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■ とかげ
- 1 名前:◆MidianP94o :2008/08/29(金) 23:52:50
転生無限者【てんせいむげんしゃ】
生き続けるもの。
死に続けるもの。
無限に転生を繰り返すことで、死徒や妖魔とは異なる不老不死を可能とする。
死ねば肉体を離れ、新たな躯に憑いたり生まれ変わったりするため、追跡は
困難を極める。死徒27祖のひとりアカシャの蛇≠ェ有名だが、教会や協会は
他にもタイプの異なる数人の転生無限者を存在していることを確認している。
転生無限者が果たして人間なのか、それとも人外なのか。その定義は非常に
曖昧で、機関や研究者によって見解は異なる。
――――オーガスト・ダーレス『神秘学用語辞典』より
- 2 名前:アセルス ◆MidianP94o :2008/08/29(金) 23:53:32
Prologue
ひとの命は脆い。自信の身をもってそれを証明したはずなのに、学習しない
私は同じ過ちを繰り返す。……気まぐれの不運はいつだって突然だ。もう百年
も昔、ある少女が馬車に轢かれただけで壊れてしまったように。
取り返しのつかない悔恨が冷え切った躰を焦がす。
『まだ、もう少しだけ、人間のままでいたいんです』
なぜ、彼女の言葉を安易に受け容れてしまったのか。
『いま、行くわけにはいかないんです。わたしはまだ子供で、この躰は父と母
のものだから。でも、大人になれば―――』
耳を貸す必要なんてなかった。
『約束してください、アセルス様。わたしが成人した夜に、必ず迎えにくると。
わたしを永遠の世界に連れて行ってくれると』
さらってしまえば良かったのだ。
『わたし、待ってますから。アセルス様を信じて、待ってますから』
なのに、私は彼女がそれを望むなら≠ネどという欺瞞に目がくらんで。
『待ってますから―――』
ひとの命は脆い。
彼女に気付かれないように警護の妖魔を派遣しようと、その事実から逃れる
ことはできない。気まぐれに気まぐれが乗算され、不運と不運が掛け合わされ
れば、稀代の美女であろうとその容姿にそぐわぬ呆気ない末路を迎える。
まさか、夏風邪を治すために呼んだ医者が薬の調合を間違えるなんて。悪意
も殺意も存在しない世界に住んだまま、彼女の笑みを失うことになるなんて。
良家の令嬢だった。
ほんとに美しい娘だった。
妖魔の君≠ニいう立場を隠し、夢魔と偽って屋敷に忍び込んだ。彼女は私に
脅えもせず、「愉快な悪魔さん」と呼んで友達になりたがった。世間を知らな
いがゆえの無邪気が、私の瞳にはとても眩しく映った。月に一度の新月の夜、
彼女の部屋で密会を重ねた。気付けば友人ではなくなっていた。私の望むがま
まに、彼女は私のものとなり、私は彼女のものとなった。
そのまま、誰に気付かれることもなく、成人の夜に、彼女は悠久の闇へと旅
立つはずだったのに。私の寵姫となり、永遠を手にするはずだったのに。
最後の新月の夜。彼女の屋敷に駆けつけたときには既に、葬式が始まってい
た。彼女は私の手を取ることなく、ひとりで永遠となってしまった。
八つ当たりに警護の妖魔を八つ裂きにした。元凶であるヤブ医者にはもっと
深い苦しみを与えるべきだったが、私の怒りの瘴気を浴びた途端に心臓を止め
てしまった。満足に復讐することすら許されなかった私は、人間の身分を偽っ
て彼女の葬式に参列した。狭く暗い棺桶に幽閉され、墓地へと運ばれてゆく彼
女を呆然と見送った。土がかけられ、墓碑が立ち、参列者が散り散りに解散し
ても、その場から離れることはできなかった。
人目につかぬよう離れた場所から、昼も夜も構わずに彼女が眠る場所を見守
り続けた。私の胸は、思い出を融かす空虚で占められつつあった。
虚無の隙間からは狂気が芽生える。いっそ墓を暴いて、彼女の亡骸だけでも
針の城に迎えるべきじゃないだろうか。そんな考えがふとよぎったとき、視界
の先で、土が盛り上がり、墓碑が揺れて、白蝋の如き腕が地上を求めて突き出
した。我が目を疑う光景。そして、ああ、そして彼女が―――
- 3 名前:アセルス ◆MidianP94o :2008/08/30(土) 00:24:42
再び夜空の下へと戻ったきた彼女は、はだけた屍衣から蜥蜴の刺青を覗かせていた。
.
- 4 名前:◆MidianP94o :2008/09/02(火) 22:52:29
とかげvsアセルス
零姫・甜蜜蜜(超仮題)
.
- 5 名前:◆MidianP94o :2008/09/02(火) 22:52:56
零姫【ぜろひめ】
先代妖魔の君、オルロワージュの最初の寵姫。
オルロワージュを逆吸血した唯一の妖魔でもある。
妖魔の君の力を得たことで転生無限者となり、死ぬ度に生まれ変わって赤ん
坊から人生をやり直している。転生を繰り返して世界中をさまよっているが、
その美貌が絶えず不幸を呼び寄せて、彼女の居場所を奪ってしまう。
上級妖魔にしては珍しく人間の社会を愛し、人間の生活を求めている。
零姫は新生妖魔の君アセルスとは別の意味でオルロワージュの血を継ぐも
の≠フため、アセルスからしてみれば目障り極まりない存在のようだ。零姫が
転生する先々にアセルスが現れ、結果的に無理な転生を強いている。
特性上、自身の領地を持たないため所在は不明。
とかげ【とかげ】
詳細不明。神を喰らうことで転生無限者となった男。
――――魔術師協会封印指定手配書『転生無限者』の項より
- 6 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/02(火) 22:55:09
クーロンは常夜のリージョンだ。
けど、同時に夜を拒むリージョンとしても知られている。
暗黒の天蓋を恐れるかのように、煌々と焚かれる無限のネオン。
常夜であるがゆえに昼も夜もなく活動する人と人と人、そして人。
雑踏が喧噪が矯声が夜の静寂を頑なに拒む。
クーロンは永遠の夜に縛られているがためにどのリージョンよりも深く夜の
恐ろしさを知り、だからこそ夜を強烈に拒否する。
……そう、この街は眠らない不夜城。
一束いくらの人間の命を燃焼させて闇を払う。
―――終わらない不眠症に悩まさるリージョンで、あたしたちは今日も澱んだ
空気を吸い、ネオンのまばゆさに目を細めながら生きていく。
.
- 7 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/02(火) 22:56:01
第一章「不夜城クーロン」
,
- 8 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/04(木) 05:44:42
.01
ぞんざいにドアチャイムを鳴らす。玄関の奥から出てきたのは二十歳前後の
派手めの女だった。あたしを認めるなりぎょっと顔を強ばらせる。迂闊にドア
を開けてしまったことに対する後悔がありありと感じ取れた。
あたしはちっと舌を打つ。これだから共同租界で仕事をするのはいやなんだ。
こいつ等はクーロンにいながらにして、クーロンの人間っていうのをリアルで
感じていない。人を容姿で判断してびびるような真似をするなんて。
―――頬の蜥蜴が疼く。
「……引き取りに来たんだけど」
言葉にも自然と棘が含まれた。……いや、これはいつも通りか。
「ひ、引き取り?」
女の顔がひきつる。
「あ、ああ。そ、そう。引き取り。回収よね。ごめんなさい、ちょっと想像し
ていた人と違ったから取り乱しちゃって」
うるせー馬鹿。ほっとけ。
唐突に部屋を引き払うことになった。身ひとつで出ていくから、家財道具や
服飾品などすべて買い取って欲しい。そう連絡を受けたから、わざわざ中心街
から出張してきたんだ。さっさと見積もりをさせて、さっさと戦利品を積み込
ませて、さっさと帰らせろ。
「たったこんだけ? トラックいっぱいに積んでおいて?」
女は最後まであたしに対する警戒を解かなかったけれど、あたしが提示した
買い取り金額にだけはしっかり文句をつけてきた。
あたしは如何にも面倒そうに答える。
「いや、ほとんどゴミだし。処分するのだってただじゃないし」
すでに積み込みは済ませているんだから、この金額でノーとは言わせない。
そのことは女も理解しているらしく、渋々ながらあたしが突きつけたキャッシ
ュを受け取った。
―――ここでのもう仕事は終わった。見積もり鑑定のために必要だった蜥
蜴の眼≠眼帯で隠す。肩まで乱暴に伸ばした赤毛を翻して三輪トラックの運
転席に乗り込んだとき、あたしの背中に女が恐る恐る問いかけた。
「……あなた、ほんとに人間? 少なくとも、堅気じゃないわよね」
頬から鎖骨にかけて痣にも刺青にも見える蜥蜴を飼い、燃え盛る赤毛で見る
ものを威嚇し、瞳孔が極端に細い爬虫類の眼を眼帯で隠す。そして、家具も家
電も一人で楽々と運び出せてしまう程度には力持ちな細腕。加えて自分でも困
ってしまうぐらいに美少女だっていうんだから、なるほど、これは確かに人間
離れしているように見えるかもしれない。
あたしは女の問いかけを鼻で笑い飛ばしてイグニッションキーをひねった。
堅気なのか、ヤクザなのか。人間なのか、化け物なのか。人として存在する
権利を与えられない針の城≠フ住人にとって、その質問はあまりに滑稽だ。
「ここをどこだと思ってるんだい。ここはクーロンだぜ」
そう言い捨てて、あたしはアクセルを踏み込んだ。
- 9 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/04(木) 05:46:45
火蜥蜴(ロンユエン)≠フイーリン。
それがあたしの名。
あたしの通り名と、本名。
孤児のあたしには、誰がイーリンという名を付けたのかは知らない。覚えて
いない。けど、あたしを火蜥蜴≠ニ呼んだのが誰かは知っている。
媽媽(マーマ)だ。
あたしの赤毛と刺青を揶揄してそう呼び出した。あたしの記憶が残る限り、
マーマは一度もあたしをイーリンと呼んだことはない。
火蜥蜴―――パラケルススの四精霊がひとつ、サラマンドラ。
かわいげの欠片もないあだ名だけど、名は体を為すというか、なかなか的を
射たネーミングだとは思う。あたしの赤毛は唐辛子のようだし、心臓へと這い
進むように肌に張りついた蜥蜴は、長く鋭い尻尾が頬に伸びて疵(スカー)の
ように見える。普段は眼帯で隠している右眼なんて、あからさま人間のそれと
は違う、畸形としか言いようがない魔眼だ。
火事のような髪に、蜥蜴の刺青と眼を持つ小娘には、イーリンなんて愛らし
い名前よりも、幻獣・火蜥蜴のほうが相応しい。気付けばマーマだけではなく、
あたしを知る誰もがあたしを火蜥蜴(ロンユエン)≠ニ呼ぶようになった。
クーロンの火蜥蜴。それが、あたしだ。
* * * *
むせ返るほどに濃密な香水とニンニクの臭い。クローンの中でも中心街特有
の異臭があたしを歓迎する。続いて、十数種類の雑多な言語が耳に襲いかかっ
た。誰が誰に話しかけているのやら、誰もが声を張り上げて怒鳴り合っている。
色とりどりのネオンに出迎えられながら、あたしは荷物を満載した三輪トラ
ックを進めた。―――多くの人間がリージョン・クーロン≠ニ聞いて真っ先
にイメージするこのメインストリートは、まず嗅覚と聴覚から始まって、最後
に視覚が到着を告げる。つまり、臭くて喧しくて目障りな通りということ。
馬車も人力車も現役のクーロンでは、数秘機関(クラック・エンジン)式の
自動車は非常に貴重だ。自動車即ち超富裕層の道楽玩具と断言しても間違いは
ない。こんなニンニク臭い通りで人混みに揉まれているような連中には、まず
縁がない乗り物だ。だから、オンボロの三輪トラックでも目立ちに目立つ。
あたしとトラックの姿を認めた途端に、ガキの物乞いどもがばっと群がって
きた。狭い運転席を囲うようにして、なにかくれと囃し立てる。それを目隠し
にして、荷台に回った何人かが積み荷を掠め取ろうっていう算段だ。
あたしはハンドルの真ん中を叩いて、改造したクラックションを鳴らした。
圧縮された言霊がホーンから拡散して、ガキどもを残らず弾き飛ばす。
殺傷性なんて欠片もない敵意をもった音圧≠ノ過ぎないけれど、ガキども
を脅かすには充分だ。幼い物乞いたちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていっ
た。その様子を、あたしは醒めた目つきで見守る。
……よくもまぁ、毎日飽きもせずに繰り返すぜ。
メインストリートをこの三輪トラックで通ることは、毎日どころか、日に二
度も三度もある。その度にガキどもはあたしの積み荷を狙い、そして撃退され
ていた。いい加減、とっくに車種もあたしの顔も覚えているはずなんだけど。
それだけこいつ等も必死っていうことか。
あたしはふんと鼻を鳴らして、トラックをゆっくりと進めた。
- 10 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/04(木) 05:50:04
メインストリートに立ち入った瞬間から、人口密度は跳ね上がる。
表通りと言っても、せいぜい馬車が通ることぐらいしか考慮せずに舗装した
道だから、当然のように道幅は広くない。そこにさらに、無許可の屋台がずら
りと道の両端を占拠するのだから、人の流れは悪くなる。歩いて進むことすら
困難なんだ。とてもじゃないけど、トラックなんかで進めたものじゃない。
―――けど、あたしの事務所はメインストリートの裏通りにある。ここを突
き進む以外に道はない。進める進めないじゃなくて、進むしかないんだ。
だいたい、トラックと人間じゃ前者のほうが強いに決まっている。轢かれ損
のクーロンで、頑なに道を譲らない莫迦なんて滅多にいない。あたしはのろの
ろと進みながらも、決して止まることはせず、人混みをかき分けるようにして
トラックを前進させた。気分はまるで、人の海を泳ぐ鉄牛だ。
車の進みは遅い。そればっかりはしかたがない。殆どの人間は、あたしのト
ラックを見ると面倒そうに道をあけるけど、後ろから自動車が迫るなんて考え
たこともないであろうやつもいる。そういうのは大抵外の人間だ。世界の中
心<Nーロン・ストリートを闊歩することで、気がでかくなっちまっている。
対処法は簡単で、ケツをバンパーで小突いてやればいい。悪態を吐きながら
振り返っても、フロントガラス越しにあたしを見れば、必ず引き下がる。
ダッシュボードに如何にもわざとらしく、ポンプアクションのショットガン
を置いているのが効果的なのかもしれない。
喧噪をかき分け、雑踏を割りながらメインストリートをゆるゆると進む。
ふと横丁に繋がる路地に目を向けてみると、三人組の街娼がリージョンシッ
プの船乗りの一団に愛想を飛ばしていた。その様子をまんじりと見つめるのは
スリの悪童だ。隙あらば船乗りの稼ぎを奪い取ろうと目を光らせている。
クーロン・ストリートでは珍しくもなんともない光景だ。
すべては日常のまま。永遠の夜の中で、眠らない昼を繰り返す。
床屋が歩道に店を開き格安で散髪や耳掃除を請け負えば、飼い慣らした小鳥
に運動させる老人は竹籠に入れた鶸や鶯を観光客に売りつける。
屋台の店主は通行人の迷惑も考えず路上にテーブルを並べ、様々な屋台から
客たちは粥や麺、魯肉飯など思い思いの料理を選んで腹を満たす。
少しでも身なりの整った紳士を見つければ乞食がすぐに道を塞ぎ、IRPOに雇
われた下請けの警邏は人目も憚らずに大麻の煙草を吹かす。
零落した知識人は舗道にチョークで自伝を書き、いちばん心を打つ箇所に金
を置けと呼びかけた。
人間が生み出す狂的なエネルギーが夜の恐れをはね付ける。クーロンが不夜
城と呼ばれる由縁が、この通りにはあった。
……だけど、街並みを占めるのは人間ばかり。人外の姿はまずない。これだ
け人の熱気が渦巻き、想念がこびり付けているというのに、地縛霊ひとつ見え
やしない。クーロン・ストリートは薄汚れた通りだけど、霊的な意味合いでは
異常なまでに潔癖だった。だから畸形のあたしは余計に目立つ。視線を集める。
でも、誰も声をかけてはこない。
観光客や船乗りはともかく、メインストリートで商売をしているような連中
なら、故買屋の火蜥蜴≠フ名ぐらい知っているはずなのに。
誰もあたしに関わろうとはしない。
―――それはあたしが針の城≠フ住人だから。
メインストリートを含む中心街はリージョン・クローンの顔と云われている。
そういうことになっている。でもあたしから言わせれば、共同租界同様に、や
っぱりここはクーロンじゃない。クーロンお試し体験版。夜の世界をちょっと
だけ覗いてみよう。だけど本物の危険はゴメンです。その程度の街だ。
- 11 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/04(木) 05:53:45
メインストリートを抜けて、ようやく裏通りに辿り着いた。表通りほどでは
ないけれど、ここもクーロン・ストリートの一部だけあって人通りは多い。
あたしは路上に寝転がる酔客を轢かないように注意しながら、事務所に向け
て車を進めた。ネオンの明かりが遠ざかるだけで、視野はだいぶ狭くなる。
あたしの事務所兼倉庫は、雨の多いクーロンで、水はけ良くするために作ら
れた人工河川沿いにある。三階建て、鉄筋コンクリート造のボロビルディング。
ビルと呼べば聞こえはいいけど、面積の狭さを高さで補っているだけだ。
入り口にトラックを停めると、エンジンを切るより疾く事務所から巨人が飛
び出してきた。……そう、巨人だ。あれを人間と呼ぶのはかなり苦しい。
異様なまでに盛り上がった筋肉と、それを覆う鬱血したまま壊死したような
青黒い肌。胸板はドラム缶を横向きに埋め込んだかのように厚く、比例して肩
幅も広い。その巨腕は冗談ではなく、あたしの胴体がすっぽりと収まってしま
う。背丈は天を衝くほどで、あたしの1.5倍はある。仮面劇で用いられるような
牙を剥く悪魔の面を被っているため、表情は確認できない。
人間のかたちこそしているものの、巨人の躰は人間が持てる肉体の限度を超
えていた。……無理もない。だって彼女≠ヘ人間なんかじゃないんだから。
新鮮なミノタウロスの死体に、トリニティの中央部から流れてきた中古品の
人造霊(オートマトン)を魂の代替品≠ニして宿すことで生ける死者≠ノ
した人造僵尸=Bそれが彼女だ。名前はハダリーという。
仮面を被っているのは、死者である以上、彼女は生前のミノタウロスとはま
ったくの別物だから。存在の揺らぎを少しでも誤魔化すために、仮面を被らせ
ている。ハダリーの素顔はあの仮面だと思ってくれて構わない。
死体いじりと人造霊の改造はあたしの趣味にして、蜥蜴の眼≠もっとも
有効的に活用できる特技でもあった。その中でもハダリーは歴代最高傑作だ。
このクーロンで手に入らないものなんてない。あたしがミノタウロスの死体
を選んだのは、単純に身体能力が高いほうが便利だったからだ。
望めば当然、人間の死体だって手に入る。倫理さえ無視すれば人造僵尸の娼
婦だって作れるだろう。究極のダッチワイフだ。
……ただ、それにかかるコストを考えれば、高級娼館で一週間豪遊したほう
がよっぽど経済的だというだけで。
このハダリーだって、今日までに注ぎ込んだ金は、苦力(クーリー)千人を
一ヶ月間ゆうに雇えるぐらいの額には上っている。
まぁつまり、道楽ということ。
「社長、オカエリナサヰ」
ハダリーは片言であたしを出迎えた。憑依した肉体を通して呪文を発声する
人造霊は多くても、自発的に会話を試みる人造霊は、なかなかいない。
これもあたしの教育の賜物か。
でも―――
「社長はやめろって言ってるだろ、ハダリー」
「スヰマセン、社長」
知能は人間サマには遠く及ばない。
……別にいいんだ。あたしは、人間を造りたかったわけじゃないんだから。
むしろ、人間を雇いたくなかったからこそ、ハダリーを積極的に労働力とし
て使っているのが真実か。でなければ、こんな燃費の悪い雌牛なんて誰が飼う
ものか。―――いや、あたしがホルモンバランスとか筋肉強度とかをいじりす
ぎたせいで、外見は雄にしか見えなくなってしまったんだけどさ。
それでもきっと魂のレベルでは、乙女心を有している、はず。
- 12 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/05(金) 18:42:02
あたしは運転席から降りると、ちょうどあたしの目の位置にあるハダリーの
腹筋を拳で叩いた。ゴムタイヤどころか、鉄板のような堅さ。
「荷台にあるやつ、冷風機と乾燥機は適当に掃除したら倉庫にぶち込んでおい
て。加熱調理器と冷蔵庫は欲しがっている人知っているから、明日あたしが持
っていくよ。これは磨いたら、荷台に戻しておいて」
あたしの指示に、ハダリーは「ハヰ、ハヰ」と機械的な返事をする。
「他にも家電製品や蒸気製品はいくつかあったね。ぜんぶ在庫にしちゃうから、
リストアップしておいてよ。家具の方はほとんどゴミかなぁ。化粧台だけはブ
ランドものっぽかったけど。化粧台以外は全部バラして木材にしちゃっていい
や。食器類はそのままホワンのとこに流しちゃうから、木箱ごと倉庫へ」
「魔術品ワ、ナヰノデスカ」
「相手は商売女だぜ? そんなもの持ってないって。ま、共同租界に住んでる
だけあって、ものは上等だけどさ。どれもそこそこ高く売れるぜ」
「お疲れサマです。じャあ、ここワ私ニ任せて、社長は事務所デゆっくりして
クダサヰ。ここワ私に任セテ」
「あ、ああ……」
言われなくてもそうするつもりだけど。
……どこでそんな不自然な気づかいを学習してきたのか。あたしは首を傾げ
ながら、ビルの奥へと消えていった。
* * * *
このビルは大まかに分けて、一階がガレージ兼倉庫、二階が事務所、三階が
あたしの工房やあたし以外の社員≠フ住居で構成されている。
社員と言ってもあたしを含めて三人しかおらず、一人はハダリーなため、真
っ当な人間と呼べるようなやつは残りの一人しかいないのだけど。
その一人っていうのが、あたしがロートル(老頭児)と呼ぶ男だ。自分では
ジェフリーと名乗っている。
薄くなった白髪をオールバックにした六十代半ばの老人だけど、年齢の割に
は壮健で、痩せてはいるが上背があるためそれなりに貫禄もある。
常に服装に気を配っていて、腰に張りつくようなタイトなスーツしか着よう
としない洒落者だ。
あたしがマーマに拾われた頃から、面倒を見てもらっている。
十年以上前、まだクーロンに妖魔租界があり、妖魔や魔物が平気で街中をう
ろつく魔界都市≠セった時代。ロートルはクーロン・マフィアとして、人か
ら怖れられる存在だったらしい。このリージョンで黒社会の一員として生きて
いくには、荒事が得意なだけではなく、運気に恵まれ、抜け目がないことが必
要だ。かつてはロートルも暴力を手なずけ、野心に満ちていたんだろう。
―――いま、その名残を垣間見ることはできない。
あたしはロートルをビルの外で見たことはない。ロートルの言葉を信じるな
ら、妖魔租界戦争∴ネ後、十年近くこのビルから一歩も外に出ていないこと
になる。馴染みの商売相手は快く受け容れるが、一見の客は絶対に事務所に立
ち入らせない。ロートルは極度に知らない人間≠ニの接触を怖れていた。
屋内で黙々と事務仕事をこなす。それが、かつてのクーロン・マフィアの成
れの果てだ。
- 13 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/05(金) 18:42:17
事務所の扉を開く。ロートルは、あたしが戻ったのに気付くと、作業を中断
して椅子から立ち上がった。帳簿かなにかをつけていたんだろう。銭勘定はす
べてロートルに任せている。引きこもりと言えども、クーロンで六十年以上の
時を過ごした経験と博聞は貴重だ。
信用もあった。あたしとの付き合いは、マーマに次いで古い。それにロート
ルは、あたし以外に頼れるやつがいない。
このビルを追い出されたら、たちまちショック死しちまうんじゃないだろう
か。それ程までにロートルは外≠怖れていた。
だから、十代半ばの小娘にも平気でへつらう。
「社長、早かったですね」
ロートルの決まりきった挨拶。夜しかない世界で、遅いも早いもないだろう
に。あたしは嘆息して応える。
「だから、社長はやめろって」
昔は小姑娘(シャオ・クーニャン)≠ネんて呼んで、あたしをからかって
いた。ロートルがあたしではなく、マーマに雇われていた頃の話だ。
マーマが引退して、雇い主が変わった途端に態度も変わった。
「でも、あなたは社長ですから」
あ、そう、とあたしは適当に返事をする。ハダリーともロートルとも、毎日
のように繰り返している儀式のようなやりとり。あたしは別に社長なんかじゃ
ないし、会社だって経営しているつもりはないのに。
ただ飯のタネを稼いでいるだけだ。
―――このビルも、得意の客筋も、故買屋という商売も、社長という肩書き
も、クーロンで生きていく術すらも、あたしはマーマから受け継いだ。
十年前。身よりもなく、記憶も曖昧なまま路地裏で凍えていたあたしに手を
差し伸べてくれたマーマ。左右で虹彩の異なる両眼を持ち、不気味な刺青を彫
り込んだ外道の子を、見せ物として売り飛ばすわけでもなく、自らの娘として
迎え入れてくれたマーマ。あたしがいまこうして生きていられるのは、すべて
彼女のお陰だ。マーマはあたしの母であり、師であった。
阿嬌(アキュウ)。それがマーマの名前。
本名ではないけれど、若く見られること、若く美しい女性として扱われるこ
とを何より好んだマーマは、人にそう呼ぶよう強いていた。あたしからマーマ
と呼ばれるのも、あまり嬉しくなかったに違いない。成長が遅いあたしを見る
度に、マーマは溜息をこぼしていた。
マーマはクーロンの女傑だった。クーロンでは主席の名前は知らなくても、
阿嬌の名は畏敬をもって反芻する人が大勢いる。
誰よりも強くたくましい女性だった。
『家族以外のなんでも買い、なんでも売る』と豪語するマーマは、言葉通り、
盗品を扱う故買屋を勤め、情報屋稼業を営み、娼館をいくつも持ち、不動産も
扱った。阿片窟の経営にすら手を伸ばしていた。
黒社会とも強力な繋がりを持ち、妖魔租界戦争∴ネ後、クーロン黒社会の
勢力図が劇的に書き換えられた後も、その地位は不動のままだった。
いま、あたしが火蜥蜴≠フ二つ名とともに怖れられている理由の半分は、
「あの阿嬌の娘」という事実があるからだ。残りの半分は、言うまでもなくこ
の外道の容姿。あたしの右眼を見れば、誰もが顔を歪め、心を乱す。
マーマだけだ。マーマだけが、「普通の人間とは違う」あたしから価値を見
出してくれた。あたしの右眼は、何物にも代え難い宝だと教えてくれた。
- 14 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/06(土) 22:17:04
あたしには幼い頃の記憶がない。マーマに拾われるまで、どこで何をしてい
たのか、まったく覚えてない。だから当然、出生の事情も分からない。
どうしてこんな右眼を持って生まれてしまったのか。どうしてあたしの頬か
ら鎖骨にかけて、蜥蜴の刺青が彫られているのか。どうして躰が傷ついても、
すぐに治ってしまうのか。どうして人より力があるのか。
全部、分からないままだ。
きっと魔物とのハーフなのだろう。リザードマンあたりにレイプされた人間
の女が、あたしを産み落として、そのまま捨てた。
……別に珍しい話でもなんでもない。妖魔租界戦争≠ナクーロンから妖魔
が駆逐されるまでは、この街にも妖魔や魔物と人間のあいのこがうんざりする
ほどいたらしい。そんなありふれた出生を悲劇として抱え持つ気はない。
どうして記憶がないのかも、覚えている価値がなかったからだろう、と考え
ることにしている。覚えていたくないほどの凄惨な記憶だったに違いない。
「もしかして、どっかのリージョンのお姫様だったのかもしれないよ」なんて
マーマはからかったりもしたけど、どっちにしろ、いまのあたしには五歳や六
歳の頃の過去なんて必要ない。
あたしという火蜥蜴は、マーマの娘だ。その事実だけで充分だ。
応接用のソファに腰掛けると、ロートルはジョッキにオレンジジュースを並
々と注いで持ってきた。あたしはそれをひと息で飲み干すと、ジョッキを突き
返して尋ねる。
「んで、なんかお仕事は入ったの」
「商品を見たいというお客様が一人。かなり脈ありです」
「なにか売れそうなの?」
あたしは倉庫に眠っている商品の数々を頭の中に浮かべた。基本的に、在庫
になるようなものは商品価値が低い。本当に売れるものは、予約の段階で何人
も名を連ね、入荷して即日捌けてしまう。
「ピアノです。グランドピアノ。二週間前にウーから買い取った」
あたしは口笛を吹く。あれが売れれば大儲けだ。
どこかのナイトクラブが潰れたとき、借金のかたに差し押さえられた大きな
黒檀のグランドピアノで、黒鍵は化石樹の枝を、白鍵はナイトスケルトンの骨
でできた最高級品だ。弾くものが弾けば魔曲の領域にまで昇華するだろう。
霊視を可能な蜥蜴の眼≠持つあたしにとって、そういった魔術品の査定
はもっとも得意とするところだった。
向こうはグランドピアノなんて抱えるスペースはないものだから、早急に売
り払いたがっていた。その足下を見て、格安で買い取ることに成功したんだ。
―――が、いくら格安と言っても物が物だけに高価な買い物だ。しかもグラ
ンドピアノは重くてでかい。ただでさえ広くない一階の倉庫が余計に圧迫され
る。あたしとしてはさっさと捌いてしまいたいのだけど、グランドピアノを、
しかも無駄に最高級品を欲しがるような客なんてなかなかいない。
魔術品なら金に糸目は付けないという金持ちもいるにはいるのだけど、そう
いった手合いに売りつけるには、あのピアノは少し綺麗すぎた。製造年はそこ
まで古くはないし、魔物の体皮や骨を使用しているのも、あくまで清涼な音を
出すためだ。好事家がよだれを垂らすようなおどろおどろしさを、あのグラン
ドピアノは持ち合わせていない。
- 15 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/06(土) 22:17:16
その分、音は繊細で、かつ張りがある。間違いなく稀代の一品だった。売り
つけるならば音楽家やパトロンだろう。……そう考えてはいるのだけれど、あ
たしの客にそういった音楽関係者はいない。誰か紹介してくれないものかと頭
を悩ませたまま二週間経ったけれど、まさか餌が向こうから飛び込んでくるな
んて。これは素直に嬉しい知らせだ。
「グオワンホテルから二時間ほど前に連絡がありまして。どこで聞きつけたか
は知りませんが、うちのバーラウンジで使いたいから是非、と」
舌打ちをこらえる。グオワンホテルは共同租界の中でも上流階級サマしか相
手にしない特等ホテルだ。現地民≠セとか先住民族≠ニ見下されるクーロ
ン人は、まず近づけない。売るときにも色々とごねるに決まっている。
そもそも、ああいった高級ホテルだとか高級レストランだとかは、バックに
黒社会がついている。正規のルートでは仕入れられないような商品は、そいつ
等を使って入手するもんだ。直接あたしにコンタクトを取ってくるというのは、
どうもおかしい。グオワンホテルとは一回も取り引きしたことがないんだから、
尚更だ。……誰かの紹介だっていうのならまだ分かるけど。
「明日、ホテルの裏口までピアノを持ってきて欲しいと注文が。商品の状態を
見て、買うか買わないか決めると仰っていました」
げ、とあたしは呻く。
冗談じゃない。あのグランドピアノをあたしのオンボロトラックで運ぶのは
大仕事なんだ。いくら人より力があるといっても、あんなデカブツはあたし一
人じゃ運べない。ハダリーを手伝わせればいいのだけど、あいつはいまの設定
だと繊細な仕事に向いていないから、調整する必要がある。傷を付けられない
ように毛布などで梱包した上で、ボロトラックの震動に負けないように、ハダ
リーの馬鹿力でがっちりと固定させないと。そうやって神経をすり減らして運
んでも、売れるかどうか分からないのだからやってられない。
面倒の極みだ。
あたしは吐き捨てるように言った。
「こっちに来させろよ、何様のつもりなんだ」
「租界の紳士淑女がたは、クーロン・ストリートまで来たがりませんからね。
裏通りともなると尚更です。一歩でも足を踏み入れれば、たちまち取って喰わ
れると思っているのでしょう。連絡をしてきたのも下人らしき男でした」
「だとしても、なぁ……」
面倒なものは面倒だ。それに、租界に住む外国人どものクーロン人に対する
差別意識は病的なまでに強い。外国人専用のホテルなんかにあたしが顔を出し
たら、どんな扱いをされるか分かったものじゃない。わざわざ不愉快な思いを
してまで、新規の、それも一見かもしれない客にへつらうのはごめんだ。
「しかし社長、あのピアノは正直言って邪魔です」
ぐ、とあたしは言葉に詰まる。ロートルの言う通りだ。あんな大物を、二週
間も在庫として抱えてしまっている時点で、すでに客を選り好みできるような
状況じゃなくなっている。本来なら、どんなにいい品物であろうと買い手が見
つかりそうになければ引き取ったりしないものを、あたしの判断のミスで在庫
にしてしまった。……だって、あまりにお買い得だったから。
「ここは社長の、売り込みの腕の見せどころでは」
あたしにそんな腕はねえ。
- 16 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/06(土) 22:17:27
「向こうはいくらなら買うと言ってるの?」
「まず、こちらの言い値を聞きたいと」
「いくら吹っかけた?」
「百万クレジット」
百万……。
クーロン自治政府が発行している独自の貨幣竜貨≠ノ換算するなら、五千
万近い値段になる。半額まで値切られたとしても、あたしは大儲けだ。
「あのホテルはゼニ、持ってますよ」
だとしても、財布の紐が緩いかどうかは別問題だ。こっちの足下を見て、露
骨に値切ってくるに違いない。だが、値段交渉さえうまく運べば七十万クレジ
ット前後で売れるかもしれない。仕入れ値が十万クレジットだということを考
えると、かなりボロい。
―――こんなでかい儲け話を見逃したら、阿嬌に呪い殺されちまうぜ。
「……分かったよ、行くよ。その場で売りつけてくれば、二度手間にはならな
いからね。せいぜい粘って値段を釣り上げてくるさ」
「気をつけてください。くれぐれも正面から入らないように」
「ドレスコードに引っかかるってか」
「それもありますが、社長は……その、まだ少々幼いです。それに色々と奇抜
です。火蜥蜴≠知らないかたが見れば、ストリートギャングと勘違いされ
かねません。警備員と交渉するのは、お嫌でしょう」
はん、とあたしは鼻を鳴らす。
「だったら、ハダリーにスーツでも着せるさ」
* * * *
明日はピアノの取り引きだけで半日は潰れそうだ。他にも、何件か引き取り
の依頼が入っている。あたしは手帳を開いて、今週の予定を確認した。
―――はっ、と目を見開く。
今日の日程の欄に、書いた覚えのない落書きを見つけた。へたくそな百合の
花。線が歪んでいて、半端に閉じかけた傘のようだ。落書きの下には、特徴的
な丸文字で『あなただけの庭で待つ』と書き込まれている。
あたしはこんな字を書かない。自分の手帳に落書きもしない。けど、この手
帳は常に肌身離さず持ち歩いている。誰かがあたしに気付かれないように書き
込むのは不可能だ。―――ということは、つまり。
あたしは事務所の奥に引っこむと、眼帯をずらし、蜥蜴の眼≠ナ百合の落
書きを睨んだ。黄金の魔眼が、見えないはずの何かを霊視する。
―――微かに見て取れるのは、霊気の残留物。
あたしは手帳を閉じると、ロートルに「今日はもう上がるから、あとよろし
く」と声をかけた。……不自然に声が低くならないよう、注意しながら。
- 17 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/07(日) 23:31:05
事務所を後にしたあたしは、一階のガレージから蒸気機関(スチーム・エン
ジン)式のスクーターを引っ張り出した。
通勤用に使っている自動二輪車だけど、蒸気機関は数秘機関と違ってでかい
しうるさいし危ないしで、動力装置としてはかなりお粗末だ。故障も多く、ス
ピードもあまり伸びない。「歩くよりはマシ」という程度の乗り物だ。
因みに設計したのはあたし。シートの下にボイラーを設置するなんて、我な
がら正気の沙汰じゃないと思う。交通事故を起こせば文字通りケツに火がつく。
もしトラックを買い換えることがあれば、いまの三輪トラックに積んである
数秘機関を使い回して、ゼロから通勤用の二輪車を作ろうかなとすら考えてい
た。蒸気機関は煤の掃除だけでも骨が折れる。手がかかりすぎるんだ。
エンジンの構造上、ボイラーで燃料を燃やして作った蒸気がタービンを回し、
エネルギーを生み出すまでにはどうしても時間がかかる。ピストンがゆっくり
と動き始めるのを待っている間、あたしは手持ち無沙汰のまま、ハダリーが三
輪トラックから積み荷を下ろしていく様子を見守った。
実によく働いている。
「社長、ヲ帰りデスカ」
荷台を空っぽにしたハダリーが、あたしに近付いてくる。
社長はやめろって、とあたしは苦笑した。
「明日、ちょっと面倒な仕事があるからさ。ハダリーにも手伝ってもらいたい
んだ。調整が必要だから、いつもより早く顔を出すよ」
「ハヰ、社長」
「留守は頼んだぜ。あたしは帰って寝る」
「ハヰ、社長。ヲ気ヲ付けテ」
真鍮の排気管から蒸気が噴き出す。あたしはシートに跨ると、ハダリーに向
けて親指を立ててみせてから、グリップアクセルをおもむろに捻った。
はい、社長。お気を付けて―――
……お気を付けて、か。
ハダリーは、帰宅するあたしに「気を付けて」と言った。これは、別に蒸気
機関式スクーターが危険な乗り物だから注意しろ、というわけではない。
例え徒歩で帰宅したとしても、ハダリーは同じように「気を付けて」と言っ
ただろう。―――あたしが家に帰ること、そのものが危ないんだ。
だって、あたしは針の城≠ノ住んでいるから。
針の城≠ヘ、クーロンに数多く点在するスラムの中でも、行政機関がまった
く手出しをできない、唯一にして完全な無法地帯だ。
犯罪の苗床。暴力の釜。自由の末路。―――不夜城<Nーロンにおいて、
針の城≠セけは夜を怖れず、夜を識り、夜に融け込む異界だった。
針の城≠ゥら距離を置く人間は、誰もが口を揃えてあのスラムはもはやクー
ロンじゃない。クーロンでありながら、別の世界だと言う。
人外が跋扈し、魍魎が飛び回る魔界都市。
……でも、あたしは知っている。
針の城≠ェ異界なんじゃない。針の城∴ネ外の全てが異界なんだ。
十二年前に始まった妖魔租界戦争∴ネ後、変わってしまったクーロンにお
いて、針の城≠セけはかつての在り方を維持した。
つまり、人と人外の間に垣根のない、真の意味での無法都市。
針の城≠アそクーロンの本当の姿だと、あたしは信じてる。
- 18 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/08(月) 23:39:04
純粋なクーロン生まれクーロン育ちで学校に通えるガキなんて滅多にいない
けれど、このリージョンで生活する者なら、誰もが知る歴史がある。
それが「妖魔租界戦争と紅の魔人」だ。
いまでこそ人外は排斥され、人間の社会が根付くクーロンだけど、十二年前
まではそうじゃなかった。ファシナトゥール系妖魔貴族が居留する妖魔租界
から溢れ出した魔性の輩が、我がもの顔でクーロン・ストリートを闊歩した。
あたしみたいな半端物が白い目で見られることもなく、人間は夜を恐れなが
らも、それなりに敬意をもって夜を受け容れていた。
……もちろん、あたしはその時代を知らない。生まれてはいたはずだけど、
記憶が欠落している。何より幼かった。全部、阿嬌やロートルから聞いた話だ。
クーロンは歴史の始まりからずっと人間の社会だ。なぜそこに妖魔居留区な
んかが設けられ、人間は自らの立場を危うくしたのか。
妖魔租界は、シリウス領事という役人が自治行政担当として管理していたら
しいが、シリウスは爵位を持つ妖魔貴族で、居留地とは名ばかりで、領事とい
うより領主≠ニ呼んだほうが正しい支配政治を強いていたらしい。
軍を駐留させ、領事館という居城≠作り、シリウスは妖魔租界を「第二
のファシナトゥール」と呼んだ。
侵略行為にも等しいシリウスの強気な外交政策に、クーロン自治政府はなぜ
反発しなかったのか。どうして唯々諾々と人外の流入を受け容れたのか。
……答えは簡単で、そんな力がなかったからだ。
国営のリージョン間シップ・ターミナルが赤字続きで借金だらけのクーロン
自治政府は、土地を貸し、治外法権を与える代わりに国家予算規模の税収を妖
魔租界から得ていた。
それに、自治政府の腐敗は凄まじく、クーロン・マフィアの操り人形と化し
ていた。クーロン・マフィアをスポンサードしていたのはファシナトゥールを
頂点に仰ぐ妖魔貴族社会だ。
自治政府と妖魔租界の力関係は歴然としていた。
君主がオルロワージュからアセルスに代替わりしてから、ファシナトゥール
は積極的に外の世界と関わりを持とうと試みている。各リージョンに、固有の
領地と独自の支配体制を持つ諸侯を置き、全リージョンに睨みを利かせていた。
百年前まで、ファシナトゥールは人間社会とは完全に隔絶された幻のリージ
ョンだったらしいけど、いまは堂々たる人類の天敵≠セ。
シリウスも、リージョンに散らばる諸侯のひとりというわけだ。
シリウスは、妖魔貴族らしからぬ無頼の男だったらしい。豪胆かつ寛容な気
性の持ち主で、故郷の空気を嫌い、ぐつぐつと煮えたぎるクーロンの鉄火な空
気を好んだ。「第二のファシナトゥール」なんて呼びながら、シリウスがクー
ロンに作ろうとしたのは、ファシナトゥールとは別種の常夜だ。
妖魔や魔物の社会は、出自ですべてが決まる。人間なんかよりはるかに厳し
い縦社会だ。卑しい種に生まれた魔物は永久に卑しく、上級妖魔はただそれだ
けで悠久の夜を怠惰に遊んで暮らせる。
妖魔公アセルスは人間出身のせいか、実力のあるものを積極的に取り立てる
らしいけど、諸侯の領主たちはいまでも昔からの風習に従っている。
シリウスはそんな息の詰まる妖魔のやり方を嫌った。渾沌を愛し、あらゆる
ものを受け容れると宣言した。それは人間すらも歓迎するという意味だ。
結果、租界には一発奮起のチャンスを求める荒くれ者が溢れ、人間も妖魔も
魔物も、「いつの日か成り上がる」という純粋な目的の下、共存を始めた。
- 19 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/08(月) 23:39:16
格差は広がった。
貧困が蔓延した。
スラムが巨大化した。
治安は最悪だった。
クーロンは魔術品や概念武装の非合法販売のメッカとなり、一箇所に魔力が
極端に集中したため、地盤が耐えきれず奈落墜ち≠フ危険が高まった。
シリウスは、「人も妖魔も平等」という言葉を好んで使った。価値を決める
のは、出自ではなく金だと。
そんなシリウスの政策から、人はクーロンを「誰もが平等に命の価値がない
リージョン」と揶揄した。人が魔物が妖魔が、あまりに簡単に生まれて、あま
りに簡単に死んでしまうから。
妖魔租界に支配されたクーロンの生と死で満たされた渾沌の街だった。平和
とはあまりに程遠く、安寧はどこにもなかった。
けど、当時のクーロンを知るひとは誰もが口を揃えてこう言う。
―――あの頃は自由だった、と。
在りし日の自由を見失い、あたしは不自由の現在を生きる。
妖魔租界の崩壊と魔界都市の消失は、十二年前に訪れる。話は伝説じみて、
誰も詳細な経緯を知らない。憶測が憶測を呼びながら、人は変化を受け容れる。
……ロマンもドラマも抜きに語れば、クーロン自治政府は浄化政策を打ち出
し、それに伴い(実質機能していなかった)警察権を放棄。治安維持をIRPOに
委託し、シップ・ターミナルを民営化した。
さらに自治政府は、租界政策を妖魔だけではなく、シュライクやトリニティ
など他のリージョンにも適用。治外法権を安売りし、外企業を貪欲に誘致した。
国土は切り売りされ、行政の執行力も失い、自治政府は完全に看板だけの存
在となったが、妖魔の言いなりになるよりかはマシ―――というのが、当時の
首脳陣の判断だったのだろう。IRPOとの闘争の結果、妖魔租界はお取り潰し。
浄化政策は成功し、潔癖なまでに人外を拒む風潮が生まれた結果を考えると、
自治政府の政策は成功したと云える。
でも、そんなのはあくまで表向きの歴史だ。
シリウスはIRPOが嘴を突っ込んできただけ引っこむようなタマじゃない。
妖魔租界と、魔界都市と化したクーロンは、貧弱な自治政府が浄化を試みた
ところで掃除しきれるようなお手軽な汚れ≠カゃない。
講談師は語る。吟遊詩人は謳う。
―――これは、紅の魔人と涙の赤児の物語。
十二年前、妖魔租界のスラムに忌み子が生まれた。それは人間の子でありな
がら、妖魔すらも脅かす夜の結晶≠セった。
シリウスはただちに、赤児をファシナトゥールへ送れと指示した。君主アセ
ルスならば正しい処理ができるはずだ、と。
……だが、赤児がクーロンを出ることはなかった。
紅の魔人が上陸したからだ。
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