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■ とかげ

1 名前:◆MidianP94o :2008/08/29(金) 23:52:50


転生無限者【てんせいむげんしゃ】

 生き続けるもの。
 死に続けるもの。
 無限に転生を繰り返すことで、死徒や妖魔とは異なる不老不死を可能とする。
 死ねば肉体を離れ、新たな躯に憑いたり生まれ変わったりするため、追跡は
困難を極める。死徒27祖のひとりアカシャの蛇≠ェ有名だが、教会や協会は
他にもタイプの異なる数人の転生無限者を存在していることを確認している。
 転生無限者が果たして人間なのか、それとも人外なのか。その定義は非常に
曖昧で、機関や研究者によって見解は異なる。

                ――――オーガスト・ダーレス『神秘学用語辞典』より

101 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/04(火) 01:10:23


「語れば、長くなる」

 あたしの絶望を見抜いたのか、少女は冷たく言い放つ。

「わらわが何者か。それを説明したところで、きっとおまえは理解できまい。
例え理解できたとしても、なにも変わらぬ。……しからば諦めよ。すべて忘れ
よ。不夜城に帰れ」

 少女はリリーだ。しかし、リリーじゃない。
 二重人格だったのか。それともリリーは表層意識で、少女は封印された意識
だったのか。……それがどういうことを意味するのか。どんな事情でそうなっ
たのか。彼女の言う通り、あたしには理解が及ばないだろう。
 
 リリーがどうして〈運命の赤児〉と呼ばれていたのか。なぜリリーの出生が
発端となって〈妖魔租界戦争〉は勃発したのか。その答えが、目の前にある。
 けれど、あたしはそんなことを知るためにここに来たんじゃない。
 ただリリーに会いたくて。リリーと一緒に外≠ヨと飛び出したくて、霊脈
のトンネルをくぐって来たんだ。……なのに、こんな結末。

 違う。そうじゃない。まだ終わりなわけがない。
 リリーはいないだって? なら、目の前に立つこいつは誰だっていうんだ。

 あたしは躰を起こすと、床に直接あぐらをかいた。

「一つだけ、聞きたいことがある」

 あたしの声が冷静だったことに意表を突かれたのか、本を読む少女の横顔に
僅かな同様が見えた。あたしは構わず言葉を続ける。

「リリーは死んだのか」

「……そう思ってくれて、構わぬ」

「ていうことは、死んでいないってことだな」

 リリーは諦めたのかもしれない。けれど、あたしは諦めない。

「おまえがそう思いたければ、そう思うがいい。しかし、あの娘が消えてしま
ったという事実は変わらぬ」

 あたしは返事もせず黙り込んだ。そして十秒ほど待ってから、まったく関係
のないことを呟いた。

「マーマが死んだんだ」

「……知っておる。だからここに、来たのじゃろう」

 ふ、とあたしは口元を緩ませた。この〈図書館〉に来て、初めての笑み。

「やっぱり、あんたがリリーだ」

 少女がリリー以上の力を持つのならば、〈針の城〉の様子は完全に把握して
いる。虫の羽音すら聞き漏らしはしないだろう。……しかし、それは注意して
いればの話だ。第八層の酔客がどうしただとか、第十層の地縛霊がなにをして
いるだとか、そんなことをいちいち意識してはいまい。
 なのに少女はマーマの自殺を知っていた。それは、あたしとマーマの関係を
彼女が知っているからだ。
 リリーの記憶を引き継いでいる。同じ肉体を持っているのだから、それは当
然だろう。でも、人格が入れ替わり、あたしとまったくの他人になったのなら
ば、あたしやマーマを気にかける理由なんて無いはずだ。

102 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/04(火) 01:10:38


 動揺は微々たるものだった。けれど、その僅かな隙をあたしは見逃さなかっ
た。―――あたしの言葉に反応して、少女の瞳が一瞬だけ泳いだ。本から目が
離れ、初めてあたしを見た。そのときの、少女の表情。瞳に秘められた哀切。
 どうして少女は頑なに読書に勤しんでいたのか。どうしてあたしを一瞥すら
しなかったのか。……もっと早く分かってやるべきだった。
 見るのが辛かったからだ。見たら感情を殺しきれなくなるからだ。

「……愚かなことを言う。受け容れがたい真理なのは分かるが、だからと言っ
て己を誤魔化しても、哀しみが深まるだけじゃぞ」

「違う。あんたはリリーだ。そうじゃないって言うのなら、リリーがあんただ
ったんだ。どっちでもいい。あたしにとってはどっちも同じことだ」

 少女はあたしを知っている。リリーの記憶を引き継いだように、感情も受け
継いでいる。―――いや、継ぐという表現そのものがが間違っているんだ。
 少女はリリーなのだから。リリーは少女なのだから。

「十年間、記憶喪失をしていた人間が、ふとした拍子で過去の記憶を取り戻し
た。そいつはもう他人なのか。十年の間活動していた人格とは別人なのか」

 あたしは、そうは思わない。

「リリーは眠る度に夢を見ると言っていた。不思議な夢で、自分では絶対に体
験しないものだと言っていた。それはあんたの記憶だったんじゃないか。リリ
ーは無意識の世界で、あんたの記憶を覗いていたんじゃないのか」

「……生意気な娘じゃ」

「それはあたしのことを言っているのか。それとも、リリーのことを言ってい
るのか。だとしたら、あんたも生意気だっていうことになるな」

 少女は本を盾にしてあたしの視線から逃げようとしたが、そうすることの情
けなさに気付いたのか、溜息をついてから、本を倒れた脚立の上に置いた。

「おまえと言葉遊びをする気はない。わらわと白百合の娘の関係の解釈につい
ては、おまえ自身が導き出した答えに従えば良かろう。……しかし、それでな
にが変わる。おまえはなにをしたいのじゃ」

 あたしは笑った。夢の中でしか見たことのない太陽を連想させる笑みを、口
元に精一杯広げた。
 いまこそ言おう。ずっと言えなかった言葉を。リリーが待っていた言葉を。


 
「一緒に外≠ヨ行こう」

 

 今度こそ、少女は目に見えて動揺した。躰を硬直させ、目を瞠った。
 本を読むか眠るか。火焔天での生活はそれしかないとリリーは言った。それ
はいまも変わっていないはずだ。目の前の少女は、本の世界に閉じ込められて
いる。広くて狭い空間に監禁されている。
 これは少女の望んだ生活なのか。
 そうでないとしたら―――


103 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/08(土) 21:22:40


「……痴れ言を言う」

 少女の自嘲めいた笑みがあたしの確信を鈍らせる。リリーはこんなに達観し
た表情をする奴じゃなかった。

「おまえは分かっておらんのじゃ。自分が何者なのか。わらわが何者なのか。
なにも知らぬから軽々しく『外へ』などと言える」

 そうかもしれない。いや、その通りだ。
 あたしは知らない。理解をしていない。どうしてこんなことになってしまっ
たのか。その答えを見つけられないまま、ただがむしゃらに結果を作ろうとし
ているだけだ。―――その指摘は否定せず受け容れよう。
 でも。

「だからなんだ」

 あたしは吐き捨てるように言った。

「なんにも知らない馬鹿で臆病なあたしが、周回遅れでようやく理解したんだ。
リリーが外≠ノ憧れる気持ちが、彼女とあたしの出会いが、どれだけ劇的で
かけがえのないものだったか。これさえ分かれば充分だ。他のなにもあたしは
知りたくない」

 繰り返すぜ。そう前置きしてから、あたしは右手を少女へと差し出した。

「一緒に行こう。一緒に見よう。リリーが夢見た世界へ。あたしたちみたいな
はぐれ者を照らしてくれる太陽があるリージョンへ」

 手を取って欲しかった。けれど、少女の返事は頑なだった。あたしから視線
を逸らし、床を睨んだまま答える。

「無理じゃ。そんな真似は不可能じゃ」

 そうじゃない。それは答えになっていない。

「あたしが聞きたいのは!」

 少女の細い手首を強引に掴んだ。リリーの顔をして、リリーの声をして、こ
んな煮え切らない態度を取る彼女が許せない。

「あんたが外≠ヨ行くことを望んでいるのか、いないのか。それだけだ!」

 死ぬまで本棚に隠れて、太陽を知らないまま〈針の城〉で時間を消費してい
って、それで心が満たされるのか。リリーに希望を与えた夢の正体が彼女の記
憶だというのなら、こんな荒涼とした世界で満足なんてできないはずだ。

 これじゃあ立場が逆だな、とあたしは胸裏で失笑した。
 つい数日前まで、リリーにどんなにしつこく誘われても応じなかったあたし
が、いまはリリー――の顔と声を持つ誰か――を相手に、必死になって外
へ行こうを説得しているなんて。
 リリーが感じていた期待と焦燥が、いまならよく分かる。一人では駄目なん
だ。一緒でなければ意味がないんだ。

 もしもあたしの想いが間違っているのなら、この手を振り切ってみせろ!

104 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/08(土) 21:25:26


 ―――けれど、少女はあたしの手を引き剥がそうとはしなかった。

 力ではあたしのほうが強いかもしれないけれど、その膨大な魔力を用いれば
容易にほどけるはずなのに。……そうは、しなかった。

 俯いたまま、少女は唇を震わせる。

「なんて残酷な企みなのじゃ。なんて無情な策なのじゃ。奴めはここまで見通
していたのか。わらわが感ずるこの苦しみまでも、読んでおったのか」

「なにを―――」

 言っているのか。

「ひとの心どころか魂さえも弄ぶ。悦びを幻惑させ、地獄を天国と偽る。これ
が、例え一時であろうと人間の心を持った者が思い付くことか」

 少女は首を横に振り、「いいや、違うな」と自分の言葉を自分で否定した。

「人間であればこそか。人間であったからこそ、非人を極められるのじゃ」

是(シー)≠ネのか不是(ブーシー)≠ネのか。少女はあたしの問いに答
えていない。だけれど、あんなにも凜としていた彼女が、気の毒なぐらいに落
ち込んでしまっているため、急かすどころか、慰めの言葉をかけることすらで
きなくなってしまった。手首を掴む力も弱まってしまう。

「……イーリンよ」

 狼狽するあたしの名を、少女は静かに呼んだ。
 どきり、と鼓動が跳ね上がる。
 初めて名前を呼ばれた。……いや、そうじゃない。リリーには何回も何百回
もイーリンと呼ばれている。なのにあたしは新鮮な衝撃にたじろぎ、胸のうち
から湧く興奮に恥じらいさえも覚えてしまった。

「わらわは、おまえに詫びねばならない」

「詫びるって……」

 謝ることなんてなんにもない。むしろ、謝るべきなのはあたしほうだ。

「わらわのせいで、おまえと白百合の娘―――二人の乙女に嘆きの道を進ませ
てしまった。人生を大きく狂わせてしまった。すべてはわらわの咎じゃ。
 おまえら二人だけではない。わらわはわらわの勝手のために、多くの命を犠
牲にした。わらわがいなければ、何千何万という人間が寿命を全うできたやも
しれぬ。そんなこと、オルロワージュめを逆吸血したときに覚悟したはずなの
にのう。こういう事態に直面する度に、わらわの胸は学習もせず痛むのじゃ」

 オルロワージュ。その名を聞いて、場違いなあたしの興奮が醒める。無学な
あたしだって知っている、先代の妖魔の君。百年も二百年も前に、現妖魔の君
であるアセルス公に斃されたのはあまりに有名な話だ。
 そんな歴史上の妖魔の名を、どうして少女は口に出す。

「幾人もの命を見捨てて。幾万人もの命を犠牲にして。それでもわらわは繰り
返す。懲りずに生きようとする。なぜだと思う? ……不思議なものじゃな。
その答えを、あの白百合の娘はわらわ以上に理解しておったわ」

 あたしはもう、少女の手首を掴んではいなかった。手首ではなく、彼女の手
を握っていた。いつの間にか、少女はあたしの指に指を絡めていた。

「―――わらわは自由になりたかったのじゃ。零姫の名さえも捨てて、あらゆ
るしがらみを振り切って、自由に生きたかったのじゃ」

105 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/09(日) 21:42:47


「れい、ひ……め?」

 本名なのか愛称なのか、それさえもあたしには分からない。戸惑うあたしを
見て、少女――零姫と呼ぶべきなのか――は「さすがに知らぬか」と苦笑した。

「妖魔世界の事情に多少なりとも精通しておれば、幻の第0寵姫≠フ名を知
っておるものなのじゃがな……さすがにそれをおまえに求めるのは酷か」

 喜ばしく思うぞ。わらわを知らぬ人間が、世界が、この世には多く残ってお
る。その事実が、わらわを自由へと走らせる根源となっているのじゃから。。
 ―――そう言って淡く微笑む零姫は、あまりに儚く、あまりに幸薄かった。

「行ける!絶対に行けるよ!」

 衝動的にあたしは叫んだ。零姫の冷たい手を握ったままで。

「やっぱりリリーはあんただ。あんたはリリーだ。だって、あんたもリリーも
同じものを夢見てる。同じ憧れを抱いている!リリーもそうだった。リリーも
あんたみたいに、昼を忘れた世界で窒素していた。もっと広い世界へと飛び出
したがっていた!」

 零姫の表情がついに崩れた。泣きながら笑い、笑いながら泣いている。

「……似ているのう。おまえは、若かりし頃のあ奴にそっくりじゃ」

 あいつって誰だ。

「迷いながらも、傷みながらも、前に進むことを諦めないその在り方は、遠か
りし日のアセルスめをいやがおうにも連想させられる。奴はそれさえも理解し
ておるのじゃろうか」

 衝撃のあまり、あたしの表情は凍結する。
 アセルス。まさか、こんなところでその名を耳にするはめになるとは思わな
かった。こいつはいったい何者なんだ。魔≠フ代名詞たる妖魔の君をスラム
育ちの娘に過ぎないあたしと重ねるなんて。
 似ているとか、似ていないだとか。そういう比較ができる相手じゃないこと
ぐらい、冷静に考えれば分かるだろうに。それとも零姫にとって、妖魔公アセ
ルスとはそれ程までに近しい存在なのか。

 混乱するあたしを余所に、決意を燃やした瞳であたしを見つめながら、零姫
が手を握り返す。

「例えその道の先に哀哭が牙を剥いていようとも、わらわは、おまえを肯定し
よう。わらわの負けじゃ。わらわはおまえを拒めぬ。拒めるはずが、ない」

「それって―――」

 一緒に行くってことなのか。

 声に出して確認しようとした瞬間、あたしでも零姫でもない、第三者の声が
〈図書館〉に響いた。

「その決断の意味を、君は分かっているんだろうね。聡明なる零姫様」

106 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/09(日) 22:36:04


 ―――声は、あたしが想像していたよりもずっと静かで、繊細で、胸の裏側
を狂わすほどに妖しげな色気を孕んでいた。
 驚かなければいけないシーンなのだろう。あたしはここで「誰だ」と叫びな
がら振り返るべきなんだろう。……けれど、〈火焔天〉に来た瞬間から、〈針
の城〉の中央に乗り込むと決めたその時から、あたしは覚悟を決めていた。 
 むしろ、予定外の出来事に時間を取られすぎたとさえ思っている。転移した
その瞬間から、殺し合いが始まってもおかしくないと思っていたのだから。

 あたしはリリー/零姫を背に庇うようにしながら、ゆっくりと振り返る。

「……諸悪の根源」

 燃え上がる紅髪――あたしのような赤毛とは違う、本物の紅だ――を逆立て
た魔人が、本棚の向こう、狭い廊下に佇立していた。溶岩の瞳をあたしと、あ
たしの背後の零姫に向けて、不敵な笑みを浮かべている。

 ……これが、紅の魔人。
 クーロンの凶つ者、ダージョン。
 こんな優男が、そうなのか。

 たくましい筋肉の鎧をまとっているものの、躰の線は女のように細い。長身
なせいで、細身の印象を余計に引き立てている。脚にぴったりと張りついたレ
ザーのパンツをはき、裸体の上半身に直に深紅のコートを羽織っていた。
 左手には、赤鞘の大刀を無造作に提げている。

 男でありながら女でもあり、同時に男でも女でもない。―――中性的で無性
的な風格をたたえた美丈夫。容姿だけを見れば、クーロン・マフィアのボスに
なんて、とても見えない。けれど、肌にびりびりと感じる威圧が、どうしよう
もないほどに男とあたしの格の違いを訴えていた。
 ……こいつは人間じゃない。

 紅の魔人は、あたしを一瞥しかしなかった。視線はすぐに零姫へと向けられ
る。あたしに向けた視線が、羽虫を見る視線ならば、零姫を見つめる視線は、
憐れみと慈愛が融け合った保護者のそれだ。

「零姫様、さっきの言葉は本気なのかい」

 かける言葉には、優しさすら篭められている。

「……王手じゃよ。もはやどうしようもない。アセルスは、わらわが思った以
上に、わらわの考えを、弱点を見抜いておる。どう足掻いたところで、今回
も≠らわの負けじゃ。ならばせめて、悔いのない道を選びたい」

「彼女はきっと、君がそうすることさえ読んでいる」

「……じゃろうな」

 気配で、零姫が俯くのが分かった。紅の魔人は小さく溜息を吐く。

「慣れないことをするものではないね。君の苦しみを少しでも和らげるために
動いたつもりだったのだけれど、結果として、余計に君を傷めてしまうことに
なってしまった。僕はやはり、観測者で在り続けるべきだった」

「言ってくれるな。わらわは感謝しておる。おまえがわらわを保護せなんだら、
わらわはまたしてもアセルスめの手中に落ちていた。奴にこれ以上辱められる
のは、絶対にゴメンじゃ」

107 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/11(火) 23:47:21


 あたしを置き去りにして二人に会話は進む。
 ダージョンはあたしをまるで相手にしていない。〈針の城〉の最深に侵入を
果たしたというのに、敵意も殺意も一切向けては来なかった。
 ……眼中にないってことか。

 認めざるを得ない。あたしは甘かった。伝説≠軽んじすぎた。
 あらゆるしがらみを振りほどいたあたしなら、捨て身で挑めばどんな敵でも
正気は見えてくると、そう考えていたのだけれど。いざ、こうして紅の魔人と
対峙してみると、自分の考えが如何に浅はかだったかを痛感させられる。
 桁が、違った。
 なまじ〈蜥蜴の眼〉が紅の魔人の力を霊視してしまうから、余計に絶望が深
まる。まるで動く魔力炉だ。ひとのカタチをした霊力場だ。
 斃せるはずがない。

 それでも、あたしは―――

「―――おい」

 会話を遮り、魔眼で睨み付ける。

「あたしはイーリンだ。火蜥蜴≠フイーリン」

 ダージョンは不気味なほど穏やかな視線を返した。しばらくの沈黙のあと、
「知っているよ」とだけ答える。

「リリーから聞いたのか」

「そういうことになるね」

「……あたしも、あんたのことはリリーから聞いている」

 奥歯が軋む音が、鼓膜の裏側で響いた。

「あたしは、あんたを許せない」

 すべての元凶。諸悪の根源。リリーから外≠奪った最凶の魔人。

「馬鹿なことを考えてはならんぞ」

 背後から零姫が口を挟んだ。

「ゾズマはおまえが思っているような男ではない。こやつはわらわを今日まで
守ってくれたのじゃ」

「ゾズマ?」

 それが、紅の魔人の名か。誰も知らなかった真名か。
 ゾズマ……当然のように聞き覚えはない。

「ゾズマ―――」

「なんだい、イーリン」

 茶目っ気をこめてダージョンは微笑む。挑発なのか、茶化しているだけなの
か。どちらにせよ、真面目にあたしを相手にする気は無いようだ。
 あたしは静かに、努めて静かに言った。

「あたしは、リリーを……零姫を、ここから連れてゆく」

108 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/13(木) 23:33:07


 覚悟を決めた発言。しかし、ダージョンの反応は「そうかい」と肩を竦める
だけだった。……なんなんだ、こいつは。
 ひとを小馬鹿にした態度。飄々として捉えどころがなく、リリーに対しても
さして執着を抱いていないように見える。こんな男が、リリーを、生まれたて
の赤児だった彼女が少女になるまで、十年以上も監禁していたというのか。
 とてもじゃないけれど、信じられない。

 ―――それに、さっき零姫が口にした「守った」ってどういうことだよ。

 リリーはダージョンに閉じ込められていると、そうはっきり語ったのに。
束縛から逃げ出し、外≠フ世界へ行きたいと、そう言ったのに。
 分からないことが多すぎる。
 零姫ってなんだよ。ゾズマって誰だよ。あたしが知っている〈妖魔租界戦争〉
と真実の間にはいったいどれだけ深い溝が走っているっていうんだ。
 或いはこいつ等なら、〈針の城から来た女〉の正体を知っているのかもしれ
ない。どうしてあたしを嵌めようとしたのか。どうしてマーマは廃人になって
しまったのか。クーロン・マフィア絡みなのだから、少なくともダージョンに
は思い当たる節があるはずだ。

 ……でも事実を確かめるには、あまりに時間が足りない。
 
 あたしがいまこの瞬間に確認すべきことは、ただひとつだ。
 リリー/零姫が外≠ヨと向かうのを、受け容れるのか、拒むのか。

 ダージョンは婀娜めく顔貌であたしを一瞥し、次に零姫を見つめ、また視線
をあたしに戻してから―――口笛でも吹くかのように、答えた。

「駄目だね。行くなら君ひとりで行けばいい」

「ゾズマ!」

 彼女にとっては予想外の言葉だったのだろう。零姫は驚愕に駆られるままに
声を荒げた。

「これ以上わらわに付き合う必要はない! このままでは、おまえまで奴に狙
われることになるぞ」

「どうせ、君が終われば次は僕さ」

「次などない! 終わりなどあるものか! わらわと奴から逃げ続け、奴はわ
らわを追い続ける。永遠のイタチごっこじゃ。それはおまえとて十二分に承知
していることじゃろう」

「そうかもね。でも―――」

 ダージョンの瞳の奥で光が鋭く瞬いた。

「今回≠ヘ僕が君の保護者だから。そういう役を進んで演じてしまったのだ
から。いくら無責任な僕でも、最後まで与えられた役目ぐらいは果たそうと思
っているんだ」

 そう言った彼は片眼をつむった。

「それに、君との付き合いは古い。追いつかれると分かっている逃亡劇なら、
当然止めるさ。……そこの火蜥蜴と一緒にクーロンから逃げ出して、あの子か
ら逃げ続けて、それでもやがては追いつかれて。―――破滅を約束された未来
を盲信するなんてあまりに儚いと思わないかい?」

109 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/14(金) 22:54:49


 ……答えは、出た。
 どんな理屈、どんな裏の事情があるかは知らないけれど、紅の魔人サマは零
姫を火焔天から解き放つつもりは毛頭ない。
 それで充分だ。その事実だけ分かれば、他のなにも、あたしはいらない。
 やっぱりこいつはあたしの敵だ。

 なおも言葉を返そうとする零姫を無言で押し止める。
 彼女は決断してくれた。あたしと一緒に行くと。二人で外≠目指すと。
 ……もう、あたしとリリーは離れない。
 誰にも二人の巣立ちを邪魔させない。
 あたしたちは自由だ。

「―――言っておくけれど、僕は強いよ」

 悪戯っぽい笑みを残したまま、ダージョンは大刀の鍔を鳴らした。たったそ
れだけの行為で、彼の言葉に偽りがないことを思い知らされる。
 なんてバケモノか。抜刀したわけでもないのに、剣気に押し潰されそうだ。

 他人よりちょっとだけ力が強くて。他人よりちょっとだけ見えないものが視
えて。他人よりちょっとだけ暴力に慣れ親しんでいる。
 ―――その程度でしかないあたしが、太刀打ちできる相手じゃない。

 目の前に立つ炎の彼は、たった一人で妖魔租界を壊滅させた男なんだ。
 クーロンの魔界都市〈針の城〉を作った男なんだ。
 あたしなんかになにができる。ちんけな故買屋に過ぎないあたしが、伝説と
対峙してどんな結果を残せる。

 嗚呼―――

 鉛の雨が全身に降り注ぐかのような絶望。ダージョンと向かい合うことで、
改めてあたしは自分の無力さを痛感した。

 マーマのお陰で今日まで生きてこられた。
 その認識は間違いじゃない。けど、それだけじゃなかったんだ。
 マーマだけではなく、もっと多くの、もっとたくさんのひとたちの力を借り
て、脆弱で臆病なあたしは今日までなんとか生きてこられた。
 なにがクーロンの火蜥蜴≠セ。なにが阿嬌の後継者だ。ただの甘ったれの
クソガキじゃないか。自分一人じゃなにも為せない小娘じゃないか。

 あたしは本当に弱い。
 怨敵を前にして、絶望することしかできないなんて。
 自分一人で窮地を切り抜けようとすらしないなんて。

 嗚呼―――

 この期に及んで、あたしはまだ。
 マーマだけじゃ飽きたらず。
 さらなる。
 犠牲を。

「……あたしはきっと、あんたを愛していた。唯一の親友だと思っていた」

 そんなかけがえのない友達を、あたしは―――

「ハダリィィぃーーーーーーっっっっ!!!!!」

 あたしの絶叫が谺すると同時に、〈図書館〉のドーム状の天窓が砕け散った。
 ガラス片のシャワーとともに降り注ぐのは、鋼鉄の筋肉をまとった牛頭人体
のモンスター・ミノタウロス。あたしの最高傑作にして、唯一無二の友であり、
そして……そして、マーマと同じように、あたしのために死ぬ女。

110 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/15(土) 22:00:38


 ハダリーは魔石の力を限界まで引き出している。支配率は完全に猫睛石に傾
き、暴走状態へと陥っていた。いまの彼女は一個の暴力装置に過ぎない。
 ゆえに、その動きはミノタウロスのスペックを大幅に上回っている。
 天窓を破って飛び降りてきたといっても、ただ自由落下に身を任せているわ
けじゃない。猫の如きしなやかな体捌きで宙を泳ぎ、室内を照らすシャンデリ
アを蹴っ飛ばして軌道をねじ曲げ、ダージョンの頭上へと殺到する。
 その速度は、音の壁すら破りかねないほどだ。

 無防備な頭上に、絶好のタイミングで不意打ち。まず間違いなく必殺が確定
する状況。ハダリー/猫睛石の強さを知り抜いているあたしは、普段ならば勝
利を確信したはずだ。それ程までにハダリー/猫睛石の攻撃は完璧だった。

 ……けれど、この状況は常識からあまりにかけ離れている。ハダリー/猫睛
石が牙を剥いた相手は、バケモノの中のバケモノだ。

 ダージョンが持つ大刀の鯉口が静かに切られ、銀光が迸る。
 まずは突き出した右拳が腕ごと断たれ、返す刀で胴を抜かれた。刹那の瞬間
に走った二つの剣筋が、生ける死者をただの死者へと戻す。
 さらに三つめの太刀で、ハダリーの首が―――飛んだ。

「うわああああああああああああ!」

 あたしは姿勢を低くしながら、紅の魔人へと突撃した。ベルトに挟んでいた
シャオジエの短剣を引き抜き、両手でしっかりと構える。
 紅の魔人は―――ダージョンの注意は、まだハダリーへと向けられたままだ。
 この隙をあたしは待っていた。たったひとりの友だちを餌にして、最凶の男
から致命の時を引き出した。あたしは最低の女だ。

 無駄のない筋肉で包まれたダージョンの胸板が視界に広がる。
 あと一歩だ。
 あと一歩、前に出られれば。
 この短剣の刃が、届く。

 三つに分断されたハダリーの亡骸は、慣性に引きずられたまま、まだ宙を舞
っている。

 ダージョンの大刀の刃が、あたしへと向けられた。直後に、あたしの魔眼が
あたしの死を未来視する。刀光が無慈悲にきらめいた。間に合わない。
 あと一歩なのに。たったの一歩が、あまりに遠い。
 ダージョンの剣は疾すぎる。

 駄目なのか。ハダリーを犠牲にしても、あたしは生き残れないのか。絶望が
総身を支配しかけたその時―――背後から零姫の叫びが響いた。

「殺してはならん! こやつの中には、あれが―――」

 ダージョンの注意が逸れる。切っ先の動きがほんの僅かに鈍った。

 ―――あたしの中に、なにがあるっていうんだ。

 確かめるどころか、疑問に意識を傾ける余裕すらない。あたしはただ、奇蹟
に縋り付き、がむしゃらになって最後の一歩を踏み出した。
 深紅の刃がダージョンの胸へと吸い込まれてゆく。短剣は、〈蜥蜴の眼〉が
霊視していた魔術障壁ごと、呆気なく彼の筋肉を貫いた。

 どう、とハダリーの死体が床を叩く。
 二秒とかかっていない、一瞬の決着だった。

111 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/15(土) 23:58:45


 短剣の柄から手を離す。深紅の刃に抉られたまま、ダージョンはその場に跪
いた。大刀が音をたてて床に転がる。

 ―――斃したのか。あたしは自由を勝ち取ったのか。

「愚か者!」

 零姫の叱咤の声が背中を叩く。あたしは緩慢な動作で振り向いた。笑顔を見
せて欲しかったけれど、彼女の表情は厳しい。

「あまりに無鉄砲過ぎる。ダガーなどで上級妖魔を殺しきれると思っておるの
か。手負いとなれば、いくら戯れを好むゾズマと言えども―――」

 そこで、零姫は言葉を止めた。眼を瞠り、表情を強張らせた。視線はあたし
を通り過ぎて、ダージョンへと向けられている。正確には、ダージョンの胸に
突き立つシャオジエの短剣に、だ。

「お、おぬし、そのダガーは―――」

「……やられたよ。まさか、そう来るとはねぇ」

 笑みこそ浮かべているものの、ダージョンのかんばせからは玉の汗が噴き出
し、先程までの余裕は消え失せている。彼も零姫同様、自分の胸から生える短
剣に注意を向けていた。

「ゾズマ、それは……」

「ああ、間違いなく幻魔だ。心臓に噛み付かれてしまった。これはだいぶ、骨
が折れるよ」

 幻魔。その名を聞いた瞬間、零姫の態度が豹変した。

「どこで手に入れたのじゃ?!」

 あたしの腕を掴んで、荒ぶる感情に流されるがまま詰め寄ってくる。

「どこで幻魔を渡されたのじゃ。おまえはすでに、アセルスと接触しておった
のか。奴は―――奴はまさか、クーロンにおるのか」

 またアセルスの名前が出てきた。ファシナトゥールの君主。妖魔の君。そん
なに頻繁に耳にしていい名前じゃないのに。……それに、ダージョンが上級妖
魔だっていうのは本当なのか。ただのバケモノじゃないとは思っていたけれど、
まさかファシナトゥールの貴族階級だったなんて。
 もしかすると、零姫もそうなのか。リリーがあんなに強大な魔力を有してい
たのは、人間じゃなかったからなのか。

 ……まぁ、どうでもいい話だ。
 あたしはダージョンを斃した。
 いまはその事実だけを、大事にしたい。

 これで、ようやく邪魔は無くなった。緊張する零姫の頬にそっと手を当てる。
安心させようと微笑みかけてから、あたしは言った。

「さあ、行こう―――」

外≠ヨ。……そう口にしかけるものの、直後にぐらりと視界が傾ぎ、あたし
は床に、受け身も取らずに倒れこんだ。

「イーリン!?」

112 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 12:55:20


 ……なんだ、コレ。
 大理石の硬質さにあたしは驚く。自分が置かれている状況が理解できない。
 どうしてあたしは床に伸びているんだ。どうして立ち上がろうとしても、躰
に力が入らないんだ。どうして―――

 零姫の声が遠くから聞こえる。

「なんて馬鹿なことをしたのじゃ。幻魔はアセルスの生命力で鍛えられた魔剣
じゃぞ。あ奴以外のものが使用すればどうなることか……」

 ……なるほど。
 ひと目見たときから、尋常ではない魔性を秘めた短剣だとは思ってはいたけ
れど、まさか妖魔公アセルスの武器だったとはね。
 だから、ダージョンが三重にも四重にも張っていた強力な魔術障壁を、ガラ
ス窓でも砕くかのようにあっさりと突き破ったのか。
 だから、まるで花が枯れゆくように、あたしの命の灯火が急速な勢いで衰え
ていっているのか。―――あの魔剣に、あたしの生命力は吸われたんだ。

 ダージョンの胸から濃厚な瘴気が噴き出しているのを、あたしの魔眼が霊視
した。胸の肉を抉った刃が変型し、彼の心臓にがっちりと根を張っている。
 なんておぞましい光景なんだろうか。武器というより、あれは一個の生命だ。
魔剣よりも魔物と呼んだほうが正しいんじゃないだろうか。
 致命こそは免れたらしいが、ダージョンのダメージは深刻らしい。魔剣の侵
食から身を守るのに精一杯で、あたしたちに意識を向ける余裕はないようだ。
 ……心臓を潰されて、それでもなお生きようとしているんだから、その不死
性の強さには感服する。あたしなんて、たった一度使用しただけでもう死にか
けている。魔剣に命を吸い尽くされてしまった。

「くそったれめ」

 せっかく、リリー/零姫を紅の魔人の戒めから解放することができたのに。
ようやく、外≠ノ繋がる道を拓くことができたのに。あたしの自由はこれか
らなのに。―――ここで、斃れてしまうなんて。
 こんなところで、終わってしまうなんて。
 
 納得がいかない。
 あまりに無情すぎる。
 イヤだ。マーマもハダリーも犠牲にして、なにもかもを捨て続けてリリーを
手に入れようとしたのに、結局なにも得られないまま、ひとりぼっちのままで
死ぬなんて―――絶対にイヤだ。

 行くんだ。
 あたしはリリーと一緒に。
外≠ヨ行くんだ。

「ああああああああ!」

 最後の命を燃やしてあたしは両腕を駆る。腰より下はもう感覚がないため、
起き上がることができない。無様に這い蹲って、前へと進んだ。

「もうやめよ!」と零姫が叫ぶ。あたしの躰を憂いての言葉だと思うと、悪い
気はしない。けれど、分かってくれ。ここでやめるわけにはいかないんだ。

 一分ほどかけて、数メートルの距離を進む。
 ダージョンに切断されたハダリーの生首が転がる位置まで到達すると、もう
二度と「社長」と口にすることのない親友の頭を抱き締めた。

113 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 12:55:50


 不気味な悪魔の仮面―――ハダリーの素顔と言っても過言ではない無機的な
表情に、あたしは震える指先で触れた。
 ハダリーとは、このミノタウロスの死体にインストールしたソフトウェア、
つまり人造霊のことを指す。彼女の肉体自体は、ハードウェア……ただ器に過
ぎない。人造霊(ソフト)が機能を停止すれば、ハードはもとの死体に戻る。
 それを有機的な死と捉えるべきかどうか、あたしは答えを持たない。分かる
のは、あたしの都合で、ハダリーも、この死体も、好き勝手に振り回してしま
ったという事実だけ。相も変わらず、あたしは最低だ。

 胸裏で侘びの言葉を繰り返しながら、あたしはそっとハダリーの仮面を剥い
だ。隠し続けていたミノタウロスの素顔が露わになる。魔石を埋め込み、媒介
機関や魔力血管の拡張手術を繰り返したせいで、仮面よりも醜悪に、おぞまし
いものとなってしまった死者の顔。―――でも、仮面というハダリーの絆が断
たれたことで、人造僵尸はいま、改めてもとの死体に戻った。

 ―――ハダリーも、あんたも、これで自由だよ。

 キャッツアイの魔石を死体の右眼からくりぬく。
 ハダリーが消失したいまでも、魔石は変わらず強い魔力を秘めていた。
 ……この力が、あたしには必要なんだ。

 ふっと微笑んでから、神秘の光を放つ魔石をあたしは一息で呑み込んだ。
 喉を硬質な感触が滑り、体内が途端に燃え上がる。

「馬鹿な!」

 零姫が狼狽の声をあげて、あたしの肩を抱く。

「いまのはなんじゃ。あれはなんの魔石じゃ。幻魔のみならず、あんなものま
で、どうしておまえは持っておるのじゃ。しかも―――しかもそれを呑み込む
などと、おまえは命が惜しくないのか! 無茶にも限度というものがあろう!」

「……そうじゃない」

 逆だ。
 命が惜しい。死にたくない。だから、魔石を取り込んだんだ。魔剣に吸い取
られたあたしの生命の代替として、魔石の力を借りるために。

「そんな貧相な躰で、耐えきれるわけがなかろう!」

「貧相は余計、だぜ……」

 はは、と渇いた笑い声をあげる。確かにあたしはやせっぽちだけれど、零姫
のほうがよほどにちびだ。

 力はだいぶ戻ってきた。あたしはゆっくりと立ち上がる。一瞬前まで死にか
けていたのが嘘のようだ。……けれど、躰の不調自体は変わらない。さっきと
違うのは、躰の内側が熱すぎて、中から融けてしまいそうなところだ。
 凍えているか、燃えているのか。そこが違うだけで、やはりあたしは死にか
けのままなんだろう。

 この躰で、どこまで行ける。リリー/零姫と一緒に、どこまで生ける。

「どうして、おまえはそこまで……」

 分かり切った問いを、零姫は涙混じりに口にする。
 ……そんなの、決まっているじゃないか。

「あんたと一緒に、外≠フ景色を見たいからだ」

114 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 21:26:25


 零姫の手を握り、〈図書館〉の外を目指す。火焔天の構造が分からないため、
どこをどう進めばいいのか分からない。とにかく〈図書館〉の出入り口を目指
そう。監禁されていたといっても、ダージョンは出入りしていたのだから、ど
こかに扉なり門なりがあるはずだ。

 ―――けど、あたしの躰は、そこまで保たなかった。

 派手に喀血すると、脇の本棚に体当たりでもするかのように寄りかかる。
 衝撃で本が何冊か、ばさばさと落ちてきてあたしの躰を叩いた。あたしはそ
のままずるずると床に座り込む。
 ……だ、駄目だ。とても無理だ。魔石の力を借りたところで、あたしという
肉体じゃ受け止めきれない。
 よくよく考えてみれば、当然のお話だ。魔術的強化を徹底的に施したハダリ
ーですら、魔石の出力を絞って管理していたんだ。素のまま呑み込めば、こう
いう結果になることは容易に想像がつく。

 馬鹿なのは分かっている。零姫に愚か者と詰られれば、否定する言葉はない。

 けれど、あたしは奇蹟に頼るしかなかった。そこに可能性があるのならば、
あたしのすべてを費やして、勝負に挑むしかなかった。
 ……その結果が、これか。

「イーリン! イーリン! しっかりせい!」

 ああ、なんてことだろう。零姫の声は深い悲しみに彩られている。あたしが
原因で、大好きな彼女を傷付けてしまっている。
 くそったれめ。あたしはリリー/零姫の笑顔が見たいのに、どうしてこんな
ことになってしまったのか。

「なぜじゃ! なぜ、そこまでするのじゃ。どうしてわらわなんぞのために死
のうとするのじゃ! 命まで賭けられるのじゃ!」

 それは、愚問が過ぎるってもんだぜ。

「だって、あんたはリリーじゃないか……」

 リリーは、あたしのために夢を捨てた。献身というものを教えてくれた。
 自分のためだけじゃなく、誰かのためにも生きられるということを、身をも
って証明してくれた。彼女は、あたしの未来だ。
 リリーがそうしてくれたように、あたしも、リリーのために尽くす。
 ……そしていま、あたしを抱いて涙を流してくれている少女は、零姫だけれ
ど、リリーでもあるんだ。彼女のためなら、あたしは自分さえも犠牲にできる。
 そうだ。あたしは、リリー/零姫のために、死ねる。
 もう、自分を失うことを怖れない。

 あたしの目的はなんだ。
 あたしの夢はなんだ。
外≠ヨ行くこと。
 リリーを外≠ヨと連れ出すこと。
 そのためにマーマは死んで、ハダリーも死んだんだ。それでもまだ犠牲が足
りないっていうのなら、今度はあたし自身を捨ててやる。
 リリーに自由を与えられるのなら、あたしは、なにも、いらない!

「ああああああああああああああああ!」

 力はあるんだ。魔石の力はいま、あたしの裡にある。足りないのはそれを制
御する器だ。あたしの肉体じゃ、魔石は飼い慣らせないんだ。

115 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 21:54:36


「イーリン、死ぬな!」

 死なないさ。このままじゃ、死ねないよ。零姫を外≠ヨと連れ出せる、そ
の確信が得られるまでは、死んでたまるか。

「莫迦者め。莫迦者め。こんなことをして、わらわが喜ぶと思ったのか。おま
えはなにも分かっておらんのじゃ」

 いや、分かるよ。なんにも知らない無知なあたしだったけれど、ダージョン
の胸に魔剣を突き立て、生命を吸われたとき、なんとなくだけれど、舞台の仕
掛けに気付いてしまった。気付かざるを得なかった。
 ……できれば、知らないまま果てたかったけれど、そうもいかない。
 だって、そうだろう?
 あの魔剣を、あたしは誰から託された。
〈針の城〉を統べるダージョンや、全知するリリー/零姫でさえ存在を察知で
きなかった魔女。あのひとなら、あたしとリリーの関係を知っていた。あのひ
となら、あたしに巨大蜘蛛にけしかけることもできた。あのひとなら、クーロ
ンストリートにも〈針の城〉にも近付かずに、マーマやロートルに命令を下す
ことができた。あのひとなら―――あたしに自覚させずに、あたしの行動を支
配することもできた。

 なんてことだろう。
 あたしは、あのひとに可愛がられていると思っていたのに。あのひとに、気
に入られていると思ったのに。……マーマの次に、好きだったのに。
 本物の家族だと、信じていたのに。

 莫迦野郎。大莫迦野郎。
 騙すなら、最後まで騙し通せっていうんだ。幸せのまま、あたしを死なせろ
っていうんだ。最後の最後に、後味の悪いもんを残しやがって。
 お陰で、せっかくリリーの腕の中で死ねるっていうのに、未練が残っちゃう
じゃないか。あんたが味方でいてくれないから、安心してくたばれないじゃな
いか。あんたが敵だから、あたしは、ここで死ぬわけにはいかなくなったんだ。

「零姫……結界は……晴れた、かな」

「……上級妖魔封じのあの結界は、街全体を術式として組んでおる。例えゾズ
マが死んでも消えることはないわ」

「そう、か……」

 上級妖魔封じ。
 だから、なのか。
 だから、リリーは〈針の城〉の外へと出られなかったのか。だから、ダージ
ョンは〈針の城〉に引きこもっていたのか。だから、あのひとは、直接、自分
の手でリリーをさらおうとはしなかったのか。
 こんな、回りくどいことをしたのか。

「なら……結界が……晴れた……ところで、安心……できない、か……」

「むしろ、最悪の状況になるわい」

 零姫の突っ込みに、あたしは不謹慎にも声を出して笑ってしまった。そうか、
あたしが状況を悪化させちまったのか。そいつは悪かったな。
 ……けれど、あの結界がある限り、リリーが外≠ヨと行けないのなら、い
つかは破らなければいけないんだ。

116 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 22:30:47


「おそらくだが、おまえの死と同時に、ゾズマの結界は消えるじゃろう」

「だろう、なぁ……」

「……知っておったのか」

「いや―――」

 確信はなかった。けれど、あたしの特異な躰は、どんな強力な魔術でも無効
化してしまう力を持っている。あたしの血を浴びせれば、頑固な呪縛も、たち
まち洗浄されてしまう。
 あのひとは、あたしになにを期待していたのか。あたしを利用して、なにを
得ようとしたのか。リリーを結界の外へと連れ出すことか。それとも、ダージ
ョンと対峙して、破れることか。……保険をかけて、両方の結末に対応してい
るとしたら、あたしの死は、いったいどんな意味を持つ。
 あのひとは、定期的にあたしの躰を診ていた。あのひとなら、あたし以上に、
あたしの躰の特異さを知っている。

 あたしはここで死ぬ。〈針の城〉の外までリリーを連れ出すことは叶わなか
った。その代わりに結界が消えてくれるなら……あのひとは、自ら〈針の城〉
に乗り込んで、リリーと接触できるというわけだ。
 あのひとの目的はリリーなんだ。十年前から、ダージョンが〈妖魔租界戦争〉
に勝利したときから、彼女はこの結末を計画していたんだ。

「駄目だ……」

 リリーは渡せない。リリーは誰にも奪わせない。彼女は自由だ。彼女は彼女
だけのものなんだ。

「うわあああああああああああああ!」

 死を振り払うために、声を張り上げる。

 最悪の人生だった。
 いやな思い出しかなかった。
 例えいいことがあっても、その直後に悲劇に見舞われた。
 世界はあたしを憎んでいると信じていた。
 悲しみがあたしのすべてだった。
 そんな最悪だらけのくそったれな人生だからこそ、あたしは、最後の最後に、
奇蹟に縋る。最後の最後まで、自分じゃない、他人の力に期待する。

 リリーを助けてくれ。
 零姫に笑顔を与えてくれ。
 あたしの代わりに、
 彼女を外≠ヨ。
 太陽の下へ。
 自由へ―――

117 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 22:30:58


「イーリン、気をしっかりと保て。わらわと一緒に外≠ヨ行くんじゃなかっ
たのか。おまえが、わらわと外≠フ架け橋となるんじゃなかったのか!」

 ああ、そうだよ畜生。
 ほんとはあたしだって行きたかったんだ。
 リリーと一緒に見たかったんだ。
 ほんとは悔しいんだ。
 死にたくないんだ。

「リリー、あたしの……分まで―――」

「イヤじゃ。聞きとうない! わらわは、白百合の娘は、おまえがいる外
を目指したのじゃ。おまえがおらん外≠ノ、どんな価値があるというのじゃ」

 いや、それは違う。
 リリーは外≠ヨと飛び出した。自分で霊路を拓いて、火焔天から飛び出し
た。その過程で、運命があたしとリリーを引き合わせたんだ。
 あたしはリリーがいなければ外≠ノ魅力を感じないけれど、リリーはあた
しがいなくても、外≠夢見ることはできる。あたしの目的はあんただけれ
ど、あんたの目的はあたしじゃなくて外≠ネんだ。

 ―――でも。
 最後にそう言ってくれたことは、ほんとに嬉しい。
 死にたくないけれど、もっと一緒に、どこまでも二人で生きたかったけれど、
こんなに幸せな気持ちで死ねるのなら……まぁそこそこ悪くはないぜ。

「イーリン、死ぬな!」

「リリー、生きて、くれ―――」

「イーリン!」

「あんたは……」

 あんたは自由だ。

「自由に、生きて……」

「イーリン!」

118 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 22:31:08










     ―――ごめんね、マーマ。







         あたし、最高に親不孝だ。









.

119 名前:火蜥蜴≠フイーリン? ◆LIZARD.khE :2008/11/16(日) 23:29:37










     ―――ああ、そうかよ。







         は、ふざけんなよ。勝手に終わらせんな。
         「俺が」お前を、親不孝になんかさせてやらねえよ。

120 名前:◆MidianP94o :2008/11/17(月) 23:13:29












第二部「クーロン炎上」











.

121 名前:◆MidianP94o :2008/11/18(火) 00:06:16

Prologue


 ―――最上階のペントハウスから、彼女≠ヘクーロンの夜景を見下ろして
いた。正確には、クーロンの一部を。

 眠らない夜のリージョンに、ぽっかりと穿たれた闇の孔。ネオンの瞬きをま
ったく寄せ付けないあの区画こそ、彼女にとってもっとも因業深き地。
 いまは〈針の城〉などと戯けた名で呼ばれるスラム街。かつての妖魔租界だ。

 こうしてパノラマの窓辺からあの忌まわしきゴミ溜めを眺めて、何時間が経
ったろう。彼女は、あの火蜥蜴の少女を送り出してからいまのいままで、微動
だにせずじっと一点を、もっとも闇が濃い〈旧妖魔租界〉の中心部を見つめて
いた。些細な異変すら、見逃さないために。

 彼女に約束された永遠と比べれば、それは取るに足らない刹那の時だ。
 けれど、やはり長かった。ただ結果を待つために時間を重ねるというのは性
に合わない。何百年生きようと慣れることはない。
 結局、私は待つのが嫌いなだけなのだ。そう覚って彼女は自嘲した。

 誰かを見送ったりだとか、誰かになにかを託したりだとか、そういう類は自
分がもっとも苦手とする行為なのに。―――そうせざるを得なかったのは、ゾ
ズマの老獪さゆえか。それとも零姫の怯懦ゆえか。或いはその両方か。
 ……どのみち、卑怯なことに代わりはない。

 さらにしばらく、彼女は〈旧妖魔租界〉を見下ろし続けた。

 人間の眼では決して捉えることのできない変化を、彼女が目聡く霊視したの
はいったいどれほどの時間が流れた頃だろう。世界を構築するすべてのチャン
ネルを同時に視認する彼女の魔眼が紅蓮に燃え上がる。

 ゾズマの結界が―――

 破れた。

〈旧妖魔租界〉を覆っていた瘴気が、火焔天を中心に急速な勢いで晴れつつあ
る。あらゆる呪的要素、魔性の類が強制的にキャンセルされてしまっているの
だ。ゾズマが施術した忌まわしい上級妖魔殺しの結界も、糸がほどけるように
呆気なくディスペルされてしまった。
 そんな突飛な現象が顕現する理由など、ひとつしかない。

 彼女は静かに瞼を伏せた。
 窓辺に立ってから初めて、〈旧妖魔租界〉の夜景から眼を逸らした。

「……そうか」

 奥歯を噛み締め、痛切の声を漏らす。

「あの子は帰ってこないのか」

 だから待つのは嫌いなんだ。そう呟くと、彼女は踵を返し、パノラマビュー
の窓に背を向けた。

 もう待つのはやめだ。
 あの子のいない妖魔租界に価値などない。
 十二年前にゾズマがそうしたように。
 今度は私が灰にしてやる。
 燃やし尽くしてやる。

 そして零姫を―――

122 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/18(火) 23:58:53

 逝ってしまった。
 最後まで零姫の正体を知らないまま、イーリンは逝ってしまった。

 ……かわいそうな火蜥蜴。零姫のことだけじゃない。彼女は、自分のことさ
えも満足に知らなかった。

 例えば、彼女の生まれはクーロンから遠く離れたファシナトゥールの〈根っ
この町〉だということだとか。人間と魔物のあいのこと信じていたが、実は純
粋な人間だったことだとか。蜥蜴の血肉と魔眼は、後天的に移植≠ウれたも
のだとか。記憶も、消されていただけだったことだとか。
 ―――尽きぬ感謝と愛情をささげてきたマーマこと阿嬌は、実はシリウス領
事の腹心で、根っこの町からさらわれてきたイーリンを、この計画≠フため
に身請けしたことだとか。最後はイーリンへの愛情に負けて、主君を裏切り、
独断で零姫を殺めようとして、廃人にさせられてしまったことだとか。
 その他諸々、イーリンをイーリンとして構築する一切合切の事情を、しかし
イーリン本人はまったく知らなかった。
 知らないまま、逝ってしまった。

 それで、良かったのだろうか。

 真実を知れば、イーリンは発狂するかもしれない。
「リリーと一緒に外≠ヨと飛び出したい」という願いすらも、裏で、そう選
択するように仕組まれたものだったのだ。火蜥蜴の少女は最初から最後まで、
あの女の駒として利用され続けた。あまりに虚しく、あまりに哀れな人生だ。
 なにも知らずに死ねたのは、報われない彼女の人生の、たったひとつの幸福
だと―――そう考えることもできる。

 しかし、しかしだ。

 零姫は納得しない。
 零姫は認めない。
 すべてを知ってしまって、自分が如何に虚無的な存在かを気付いて、地獄の
苦難に悶えようとも―――零姫は、イーリンに生きて欲しかった。
 苦しみながらも生きて、生きて、生き抜いて欲しかった。
 他人のために死ぬなんて、とんでもない過ちだ。

「この、莫迦娘め!」

 微笑を浮かべたまま、瞳の焦点を曖昧にさせてゆくイーリンの肩を揺すって、
怒鳴りつける。

「どうして自分のために生きられぬ。どうして他人にばかり尽くそうとする。
おまえはイーリンなのじゃから、イーリンのために生きればよいのじゃ!」

 自分勝手だとか自分本位だとか、そんなことで悩んでいたらしいが、零姫か
ら見ればイーリンは主体性が欠落した娘だった。優しさに飢えるあまり、愛さ
れたいと思った相手に自分のすべてを預けてしまう娘だった。

「背負いすぎなのじゃ。悩みすぎなのじゃ。たかが人間の癖に、ゾズマに立ち
向かうじゃと?! 相手はかつての黒騎士筆頭じゃぞ。妖魔貴族の頂点に立っ
た武人じゃぞ。敵うわけがなかろう! 絶対に勝てぬ戦いで勝ちを拾おうとす
れば、どこかで歪みが生まれるに決まっておるのに―――」

 はた、と叫びを止める。
 零姫は、いま、自分が涙を流していることに気付いた。大粒の空知らぬ雨が
頬を濡らし、目を腫らす。―――こんなに無様に大泣きするなんて。久しくな
かった体験に、零姫は奮えた。
零姫として<Cーリンに会ったのは、ほんの一時間ほど前だ。なのに、彼女
の中でイーリンという娘はかけがえのない存在にまで育ってしまっていた。
 リリーと呼ばれた、あの白百合の娘の記憶が、零姫の凍てついた感情に火を
入れたのか。……まだ零姫が睡っていた頃の、もうひとりの自分が。

123 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/18(火) 23:59:04


 零姫は転生無限者である。
 先代の妖魔の君、オルロワージュの血の戒めから逃れるために、まさかの逆
吸血を果たし、自由を勝ち取った。
 現在の零姫は、厳密にはオルロワージュの血族ではない。妖魔でありながら
妖魔でもない。奇蹟の如き特異な存在だ。

 しかし、零姫にとって自由は呪いに等しかった。血の解放の代償として、零
姫は死≠ニいう絶対の自由を失ってしまったのだ。
 肉体が朽ちれば、転生し、生まれ変わって赤児から人生をやり直す。彼女が
寵姫零姫≠ニして記憶と魔力を取り戻すのは、九つから遅ければ二十五歳と
ばらつきがあるが、おおむね少女期で共通している。
 では、覚醒するまでまったくの別人なのかというと、決してそんなことはな
い。ひとつの肉体に宿る魂はひとつ。だから、あの白百合の娘も間違いなく零
姫だったのだ。ただ、寵姫零姫≠ニしての記憶が睡っていたというだけで。

 悲劇の始まりは、十三年前、クーロンの妖魔租界などに生まれ落ちてしまっ
たことだ。呪いの如し美貌を持つ零姫は赤児の時から美しく、すぐにシリウス
領事の目にとまった。あのとき、紅の魔人≠アとゾズマが横槍を入れなけれ
ば、今頃零姫は針の城――ファシナトゥールに建つ、本物の魔宮だ――で死ぬ
ことも生きることもできない拷問に苛まれ続けていただろう。
 ゾズマは運命の赤児≠ナある零姫を守るために、シリウス領事と、彼が支
配する妖魔租界を相手取った。たったひとりで戦争を始めた。
 当時、クーロンを魔界都市化させている原因となっていた妖魔租界をなんと
か排除したいと考えていたクーロン自治政府やIRPOの外交的圧力のせいで、フ
ァシナトゥールは援軍を送るに送れず、孤立したシリウス領事と妖魔租界の魑
魅魍魎どもはゾズマの鬼神の如き働きを前に、不死の命を散らせていった。

 妖魔租界を壊滅させることに成功したゾズマだったが、しかし、零姫を連れ
てクーロンから脱出するのは至難の業だった。一歩リージョンの外を出れば、
百万の妖魔が瞬く間に殺到するだろう。……それ以上に恐ろしいのは、零姫に
執心するあの女≠ェ直接挑んでくることだ。
 妖魔最強の武人として知られるイルドゥンをも凌駕すると言われるゾズマだ
ったが、あの女≠相手に、零姫を守りながら勝ち抜くことは不可能だと覚
った。―――覚ったからこそ、苦肉の策として、妖魔租界が燃え尽きた跡地に
上級妖魔殺し≠フ結界を張り、あの女≠ニの対決から逃れた。
あの女≠ウえ相手にしなければ、どんな刺客が送り込まれようとゾズマなら
対処できたからだ。
……しかし、結界は境界に過ぎず、外から内へと入れないように、内から外へ
も通行はできない。上級妖魔であるゾズマは、妖魔租界跡地に封印されたも同
然だった。―――そして、上級妖魔の素質を持つ運命の赤児≠焉B

 妖魔租界跡地は幼き零姫が垂れ流す魔力によって澱みを深め、魔界地区とし
てスラムを形成していった。〈針の城〉の誕生である。

 ―――これが、妖魔租界戦争のすべてだ。
 そして、零姫とゾズマがクーロンに流れ着いた事情でもある。

 ゾズマは他人との付き合い方を知らない男だ。目覚める前の話とはいえ、零
姫――つまりはリリーを――監禁したのは、愚かの極みとしか言えない。
 彼からすれば、零姫が覚醒するまで適当に時間を潰す。その程度の考えしか
なかったのだろうが、閉じ込められた当人はたまったものじゃない。
 そこが、結界の綻びとなった。あの女≠つけ込ませる疵となった。イー
リンを悲運へと走らせる原因となった。

 零姫に、ゾズマを責める気はない。
 彼は変人だが、ある意味、もっとも妖魔らしい妖魔だ。執着心というものが
なく、人間の感情を決して理解しない。風に流されるように、興味が赴くまま
に生きていく。―――だから、リリーの不満を理解できなかった。
 対するあの女≠ヘ、人間以上に人間らしい。だから、イーリンを利用する
ことを思い付いた。つくづく対照的な二人だ。

124 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/18(火) 23:59:18


 零姫は、目覚めた瞬間からあの女≠フ計画を見抜いた。あの女≠ェ覚え
ているかどうかは知らないが、零姫は前の人生で一度だけイーリンの魔力の
源≠目にしていた。そうでなくても、自分と同種の存在がいることは知って
いた。だから、イーリンのうちに潜むものを魔眼で見通したとき、非業の運命
までも確信してしまったのだ。

 ……だが、逃げられるところまで逃げるつもりだった。イーリンの言葉を信
じて、死を踏み台にして生きることの悦びを再確認したかった。
 まさか、火焔天からすら出られずに終わりを迎えてしまうなんて。自分が死
ねばイーリンだけは見逃してもらえるだろうと考えていただけに、零姫のショ
ックは計り知れない。自分の無策さが、あたら若い命を散らせてしまった。

 零姫の中の、リリーの部分が悲鳴をあげる。
 大声で、零姫を詰る。
 ……零姫は反抗する言葉を持たない。
 自責と自戒の嵐に飲まれて、いまにも溺死してしまいそうだ。
 どうして、こんなことになってしまったのか。
 こういうかたちでしか、終わらせることはできなかったのか。

 認めよう。
 零姫は、リリーが妬ましい。
 同じ零姫とは言え、零姫が零姫としてイーリンと過ごした時間は一時間にも
満たない。それに対して、リリーはどうか。彼女はイーリンとともに多くの時
間を過ごし、思い出を育んだ。イーリンが知る零姫とは、あくまでリリーとし
ての零姫なのだ。―――だからこそ、零姫とイーリンの関係はこれから築かれ
てゆくはずだったのに。

 火蜥蜴の娘の鼓動が、弱まっていく。

「イーリン! 莫迦娘のイーリン! 聞こえておるか!」

 零姫は必死で呼びかける。
 まだ彼女が生きているうちに。
 心の臓が止まる前に。

「わらわは諦めんぞ。死がなんじゃ。死んだ程度でなんだというのじゃ。おま
えが地獄に堕ちるのなら地獄へ、極楽へ昇るのなら極楽へ。おまえがこの火焔
天までわらわを迎えに来たように、わらわもおまえを必ず見つけ出してみせる!
だから待っておれ。百年かかろうと千年かかろうと、絶対に会いにゆくから!」

 そして、いつか一緒に、蒼穹の空の下で、ひなたぼっこでもしようではない
か。そう言い聞かせてやりたかったけれど、イーリンは最後に頬の筋肉を僅か
に緩めて微笑すると、そのまま生命の火を―――消した。

 イーリンは死んだ。彼女の躰は死体となった。

 涙は一瞬で枯れ果てた。

「……出てくるがよい、悪霊め。わらわが祓ってやる」

 先の情愛に満ちたものとは打って変わり、常の零姫が響かせる――否、それ
以上に凍えた――冷徹な声が、〈図書館〉に谺した。

「その躰はイーリンのものじゃ。イーリンだけのものじゃ。他の誰のものでも
なく、他の誰にも穢させぬ。例え一秒でも他人には盗ませぬ」

 零姫の背後で、炎の尾を持つ炎駒の麒麟が立ち上がった。妖力で編まれた実
体を持たない幻獣―――妖魔の中でも零姫だけが駆使できる幻術≠フ一端だ。
 幻とはいえ、古の神獣であることに代わりはない。

「アセルスの狗め。わらわは、おまえを決して許さんぞ」

 零姫は百年ぶりに、憎しみという感情を自覚した。

125 名前:火蜥蜴≠フイーリン? ◆LIZARD.khE :2008/11/19(水) 01:27:21
>>

 ……糞が。ああ畜生、胸糞悪ぃ。
 
 ようやくの「体」だ。待ちに待った自由の身だ、喜べよ俺……だなんて無理矢理誤魔化したところで
この気分の悪さは消えやしない。

 ……初めから分かっていたことだ。
 奴に利用されると知ったあの時から。
 こいつの中に無理矢理押し込められたあの時から。
 結末は一つしかない、こいつが死ななきゃ、俺は表に出られねえ。こいつが死ぬまで、俺はこいつの中で
見ていることしかできねえ。声さえも届きやしねえ。
 だから俺はこいつが死ぬのを待った、いや待たされた。
 そうするしか他になかったんだ。
 
 だからこそ、心底から――胸糞悪い。
 
 
 イーリン、イーリンと姫さんの呼ぶ声が聞こえる。「俺の耳」に聞こえる。
 もちろん俺に呼びかけている訳じゃない、その額面通りに、イーリンに呼びかけてんだ。
 だが俺も、久方ぶりの体の感覚を覚えつつある。主導権が入れ替わりつつある。
 その事実が更に俺の気分を悪くさせる。ああ全く、こんな皮肉があるものかよ。
 いっそもう、手に力を入れて起き上がってしまうべきかと逡巡しているうちに……
 
 頬が「俺の意志とは無関係に」、微笑を作った。
 
 ……なんだ、聞こえてたのかよお前にも。そっか。
 よかったな姫さん。報われたぜ。もっともこれだけじゃ足りないんだろうがな。
 だがしかし、これでもうこの体は――――俺のものだ。
 
 
「――――は。怖いじゃねえか姫さん。俺ごと、この体を荼毘に付そうって腹かよ?」
 
 打って変わって冷徹な声音の、零姫とやらの台詞を聞きながら、両目を開いて手足に力を入れ
片膝をつき、立ち上がって、埃を払って彼女を見やる。
 見えてるはずだ。
 俺の目。片目ではなく両目が爬虫類の、「とかげ」の眼となっていることが。
 蜥蜴の刺青、そいつが動いて服の内へと降りていく様が。
 それを見て案の定、零姫の表情が一層冷たくなる。ま……俺としてもこういう演出は嫌いじゃねえしな。
気を紛らわすにも丁度良い。ウォーミングアップと洒落込もうじゃねえか。

「ふん、思ったより体の馴染みがいいな。ずっと『同じ体』でいたせいか、それとも……姫さん、
 あんたのあいつへの思いのおかげか」

 おっと、更に険しくなりやがった。これ以上のお遊びは地雷踏みか。
 
「残念ながら、もうこの体は俺のもんだ。あんたが怒ろうがどうしようが、この現実は覆らねえよ。
 そうとも、あの活発な、あんたと共に外へ行こうとしたイーリンは……死んじまったよ。
 そいつは事実だ――だがな」
 
 幻獣の炎の明るさに目を細めながら、淡々と事実を口にする。
 実際、あれをけしかけられたら文字通りお陀仏だろうな。もっともどうせ俺は死ねねえんだが。
 だがそうかと言って、ここでこの体を奪われるわけにもいかねえ。
 俺にはまだやることがある。
 
「――ざけんな、誰が誰の狗だと?
 俺は俺だ、誰のもんでもありゃしねえ。てめえが許そうが許すまいが知った事じゃねえがな、
 あの女の狗呼ばわりだけは看過できねえな。それこそ一秒だって俺は奴に与した憶えはねえ。
 俺は只の、このくそったれな物語を見せ続けさせられた――――『とかげ』だ」

126 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/19(水) 23:55:53


 ……分かって、おる。

 啖呵を切られるまでもなく、零姫は充分に彼≠フ事情を理解していた。
 なにせ、零姫の知る彼≠ヘ、針の城に封印された存在だったのだから。
 イーリンがそうであったように、この爬虫類も被害者だ。あの女≠ノ利用
された駒なのだ。憎しみをぶつけるのは、お門違いもいいところだった。
 
 憤ってどうする。これは、そういう生き物なのだ。
 蜥蜴の尻尾が切られれば自然と新たな尻尾が生えてくるように、彼≠ヘ神
の摂理に基づいてイーリンの死体に憑依した。
 悪意があるどころか意識的ですらもない。彼≠ゥらしてみれば、ただ「イ
ーリンが死ねば顕現しろ」というプログラムに基づいただけだ。

 ……零姫とリリーの関係に似ている。
 零姫は彼≠フようにリリーの躰に憑いていたわけではなく、零姫自身がリ
リーだったのだけれど、見方を変えれば、リリーの躰を我が物顔で使っている
と解釈できなくもない。そう責められたところで、零姫の立場では「目覚めて
しまったものはしかたがない」としか答えられないのだが。
 ……それは、彼≠燗ッじだろう。
 だから、零姫は素直に怒りを収めたのだ。
 種は違えど、同じ無限転生者だ。その宿業は理解できる。

「とかげ……」

彼≠フ名を呟く。
 神を喰らったことで、決して死ねない呪いにかかってしまった男。死体から
死体へと憑依を繰り返すことで無限の転生を行う彼は、どういった経緯からか
数十年前に針の城の封印され、此度の策謀のために、十年前、イーリンの肉体
に魔術迷彩処理を施した上で埋め込まれた。
 なぜ、イーリンは蜥蜴の血肉を持っていたのか。人間でありながら、黄金に
輝く魔眼を持っていたのか。あの頬の刺青はなんだったのか。
 答えはすべて、このとかげ≠ェ握っていた。

 蜥蜴の血肉も魔眼も、とかげの魂を肉体に封印した副作用だったのだ。漏れ
出した特異性がイーリンの躰に侵食し、変異を呼んだ。
 零姫は知らないが、イーリンが不眠症になる切っ掛けとなった他人の夢
も、このとかげの記憶を無意識の世界で拾い取っていたからだった。

 つまり、イーリンの躰にとかげは同居していたということになる。
 死体にしか憑けない彼は、イーリンが存命中は表に出てくることは叶わなか
ったが―――彼女の死がスイッチとなって、こうして顕現を果たした。
 容姿も声もイーリンのままで、零姫の前に現れた。

127 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/19(水) 23:56:03


 なぜ、そんな回りくどいことをあの女≠ヘしたのか。それは、とかげには
魔術や妖術の類を強制的に無効化させる特質があるからだ。イーリンも似たよ
うな力を持っていたが、オリジナルは規模が桁違いだ。
 そこにいるだけで、周囲の霊力を消し飛ばしてしまう。魔術の計算式を分解
してしまう。零姫の背後の麒麟も、幻体を維持するだけでかなりの消耗を強い
られていた。……実に希有な特性だ。

あの女≠ヘ、そこに目をつけた。不可侵を誇る上級妖魔殺し≠フ結界も、
とかげの能力ならば内側から破れるのではないか、と。
あの女≠フ目論見は成功した。事実、彼が目覚めると同時にゾズマの結界は
解呪されてしまっている。いまの〈針の城〉は裸に等しい状態だ。
 十年以上も零姫を守っていた城塞は、消え去った。

 ―――すべてはこの瞬間のために。

 ゾズマの結界を破るために、イーリンは根っこの町からさらわれた。
 リリーと運命的な出会いを果たすように演出され、逃避行を裏で操作され、
火焔天で死にとかげが目覚めることすら計算されて―――ついにいま、十年越
しの念願が叶い、結界は消え去った。

あの女≠ヘ得意の絶頂にいるに違いない。十三年前の屈辱を見事に晴らして
みせたのだから。己の計画が一から十まで予定通りに成功したのだから。

 イーリンと同じく、とかげも道具以上の価値はない。〈針の城〉の結界が消
えたいま、あの女≠ェ直接零姫に手を下しに来るだろう。
 よもやクーロンにいるとは思わなかったが……ゾズマの胸に突き立つ魔剣が、
彼女の存在をはっきりと証明している。

「ならばここから早急に去るがよい」

 冷たい声のまま、零姫はとかげに言った。

「おまえの言う通り、それはおまえの躰じゃ。……イーリンの中で、おまえは
十年も待っていたのだから、そう主張する権利ぐらいはあろう。だから、その
躰でどこへなりとも自由に行ってしまうがよい」

 零姫がとかげを追い出そうとするのは、彼がイーリンの顔で、イーリンの声
で話しかけてくるのが、辛くてしかたがないから―――という理由だけではな
い。彼を丁寧に歓迎する時間的余裕などまったくないのだ。

 ここは、もうすぐ戦場になる。
 第二次妖魔租界戦争が始まろうとしているのだ。 

128 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/20(木) 01:55:12
>>

「へっ。話が早いじゃねえか。だが……そうもいかねえんだ。
 そりゃあ『はいそうですかではお言葉に甘えて』とズラかれるんなら、俺も苦労はしねえんだがな」
 
 実際、この言葉に嘘はない。
 俺には俺のやるべき事がある……探さなくちゃならない奴がいる。それ以外の者など、俺にとっては
何の関係もねえ。あの女も、この姫さんも、何もかも。
 おまけに俺は特異存在だ。居るだけで霊脈を歪ませ、結界に干渉し、余計なものを呼び寄せる……
一つ所に居てはろくな事にならねえ。叶うなら、さっさとここからおさらばしたいというのはだから本音だ。
 しかし。

「まずあんただ、姫さん。あんたは俺の『より』なんだよ。
 イーリンは今際の際まであんたを想っていた。この体にはその念が宿り、俺はそいつに縛られる。
 次の死体を探すまで、俺は残念ながらあんたから離れられねえんだよ。離れたが最後、この体は
 腐っちまうからな」

 もっとも、その『依』はこんな幻獣を作り出せるような強力な妖魔だと来ているんだからややこしい
話だが。おかげで随分と、体の調子は良い……飲み込んだあの「石」の力も相まって、例の幻魔とやらの
力をはね除けられる程度には。

「それでも出てけってんなら仕方ねえがな。俺自身はどうせ死ねやしねえし、こんなスラムなら
 死体なんぞ早々に見つかるだろ。そして代わりにイーリンは無縁仏だ。
 それであんたの気が済むってんなら、別に構わねえぜ?」
 
 相手にとって見知った人間のツラをして、あえてそんな風に突き放してやる。
 こう言われてなおも出て行けと言える人間は多くはない。
 まあ、こいつは人間じゃなく妖魔だが……表情見る限り、大して変わらねえだろ。
 
「まあそういうわけだ、悪いが付き合って貰うぜ。
 ……それに俺自身、あのクソ女には借りを返してやりたいんでな。
 その為にもこの、イーリンの体が必要なんだよ。他の死体じゃ意味がねえ。
 それにこっちは、あんたにとっても悪い話じゃねえはずだ」
 
 上手くいけば、だが……と心中で付け加える。
 正直言えば勝算はあまりない、馬鹿げていると俺自身思う。
 だがそれでも――このままで済ませる気は、毛頭ねえ。

129 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/21(金) 00:01:08



 ……こやつ、正気か。

 予想外の申し出に零姫は眉をひそめた。
 口調こそ乱暴だが、とかげの言い分はつまり「零姫の騎士になる」というこ
とだ。自殺志願も甚だしい。なんの義理があってそんな真似をするのか。せっ
かく取り憑いた躰をなぜ進んで壊そうとする。
 零姫にはとかげの考えが一分も理解できなかった。

 男性の魂を持つとかげが、なぜイーリンという女性の躰に宿るようになった
のか。それは、彼があの女≠ノ封印され、駒として利用されたからだ。
 つまり、一度は敗北しているのだ。
 無理もない。あの女≠ニ正面から対峙して、勝ちを収められる戦士がこの
世界にどれだけいる。ゾズマやイルドゥンですら厳しい戦いになるはずだ。
あの女≠ヘそれほどまでに強い。疑いようもなく妖魔最強である。彼の加勢
があったところで、勝算は変わらず絶望的なままだ。

 ―――負けると分かっている勝負に挑む愚か者は、ひとりで充分じゃ。

 それに、彼の躰は彼女の躰なのだ。
 もう、これ以上イーリンを傷付けたくはない。願わくば、せめて肉体だけで
も外≠ヨ連れて行ってやって欲しいとすら思っている。
 やはり、とかげを戦いには参加させられない。……しかし、零姫から離れれ
ば肉体が腐ってしまうというのだから性質が悪い。
 どうしたものか。

「あやつの狙いはわらわじゃ。わらわの側にいる限り、おまえは災厄に晒され
続けることになるぞ。であるならば、例え我が身が腐ろうとも、逃げられるだ
け逃げるのが得策というものであろう。……だから、わらわに構うな」

 零姫は素っ気ない口ぶりで言った。
 美しさが際立つからこそ、余計に冷たく見える彼女の横顔。これこそが本来
の零姫だ。誰にも興味を持たず、他人との関わりを拒絶する。
 イーリンに見せた感情の炎は、彼女の隠れた一面でしかない。

「これは、わらわの戦いじゃ」

 零姫の魔力は誰よりも高い。純粋な霊的スペックだけで比べれば、あの女
など零姫の足下にも及ばない。しかし、こと戦闘という分野において、零姫の
魔力はあまり役に立たず、逆にあの女≠フ武人としての力量は一個の軍に匹
敵するほど高かった。殺し合いになれば、まず勝てない。
 だから今日まで、零姫はあの女≠ニ剣を交えようなどとは思わなかった。
 逃げて、隠れて、一秒でも自分の生を伸ばすことに腐心していた。……しか
し今回だけは、零姫は自分の信念を曲げてあの女≠迎え撃つつもりだった。

 怒りがある。あの女≠、零姫は許せない。
 しかし、それ以上に―――悲しみが強い。
あの女≠ヘ憎いが、それ以上に自分自身が憎い。
 零姫は疲れを覚えていた。
 イーリンを守れなかった自分に、罰を与えたいとすら思っている。

 これは、そのための戦争だ。

130 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/21(金) 01:16:03
>>

 ……あーあ、見事に曲解してくれやがった。まあ、俺の言い方も悪かったかも知れねえけど。
 「借りを返す」なんぞと言っちまえば、確かにタイマンでも張ろうって思われるわな。
 だがこの姫さんも悲劇的に捉えすぎだぜ。……イーリンがどうしたかったのか、忘れちまったのかよ。
 
「あのな、姫さん……イーリンと共にいたのはあんただけじゃねえ。俺の望んだことじゃなかろうが、結局は
 俺もずっとこいつに付き合わされて……付き合ってきたんだよ。
 ふん……まあ、確かに俺らしくもねえ話だろうがな」
 
 本来なら俺は、適当な、しがらみの無さそうな死体を選んでずっと「生きて」きた。
 すぐに行方をくらませて、軽く変装をして、あまり人と関わらないようにしてきた。
 ……そうせざるを得ないんだから仕方がない。「とかげ」とは名ばかりに、俺は冷血ではいられねえタチ
らしい。あまり人と関わりすぎると情が移る。どうせ皆死んじまうのに、どうせ俺は異端なのに、どうせこの
手からこぼれ落ちてしまうというのに。
 だから誰とも関わらぬよう、俺は俺だと嘯いていつもは人の間をすり抜けていくことにしていた。
 いつもなら。
 
 ――――今度ばかりは別なんだよクソッタレが!
 
「ざっと十年……ああ十年間、こいつを『中』から見てきたんだぜ俺は。こんなクソくだらねえ、ろくな終わ
 り方もしねえと分かり切ってる三文芝居を、俺はずっと見てきたんだよ畜生が!
 責任者出てこい、ってやつだ。このまんま終わらせてたまるか、俺の気が済まねえんだよ!」
 
 情が移るだのなんだのという次元じゃねえ。
 ここまでさせられて、素知らぬ顔で居られるほど俺は冷血にはなれない。
 そんなだだ甘の自分にすら腹が立つが……どっちにせよこの最悪の気分は収めたくて仕方がねえ。
 
「だからだ、姫さん。俺は俺のしたいようにさせて貰うぜ」

 ではどうするか? んなもん、答えは決まっている。


「俺は――――イーリンの本懐を遂げさせる」


 そう言って、零姫の手を取った――先刻のイーリンと、同じように。


「逃げるぜ、一緒に。あの女の筋書きはここでご破算だ。成功率なんぞ関係ねえ。最後まで抗ってやる。
 この街からもあの女からも逃げおおせてやる――最悪の物語を、ぶち壊してやる。
 これが俺の戦いってやつだ。あんたと同じようにな」

 ついでに笑ってやろうか。
 もちろんそりゃ、悪人ヅラでだ。

131 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/21(金) 20:06:53
少し修正。


>>

 ……あーあ、見事に曲解してくれやがった。まあ、俺の言い方も悪かったかも知れねえけど。
 「借りを返す」なんぞと言っちまえば、確かにタイマンでも張ろうって思われるわな。
 だがこの姫さんも悲劇的に捉えすぎだぜ。……イーリンがどうしたかったのか、忘れちまったのかよ。
 
「あのな、姫さん……イーリンと共にいたのはあんただけじゃねえ。俺の望んだことじゃなかろうが、結局は
 俺もずっとこいつに付き合わされて……付き合ってきたんだよ。
 ふん……まあ、確かに俺らしくもねえ話だろうがな」
 
 本来なら俺は、適当な、しがらみの無さそうな死体を選んでずっと「生きて」きた。
 すぐに行方をくらませて、軽く変装をして、あまり人と関わらないようにしてきた。
 ……そうせざるを得ないんだから仕方がない。「とかげ」とは名ばかりに、俺は冷血ではいられねえタチ
らしい。あまり人と関わりすぎると情が移る。どうせ皆死んじまうのに、どうせ俺は異端なのに、どうせこの
手からこぼれ落ちてしまうというのに。
 だから誰とも関わらぬよう、俺は俺だと嘯いていつもは人の間をすり抜けていくことにしていた。
 いつもなら。
 
 ――――今度ばかりは別なんだよクソッタレが!
 
「ざっと十年……ああ十年間、こいつを『中』から見てきたんだぜ俺は。こんなクソくだらねえ、ろくな終わ
 り方もしねえと分かり切ってる三文芝居を、俺はずっと見てきたんだよ畜生が!
 責任者出てこい、ってやつだ! このまんま終わらせてたまるか、俺の気が済まねえんだよ!」
 
 情が移るだのなんだのという次元じゃねえ。
 「やがて死ぬ人間」に入れられたんだ。死を看取るまでただ黙って見ているしか術がなかった。
 それはこいつの一生を無理矢理背負わされたも同然だ。しかも当のイーリンにすら存在を知られずに!
 ここまでさせられて、素知らぬ顔で居られるほど俺は冷血にはなれない。
 そんなだだ甘の自分にすら腹が立つが……どっちにせよこの最悪の気分は収めたくて仕方がねえ。
 ましてやこんな馬鹿げた陰謀劇のおまけ付きとなりゃあ尚更だ。
 
「だからだ、姫さん。俺は俺のしたいようにさせて貰うぜ」

 ではどうするか? んなもん、答えは決まっている。


「俺は――――イーリンの本懐を遂げさせる」


 そう言って、零姫の手を取った――先刻のイーリンと、同じように。


「逃げるぜ、一緒に。あの女の筋書きはここでご破算だ。成功率なんぞ関係ねえ。最後まで抗ってやる。
 この街からもあの女からも逃げおおせてやる――最悪の物語を、ぶち壊してやる。
 だから今の俺はイーリンの体が必要なんだよ。『こいつと一緒に』脱出しなきゃ、意味がねえからな。
 『あんたの戦い』が知ったことか。これが俺の戦いってやつだ。あんたと同じように、な」

 ついでに笑ってやろうか。
 もちろんそりゃ、悪人ヅラでだ。

132 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/24(月) 20:40:26


 零姫は礼節を重んずる女だ。礼儀を軽んじる輩をもっとも忌み嫌う。無礼を
許しておけない性分だった。
 親しくもない他人に断りもなく触れられれば当然気分を害するし、それが異
性となると手厳しく叱責もする。
 とかげに手を握られたときも、やはり零姫は嫌悪に眉を寄せた。その馴れ馴
れしい振る舞いに、仕置きのひとつでもしてやろうかとすら考えた。

 ―――しかし、彼の指先の感触が、彼の肌から伝わる体温が、イーリンのも
のとまったく同じであることに気付いてしまい、零姫は何も言えなくなった。
 お仕置きどころか、手を払うことすらできなかった。

 ……この男は、卑怯じゃ。

 とかげはイーリンの指で零姫に触れ、イーリンの声で呼びかける。イーリン
のかんばせを向けて、イーリンの瞳で胸のうちを射貫く。
 抗えるわけがない。
 いまの零姫のもっとも弱い部分を、とかげは的確に突いてきた。
 彼はイーリンとはまったく別物で、もうイーリンはこの躰にいないというこ
とを、零姫は知っている。しかし、頭では理解していても、胸が納得しない。
とかげの表情に、イーリンの名残を求めてしまう。

 とかげとイーリン。
 変わったのは、右眼だけだった黄金の魔眼が、とかげが顕現してからは左眼
も開いたことか。……それと、頬の刺青が胸まで降りていったこと。
 この二つの変異に、零姫はだいぶ救われていた。
 顔面の刺青が無くなったお陰で、同じ顔と言えども印象はかなり異なる。
 両眼の魔眼も然りだ。片眼だけが瞳孔の細い黄金瞳なのと、両眼がそれなの
とでは表情の作りがやはり違う。
 とかげのかんばせからイーリンを探そうとして、逆に異なる点を見つけてし
まった零姫は、改めて「彼女はもういない」と自分に言い聞かせた。

 とかげの言葉を吟味するかのように、黙り込む。
 彼には感謝しなければならない。彼が一方的にまくし立ててくれたお陰で、
零姫は少しだけ冷静になることができた。とかげにはとかげの事情があるとい
うことを、落ち着いて考えることができた。

 ……不幸なのは、わらわだけではない。

 とかげだってそうだ。否、とかげのほうがはるかに辛いかもしれない。
 零姫は覚醒するその時までリリーの最深層で睡っていたけれど、とかげは自
らの意識を持ったまま、イーリンの躰に封印されていたのだ。
 彼はイーリンのクーロンでの生涯をずっと見守ってきた。見守っていながら
にして、なにもしてあげることができなかった。
 それは拷問に勝る苦痛だったに違いない。

 とかげのことをただの悪霊としか見なしていなかった零姫は、自分の了見の
狭さを素直に認めて、反省した。

133 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/24(月) 20:40:47


「……おまえの提案通り、一緒に行ってやらぬでもない」

 反省したのに偉そうな物言いが治らないのは、これしか零姫は他人との接し
方を知らないからだ。本音の部分では、いたく心を打たれていた。
 とかげはイーリンの裡にいた。彼は彼女の心の底までくまなく見渡していた
はずだ。自身が望む望まないに関わらず、強制的にイーリンのすべてを覗き見
させられていたはずだ。
 ―――そんなとかげだからこそ、イーリンの願いを、彼女がほんとうに望ん
でいたことを代弁できる。

 一緒に、外≠ヨ。

「よいの、だな」

 唇を震わせながら言う。

「わらわでも、よいのだな」

 それはとかげへの言葉というよりも、いまはいなくなってしまったイーリン
に手向ける最後の確認だった。

「リリーではなく、零姫であるわらわでも、おまえは誘ってくれるのじゃな。
一緒に行ってくれるのじゃな」

 イーリンは、どうして死んだ。なぜ死ななければならなかった。
 ―――それはリリーの夢を叶えるためだ。零姫を外≠フ世界へと連れ出す
ためだ。そのために愚かで一途な少女はすべてを捨てた。自分の命すらも平気
で投げ出した。
 これは、呪いに等しい。あまりに重い愛情を、零姫は背負わされてしまった。
 
 いまここであの女≠ヨの憎しみを破裂させ、命を賭して仇討ちに挑み、そ
して玉砕すれば、この呪いは解けるかもしれない。
 けれど、それではイーリンの死はどうなる。彼女の死が、まったくの無意味
になってしまうではないか。
 とかげは、そこまで考えていたのだ。

「……よかろう」

 イーリンは死に、リリーは消えてしまった。出会った二人はいないけれど、
躰はここに残っている。ならばまだ、零姫にもとかげにもできることがあるは
ずだ。死に逃避する前に、生きてやるべきことがあるはずだ。

「おまえがパートナーというのは大いに不服じゃが、互いに目的は一致してお
る。わらわはイーリンのため。おまえもイーリンのため」

 零姫はリリーとは違い、外≠知っている。無限の転生で、多くのリージ
ョンを巡った。例えクーロンが出ようとも、幸せは約束はされておらず、同じ
ように困難が待ち受けていることを、零姫は知り抜いていた。
 だが、それでも―――零姫はもう、ここには一秒たりともいたくはなかった。
 一秒でも疾くイーリンと一緒に、ここではないどこかへと行きたかった。

「クーロンなどクソ喰らえじゃ」

 イーリンの口ぶりを真似てから、零姫は笑った。微笑ではなく、イーリンの
ように快活に、笑った。

134 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/24(月) 21:54:16


「―――そうか。やはり、行ってしまうんだね」

 背後からかかった声に、零姫ははっと表情を驚かせて、振り向いた。

「ゾズマ……」

 胸に幻魔を突き立てた赤髪の魔人が、脚を引きずりながらとかげと零姫の近
くまで来ていた。本棚に肩を預けると、苦しそうに息を吐く。
「無茶をするでない」と忠告しかけるが、喉まで出かかった言葉を零姫はその
まま呑み込んだ。ゾズマは別に無茶をしているわけではない。この元筆頭騎士
は、ただそうしたいからしているだけ。気づかいが意味を為さない男なのだ。

「僕としては、火焔天に留まって欲しいところだけど……。なにせ、ここが一
番安全だから。けど、強制はしない。君がしたいようにすればいい」

 うむ、と零姫は頷いた。ゾズマは一度たりとも、零姫に何かを強いたことな
どなかった。リリーを閉じ込めた彼だけれど、零姫が目覚めたら、即座に〈図
書館〉の鍵も開いた。―――彼はただ、零姫が覚醒するまで、彼女の躰を守っ
ていただけなのだ。不器用というより、純粋すぎる男だった。
 あまりに純粋であるが故に、人間味を欠片も持ち合わせていない。
 それがゾズマという妖魔だ。

「わらわは行く。ゾズマ、今日まで迷惑をかけたな」

「……次に転生するときは、もうちょっとお淑やかな子を頼むよ。あの子はち
ょっと、元気がありすぎて僕の手には負えなかったから」

 ゾズマの手さえ焼かせたのだ。あの白百合の娘は本物の大物だった。

「おぬしはどうするのじゃ」

「僕は―――残るよ。この躰で火焔天の外へ行くのは賢くないからね。とても
じゃないけど、あの子からは逃れられない。ならば、ここで息を潜めるさ」

 それが一番妥当な選択だということは、零姫も分かっている。
〈針の城〉の第零層火焔天≠ヘ、ゾズマの最後の城。他のすべての層が陥落
しようとも、ここは〈紅の魔人〉の結界として機能し続ける。どうせあの女
と戦わなければならないのなら、自分のフィールドでやるべきだ。

 しかし、零姫の目的は外≠ヨと行くことだから―――

「ここで、お別れじゃな」

 ああ、とゾズマは頷いた。

「僕は心から願うよ。君が今度こそ寿命を全うしてくれることを」

 無限の転生を繰り返す零姫だったが、あの女≠ノ執着される以前から、ま
だオルロワージュが妖魔の君だった時代から、その生涯は短命のまま終わって
いた。どんなに長く生きても二十代半ばで果ててしまう。平均すれば寿命は十
代の前半で、年齢が二桁に達する前に死ぬことも珍しくなかった。

 そんな儚い生の連続に苦しむ零姫は、だから「せめて一度ぐらいは人間とし
て人生を全うしたい」と切に望んだ。零姫も妖魔もファシナトゥールも関係の
ない世界で、穏やかな営みに幸せを感じたいと。
 ゾズマは、その想いを汲んでくれたのだ。

135 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/24(月) 21:54:27


「今回限りの特別サービスだよ。次はない。僕はもう懲りたからね」

 幻魔からの侵食で発狂しかねないほどの痛みを覚えているはずなのに、顔に
汗を浮かべつつも、ゾズマは悪戯っぽく微笑んで、ウインクした。
 ふふ、と零姫もつられて笑う。しかし、次のゾズマの言葉を聞いてすぐに表
情に強張らせた。

「クーロンの外を目指す君たちに告げるのは、心苦しいのだけれど」

 ゾズマにしては珍しく、若干の躊躇いを見せつつ口にする。

「〈針の城〉は、この火焔天を除いて十層まですべて墜ちている。〈針の城〉
はいまや敵の城で、僕たちは完全に包囲されていて、君たちは敵陣の真っ直中
を通り抜けなければならない。とても愉快な状況だね」

「なんと……」

 結界が破られた瞬間から侵攻は始まるだろうと覚悟していたが、まさかもの
の数分で九割方が制圧されてしまうとは。あの女≠ヘ自分の軍を使えないは
ずだが、まさか単身でそこまでやってのけたのか。

「こんな事態を招いてしまった侘びというわけではないけれど、幻魔は僕が引
き受けよう。この魔剣が無いだけでも、あの子の力はだいぶ削げるからね」

「しかし、それではおぬしが―――」

「勘違いしちゃ駄目だよ、零姫様。僕は火蜥蜴の子みたいに、自分の命を燃や
し尽くしてまで……なんて情熱はない。あくまで死なない程度に粘るだけさ」

 それを聞いて安心した。イーリンに続いてゾズマまで自分のせいで死なれて
は、業が深すぎて窒息してしまう。

「ついでに、これも」

 ゾズマは赤鞘に収めた自分の愛刀を、零姫に渡そうとしたが、少し考えてか
らとかげに押しつけた。

「銘は嘯風弄月≠ニいう。月下美人と並び称される名刀だ。君にあげるよ。
これで、零姫様を守ってあげてくれ。クーロンを無事に出られたら、好きにし
て構わない。売れば一財産になるよ」

 イーリンはゾズマを怨敵と見なしていた。ゾズマも、イーリンを味方とは決
して思っていなかった。なのに、とかげに愛刀を譲ったのは、ゾズマはゾズマ
なりに、イーリンとリリーについて思うことがあったからだろう。
 なにせ、彼はこの数百年――オルロワージュとの決戦さえ含んでも――ここ
までの重傷を負わされたことは一度として無かった。たかが人間の小娘に、上
級妖魔の中でもトップクラスの力を持つ〈紅の魔人〉が敗れたのだ。
 ゾズマの性格なら、愉快に思わずにはいられないのだろう。

「この十二年―――鬱陶しいことも多かったけれど、その分だけ、退屈を忘れ
られた。君たちには感謝するよ」

 だから、いってらっしゃい―――と。
 ゾズマは火焔天をホームに見立てて、零姫ととかげを送り出した。

136 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/24(月) 23:50:20
>>

「くく……くははははははっ!」

 思わず声出して笑う。より正確に言えば笑うしかない。
 
 ダージョン……いや、ゾズマっつったか。野郎の言うことにはこの<針の城>が現状ここ中心部を除いて
既に敵地。クーロンから、どころかこの真っ赤に染まりきった状況からの脱出ゲーム開始の合図と来た
もんだ。

「サービス精神旺盛すぎてますます借りを返してやりたくなったぜあのクソ女。どっかのテレビゲームよ
ろしく俺に千人斬り無双でもしろってのかよ?」

 ……出来るかんなもん。こちとら別に戦闘のプロでもなんでもねえぞ。
 まあ、しかしそれはそれとしてだ。
 
「まあくれるってんならありがたく貰っとくが……いいのかよ? 俺にはてめえの無事を祈る義理はねえぜ
ダージョン様よ? 俺の義理はイーリンに対してのみだからな。……ま、その為にも姫さんはきっちり守
ってやるけどな」
 
 千人斬りしようがしまいが、確かに武器があるならありがたい。
 ――実際受けとった「嘯風弄月」とやらは、確かにその名に負けぬ名刀だった。それでいて俺としては
具合の良いことに霊刀の類でもない。銘から言っても、こいつは何かに染まりきることのない刀ということか。
案外に、俺の手に馴染むかも知れないな。
 鞘を挿しておけるようなもんはないが、まあそこは仕方ねえか。

「良し、と。……さて、姫さん」

 改めて、向き直る。
 反撃の狼煙って奴のために。
 
 
「結局の所、こいつは代理闘争だ。あんたの言うとおり、俺らはイーリンのためにここを脱出する。
だからこそ……死ねないぜ? 玉砕じゃねえ、絶対に生き延びてやる」

 まったく、こんなことは初めてだ。
 こんな身になって、どうせ死ねないと諦めることや、俺だけが生き残って後悔することはあっても……
絶対に生き延びてみせる、だなんて状況に放り込まれるなどとは。
 
 ――俺の本当の望みは「死」だ。無為な生など、もう重ねたくない。
 それなのに。
 それなのに……この気分は悪くない。明確な敵がいるからなのか、それとも「生き延びてやる」という
思いのためなのか。

 まあ、なんでもいい。とにかくやってやる。
 
「クソ食らえついでに、この最悪の状況とやらもクソ食らえと行くぜ、姫さん。どこまでも突っ走って、
目指すは馬鹿どものいない場所へ、だ!」

137 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/26(水) 20:58:19
よく考えたら俺別に「イーリンに義理がある」訳じゃねえよな。
んなわけで↓このように訂正だ。

「まあくれるってんならありがたく貰っとくが……いいのかよ? 俺にはてめえの無事を祈る義理はねえぜ
ダージョン様よ? 俺はただ俺の勝手で姫さんと逃げようってだけだからな。……ま、その為にも姫さんは
きっちり守ってやるが」

138 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/29(土) 22:55:58


 とかげの威勢の良さは、悲観的思考に陥りがちな零姫の気分をいくらか和ら
げてくれた。彼は彼なりに気を使って慰めようとしてくれているのだと解釈し
て、少しは認めてやってもいいかもしれぬな、などと考えたりする。
 ―――が、しかし。
 現実的な問題として、いま二人が置かれている状況はかなり厳しい。とかげ
が想像しているよりもはるかにだ。最悪を通り越して、絶望と断言してもいい
かもしれない。だから零姫も、一時は玉砕を覚悟したのだ。

 ……あの女≠ヘ本気じゃ。

 十年越しの計画が大成するのだ。とかげと零姫がクーロン脱出を試みる可能
性も当然考慮しているだろう。あの女≠ヘいったいどんな綿密な計画のもと、
最後の詰めとしてとかげを排除し、零姫を捕らえるのか。
 それが、見えてこない。

 クーロンは、治安こそ悪いが外交では非常に強い力を持っている。共同租界
には自国民を守るために、それぞれのリージョンが軍隊を駐留させているし、
IRPOの治安維持軍もターミナル港警備を名目に一個師団が常駐している。
 いくらあの女≠ナも、軍を率いて電撃的に攻め込んで一晩二晩で制圧する
なんて芸当は不可能だ。かといって戦闘が長引けば、トリニティやシュライク、
IRPOをも巻き込んで恐ろしい規模の戦争に発展してしまう。もう百年近くムス
ペルニブル制圧に忙殺されているあの女≠ノ、そんな余裕はない。
 動かせるとしても精々一部隊程度。可能性としてもっとも濃厚なのは、あ
の女≠ェ愚かでかつ無謀にも単身で乗り込んでいること。
 しかし、だとしたら。

 ……説明がつかぬ。

 ゾズマは確かに言った。〈針の城〉は火焔天を残して陥落した、と。
 それも結界が破れた瞬間にだ。いくらあの女≠ニいえど、物量に頼らずど
うしてそんな真似ができる。軍を動かさずに、どうやってあの女≠ヘ〈針の
城〉を制圧したのか。いま、この火焔天の外の様子はどうなっているのか。
〈針の城〉はいったいどうなってしまったのか。
 零姫は考える。考える……が、分からない。

 かつてはすべての霊脈を掌握し、自身の身体の一部として完璧に〈針の城〉
を理解していた零姫だったが、とかげの顕現により霊場は乱れに乱れ、いま
は縮地はおろか千里眼すら使用することは叶わない。
 地の利は完全に失せていた。
 ゾズマの言葉通り、火焔天で迎え撃つのがもっとも賢い選択だ。
 ……しかし、それでは外≠ヨは至れない。

「案じても道は開けぬ、か」

 零姫は結論する。ここはとかげという不確定因子に期待をよせるしかない。
あらゆる魔術的作用を否定するとかげの特異能力ならば、あの女≠フ算段を
狂わすことができるかもしれない。
 零姫ととかげの目的は、あの女≠斃すことではなく、生きたままクーロ
ンから脱出することなのだ。その程度の奇蹟ぐらい、期待してもいいはずだ。

 ―――イーリン、待っておれ。

「わらわが見せてやる。色彩に満ちた外≠フ景色を」

 無限転生の姫は、閉じられた世界の扉を開いた。

139 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/29(土) 22:56:14


 ―――開いて、絶句した。

「こ、これは何事じゃ」

 第零層火焔天≠ニはリリーを監禁すること――ゾズマから言わせれば零姫
を護ること――を目的とした建造物だ。多層都市〈針の城〉の中心にあり、高
層建築物の密集地帯である〈針の城〉において唯一の一階部分で完結した平屋
の低層建築物であった。外観は薄べったい箱状で、まるで黒檀の巨大な棺桶の
ようだった。面積の八割方を零姫の私室である〈図書館〉が閉めているため、
屋外に出るのは苦労しない。零姫もとかげと一緒に〈図書館〉を出てから、ほ
んの数分でゲートに辿り着いてしまった。

 ―――問題はそこからだ。

 零姫は火焔天と第一層月天(つきてん)≠フ境界の風景を直に見たことは
ない。……が、リリーのときに幾度となく霊視はした。彼女の視界≠ヘ〈針
の城〉の全層に及んでいるのだ。零姫が知らない〈針の城〉の風景などない。
 しかし、ゲートの向こう側に広がるそれは、驚愕で思考が真っ白になってし
まうほど、あまりに―――あまりに見知らぬ景色に成り果てていた。
 まるで異界に迷い込んでしまったかのようだ。誤ってワープゲートでもくぐ
ってしまったのではないか、とすら零姫は一瞬勘ぐった。
 それほどまでに、零姫の知る〈針の城〉とは異なる風景。

「―――いや」

 知っている。
 わらわは知っているぞ。
 確かにこの景色を見ているぞ。

 人工的な明かりの一切が見当たらなず、周囲は闇が支配している。目視でき
てしまうほど濃厚な瘴気が立ちこめ、まるで暗黒の霧のようだ。
 目を凝らして街並みを観察することで、ようやくここが〈針の城〉であると
知れるが、その変容の具合は絶望するほどに激しい。
 夜空へと突き立つあらゆるビルは荒廃し、窓という窓からは鏃のように尖っ
た枯れ枝が突き出している。攻撃的な荊がどこからともなく密生して、舗装さ
れた路地を引き裂き、ビルの壁を食い破っていた。
 印象で語るならば、荊と枯れ枝の津波に〈針の城〉が呑み込まれてしまった
かのようだ。枯れ枝にも荊にも生気というものがまるで感じられず、闇が凝固
して生成されたように見える。空気は澱みきって、夜空すら満足に窺えない。
 ―――そんな隠されたクーロンの空に、異常なまでにはっきりと浮かび上が
る血色の満月。

 こんなのは断じて〈針の城〉の景色ではない。
 しかし、零姫は知っている。
 この景色を知っている。
 クーロンよりも遥かに馴染み深いこの景色は―――

「針の城……」

 妖魔としての零姫の故郷。
 かつて彼女が逃げ出した場所と瓜二つの光景が、そこにはあった。

140 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/29(土) 22:57:07


 ―――そして、紅の満月を背負った女がひとり。

 零姫の視界の先で、二人を待ち受けていた。悠々自適に佇み、まるで、来訪
者は零姫ととかげのほうで、自分こそがこの城の主だと言いたげな態度で。

 女は特異な存在だった。チーパオ・ドレスにお団子頭というクーロンの伝統
衣装は今時演劇でも滅多にお目にかかれないほど時代錯誤なのだが、クーロン
ストリートの茶屋で給仕でもしていそうな町娘然として愛敬のある顔立ちのせ
いで、不思議と違和感はない。……が、その素朴な印象が、この異様な光景と
はまったく相容れず、余計に倒錯感を掻き立てている。

 クーロン女は自身に満ちた不遜な笑みを絶やさず、これまた伝統的な訛りで
零姫に声をかける。

「ニーハオ! ファシナトゥールにようこそ、アル」

 それは、かつてイーリンにシャオジエと呼ばれて、慕われていた女だった。

141 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/29(土) 23:18:57
加筆




 ―――そして、紅の満月を背負った娘がひとり。

 零姫の視界の先で、二人を待ち受けていた。
 悠々自適に佇み、まるで、来訪者は零姫ととかげのほうで、自分こそがこの
城の主だと言いたげな態度で。

 娘は特異な存在だった。
 チーパオ・ドレスにお団子頭というクーロンの伝統衣装は今時演劇でも滅多
にお目にかかれないほど時代錯誤なのだが、クーロンストリートの茶屋で給仕
でもしていそうな町娘然とした愛敬のある顔立ちのせいで、不思議と違和感は
ない。
 ……が、その素朴な印象が、この異様な光景とはまったく相容れず、余計に
倒錯感を掻き立てている。

「誰じゃ、あやつは」

 零姫は眉をよせた。自分たちを待ち受ける者がいるであろうことは想像して
いた。しかし、それは彼女ではない。てっきりあの女≠ェ待ち構えているも
のだとばかり思っていたのに。
 こんな娘、零姫は知らない。リリーとして過ごした時間まで遡っても、見た
ことも視たこともなかった。

 零姫が訝しむ一方で、クーロン娘は自信に満ちた不遜な笑みを絶やさず、こ
れまた伝統的な訛りで快活に声をあげる。

「ニーハオ、零姫様! ファシナトゥールにようこそ、アル」

 それは、かつてイーリンにシャオジエと呼ばれて、慕われていた女だった。

142 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/30(日) 21:23:26
>>

 ――は、やれやれ、なんとまあ。
 
 ほぼ全域が制圧済みだとは聞いてたが……蓋を開けてみればなるほど、こういう訳か。
 実際に姫さんが驚愕しているあたり、効果はあったんだろう。
 ついでに俺にとっても見覚えが無くもないが……まあそんなに動揺はしてねえな、我ながら。
 クソ忌々しい光景なのは確かだが、俺としてはそれ以上に……
 
「てめえは本当に小細工好きだな。なあ、シャオジエ?」

 目の前にこいつが居ることのほうが、よっぽど重大だ。
 ……クソ、初っぱなからこれかよ、ええ?

「初めまして、じゃねえよな。お久しぶりですってのも少し違うが。イーリンがお世話になって
ました、ってのが妥当なとこか? しっかし第一ステージでいきなり顔合わせとは俺としても
予想外だったぜ。姫さんはあんたのことを知るはずがねえんだから、俺への当てつけか?」

 その通り、実際姫さんの表情を見るに、知る由もなかった相手のはずだ。
 だが俺は知っている。……嫌になるほど知っている。
 だからこそ俺の今の台詞は不正解だともわかる。ああ、「俺への当てつけ」なんかじゃね
えだろうさ、こいつは……

「なあ、シャオジエ……ええと、てめえの本名なんつったかな。忘れちまったよ。まあ別に
んなもんは重要でもなんでもねえから構わねえだろ? てめえは『そんなもんじゃねえ』んだ
からな。……ったく、マジで小細工好きだよな。んな格好、恥ずかしくねえのかよ?」

 名探偵、皆を集めて「さて」と言い。……二人しか居ねえけど。
 
 実際、全く見た目は違う。ただの変装目的ってだけなら大したもんだ。霊格さえも異なって
見えるってんだから尚更だろう。現に姫さんですら気づいてねえしな。一体全体どんなカラク
リを用いてやがるんだか、俺があやかりたいほどだ。
 だが、ここにこうして現れりゃ当然そいつはぶち壊しだ。だからこそ、小細工好きだと言っ
ているんだが。……こいつ、何のためにここに現れやがった。こんな風にして俺と姫さんの
意表を突いて、その好きに俺らをやっちまおうって腹か?
 は、まさかな。それこそ必要もない。別にこんなとこで待つ必要なんぞあるわきゃねえんだから。
 だったら……まだ、勝機はあるか。
 せいぜい軽口叩いて、こいつの「小細工」に乗っかってやろう。
 

「姫さんに分からなくとも俺にはわかる。状況証拠が揃いすぎてるってやつだ。大体てめえ
自身、暴いて欲しくて俺らの前に現れたんだろ? 違うかよ、なあ……


  妖魔公さん、よ!」

143 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/01(月) 23:54:25


 シャオジエはとかげを見つめ続けた。初めは、くりくりと愛らしく動く大き
な瞳を丸くして。次に、蔑みを孕みつつ眼を細めて。
 感情に富んだ表情が死んでいく。愛敬は失せ、冷徹な殺意が小さな躰から放
射される。シャオジエからものの数秒で「喜」の色彩が抜け落ちた

 ―――やがて彼女は表情を歪ませて、苦痛を表現する。

「……醜い、アル」

 吐き捨てるように紡がれたシャオジエの言葉に追従するように、荊と枯れ枝
に蹂躙された〈針の城〉が奮えた。闇が蠢き、肉声となって夜に谺する。

 
  貴様はもう、なにも喋るな。

 
 ―――確かに、そう言った。〈針の城〉がとかげに語りかけた。ビルとビル
の隙間を走る風の音が女の声を作ったのだ。
 不気味な現象に零姫は「むぅ」と呻く。ここはいったいどこなのか。あのク
ーロン娘はいったい誰なのか。ようやく彼女にも分かりかけてきた。

 地面をびっしりと埋め尽くす荊が、シャオジエの脚に絡まっていく。脛に巻
き付き、太股を昇り、瞬く間にチーパオ・ドレスの姑娘を呑み込んでいくのだ
が―――異様な事態に晒されても、シャオジエの表情はまったく乱れない。
 変わらずとかげを見つめている。

「……なるほど、見えたわ」

 いまや胸まで荊に抱擁されたシャオジエを睨みながら、零姫は言う。

「なぜ、ファシナトゥールを留守にしてまであやつが直々にクーロンに乗り込
んできたのか。わらわを捕らえることのみが目的であるならば、手勢を差し向
ければよいものを……」

 ぎり、と奥歯を噛んでから、零姫は叫んだ。

「おまえは狂っておる!」

 荊が螺旋の渦を巻いて娘の矮躯に幾重も幾重も絡みつく。ついに、シャオジ
エは頭のてっぺんまで、完全に茨に呑み込まれた。

「ああ、そうさ!」

 なんと、荊の塊が声を張り上げた。シャオジエの声ではない。先程の、〈針
の城〉に谺した凜と透き通る女性の声だ。

「認めよう。私は狂っている! しかし、誰が私を狂わせた?! どうして私
は狂わなければいけなかったんだ?! すべて、すべて貴様のせいだろう!」

 零姫、と荊は叫んで―――蕾が開花するかのように、戒めを解いた。

 シャオジエはどこにもいなかった。ほどけた荊のドレスから姿を見せたのは、
恐ろしいほどに端正な顔立ちをした一人の少女だった。

 少女は、少女にあるまじき格好をしていた。
 胸の部分にたっぷりとフリルをあしらったブラウスに天鵞絨地のジュストコ
ールを羽織り、太股まで露わになったタイトなショートパンツに、オーバーニ
ーのレースソックスを組み合わせている。
 少年のような服装だった。
 少女は男装をしていた。
 しかし、それが奇矯にはまったく見えず、短く刈った浅葱色の髪との相乗効
果で、異性同性を問わずに感服してしまうほど美しく仕上がっていた。

144 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/01(月) 23:54:48


 少女は、上級妖魔の証である血色の瞳で零姫を睨む。零姫もまた、少女を睨
み返してから呻いた。

「アセルス!」

 妖魔公。
 男装の麗人。
 妖魔最強の剣客。
 闇を統べる者。
 魔法剣士。
 妖魔の君。

 通り名は多くあれど、彼女の真名はたったひとつしかない。

 妖魔アセルス。

 ―――すべての妖魔の頂点に立つ者が、ここにいる。

 ……しかし、零姫はまったく物怖じせずに怒鳴りつけた。

「アセルス。おぬし、自分の寵姫を喰いおったな!」

 ふん、とつまらなそうにアセルスは鼻を鳴らす。

「私が目指す永遠の、一つの完成系さ」
 
 だから、なのだ。
 だから、アセルスはゾズマにも零姫にも気付かれることなくクーロンに滞在
できた。魔女シャオジエ≠ニいう偽りの身分で、好き勝手に振る舞えた。
 ただの変装ではなく、魔術迷彩ですらない。
 彼女は完全な他人に成り代わっていたのだ。霊格はおろか魂でさえも、シャ
オジエとアセルスでは異なっていた。

 シャオジエの、容姿と声と愛らしさは―――元々は、蓮華姫≠ニいうアセ
ルスの寵姫のものだった。蓮華姫とアセルスは互いに好き合う仲であったが、
ファシナトゥール入りを果たす前に、不治の病に蝕まれて死亡した。
 アセルスには、そういった「愛し合っていたのに、結ばれずに失ってしまっ
た」お姫様が数多く存在する。
 ―――この妖魔の君は、蓮華姫に留まらずそのような永遠になってしまっ
た£桾Pたちの亡骸を取り込むことで、魂の婚姻を目指したのだ。

 もはやアセルスは、一匹の妖魔ではなかった。
 彼女は城であり軍であり世界であった。
 クーロンに顕現したこのファシナトゥールは、〈針の城〉を呑み込んだこの
針の城は、その一つ一つがアセルスの細胞であり内臓である。……つまり、こ
こは妖魔の君の体内と呼ぶに相応しい、閉じられた世界であった。

「アセルス、おぬしというやつは……大馬鹿じゃ」
 
 数十年会わないうちに変わり果ててしまったかつての戦友を前にして、零姫
は怒り以上の憐れみを抱いてしまった。

 対するアセルスの返答は―――

「この私の城に、イーリンを招き入れる」

 だから、イーリンの躰を返してもらおうか。
 そう、とかげに命令した。
 その口調は、紛うことなく命令だった。

145 名前:あせるす:2008/12/04(木) 13:22:14


 ―――イーリン。
 その名を口にするだけで胸が強く痛む。心が折れそうになってしまう。

 アセルスは流浪の魔女シャオジエ≠ニして、イーリンがまだ言葉すら満足
に操れない頃から面倒を見てきた。今日までの十年間、成長を見守り続けた。
根っこの町≠ゥら幼いイーリンをさらった当時は、無作為に選んだ贄程度に
しか思っていなかったが、イーリンが美しい少女へと育ってゆくにつれ、アセ
ルスの心のうちには火蜥蜴の彼女の存在が強く居座るようになった。

診察≠ニ称してイーリンの精神拘束を調整するとき、睡っていることをいい
ことに唇を奪った回数は――― 一度や二度では済まない。

 アセルスは火蜥蜴イーリンを愛していた。彼女が死んだ事実をもっとも悼ん
でいるのは他ならぬ自分自身だと、根拠もなく確信していた。
 寵姫にしてあげてもよかったのに、とすら考えている。
 彼女と一緒に永遠を生きたかった―――そう強く思えるからこそ、アセルス
は零姫を許せない。イーリンを殺した彼女が憎くてしかたがない。

 この魔女さえいなければ、私の火蜥蜴は死なずに済んだのに。

 確かにアセルスは、数十年前に封印したとかげを人造霊に偽装させてイーリ
ンに憑依させた。彼女が死ねば、自動的にとかげが顕現するように仕組んだ。
 しかし、それは保険に過ぎず、アセルスは「イーリンがリリーを結界の外へ
連れ出す」可能性に賭けていた。零姫を自分の手の届く範囲にまでおびき寄せ
ることができるのなら、とかげに利用価値はないのだから。

 結果は―――アセルスは期待と愛情を裏切られ、イーリンは〈針の城〉の中
心で事切れた。とかげは顕現し、結界は消滅し、保険は十全の役割を果たした。
「零姫を捕らえる」という十年越しの計画は、いままさに成就せんとしている。
が、そのために犠牲となったものは―――あまりに大きい。

「イーリン……」

 失いたく、なかった。

「イーリン―――」

 彼女の苦悩と葛藤を、もっと見ていたかった。

「イーリン!」

 一緒に、永遠になりたかった。


 ―――しかしもう、クーロンの火蜥蜴はどこにもいない。

146 名前:あせるす:2008/12/04(木) 13:22:33


「貴様のせいだ!」

 アセルスの美貌が憎悪に染まる。
 なぜ、零姫はイーリンが差し出した外≠ヨと続く手を取らなかったのか。
彼女が素直にイーリンの願いに従っていれば、イーリンは幻魔を使う必要はな
かったのに。零姫の優柔不断な態度がイーリンを殺した―――そう確信してい
るアセルスは、だからこそ余計に零姫を憎む。先代妖魔の君の血の縛りから唯
一抜け出した寵姫という事実だけでも憎悪に値するというのに。

 妖魔公アセルスの目的は三つある。

 ひとつめは、零姫を捕らえ、屈服させること。針の城の地下迷宮に突き落と
して、死ぬことも生きることも叶わぬ身にさせること。

 ふたつめは、妖魔の君という立場を省みての悲願。このままクーロンをファ
シナトゥール化させて、世界の中心であるターミナル港を占拠すること。
 リージョン・シップの航路を押さえてしまえば、人間社会への侵略は格段に
楽になり、より堅固な支配体制を確立できる。

 みっつめは―――
 いまのアセルスにとって、これこそが最大の目的かもしれない。
 いままで早世していった幾人もの寵姫をそうしてきたように、イーリンの亡
骸を自身の闇に受け入れる。自分と他者を分ける『肉体』という境界線を排除
することで、二人はようやく永遠へと至れるのだ。

 イーリンは、私だけのものだ。
 誰にも渡さない。
 まして、零姫などには絶対に。

「火蜥蜴の彼女の目指した外≠ヘここにある!」

 シリウスはぬるい。ゾズマもぬるい。彼等はファシナトゥールや針の城を騙
るだけで、その本質をまったく理解していなかった。
 この私が見せつけてやる。ファシナトゥールとはなんなのか。針の城とはな
んなのか。―――自由とはどこにあるのか、を。

 アセルスの血色の瞳が禍々しい輝きを帯びる。彼女が口元を歪ませると同時
に、荊が、城が、世界が地響きをあげて震え始めた。

 第二次妖魔租界戦戦争の始まりである。

147 名前:あせるす:2008/12/04(木) 13:23:11
逃げるなり攻撃するなり、自由にアクションしてくれて構わない

148 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/05(金) 22:14:46
>>

 ……ち。
 「俺もあやかりたい」なんて前言は撤回だ。寵姫を喰った、だと?
 吐き気を催す邪悪、ってのはこういう事を言うのかも知れねえな……はっきりいって、おぞましい。
永遠がどうとか知ったこっちゃねえ、こいつは確かに狂ってやがる。

「言ってろ馬鹿。てめえなんかにイーリンを渡してたまるかよ」

 吐き捨てる。狂王に諭してやる言葉なんぞねえ。
 姫さんは憐れんでるようだが……俺はむしろ呆れる、といった心境だぜ。

「……てめえでイーリンに俺を混ぜやがって、てめえが勝手にそこに現れといて、それでそのツラか?
本当に吐き気がしそうだな。弁えろよ、そもそも俺もてめえも、ただの脇役だろうがよ」

 そうとも、こいつはてめえで都合の良いように話をすり替えているだけだ。
 このクソッタレな物語の主役はイーリン。
 ああ確かにイーリンにとっちゃシャオジエは重要な人物だったろうさ。
 
 『シャオジエは』、な!

「今更出しゃばるんじゃねえよ。本当に分かってねえのか?
イーリンが慕っていたのは『シャオジエ』だ。てめえじゃねえんだよ悪の妖魔公。
俺がどんなに苦悩しようが、てめえがどんなにイーリンを想っていようが……俺らは
『イーリンの知らない』ただの脇役だ。それを弁えるどころか、てめえは……」

 鞘を構える。姫さんを庇うように前に立つ。
 ……王子様ごっこなぞ柄じゃねえな。そもそも逃げなきゃいけねえんだし。
 だから足は引き気味だ。姫さんにもそれはわかるだろう。
 だが……挑発のために言葉を繰ってるわけでもないのも、きっと読まれてるんだろうな。
 ああ、正直腹が立っている。だから言わずにはいられねえよ。
 あとはせいぜい……挑発として機能してくれることを祈って、
 
「……イーリンの慕っていたシャオジエまでもを殺しやがって。
 ああそうだぜ、てめえはたった今イーリンの目の前でシャオジエを、リュイ・チャンウェイを
 殺したんだよ。そんな奴がなに言ってんだ馬鹿。付き合ってられねえな。
 勝手に言ってろ、俺らは行くぜ。イーリンを待たせられねえんでな」
 
 イーリンの弔いの合図を、言い切った。
 ……さて、そんじゃ逃げるとしますか。

149 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/06(土) 00:04:05


 アセルスは、とかげを見ながらにしてとかげを見ていない。彼女が見つめる
のは、とかげの躰―――つまりはイーリンのかんばせであり、肢体だった。
 どれだけとかげが口舌の刃で鋭くアセルスを斬りつけようと、彼を用済みの
寄生虫としか認識していない彼女はまったく堪えない。
 アセルスには聞こえないのだ。愛するもの以外の、如何なる声も。

 しかし、だからといってとかげの啖呵が無駄に終わったわけでは決してない。
 アセルスには聞こえずとも、彼の言葉をはっきりと聞き届け、胸に刻み込ん
だ者が、ここにはいる。

「―――感謝するぞ」

 とかげが盾のように構えた鞘を押しのけて、零姫は一歩前に進んだ。その眼
には毅然とした意思の輝きが宿っている。

「とかげよ。おまえはわらわよりも――リリーよりも――イーリンと一緒にい
た時間が長い。あの娘がクーロンに流れてから今日までずっと見守り続けたお
まえは、だからこそ誰よりもイーリンという娘を理解しておる」

 そんなおまえが紡いだ言葉だからこそ、強い説得力を秘めておるのじゃ。
 ……そう語る零姫は、シャオジエ≠ニ呼ばれる女の存在すら知らない。
 イーリンとシャオジエがどんな関係で、イーリンはシャオジエにどんな感情
を抱いていたのか。まったく察することができない。
 だから、とかげの言葉が重く聞こえるのだ。

「わらわも決断した。はっきりと答えを見出した」

 零姫はアセルスをきっと睨み据えると、声を張り上げた。

「大馬鹿者のアセルス! おまえにだけは、絶対にイーリンは渡さぬ!」

 とかげの声は耳に入らなくても、さすがに零姫の言葉は意識せざるを得なか
ったのだろう。アセルスは表情に不快の相を走らせた。しかし、それが実力行
使へと至るよりも疾く―――先手必勝。零姫が攻撃に出た。

 炎の竜巻が吹き荒れ、闇を払う。

 零姫はわずか一瞬の挙動で鳳凰と燭陰の幻獣を編んでみせ、アセルスにけし
かけさせた。―――幻術による並行召喚。それもただの幻獣ではなく、四竜と
四霊という神獣クラスの二匹だ。超常的な魔力量と、それを使いこなす明智を
持つ零姫だから可能とする奇蹟の具現。
 炎より生まれ、炎を支配する竜と鳥が、アセルスと彼女を護る荊を瞬く間に
炎で焼き尽くした。一瞬で灰となる妖魔の君。あまりに呆気ない。

「まだじゃ!」

 零姫は当然、これで終わりなどとは思っていない。

「この城≠ノおる限り、あやつは不死身に限りなく近い。ここは奴の世界。
わらわは奴の心象風景を見ているに等しいのじゃ」

 では、どうすればいいのか。
 ――― 一歩でも遠くまで逃げるのじゃ、と零姫。
 とかげの手を引いて、駆け出した。
 ……イーリンがリリーを、そうするはずであったように、だ。

150 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 20:12:32


 アセルスを荊ごと焼き払い、第一層月天≠突破した零姫ととかげが次に
足を踏み入れるのは水星天=\――〈針の城〉の第三層にしてクーロン・マ
フィア直属の凶手集団黒死病≠フ総本山だ。

 三階建ての、ビルと呼ぶより家屋と呼んだほうがしっくりと来そうな建築物
が整然と建ち並ぶ、貧民街には似付かわしくない街並み。歪なものなど何ひと
つなく、どの建物も同じ表情をしている。暗殺集団として、凶手の個性を極限
まで殺す黒死病≠フ在り方を忠実に再現した光景。水星天≠ヘ〈針の城〉
の秩序の象徴であり、その秩序の執行者こそが黒死病≠ネのである。

「おかしい」

 零姫は呻くように言った。
 視界に広がる第二層の街並み。それは零姫がリリーとして、幾度となく霊視
し、時には縮地で訪れたこともある光景だった。
〈針の城〉として一切の不自然がない。人気がまったく感じられないことすら
凶手集団の根城ということを鑑みると、違和感を覚えるには値しない。
 ……しかし、だからこそおかしいのだ。
 妖魔アセルスによって、月天≠ヘあそこまで禍々しく闇に汚染されていた
というのに、どうして水星天≠ヘもとの〈針の城〉のまままなのか。
 アセルスによるファシナトゥール化が進んでいるのならば、ここも月天
と同様に変異が始まっていてもおかしくはないのに。
 アセルスの魔力は月天≠ワでしか及んでいなかったのか。第二層以降の階
層はこれから侵されていくのか。
 ……いや、それは考えにくい。
 ゾズマは確かに「〈針の城〉は完全に制圧された」と語った。完全に、と言
い切ったのだ。ならば、まったくの変異なしなど考えられない。

 とかげとともに家屋の平べったい屋根を道にして第三層へと目指しつつ、零
姫の紅の眼はせわしなく周囲を探ってアセルスの気配を探る。
 この静けさが凶兆を予告している、と零姫が確信を胸に抱いたとき―――彼
女が危惧していた変異≠ェ足下から顕現した。
 正確には、いまのいままで気付かなかっただけで、零姫が水星天≠ノ足を
踏み入れた瞬間から、変異≠ヘ始まっていた―――

 ずぼり、と零姫のはいていた草履が、足袋ごと沈む。先を急ぎすぎたあまり、
屋根を踏み抜いてしまったのだ。わらわはそんなに重くないぞ、と視線でとか
げに弁明しつつ、変な疑惑を与えてくれた脆い屋根に無言で抗議する。

「……ん、これは」

 零姫はすぐに気付いた。この家屋の屋根だけ他とは違う。外見はまったく同
じなのに材質が違う。奇妙なまでに柔らかくて弾力性がある。心なしか香ばし
い匂いまでしていた。まるでイーストで発酵させたブリヌイの生地ような……。
 いや、これは。

「ブリヌイそのものじゃ!」

151 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 20:12:46


 お菓子の家だ。この家屋はパンケーキでできている。
 零姫は、連なる他の建物に慌てて視線を向けた。見た目に不自然なところは
ないが、よくよく観察してみるとそれぞれ材質が異なる。明らかにチョコレー
トでできている建物まであった。
 零姫は奇怪な事実に愕然とする。まさか、第二層のすべての建物がお菓子で
きているのか。黒死病≠ェ甘党だなんていう話は、今日まで聞いたことがな
い。ということは、これは―――

 はっと我に返る。今までまったく人の気配というものを感じなかった水星
天=Bしかし、零姫は気付いた。向かいの家の三階の窓から、自分たちを凝視
する人影があることを。この階層に棲まう殺し屋のひとりだ。
 視線は見る間に増えてゆく。向かいの家だけでも数十。他の家屋からも、黒
いインパネスコートにボーラーハットという出で立ちの凶手どもが続々と姿を
現してくる。どれもゾズマの忠実な下僕であるはずだが……。

 凶手はみな揃って生気が失せていた。闇が濃すぎて表情を窺えない。零姫は
瞳に魔力を集中させて、視力を強化しようと試みた。―――その瞬間。

 ぱん、と凶手のひとりが破裂した。服だけを残し、黒い霧となって霧散した。

「なっ……!」

 零姫が戸惑ううちにも、凶手たちは連鎖するように弾けていく。糸が切れた
人形のように、主を失った衣服が地面に崩れ落ちた。
黒死病≠ヘいったいどれほどの規模を持つ組織なのか。構成員は何人いるの
か。零姫はまったく知らないが、恐らく、水星天≠ノ残っていた凶手は全滅
したに違いない。ひとり残らず弾けて、黒い霧となった。

 しかし、零姫が砂糖菓子の魔宮で本当の恐怖を味わうのはこれからだった。

 零姫はすぐに認識を改める。自分が黒い霧だと見なしたもの。その正体を、
強化した視力がはっきりと捉えてしまった。

 それは親指ほどの大きさの、コオロギによく似た昆虫だった。
 漆黒の躰に人を狂わす紋様を刻み、夜に鈍く輝く赤い瞳を持つ魔棲蟲。
 ファシナトゥールでも辺境に棲息しており、針の城住まいだった零姫にはあ
まり馴染みがない蟲だ。―――それが、一瞬にして十万も百万も発生した。
黒死病≠フ凶手を苗床にして、無限に生まれ落ちた。

 零姫は顔を引きつらせて後ずさった。いくら世慣れた姫君といっても、この
光景には生理的嫌悪を掻き立てられる。あまりに悪趣味で、あまりにおぞまし
すぎる。まさかアセルスとの戦いで、こんなものを見せつけられるとは。
 妖魔公の美意識からかけ離れた情景だ。

 一千万の羽音が空気を震わす。鼓膜を破りかねないほどの騒々しさ。魔棲蟲
の大軍は水星天≠構成するお菓子の家に突撃し、貪欲に家々を食い散らか
し始めた。一件につき何千匹という魔棲蟲が殺到し、一分とかからずに家を消
滅させてしまう。
 一匹一匹は非力といえど、あれほどの数が相手ではさばきようがない。魔棲
蟲の食欲の対象が自分たちに向けられる前に―――

「わらわは逃げる!」

 零姫は幻術で道徳天尊の白鹿を召喚すると、跨る―――というよりしがみつ
くようにして騎乗し、颯爽と逃げ去った。

152 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/07(日) 20:59:51
>>

 ……って、おい。
 マジ逃げやがったぞ姫さん!
 てめえ一蓮托生の俺を置いていく気か!
 
 とかなんとかわめいて追っかけても構わねえんだが、とりあえずパス。
 状況的には悪くねえし、露払いを引き受けてやっても良いだろう。
 ……いや違ぇ。逃げる仲間の後ろで”露払い”は確実におかしいな、くそ。
 
 
「は! あの女、俺が『何なのか』を忘れてんじゃねえのか?」

 つかさっきの俺の啖呵も聞いてねえようだったしな、舐められたもんだ。
 ――迫り来る虫、虫、虫。これぞ文字通り雲霞の如く、ってやつだ。御馳走食ってご機嫌です
僕たち、あとはデザートに俺と姫さんを、ってか?
 馬ぁ鹿。餌はどっちだ雑魚共が。身の程を知りやがれ。
 
「何の因果か俺は『とかげ』だ。そしててめえらはどんな姿形してようがただの『虫』だ。
なら――食ってやるのが礼儀ってもんだよなあ?」

 もちろん、口でばくばく食ってやる気はない。さすがにそんなグロは後免被る。
 だが俺の眼には見えている。奴らは虫の形をしたただの魔力体だ。
 そして余計な属性を持っちまったのが運の尽き、ってやつだ。
 
 剣は左手に持ち替え、”とかげの刺青”を右手に移し、掲げる。
 そら――餌の皆さんがやってきた。こいつらは一匹残らず「とかげの餌」だ!
 消えやがれ!
 片っ端から俺に食われちまえよ!
 何千だろうが何万だろうが、俺の力になるだけだ!
 
 
 
 
「――おおい! ”貸し1”だかんな姫さん!」
 
 聞こえてんのかどうか知らねえ……と言いたいとこだが聞こえてねえと俺が困る。
 ともあれ、一匹残らず魔力に還元して「食い尽くした」俺は、刺青を胸元に戻して成果を主張する。
 大声で。
 つかどこまで行ったんだあの姫さん。「イーリン」を置いてってどうすんだ全く。
 
 まあいい、行きますか。

153 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 22:42:23

「ほう、やるのう」

 滅多に他人を褒めることのない零姫が、心の底から感嘆した。あれほどまで
に大量の蟲を、すべてもとの不定形の魔力へ還してしまうとは。
魔≠ニいうカタチを混乱させる彼の能力と、昆虫の天敵である爬虫類の特性
が合わさって初めて可能となる芸当だ。

 白鹿から恐る恐る降り立った零姫は、周囲には虫一匹残っておらず、ただお
菓子の家だけが廃墟の如く食い散らかされていることを確認すると、ふぅ、と
安堵の吐息を漏らした。

「しかし―――」

 解せぬな、と零姫は呟く。
 思い出すだけでも身の毛がよだつ、魔棲蟲の大軍。あれはどう考えてもアセ
ルスの嗜好の産物ではない。ファシナトゥール化が進むこの〈針の城〉が、ア
セルスの心象風景の具現であるならば、彼女が忌み嫌うような概念がカタチと
なるなどあり得ないはずなのに。

 この城≠ヘ思った以上に複雑な構造をしているのかもしれぬのう。

 零姫は、慌てて逃げたために乱れた裾を整えると、蟲の大軍など見もしなか
ったと言いたげな表情で、遠く離れたとかげに話しかける。

「なにをぼさっとしておるのじゃ。敵を全滅させたいまが好機じゃ。さっさと
次の階層へ―――」

 行くぞ、と言いかけて唇を止めた。

 とかげの頭上に浮かぶ、深紅の満月に影がさす。零姫は初め、高層ビルが月
を隠したのかと思った。が、すぐにそんなことはあり得ないと考え直す。
 ここは〈針の城〉の第二層。高層建築物が密集する外周層とは距離が離れて
いる。こんなに間近で目視できるはずがない。
 ……なら、あの影はなんなのか。

 巨人だった。

 先程まで、どこにその巨体を隠していたのか。
 比喩でも誇張でもなく、天を衝く背丈。馬鹿馬鹿しすぎるほどに常識外れの
巨躯。人のかたちをした塔や山と考えたほうが、まだ納得できそうなほどの大
きさに、零姫はただただ呆然と見上げるしかなかった。
 あれほどまでに巨大な生物が存在するものなのか。
 サイクロプスやタイタン、ギガントなどといった所謂巨人≠ニ称される魔
物の類が小人となってしまうほどのオーバーサイズだ。
 この巨人、零姫の深い知識で思い当たるのはでいだらぼっち≠ニいう伝説
上の妖怪だが、あれは神に限りなく近しい存在だ。零姫の幻術ですら召喚は叶
わない。いくらアセルスといえども、顕現させることは不可能なはずだ。
 なら目の前のこれはなんなのか。

 巨人は衣服をまとっておらず、顔ものっぺらぼうのように表情がなく、ただ
眼らしき部分に亀裂が入っているだけだった。躰も起伏に乏しく、ただひとの
カタチをとっているだけのように思える。まるで出来の悪い人形だ。
 ただ大きさだけが狂気の域に達している。巨人が十歩も歩けば、〈針の城〉
の外へと出てしまうのではないだろうか。

 先の蟲の大軍といい、この巨人といい。あまりにも常軌を逸した展開の連続
に、零姫は驚きを通り越して疲れを覚えかけていた。

154 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 22:42:38


 巨人はゆっくりとした動作で手を振りあげた。

 まずい―――。

 零姫は白鹿に飛び乗ると、風の速さでとかげへと接近し、そのまま速度を緩
めず、体当たりするように彼を騎乗へと抱き上げた。
 直後に、巨人は腕を振り下ろす。お菓子の家が潰れるだけに留まらず、その
衝撃は地震となって周囲の家屋まで倒壊させた。
 零姫ととかげが乗る白鹿は軽快な足取りで宙を跳び、被害を免れたものの―
――すぐに巨人は躰を前傾にして、鹿を掴もうと逆の手を繰り出した。

 魔力で編まれたものといえども、幻獣には己の意思がある。逃げ切れないと
覚った白鹿は、零姫ととかげを振り落とすと、踵を還して巨人に突っ込んだ。
 雄々しくも麗しい大角を巨人の掌に突き立てた次の瞬間、自らを構築する魔
力を暴走させ、白鹿は自爆。見事に巨人の右手を消し飛ばしてみせた。

 ……が、巨人は痛がるそぶりも見せずに、左手一本でお菓子の家の残骸をす
くい取り、器用にこねくり回して、パテのように右手を補修しはじめた。

「こ、こいつは手に負えぬぞ」

 逃げるしかない。先の蟲の大軍のときと同じ結論に達した零姫は――今度は
とかげと一緒に――全速力で駆け出した。

 とかげはただでさえ身体能力が高い上に、魔石を呑み込んでさらにブースト
されている。脚力は相当なものだった。
 対する零姫は、正直に言って運動が苦手だ。足代わりの白鹿を早々に失って
しまったことを悔やみつつ、韋駄天走りの歩法でとかげの背中を追う。

 巨人は動きこそ緩慢だが、サイズがサイズだけに、僅かな挙動だけで距離を
詰められてしまう。一歩前に進むだけで水星天≠フ街並みは無惨に引き裂か
れ、腕を振るえば区画が消し飛んだ。

「ええい、埒が明かぬ!」

 ファシナトゥール化した〈針の城〉は、距離感が大きく狂ってしまっている
ため、どこまで走れば次の階層へとゆけるのか皆目見当が付かない。
 ……まぁ、そもそもの話として、次の階層に逃げ込んだところで巨人に追い
かけ回されている現状ではどうにもならないのかもしれないが。

 いい加減、零姫の息も切れ始めたとき―――他のお菓子でできた建物とは明
らかにおもむきの異なる、木造の建築物が視界に飛び込んできた。
 横に長い一階建ての平屋。基礎のコンクリートは建物の五倍も近くも突き出
して、まるで舞台のようになっている。あの独特の外観は、まさか―――

「……駅舎じゃと?」

 間違いない。クーロンには存在しないはずの鉄道だ。建物に並ぶようにして、
漆黒の汽車までもが停まっている。目を凝らせば、丁寧に線路まで敷かれてい
ることが分かる。

 如何にも怪しく不自然な建物だったが、進路の先にわざとらしく建っている
のだ。ここで左や右に曲がれば、巨人が振り下ろす拳の餌食になってしまう。
しかたがなしに零姫は得体の知れない駅舎へと駆けこんだ。

 駅のホームには少女がひとり、ハンドベルをからんからんと鳴らしながら突
っ立っている。……その少女の正体を知って、零姫はさらに混乱した。
 チーパオ・ドレスの上から車掌用の上衣を羽織り、制帽を頭に乗せたあの娘
は―――

155 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 22:42:50


「妖魔鉄道快速便は、間もなく『水星天・翠玉姫駅』を発車するアルー。駆け
込み乗車は遠慮するよろしねー」

 シャオジエ、と。……そう、とかげに呼ばれていた少女。
 つい十数分前に、第一層月天≠ナ零姫たちと対峙したクーロン娘。
 ―――彼女が車掌を気取って、ホームに立っていた。

「アセルス、おまえどういうつもりじゃ!」

 ホームによじ登る零姫を見て、シャオジエは「あいやー」とわざとらしく驚
いてみせる。

「お客さん駄目アルよー。ちゃんと改札口通るネ。無賃乗車許さないヨ」

「戯けたことを抜かすな!」

 普段の清楚さを忘れてシャオジエの胸ぐらを掴もうとした零姫だったが、直
後に背後からの地響きを感じて、視線をクーロン娘から漆黒の汽車へと移した。

「あれは張りぼてか! ブリキの玩具か!」

「莫迦言っちゃいけないアルよ。ばりばり現役の魔列車ね。地獄まで超特急で
お送りするネ」

「ならばさっさと出せい。このままじゃおまえも汽車ごと潰されるぞ」

 零姫の背後を見やって、シャオジエは再び「あいやー」と呑気に驚く。

「あれは別の階層の姫ネ。どうして水星天≠ノいるアルか。翠玉姫の顕現が
弱まったせいで、他層からの侵食が始まったとか? ……どっちにしろおまえ
等、迷惑なことしてくれたアルね。あいつ、他の寵姫と仲悪かったアル。きっ
とわたしのことも嬉々として潰してくれるネ。―――って、おーい」

 零姫も――ついでにとかげも――シャオジエの言葉などまったく耳を貸さず、
さっさと客車に乗り込んでしまっていた。

「……仕方ないアルねー。あとでお金はしっかりともらうアルよ」

 シャオジエは溜息を吐くと、手旗を振って汽車に合図した。手旗信号に反応
して汽笛が吹き鳴らされる。ゆっくりと動き始める車輪と車体。車内で零姫は
「むぅ」と呻いた。優雅にボックスタイプの座席に腰かけているものの、内心
は巨人に追いつかれやしないかとかなり焦っている。
 しかし、汽車はスムーズに加速し、あっという間に巨人を引き離した。巨人
は見る間に彼方の風景へと追いやられてゆく。

「……取りあえず、一難は去ったのう」

 ―――が、次の一難が目前に迫っているのもまた事実。
 巨人から逃げ延びたいという一心で乗り込んでしまったが、危険の度合いで
はこの汽車も十二分に危うい。自ら棺桶に入りこんでしまったようなものだ。
 車掌を気取っていたあのクーロン娘―――シャオジエは、先のようにアセル
スの擬態なのか、それとも本当に寵姫なのか。それも分からない。
 そもそもこの汽車はどこに向かっているのか。零姫たちを降ろす気はあるの
か。なにもかもが分からない。

「とにかく、じゃ」

 対面する席に座るとかげに、ごほんと咳払いしてから話しかける。

「弁当でも食うかのう」

156 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/07(日) 23:37:09
>>

「弁当ってお前……当たり前だが俺はなんも用意してねえぞ。駅弁売りでも来るってのか?」
 
 ボックス席、姫さんの向かい。
 足組んで頬杖突いて(スカート穿いてるわけじゃねえんだから何の問題もない)、しかめっ面
してみせて、ぼやく。
 実際、イーリンは飯粒一つオレンジ一つたりとも用意せずに”火焔天”へ特攻してきた
ようだしな。まあ……それこそ、当たり前の話なんだろうが。

 んなことは、まあいい。
 それよりもなんなんだこのデタラメな展開は。まさかこんなとこでぶらり途中下車の旅、
なんて羽目になるとはこれっぽっちも予想してねえぞ。しかもあの女が車掌だとか、ぞっと
しねえ。何やら色々事情はあるようだが全くどんな呉越同舟だよおい。

 ……今更、俺らの因果についてあれこれ突っ込んでも意味ねえのかも知れねえけど。
 大体俺にしてみればそもそもあの時、あの娘に「入って」しまったのがこの因果の始まり、
って奴なんだしな。それで何年も封印された挙げ句、訳も分からねえままイーリンに入れられ……

「……あー。訳が分からねえのは始めっからか」

 思わず口に出した。ので姫さんが訝しんでくれた。
 たりめーだ。
 だが分からねえもんは分からねえ。
 ……暇つぶしでもしてみるか。気分転換じゃねえけど。
 
「なあ、姫さんよ」

 頬杖突くのをやめて、向き直って呼びかける。
 ま、それなりに真面目な話だからな。
 
「姫さん……っつーかリリーは、確か人間だったはずだよな? 少なくともイーリンはそう思ってたし」

 観念的な意味でならともかく、リリーは運命のなんたらだろうが人間だったはずだ。
 文字通りの人外存在だとは思っちゃいなかった。イーリンは元より、”中”で見ていた俺も
確かにリリーはただのませたガキだとしか思ってなかった。

「だが姫さん、今の俺から見ればあんたは明らかに妖魔だ。まああんだけの力が使えるんなら
尚更って奴だけどな。……こいつはどういうことだ。そもそもあの女、なんであんたを狙って
俺をけしかけた? まさかあんたも俺とおんなじような因縁でも持ってるんじゃねえだr


――うぇ」


 真面目な話してたのに自分で台無しにしちまった俺。
 だが許せ。
 「マジで駅弁売りに来やがった」んだから許せ。
 つーか売り子あの女じゃねえかよおい! 空気読め馬鹿!
 大体てめえの売る弁当なんぞぞっとしねえよ!

157 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/09(火) 00:15:16


 売りに来たのなら、買わずに無視するわけにもいくまい。零姫は遠慮無く、
弁当の売り子――要するにシャオジエなのだが――から、ファシナトゥール
名物妖魔弁当≠二つと、土瓶入りの煎茶を二人前注文した。
「まいどーアル」と調子のいい声が返ってくる。ついでに「あとで切符代も頂
くアルからねー」という余計な一言も。

「わらわのおごりじゃ、喰え」

 言いつつ、弁当箱の包装紙を開く。零姫もとかげも、人間としての食餌は必
要としない。だから、弁当など頼まずに黙って座っていればいいのだが、風流
と礼儀作法を重んじる零姫は、例えそこが魔性の坩堝であろとも鉄道に乗って
しまった以上は駅弁を食べなければならないと頑なに信じていた。

 沈黙がしばらく続く。零姫は背筋を伸ばし、無言で箸を動かした。
 たっぷりと時間をかけて弁当箱を空にすると、熱いお茶で一息をつく。車窓
から覗く風景が水星天≠フお菓子の街並みから二転も三転もした頃、ようや
く零姫は「さて」と止まっていた話題を再開した。

「おまえの言う通り、いまのわらわは確かに妖魔じゃ。そしてやはりおまえの
言う通り、リリーは人間じゃった。同じ肉体を持ちながら、なぜに不死者と定
命者という相反するふたつの属性を持つのか―――」

 零姫は自嘲じみた笑みを口元に浮かべた。

「それはわらわの魂が、妖魔として、オルロワージュめの寵姫として汚染され
てしまっているからじゃよ」

 魂の穢れは肉体にまで伝播する。零姫がいくら純粋な人間に生まれ変わろう
とも、覚醒のときを迎えれば自ずと躰も変容する。零姫が零姫であることと妖
魔であることは同類項なのだ。

「確かにわらわは無限転生者になることでオルロワージュめの血の縛りから解
放されたのじゃが……躰は捨てられても、魂の汚染までは洗いきれなんだ。こ
の躰はいまや自由の身じゃが、わらわの魂は未だオルロワージュめの血に縛ら
れたままなのじゃよ……」

 リリーがゾズマの結界の存在に気付き、自分は絶対に〈針の城〉から出られ
ないのだと諦念を抱いたのも、零姫覚醒の時期が近付いていたからだ。肉体の
変容―――つまり妖魔化が始まったことで、彼女は結界から出られなくなった。
 リリーがイーリンを連れ出すことに拘泥せず、ひとりで外≠目指す勇気
があったなら、少なくとも〈針の城〉を脱出することはできただろう。
 ……が、その場合はアセルスの魔手にほぼ確実に捕らわれてしまう。リリー
という少女の自由と幸福は、始めから存在しなかったのだ。

「あれは強い娘であった」

 湯飲みの水面に視線を落として零姫は言う。

「自分の運命を知った瞬間、すべての希望をイーリンに託しおったよ。……あ
の娘は本当に、イーリンが好きじゃったのじゃ」

 異なる人格を客観視するかの如き口振りだが、あくまでリリーとは「目覚め
る前の零姫」であり、とかげとイーリンの関係とはまったく違う。リリーの感
情も記憶も、すべては零姫のものだ。―――だからこそ、零姫は他人事のよう
に語らずにはいられない。我がこととして思い返すには、あまりに辛い喪失。
気持ちを落ち着けるまでもう少し時間が欲しかった。

 音をたてずにお茶を飲むと、零姫は不機嫌そうに「わらわのことなぞどうで
もいいのじゃ」と言い捨てた。

「それよりも問題はおまえじゃ」

 不躾に指をさす。

「どうしてアセルスに捕まるような失態を犯したのじゃ。わらわは前の生で、
針の城に封印されておるおまえを見たが……なぜそうなったのか、その経緯ま
では知らぬ」

 間抜けにも程があろう、と零姫は溜息を吐いた。汽車は二人を乗せたまま、
次なる層へと向かっていく。止まる気配はない。まだまだ雑談の時間はたっぷ
りとありそうだ。
 イーリンのためという利害の一致によって手を組んだ二人だが、ここで「イ
ーリンとリリー」ではなく、「とかげと零姫」という関係を作ってみるのも悪
くはないな―――と、無限転生の少女は列車に揺らされながら思ったのだった。

158 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/09(火) 16:40:25
>>

 「妖魔弁当」て……俺ぁ頭痛くなってきたぞ。死んでるのに。
 つーか本当に食えんのかよこれ……と思ったが、少なくとも姫さんは食ってるしなあ。
 まあ今更毒を食らって死ねるタマでもねえけどな……
 
 と思いつつ食った。
 食ったら予想以上に美味かった。
 美味かったのが尚更嫌すぎたが――――
 
 
「……あー、俺か? つーか見られてたのか、あんたに。こうなるとばつが悪いな……」

 爪楊枝を使いつつ(ご丁寧に箸袋の中に入ってた)、一服していたら今度は俺が面倒なことを
追求された。ので、とりあえず視線逸らして窓の外を眺める。
 ……眺めたかったが、当然外は暗く、窓はうっすらと鏡の役割を果たしてくれやがる。
 おかげで「イーリンのツラした」俺が、しかめっ面しているのが視界に飛び込んできて
余計気分が悪くなった。
 しゃーねーから向き直る。くそ。
 
「まあ……俺としちゃ『運が悪かった』と済ませたいところなんだがな。好き好んで、こんな
目に合ってるわけじゃねえよ。……丁度俺が『体』を失くしたときに、都合の良いことに
病気で死んだご令嬢の葬式があってな。そりゃ動き回るのには不向きだが、こういう奴は
イメージが固まってる分変装もしやすい。繋ぎには悪くないかと思ってそいつを借りたんだが」

 ご令嬢、のあたりを少し強調して、恥ずかしい告白を始める。
 まあここまで言えば、たぶん姫さんは察しが付くだろうとは思うんだが。
 
「ああそうだ、よりにもよってそいつは――あの女の寵姫候補だったんだよ」

 そいつを俺が奪ってしまった……と言われたって、俺はそんなこと分かるわけがねえ。
 だがそれが全て。見事にあの女の怒りを買っちまった、ってわけだ。
 
「逃げるには逃げたんだけどな。つってもまだ『体に慣れてない』上に元々ろくに動いてもない
ご令嬢の体だ。速攻、追いつかれてこのザマ、ってわけだ。頂いたばっかのその体は、ごく
あっさりとあの女の剣にかかって……」

 かかって……ああ?
 ちょっと待て、あの体は奴に斬られて……それでどうなった?
 いやもちろん、俺自身はそのまま奴に捕まったが、それは今は問題じゃねえ。
 “あの娘はどうなった?”
 俺は何とはなしに、あの後埋葬されなおしたか程度に思ってたが……まさか、いや、
あの「シャオジエ」の件を考えれば――――

「まさか、あの娘も喰われて『ここにいる』、ってんじゃねえだろうな、おい?」

 冗談じゃねえ。悪趣味にも程がある。
 死んだ人間を弔うどころか、てめえのうちに取り込んで閉じこめちまおうなんざ……
 
 
「……やっぱイーリンを渡すわけにはいかねえな、こいつは。何が永遠だ、気が知れねえ。
死ぬことも出来ねえ俺にしてみりゃそんなもんは」

 言いかけて、はたと気が付く。
 ……姫さんも似たようなもんだったな。クソ、言い過ぎたか。
 尚更ばつが悪いぜ。

159 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/09(火) 23:16:10


「ふむ」と零姫は重々しく頷いた。つまり、イーリンの躰にとかげを封印した
のは、結界を破壊するという目的の他に、復讐も含まれていたということか。
 ……ま、そんなところじゃろうな、と零姫は胸裏で嘆息した。あの色狂いの
妖魔が本気になるのは、いつだって女絡みのときだけだ。
 とかげからすればいい迷惑に違いない。そのご令嬢≠ニやらの若き死は、
とかげの憑依と一切関係がないものを。―――まぁ、そんな理屈をあの女にぶ
つけたところで聞く耳などまったく持とうとしないだろうが。

 零姫にも、だんだんと見えてきたことがある。
 まずは、この〈針の城〉について。リージョン・クーロンからかけ離れた風
景。異界の迷宮と化してしまった旧妖魔租界だが、アセルスの心象風景の具現
と断言してしまっていいだろう。桁違いに巨大な固有結界だ。
 とかげの想像通り、妖魔公は自分の内側に寵姫を何人も飼っている。自己と
いう器を箱庭にして、魂の補完を目指したのだ。だから、ノイズのように複数
の異なる心象風景が入り乱れる。あのお菓子の家や魔棲蟲、無貌の巨人などは
すべて、アセルスが取り込んだ寵姫の心象風景だろう。

「うーむ、まずいのう」

 もしも零姫の読みが的中しているのならば、二人はいま現在、アセルスの
世界≠ノいることになる。〈針の城〉が完全にアセルスに取り込まれる前に脱
出しなければ、永遠の時間をこの閉塞した闇で過ごすことになってしまう。

 ……とりあえずは、この汽車がどこに向かっているのか。あのクーロン娘は
なにを考えているのか。そこらへんから片づけていきたいところだが。

 その前にひとつ、とかげが気になることを口にした。

「死ぬこともできない―――か」

 ……そうか。この男は、死にたいのか。

 短い生を幾百と繰り返した零姫だが、自分以外の転生無限者と出会ったのは
初めてである。無限の死と生を約束された者は、どのような夢を持ち、なにに
苦しみ、どうやって生きようとしているのか―――少なからず興味があったの
だが、とかげのその一言で、零姫は己の感情に蓋をしめてしまった。

 零姫は人間を愛している。
 零姫は人間として生き、人間として死ぬことを望んでいる。
 零姫は生きたかった。人間としての生を満喫したかった。
 だから―――自己嫌悪に陥ることはあっても、後悔だけは絶対にしない。
 どんなに犠牲の屍を積み重ねようとも、自分は生きてみせる。
 その信念に基づいて、零姫はさすらい続けてきた。
 死を願ったことなど、一度もない。

 とかげにはとかげの事情がある。その程度のことは零姫にだって分かる。
 しかし叶うことならば、ファシナトゥールで享楽に耽る妖魔連中のように生
に飽いたりせず、生きることの喜びを知って欲しかった。

「死ぬために生きるというのでは、あまりに悲しかろう」

 言ってしまってから、零姫は後悔した。
 つい説教臭くなってしまうのは彼女の悪い癖だ。彼なりの事情があると分か
っているのなら、黙って聞き過ごすべきだったのに。

 ごほん、と零姫はわざとらしく咳をした。こうなったら最後まで責任を持っ
て言うしかない。

「わらわにしろおまえにしろ、いつかは必ず終わりが来る。そう考えたことは
ないのか。無限や永遠などというものが本当にあると信じておるのか」

 あの愚かで幼稚な妖魔公は信じている。盲信の域に達している。
 逆に、零姫はそういった類の寝言は一切信じていなかった。永遠などあるわ
けがない。自分もいつかは必ず果てる。だから、せめてその日までは―――

160 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/10(水) 00:27:13
>>

 姫さんも、俺と同じように何度も何度も「生き続けて」いるのだと、さっき聞かされた。
 ならばきっと、その心中も俺と同じようなもんだろう……そう、思ってたんだが。
 
「ふん……死ぬために生きるのは悲しい、ねえ」

 そんな風に言うからには、姫さんはそうは思っちゃいない、ってわけだろう。
 どこの誰として生まれてきても、必ず“零姫”としての自分が現れる、らしい。魂がそういう
形になってしまったんだと、さっき言ってたはずだ。
 それでもなお、この姫さんは「生きるために生き続けている」のだと……そういうことなのか。
 
「まあ、そりゃあな。最悪でも『世界の終わり』とかでも来ちまった日には、俺だってそのまま
死ねそうな気はする……っつーか、せめてそれぐらいは願ってるけどな。俺一人だけが生き
続けている世界、だなんてそれこそ恐ろしい話だ」

 あの性悪の“神様”のやることだ、それさえもあり得そうな気がしてしまうのが嫌だが。
 
「だが、そりゃいつだよ? 見えもしねえ、あるかどうかも分からねえ『ゴール』目指して
もう何百年だ。いい加減俺だって生き飽きるぜ、何より……なあ、姫さん」

 言いつつ、一瞬だけ、もう一度窓を見る。
 ……俺が見守り続け、もう死んでしまった、あいつの顔を見て。
 
「自分だけが死なず、周りの奴らが望む望まざるに関わらず『旅立って』いくのは……辛くねえのか?」

161 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/10(水) 23:26:05


 辛い。
 当然辛い。
 気が狂いかねないほどに辛い。
 いままで、自分のせいで何千何万という命が潰えていったと思っているのか。
 死んだものの中には血の繋がった家族がいた。心を許した友がいた。忠節を
尽くす家臣がいた。零姫は長い人生で、多くの愛すべき人と出会い、そのほと
んどと別れを告げた。零姫の生とは、他人の死で成り立っていると言っても過
言ではない。この業深き生を辛くないなどと言えようものか。
 
 しかし、そういった痛みに喘いでもなお、生への渇望が勝っているのもまた
事実。妖魔の姫君としての矜恃がそうさせるのだろうか。零姫は、自分が生き
て生きて生き続けることは使命だとすら考えていた。

 覚悟はとっくに決まっている。オルロワージュを逆吸血したあの夜、零姫は
自由とともに孤独を得たのだ。

 ―――が、その考えをとかげにまで押しつけるのは無粋というもの。

 孤独が辛いと漏らすとかげの思いは、零姫も痛いほどに理解できる。
 ただ少しだけとかげのほうが優しくて、その分だけ打たれ弱くて、だから死
を望むようになってしまったという―――それだけの話だ。
 零姫は自分が冷酷な女であることを重々承知していた。己の自由のために、
愛する男を見捨てた女だ。……優しさなど、とうに枯れ果てている。

 それに―――
 憎しみに駆られるままに玉砕しようとした零姫に、イーリンのために生きろ
と言ったのはとかげではないか。どんな主義主張を持っていようとも、あの瞬
間、死のうとしたのは零姫であり、生きようとしたのはとかげである。その事
実だけは、決して揺らがない。

「まあ―――」

 零姫は慎重に言葉を選んだ。彼の誇り高き優しさを傷付けないように。

「俺一人だけが生き続けている世界≠ネどという戯けた終末が、未来永劫訪
れないことだけはこの零姫が約束しよう」

 零姫は真顔で言った。その表情には、一分たりとも戯けた色はない。

「安心せい。わらわという無限転生者がいる限り、おまえがひとりぼっちにな
ることだけは絶対にないわ」

 気休めにすらならない言葉だが、零姫とて別にとかげを慰めるために言った
のではない。事実を口にしたまでだ。

 死を望む転生無限者と生に執着する転生無限者。対照的な二人が客車で揺ら
れながら向き合っているわけだが、少なくともいまのところは互いに「生きて
ここから出る」という共通の目的を持っている。
 ならばそろそろ、休憩の時間は終わらせて行動に移るとしようか。

「大馬鹿のアセルスめは、この心象世界の弱点にまるっきり気付いておらんよ
うじゃのう。大方、わらわたちを閉じ込めたことで特異絶頂になっておるのじ
ゃろう。相も変わらずおめでたい奴よ」

 反撃を始めるぞ。
 ―――そう言って、零姫はボックス席を立った。

162 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/11(木) 22:02:19
>>

 別に。
 別に、今更聖人君子を気取る気なんぞはさらさらねえ。
 “ただ一人を除いて”誰にも望まれなかった生が、その“ただ一人”の思いと、くそったれな
運命のイタズラ(運命なんて奴は神様が握ってるとか、よくある話だ)、その二つのためだけに
生かされ続ける羽目になった、ってだけの話だ。
 だから俺は死を渇望する。
 俺の生を願ってくれたあいつの所には行けず。
 俺の生を呪いやがった奴の尻尾も掴めず。
 つまるところ、俺の生はそれそのものが悲しい……なんてな、そんな自己憐憫はそれこそ
くそったれ、ってもんだが。……ただ、望んでも死ねない俺の周りに、望まずに死んでいく奴ら
が居た、というだけ。
 それでも生き続けていられるほど、俺は強くない……それだけだ。

 向こうとこっちじゃ、大元からして違うのかも知れねえ。境遇が違えば考え方も変わる。
 だから姫さんを傲慢と笑うのは簡単だ。だが俺にはむしろ……少しばかり、姫さんが眩しい。
 まったく……
 
「ひとりじゃなくふたり、が正解ってか? ったく、俺なんかと居たっていいことなんてありゃしねえぜ?」

 照れ隠し半分。
 だから「気持ちだけは受けとっておく」なんて言葉だって、絶対言ってやらねえ。
 どうせ望んでもいねえだろうし。

 その代わりに、もういい加減ぬるくなってきた茶をぐいっと一気飲み。
 しっかし渋いなこの茶は。おかげで気が引き締まるぜ。
 そして飲んだついでに勢いつけて、剣を片手に同じく立ち上がる。
 
「カウンターは懐に飛び込んでから、ってとこかこりゃ? ま、俺は好きなようにやらせて貰うが。
じゃ、とりあえず……機関室の見学とでも洒落込むか、良い機会だしな」

163 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/13(土) 21:35:17


「乗車券を確認するアルー」

 呑気な声を出しつつ、車掌役のシャオジエが前の車両から入ってきた。改札
鋏をぱちぱちと鳴らして零姫のほうに歩み寄る。

「ただ乗りは許さないアルよー」

 大した気楽さ加減だ。その脳天気さはアセルスに勝るとも劣らない。
 初めはこのクーロン娘がなにを企み、どんな罠に陥れようとしているのか、
零姫にはまったく見えなかった。しかし今なら断言できる。彼女はなにも考え
ていない。勢いと思い付きだけで生きている。
 もしもシャオジエがアセルスの忠実なら下僕であるのなら、この汽車はとっ
くに零姫たちをアセルスのもとへと運んでいただろう。
 なぜ、そうしないのか。なぜいたずらに時間を遊ばせ、敵であるはずの零姫
たちに反撃の好機さえ与えてしまうのか。
 理解できない。……当然だ。なぜなら彼女は莫迦なのだから。

 そんな性分だから、アセルスともうまくやっていけるのだろう。もしかした
ら、羨ましい女なのかもしれない。寵姫としては珍しいタイプだ。

 零姫は、通せんぼするようにシャオジエの進路の先に立った。
「乗車券乗車券」と改札鋏を鳴らして急かす彼女に、「そんなものはない」と
にべもなく言い放つ。

「そんなの酷いアル! 無賃乗車絶対反対アル! というか、よくよく考える
とさっきの弁当代ももらってないアル。どっちも耳揃えていますぐ払うアル。
一億万円クレジットで許してやるアル」

 ふむ、と零姫は神妙ぶって頷いた。

「これで足りるかのう」

 袖から巾着袋を取り出して、シャオジエに渡す。
 シャオジエは零姫の気前の良さに眼を丸くして驚いた。まさかこんなにあっ
さりと支払ってくれるなんて。この娘、もしかしたらかなりいい奴なのかもし
れない、とすら思ってしまう。
 しかし、シャオジエは自分が慎重かつしたたかな女である自負していた。本
当にこんな小さな布袋に大金が入っているのかどうか、袋の口を縛る紐をほど
き、貪るようにして中味を確認する。

「……やはりおまえ、莫迦じゃのう」

 巾着の紐―――封印を切ることによって、零姫が設定した呪いがスイッチ。
 麻痺の呪文が発動して、シャオジエを行動不能に陥らせる。「しまったアル
ー!」と痺れる舌で叫ぶクーロン娘に蔑みの眼を向けつつ、零姫は幻術で編ん
だヴァナルガンドの鎖で、シャオジエをあっという間に縛り上げた。
 麻痺の呪いは破れても、神を喰らう狼さえも拘束する鎖までは断ち切れまい。
悔しそうに歯噛みする愚かな寵姫を尻目に、零姫は背後に向けて叫んだ。

「こやつと汽車との魔術的関係は絶たれた! 進路を変えるならいまじゃ!」

164 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/13(土) 22:34:26
>>

 ………………なんか、すっげえイーリンが草葉の陰で泣いてそう(もしくは呆れてそう、或いは
うなだれてそう)な気がしてきたんだが。てめえシャオジエいいのかそれで。おい。
 まあ、俺には関係のねえ話だと言えばそうなんだが……
 姫さんの手練手管、つーことにしとくか、いちおう。
 
「……ま、了解と。なら俺は予定通り機関室へ行ってくるか。スピード上げてかっ飛ばさなきゃな」

 完全に拘束されたクーロン娘――そろそろシャオジエと呼びたくなくなってきた、色んな
意味で――を尻目に、俺はひらひら手を振ってお先に失礼。
 姫さんには姫さんの仕事があるからな、ここからは。
 “依“と離れるのはあんまり好ましい事じゃねえが……まあ、何とかなるだろう。



 それはそうと、だ。
 この列車、曲がりなりにも汽車であるというなら蒸気機関で動いているわけだ。俺もそれなりに
生きている以上、そういう知識は多少は身につけている。
 ……本来なら、と但し書きを付けるべきだろうがな。こんなとこで真っ当な「汽車」が走っている
わけがねえ。ましてや姫さんはさっき「魔術的関係」と言っていた。つまりこいつは魔法の乗り物
ってわけだ。
 魔法と言うからにはその動力部も便利な代物で出来てるんだろう。俺はそう当たりを付けてみて……
 
「……ち。半分は当たった、ってとこかこりゃ?」

 機関室、駆動系の心臓部は……は、確かに真っ当な蒸気機関なんぞじゃねえ。
 何しろ――何もねえのに燃えてやがる。石炭だのコークスだのなんぞは見あたらねえ。
 ま、燃料要らずってんならそりゃなんともリーズナブルな話だが……問題は、そういうわけ
でもなかった、ということだ。
 俺の予想は外れた、そいつは“便利な代物”であるどころか……
 
 
 魂を燃やす、という“悪趣味な代物”だったからだ。

165 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/13(土) 22:34:42
>> 続き

 つまり、こいつの燃料は歴として存在している。この<針の城>の住人……それこそ、さっき
虫どもに食い尽くされた凶手みてえな奴らを、体どころかその魂まで食い尽くしてこの魔列車
とやらは走っている、というわけだ。
 耳を澄ませば、燃える音に混じって怨嗟が聞こえる。
 目を懲らせば、炎の向こうに苦痛の形相まで見えてきそうだ。
 全く、どこまでも胸糞悪い……こんなもんに俺らは乗って、あの脳天気な馬鹿と付き合って、
さらには弁当まで食ってた、なんて反吐が出るぜ。

 もっとも、俺は正義の人でも何でもねえ。この機関そのものは悪趣味極まりねえが……
別に義憤に駆られて、こいつをぶっ壊してやるなんて義理も俺にはない。
 そもそも今はこいつを走らせなきゃならねえんでな。俺がこいつを止めちゃ意味がねえんだ。
 だから、その代わりに……
 
「恨みを晴らさせてやろうじゃねえか。こいつで更に燃えちまえよ、オーバーヒート寸前までな!」

 再び“とかげの刺青”を右手に持っていく。
 そしてその口を開けるように、拳を開き……さっき食った虫共の魔力を、炉へ向けて解き放つ。
 
 ――そら、食いついた!
 そりゃあそうだろう、自分らを殺った元凶が目の前に現れたんだ、怨嗟が燃え上がらねえ
わけがねえ!
 さしずめ、飛んで火に「入らせる」夏の虫、ってわけだ! ははは!
 
 さあ、こいつで更に燃えてしまえ、そうして列車を加速させろ。
 あとは姫さんが、上手くやってくれるだろうからな。

166 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/13(土) 23:17:30
 全く、どこまでも胸糞悪い……こんなもんに俺らは乗って、あの脳天気な馬鹿と付き合って、
さらには弁当まで食ってた、なんて反吐が出るぜ。

     ↓

 全く、どこまでも胸糞悪い……こんなもんに俺らは乗って、あの脳天気な馬鹿と付き合って、
さらには弁当まで食ってた、ってわけかよ。あの馬鹿と姫さんとの漫才めいたやりとりさえ、
こうなればいっそ薄ら寒い……反吐が出そうだ。

訂正。まあ大勢に影響ねえことだけどな。

167 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/14(日) 19:52:30
>>165を完全に書き直し。



 つまり、こいつの燃料は歴として存在している。この<針の城>の住人……それこそ、さっき
虫どもに食い荒らされた凶手みてえな奴らを、体どころかその魂まで食い尽くしてこの魔列車
とやらは走っている、というわけだ。
 耳を澄ませば、燃える音に混じって怨嗟が聞こえる。
 目を懲らせば、炎の向こうに苦痛の形相まで見えてきそうだ。
 全く、どこまでも胸糞悪い……こんなもんに俺らは乗って、あの脳天気な馬鹿と付き合って、
さらには弁当まで食ってた、ってわけかよ。あの馬鹿と姫さんとの漫才めいたやりとりさえ、
こうなればいっそ薄ら寒い……反吐が出そうだ。

 もっとも、俺は正義の人でも何でもねえ。この機関そのものは悪趣味極まりねえが……
別に義憤に駆られて、こいつをぶっ壊してやるなんて義理も俺にはない。
 そもそも今はこいつを走らせなきゃならねえんでな。俺がこいつを止めちゃ意味がねえんだ。
 だから、その代わりに……
 
「――恨みを晴らさせてやろうじゃねえか。喜べよ」

 ”とかげの刺青”を再び右手に持っていき……その手で剣を、嘯風弄月とやらを引き抜く。
 もっとも、半ばまでで良い。全部抜く必要はない。
 
 ……この刀は明らかに霊刀・妖刀の類じゃねえ。
 だが刀はそもそもそれ自体が殺傷のための道具だ。そいつが「ただ鋭利なだけの刀」
だろうが、魔力妖力の類を持ってなかろうが、ただ“殺せる”というだけでそれは良からぬものを
引きつけやすい。
 ましてや、俺という特異存在が、磁場・霊脈の類を歪ませ霊瘴を引き起こす俺がそれを
持っていたならどうなるか?

 そら、やってきたぜ――お前らを殺した奴らが! さっきの虫どものような奴らが!
 俺とこの刀に惹かれてな!
 さあ、更に怨嗟を燃やせ! こいつらを燃やし尽くしてやれ! 俺が手助けしてやるよ!
 そうして、この列車をどこまでも加速させちまいな!
 
 あとは姫さんが、上手くやってくれるだろうからな。

168 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/14(日) 23:08:17

「よくやった、とかげ」

 シャオジエをギャレーの冷蔵庫に放りこんできた零姫は、機関室まで韋駄天
すると、すでに列車を暴走させることに成功していたとかげの頭を「よしよし」
と撫でてやった。褒めるときは、素直に褒めてやらないと。

「……しかし、もしやとは思ったが、やはり〈針の城〉の住民を贄にしておっ
たか」

 零姫が想像するに、この汽車は心象風景の産物ではない。現実に存在する、
幽世と現世を繋ぐ魔列車を丸ごと取り込んでしまったのだ。
 この列車は生きている。生きて、ひとの魂を喰らう。魔導機械というよりも
幻獣や魔物の類だ。

 零姫の心が曇る。
 なんの罪もない〈針の城〉の住民たちが、自分のせいで劫火に灼かれ、身悶
え、絶叫し、その絶望のエネルギーが魔列車の動力となっている。
 自分さえいなければ、あるいは天寿を全うできたかもしれない数千人の命。
 零姫は胸裏で詫びた。悪いのはすべてわらわじゃ、と。

「だが、わらわは退かぬ」

 自分のせいで何万人死のうとも。何億人の命が潰えようとも。自由を決して
諦めない。あの澱んだ瘴気で満ちた世界には決して帰らない。
 零姫は覚悟を決めると、目を見開き、汽車が進む先を見据えた。

「レールはわらわが作る」

 ぱんと合掌すると、零姫は膝を折り、機関車の床に手をつけた。
 幻術の応用として、線路を魔力で編む。いままでシャオジエがどのようにし
て進路を決めていたのかは知らないが、これからはこの魔列車が進む先に線路
が生まれて、道が開ける。元来、列車の進路とは線路の軌道に従うものだが、
この機関車は己の進路に線路が従うのだ。
魔想レール≠ニ呼ばれる、想念で作られる線路だ。

 駅は終点まで必要ない。目指すはひたすらに外=Bこの〈針の城〉の最果
てにあるはずの、クーロン港だ。

169 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/14(日) 23:09:15


 その階層はもはや、〈針の城〉としてのカタチを完全に失っていた。

 第五層火星天=B司法の監視が及ばないという特権を利用して、芥子や大
麻草などの他に、魔棲の妖花まで大量に栽培していた〈針の城〉最大規模の田
園都市。精製工場がひしめき、ビルの庭という庭、屋上という屋上に緑を植え
ていた土星天≠ヘ、毎日何トンもの麻薬をクーロン・ストリートに出荷し、
市場の金をさらっていった。第六層の重工場区画とあわせて、ここは〈針の城〉
の生産拠点であり、クーロン・マフィアの資金源だった。

 ―――が、それもかつての話。

 アセルスによってファシナトゥール化した火星天≠ヘ違う。闇の瘴気に侵
され、現実という輪郭を失ってしまった火星天≠ヘ、もはや〈針の城〉にあ
って〈針の城〉ではない、異形の空間と化していた。

 目につくのは、花と花と花と花と―――ただひたすらに、花ばかり。
 宵闇の空を仰いで、何十万何百万――いや、幾千万かもしれない――という
花弁が、街を、世界を、夜を、支配していた。
土星天≠ェ麻薬栽培のための階層であったことを考えれば、花が咲き誇るこ
と自体はおかしくない。だが、この数は異常だ。限度を超えている。
 建ち連なっていたペンシルビルは花の苗床となってコンクリートの肌を隠し、
その重みで崩れたり、傾いたりしてしまっている始末。
 人間が居住するような隙間はない。道と呼べるような道さえも、用意されて
はいなかった。ここは、人間の足を必要としていないのだ。
 アネモネ、キンセンカ、クロッカスにサフラン、バンジー―――いまの火
星天≠ヘ狂い咲く花たちの楽園だった。

 そんな有機的な麗しの都で、忘却≠花言葉とする芥子が特別に咲き乱れ
る場所があった。ビルをいくつも潰して空き地を作り、スラムの一部とは思え
ないほどに立派な芥子畑となったそこには―――唯一の人影。
 夜しか知らないクーロンであるにも関わらず、レースの飾りがついた日傘を
優雅にさして花を愛でる彼女は、この花畑の、ひいてはファシナトゥール化し
た土星天≠フ管理者であった。
 この異形の風景は、日傘の女性の心象の具現だ。

 うなじまで伸ばした僅かに癖のある髪の色は、深みのある緑。土星天≠
埋め尽くす茎や葉と同色の、緑。あまりにも印象深い、緑。
 清潔感のあるブラウスに、タータンチェックのベストとスカートをあわせた
出で立ちは淑女然としており、立ち振る舞いの優雅さもあって、どこのご令嬢
かと思わせられるが―――口元にたたえた笑みを見れば、女性がただの淑女で
はないことは、素人でも察することができる。

 日傘の彼女は、美しい女性だった。
 容姿は紛うことなき人間のものだった。
 だが、彼女は怪物だった。
 この〈針の城〉に棲まう、他の誰よりも――もしかしたら、妖魔公と比較し
ても――恐ろしい怪物だった。
 棘がある、では済まない。恐怖が花のかたちをしたような、女性。
 彼女の笑みの凄惨さが、それをとくと物語っていた。
 
 女性はアセルスの寵姫であったが、アセルスの中に棲まう他の寵姫たちのよ
うに肉体を持たない、死した魂ではなかった。
 日傘の彼女は、生きながらにしてアセルスと同化した。彼女の肉体はいまで
も、幻想の彼方で向日葵畑に抱かれて睡っている。
 なぜ生きた肉体を持っているのに、アセルスの一部となる道を選んだのか。
いやそもそも、なぜここまで強大な力を持ちながら、他人の世界に囚われるこ
とを良しとしたのか。……それは、ここでしか為し得ない目的があったからだ。

170 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/14(日) 23:10:14


 アセルスの世界―――この〈針の城〉で言うなら、第六層土星天≠フ管理
者である白い霞の寵姫。彼女もまた、日傘の女性と同様に、生きたままアセル
スと融け合った奇特者だった。
 その寵姫は、日傘の女性に劣らず強大な力を持っている。リージョンの一つ
や二つ、容易く鎮めてしまうほどの、桁外れな力を。
 日傘の女性の目的は、そんな彼女を、自分の花の養分とすること。斃し、屈
服させ、鬱陶しい霞を払って土に還してやること。
 ―――強いものいじめ≠フためなら、日傘の女性は、他人の世界に潜り込
むことすら厭わなかった。どうせあそこ≠烽アこも、大した違いはない。
 土と水さえあれば、花はどこでも咲いてくれるのだから。
 ……まぁ、陽の光がないのだけは、面白くないけれども。

 今夜はどんな風にして虐めてやろうかしら。どんな風に虐められてしまうの
かしら。―――芥子の花を愛でながらそんな妄想に耽っていたときだった。
 妙な違和感を覚えて、ふと、足下に目をやる。

 いつの間にか、地面には鈍く錆びた鉄鋼の輝き。枕木にがっしりと支持され
た鉄道レールが、芥子の花畑を横断していた。

「これは……?」

 線路なんて。花で満ちた世界には、あまりに不似合いだ。日傘の女性は眉を
よせて訝しむ。―――が、すぐに、自分の世界が侵食されているんだというこ
とに気付いた。心象の景色がねじ曲げられている。
 いったい誰が。

 そのとき、彼方から、鼓膜を震わせる汽笛の音が響いた。
 線路が軋み、車輪が滑る。はっと日傘の女性が身構えたときにはもう遅い。
 鋼鉄の牛が、花弁の道を蹴散らし、蔦のトンネルを引き裂いて猛スピードで
突っ込んできていた。避ける暇もなかった。

 日傘の女性は、久しぶりに空を飛んだ。






「……ん、なんか轢いたかのう?」

 機関室で魔想レールの生成に勤しむ零姫は、汽車が感じた僅かな衝撃に首を
傾げた。ところ構わずにレールを敷いてしまっているため、ともすればひとを
轢きかねないと危惧していたところだ。
 ―――が、こんな狂った世界にいる類のやつを轢いたところで良心が咎める
はずもなし。零姫はすぐに忘れて、進路の調整に没頭した。

 さっきから寒気が止まらない。この階層はあまりに剣呑すぎる。一分一秒で
も疾く、突破してしまいたかった。

171 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/15(月) 01:21:47


 錐もみをしながら空を舞い、芥子のベッドに背中から落下した日傘の女性は、
しばらくそのまま、呆然と夜空を見上げていた。
 ―――服が汚れてしまったことよりも。日傘が折れてしまったことよりも。
無粋な鉄の車輪が、愛おしい花の根を引き裂いていったことが憎らしい。
 痛かったでしょう。辛かったでしょう。

「……私が」

 女性はゆっくりと立ち上がった。スカートの汚れを払って身なりを整えると、
折れた日傘を強引に閉じ、剣弁のように鋭く尖らせる。

「私がお仕置きをしてあげる」

 女の口元には、愉悦の笑み。
 あの妖怪仙人との遊びに熱中しすぎるあまり、周囲に気を配ることを忘れて
いた。いつの間にこんな活きのいい玩具を仕入れたのか。
 面白いじゃないか。面白いじゃないか。―――今夜はそれだけで、退屈を忘
れられる程度には。

 みんなで歓迎してあげましょう―――と、女性は傘を、オーケストラーの指
揮棒のように掲げてみせた。
火星天≠フ幾千万の花が、一斉に疾走する機関車を睨む。
 花から吐き出されるのは、非実体の光弾。一発一発は脆弱でも、数千万発も
放たれれば街ひとつが消し飛ぶ程度の威力にはなる。それが、八両編成の機関
車に殺到したのだ。レールに進路を支配される列車には、弾幕を縫うことはで
きない。あの醜くて歪な鋼鉄の塊は、ここで沈むのだ。



「なんじゃなんじゃなんじゃ?!」

 機関室で、零姫は驚きの声をあげる。
 突然の集中砲火。しかも、攻撃をしてくるのはこの街に狂い咲く無限の花々
だ。そのひとつひとつが、拳大の光弾を撃ち放ってくる。
 なんと苛烈な攻撃なのか。砲撃の豪雨だ。重爆撃だ。すべての車両に魔術障
壁を張って防御しているが、いつまでも耐えられるものじゃない。
 さっさとこの階層から脱出してしまわないと。
 零姫は頭を低くし、流れ弾に当たらないように気を付けながら、炉の炎をさ
らに激しく燃え上がらせた。
  
 そのとき、ギャレーでは着弾の衝撃で冷蔵庫の蓋が勢いよく開かれた。中か
ら、鎖で拘束されたシャオジエが飛び出す。

「この風景は、この弾幕は―――幻想嬌アル! 幻想嬌アル! 妖怪仙人と並
んで、寵姫の中でも一等危険な奴アル! 絶対に関わっちゃいけない怪物の中
の怪物アル! あいつは洒落にならないアル! やばすぎアル!」

 シャオジエは機関室へと走ろうとしたが、両手を縛る鎖は冷蔵庫に結わえ付
けられているため、ギャレーから出ることは叶わない。
 シャオジエはパニック状態のまま、ひとりで叫んだ。

「一巻の終わりアル! 絶対に虐められるアル! 誰か助けてー、アル!」



「―――あらあら、なんだか聞き覚えのある声が」

 囁くように独りごちるのは、緑の髪に赤い瞳を持つ火星天≠フ管理者。
 この世のすべての花の支配者。アセルスの二十六番目の寵姫幻想嬌=B

 幻想の姫君は、ふふ、と笑いをこぼす。弾幕に晒された機関車は、抵抗も虚
しく速度を緩めた。さらに仕上げとして、ジギタリスやオーキッドの花が急速
に成長して、機関車に絡みついて、鋼鉄の皮膚を食い破り始める。
 一時的ではあるだろうが、スピードはだいぶ失せた。これなら、足の遅い彼
女でも容易に追いつける。
 幻想の彼女は、客車の最後尾に取り付き、軽い足取りで乗り込んだ。
 魔砲で消し飛ばしてしまうのは簡単だけれど、それでは面白くない。花を散
らす愚かしさを、その身にしっかりと教え込まなければ。

「いまの私は、太陽の光から遠ざかって気が立っている。葩が時にそうされる
ように、私があなたたちの指を千切って、未来を占ってあげましょう」

 女のかたちをした暴力が、花の香りをたたえた災害が、魔列車に乗車した。

172 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/16(火) 00:57:07
>>

 ああまったく、バケモンの楽園かよここは! 何が悲しくて絨毯爆撃なんぞに晒されなきゃ
ならねえってんだ馬鹿野郎!
 ……実際、あんなもんに対抗できる手段なんぞこちとら持ち合わせてねえぞ。
 自分で言うのもなんだが、俺はただ死ねないってだけでろくな特技は持っちゃいねえ。剣の
扱いこそそれなりには出来るが、それだけだ。接近戦ならいざ知らず、あんな戦争紛いの事が
出来る奴なんぞ相手に出来るか。
 ……懐に飛び込んで一撃必殺でも狙うか?
 いや“死んでもいい”ならそれも手だろうが、今の俺はこの体を失くすわけにはいかねえ。
おまけにこの体は(イーリンには悪いが)所詮ガキの体だ。いくらスラム育ちだからって限度
がある。相手が悪すぎるぜ。
 あのミノタウロスキョンシー、ハダリーでも手駒に残ってりゃ話は別だったんだろうが……
あ? いや待てよ、ハダリーには確か……つーかあの「石」、イーリンが飲み込んで……

 ――くはは! 切り札ここにあり、ってやつか!
 つーか「あいつ」まで関わろうなんざどんな奇遇だよ全く。
 まあいい、温存して死ぬくらいなら使うっきゃねえだろうさ。
 相も変わらず爆撃が列車を揺さぶり、さらに後部から何かが絡みついたのか、線路から
凄まじい軋み音が聞こえてくる。正に絶体絶命って奴だからな。
 喚ぶ、もとい「再生」するなら、今しかねえだろ。


「ま、しかし本当……なあ姫さん? 俺らみたいな『死なない』奴が、実はここにもう一人
いるって言ったら、これこそ奇遇だと思わねえか?」

 軽口叩きつつ、どう「再生」するか考える。
 あの石はこの体の中にあるわけだから……俺の言霊で何とかなるか?
 ……いや、そう「気でも狂ったか」みてえなツラして見るなよ姫さん。慌てる乞食は貰いが
少ないんだぜ?

「いやマジ、いるんだよここに。イーリンの置き土産としてな。



 ――――出番だぜ、出てこいよ『百万回生きた猫ミリオンライヴズ』!」

173 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/16(火) 01:40:41
>> 続き

 果たして――上手くいった。
 俺の声は言霊となり、言霊は意味を持った形となり、意味を持った形は情報となり、
情報はデータとなり、データは命令となり、命令は体内の「石」に作用した。
 「石」はその中に封ぜられている奴を「再生」する。
 無数の文字のようなものが俺らの前に煌めき、形作る。
 そうして現れたのは……
 
 
「――はいはい、呼ばれて飛び出て〜ってあれ、あれれ? あんた、もしかして『とかげ』
かい? いやあこいつは驚いた! この期に及んでまたあんたと出会えるなんてさ!
世の中狭いねえ……いや、それとも『もう何度も会ってる』のかな、あたしは?」

「いや、お前がその“英霊“とやらになっちまってからは初めてだよ、ミリオン。
ってそれどころじゃねえ、悪いが昔話している暇はねえんだ」

「その『ミリオン』ってのはどうにかしとくれよ、そりゃあたしにはろくな名前もってうわ、
わたたたた!?」

 話してる途中で砲撃が飛んできた。振動でたたら踏む「ミリオン」。
 ……現れ、俺と話しているのは、黒い着物を着たただの少女だ。ただし、猫の耳に尻尾、
そして赤く尖った爪を持っていることを除けば、だが。
 所謂「化猫」というやつだ。しかも死んでもまた別の体で生まれ百万回生きたのだ、と言われる
トップクラスに奇妙な化猫だ。
 そんなだったから、俺とこいつ……「生前の」こいつとはちょっとした面識があったわけだが。
 
 ……しかしまさか、こんな形でこいつと再会することになるとはな。
 死ねない連中がこれで三人。そして敵さんは「永遠」を標榜していると来たもんだ。
 とち狂った話じゃねえか、まったくよ。
 
「いってて……ああもうなんだい、随分剣呑な状況じゃないか。ってああ、だからあたしを呼んだ
ってわけかい、とかげ? つまりこいつをなんとかしとくれと」

「ま、そういうわけだ。俺にはあいつを止める術がねえし、こっちの姫さんはこの列車を動かすのに
忙しくってな。お前に頼むしかないってわけだ。やってくれるか?」

「やってくれも何も、今のあたしは『そうするため』の存在みたいなもんだ、って知ってて
言ってんだろう? やってみせるさね……再生時間は保証できないけど、それでいいかい?」

「そりゃ仕方ねえだろ。撃退だけでも出来りゃ御の字ってやつだからな」

「はは、そいつは随分と過小評価してくれるじゃないかね? ちゃちゃっと片付けてくるさ、
待ってておくれよ」

 それじゃ行ってくるよ〜……と、場違いなほど明るい調子で後部車両へ飛んでいくミリオン。
 つーか飛べるのかよあいつ。英霊になったからなのかどうか知らねえけど。

 さて、と。あとはあいつの活躍に期待しつつ……姫さんにもカラクリを説明してやらなきゃいけねえかな?

174 名前:英霊・ミリオンライヴズ ◆C/1000000c :2008/12/16(火) 02:02:30
>> 続き

 なあんて安請け合いして出てきてみれば……あーあー、ほんと派手に弾幕かまして
くれちゃってるねえ。しかも撃ってきてるのは花かい。いや、まさかねえ……
 っとと、そんなことよりお仕事お仕事。
 まずはこの弾幕をなんとかしなくちゃいけないかな?
 
 とりあえず適当な車両に降りたって、と。
 首謀者はえーと……ああ、最後部から侵入してきてるあれがそうかな?
 じゃあ、弾幕遮断後、一気に突っ込みますか!
 
 ――あたしのこの爪はなんだって引き裂く。
 空間さえも引き裂いてみせる。
 両腕、振りかぶってぇ……目ぇ見開いて、ようく見ときな!
 
 
 
     面
     影
     を
     語
     る
     爪
     痕
     ――――<NOSTALGIC PAIN>!
 
 
 
「……っていう名前を付けてくれたのは、誰だったかねえ?」

 中空に残った“赤い爪痕”が飛んでくる弾幕を悉く遮断する。
 せいぜい数秒間しか遮断できないけど、列車の体勢を立て直すには十分。
 その間に連結部から最後部の車両に突っ込んで……突っ込みつつ、あたしは独りごちた。
 
 いや、うん、今のは嘘さ。独りごちたんじゃない、「あいつ」に話しかけてんのさ、あたしは。
 
「『面影を語る』だよ? まったく今のあたしにぴったりじゃあないか! 何せとかげどころか、
あんたの顔まで見る羽目になってんだからねえ……やれやれ、花が弾幕撃ってくるってんだから
まさかと思ったけどね。本当にあんたかい、世の中狭すぎじゃあないかね?」

 とっくに、あいつに聞こえる距離まで近づいているさ。
 いけ好かない、あのフラワーマスターとやらの真っ正面にね!
 
「それともあれかね? 妖怪同士惹かれあったりしてんのかね……そう思わないかい、風見の!」

175 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/02(金) 15:05:05



 奇蹟を目にした。
 零姫は、奇蹟に立ち会った。

 事態は、彼女たちが考えている以上に絶体絶命だった。車両の最後尾から乗
り込んできた咲き誇る花弁の寵姫は、シャオジエが絶叫する通り――あるいは
それ以上に――絶望的な力を有していた。
 ましてここはかりそめと言えど、妖魔公が花の姫君のために与えた彼女のた
めの階層。絶対的に有利な領地だ。向かい合えば、まず勝負にならない。

 アセルスに斃されるならいざ知らず、イーリンともリリーとも関わりのない、
暇を持てますだけの戦闘狂に未来を断たれるのか。通り魔に襲われて人生を終
えるかのような運命を受け容れろというのか。

 ―――断じて、否。

 零姫の胸に宿った疑問に答えを示したのはとかげだった。
 ……いや、正確にはイーリンか。
 イーリンの最後の足掻きが、自らの命と引き替えに手にした力が、あらゆる
理不尽を拒否した。零姫たちの終点は、ここではない。

「な、なにごとじゃ―――」

 人間の目では見ることのかなわない情報≠フ暴走を、零姫は霊視した。
 彼女の魔術回路をもってしても処理しきれない複雑かつ膨大な霊力の奔流が、
とかげの放った言霊によって指向性を与えられ、ひとのかたちを作り始める。

 零姫の混乱は深まるばかりだ。

 なんなのじゃこれは。まさか、イーリンめが呑み込んだ魔石か。はだりぃ
だとかいう屍体を動かしていた魔力装置なのか。
 ……疑問には思っておった。幻魔はアセルスめが与えたものじゃ。それは分
かる。しかし、この魔石はどこから、どういった経緯でイーリンめの手に渡っ
たのか。斯くも強力な魔石を、なぜ市井の娘が―――

 やがて荒れ狂う情報の渦は肉となり血となりこの世界に具現した。

 零姫よりも、さらに一回りは小さい座敷童のような少女。喪服の如き漆黒の
着物を左前に着こなして、底の厚い舞妓下駄を危うげに揺らしている。
 口元には挑戦的な八重歯が覗き、癖のある毛の間からは獣の耳が――あれは
猫のものか――が生えていた。
 外見だけならば、獣人の亜種だろうと片づけることもできる。しかし、矮躯
から発散される桁違いな霊力と、突然召喚されたにも関わらずまったく物怖じ
しない態度には狂気すら覚えてしまう。

百万回生きた猫(ミリオンライヴズ)=\――この猫娘を指して、とかげは
そう呼んだ。理不尽に抗う刃である。

176 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/02(金) 15:06:28


「―――ふふ」

 彼女の微笑は止まらない。
 彼女の嗤笑は終わらない。

 零姫の驚愕とは対照的に、火星天≠フ姫君は冷静だった。
 数十秒後には機関車を鉄屑に変えるはずだった自慢の弾幕が悉く遮断された
にも関わらず。対軍宝具に匹敵する威力と密度を誇る光弾の嵐が呆気なく攻略
されてしまったにも関わらず。……彼女は冷静だった。
 冷静に興味の矛先を変えた。

「死に続ける死の先にあなたが行き着く場所は、幻想の郷しかないと思ってい
たのだけれど……そう、まさかこんなとこに閉じこもっていただなんて」

 姫君は穏やかに笑う。それは植物の笑み。花の笑み。
 誰も知らない。人間の笑みなんて。獣の笑みなんて。植物や花が笑うことに
比べれば、ずっと恐怖が少ないことを。
 花は笑うのだ。彼女のように。

「伊予の星屑≠ネんてどうかしら? ……いや、貴方に合いそうな花を想像
していたの」

 車両に乗り込んできた猫娘に微笑みかけると、姫君は日傘を投げ捨て、変わ
りに胸のポケットから一枚のカードを取り出した。
 戯れに作ってみた、針の城―――妖魔公の世界では唯一のスペルカード。ル
ールに縛られない城内では必要のないものだが、やはりこれがないと気分が乗
らない。本当は木星天≠フ主を相手に使うつもりだったが―――
 この子が相手なら、出し惜しみなく宣言できる。

「たっぷりといじめてあげるわ」

 ―――妖花『妖魔城の開花』

 姫君の呟きと同時に、いままで展開していた弾幕が途切れる。数十秒ぶりに
訪れる静寂。嵐の前哨。暴風は静かに這い寄り―――車両と車両の連結部から
猛り始めた。線路の隙間から伸びた植物の蔦が、二人の乗る最後部車両の連結
器をねじ切る。牽引する力はなくなっても慣性が働いているため最後部車両だ
けは置き去りにされることはないと思われたが―――

 ぎい、と姫君と猫娘の足下で車輪が鈍い音を立てて動きを止めた。いつの間
にか線路に敷き詰められたタンポポの花が絡まって、車輪が回らなくなってし
まったのだ。慣性に突き動かされるままに車輪が滑る。フルブレーキ状態。
 こうなってしまったは、客車もただの待合室だ。

 姫君の目的は、密室を作ること。
 どちらかが屈服するまで出ることのかなわない牢獄を作ること。

 機関車が遠ざかる。残りの十両を牽引して遠ざかる。いま、この瞬間なら脱
出の余地はまだあるが―――当然、姫君は猫娘を逃すつもりなどない。

 彼女は自分の世界を圧縮した。
火星天≠フ密度を変えた。
 広大な花畑なんていらない。無限の花々なんていらない。いまは、指が届く
程度の距離で愛でられる花とその養分となるべき骸が一匹あればいい。
 第五層火星天≠ヘここ≠セけでいい。この客車が、針の城におけるわた
しの世界のすべてだ。

 急激な空間の圧縮によって、零姫たちを乗せる魔列車は強制的に第六層木
星天≠ヨと移動する。

 幻想の姫君の唯一の領地となったこの客車は、まさに棺桶だ。花を敷き詰め
て、この子を弔ってやろう―――そう考えて、ふふ、と彼女は笑った。

177 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/02(金) 15:08:38
うむ。
このままでは本気で別の闘争が始まってしまうので、回避回避回避じゃ。
このままミリオンめはいったんドロップアウト→後の合流か。
なんとかがんばって火星天(客車)から脱出する。
どっちかにすべてきだと考えておる。
どちらにせよ、火星天の姫君の出番はここでお終いだと考えてくれ。
これ以上しゃしゃらせはせん!

178 名前:英霊・ミリオンライヴズ ◆C/1000000c :2009/01/09(金) 00:04:40
>>

 一枚のカードを取り出し、宣言、数俊後に車両にかかる急制動、そして「おわたたたたたっ」と
たたらを踏みかけて座席にしがみつくあたし。ああかっこわる。
 あたしだってちったあかっこよく行きたいってのにさあ。まああんな(見かけによらない)
力業の奴を相手にするんじゃあ仕方ないか、ったく。

「あーもー、あいっかわらずやり方が乱暴だねえ、風見の。そんなにあたしとやり合いたい……
違うか、あたしを『いじめたい』ってのかい? あんたも大概、変わりゃしないね。
妖怪ってなそういうもんだって事かもしれないけど」

 車両が完全に止まるのを待って、一息つきつつ……「痛っ」 あれ?
 ふと見たら指先が切れて血が出ている。あー、さっきしがみついたときに座席のどっかで
切っちまったかな? 見た目ふるーい車両だもんねえこれ。
 ぺろり、とひと舐めしてみるけれど、とりあえず止まっちゃくれない。
 ま、いいか。どうせこれからいくらでも怪我をする羽目になるんだろう?
 下手すりゃ死ぬほど、さ。
 
「で? 見た感じ、このままあたしを車両ごと花で覆って嬲ってやろうって腹積もりかね?
『いじめる』というからには、あたしを速攻で殺ろうってわけでもないんだろうしさ。
おまけにとかげらは先に行かせちゃってるし……ま、それならあたしの役目は
果たされてるから、いいんだけどね?」

 ざわざわ、と植物の生い茂っていく音も、あちらこちらで緑も赤も白も黄色も揺らめく様も
見えるけれども、あたしは気にせず、フラワーマスターに笑いかける。
 何故って、気にする必要がないから。
 いじめる? 嬲る? 殺す? それがどうしたって?
 あたしは確かに百万回も生きてきたけど――“今のあたし”はもう、そんなものじゃあない。
 全く……
 
 
 
「――無意味なことさ」

179 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/09(金) 00:05:10
>> 続き


「あいつはな、姫さん。確かに昔は『百万回も生きてきた猫』だったそうだが……もう違うんだよ」

「あいつが“死ぬ前”に、俺に聞かせてくれた話でしかないから、詳しいことは知らねえがな。
……ああ、その通り。あいつは本当に死んでいる。と言っても幽鬼の類でもねえ。全然別だ」

「あいつが言うには――何らかの能力・技能を持つ奴を、その使い手の文字通りの心身と共に
ある種の媒体……まあ要するにあの『石』だな、に記録させる、そんな方法をどっかの奴らが
確立させたんだそうだ」

「何回も何千回も何十万回も生きて死んで繰り返してきたあいつは、ある時そいつを持ちだして……
つーかまあ、大方盗んできたってとこだろうが、最期にご丁寧にも俺を捜し出して言ったのさ」


「こいつで『ただの記録』になるつもりだ、そうすればもう嬉しいことも悲しいことも
引き継がなくて済む――ってな」


「石に記録された存在……英霊、って呼ぶらしいが、そいつはいつでも元通りの姿形で
『再生』されるが……それだけ、なんだそうだ」

「簡単に言えば、自分で考えて動いて喋って触れる立体映像みたいなもんだ。
俺らには……いや、そいつ自身にだって本物、実体に見えるだけで、実際には
魂もなにもない。だから再生が終われば……」


「跡形もなく、消え去る」


「もちろん、そいつが起こした事も残るし、俺らの記憶にだってそりゃ残る。
だが、そいつ自身は――何も覚えることなく、何も持って行くことなく、どこにも行かずに
消えるだけ、ってわけだ」

「ま、俺も実際にあいつを『再生』したのは初めてだがな。だがあいつ自身にはそんな事は分からない。
言ってただろ? 『もう何度も会ってるのか?』って。あいつは俺が自分を“初めて再生した”のか
“もう何度も再生しているのか”なんてことはわからねえんだよ。あいつの記憶は、石に記録された
その時までしか残らねえからな。追記は、出来ねえ」


「あいつはもうそういう存在……ってわけなんだそうだ」

180 名前:英霊・ミリオンライヴズ ◆C/1000000c :2009/01/09(金) 00:05:40
>> 続き

「伊予の星屑、ねえ。まあ別に何に例えてくれたっていいけどさ……風見の、
生憎とあたしは、もう紫陽花のようには居られなくってね。何にも変われやしないから」

 戯れに、指に膨れあがった血だまを弾き飛ばしてみる。
 散った鮮血は、けれど地に落ちることなく……ひらがなカタカナアルファベットキリル文字ギリシャ文字、
その他諸々の文字と化して、消え去る。
 あたしがただの記録、再生されたデータである事の、証。
 
「ま、でもね。どうしてもってんならあんたに、あたしとのお遊びの思い出を残してやるくらいは出来るさね。
花と散ってやろうか? もちろん――あたしの振るう技の記憶と一緒に、さ」

 もう一度指先を舌で舐め……にぃ、と猫らしく笑って、指を更に噛み切る。
 溢れる鮮血。またぺろり。

「赤猫って知ってるかい? 放火の隠語なんだそうだよ。
随分な話じゃないか。勝手にあたしら猫に例えちまってさ!
炎の揺らめきは赤猫の舌なんだってさ、ねえ……」

 あっちこっちから花が侵入してくる。あいつを守る矛となり盾となって。
 はん、でもさ……結局は植物だ、こいつには弱かろう?

「ならあたしも――猫の化生らしく、火を放ってやろうじゃないさ!」


       吻接の灯鬼たっ狂
――――<VOLCANIC LIBIDO>!!


 舐めた指先に滴る血潮、そいつを周囲に振りまく。
 『文字化け』した次の瞬間――あたりを焼き尽くす真っ赤な炎と化した。
 客車の何もかもを焼き尽くす大火と。
 
 
 とかげらには、もう見えないかも知れないがね……風見の、あんたが見てりゃ十分さ。
 何なら消え去るまで、付き合ってやるよ。

181 名前:英霊・ミリオンライヴズ ◆C/1000000c :2009/01/09(金) 00:10:49
これのどこがフェイドアウトだやる気満々だろ常考
……ってなもんだからさ、なんだったらもうちょいばっさり切り捨てちゃってもいいよ。
何でもご要望にお応えするさ。

ついでの与太話。
「英霊」としてのあたしがただの記録存在だってんなら……「本物のあたし」はやっぱりどっかで
生きて死んでを繰り返してるのかも知れないねえ。
あたしはただのコピーってだけでさ。
ま、そんなんだとしてもその「本物のあたし」とやらはとかげに合わす顔がないだろうけどさw

まあそんだけ。その辺掘り下げても下げなくてもどっちでもいいよ。

182 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/12(月) 20:22:41

 あらゆるものが炎に包まれ、あらゆるものが蒸発されゆく世界で、火星天
の姫君は愛しき花たちが灰へと変わる様子をおごそかに見守っていた。
 笑みはとうに消えている。さりとて、余裕を失っているわけでもなく、むっ
つりとした表情から怒りは感じられない。
 姫君のかんばせを彩る感情の色は何か。……あえて言葉を探すならば、戸惑
いと憐憫だ。姫君は、猫の娘を心底憐れんでいた。

 火を放ったことで、花は燃え尽き、やがてこの世界は崩れよう。植物に対し
て、これ程効果的な攻撃はない。猫娘の選択は間違っていない。
 ―――しかし、それは、姫君に対して有効的な攻撃≠ニイコールで結ばれ
るわけではない。

 花が燃えれば姫君の心は痛む。しかし躰は決して傷まない。彼女は妖怪であ
って花の精ではないのだから。
 花による攻撃を行えない環境に置かれたせいで、姫君はフラワーマスターと
してではなく、妖怪として戦わざるを得なくなってしまった。
 それは圧倒的な力で相手を押し潰す優雅さとは無縁の戦闘行為。そこにルー
ルはなく、明確な勝敗の境目もない。

 姫君は憂鬱そうに溜息を吐いて、

「……ほんと、何百万年生きても子供のままなのね」

 と呟いた。

 気怠げに右手をあげて、
 五指を開き、
 彼女は灼熱ごと、
 彼女は客車ごと、
 彼女は猫娘ごと、
 彼女は彼女の世界ごと―――

 津波の如し熱量の大砲で、太陽の如し光量の奔流で、すべてを撃ち抜き、蹂
躙する。世界は白亜に包まれ、闘争の舞台すら消滅した。

 この瞬間から、アセルスの城において第五層火星天≠ヘ存在しなくなる。

183 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/12(月) 20:22:56


 世界の圧縮によって火星天≠ゥら強制的に追い出された魔列車が次に走る
のは、第六層の木星天=B濃厚な霧が一帯に広がる視界ゼロの世界である。
 窓に頬を押しつけてもまともに外の景色を見ることは叶わない。進路もなに
もあったものではなく、ただ霧を切り開いて疾走するのみ。魔列車の走行を管
理する零姫としては、鉄路に障害物が置かれているかどうかすら確認できない
現状は恐ろしくてしかたがないのだが、だからといって対処する術などなく、
腹を括って走り去るより他に選択肢はない。

 時より、どこからともなく谺する「イヒヒヒヒー!」という哄笑を不気味に
思いながらも、零姫はとかげを連れて機関部から客車に戻った。
 彼とは話しておかなければならないことがある。―――ミリオンと呼んだあ
の化け猫はなんなのか。なぜ、とかげに力を貸したのか。

 ……因みにシャオジエは、改めて冷蔵庫に叩き込んでおいた。

「―――つまりあの化け猫は、転生無限者だったのじゃな」

 ボックス席でとかげと向き合う零姫は、いつになく真剣な表情で言った。

「死に続けて生き続ける転生無限者の、ひとつの完成系であり終焉でもあるわ
けじゃ。あのミリオンとやらにこれ以上の未来はなく、ただ永遠に記録された
現在≠ヘ再生し続ける。停滞すれば死ぬことも生きることもないからのう」

 そんなバケモノがイーリンの人造僵尸に埋め込まれたいたなんて。奇縁もこ
こに極まれり、だ。偶然で片付けるにはあまりに都合が良すぎる。……なにせ、
これでひとつの空間に三人もの転生無限者が集ったことになるのだから。

 死を願うとかげからすれば、永久に停滞≠キるミリオンは受け容れがたい
存在だろう。同様に、生を愛する零姫も、未来なきミリオンの再生≠ノは共
感できずにいる。同じ転生無限者でありながら、三者三様。こうも考え方が違
ってしまうものなのか。面白いと思う反面、寂しくもあった。

 時と場所が違えば、殺し合うしかなかった三人かもしれない。
 でもいまだけは、イーリンのために―――

「これだけは確認しておきたいのじゃが」
 
 零姫は躊躇いがちに切り出した。

「あの化け猫は、また再生≠ナきるのか?」

 話を聞く限り、こと戦闘力においてミリオンライヴスは飛び抜けている。
 彼女がいてくれれば、これからの道中もぐっと楽になるだろう。気は進まな
いが、いまは藁にでも縋りたい思いなのだ。利用できるものは利用しなければ。

184 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/15(木) 00:08:55
>>

「また“再生”出来るのか、ねえ……」


 さぞや、俺は苦虫を十匹や二十匹は余裕で噛み潰してるようなツラをしていることだろう。
姫さんにこんだけ慮ってもらってるんだからな。まあ外が視界ゼロなんだから、俺自身でも
窓を見れば自分でもそのツラを拝むことは出来るだろうが……別段、そんな気にもなれない。

 大方お察しの通り、俺はミリオンのとったやり方は気にくわない、と言っていい。
 仮に俺自身がそういう存在になる機会を得られたって、きっと蹴り飛ばすことだろう。
 ……もっとも、こんなのは理屈じゃねえ、ということも俺自身、いい加減理解できちゃいるが。
 
 俺が「死にたい」と思うことも、
 姫さんが「生きたい」と思うことも、
 ミリオンが「止めたい」と思ったことも、
 
 それぞれがそれぞれに選んだ答え、ってやつだ。
 今更変えられやしねえ。残される側に配慮なんぞしてたら、きりがねえからな。
 
 わかっちゃいる。
 わかっちゃいるが……実際に残される方は、それはそれでやはり気分の良いもんじゃ
ねえようだ。本当に、理屈じゃねえ。
 だから、俺は……


「出来るのか、と言われりゃ正直分からねえ、というところだけどな。
 ただ、さっき“再生”したばかりだからな。あいつがまだ戦ってるなら……」

185 名前:◆C/1000000c :2009/01/15(木) 00:09:22


『あーあ、やっぱ分が悪かったかねえ……あたしももう少し、粘っておきたかったんだけどな。
ま、仕方ないね。もう行くよ、とかげ、風見の。
“次のあたし”に会うようなら、またよろしく頼むさ。じゃあね』

186 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/15(木) 00:09:37
>> 続き

「……まだ戦ってるなら、追加再生とはいかねえだろうな。二重に再生できるとはあまり思えねえし。
しばらくは無理だと思っておくほうが無難だろ」


 本当にまだ戦ってるのかどうか、もちろん俺には分からねえ。
 とっくに消えちまってて、もう再生可能なのかも知れねえが……それでも俺は、そう答えていた。
 
 ……本音を言えば、さっきの今で“再生し直された”あいつを見たくねえからだ。
 今ふたたび再生すれば、あいつはまた俺を見て驚くのだろう。いや今に限らず、今後もずっとか?
 とんでもねえ茶番だ、ましてさっきの今じゃ尚更気分が悪すぎる。
 ……今頃になって少し後悔している。切り札を早々に切りすぎた。こんな気分に囚われる羽目に
なるなんざ……俺も焼きが回ったとしか言いようがねえ。「英霊」と化したあいつを見るってのが
どういう意味を持つのか、考えておくべきだったぜ、クソ!

 噛み潰している苦虫は、そろそろ三桁の大台に突入しようって雰囲気だろうなこりゃ。
 けったくそ悪ぃ。
 気分を切り替えるように――ように、じゃねえか。本当に切り替えだ――剣の鞘で床を突いて
席から立つ。


「そろそろ機関室に戻らねえか、姫さん? いい加減次のエリアに抜ける頃だろ」


 ――「石」を通じてか、あいつの別れの言葉が聞こえたような気がしたが、
 そんなものなど、気分もろともに押しやるようにして。

187 名前:あぼーん:あぼーん
あぼーん

188 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/18(日) 22:14:19


 言葉として伝えられずとも、その苦しげな表情を見れば、とかげの葛藤はい
やというほどに透けて見えてしまう。
 ……やはり、こやつは転生無限者として永劫を生きるには優しすぎる。零姫
は胸裏で溜息を吐いた。

「ふむ、そうか」

 そうとしか答えなかったのは、とかげの思慮を汲むためでもあったが、零姫
なりに打算を働かせたためでもあった。再生が可能であろうと不可能であろう
と、ミリオンの出番はここではないことだけは揺るがない事実だ。
 この狂った迷宮の主は英霊≠フ存在を感じ取っただろうか。イレギュラー
として認識しただろうか。あの隔絶された花畑―――第五層の寵姫を相手にア
セルスはどこまで干渉できるのか。
 いささか楽観的かもしれないが、妖魔の君の性格を考えると、未だにミリオ
ンは切り札として有効だと考えられる。

 ミリオンの再生機≠ナある魔石が、人造僵尸の動力源となっていたならば、
彼女もイーリンとは無関係ではないのだ。力を貸して欲しかったし、協力を拒
むのであれば強引に巻き込む気ですらいた。
 零姫はとかげとは違う。ミリオンはイーリンの下僕だった。ならば、主人の
ために忠義を尽くす義務がある。……零姫はそう、考えていた。
 手段や倫理を問うてる余裕はない。

 零姫は席を立つと、袴の裾を直した。
 とかげを先導して機関部へと向かうその表情は、厳しい。


 第六層木星天=\――霞に支配された階層は、最後まで車窓からの風景を
白く染めたまま、何事も起こらずに終着を迎えた。
 車掌役のシャオジエが猿轡を噛まされて監禁されているため、とかげも零姫
も知ることはなかったが、木星天≠フ寵姫こそアセルスの内なる城≠ェ生
まれる切っ掛けであり、同時に妖魔公の狂気の走りでもあった。
 個人と個人の境界を曖昧にし、隔てられた世界は融け合い、不完全は不完全
によって補われ、永遠は完成する。この方程式を実行に移した寵姫は、「いひ
ひひー」と不気味な笑い声を残すだけで、零姫たちには一切手出しをせず、大
人しく自分の階層を通過させた。

 そして一行は第七層土星天≠ヨと至る―――。

「ついに、ここまで来たか」

 現実の〈針の城〉は、第八層から十層までは外環部分として扱われ、イーリ
ンのようにマフィアとは無縁の人間も多数住み着いていた。
 アセルスの支配がどこまで完璧なのかは知らないが、この針の城≠ェ妖魔
公の内面世界でありながら同時に現実の〈針の城〉でもある以上、外≠ヨ近
付けば近付くほど支配も弱まるのが道理だ。
 これまでのように、あまりに現実離れした光景を見ることもなくなるだろう。
 そんな零姫の考えを裏付けるように、土星天≠フ風景は現実の第七層と変
わらないものであった。闇が濃厚で、ビルというビルに荊が絡みついていると
いう差異はあるものの―――そういう違う部分≠ェ分かりやすいお陰で、余
計に支配率が低いのだと安心できた。
 奇妙な旅路の終わりは、近い。

189 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/18(日) 22:14:33


 線路はビルとビルの隙間を縫うように細かくうねりながら敷かれ、時には建
物をトンネルに見立てて、屋内にまで侵入した。
 元々の〈針の城〉は機関車どころか自動車や馬車すら走るスペースが無かっ
たことを考えると、これはかなり強引な荒技だ。必然的にスピードは落ちる。
 零姫も魔想レールを生成するために、より深い集中を要した。

 七層さえ超えれば。
 八層にさえ至ってしまえば。
外≠ェ近い。
外≠ェ現実のものとなってきた。
 イーリンの想いが叶おうとしている。
 彼女の自由が、いま、開かれる。

 ―――だがそこに、最大の障害が立ち塞がった。

土星天≠フどこにそんな空間があったのか、高層の建物――それは、阿嬌が
飛び降りたビル屋敷≠セった――を通り抜けたその先は、地平線まで続く一
直線の道だった。
 あらゆるビルは、まるで線路を避けるように両脇に建ち並んでいる。
 零姫は当然、こんな鉄路は生成していない。何者かが干渉して、道を歪めた
のだ。そんな真似ができるのはこの階層の寵姫か、あるいは―――

 機関車の進路の先、線路の上に佇む人影ひとつ。
 闇色の風に煽られて、ジュストコールの裾が踊る。
 魔列車の疾走を阻む無謀な人影は少女だった。
 少女でありながら、少女にあるまじき格好をしていた。
 少年のような服装をしていた。
 少女は男装をしていた。

 少女の姿を魔眼で認めた瞬間、零姫は目を剥いて叫んだ。

「アセルス!」

 進路の遥か先で、妖魔の君ははっきりと零姫を睨み返してから、薄く嗤った。
 その笑みは戯れの終わりを告げていた。黙したまま、観光旅行はここまでだ
と語っていた。―――全ては二人の因縁から始まったのだ。ならば、二人が対
峙せずに、このまま外≠ヨなどと大人しく行かせるものか。
 
「……もう十分だろう? そろそろ、イーリンを帰してもらうぞ」

 アセルスの呟きは、零姫の耳にまで届く距離ではなかったが、彼女ははっき
りとアセルスの声≠聞き、そして―――激昂した。

「アセルス! おまえだけは……!」

 だが、憤激しながらも理性を残せるのが零姫という女だ。彼女の中の冷静な
部分が、アセルスとの対決だけは避けろと警鐘を鳴らしていた。

 魔列車が走る。
外≠目指して。
 迷宮の城主へと向かって。
 終点へと走る。

190 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/18(日) 22:44:13
>>

 「悪の親玉」のお出まし。物語の終わりは近い、ということか。
 
 ……誰の物語だ?
 切り札呼ばわりしたミリオンはもちろん、俺だってただのゲストキャラだ。イーリンの代わりに
現われただけの、俗に言うオルタナティブ。
 そしてイーリンはもういない。
 
 因縁を辿ればあの女と姫さんか?
 だがそんなことは勝手にやってろ。イーリンを、いや「イーリンとリリー」を巻き込むんじゃねえ。
 そしてリリーももういない。
 
 主役いねえヒロインもいねえ、いるのは代役と代役と悪役と脇役。
 ふざけた茶番の物語。
 代役の俺らは、そんな物語をきちっと終わらせるだけだ。
 イーリンのために、リリーのために。
 
 つまり。
 
「……お呼びじゃねえってんだよ。勝手に生きてろ、勝手に死んでろ。
 勝手に――轢かれてろや阿呆」
 
 機関の出力を上げる。オーバーヒートぎりぎり。
 にっくき悪役が目の前にいるせいか、加速度つけて炉心は燃え上がる。
 弾丸列車はひた走り――――
 
 
 ――は! わかってるさ、あのクソ女はそんなタマじゃねえ。
 絶対に何かある。いやさ本物かどうかさえ怪しいぜ、こんな世界じゃ。
 だがどっちにしろ、こんな列車に何かされるなら……
 
 
 激突コンマ数秒前。
 俺は姫さんを庇った。
 
 何故と問うんじゃないぜ姫さん? イーリンなら、そうするに決まってんだろう?

191 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/21(水) 00:52:42


それ≠ヘ闇の蒸気に隠れていたのか。あるいは、二人がアセルスを注視する
あまり、彼女の背後に控えるそれ≠ノ注意が向かなかったのか。
 どちらなのかは分からない。正解はどこにも見えない。
 ひとつのみ分かる真実は、魔列車が加速したことにより、二人は確実に己の
首を絞めてしまったということ。
 とかげはアセルスの挑発に乗ってしまったのだ。彼も零姫も、ここが妖魔公
の庭だということを知っていながら、それが意味する恐ろしさを十全には理解
していなかった。例え支配率が低かろうと、魔想レールに干渉して軌道を歪め
る程度のことは容易いのだ。

 汽笛が、死霊の絶叫の如き音で闇に響き渡る。蒸気が吹き出し、車輪は猛烈
な勢いで回転する。第五層での絨毯爆撃によって機関車の車体はだいぶ傷んで
いたが、動力源へのダメージは皆無に等しく、加速はスムーズに行われ、猛り
狂う鉄牛は華奢な小娘を挽き肉にせんと鉄路に沿って突撃した。

 妖魔公の口元の笑みは消えない。
 圧倒的な質量に肉薄されてなお不敵な態度を崩そうとせず、ショートパンツ
から伸びた細い素足を見せつけるように軽くレールを蹴った。
 アセルスの躰が宙に舞い上がる。魔列車との相対距離は車両一つ分。アセル
スの企みを見定めようと目を凝らしていた零姫は、そこでようやく、自分が罠
に嵌められたことに気付いた。

 ―――アセルスの背後には、漆黒の鋼鉄が控えていた。

 重甲冑の騎士を彷彿とさせる鋼の躰。蹂躙を目的とした凶器にしか見えない
無数の車輪。将軍に追従するように牽引される、十一両の客車。
 零姫は思わず呻く。

「……もう一台、じゃと」

 彼女たちが乗るそれと同型の機関車が、同じ線路上に、向き合うようにして
鎮座していた。稼働してはいない。だが、停車していようとも、これ程までに
大きな質量に進路を阻まれたら―――

 宙を舞うアセルスの爪先が、対面する汽車の煙突に触れた。
 その瞬間。

 二台の魔列車は、正面から激突した。

 接触の瞬間、とかげが零姫に覆い被さるようにして守ったのと同じ理由で、
零姫もまた、とかげを――いや、イーリンを――咄嗟に張り巡らした魔術障壁
で衝突の衝撃からガードした。
 充分にスピードの乗った機関車が、不動の機関車に突っ込んだのだ。その被
害は、どちらも鉄屑に還ってなお余りあるほどに酷かった。
 とかげと零姫を乗せた機関室は衝撃で浮き上がり、鼻面を中心に逆立ちした。
当然、二人は闇へと投げ出されることになる。
 脱線した機関車は地響きを立てながら転がり、線路の脇のペンシルビルに激
突。それでも勢いを殺せず、一階部分を丸ごと抉り取って、奥のビルにまで破
壊をもたらした。後続の客車は鞭の如く振り回され、連結部が引き千切れた車
両は宙を舞い、砲弾となって街に降り注いだ。
 接触事故というより、もはや爆弾の炸裂に近い。二台の機関車と計二十両の
客車は全損し、周辺一帯の建築物にも深刻な疵痕を残した。
 炉が壊れたことにより、燃料となっていた怨霊は逃げ出し、霊的エントロピ
ーの均衡を致命的なレベルまで狂わせる。

「なんて……めちゃくちゃな……やつ、じゃ」

 積み木のように折り重なった客車の残骸から、零姫はほうほうの体で這い出
した。打撲やすり傷で全身が痛んでいる。あれだけの惨事で、この程度の負傷
で済んだのは僥倖か。

192 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/21(水) 00:52:57


 零姫は線路上の砂利に這い蹲ったまま、首を左右に振ってとかげの姿を探し
た。機関室から放り出されるまでは、確かに魔術障壁で守った。しかし、それ
より後のことは分からない。果たしてとかげは無事なのだろうか。しっかりと
イーリンの躰を守れているだろうか。もしも客車やビルの瓦礫に潰されるよう
になってことになっていたら―――

「とかげ、生きておるのか! どこにいるのじゃ! 返事をせい!」

「―――相変わらず、病弱ぶっている割には頑丈だな」

 はっと息を殺す。零姫の呼びかけに応えたのはとかげではなかった。地面に
ひれ伏す零姫の目の前に、ブーツのヒールがざくりと落ちる。
 見上げるまでもなく、そこにはこの魔宮の城主が佇立していた。彼女も正面
衝突に巻き込まれたはずだというのに、傷はおろか、埃すら被っていない。
 蔑みの眼で零姫を見下ろしている。

「アセルス……!」

 起き上がろうとした零姫の肩を、アセルスは軽く蹴飛ばした。それだけで零
姫は砂利に頬を滑らせ、血を滲ませた。
 剣術を極めたアセルスは、ことこの間合いにおいては無敵に近い。いくら零
姫が魔術に長けていても、白兵戦では赤児以下の抵抗しかできなかった。

「よくも好き勝手に私の世界を荒らしてくれたな」

 ブーツの靴底が、零姫の後頭部を踏みつける。

「貴様が勝手に呼んだのじゃろうが……!」

「誰も荒らしてくれ、とは頼んでいない」

 足を離し、すぐに蹴り付ける。零姫の矮躯が一瞬浮き上がった。

 アセルスは手に提げた月下美人ではなく、腰に差した儀礼用の装飾短剣を抜
き放った。切れ味は鈍いが、だからこそ余計に痛みを与えることができる。
 咳き込む彼女の腹部をもう一度蹴ってから、アセルスは零姫の目の前にしゃ
がみ込んだ。その白い肌に刃を突き立てる前に、最後の確認として、妖魔公は
口を開く。

「……貴様は私に、なにか言うべきことがあるはずだ」

 アセルスなりの恩情のつもりだったのだろう。しかし零姫は迷いもせず、唇
から鮮血をこぼしながら、

「貴様は最低じゃ。人間としても、妖魔としても、屑にすら値せん」

 あらん限りの憎しみをこめて言い捨てた。

「……そうか。ならば苦しめ」

 アセルスは無表情のまま、短剣を振りあげて―――  

193 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/27(火) 00:52:44
>>

 ――振り上げた短剣は当然に振り下ろされる。
 止めねえと。
 そう思った。
 結果。


 その短剣は、横から突きだした俺の左腕に深々と、ってわけだ。
 ……なんて冷静に語ってられるか! いってえ……ッ! クソが!


「……お呼びじゃねえ、って言ってんだろうがサド野郎。手前勝手極みきりやがって」

 同じく放り出され、瓦礫に投げつけられ、痛む全身を引きずって姫さんを探し、極めて不吉な
会話を聞きつけ、それを頼りにしてようやく視界に飛び込んできた光景が、それ。
 俺も、この体も、多少の荒事には慣れてる。
 だからこそ……こうするより他になかった。いや、あったかも知れねえがとっさに出た判断が
それだった、って事かも知れねえが。
 もっとも、どのみち俺の剣は所詮我流だ。逆手持ちの短剣を、それも姫さんを傷つけずに
弾き飛ばす自信は今だってねえよ。おかげでこの体を更に傷つける羽目になっちまったが。
 世話もねえな。……イーリンならどうしてたろうな。もっとクレバーに立ち回ってたか?

「つーかあんたも律儀に付き合ってんじゃねえよ姫さん。とっとと逃げてくれ。
あんたチャンバラ出来るようなタマじゃねえだろ」

 刺さったもんを抜かせ――もちろん、更に痛えが、無視。
 死んでるっつーのに痛いなんて理不尽だがそれも無視。
 目の前の馬鹿も、背後に庇う姫さんも、何もかも、ある意味全部無視。
 俺一人で逃げれば助かるか? やってられるか馬鹿。「イーリンとリリー」で逃げなきゃ
意味がねえ。なら今は俺が悪役を引き受けるっきゃねえだろうが。

「いい加減うぜえぞ……『私の世界』だとかなんとか、引きこもりのタワゴトかよ。
ましてイーリンを弄んだ元凶の癖に、勝手に執着してんじゃねえ。
この体はもう俺のもんだ、何一つだって渡しゃしねえぞ」

 スラム育ちの、荒事慣れで、ろくに出るとこも出てねえイーリンの体。ああそうとも俺のもんだ。
だからこそ義理があるし、何より俺が許しゃしねえ。絶対に逃げてやる。
 その為にも……
 
「ほら何やってんだ、早く逃げろってんだよ!」

 不釣り合いかも知れない、頂きもんの刀の柄に手をかけ、もう一度姫さんに呼びかける。
 もちろん俺だって、隙あらば逃げる心算だが……今はやるっきゃねえだろ、クソ。 

194 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/02/21(土) 21:01:46


「貴様……」

 妖魔の麗人は顔を歪めて呻いた。
 声の低さが彼女の怒りの強さを物語っている。
 とかげが盾になって零姫を護った。自分の行動を阻害された。零姫が痛みに
喘ぐ表情を見られなかった。―――そんなことは、別にどうでもいい。
 アセルスが許せないのは、とかげが、己の都合でイーリンの∫[を傷付け
たからだ。アセルスが支配すべき寵愛の対象を、キズモノにしてくれたからだ。
 イーリンという少女の価値は、刃に肉を抉られ程度で落ちるものではない。
そんなことぐらいはアセルスも理解している。むしろ土に汚れ、血を流し、地
面に這いずるほど強く眩く輝く手合いの女だ。
 ……が、それはイーリンの魂あっての話。とかげが、零姫如きを庇うために
イーリンの肌を犠牲にするなど断じてあってはならない。決して見逃せない。

「貴様」

 激したアセルスは、もう一度呟くと、とかげの黄金瞳を睨み据えた。あらゆ
る魔術作用を無効化するとかげには、当然魔眼も通用しない。そう、分かって
いてもつい瞳に力をこめてしまう。

 イーリンの躰で私に刃を向けるなんて。
 絶対に許せない。

「貴様ぁ!」

 魔眼の猛りがとかげにではなく、彼女の世界≠侵しはじめたとき、もう
一人の怒れる妖魔が、とかげの背中に怒声を浴びせた。

「戯けめ! 勝手に傷付けおって、誰の躰じゃと思っておる!」

 躰の痛みも忘れて立ち上がり、ぽこりととかげの頭を叩く。

「庇うにしても、庇いかたというものがあろう! わらわを護るな、とは言わ
ぬ。せめて、もっと考えて護れ!」

 まさかそちらからも怒りが飛んでくるとは思わず、アセルスは一瞬だけ目を
丸めてしまった。いくらなんでも庇われた当人が、庇った人間を責めるのはお
門違いというものだろう。それも庇ってくれたのは、魂は違うとはいえイーリ
ンなのだ。涙を流して感動に打ち震えるべきではないか。
 驚きもつかの間、アセルスはすぐに怒りを取り戻す。
 この淫売はなんて自分勝手なのか。私だって、叶うことならイーリンに身を
挺して護られたいのに。それをはね付けて説教までするとは。
 わがままにも限度がある。やはりこいつだけは許せない。絶対に許せない。

「戯けているのは貴様だ、零姫。貴様等二人揃って、どこまで度し難いのか」

「黙るのは貴様じゃ! 口を挟むな! ……とかげよ、わらわ達の目的を忘れ
たのではあるまいな。イーリンの躰を外≠ヨと導くための脱出口で、そのイ
ーリンの躰を傷付けては本末転倒じゃろうが。二度とこんな真似は―――」

「貴様、私を無視したな!」

 アセルスは、殴るどころか刺し殺しかねない勢いで零姫に食ってかかるが、
二人の間にはとかげが嘯風弄月を構えて毅然と立っている。

「……そこをどけ、とかげ。爬虫類如きに私と対峙する資格があると思ってい
るのか」

 それともまさか、この私と刀で対するつもりではなかろうな。侮蔑を孕んだ
瞳で、アセルスはとかげと―――その背後の零姫を見据えた。

195 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/02/21(土) 22:30:11
>>


 …………あの、なあ……


「ごちゃごちゃ五月蠅えぞてめえら……」

 ったく、揃いも揃って――ああ、もちろん俺もだ、それくらいは認めてやる――手前勝手な
連中ばかりだ。
 後ろの姫さんは「イーリンを護りたい」
 当の俺は「イーリンとリリーを逃がしたい」
 それと……めんどくせ、約一名省略。まあ明後日のほう向いてんのは間違いねえが。
 ……噛み合ってねえな、全く。目の前のバカはもう論外だが、姫さんまでこんな調子じゃあな、
いい加減ぶちぎれるぞ、俺も。

「もう一回はっきり言うぞコラ。この体はもうお・れ・の・か・ら・だ・だ! 俺がどう立ち回ろうが
俺の勝手だ。ああ? 目的? 『俺とあんたで』逃げることだろうが。だってのにあんたが
殺られそうになってんのを我が身優先で見てろってのか? 第一、イーリンだったら自分の身を
優先させたってのか? 違うだろうがそんなもんは」

 イライラに身を任せた勢いで姫さんに説教。つーかまだ痛えもんは痛えんだよクソ。
 まあ、この程度の傷なら止血も治癒もすぐだけどな。そうでもなきゃ、こんな立ち回りするかよ。
 もちろん、だからって頭や心臓までくれてやる気もねえんだが……その辺くらい分かれ、姫さん。
 目の前のバカは知らん。
 
「大体俺だってな、好き好んで死んでやる気もねえよ。この体は全力で『死守』してやる。
あとは適材適所の理屈ってやつだ。あんたを死なせやしねえ、俺だって死ぬ気はねえ。
どっちも生きてんのが大前提なら、前衛後衛はっきりさせて動いた方がいいに決まってんだろうが」

 「イーリン」が大事なのはわかるが、姫さん自身を蔑ろにしちゃ意味がねえんだよ、俺にとっちゃ。
忘れてんのはどっちだ、全く。
 やれやれ、王子様ごっこも大変なもんだな、イーリンよ。
 目の前のバカは知らん。
 
「だからとっとと行ってくれって。せめて下がれ。このままじゃ動けるもんも動けねえだろうが」

 以上、説得終了! あとはチャンバラのお時間だくそったれ!
 
 目の前のバカは知らん。
 ガン無視だガン無視。
 どうせ今まで俺のほうが無視されてんだからおあいこだろうが。

196 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/03/05(木) 08:30:27


 喧嘩には自信がある。反論ならいくらでも用意できた。
 確かに零姫は白兵戦を得意としない。そこらの下級妖魔にすら劣るだろう。
そういう意味では後衛に徹しろというとかげの意見は妥当だ。
 が、いま二人を怒りの視線で貫いているのは妖魔公アセルスなのだ。妖魔最
強の剣客なのだ。彼女を前にして、前衛が誰か、後衛が誰かなどという議論を
するのはあまりにナンセンス。絶望的な力量の差に晒されて導き出される答え
はただ一つ―――対峙した者の敗北と死。
 とかげは論点をずらしている。誤魔化しを用いている。いくら口で「死ぬ気
はない」と言っても、説得力というものが欠けている。この窮地で、どちらも
斃れずに切り抜ける選択肢などというものが本当にあるのか。
 どちらを犠牲にして、どちらが生き残るか。―――優先すべき議論はそっち
ではないのか。

「……」

 とかげは死ぬ気なのか。お姫様を庇う騎士にでもなるつもりなのか。先走っ
た英雄願望の果てに、取り返しのつかない終末を迎えるつもりなのか。
 その程度の男だったのか。

 ―――いや。

 違う。そうじゃない。
 死を願う男だからこそ、死にたがりの魂だからこそ、ここでは死ねないと分
かっているはずだ。こんなところで果てては、彼の最後の拠り所である死
が穢される。妖魔公アセルスは静粛な死さえも許さぬ女だ。

 とかげの横顔を見てみろ。イーリンのかんばせで感情を表現する彼は、いま、
なにを思っている。あの自信に満ちた笑みが、死を受け容れる者のそれに見え
るか。……否、見えない。見えるはずがない。

 なぜ、そんな表情を作れるのか。
 どうして、そんな風に不敵に笑えるのか。

 ―――この大馬鹿者は生き残るつもりなのだ。
 アセルスと一対一で対峙して、それでもなお、希望を捨てていないのだ。
 なんたる傲岸不遜。うつけにも程がある。

「ふっ」

 思わず口から息が漏れる。気付けば零姫の口元にも笑みが浮かんでいた。

「とかげよ。別におまえが死のうが灼かれようが寵姫にされようがわらわの知
ったところではない。好きに料理されてしまえばいい。―――しかし、じゃ。
その肉体はイーリンのもの。その凛々しい横顔はイーリンのもの。一時の借り
物に過ぎぬということ頭に留めて……おまえが死ぬときはせめて、躰だけは護
りきるがよい」

 それともう一つ。そう言って、零姫はアセルスととかげに背中を向けた。

「わらわは自由じゃ。誰の言葉にも従わぬ。自由であるが故に、自分以外の何
人も信用せぬ。……故に、おまえの命令は受け容れぬし、おまえがアセルスを
相手にして生き残るとも思っておらぬ」

 わらわは逃げぬぞ。―――己の言葉と矛盾して、零姫は駆け出した。軽功で
躰を絹のように軽くして、舞うようにその場を離脱する。

 零姫は逃げない。とかげに殿(しんがり)を任せたりしない。
 自分がこの場に残っても足手まといに過ぎない事実を顧みれば、一時撤退し
つつ、この窮地を打開するなにか≠探すのが最良の策……の、はずだ。

 納得できない部分は多々ある。釈然としないことだらけだ。
 それでも零姫は駆けた。胸に燻る不安から目を背けて、自分に言い聞かせた。
 一緒に行くのじゃ。外≠目指すのじゃ、と。

197 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/03/05(木) 08:30:50


「ふむ」

 零姫の後ろ姿を見送るアセルスに、取り立てて焦燥の色は見えない。先程ま
での猛りすらだいぶ沈静していた。いまの彼女は醒めている。
 アセルスには自信があるのだ。いま零姫を逃がしたところで、どうせすぐに
補足できると。―――なにせ、ここはアセルスの世界であり、アセルスの胎内
なのだから。どこまで逃げようと、手中からこぼれ出ることは不可能だ。
 ならば精々、無様に足掻け。

 いまはそれよりも、優先して片付けるべき問題がある。

「とかげ……」

 妖魔の魔眼が転生無限者をきっと射貫く。
 雑魚と決めつけてきた相手に。零姫をゾズマの結界から燻り出すための道具
としか見なしていなかった相手に、ここまで邪魔される屈辱は如何ほどか。
 アセルスは静かな怒りをたたえて転生無限者を睨んだ。

「つくづく勘に障る男だな、貴様は。あの時もそうで……いまはあんな淫売に
味方し、挙げ句、この私と一対一で対峙するだと? 思い上がりも甚だしい。
いい加減、存在自体が鬱陶しくなってきたぞ」

 零姫をいたぶるために用いていた装飾短剣の切っ先をとかげの鼻先に向ける。

「いいだろう。願い通り貴様を殺してやるから、さっさとかかってこい」

 不愉快げにアセルスは言う。朱い月光に晒されて、刃が血色にきらめいた。

198 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/08(日) 21:32:42
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 ……ったく、やっと行ってくれたか。それにしたって命令がどうのこうのって、七面倒くせえ
科白並べ立てやがって。……自由、な。こちとら自由だった記憶なんぞほとんどありゃしねえ
ってのに。
 本当に好き勝手言ってくれるぜ。俺が生き残ると思ってねえだと? 知るかんなもん。
 どうせ死ぬときゃ死ぬ。それでいて死ねやしねえ。ならば死など恐れやしない。
 死中に活を見いだす、だ。相手がこの色ボケ妖魔公だろうが、関係ねえ!
 
 ともあれ姫さんは行ったんだ。これで思う存分に動ける。
 向けられた短剣から目を離さず、間合いを計る。
 鯉口を切りつつも剣は抜かず、間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る――――
 
 
 
 だけ、だ。
 
 け、かかってこいだと? 馬ぁ鹿、誰がわざわざ殺されに行ってやるかよ!
 業腹だが確かに姫さんの言うとおりだ、俺の剣なんぞ所詮我流、こいつと真っ向斬り合って
勝てようなんぞ思っちゃいねえよ。
 だが、別にこいつに「勝つ」必要なんて無いんだからな。
 防戦一方、それで十分だ。その為に姫さんを逃がしてんだ、姫さんの出来る「助太刀」を
期待して……な。

 ああ、全く我ながら馬鹿げたやり方だ。希望観測が強すぎて、まるでまともな戦法じゃねえ。
 だが「死中に活」なんてのは所詮そんなもんだ。理屈じゃねえ。悪あがきにこそ、活路は
あるもんだ。
 ましてや俺はとっくに死んでる。本当の死が来ないからこそ、死ぬことには慣れている。
 そんな俺が「生き延びてやる」と言ってるんだ、ならば死中に活、見いだせるに決まっている。
 
 どこまでだって悪あがいてやる。死んでも、時間を稼いでみせるさ。

199 名前:あせるす ◆1kpREIHIME :2009/03/09(月) 04:07:02

 暫くの沈黙が流れた。
 互いに睨み合ったまま微動だにしない剣士二人。
 もしこの場に第三者の人間がいたら、緊張で窒息死していたであろうと思わ
せるほど空気が張り詰めている―――が、それも初めの数十秒だけの話で、ア
セルスがとかげの意図を察すると、緊張は即座に失望と軽蔑に転じた。

 とかげの目的は外≠ヨと脱出することであって、アセルスを斃すことでは
ない。そこに彼特有の賢しさを加味すれば、「待ちに徹する」という結論に至
るのは当然のこと。彼に剣士の矜恃など期待できるわけもなく、必然、立ち会
いの場における崇高な礼法とも縁がない。
 彼はただ醜く生き足掻いているだけだ。浅ましく生き延びようとしているだ
けだ。所詮は爬虫類。地を這う動物に相応しい考え方だな―――とアセルスは
口を歪めてせせら笑った。

「死にたがりの貴様が、死にに来ないというのなら―――」

 一回転、二回転と手の中で短剣を器用に踊らせてから、改めて切っ先をとか
げへと向ける。

「―――私から殺しに行ってやる」

 瞬間、風景はコマ送りに変ずる。ただの一度の踏み込みで、二人の距離は肉
薄する。転移の魔術でも用いたかのようなスピード。突き出された刃は見惚れ
てしまうほどに無慈悲で、吐き気を催すほどに容赦がない。
 紫電の如き突きだった。雷光にも等しき疾さだった。
 狙いは心の臓―――アセルスには、無駄にイーリンの肉体を傷付ける意図は
ない。刃に篭められた呪いで、とかげの魂を魔術の鎖でがんじがらめにしてし
まえば、それで決着はつく。

200 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/11(水) 00:54:21
>>

 ふん、どうぞ存分に笑いやがれ。どうせ望まぬ生、どう生きようがどう死のうが俺の勝手だ。
 ましてやこんな真似、柄じゃねえのは先刻承知。好き好んで切った張ったしてたまるか。
 
 短剣の切っ先が再び向く――ち、もうやる気になったか。
 だがどう来る。
 ……斬りつけてくることはねえだろう。明らかに奴の分が悪すぎる。そもそもこいつは、俺など
とっとと片付けたいところだろう。ならば一撃必殺か。
 もっとも――俺の『心臓』は、別にあるようなもんなんだがな。
 
 
 果たして――――転瞬!
 
 
 俺もまた、奴に対し踏み込んだ。
 俺のほうが遅い? 構わねえ。
 案の定、左胸を狙ってきた短剣は逸れ、腕を掠め切り裂くが、それも構わねえ。
 構ってる暇はねえ。
 
 踏み込み――抜き打ち、払い抜け。
 「居合い・後の先」などとはおこがましくも――交錯する。

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