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■ 【鉄人!・・じゃないけど】円盤皇女ワるきゅーレ総合【28号】
892 名前:
【もう一つの京都】掘りたいけど掘れない…ナゾに包まれた平安京の実情
:2008/12/20(土) 16:30:13
平安京に住んでいた貴族の邸宅といえば「寝殿造」を想像する人も多いだろう。辞書で調べると「中央に南面して寝殿を建て、その左右背後に対屋を設け、寝殿と対屋は廊(渡殿)で連絡し、寝殿の南庭を隔てて池を作り中島を築き、池に臨んで釣殿を設ける」(広辞苑)。
南庭にある池を「コ」の字型の建物で囲う−歴史教科書でもおなじみの姿だが、実はこのような寝殿造の邸宅跡が発掘された例は今のところ少ない。
昭和54、55年、山城高校(京都市北区)の敷地内で左右対称の形で建物跡が検出された。寝殿造の存在を実証する「邸宅跡」とされているが、池が見つからない。今では役所の跡だったとも考えられている。
では寝殿造とは何なのか。京都市考古資料館の長宗繁一館長は「そのイメージを植え付けた張本人は、沢田名垂(なたり)だと私は思っています」と語る。
沢田は江戸時代後期の人物で、天保13(1842)年に記した日本の住宅史「家屋雑考」に寝殿造の絵が登場する。現代の日本人が抱いている貴族の邸宅は、沢田のイメージ図を引きずっているらしい。
沢田は和歌や国文学の研究者。家屋雑考は発掘調査に基づくものではなく、平安時代の貴族の日記といった文献をもとにまとめられたとみられる。
実際に貴族が住んでいた邸宅はどのような姿をしていたのか。
「今のところわかりません」と長宗館長は苦笑いを浮かべつつ、こう語る。「寝殿造という一つのパターンが当時あったわけではなく、色々なパターンがあったと思います」。
それを実証する材料を見つけることができない。京都は遷都以来、1200年にわたって人が住み続けた都市。壊れては新しい建物が造られ、区画の改良も繰り返されてきた。今や140万人以上が住む大都市で、ビルや家屋が密集する市街地では大規模な発掘調査はできず、考古学的な立証を阻んでいる。
望みがあるとすれば、学校などの大規模な建て替え。
平成14年、西京高校(中京区)の改築に伴う発掘調査では、池跡と釣殿のような建物跡が完全な形で現れた。土器に書かれた文字から、伊勢神宮に仕えた「斎宮」が住んだ邸宅だったことが判明した。
このようなケースは珍しい。昨年、二条城(同区)近くの堀河院があった学校跡地で大規模な発掘調査が行われた。成果が注目されたが、出てきたのは池だけで、建物跡は見つからなかった。しかも池が複数あるという想定外の発見で、池の形状すらつかめない事態となった。
調査区域の東側は大部分が未調査だが、ビルや家屋が林立して、手がつけられない。平安絵巻に描かれた邸宅の全体像は、手がかりすら見せない。
(中略)
「平安京の場合、これからも全体像はなかなか分からないでしょう。まあ、考古学に定説はありませんから」と長宗館長。京都という都市が積み重ねた年月の長さに比例して、平安京はなかなか実像を明らかにしてくれない。
ttp://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081220/acd0812201405004-n1.htm
ttp://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081220/acd0812201405004-n2.htm
ttp://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081220/acd0812201405004-n3.htm
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