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■ 【鉄人!・・じゃないけど】円盤皇女ワるきゅーレ総合【28号】

453 名前:明日への伝言:昭和のあの日から 東南海地震で大津波 高台に逃げろ:2008/10/20(月) 22:26:42
◇絵と語りで教訓学ぼう
 大きな津波が三重県南部の静かな漁村を襲った。1944年12月7日、「昭和東南海地震」によるものだ。

 「土煙あげて家が迫って来てな、あっけに取られていたら、土煙の背後に波しぶきが見えた。これは津波やなあと、初めて感じた」「家がそのまま持ち上がって山にたたきつけられた」。64年前と変わらず、港から約50メートルの所にある家で、三重県大紀町錦(旧・錦町)、西村浪治さん(82)は、時に目を見開き、身ぶり手ぶりで語る。「その時」は今も色あせず、ありありと語ることができる光景だ。

 県などによると、マグニチュード8クラスで、県全域で被害があった。死者・行方不明者は589人に達する。津波は地震後10〜20分で到達し、尾鷲市で最大10メートル、西村さんのところも6メートル級の津波が来襲している。

 現在、東海・東南海・南海の3地震連動での発生が危惧(きぐ)されている。三重県の地域防災計画では、3地震が連動するとマグニチュードは8・7で、最大7メートル級の津波が、志摩半島や熊野灘沿岸に十数分で到達する。被害は最大で全壊棟数3万棟、死者6000人。西村さんらの体験は、明日にも起こるかもしれない危機に対する貴重な助言に他ならない。

 ただ、昭和東南海地震は戦時中に発生したため、詳細が伝わっていない。このため、名古屋大災害対策室と県地震対策室は、体験談を文章と絵で伝える事業を、06年度から3カ年かけて行っている。

 顕著な被害を受けた尾鷲、熊野の2市、南伊勢、大紀、紀北3町の被災者14人から聞き取りを行った。教訓が含まれる場面などを計80枚の絵にし、報告書と併せて冊子にする。西村さんも体験談を寄せた一人だ。「発生から復旧までの体験を一つのストーリーとして見せることで相手に身近な話にでき、教訓を根付かせられる」と災害対策室の木村玲欧助教は言う。

 これまでの聞き取りから引き出せる教訓は一言、「大きな地震が来たら、すぐ高台に逃げろ」だ。西村さんには、大きな波が来るまでに、足の悪い叔母や、助けを求めていた母子を高台の小学校に避難させることができた。安政東海地震(1854年)での津波被害が語り継がれ、高台に避難するということを思い出したからだ。だが、「津波は来ないだろう」と地震で割れた窓ガラスを片づけていた人や、津波の高さを低く想定して2階に荷物を上げていた人々が被害に遭った。避難途中で親類を助けに戻ったきり帰らなかった人もいるという。

 災害対策室の分析では▽地震があれば津波が来ると連想できない▽避難準備に手間取る▽災害時要援護者の避難支援で時間がかかる▽一時避難しても忘れ物を取りに戻る−−などが、速やかな避難の阻害要因となるという。このほか、漁村の利を生かして援助物資の受け取りに漁船を利用したこと、発生から2カ月ぐらい後には公助で仮設住宅が建てられたことなど、当時の復旧支援の状況も、特筆すべき事柄という。

 林能成助教は、聞き取り結果を防災教材にして、沿岸部ばかりでなく内陸部の子どもたちにも学んでほしいと思う。「三重は県内外から海に遊びに来る人が多い。そういう人たちこそ津波を知っておく必要がある。この貴重な体験を広めたい」



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