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267 名前:市民が支えたカープを後世に伝える 元球団職員が語り部に:2008/09/23(火) 07:23:59
 プロ野球・広島東洋カープのホームスタジアム「広島市民球場」(広島市中区)が今季限りで閉鎖されるのを前に、球団職員OBの渡部英之さん(78)が、球団草創期の話を後世に伝える「語り部」の活動に取り組んでいる。市民からの寄付金で建設された球場は、原爆で打ちひしがれた人々を元気づけた「夢の器」。球団も、戦後、貧しいころから市民が支えてきた。渡部さんは「市民とともにあった歴史を忘れないでほしい」と話している。

 「カープは特定の親会社を持たない。復興に励む市民の心の支えになろうと結成され、選手の給料も寄付でまかなった市民球団」。市民球場について学んでもらうイベントで、渡部さんはこう、聴衆に語りかける。

 昭和25年のカープ誕生から、市民球場ができるまでの苦難の歴史。特に、創設2年目に、多額の負債を抱えて役員会で解散が議決されたことなどを知らない若いファンも多い。だが、市民・県民が、4カ月で地区や企業単位の後援会163支部を結成。約270万円を寄付するなどし、危機を救った。

 渡部さんが球団入りしたのは翌27年。当時の職員数はわずか5人。チケットのもぎりから、選手紹介などのアナウンスまで何でも担当した。

 しかしなかなか、経営は上向かない。試合が雨天中止になったとき、料金を払い戻さず「みなさまの入場料はカープの強化資金としていただきます。ありがとうございました」と渡部さんが放送したこともある。が、ファンから文句が出たことはない。

 このころ、球場入り口に樽(たる)を2つ並べ、「球団の危機を救ってください」と呼びかける「樽募金」も実施。みんなが募金をしてくれた。「みんな、自分たちの手でカープを育てている−と思ってくれていたのだと思います」。

 当時のグラウンドはセ・パ両リーグで唯一ナイター設備がなく、市民球場建設の機運が高まった。寄付や募金などで完成したのは昭和32年。渡部さんはナイター照明がともった球場の様子を「まだ街灯もまばらな街中に、天まで焦がすような光が浮かび上がった」と思い返す。それはまさに復興の象徴だった。

 渡部さんは昭和59年に退職。平成18年になって講演を頼まれたのを機に「これも広島が語り継ぐべき歴史」と、語り部活動を開始した。年に数回の依頼があったが、市民球場ラストイヤーの今年はほぼ毎週末、講演などを実施。また、昨年2月には、渡部さんらからカープの歴史を学んだ市民約30人が、後継の語り部活動をスタートさせている。

 現球場での最後の公式戦まで残りわずか。来季からは同市南区に建設中の新球場がオープンし、球団も新たな歩みを始める。渡部さんは「市民とともにあった球団の歴史は広島の誇り。若い人たちは、新しい歴史を加えて語り継いでほしい」と強く願っている。



ttp://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/080922/bbl0809222258018-n1.htm
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