠かせぬというわけか」 「天京院様も、この曲ならきっと耳にしたことがございますわ」 「ああ、デパートに閉店まで粘っていれば嫌でも聞けるよ」天京院はテーブルに頬杖を ついたまま言った。「歌詞はだいぶ違うがね。『オールド・ラング・サイン』だったか。  日本では『蛍の光』の名で親しまれている」 「世界で一番、愛されている歌ね」  アイーシャの声音は浮き立っている。雰囲気が和らいだことがよっぽど嬉しいのだ。 「杏里ですら知っている。学園でこの曲を知らない奴はいないんじゃないか」 「クローエ様やアルマ様には『目覚めよ我が霊』の名のほうが、馴染みがあるかもしれ ません」  ランカスターはワインオープナーでコルクを抜くと、三つのワイングラスに酒精を満た した。太陽の陽射しがクリスタルカットによって偏光され、グラスの中で七色に輝く。 「乾杯の音頭はアイーシャ様がお取りになってはいかがでしょうか」 「わ、わたし?」 「適任だと思いますわ」  イゾルデが薄く笑う。 「ブォナ! それはいい。お前が呼び集めたのだから、仕切りもお前がすべきだ」  天京院は不機嫌そうに鼻を鳴らすだけで、何も言わない。 「そんな、私は一番の若輩なのに」 「同じサードクラスだ」 「でも乾杯の音頭なんて、私……」  アンリエットやニコルが主催する酒宴には何度か足を運んだ経験はあるが、それはあく まで招待客としてだ。 「初めてだからこそ挑戦の価値がある。先程、お前は『かつての自分ではない』と言葉で 表現した。今度は態度で述べてみろ」  グラスを手に取り、促すようにアイーシャへ向けて掲げた。 「イゾルデ様の言う通りですわ、アイーシャ様。さ、天京院様も」 「……まるで茶番だ」  仕方がなしに、天京院もグラスを持つ。  初めは当惑していたアイーシャもイゾルデやランカスターから向けられる視線の意味は、 不慣れな自分に対する好奇ではなく力強い期待だということに気付いて、覚悟を決めた。 自分はいま、小規模ながらも名誉ある立場についているのだ。 「……光栄に思うわ。それでは、」  すくっと席から立ち上がった。グラスを胸の位置まで持ち上げる。 「私は今日で、船を降りるの。午後一番の便よ」  イゾルデの次だ。 「たった一年の学園生活……素晴らしいことが数多くあったわ。だからこそ、悔いが多く 残っている。天京院さんと親しくなれたのは素晴らしいことだけど、それも最近のこと。 メディチさんとは言葉を交わすのすら今日が初めて。愚かな私は、最後の日にようやく 始まりの場所に立つことができた」  神秘を孕んだ翡翠の瞳が伏せられた。内部から湧き上がる感情を確かめるかのように。 「いま、私はとても楽しんでいるわ。この喜びこそ私が一年間で得た宝だと確信できる。 ……だから、この杯(さかずき)は、別れと旅立ちに手向けるのではなく、学園での黄金 の日々を共有する私たちが、これから深めていく友情のために捧げるわ」  ワイングラス。雲すらも突き抜ける勢いで、高々とかざされた。 「私たちのこれらかに―――ヤン・セン(Yam seng)!」  アイーシャの音頭に呼応するかのように、イゾルデもまたグラスを高く掲げた。 「アッラミチーツィア(All'amicizia)!  今から始まる友情に乾杯」  ふて腐れていた天京院も、心動かされるものがあったのか、アイーシャの晴れ晴れと した表情を見入りながら、杯を交わした。 「素晴らしい音頭でしたわアイーシャ様」本心から感激したランカスターは跪くと、幼き 卒業者の空いている方の手を強く握り締めた。「本当に素晴らしい音頭でしたわ」  イゾルデも頷くことで同意した。言葉以上に意思を語るメディチの瞳が、アイーシャを 褒め称えている。 「ありがとう」  グラスの中味を一息で煽ったアイーシャは、いつになく清々しい表情で微笑みかける。 「私、幸せよ」  それでは、ごゆっくりお楽しみください―――チーフメイド兼ウェイトレスは、感動の 余韻が醒めぬうちに自分の仕事に戻った。イゾルデは咄嗟に呼び止めようとしたが、すんで の所で思いとどまる。多忙なメイドを雑談で長く引き留めるのは非礼に当たる。彼女とは 少し話すべきことがあったのだが―――席を立つときに、また呼び止めよう。  アイーシャはグラスを干しては満たし、干しては満たした。喜びとは感化するもので ある。白ワインを水としか思わぬイゾルデは、アイーシャのペースに付き合った。  だが、天京院は彼女がアルコールにそこまで耐性がないことを知っている。 「おい……ペースを考えたほうが良いんじゃないか? 杏里に見送られる前に酔いつぶれ たら、目も当てられないぞ」 「そ、そうね。ごめんなさい。あまりに嬉しくて、あまりに美味しくて、つい……」  まさかこれがランカスターの真意か? イゾルデは訝った。ライバルを蹴落とすための 彼女の策謀―――十分考えられた。鮮やかな手並みだ。無粋とは言えない。  自重すると言ったもののアイーシャのペースが衰えることはない。天京院が思案に耽っ ていたり、意識を別のところに飛ばしたりして無言が目立つため、必然イゾルデとアイー シャの会話が主となる。知識に富み、教養にも恵まれ、何より気配りが――やや過敏な ところもあるが――利くアイーシャはイゾルデにとって心地よい話し相手だった。自分を 表に出すのは苦手なようだが、親交を深めるため積極的に会話を求めてくる。要領は良い のだろうが不器用なのだ。寮管理委員会の面子のために、本心でもない説教を天京院に 浴びせてやるのが当初の目的だったのだが―――アイーシャと交わす酒精の味は殊の外 美味だった。実に楽しい一時を過ごせた。アイーシャの将来設計――何でも、学校を設立 するのが夢らしい――について、かなり具体的な内容で盛り上がり始めたとき、壜はすっ かり空になってしまった。 「お代わりが欲しいけれど……そこはさすがに自制すべきね」  ちょっと失礼するわ、と言ってアイーシャは席を立った。お手洗いのようだが、酔いを 醒ますつもりなのかもしれない。  数分前の談笑が嘘のように冷え切った。仏頂面の天京院―――ワインは二口三口しか 口をつけていない。自分が場違いであるということを認めているものの、帰る場所がない ため――彼女の城はアンリエットに占拠されているのだ――席を立つに立てない様子だ。 イゾルデは知らなかったが、仮宿にしているアンリエットの私室はことある事にファン・ ソヨンやヘレナが訪ねてきて、この酒席以上に落ち着けない空間と化していた。  沈黙は暫く続いた。アイーシャが戻ってくる気配はない。天京院の細い指先が、苛立た しげにテーブルを叩く。 「……理解できんな」  イゾルデの呟きで、静寂は破られた。 「何がだ」 「アイーシャ・スカーレット・ヤン―――彼女は妬みを覚えないのだろうか。この状況は 彼女にとって決して面白いと言えるものではないはずだ」  天京院は眼鏡の位置を治した。 「話が見えない」 「アンリエットのことだ。あいつはお前を引き留めるために、部屋を不当に占拠までして いる。だというのに、今日にも去ろうとしている恋仲のスカーレット・ヤンには何をした」  ポーラースター随一の頭脳を誇る天才が言葉に詰まった。俯き、ぽつりぽつりと語り出す。 「……杏里はそこらへんはドライなんだよ。それに、船を降りたぐらいじゃ関係は途絶え ないと強く信じている。その信頼が、きっとアイーシャの安らぎにも繋がるんだ」 「大した分別だな」  鼻で笑い飛ばす。  イゾルデは遠回しに、アイーシャの前で鬱々とできる天京院を責めたつもりだった。 だが、皮肉と悟れないほどにサードクラスの天才は疲労しているらしい。  ポーラースターを卒業するのは彼女だけではない。それをアンリエットも天京院も理解 していないとしか思えなかった。 「その立派な分別を、なぜお前には発揮できないのか。『強い信頼』とやらでお前の卒業 を見送れば何の問題もないはずだ。誰も煩わせることなく、秩序も保たれる」  天京院の顔に、更に昏い影が走った。イゾルデは内心、驚きを隠せない。歩く計算機の ような女だとばかり思っていたクラスメイトが、斯くまで傷んだ表情を見せるとは。  全てはアンリエットの罪というわけか。天京院も、アイーシャも、ランカスターも。― ――彼女も。  イゾルデは強く胸を押さえた。上衣越しに、裡ポケットに秘めた存在を意識する。 「杏里が憤っているのは……多分、私が船を降りることにじゃない」  言葉を吐くことすら苦痛だという風に、声を絞り出す。 「私は……最低な別れ方をしようとしている」  だが、そうするより他にないんだ。自分を納得させるにはこれしかないだ。  天京院の言い分―――まるで、この苦しみを察しようとしてくれないアンリエットが 悪いと言いたげだ。イゾルデは苦笑する。一つの解を彼女は得た。  これは天京院なりの信頼のカタチなのだ。「甘え」と言い換えても良いのかも知れない。 あの%V京院鼎が自分のエゴをアンリエットに押し付けて、甘えているのだ。 「……天京院、お前は不器用な人間だな」  イゾルデに釣られるように、天京院も苦く笑った。 「いつも思っているよ。杏里のように単純に生きられたら、とね」  メディチの再興者は一つの芸術を発見した。このクラスメイトには自嘲がよく似合う。 「飲め、天京院」  ワイングラスを顎で指した。朝焼けを絞ったかのような清明な葡萄酒が残っている。 すっかりぬるくなってしまっているが、ランカスターが選んだ白ワインは常温だろうと 味を損なわない。 「友情の杯だ。飲み干さなくては、スカーレット・ヤンの想いを踏みにじることになる」  天京院は深く溜息を吐いた。 「……イゾルデ・メディチ。君にこういうことを言うのはおかしなことだと思うがね。 一応言わせてもらうよ。私は不器用だが、やっぱりアレは本心なんだ。偽りのない本当の 理性なんだ。つまり私にとって、ここでの人間関係なんていうものは―――」 「同感だ」 「え?」  天京院は意外そうに顔を上げた。 「私もお前の意見に同意する。メディチの揺るぎなき信念が保証しよう。私はお前の考え を間違いだとは思わない。―――アンリエットのしていることは、滑稽の極みだ。まったく の無意味だ。お前を躊躇わせるいっぺんの理由にすらなっていない」 「……なんだと」  天才の声が険しく歪む。 「お前も気付いているはずだ。あいつの行為はお前を船に留める理由にならん。お前が船 を降りた後、改めてメイドに部屋の片づけを任せればいいだけだ。攻城兵が去れば、門は また開かれる。籠城の意義が消失するからな。つまり、時間を割いてまであの部屋を攻め 落とす価値はないのだ」 「……」  天京院は言葉を返せない。自分が矛盾を孕んでいることを、痛いほど自覚している。 「あの女は愚か者だよ。今回のことからもそれがよく分かる。自分のエゴを押し通すため に、どれだけの人間が骨を折ったことか。一つ間違えれば、自身の進退はもちろん寮管理 委員会の処分も免れなかった。ヘレナ・ブルリューカの嘆願があいつを救ったのだ。ラン カスターも自分の立場を危うくしてまで力を貸した。ファーストクラスの面々だってそう だ。分かるか? あいつの謳う至高の愛とやらは誰かの犠牲の上に成り立つものなのだ。 だが、本人はそれに気付こうとしない。気付かないからこそ、お前のような奴を悩ませ、 痛めつける。理不尽だと思わないか、天京院」  しかも、そんな数々の犠牲によって為された企みもまったくの無駄だというのだから、 余計に滑稽だ。―――イゾルデの高らかな哄笑がカフェーに響いた。  白衣の裾が翻る。天京院は椅子を蹴飛ばすように立ち上がると、鴉色の瞳に憎悪を滾ら せて、クラスメイトを睨め付けた。 「お前に彼女の何が分かる!」  彼女が入学してから下船を間近に控えた今日まで、これほどの怒声を上げたことはない のではないだろうか。思わぬ人物からの怒鳴り声に、冷静を義務とされているメイドすら も目を丸くした。学園の乙女たちに至っては凍り付いて動けない。  天京院はワイングラスを乱暴に持つと一息で煽った。 「失礼する……!」  白衣をマントのようにはためかせて踵を返す。荒々しい足取りで席から離れていった。  怒気が放射される天京院の背中を、イゾルデは醒めた目で眺め続ける。    ようやくアイーシャが姿を現した。静まりかえったカフェーの雰囲気に困惑しつつ「天京 院さんは?」と間の外れた問いかけをしてくる。帰った、とイゾルデは短く告げた。 「どうやら私が怒らせてしまったようだ」 「そんな……」 「追ってやってくれ。アンリエットとの約束の時間まで、まだ余裕があるだろう」  アイーシャは逡巡を見せた。事態を掴み切れていないのだ。  あれだけ愉快なお喋りに花が咲いていたというのに、戻ってきたときには花弁は散り、 茎は萎び、葉は枯れていた。彼女自身が怒り出してもおかしくない状況だ。イゾルデは 悪いと思いつつ、天京院を追うよう促した。 「"Chi trova un amico trova un tesoro"―――『友に巡り会えた人は宝を手に入れたの と同じ』……イタリアの諺だ。私はお前と友情の杯を交わした。つまり、私は宝を手に した。私はお前のアミーカだ。ならば船を降りても必ずまた会える。今は、たかだか卒業 程度も満足にできない不器用な天才のほうに、お前の優しさを注いでやれ」  イゾルデの言葉でようやく意を決することができたのか、アイーシャは強く頷くとその 場を去った。「私から必ず連絡をするわ」と頼もしい言葉を残して。  まったく面倒な連中だ。イゾルデは失笑を漏らした。  イゾルデ・メディチはシンプルな女である。メディチによって作られ、メディチによっ て鍛えられ、メディチによって殺される。そう信じている。彼女の全てはメディチという 一言で説明がつくのだ。故に迷いも葛藤もない。既にイゾルデは答えを得ている。  だから、行き詰まっては悩み、矛盾を持て余し、自分という神秘を少しも暴けない天才 様が新鮮でしかたなかった。―――つい余計なお節介を灼いてしまうほどに。 「ええ。本当にイゾルデ様らしくありませんわ」  背後から声がかかる。振り向かずとも分かった。イライザ・ランカスターだ。小言の一 つでも言いに来たのだろうか。些細とは言え、彼女が取り仕切るカフェーで揉め事を起こ したのだ。甘んじて受け入れねばなるまい。 「アンリエットの真似をしてみたつもりなのだがな」  ご冗談を、とランカスターは嗤う。いつもの笑みを装っているつもりだろうが――― これは本心からの嗤笑だな、とイゾルデは見抜いた。 「……怒っているのか」 「イゾルデ様は勘違いしておりますわ」  空いたワインボトルやグラスをてきぱきと下げられた。ランカスターの口調は穏やか だが、どこか棘がある。 「私は、杏里様へ奉仕――イゾルデ様は『犠牲』などと仰いましたが――できることに、 心から幸福を感じています。杏里様の力になれることがこの上ない悦びなのです。なのに あんな言いよう……わたくしも天京院様と同意見でございます」  アンリエットの何が分かる、か。 「それを言いにわざわざ来たのか。ご苦労なことだ」  ランカスターは食えない女だが、アンリエットを餌にすれば他と同様やはり御しやすい。 ご覧のように、まんまと釣られた。  さて、もう一つの目的を果たすとするか―――ワインクーラーを片付けようと伸びた ランカスターの右手。イゾルデは強く掴んだ。そのまま力に任せて引き寄せる。 「メディチ……さま?」 「イライザ・ランカスター。今日という今日は逃がさん。私の話に付き合ってもらおう。 用件は分かっているはずだ」 「しかし、いまは仕事中ですから―――」  また後ほど、とは言わせない。あと二時間もせず自分は船を降りるのだから。 「時間を作れ。今すぐにだ」 「……強引なのですね」  他人に関わることは好まないが、いざ影響を及ぼす段になれば有無を言わさない。それ がイゾルデのやり方だ。  ランカスターは人のあしらいがうまい。が、彼女の手管をイゾルデは理解している。 この手の食えない女は搦め手より力押しに弱い。そうでなくても、イゾルデ・メディチの 言葉に真っ向から逆らえる者など船内では限られている。生徒とメイドという立場の差を 無視したとしても、ランカスターの不利は否めない。  気品に富んだメイドは疲れた吐息を漏らした。観念するより他はない。              * * * *               カフェーで話し込むのは他の生徒の目があるため好ましくない。そう言ってランカスター はカリヨン広場から離れ、校舎へと誘導した。窓から中庭が臨める右腕廊下は、この時期 授業が無いため人影がまばらだ。時々忙しくメイドが通り過ぎる他に人目はない。  ランカスターは落ち着けるところを探したが、イゾルデはここで良いと断った。立ち話 で十分だ。早速、本題を切り出す。 「私と一緒に船を降りろ」  礼装用の白手袋を手にはめつつ言った。 「お誘いはたいへん嬉しいのですが……」  ご好意だけ受け取らせて頂きます。そう言って微笑むランカスターには微塵の動揺も 窺えない。にこにこと得意の笑顔を浮かべている。 「私が冗談で言ってると思うか?」  イゾルデもまた口端に笑みを称えた。相手を凍えさせる簒奪者の戯笑だ。 「滅相もございません。メディチ様のお気持ちは深く理解しているつもりですわ」 「ならば聞け」  すっと笑みが失せた。 「まさかお前がメイドのまま、卒業を迎えるとは思ってもみなかった。これ以上の損失を 捨て置くことはできない。秋になれば、お前の元クラスメイト達はサードクラスに繰り 上がる。サードという学年は卒業後の準備期間に等しい。今更、お前が復学を目指した ところで得るものは少ない。セカンドから再スタートするというのは尚更非効率だ」  で、あるならば。お前が船に留まる理由はもう無いはずだ。―――刺突剣の如く鋭い 口舌がメイドを襲う。  ランカスターは両手を前で合わせ、瞼を伏せてイゾルデの言葉を聞いた。その優雅な 所作からも出自の貴さが知れる。女中の身分に甘んじて良い女ではない。  ランカスターはゆっくりと目を開いた。かつて英国で大流行したシャム猫を彷彿とさせ る、鋭いながらも蠱惑に満ちたルビー色の瞳。感情の揺らぎは見えない。野心と矜持で激 しく燃え上がっていた頃の名残は消え失せ、不敵とも呼べる穏やかさが支配している。 「メディチ様。あなたの好意を無下にしてしまうのはたいへん心苦しいのですが、私の 返事が変わることはございません」 「……この私の助けを徹底的に拒むか」  イライザ・ランカスターが背負った借金は膨大だ。メイド風情が一生涯かけて働いた ところで返済は不可能だが、学費が払えぬからという理由で船から放り出し、何の庇護も 受けられぬままシャイロックどもの餌食にされるのは忍びない。そんな学園長の恩情から、 ランカスターはメイドの身に甘んじてきた。だが、メディチが助力を惜しまねば、借金の 完済……は難しいと言え、通常の社会生活を営むことは十分に可能だった。メディチの 庇護を受けるという事実は、それほどに強力なのだ。  イゾルデは進んで他人の世話をする性質ではない。だが、彼女だけは例外だ。有能な 才覚は財産である。イライザ・ランカスターの強さ、誇りの高さを人一倍買っているイゾ ルデは、このまま彼女が下働きの女中として若さを浪費させていくのが許せなかった。  自分が船を降りたら、いよいよランカスターの未来は限られてしまう。 「他人の力を乞うことはお前の矜持を傷付けるのかもしれない。だが、私とて恩に着せた くて言っているわけではない。お前の両親が返り咲けば私も身を引こう。何も私は、忠誠 を誓えと強要しているのではない。これは出資だ。お前という可能性に、投資をしたいと 申し出ているのだ。―――これでもまだ、納得できんか」 「昔の私なら、情けは無用と拒みもしたでしょう。メディチ様のご期待を、憐れみとしか 見なせなかったかもしれません。……ですが、今は、ほんとうに、心からあなたに感謝を しております。どうか信じてください。私はいま大変喜んでいます」  メイド仕込みの崩れぬ笑み―――僅かだが、口端が悪戯っぽく歪んだ。 「私が遠慮をしているのは矜持とか、屈辱とか、そういう理由ではございません」  ならば考えられる理由は一つしかない。 「……また、アンリエットというわけか」  無性に疲れを覚えて、イゾルデは壁に寄りかかった。 「メディチ様はあの方がお嫌いですか」 「少なからず恨みは抱いているよ。私は、孤高を畏れず、一人で生き抜く意思を持つ者を 愛する。だが、そういった者ほどあの女の囁きに抗えない。あいつは女を弱くする。お前 や天京院が良い例だ」  胸に手を置く。裡ポケットに眠る写真―――彼女だって例外ではない。  ランカスターは瞼を伏せた。 「メディチ様が、あの方より年上だという幸運に、私は感謝をせずにはいられません。 もしあの方より年下であったら……私はきっとメディチ様にたいそうやきもちを妬いた ことでしょう。とても敵わない相手ですわ」 「私にそのような性癖はない」  イゾルデは生真面目に答えた。 「あまりぞっとしない例えをしてくれるな」  これは失礼致しました、とランカスターは一礼する。その様子をイゾルデはメディチの 瞳をもって観察した。厳めしい目付きは生来のもので、相手を威圧する意図がなくても 負担を与えてしまう。が、ランカスターのような賢しい女に通用するはずがなく、きょと んと惚けた視線を返された。 「……わたくしに、何か?」  イゾルデは目を細めた。見れば見るほどに惜しい。器量に優れ、気品に富み、狡猾さと 情熱を併せ持つ怜悧な頭脳の持ち主―――ここで彼女を諦めるのは簡単だ。踵を返して船 を降りればいい。だが、それでは自分を許せない。メディチの血が、不遇を甘んじるラン カスターの存在を看過できずにいる。 「……お前も英国人なら理解できるはずだ」  壁にもたれたたまま腕を組む。声音は低い。可能な限り自分を抑えて言葉を続ける。 「『すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される』 ―――お前の才は、全ての人が持ち得るものではない。お前は生まれついての富める者だ。 選ばれし者には相応の地位につき、責任を全うする義務(ドヴェーレ)がある。お前が このまま使用人に身をやつすのは、社会的義務からの逃避に等しい。持って生まれた才を 活かさぬのは罪だ」 「メディチ様、私は成り上がり商家の娘ですわ」 「だからなんだというのだ。そんなことを言ったら英国自体が海賊の国ではないか。花の 女神の街に比べたら、何とも歴史の浅きことか。私は家柄の話などしていない。イライザ ・ランカスターという個人が持つ気高さに執着しているのだ」  執着―――自分で言っていては世話がない。  イゾルデの理屈は時代錯誤も甚だしかったし、他人から非難がましく言われるような ことでもなかった。だが彼女は信じている。ランカスターなら己の言葉を理解する、と。 かつては選ばれし者という自負によって自分に挑戦してきた、ランカスターなら……。 「―――メディチ様、わたくしの我が儘をお許しください」  後ろで纏めアップにされた金髪が揺れた。ランカスターの返事に迷いはない。 「この身分が罪だというのなら、私はそれを甘んじて受け入れます。この罪を背負った まま、まだ暫くの時を船で過ごすことがわたくしの望みでございます。どうか卑しき罪人 である私を、蔑んでください。でも、これだけは確かなのです。―――私を救っていいの は杏里様だけですわ」  学徒から使用人に立場を変え、心根を改め、鋭さを失おうとも、彼女の芯の部分はかつ てのイライザ・ランカスターのままだった。頑迷で、頑固で、一度決めたことを曲げよう としない意固地な少女だ。まるで鏡写しの自分を見ているかのような錯覚に囚われる。  イゾルデはくつくつと声を上げて笑った。 「お前は度し難い愚か者だ。あまりにも救いがない。地獄を巡遊したダンテとて、お前 ほど業が深い咎人を見たことはないだろう」  ランカスターのルビーの瞳に小悪魔の色が浮かんだ。 「ならば、愚かな罪人である私に、罰として折檻を与えてくださいますか?」  ランカスターはイゾルデを見上げる。身長差は十センチ弱。危険な媚びだ。アンリエッ トの気持ちを理解したくなるほどに。  指先をつっとランカスターの細い顎に這わせ、僅かに持ち上げた。 「悪くない誘いだ。一考の価値はある」  すぐに力を抜いて腕を降ろす。 「しかし、罰を定めるのが検事の職務ではあるが、罰を与えるのは刑吏の務めだ。私の 職分から外れている。そしてお前には専属の刑吏がいる。ならば罰は、彼女からねだるの が道理だ」  ランカスターはくすりと笑った。 「私だけの刑吏でいてくれないから、時には不満も覚えます」  イゾルデもまた苦笑で応えた。  イゾルデは別に納得をしたわけではない。説得も諦めてはいなかった。未だに釈然と しないものが残っている。高貴なる者が背負うべき義務―――何としてでもランカスター に履行して欲しかった。彼女には一秒でも疾く高みに立って欲しかった。  だが、イゾルデがいくら言葉で説いたところで、徹底的に現状を肯定しているランカス ターの心を揺るがすことは適わない。今は退くしかなかった。一年後―――アンリエット 達が船を降りるその時、また選択を迫ればいい。それまでの間にランカスターの両親が 返り咲くことを祈る。  下船の時刻が迫っていた。ルネも待っているに違いない。ランカスターと話せたことで 所用は全て済んだ。正門まで見送ろうとするメイドの誘いを辞退して、イゾルデはその場 を後にしようとした。 「ニコル様とお別れをしなくてもよろしいのですか」  機を狙っていたかのような鋭い一撃。これだから油断できない。  イゾルデはゆっくりと首を振った。 「必要ない。あれは天京院の部屋に閉じ籠もっている」 「出入りは自由ですわ。杏里様もアイーシャ様をお見送りするために、部屋から出ると 仰っています。ニコル様だってメディチ様が船を降りると知れば―――」 「必要ないと言った」  余計なことはするなよ、と釘を刺す。ランカスターは肩を竦めた。  裡ポケットに秘めた写真。焦げ付くほどの熱を感じた。気のせいだと思考を振り払う。 「仕事に戻れ」と言葉を残して、さっさと歩を進めた。  ランカスターはイゾルデの背中が見えなくなるまで見守るつもりなのだろう。廊下を 十数メートル進んでも、変わらぬ姿勢で立っている。  足を止めた。振り返る。 「イライザ・ランカスター!」  未練がましいと思いつつ、言わずにはいられなかった。 「精々覚悟することだ。次は庇護や投資などという生温い理由は用いない。容赦なく征服 にかかる。服従を強いる。お前の事情など一切無視して義務を為すよう強制させる」  小公女サァラは屋根裏の魔法を拒むことを許されない。シンデレラに王子の好意を拒否 する権利はない。ランカスターも同じだ。いつまでも灰被りではいられない。そのことを いずれたっぷりと教育してやる。頑固な後輩だが、だからこそやり甲斐もある。 「わたくしは杏里様のためのメイドですが―――」  金髪の罪人は天使の微笑を口元に称えた。  「挑戦にはいつでも受けて立ちますわ」  そう、或る先輩から学びましたから。ランカスターが付け加えた言葉を、イゾルデは鼻 で笑い飛ばした。まったく、食えない後輩だ。                                 to be continued........(下編に続く)