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■ とかげ

1 名前:◆MidianP94o :2008/08/29(金) 23:52:50


転生無限者【てんせいむげんしゃ】

 生き続けるもの。
 死に続けるもの。
 無限に転生を繰り返すことで、死徒や妖魔とは異なる不老不死を可能とする。
 死ねば肉体を離れ、新たな躯に憑いたり生まれ変わったりするため、追跡は
困難を極める。死徒27祖のひとりアカシャの蛇≠ェ有名だが、教会や協会は
他にもタイプの異なる数人の転生無限者を存在していることを確認している。
 転生無限者が果たして人間なのか、それとも人外なのか。その定義は非常に
曖昧で、機関や研究者によって見解は異なる。

                ――――オーガスト・ダーレス『神秘学用語辞典』より

2 名前:アセルス ◆MidianP94o :2008/08/29(金) 23:53:32

Prologue



 ひとの命は脆い。自信の身をもってそれを証明したはずなのに、学習しない
私は同じ過ちを繰り返す。……気まぐれの不運はいつだって突然だ。もう百年
も昔、ある少女が馬車に轢かれただけで壊れてしまったように。

 取り返しのつかない悔恨が冷え切った躰を焦がす。

『まだ、もう少しだけ、人間のままでいたいんです』

 なぜ、彼女の言葉を安易に受け容れてしまったのか。

『いま、行くわけにはいかないんです。わたしはまだ子供で、この躰は父と母
のものだから。でも、大人になれば―――』

 耳を貸す必要なんてなかった。

『約束してください、アセルス様。わたしが成人した夜に、必ず迎えにくると。
わたしを永遠の世界に連れて行ってくれると』

 さらってしまえば良かったのだ。

『わたし、待ってますから。アセルス様を信じて、待ってますから』

 なのに、私は彼女がそれを望むなら≠ネどという欺瞞に目がくらんで。

『待ってますから―――』

 ひとの命は脆い。
 彼女に気付かれないように警護の妖魔を派遣しようと、その事実から逃れる
ことはできない。気まぐれに気まぐれが乗算され、不運と不運が掛け合わされ
れば、稀代の美女であろうとその容姿にそぐわぬ呆気ない末路を迎える。
 まさか、夏風邪を治すために呼んだ医者が薬の調合を間違えるなんて。悪意
も殺意も存在しない世界に住んだまま、彼女の笑みを失うことになるなんて。

 良家の令嬢だった。
 ほんとに美しい娘だった。
妖魔の君≠ニいう立場を隠し、夢魔と偽って屋敷に忍び込んだ。彼女は私に
脅えもせず、「愉快な悪魔さん」と呼んで友達になりたがった。世間を知らな
いがゆえの無邪気が、私の瞳にはとても眩しく映った。月に一度の新月の夜、
彼女の部屋で密会を重ねた。気付けば友人ではなくなっていた。私の望むがま
まに、彼女は私のものとなり、私は彼女のものとなった。
 そのまま、誰に気付かれることもなく、成人の夜に、彼女は悠久の闇へと旅
立つはずだったのに。私の寵姫となり、永遠を手にするはずだったのに。

 最後の新月の夜。彼女の屋敷に駆けつけたときには既に、葬式が始まってい
た。彼女は私の手を取ることなく、ひとりで永遠となってしまった。
 八つ当たりに警護の妖魔を八つ裂きにした。元凶であるヤブ医者にはもっと
深い苦しみを与えるべきだったが、私の怒りの瘴気を浴びた途端に心臓を止め
てしまった。満足に復讐することすら許されなかった私は、人間の身分を偽っ
て彼女の葬式に参列した。狭く暗い棺桶に幽閉され、墓地へと運ばれてゆく彼
女を呆然と見送った。土がかけられ、墓碑が立ち、参列者が散り散りに解散し
ても、その場から離れることはできなかった。

 人目につかぬよう離れた場所から、昼も夜も構わずに彼女が眠る場所を見守
り続けた。私の胸は、思い出を融かす空虚で占められつつあった。
 虚無の隙間からは狂気が芽生える。いっそ墓を暴いて、彼女の亡骸だけでも
針の城に迎えるべきじゃないだろうか。そんな考えがふとよぎったとき、視界
の先で、土が盛り上がり、墓碑が揺れて、白蝋の如き腕が地上を求めて突き出
した。我が目を疑う光景。そして、ああ、そして彼女が―――

3 名前:アセルス ◆MidianP94o :2008/08/30(土) 00:24:42


 

 再び夜空の下へと戻ったきた彼女は、はだけた屍衣から蜥蜴の刺青を覗かせていた。



.

4 名前:◆MidianP94o :2008/09/02(火) 22:52:29








とかげvsアセルス


零姫・甜蜜蜜(超仮題)





.


5 名前:◆MidianP94o :2008/09/02(火) 22:52:56


零姫【ぜろひめ】

 先代妖魔の君、オルロワージュの最初の寵姫。
 オルロワージュを逆吸血した唯一の妖魔でもある。
 妖魔の君の力を得たことで転生無限者となり、死ぬ度に生まれ変わって赤ん
坊から人生をやり直している。転生を繰り返して世界中をさまよっているが、
その美貌が絶えず不幸を呼び寄せて、彼女の居場所を奪ってしまう。
 上級妖魔にしては珍しく人間の社会を愛し、人間の生活を求めている。
 零姫は新生妖魔の君アセルスとは別の意味でオルロワージュの血を継ぐも
の≠フため、アセルスからしてみれば目障り極まりない存在のようだ。零姫が
転生する先々にアセルスが現れ、結果的に無理な転生を強いている。
 特性上、自身の領地を持たないため所在は不明。


とかげ【とかげ】
 
 詳細不明。神を喰らうことで転生無限者となった男。



      ――――魔術師協会封印指定手配書『転生無限者』の項より


6 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/02(火) 22:55:09



 クーロンは常夜のリージョンだ。
 けど、同時に夜を拒むリージョンとしても知られている。

 暗黒の天蓋を恐れるかのように、煌々と焚かれる無限のネオン。
 常夜であるがゆえに昼も夜もなく活動する人と人と人、そして人。
 雑踏が喧噪が矯声が夜の静寂を頑なに拒む。
 クーロンは永遠の夜に縛られているがためにどのリージョンよりも深く夜の
恐ろしさを知り、だからこそ夜を強烈に拒否する。

 ……そう、この街は眠らない不夜城。

 一束いくらの人間の命を燃焼させて闇を払う。

 ―――終わらない不眠症に悩まさるリージョンで、あたしたちは今日も澱んだ
空気を吸い、ネオンのまばゆさに目を細めながら生きていく。


.

7 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/02(火) 22:56:01







第一章「不夜城クーロン」







,

8 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/04(木) 05:44:42


.01

 ぞんざいにドアチャイムを鳴らす。玄関の奥から出てきたのは二十歳前後の
派手めの女だった。あたしを認めるなりぎょっと顔を強ばらせる。迂闊にドア
を開けてしまったことに対する後悔がありありと感じ取れた。
 あたしはちっと舌を打つ。これだから共同租界で仕事をするのはいやなんだ。
こいつ等はクーロンにいながらにして、クーロンの人間っていうのをリアルで
感じていない。人を容姿で判断してびびるような真似をするなんて。

 ―――頬の蜥蜴が疼く。

「……引き取りに来たんだけど」

 言葉にも自然と棘が含まれた。……いや、これはいつも通りか。

「ひ、引き取り?」

 女の顔がひきつる。

「あ、ああ。そ、そう。引き取り。回収よね。ごめんなさい、ちょっと想像し
ていた人と違ったから取り乱しちゃって」

 うるせー馬鹿。ほっとけ。
 唐突に部屋を引き払うことになった。身ひとつで出ていくから、家財道具や
服飾品などすべて買い取って欲しい。そう連絡を受けたから、わざわざ中心街
から出張してきたんだ。さっさと見積もりをさせて、さっさと戦利品を積み込
ませて、さっさと帰らせろ。

「たったこんだけ? トラックいっぱいに積んでおいて?」

 女は最後まであたしに対する警戒を解かなかったけれど、あたしが提示した
買い取り金額にだけはしっかり文句をつけてきた。
 あたしは如何にも面倒そうに答える。

「いや、ほとんどゴミだし。処分するのだってただじゃないし」

 すでに積み込みは済ませているんだから、この金額でノーとは言わせない。
そのことは女も理解しているらしく、渋々ながらあたしが突きつけたキャッシ
ュを受け取った。

 ―――ここでのもう仕事は終わった。見積もり鑑定のために必要だった蜥
蜴の眼≠眼帯で隠す。肩まで乱暴に伸ばした赤毛を翻して三輪トラックの運
転席に乗り込んだとき、あたしの背中に女が恐る恐る問いかけた。

「……あなた、ほんとに人間? 少なくとも、堅気じゃないわよね」

 頬から鎖骨にかけて痣にも刺青にも見える蜥蜴を飼い、燃え盛る赤毛で見る
ものを威嚇し、瞳孔が極端に細い爬虫類の眼を眼帯で隠す。そして、家具も家
電も一人で楽々と運び出せてしまう程度には力持ちな細腕。加えて自分でも困
ってしまうぐらいに美少女だっていうんだから、なるほど、これは確かに人間
離れしているように見えるかもしれない。
 あたしは女の問いかけを鼻で笑い飛ばしてイグニッションキーをひねった。
 堅気なのか、ヤクザなのか。人間なのか、化け物なのか。人として存在する
権利を与えられない針の城≠フ住人にとって、その質問はあまりに滑稽だ。

「ここをどこだと思ってるんだい。ここはクーロンだぜ」

 そう言い捨てて、あたしはアクセルを踏み込んだ。

9 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/04(木) 05:46:45


火蜥蜴(ロンユエン)≠フイーリン。
 それがあたしの名。
 あたしの通り名と、本名。
 孤児のあたしには、誰がイーリンという名を付けたのかは知らない。覚えて
いない。けど、あたしを火蜥蜴≠ニ呼んだのが誰かは知っている。
 媽媽(マーマ)だ。
 あたしの赤毛と刺青を揶揄してそう呼び出した。あたしの記憶が残る限り、
マーマは一度もあたしをイーリンと呼んだことはない。
 火蜥蜴―――パラケルススの四精霊がひとつ、サラマンドラ。
 かわいげの欠片もないあだ名だけど、名は体を為すというか、なかなか的を
射たネーミングだとは思う。あたしの赤毛は唐辛子のようだし、心臓へと這い
進むように肌に張りついた蜥蜴は、長く鋭い尻尾が頬に伸びて疵(スカー)の
ように見える。普段は眼帯で隠している右眼なんて、あからさま人間のそれと
は違う、畸形としか言いようがない魔眼だ。
 火事のような髪に、蜥蜴の刺青と眼を持つ小娘には、イーリンなんて愛らし
い名前よりも、幻獣・火蜥蜴のほうが相応しい。気付けばマーマだけではなく、
あたしを知る誰もがあたしを火蜥蜴(ロンユエン)≠ニ呼ぶようになった。
 クーロンの火蜥蜴。それが、あたしだ。


             * * * *


 むせ返るほどに濃密な香水とニンニクの臭い。クローンの中でも中心街特有
の異臭があたしを歓迎する。続いて、十数種類の雑多な言語が耳に襲いかかっ
た。誰が誰に話しかけているのやら、誰もが声を張り上げて怒鳴り合っている。
 色とりどりのネオンに出迎えられながら、あたしは荷物を満載した三輪トラ
ックを進めた。―――多くの人間がリージョン・クーロン≠ニ聞いて真っ先
にイメージするこのメインストリートは、まず嗅覚と聴覚から始まって、最後
に視覚が到着を告げる。つまり、臭くて喧しくて目障りな通りということ。
 
 馬車も人力車も現役のクーロンでは、数秘機関(クラック・エンジン)式の
自動車は非常に貴重だ。自動車即ち超富裕層の道楽玩具と断言しても間違いは
ない。こんなニンニク臭い通りで人混みに揉まれているような連中には、まず
縁がない乗り物だ。だから、オンボロの三輪トラックでも目立ちに目立つ。

 あたしとトラックの姿を認めた途端に、ガキの物乞いどもがばっと群がって
きた。狭い運転席を囲うようにして、なにかくれと囃し立てる。それを目隠し
にして、荷台に回った何人かが積み荷を掠め取ろうっていう算段だ。
 あたしはハンドルの真ん中を叩いて、改造したクラックションを鳴らした。
圧縮された言霊がホーンから拡散して、ガキどもを残らず弾き飛ばす。
 殺傷性なんて欠片もない敵意をもった音圧≠ノ過ぎないけれど、ガキども
を脅かすには充分だ。幼い物乞いたちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていっ
た。その様子を、あたしは醒めた目つきで見守る。

 ……よくもまぁ、毎日飽きもせずに繰り返すぜ。

 メインストリートをこの三輪トラックで通ることは、毎日どころか、日に二
度も三度もある。その度にガキどもはあたしの積み荷を狙い、そして撃退され
ていた。いい加減、とっくに車種もあたしの顔も覚えているはずなんだけど。
 それだけこいつ等も必死っていうことか。
 あたしはふんと鼻を鳴らして、トラックをゆっくりと進めた。

10 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/04(木) 05:50:04


 メインストリートに立ち入った瞬間から、人口密度は跳ね上がる。
 表通りと言っても、せいぜい馬車が通ることぐらいしか考慮せずに舗装した
道だから、当然のように道幅は広くない。そこにさらに、無許可の屋台がずら
りと道の両端を占拠するのだから、人の流れは悪くなる。歩いて進むことすら
困難なんだ。とてもじゃないけど、トラックなんかで進めたものじゃない。
 ―――けど、あたしの事務所はメインストリートの裏通りにある。ここを突
き進む以外に道はない。進める進めないじゃなくて、進むしかないんだ。

 だいたい、トラックと人間じゃ前者のほうが強いに決まっている。轢かれ損
のクーロンで、頑なに道を譲らない莫迦なんて滅多にいない。あたしはのろの
ろと進みながらも、決して止まることはせず、人混みをかき分けるようにして
トラックを前進させた。気分はまるで、人の海を泳ぐ鉄牛だ。

 車の進みは遅い。そればっかりはしかたがない。殆どの人間は、あたしのト
ラックを見ると面倒そうに道をあけるけど、後ろから自動車が迫るなんて考え
たこともないであろうやつもいる。そういうのは大抵外の人間だ。世界の中
心<Nーロン・ストリートを闊歩することで、気がでかくなっちまっている。
 対処法は簡単で、ケツをバンパーで小突いてやればいい。悪態を吐きながら
振り返っても、フロントガラス越しにあたしを見れば、必ず引き下がる。
 ダッシュボードに如何にもわざとらしく、ポンプアクションのショットガン
を置いているのが効果的なのかもしれない。

 喧噪をかき分け、雑踏を割りながらメインストリートをゆるゆると進む。
 ふと横丁に繋がる路地に目を向けてみると、三人組の街娼がリージョンシッ
プの船乗りの一団に愛想を飛ばしていた。その様子をまんじりと見つめるのは
スリの悪童だ。隙あらば船乗りの稼ぎを奪い取ろうと目を光らせている。
 クーロン・ストリートでは珍しくもなんともない光景だ。

 すべては日常のまま。永遠の夜の中で、眠らない昼を繰り返す。

 床屋が歩道に店を開き格安で散髪や耳掃除を請け負えば、飼い慣らした小鳥
に運動させる老人は竹籠に入れた鶸や鶯を観光客に売りつける。
 屋台の店主は通行人の迷惑も考えず路上にテーブルを並べ、様々な屋台から
客たちは粥や麺、魯肉飯など思い思いの料理を選んで腹を満たす。
 少しでも身なりの整った紳士を見つければ乞食がすぐに道を塞ぎ、IRPOに雇
われた下請けの警邏は人目も憚らずに大麻の煙草を吹かす。
 零落した知識人は舗道にチョークで自伝を書き、いちばん心を打つ箇所に金
を置けと呼びかけた。
 人間が生み出す狂的なエネルギーが夜の恐れをはね付ける。クーロンが不夜
城と呼ばれる由縁が、この通りにはあった。

 ……だけど、街並みを占めるのは人間ばかり。人外の姿はまずない。これだ
け人の熱気が渦巻き、想念がこびり付けているというのに、地縛霊ひとつ見え
やしない。クーロン・ストリートは薄汚れた通りだけど、霊的な意味合いでは
異常なまでに潔癖だった。だから畸形のあたしは余計に目立つ。視線を集める。
 でも、誰も声をかけてはこない。
 観光客や船乗りはともかく、メインストリートで商売をしているような連中
なら、故買屋の火蜥蜴≠フ名ぐらい知っているはずなのに。
 誰もあたしに関わろうとはしない。
 ―――それはあたしが針の城≠フ住人だから。

 メインストリートを含む中心街はリージョン・クローンの顔と云われている。
そういうことになっている。でもあたしから言わせれば、共同租界同様に、や
っぱりここはクーロンじゃない。クーロンお試し体験版。夜の世界をちょっと
だけ覗いてみよう。だけど本物の危険はゴメンです。その程度の街だ。

11 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/04(木) 05:53:45


 メインストリートを抜けて、ようやく裏通りに辿り着いた。表通りほどでは
ないけれど、ここもクーロン・ストリートの一部だけあって人通りは多い。
 あたしは路上に寝転がる酔客を轢かないように注意しながら、事務所に向け
て車を進めた。ネオンの明かりが遠ざかるだけで、視野はだいぶ狭くなる。

 あたしの事務所兼倉庫は、雨の多いクーロンで、水はけ良くするために作ら
れた人工河川沿いにある。三階建て、鉄筋コンクリート造のボロビルディング。
 ビルと呼べば聞こえはいいけど、面積の狭さを高さで補っているだけだ。

 入り口にトラックを停めると、エンジンを切るより疾く事務所から巨人が飛
び出してきた。……そう、巨人だ。あれを人間と呼ぶのはかなり苦しい。

 異様なまでに盛り上がった筋肉と、それを覆う鬱血したまま壊死したような
青黒い肌。胸板はドラム缶を横向きに埋め込んだかのように厚く、比例して肩
幅も広い。その巨腕は冗談ではなく、あたしの胴体がすっぽりと収まってしま
う。背丈は天を衝くほどで、あたしの1.5倍はある。仮面劇で用いられるような
牙を剥く悪魔の面を被っているため、表情は確認できない。
 人間のかたちこそしているものの、巨人の躰は人間が持てる肉体の限度を超
えていた。……無理もない。だって彼女≠ヘ人間なんかじゃないんだから。

 新鮮なミノタウロスの死体に、トリニティの中央部から流れてきた中古品の
人造霊(オートマトン)を魂の代替品≠ニして宿すことで生ける死者≠ノ
した人造僵尸=Bそれが彼女だ。名前はハダリーという。
 仮面を被っているのは、死者である以上、彼女は生前のミノタウロスとはま
ったくの別物だから。存在の揺らぎを少しでも誤魔化すために、仮面を被らせ
ている。ハダリーの素顔はあの仮面だと思ってくれて構わない。

 死体いじりと人造霊の改造はあたしの趣味にして、蜥蜴の眼≠もっとも
有効的に活用できる特技でもあった。その中でもハダリーは歴代最高傑作だ。

 このクーロンで手に入らないものなんてない。あたしがミノタウロスの死体
を選んだのは、単純に身体能力が高いほうが便利だったからだ。
 望めば当然、人間の死体だって手に入る。倫理さえ無視すれば人造僵尸の娼
婦だって作れるだろう。究極のダッチワイフだ。
 ……ただ、それにかかるコストを考えれば、高級娼館で一週間豪遊したほう
がよっぽど経済的だというだけで。
 このハダリーだって、今日までに注ぎ込んだ金は、苦力(クーリー)千人を
一ヶ月間ゆうに雇えるぐらいの額には上っている。
 まぁつまり、道楽ということ。

「社長、オカエリナサヰ」

 ハダリーは片言であたしを出迎えた。憑依した肉体を通して呪文を発声する
人造霊は多くても、自発的に会話を試みる人造霊は、なかなかいない。
 これもあたしの教育の賜物か。
 でも―――

「社長はやめろって言ってるだろ、ハダリー」

「スヰマセン、社長」

 知能は人間サマには遠く及ばない。

 ……別にいいんだ。あたしは、人間を造りたかったわけじゃないんだから。
 むしろ、人間を雇いたくなかったからこそ、ハダリーを積極的に労働力とし
て使っているのが真実か。でなければ、こんな燃費の悪い雌牛なんて誰が飼う
ものか。―――いや、あたしがホルモンバランスとか筋肉強度とかをいじりす
ぎたせいで、外見は雄にしか見えなくなってしまったんだけどさ。
 それでもきっと魂のレベルでは、乙女心を有している、はず。

12 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/05(金) 18:42:02


 あたしは運転席から降りると、ちょうどあたしの目の位置にあるハダリーの
腹筋を拳で叩いた。ゴムタイヤどころか、鉄板のような堅さ。

「荷台にあるやつ、冷風機と乾燥機は適当に掃除したら倉庫にぶち込んでおい
て。加熱調理器と冷蔵庫は欲しがっている人知っているから、明日あたしが持
っていくよ。これは磨いたら、荷台に戻しておいて」

 あたしの指示に、ハダリーは「ハヰ、ハヰ」と機械的な返事をする。

「他にも家電製品や蒸気製品はいくつかあったね。ぜんぶ在庫にしちゃうから、
リストアップしておいてよ。家具の方はほとんどゴミかなぁ。化粧台だけはブ
ランドものっぽかったけど。化粧台以外は全部バラして木材にしちゃっていい
や。食器類はそのままホワンのとこに流しちゃうから、木箱ごと倉庫へ」

「魔術品ワ、ナヰノデスカ」

「相手は商売女だぜ? そんなもの持ってないって。ま、共同租界に住んでる
だけあって、ものは上等だけどさ。どれもそこそこ高く売れるぜ」

「お疲れサマです。じャあ、ここワ私ニ任せて、社長は事務所デゆっくりして
クダサヰ。ここワ私に任セテ」

「あ、ああ……」

 言われなくてもそうするつもりだけど。
 ……どこでそんな不自然な気づかいを学習してきたのか。あたしは首を傾げ
ながら、ビルの奥へと消えていった。


                * * * *


 このビルは大まかに分けて、一階がガレージ兼倉庫、二階が事務所、三階が
あたしの工房やあたし以外の社員≠フ住居で構成されている。
 社員と言ってもあたしを含めて三人しかおらず、一人はハダリーなため、真
っ当な人間と呼べるようなやつは残りの一人しかいないのだけど。
 その一人っていうのが、あたしがロートル(老頭児)と呼ぶ男だ。自分では
ジェフリーと名乗っている。
 薄くなった白髪をオールバックにした六十代半ばの老人だけど、年齢の割に
は壮健で、痩せてはいるが上背があるためそれなりに貫禄もある。
 常に服装に気を配っていて、腰に張りつくようなタイトなスーツしか着よう
としない洒落者だ。
 あたしがマーマに拾われた頃から、面倒を見てもらっている。

 十年以上前、まだクーロンに妖魔租界があり、妖魔や魔物が平気で街中をう
ろつく魔界都市≠セった時代。ロートルはクーロン・マフィアとして、人か
ら怖れられる存在だったらしい。このリージョンで黒社会の一員として生きて
いくには、荒事が得意なだけではなく、運気に恵まれ、抜け目がないことが必
要だ。かつてはロートルも暴力を手なずけ、野心に満ちていたんだろう。
 ―――いま、その名残を垣間見ることはできない。

 あたしはロートルをビルの外で見たことはない。ロートルの言葉を信じるな
ら、妖魔租界戦争∴ネ後、十年近くこのビルから一歩も外に出ていないこと
になる。馴染みの商売相手は快く受け容れるが、一見の客は絶対に事務所に立
ち入らせない。ロートルは極度に知らない人間≠ニの接触を怖れていた。
 屋内で黙々と事務仕事をこなす。それが、かつてのクーロン・マフィアの成
れの果てだ。

13 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/05(金) 18:42:17

 事務所の扉を開く。ロートルは、あたしが戻ったのに気付くと、作業を中断
して椅子から立ち上がった。帳簿かなにかをつけていたんだろう。銭勘定はす
べてロートルに任せている。引きこもりと言えども、クーロンで六十年以上の
時を過ごした経験と博聞は貴重だ。
 信用もあった。あたしとの付き合いは、マーマに次いで古い。それにロート
ルは、あたし以外に頼れるやつがいない。
 このビルを追い出されたら、たちまちショック死しちまうんじゃないだろう
か。それ程までにロートルは外≠怖れていた。
 だから、十代半ばの小娘にも平気でへつらう。

「社長、早かったですね」

 ロートルの決まりきった挨拶。夜しかない世界で、遅いも早いもないだろう
に。あたしは嘆息して応える。

「だから、社長はやめろって」

 昔は小姑娘(シャオ・クーニャン)≠ネんて呼んで、あたしをからかって
いた。ロートルがあたしではなく、マーマに雇われていた頃の話だ。
 マーマが引退して、雇い主が変わった途端に態度も変わった。

「でも、あなたは社長ですから」
 
 あ、そう、とあたしは適当に返事をする。ハダリーともロートルとも、毎日
のように繰り返している儀式のようなやりとり。あたしは別に社長なんかじゃ
ないし、会社だって経営しているつもりはないのに。
 ただ飯のタネを稼いでいるだけだ。

 ―――このビルも、得意の客筋も、故買屋という商売も、社長という肩書き
も、クーロンで生きていく術すらも、あたしはマーマから受け継いだ。

 十年前。身よりもなく、記憶も曖昧なまま路地裏で凍えていたあたしに手を
差し伸べてくれたマーマ。左右で虹彩の異なる両眼を持ち、不気味な刺青を彫
り込んだ外道の子を、見せ物として売り飛ばすわけでもなく、自らの娘として
迎え入れてくれたマーマ。あたしがいまこうして生きていられるのは、すべて
彼女のお陰だ。マーマはあたしの母であり、師であった。

 阿嬌(アキュウ)。それがマーマの名前。
 本名ではないけれど、若く見られること、若く美しい女性として扱われるこ
とを何より好んだマーマは、人にそう呼ぶよう強いていた。あたしからマーマ
と呼ばれるのも、あまり嬉しくなかったに違いない。成長が遅いあたしを見る
度に、マーマは溜息をこぼしていた。

 マーマはクーロンの女傑だった。クーロンでは主席の名前は知らなくても、
阿嬌の名は畏敬をもって反芻する人が大勢いる。
 誰よりも強くたくましい女性だった。
『家族以外のなんでも買い、なんでも売る』と豪語するマーマは、言葉通り、
盗品を扱う故買屋を勤め、情報屋稼業を営み、娼館をいくつも持ち、不動産も
扱った。阿片窟の経営にすら手を伸ばしていた。
 黒社会とも強力な繋がりを持ち、妖魔租界戦争∴ネ後、クーロン黒社会の
勢力図が劇的に書き換えられた後も、その地位は不動のままだった。
 いま、あたしが火蜥蜴≠フ二つ名とともに怖れられている理由の半分は、
「あの阿嬌の娘」という事実があるからだ。残りの半分は、言うまでもなくこ
の外道の容姿。あたしの右眼を見れば、誰もが顔を歪め、心を乱す。

 マーマだけだ。マーマだけが、「普通の人間とは違う」あたしから価値を見
出してくれた。あたしの右眼は、何物にも代え難い宝だと教えてくれた。

14 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/06(土) 22:17:04


 あたしには幼い頃の記憶がない。マーマに拾われるまで、どこで何をしてい
たのか、まったく覚えてない。だから当然、出生の事情も分からない。
 どうしてこんな右眼を持って生まれてしまったのか。どうしてあたしの頬か
ら鎖骨にかけて、蜥蜴の刺青が彫られているのか。どうして躰が傷ついても、
すぐに治ってしまうのか。どうして人より力があるのか。
 全部、分からないままだ。
 きっと魔物とのハーフなのだろう。リザードマンあたりにレイプされた人間
の女が、あたしを産み落として、そのまま捨てた。
 ……別に珍しい話でもなんでもない。妖魔租界戦争≠ナクーロンから妖魔
が駆逐されるまでは、この街にも妖魔や魔物と人間のあいのこがうんざりする
ほどいたらしい。そんなありふれた出生を悲劇として抱え持つ気はない。

 どうして記憶がないのかも、覚えている価値がなかったからだろう、と考え
ることにしている。覚えていたくないほどの凄惨な記憶だったに違いない。
「もしかして、どっかのリージョンのお姫様だったのかもしれないよ」なんて
マーマはからかったりもしたけど、どっちにしろ、いまのあたしには五歳や六
歳の頃の過去なんて必要ない。
 あたしという火蜥蜴は、マーマの娘だ。その事実だけで充分だ。


 応接用のソファに腰掛けると、ロートルはジョッキにオレンジジュースを並
々と注いで持ってきた。あたしはそれをひと息で飲み干すと、ジョッキを突き
返して尋ねる。

「んで、なんかお仕事は入ったの」

「商品を見たいというお客様が一人。かなり脈ありです」

「なにか売れそうなの?」

 あたしは倉庫に眠っている商品の数々を頭の中に浮かべた。基本的に、在庫
になるようなものは商品価値が低い。本当に売れるものは、予約の段階で何人
も名を連ね、入荷して即日捌けてしまう。

「ピアノです。グランドピアノ。二週間前にウーから買い取った」

 あたしは口笛を吹く。あれが売れれば大儲けだ。
 どこかのナイトクラブが潰れたとき、借金のかたに差し押さえられた大きな
黒檀のグランドピアノで、黒鍵は化石樹の枝を、白鍵はナイトスケルトンの骨
でできた最高級品だ。弾くものが弾けば魔曲の領域にまで昇華するだろう。
 霊視を可能な蜥蜴の眼≠持つあたしにとって、そういった魔術品の査定
はもっとも得意とするところだった。

 向こうはグランドピアノなんて抱えるスペースはないものだから、早急に売
り払いたがっていた。その足下を見て、格安で買い取ることに成功したんだ。
 ―――が、いくら格安と言っても物が物だけに高価な買い物だ。しかもグラ
ンドピアノは重くてでかい。ただでさえ広くない一階の倉庫が余計に圧迫され
る。あたしとしてはさっさと捌いてしまいたいのだけど、グランドピアノを、
しかも無駄に最高級品を欲しがるような客なんてなかなかいない。
 魔術品なら金に糸目は付けないという金持ちもいるにはいるのだけど、そう
いった手合いに売りつけるには、あのピアノは少し綺麗すぎた。製造年はそこ
まで古くはないし、魔物の体皮や骨を使用しているのも、あくまで清涼な音を
出すためだ。好事家がよだれを垂らすようなおどろおどろしさを、あのグラン
ドピアノは持ち合わせていない。

15 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/06(土) 22:17:16


 その分、音は繊細で、かつ張りがある。間違いなく稀代の一品だった。売り
つけるならば音楽家やパトロンだろう。……そう考えてはいるのだけれど、あ
たしの客にそういった音楽関係者はいない。誰か紹介してくれないものかと頭
を悩ませたまま二週間経ったけれど、まさか餌が向こうから飛び込んでくるな
んて。これは素直に嬉しい知らせだ。

「グオワンホテルから二時間ほど前に連絡がありまして。どこで聞きつけたか
は知りませんが、うちのバーラウンジで使いたいから是非、と」

 舌打ちをこらえる。グオワンホテルは共同租界の中でも上流階級サマしか相
手にしない特等ホテルだ。現地民≠セとか先住民族≠ニ見下されるクーロ
ン人は、まず近づけない。売るときにも色々とごねるに決まっている。
 そもそも、ああいった高級ホテルだとか高級レストランだとかは、バックに
黒社会がついている。正規のルートでは仕入れられないような商品は、そいつ
等を使って入手するもんだ。直接あたしにコンタクトを取ってくるというのは、
どうもおかしい。グオワンホテルとは一回も取り引きしたことがないんだから、
尚更だ。……誰かの紹介だっていうのならまだ分かるけど。

「明日、ホテルの裏口までピアノを持ってきて欲しいと注文が。商品の状態を
見て、買うか買わないか決めると仰っていました」

 げ、とあたしは呻く。
 冗談じゃない。あのグランドピアノをあたしのオンボロトラックで運ぶのは
大仕事なんだ。いくら人より力があるといっても、あんなデカブツはあたし一
人じゃ運べない。ハダリーを手伝わせればいいのだけど、あいつはいまの設定
だと繊細な仕事に向いていないから、調整する必要がある。傷を付けられない
ように毛布などで梱包した上で、ボロトラックの震動に負けないように、ハダ
リーの馬鹿力でがっちりと固定させないと。そうやって神経をすり減らして運
んでも、売れるかどうか分からないのだからやってられない。
 面倒の極みだ。

 あたしは吐き捨てるように言った。

「こっちに来させろよ、何様のつもりなんだ」

「租界の紳士淑女がたは、クーロン・ストリートまで来たがりませんからね。
裏通りともなると尚更です。一歩でも足を踏み入れれば、たちまち取って喰わ
れると思っているのでしょう。連絡をしてきたのも下人らしき男でした」

「だとしても、なぁ……」

 面倒なものは面倒だ。それに、租界に住む外国人どものクーロン人に対する
差別意識は病的なまでに強い。外国人専用のホテルなんかにあたしが顔を出し
たら、どんな扱いをされるか分かったものじゃない。わざわざ不愉快な思いを
してまで、新規の、それも一見かもしれない客にへつらうのはごめんだ。

「しかし社長、あのピアノは正直言って邪魔です」

 ぐ、とあたしは言葉に詰まる。ロートルの言う通りだ。あんな大物を、二週
間も在庫として抱えてしまっている時点で、すでに客を選り好みできるような
状況じゃなくなっている。本来なら、どんなにいい品物であろうと買い手が見
つかりそうになければ引き取ったりしないものを、あたしの判断のミスで在庫
にしてしまった。……だって、あまりにお買い得だったから。

「ここは社長の、売り込みの腕の見せどころでは」

 あたしにそんな腕はねえ。

16 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/06(土) 22:17:27

「向こうはいくらなら買うと言ってるの?」

「まず、こちらの言い値を聞きたいと」

「いくら吹っかけた?」

「百万クレジット」

 百万……。
 クーロン自治政府が発行している独自の貨幣竜貨≠ノ換算するなら、五千
万近い値段になる。半額まで値切られたとしても、あたしは大儲けだ。

「あのホテルはゼニ、持ってますよ」

 だとしても、財布の紐が緩いかどうかは別問題だ。こっちの足下を見て、露
骨に値切ってくるに違いない。だが、値段交渉さえうまく運べば七十万クレジ
ット前後で売れるかもしれない。仕入れ値が十万クレジットだということを考
えると、かなりボロい。

 ―――こんなでかい儲け話を見逃したら、阿嬌に呪い殺されちまうぜ。

「……分かったよ、行くよ。その場で売りつけてくれば、二度手間にはならな
いからね。せいぜい粘って値段を釣り上げてくるさ」

「気をつけてください。くれぐれも正面から入らないように」

「ドレスコードに引っかかるってか」

「それもありますが、社長は……その、まだ少々幼いです。それに色々と奇抜
です。火蜥蜴≠知らないかたが見れば、ストリートギャングと勘違いされ
かねません。警備員と交渉するのは、お嫌でしょう」

 はん、とあたしは鼻を鳴らす。

「だったら、ハダリーにスーツでも着せるさ」


                  * * * *


 明日はピアノの取り引きだけで半日は潰れそうだ。他にも、何件か引き取り
の依頼が入っている。あたしは手帳を開いて、今週の予定を確認した。
 ―――はっ、と目を見開く。
 今日の日程の欄に、書いた覚えのない落書きを見つけた。へたくそな百合の
花。線が歪んでいて、半端に閉じかけた傘のようだ。落書きの下には、特徴的
な丸文字で『あなただけの庭で待つ』と書き込まれている。
 あたしはこんな字を書かない。自分の手帳に落書きもしない。けど、この手
帳は常に肌身離さず持ち歩いている。誰かがあたしに気付かれないように書き
込むのは不可能だ。―――ということは、つまり。
 あたしは事務所の奥に引っこむと、眼帯をずらし、蜥蜴の眼≠ナ百合の落
書きを睨んだ。黄金の魔眼が、見えないはずの何かを霊視する。
 ―――微かに見て取れるのは、霊気の残留物。

 あたしは手帳を閉じると、ロートルに「今日はもう上がるから、あとよろし
く」と声をかけた。……不自然に声が低くならないよう、注意しながら。

17 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/07(日) 23:31:05


 事務所を後にしたあたしは、一階のガレージから蒸気機関(スチーム・エン
ジン)式のスクーターを引っ張り出した。
 通勤用に使っている自動二輪車だけど、蒸気機関は数秘機関と違ってでかい
しうるさいし危ないしで、動力装置としてはかなりお粗末だ。故障も多く、ス
ピードもあまり伸びない。「歩くよりはマシ」という程度の乗り物だ。
 因みに設計したのはあたし。シートの下にボイラーを設置するなんて、我な
がら正気の沙汰じゃないと思う。交通事故を起こせば文字通りケツに火がつく。
 もしトラックを買い換えることがあれば、いまの三輪トラックに積んである
数秘機関を使い回して、ゼロから通勤用の二輪車を作ろうかなとすら考えてい
た。蒸気機関は煤の掃除だけでも骨が折れる。手がかかりすぎるんだ。

 エンジンの構造上、ボイラーで燃料を燃やして作った蒸気がタービンを回し、
エネルギーを生み出すまでにはどうしても時間がかかる。ピストンがゆっくり
と動き始めるのを待っている間、あたしは手持ち無沙汰のまま、ハダリーが三
輪トラックから積み荷を下ろしていく様子を見守った。
 実によく働いている。

「社長、ヲ帰りデスカ」

 荷台を空っぽにしたハダリーが、あたしに近付いてくる。
 社長はやめろって、とあたしは苦笑した。

「明日、ちょっと面倒な仕事があるからさ。ハダリーにも手伝ってもらいたい
んだ。調整が必要だから、いつもより早く顔を出すよ」

「ハヰ、社長」

「留守は頼んだぜ。あたしは帰って寝る」

「ハヰ、社長。ヲ気ヲ付けテ」

 真鍮の排気管から蒸気が噴き出す。あたしはシートに跨ると、ハダリーに向
けて親指を立ててみせてから、グリップアクセルをおもむろに捻った。

 はい、社長。お気を付けて―――

 ……お気を付けて、か。

 ハダリーは、帰宅するあたしに「気を付けて」と言った。これは、別に蒸気
機関式スクーターが危険な乗り物だから注意しろ、というわけではない。
 例え徒歩で帰宅したとしても、ハダリーは同じように「気を付けて」と言っ
ただろう。―――あたしが家に帰ること、そのものが危ないんだ。
 
 だって、あたしは針の城≠ノ住んでいるから。
 
針の城≠ヘ、クーロンに数多く点在するスラムの中でも、行政機関がまった
く手出しをできない、唯一にして完全な無法地帯だ。
 犯罪の苗床。暴力の釜。自由の末路。―――不夜城<Nーロンにおいて、
針の城≠セけは夜を怖れず、夜を識り、夜に融け込む異界だった。
針の城≠ゥら距離を置く人間は、誰もが口を揃えてあのスラムはもはやクー
ロンじゃない。クーロンでありながら、別の世界だと言う。
 人外が跋扈し、魍魎が飛び回る魔界都市。
 ……でも、あたしは知っている。
針の城≠ェ異界なんじゃない。針の城∴ネ外の全てが異界なんだ。

 十二年前に始まった妖魔租界戦争∴ネ後、変わってしまったクーロンにお
いて、針の城≠セけはかつての在り方を維持した。
 つまり、人と人外の間に垣根のない、真の意味での無法都市。
針の城≠アそクーロンの本当の姿だと、あたしは信じてる。

18 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/08(月) 23:39:04


 純粋なクーロン生まれクーロン育ちで学校に通えるガキなんて滅多にいない
けれど、このリージョンで生活する者なら、誰もが知る歴史がある。
 それが「妖魔租界戦争と紅の魔人」だ。

 いまでこそ人外は排斥され、人間の社会が根付くクーロンだけど、十二年前
まではそうじゃなかった。ファシナトゥール系妖魔貴族が居留する妖魔租界
から溢れ出した魔性の輩が、我がもの顔でクーロン・ストリートを闊歩した。
 あたしみたいな半端物が白い目で見られることもなく、人間は夜を恐れなが
らも、それなりに敬意をもって夜を受け容れていた。
 ……もちろん、あたしはその時代を知らない。生まれてはいたはずだけど、
記憶が欠落している。何より幼かった。全部、阿嬌やロートルから聞いた話だ。

 クーロンは歴史の始まりからずっと人間の社会だ。なぜそこに妖魔居留区な
んかが設けられ、人間は自らの立場を危うくしたのか。

 妖魔租界は、シリウス領事という役人が自治行政担当として管理していたら
しいが、シリウスは爵位を持つ妖魔貴族で、居留地とは名ばかりで、領事とい
うより領主≠ニ呼んだほうが正しい支配政治を強いていたらしい。
 軍を駐留させ、領事館という居城≠作り、シリウスは妖魔租界を「第二
のファシナトゥール」と呼んだ。

 侵略行為にも等しいシリウスの強気な外交政策に、クーロン自治政府はなぜ
反発しなかったのか。どうして唯々諾々と人外の流入を受け容れたのか。
 ……答えは簡単で、そんな力がなかったからだ。
 国営のリージョン間シップ・ターミナルが赤字続きで借金だらけのクーロン
自治政府は、土地を貸し、治外法権を与える代わりに国家予算規模の税収を妖
魔租界から得ていた。
 それに、自治政府の腐敗は凄まじく、クーロン・マフィアの操り人形と化し
ていた。クーロン・マフィアをスポンサードしていたのはファシナトゥールを
頂点に仰ぐ妖魔貴族社会だ。
 自治政府と妖魔租界の力関係は歴然としていた。

 君主がオルロワージュからアセルスに代替わりしてから、ファシナトゥール
は積極的に外の世界と関わりを持とうと試みている。各リージョンに、固有の
領地と独自の支配体制を持つ諸侯を置き、全リージョンに睨みを利かせていた。
 百年前まで、ファシナトゥールは人間社会とは完全に隔絶された幻のリージ
ョンだったらしいけど、いまは堂々たる人類の天敵≠セ。
 シリウスも、リージョンに散らばる諸侯のひとりというわけだ。

 シリウスは、妖魔貴族らしからぬ無頼の男だったらしい。豪胆かつ寛容な気
性の持ち主で、故郷の空気を嫌い、ぐつぐつと煮えたぎるクーロンの鉄火な空
気を好んだ。「第二のファシナトゥール」なんて呼びながら、シリウスがクー
ロンに作ろうとしたのは、ファシナトゥールとは別種の常夜だ。

 妖魔や魔物の社会は、出自ですべてが決まる。人間なんかよりはるかに厳し
い縦社会だ。卑しい種に生まれた魔物は永久に卑しく、上級妖魔はただそれだ
けで悠久の夜を怠惰に遊んで暮らせる。
 妖魔公アセルスは人間出身のせいか、実力のあるものを積極的に取り立てる
らしいけど、諸侯の領主たちはいまでも昔からの風習に従っている。
 シリウスはそんな息の詰まる妖魔のやり方を嫌った。渾沌を愛し、あらゆる
ものを受け容れると宣言した。それは人間すらも歓迎するという意味だ。
 結果、租界には一発奮起のチャンスを求める荒くれ者が溢れ、人間も妖魔も
魔物も、「いつの日か成り上がる」という純粋な目的の下、共存を始めた。

19 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/08(月) 23:39:16


 格差は広がった。
 貧困が蔓延した。
 スラムが巨大化した。
 治安は最悪だった。
 クーロンは魔術品や概念武装の非合法販売のメッカとなり、一箇所に魔力が
極端に集中したため、地盤が耐えきれず奈落墜ち≠フ危険が高まった。
 シリウスは、「人も妖魔も平等」という言葉を好んで使った。価値を決める
のは、出自ではなく金だと。
 そんなシリウスの政策から、人はクーロンを「誰もが平等に命の価値がない
リージョン」と揶揄した。人が魔物が妖魔が、あまりに簡単に生まれて、あま
りに簡単に死んでしまうから。

 妖魔租界に支配されたクーロンの生と死で満たされた渾沌の街だった。平和
とはあまりに程遠く、安寧はどこにもなかった。
 けど、当時のクーロンを知るひとは誰もが口を揃えてこう言う。

 ―――あの頃は自由だった、と。



 在りし日の自由を見失い、あたしは不自由の現在を生きる。



 妖魔租界の崩壊と魔界都市の消失は、十二年前に訪れる。話は伝説じみて、
誰も詳細な経緯を知らない。憶測が憶測を呼びながら、人は変化を受け容れる。

 ……ロマンもドラマも抜きに語れば、クーロン自治政府は浄化政策を打ち出
し、それに伴い(実質機能していなかった)警察権を放棄。治安維持をIRPOに
委託し、シップ・ターミナルを民営化した。
 さらに自治政府は、租界政策を妖魔だけではなく、シュライクやトリニティ
など他のリージョンにも適用。治外法権を安売りし、外企業を貪欲に誘致した。
 国土は切り売りされ、行政の執行力も失い、自治政府は完全に看板だけの存
在となったが、妖魔の言いなりになるよりかはマシ―――というのが、当時の
首脳陣の判断だったのだろう。IRPOとの闘争の結果、妖魔租界はお取り潰し。
浄化政策は成功し、潔癖なまでに人外を拒む風潮が生まれた結果を考えると、
自治政府の政策は成功したと云える。

 でも、そんなのはあくまで表向きの歴史だ。

 シリウスはIRPOが嘴を突っ込んできただけ引っこむようなタマじゃない。
 妖魔租界と、魔界都市と化したクーロンは、貧弱な自治政府が浄化を試みた
ところで掃除しきれるようなお手軽な汚れ≠カゃない。

 講談師は語る。吟遊詩人は謳う。

 ―――これは、紅の魔人と涙の赤児の物語。

 十二年前、妖魔租界のスラムに忌み子が生まれた。それは人間の子でありな
がら、妖魔すらも脅かす夜の結晶≠セった。
 シリウスはただちに、赤児をファシナトゥールへ送れと指示した。君主アセ
ルスならば正しい処理ができるはずだ、と。
 ……だが、赤児がクーロンを出ることはなかった。

 紅の魔人が上陸したからだ。

20 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/09(火) 00:35:04


 逆立つ炎の赤毛を持ち、燃える双眸で世界を見下す男。その容姿と、炎の魔
術を得意とすることから紅の魔人≠ニ呼ばれるようになったものの、彼が何
者なのか、人間なのか、妖魔なのか。どこから来たのか。なぜ、クーロンに訪
れたのか。……誰も知らない。愉快なまでに一切が謎に包まれている。

 紅の魔人は、妖魔の手から予言の赤児≠守るため、剣をとって戦った。
孤独な戦いにも限らず、シリウスを討ち滅ぼし、妖魔租界を火の海に包み、ク
ーロン・マフィアを壊滅に追いやった。

 ロートルは当時、黒社会の歴としたメンバーだったし、阿嬌もマフィアと共
存関係を築いた上で非合法の密を啜っていた。つまり、二人とも紅の魔人とは
某かのかたちで敵対関係にあったはずなんだけど……ロートルは、紅の魔人の
ことについては頑なに口を閉ざしているし、阿嬌は阿嬌で妖魔租界戦争前も戦
争後も、変わらずに商売を続けていたため、どんな関わりを持ったのかは分か
らない。他の住人にしたってそうだ。誰もが深くは語りたがらず、また語るほ
どの情報を持ち合わせていない。
 紅の魔人は、実在したはずなのに、あまりに非現実な存在だった。

 だけど、このリージョンに生きる人間ならば、それが四歳の子であろうと、
クーロンから妖魔を追い出したのは紅の魔人だ、と断言する。

 彼は英雄になれたかもしれない男だった。でも、なれなかった。
 妖魔との戦争に巻き添えに幾千という一般人が命を落とした経緯と、予言
の赤児≠守り抜いた後、妖魔租界跡地に立て籠もり、赤児を監禁したことで、
後の歴史の評価は決まった。紅の魔人は英雄ではなく、奸雄と成り果てた。

 伝説の後日談。皮肉にして数奇な現実は、ここから始まる。

 シリウスは討たれ、妖魔租界は滅びた。紅の魔人と妖魔との抗争のどさくさ
に紛れて、自治政府は浄化政策を打ち出し、IRPOはクーロンの警察権を握った。
 領地を失ったことでアセルスは激怒したというけれど、租界政策で多くの政
府や企業が参画し、IRPOが厳重に目を光らせるクーロンに兵を送るような真似
をすれば、下手をしなくても大戦争に発展する。君主としては、屈辱に耐える
しかなかったのだろう。今日までファシナトゥールが、クーロンに対して何ら
かのアクションをとったという話は聞かない。

 租界政策で、クーロンはすべての土地を外国に貸し出してしまったのかとい
うと、実はひとつだけ、自治政府が保有する地区がある。
 それが、かつての妖魔租界。―――現在の針の城≠セ。

 妖魔租界が灰となった場所で、紅の魔人は瀕死の裏社会をまとめ上げ、自ら
が新たな闇の頂点に立った。新生クーロン・マフィアのボス誕生だ。

 新生クーロン・マフィアのアジトとなった妖魔租界跡地には、行き場を失っ
た下級妖魔や魔物が集い、スラムを形成し始めた。
 難民の流入数に対して土地の面積が圧倒的に不足していたため、空まで届き
そうなペンシルビルが手抜き工事のまま次から次へと建ち並び、瞬く間にその
数は百を超えた。無計画な増築が繰り返され、街路は迷路と化した。四方をビ
ルに囲まれ、玄関からの立ち入りは不可能な建造物まで生まれた。

 肩を寄せ合うように密集したビルは、それぞれがそれぞれの傾きを支えるよ
うに建っているため、遠目からまるで一個の城塞のように見える。そして、針
のように天へと数多のビルが伸びる様から、人はやがてこのスラムを針の城
と呼ぶようになった。―――迷宮にして魔宮のスラムは、いまでも。「針の
城≠ノは一回入ると出てこられない」と怖れられている。

21 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/11(木) 18:53:01



 妖魔租界跡地―――つまり、針の城≠フ行政権はクーロン自治政府が有し
ているのだけど、警察権を放棄した自治政府は執行権を持たない。IRPOも手が
出せない完全な無法地帯である針の城≠ノは、人外のみならず人間の犯罪者
が逃げ込み、赤児が捨てられ、渾沌の様相を生み出した。
 皮肉にも、紅の魔人は自分が滅ぼしたクーロンの自由と渾沌を自分が作った
針の城≠ノ再現したというわけだ。

 ……そしてあたしは、そんな針の城≠フ住人のひとり。半端物らしく、自
由と束縛の境界を行ったり来たりしている。


                  * * * *


 一歩でも足を踏み入れただけで、世界≠ェ転じたことが分かる。
 不快を誘う湿度の高さに、回収されないまま放置されたゴミの臭い。極端に
人口密度が高いはずなのに、なぜか見かけることの叶わない人影。
 ―――そんな、どこにでもあるスラムの陰気さなんて問題にならない。あた
しがいま感じているのは、もっと根源的な畏れだ。あたしの中の人間の部分が
悲鳴をあげ、火蜥蜴の部分は帰還に悦ぶ。

 道―――というよりも、ビルとビルの隙間を縫って城内≠ノ入ったあたし
は、スクーターを引きずりながら慎重に足を進めた。
針の城≠ヘまず建物ありきで、そこから道が生まれた。路地のみで構成され
た特異の区画だから、自動車や馬車が通るような真っ当な街道はない。
 路地は狭く曲がりうねり、路上にはゴミやら屍体やら散乱しているため、ス
クーターで走り抜けるのも難しかった。
針の城≠フ移動手段は、自らの足だけ。……それは横≠カゃなくて縦
の移動についても同じ。中層ビルが森のように建ち並んでいるのに、エレベー
ターが設置されているビルはひとつもない。
 老人に冷たい街だった。

 夜空はビルの槍衾に阻まれて、月はおろか星すら隠れている。屋外にいるは
ずなのに、まるでどこかの地下室にでも閉じ込められているかのように暗い。
 行政が管理を放棄している針の城≠ノは、電気もガス灯も魔術煌も通って
おらず、上水も下水も詰まったまま放置されていた。公共機関はまったく機能
していない代わりに、個々人が闇業者と契約して、電気を通させたり、水道を
引かせたりしている。金が無ければ、トイレすらまともに使えない。

 つと、背筋に――いや、もっと上だ――うなじの辺りに寒気が走った。なに
かが、あたしの背後を無音で通過した。けど、後ろを振り返っても目に付くの
は静寂に蝕まれたスラムの景色だけ。
 ……人間の目≠ナは、なにも視えない。
 風もないのにゴミ缶の蓋が跳ね、頭上の看板がぎいぎいと揺れた。耳をすま
せば、亡者どもの囁き声が聞こえてきそうだ。……あたしの手は、自然と右眼
の眼帯へと伸びてしまう。視えないこと≠ェ、苦しくてたまらない。

 でも、駄目だ。

蜥蜴の眼≠開けば、街並みは一変するだろう。肉を持たない非実体の生命
を、たちどころに視認するだろう。針の城≠ヘいまこの瞬間、あらゆる路地
で、あらゆる種の生き物が夜に沸き返っている。……ただ、視えないだけで。
 視えないというのは、それだけで不安に繋がる。例え対処はできずとも、視
えてくれれば取りあえずの安心を抱ける。ましてあたしの場合、蜥蜴の眼
という、この異界にピントを合わせる道具を持っているんだ。
 使いたくてたまらない。視たくてたまらない。

 でも、我慢しなくちゃ。

22 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/12(金) 01:48:42


 あたしの右眼は奇蹟の産物。その能力は霊視に留まらない。……けど、それ
を操るあたし自身といえば、ちょっと頑丈なだけの人間で、特筆すべき魔術的
素養なんて持ち合わせていない。魔術回路も当然、ない。
 だから畸形なんだ。分不相応なパーツを持って生まれてきてしまった。
 本来、視えないはずのもの視て、操れないものを操り、介在できない事象に
介在してしまうんだから、そのツケは必ず躰のどこかで支払わされる。
 不可を超えれば脳は死に、あたしは廃人コース一直線。

『ご利用は計画的に。健康のためにも、使用は一日一時間。休憩を忘れずに』

蜥蜴の眼≠診て、あたしの主治医はそう言った。
 あたしが眼帯で右眼を隠しているのもそのせいだ。眼帯は裏に悉曇梵字の護
符が縫いつけられていて、強制的に魔眼の効果を眠らせてしまう。これのお陰
であたしは失明もせず、安心して日常生活を営むことができている。

 あたしは自分の右眼を使いこなせていない。
 異能の力を支配していない。
 あたしは人間じゃないけれど、さりとて歴とした人外というわけでもない。
針の城≠ノ戻る度に、その現実を思い知らされる。あたしは針の城≠ノ住
んでいるけれど、針の城≠フすべてが視えているわけじゃなかった。人間の
チャンネルに繋いだままで、人外たちと交流していかなければならない。

 地縛霊や浮遊霊といった怪奇な住人たちの存在を視覚じゃなく肌で感じなが
ら、路地からビルの裏口へと入る。あたしが通ってきた道からは、正面玄関ま
で回れなかった。もっぱら利用するのは裏口ばかり。正面玄関からどうすれば
針の城≠フ外に繋がっているか、あたしは知らなかった。
 誇張ではなく、ここの街路は迷路であり、誰ひとりとして全体図は把握して
いない。地図なんて当然ないから、居住しているビルから少しでも離れてしま
うと、住民でも道に迷うことになる。

針の城≠ヘバームクーヘンよろしく同心円状に広がっていて、階層は全部で
十に分かれている。これが大雑把な住所になっていた。
 紅の魔人が居住するとされている中心部分は火焔天≠ニ呼ばれ、そこから
第一層月天=A第二層水星天=A第三層金星天≠ニ各層が重なっていく。
中心に近いほど魔の瘴気が強くなり、外周に近いほど人間の比率が高くなった。
 この層ごとの名称は天国の構造から引用しているらしく、あたしは針の城
を天国に見立てるなんて狂気の沙汰だと思ったけれど、天国の場合は外周ほど
光に近付き、中心ほど至高から遠ざかると知って感想を改めた。火焔天≠ヘ
もっとも神から遠く、もっとも地獄に近いというのなら、これは皮肉の産物だ。

 因みにあたしが住んでいるのは、第七層土星天=B
 階層まるごと業者と契約しているためインフラが充実し、自警団も組織され
ているため比較的治安がいい。適度に外から離れていて、適度に中心から遠い
ため、住み心地も悪くなかった。針の城≠フ高級住宅区といったところか。
 ……住むのは手抜き工事で老朽化の激しいペンシルビルだけど。

 あたしが住んでいるのは地上八階。
 エレベーターはないから階段を使う。もちろんスクーターも一緒だ。いくら
治安がよくても、ここはスラム。下に置きっぱなしにすれば、たちまちパーツ
は盗まれ、怨霊に憑かれ、幸運に見放される。

 痩せ身の少女が軽々と肩にスクーターを担いで階段を昇る様は異様の一語に
尽きるだろう。蒸気エンジン搭載のスクーターを八階まで運ぶなんて、成人男
性が三人いても重労働だ。あたしもこの時ばかりは、自分の怪力に感謝する。

23 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/12(金) 18:48:41


 八階に昇るまで誰とも顔を会わさなかった。ビルの階段は狭く、人とすれ違
うには壁に身を寄せなければいけないから、デカブツを担いでいるあたしとし
ては助かるんだけど……これはちょっと、不自然だ。ここはもう屋内なのに。
針の城≠フ住民は、夜空の下に出たがらない。ビルからビルへと移動し、地
下道を通って各層と連絡する。屋外は風通しが良すぎて不愉快らしい。
 建物には建築者が当初想定した定員の三倍から十倍の人数が居住しているの
が常で、それはこのビルだって例外じゃない。あたしみたいにひとりで部屋を
独占している住人は珍しく、九割方はルームシェアだ。
 ……まぁ一年前までは、あたしもマーマと同居していたんだけど。

 いつもなら、狭すぎて部屋から追い出された人間やら下級妖魔やらが一人や
二人は階段の踊り場で暇そうにしているものなのに。今日は一人も見かけない。
みんなぴっちりと玄関のドアを閉めて、部屋の中に閉じこもっているようだ。

 ……なにかを怖れているのか?
 腹をすかした猫の侵入に気付いて、震え上がる鼠のように。
 日常を遠ざける異分子が、ここにいるのか。
 異物に敏感な隣人たちが、気配を感じ取ってしまったのか。

 ―――あなただけの庭で待つ、ねぇ。

 悪い予感をひしひしと覚えながら、自分の部屋の玄関の前で、あたしは担い
でいたスクーターを下ろした。
 眼帯をずらして、玄関の扉に施した地縛錠≠霊視する。
 ロックの数は合計八つ。アナログが三つに、オカルトが五つだ。あたしはポ
ケットからキーを取り出してアナログの錠前をさっさと解錠すると、オカルト
のほうも使い捨ての護符で簡易除霊した。
地縛錠≠ヘ特定の式で構成された人造霊だ。式に適合した護符じゃなければ
除霊は叶わない。この護符がキーの役目を果たす。

 この地縛錠≠ヘあたしのアイデアなんだけれど、隣人たちの受けはいまい
ちだ。彼等にはもともと施錠という習慣がないし、地縛錠≠ヘ鍵を開けるた
びにいちいち地縛錠≠ェ成仏してしまうから、コストパフォーマンスが悪す
ぎるんだとか。こんな単純な式鬼ぐらい自分で組めと言ってやりたいけど、こ
ういった神秘の模造や編集はあくまで人の技。妖魔や魔族には馴染みがない。
 人外が使う異能は、生まれつき備わっているものばかりだ。

 すべてのロックを解除すると、あたしはゆっくりと息を吸ってから、扉を開
けた。……覚悟は決めているし、だいたいの予想もついている。

 ―――耳に響くのは、どたた、と廊下を駆け抜ける音。だん、とフローリン
グの床を蹴り付ける音。ぼす、とあたしの胸に衝撃が走る音。

 ハウンズ・トゥースのスカートが翻る。視界に飛び込んできたのは、みどり
の黒髪を腰まで伸ばしたうら若き少女。妙齢にすら程遠いガキだ。

「回来了(ホゥエライラ)! おかえりなさい、イーリン!」

 普通、この勢いで体当たりを喰らったら、あたしみたいに体重が軽い女は尻
餅をつくもんだ。……けどまぁ、知っての通りあたしは普通じゃない。
 突っ立ったまま、ぐらりともバランスを崩さずに体当たりを受け容れる。
 ついでに、腰に回された両腕を振りほどき、あたしに抱きついてきた少女を
玄関の奥へ突き戻した。―――そして、後ろ手で素早くドアを閉める。

24 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/12(金) 23:56:22


「いったーい」

 あたしに突き飛ばされて転倒した少女は、立ち上がるとわざとらしくスカー
トの裾を整え、帽子を被り直した。あたしが睨んでばかりで返事をしないこと
に気付くと、もう一度「いたーい」と唇を突き出す。
 
 ―――あたしの部屋は、玄関だけではなく、窓という窓に、物理的にも霊的
にもロックをかけてある。セキュリティは鉄壁で、空き巣が入る余地はない。
 物理法則に縛られない非実体の霊体ならば壁を抜けて侵入することも可能だ
ろうけど、目の前の少女は肉を持つ実体だ。
 鍵が破壊された形跡はない。もし強力な呪術を上書きして力ずくで地縛錠
を解錠すれば、人造霊の断末魔が護符まで届く。
 ……前述した通り、あたしはひとり暮らし。当然、ルームメイトもいない。
 なら、この娘はどうやってあたしの部屋に入ってきたのか。

 ちっ―――と舌を打つ。

「なんのつもりだ」

 あたしの批難めいた言葉に、娘は「なにが?」と首を傾げた。

「あなたの手帳に、勝手に落書きしてしまったことかしら。それとも、ノック
もせずにお邪魔してしまったこと? ……あ、もしかして、冷蔵庫にあった桃
包(タオバオ)を食べちゃったのがまずかった」

「違う。あんたが―――」

「リリーよ」

 ぐ、と声が詰まる。

「わたしのことはリリーって呼んで。そう言ったでしょ?」

 僅かな媚びをたたえた囁くように穏やかな声音。なのに、言葉はあたしの深
層意識にまでもぐりこみ、脳に「リリー」の名を強制的に焼き付ける。
 声を媒体にして、精神に直接侵入するクラッキング。この娘―――リリーの
恐ろしいところは、それを無意識に、ただ唇を動かすだけで呪いとして成立さ
せてしまうことだ。彼女が会話を試みれば、それだけで人は理性を消失する。

 でも―――あたしには通用しない。

 がり、と奥歯を噛み締める。

「おい、てめえ=v

 誘惑(チャーム)呪いなんてクソ喰らえだ。どんなに高圧縮された言霊をぶ
つけられようと、それが霊的侵入である以上、あたしには通用しない。
 体内で、リリーの呪いが解呪(ディスペル)されてゆく。
 あたしの躰は―――蜥蜴の肉は、あらゆる霊的、呪的作用をキャンセルする
働きを持っていた。なぜかは知らないけど、生まれつきそういう体質になって
いた。だから、瘴気の濃い針の城≠ナも、あたしは呪詛を体内に溜めること
なく、平然と生活していけるんだ。

25 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/12(金) 23:56:36

 蜥蜴の刺青。
 蜥蜴の眼。
 蜥蜴の肉。
 蜥蜴づくしのあたしは、しかし脳みそだけは人間のまま。いつまで過分の才
質に溺れていられることやら。廃人へと至る日は、そう遠くはない。

「や、リリーって呼んで」

 リリーはかわいらしく(そして小憎たらしく)頬を膨らませるけど、この声
にも、やはり呪いが孕んでいる。つくづく物騒な小娘だ。
 
 二度目の舌打ち。

「お転婆娘のレイ・バイホー。あんたは、ここに来るまで、どこかで寄り道な
んてしてやいないだろうな。大人しく、ここであたしの帰りを待っていたんだ
ろうな。―――どうなんだ、え?」

 リリーはふっと微笑をこぼす。小娘らしからぬ妖艶な笑み。

「大丈夫。バベッジ・タワー≠フ屋上から、クーロン・ストリートの夜景を
眺めていただけよ。それもたったの二十分。イーリンがあたしの伝魂(でんご
ん)に、すぐに気付いてくれたから」

 二十分も?! それにバベッジ・タワーだって!?

 バベッジ・タワーは第十層至高天≠ノ建つ、針の城≠ナもっとも高い建
築物だ。針の城≠ヘ中心に近付くほど建物が低くなり、外環に近付くほど高
くなる。つまり、バベッジ・タワーは針の城≠フ最外周部というわけだ。

 こいつの足は、もうそこまで跳べるようになったのか!

 バベッジ・タワーの屋上までジャンプできるのなら、この針の城≠ナ彼女
の足が届かない場所はない。地下銀行の金庫だろうが、連れ込み宿の寝室だろ
うが、すべて彼女の庭先に等しい。あたしの部屋に侵入するなんて朝飯前だ。

 なんてことだ……。

「誰にも見られなかっただろうな」

「さあ」

 リリーは無責任に肩を竦める。

「見られたってへっちゃらよ。わたしを見て平気なやつなんて、イーリンとダ
ージョンぐらいだもの。後はみーんな、わたしの虜」

 だから告げ口の心配はいらないわ。そう言って、魔性の娘はくすくすと笑う。
 ……あたしは、戦慄を隠せない。
 ダージョン―――大兄(ダージョン)と大凶(ダーション)をかけた紅の
魔人≠フ異名。クーロン・マフィアの構成員は針の城≠フ城主をそう呼ぶ。
 逆に、堅気ならば決してその名は口にしない。
紅の魔人≠ヘあくまで伝説のキャラクターだけど、ダージョンはクーロンの
支配者。妖魔貴族やIRPOすら歯牙にかけない暴力と恐怖の象徴だからだ。
 ……それをこうも軽々しく呼び捨てにするなんて。

26 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 01:36:16


 レイ・バイホー。「涙」と書いてレイ≠ニ読み、「百合」と書いてバイ
ホー≠ニ読む。故に彼女は、縁あるものから涙姫(れいひめ)≠ニ呼ばれ、
あたしには百合(リリー)≠ニ呼ばせたがる。

 ―――彼女もまた、紅の魔人と同様に、伝説上のキャラクターだった。

 吟遊詩人は謳い、講談師は語る。

 妖魔租界戦争は、スラムに赤児が生まれ落ちたことにより始まった。シリウ
ス男爵は赤児の始末を企み、紅の魔人は赤児の護るために戦った。やがて妖魔
租界は炎上し、一千の人間と、一万の妖魔が命を落とす。
 ……すべては一人の赤児が原因。

 凶児は火焔天の最奥に監禁され、紅の魔人は奇蹟を独占した。

 リリーが―――あたしの目の前にいる色白の少女が、やたらとませたクソガ
キが、その運命の赤児<Tマだっていうのか。
 初めはあたしも信じなかった。
 紅の魔人も運命の赤児も、あたしにとってはおとぎ話の中の存在だ。妖魔租
界戦争も、人づてに聞いて知識を備えただけで経験はしていない。すべては記
録。すべては情報。現実味なんてあるはずもない。

 けど、現実としてリリーはここにいる。
 常識では考えられないほど莫大な妖力を内包し、歩くだけで霊瘴を呼び覚ま
し、淫魔すら狂わす微笑をあたしに向けている。
 こんな、魔性の権化のような存在が自然に発生するものなのか。いくら魑魅
魍魎が跋扈する針の城≠ナも、ここまで常識外れなバケモノがいるはずない。
 リリーの存在の桁外れな特異さが、運命の赤児本人であることに強烈な説得
力を加えていた。
 まさに奇蹟の申し子。
 ……いや、リリーの属性(アライメント)を考えるなら、反奇蹟の産物。
 渾沌の寵児だ。

 じゃあどうして、そんなバケモノがあたしの部屋にいるのか。

 ―――あたしとリリーの出会いは、あたしから言わせれば偶然。彼女の見解
では必然かつ運命的に行われた。

針の城≠ノは、未舗装の霊走路網が縦横無尽に走っている。霊脈とも呼ばれ
るエネルギーの流れは、属性が無垢なため指向を持たず、悪用すれば容易に災
厄を呼び起こせる。だから普通は行政が管理し、しっかりと舗装をするものな
のだけれど、針の城≠ヘ無政府地帯。霊走路網は放置され、漏れた霊気は超
常の現象を誘発する。

 五年前。物心がついたときから続いている鳥篭生活に飽き飽きとしていたリ
リーは、日に日に増大していく妖力があるレベルを超えたとき、この持て余し
気味の才覚の利用方法を唐突に思い付いた。

 奇門遁甲の方位術を応用して、霊走路を走ってみてはどうかしら?

 霊走路をトンネルに見立てて、霊脈の流れに乗る。これならば、針の城
のあらゆる場所に移動が可能だ。霊走路が続く限り、無限の距離をゼロに変え
られる。同じ瞬間移動でも転移(アポート)ではないため、出口も入り口も必
要ない。だから足跡も残らない。―――これならば、鳥篭から羽ばたけるわ。

27 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 01:40:30


 街路の地図すらない針の城≠ナ、五次元に広がる霊走路網を把握している
ものなどいるはずがない。ダージョンですら、霊走路を利用した瞬間移動なん
て思い付きはしないだろう。あまりに現実味がないからだ。
 だけど、リリーは不可能と可能に変えた。
 霊走路網の流れを読み解くのではなく、自分の都合が良いように作り替えて
しまった。火焔天に閉じ込められながらにして。五年の歳月を費やして。

 リリーが七つの歳に始めた秘密工事≠ヘ十二の歳で落成した。
 霊脈は、人体に例えるなら血管に等しい。針の城≠フ血液の流れを掌握し
たということは、針の城≠フ霊的要素を完全に管理下に置いたということ。
 彼女はこの針の城≠ナ、神にも等しい力を手にしたわけだ。……たったの
五年で。「外に出たい」という、それだけの理由のために。

 ―――こうして、霊走路の管理権を握ったリリーは、仙人が千年の修行の果
てに修得する縮地法≠十二歳にして独学し、鳥篭から飛び出した。

 ……飛び出したまま、道に迷った。

 生まれて初めて夜空の下を歩いたリリーは、霊脈の流れは知っていても、ど
こをどう進めば、どこに繋がるのか。第五層はどこで、第十層はどこなのか、
まったく分からなかった。
 通りすがりの背後霊に道を尋ねようにも、リリーの美貌は見る者を狂わせ、
リリーの声は聞く者の正気を奪う。誰も彼女とは話せないし、出会うことすら
できない。―――火蜥蜴≠フイーリン様を除いては。

「言っておくけど、偶然じゃないんだから」

 リリーは運命≠しつこく強調する。

「わたしはちゃんと、いついつどの時間にイーリンがどの座標に出現するのか、
予言した上でジャンプしたんだから。片っ端から『あのー』なんて話しかけて、
わたしとお話しできる当たりくじ≠引くのを待っていたら、外れくじが溜
まりすぎて、魔導災害が起こっていたわ」

「自慢げに言うことじゃないだろ」

 魔王の一人娘みたいなやつに、唐突に抱きつかれたこっちの身にもなってみ
ろ。―――あのときのリリーは途方に暮れて、藁にも縋る思いであたしを頼っ
てきた。いままで、ダージョン以外の生物と接触をしたことがなかったリリー
は、まさか自分が誰からも拒まれる存在だなんて思ってもみなかったんだ。
 外にさえ出れば、自分は森の中の木に過ぎない。そう考えていた。

 だからリリーは歓喜した。感謝した。絶望の中で、光を見出した。
運命の赤児≠フ魔性をキャンセルする火蜥蜴≠フ存在は、彼女が生まれて
初めて知るダージョン以外の他人≠ナあり、長らく続いた退屈を破壊してく
れる白馬の王子様だったというわけだ。

 ……あたしには、鳥のすりこみとしか思えないけどね。

 リリーは家出をしたわけじゃない。縮地を使って散歩≠するようになっ
ただけだ。ダージョンの監視の目を逃れて外に飛び出し、ダージョンに気付か
れる前に火焔天≠ノ戻る。ダージョンは間抜けではないから、迂闊にジャン
プはできない。精々、週に二回か三回。それも一時間以内。
 限られた自由の時間は、ほぼすべて、あたしとの交流に費やしている。

28 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 19:16:17


 リビング。リリーは三人掛けのソファに寝転がり、ブーツのヒールを肘掛け
に乗せている。……大したくつろぎようだ。そして、お嬢様の行いとしては少
々はしたない。きっと彼女は、こういったなんでもない自由≠フひとつひと
つが愉快でたまらないんだろう。

「さあ―――今夜は、どんなお話をしてくれるのかしら」

 ソファに膝を立て、猫のようなポーズであたしを見る。期待に輝く瞳の色は、
どこまでも深い漆黒。十二歳とは思えない蠱惑に満ちた表情は、同性のあたし
ですら胸を騒がせる。
 リリーは、あたしとは違った意味での畸形だ。幼くして艶めく明眸を身につ
けているなんて、畸形と呼ばずになんて呼ぶ。

「話なんてしない」

 あたしは目を合わせないように気を付けながら、ぶすりと応じる。

「あたしはシャワー浴びて着替えたらすぐに出かけるから、あんたは帰れ」

 リリーはがばっと身を起こし、両手を胸の前で組んだ。

「シャワー! それって素晴らしい!」

「は?」

「わたしね、わたし以外の誰かの裸って見たことないの。それに、誰かと一緒
にお風呂に入ったこともないのよ。生まれて初めて≠、一度に二度も体験
できるなんて、まるで夢のよう」

「……」

「ああ、早くイーリンのやせっぽちな裸が見たいわ」

「……」

 あたしはバスルームに向いていた足をくるりと反転させ、台所に向かった。
「あら、どうしたの」とリリー。「お風呂しないの?」とあたしの背中に問い
掛けてくる。……答える気力は、あたしにはない。
 冷蔵庫からオレンジジュースの紙パックを取り出し、直接口につける。濃縮
された甘味が喉に広がり、あたしの心に平穏をもたらす。

「わたし、イーリンのやせっぽちな―――」

「いや、繰り返さなくていいから」

 駄目だ。無視するなんて無理だ。
 
「……なあ、頼むから帰ってくれよ。あんたは、自分がどんだけヤバいモンス
ターなのか分かっちゃいないんだ。もし、こんなところで故買屋の女なんかと
密会していることがばれたら、ただじゃ済まされないぜ」

 ふん、とリリーは顔を背けた。

「ダージョンがわたしに何かできるはずがないわ。あいつは絶対にわたしを手
放せないもの。せいぜい、ちょっとお小言をもらうだけ」

29 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 19:16:29


「あんたはそうかもしれないけどさ……」

 一般人のあたしはそうもいかない。
 クーロン・マフィアのボスに目をつけらてしまったら、このリージョンで生
き残る術はない。次の日には死体すら残さず始末されて、成仏できない魂が怨
霊となって針の城≠フ景観を彩ることになる。
 冗談じゃなかった。リリーはその強大な妖力を無視しても、運命の赤児
というだけで特大の危険を孕んでいる。
 ヤバそうなものには近寄らない、それがクーロンで生きる者の鉄則なんだ。

「安心して。わたしが守るから」

「……災厄の化身が、よくもしれっと言いやがる」

 空になった紙パックをゴミ箱に叩き込む。リリーはソファから立ち上がると、
「わたしに考えがあるの」と力強く言った。
 ……こいつは基本的にも応用的にも、あたしの都合とか立場とか迷惑とかは、
心底どうでもいいと思っているらしい。

 ―――そこで、ふとあたしは気付く。

「あんた、その服」

 スカートの丈がくるぶしまで伸びたハウンズ・トゥースのワンピース。ノー
スリーブでは冷えるのか、剥き出しの肩はレースのカーディガンで隠している。
 室内だというのに脱ごうとしない純白の帽子はつばが広く、日傘の役割を果
たしてくれそうだ。―――いかにも淑女然とした服装は、確かにかわいらしい
んだけど……なんか、いつもと違う。
 リリーとはもう十回近く密会を重ねている。これまで彼女が着てきた服はお
およそ実用的とは言い難いドレスのような衣装ばかりだった。
 なのに、今日はまるで旅装のような出で立ち。というか、旅装そのものだ。
よくよく見ると、ソファの脇には革張りのトランクまで置いてある。

「なにその格好」

「だから、考えがあるの」

 聞きたくない。が、無視してもリリーは勝手にしゃべる。

「わたし、もう帰るのやめたわ。お散歩はお終い。今日からは世界中を旅して
回るわ。もっと外へ、もっと広い場所へ! もう火焔天には絶対に帰らない」

 だからそんな格好しているのか。

「あ、そう。いってらっしゃーい」

「イーリンも行くのよ?」

「……いや、行かないし」

 このガキはなにを言ってるんだ。

 リリーが外≠ヨと行きたがっているのは知っている。彼女の目的は、初め
から一貫して揺るがない。針の城¥體烽好き勝手にジャンプしているのは
足慣らしに過ぎず、いずれはリージョン間の大海へと踊り出したいと願ってい
た。針の城≠ヘおろかクーロンすら、彼女から見れば窮屈な密室に過ぎない。

30 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 19:16:44


 それは結構な話だけれど、リリーの瞬間移動能力は針の城′タ定だ。
 彼女が神になれるのは妖魔租界の跡地のみ。縮地法での移動しか知らない娘
が、どうやって自分の足で旅をするのか。地獄そのものとも言える妖力の高さ
と非業の美貌が、他者との交流を徹底的に拒むというのに。
 
 ―――答えは簡単で、あたしを利用すればいいんだ。
 
 必然的だとか運命的だとか、胸焼けするような夢想を押しつけてくるリリー
だけど、こいつはそんな分かりやすいタマじゃない。魔女らしく打算に長けて
いて、自分の利だけを考えようとする。
 リリーにはあたしが必要なんだ。
 いま、この世界でリリーとまともに会話ができるのは、ダージョンとあたし
しかいない。あたしを旅のお供に加えれば、他者とのコミュニケーションを任
せられるし、欠けている常識も補える。
 女の一人旅は危険だから、じゃあ二人で行きましょうというわけだ。

 もちろん、あたしは行かない。クーロンから出るつもりなんて欠片もない。

「や! 一緒に行くの!」

 リリーが駄々をこね始める。最後は必ずこうなるんだ。

「だってこれは駆け落ちなのよ。一人じゃ駆け落ちにならないわ」

「……深窓のお姫様が、どこでそんな言葉を覚えてくるんだ」

「なんで! どうして! わたしには理解できないわ。こんなお日様も当たら
ないリージョンに、どうしてイーリンは執着するの。世界はもっと広いんだか
ら。世界はもっと可能性に満ちているんだから。こんなとこで若さを消費する
のは間違ってる。いますぐ逃げ出すべきよ」

「べっつに、執着しているつもりはないよ」

 ただ、あたしには生活があるというだけの話。
 確かに故買屋の売り上げは好調だ。マーマから受け継いだ不動産の所得もか
なりの額に昇る。収入だけを見れば、あたしはきっとお金持ちになるんだろう。
 だが、入る額が大きければ、出て行く額も天文学的だ。
 あたしには主治医がいるけど、月に二回の診察費は狂気のお値段。趣味でや
っている心霊工学も金食い虫だ。死体いじりも安くはない。ハダリーの維持費
だけで家が買える。……それに、マーマにかかるお金もある。
 そういったあたしの日常を維持するためには、今日の生活を繰り返し続けな
ければいけないんだ。金持ちだなんて関係ない。生きるだけで必死なのは他の
クーロン人と変わらない。明日の夢なんて語る余裕はなかった。

「つまんないわ」

「なんだって」

「イーリンはつまんない!」

 リリーはソファの背もたれに器用に飛び乗ると、仁王立ちのようなポーズを
取って、人さし指をびしりとあたしに向けた。

31 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 23:59:20



「これは冒険なのよ。無限の世界が待っているのよ。誰もが夢見る興奮に満ち
た毎日が、手の届く場所にあるのよ。なのにどうして無視なんてできるの。ど
うして『生活がある』なんて言えるの。そんなの捨てちゃえばいい。わたしと
イーリンがいれば、なんだって手に入るんだから!」

 あたしは呆れを通り越して感心する。一ヶ月前まで一歩も自分の部屋から出
たことがなかった小娘が、よくも世界を語れたものだ。

 まぁ考えてみよう。こいつの望み通り外≠ニかいう抽象的かつ漠然として
場所に飛び出したとして、そこでどうやって生活をしていくつもりなのか。
 リリーは自分の部屋より広い世界を知らない。あたしだってクーロンの外に
出たことはない。―――おおよそ現実的な話じゃないんだ。

「……自分の部屋に戻りなよお嬢ちゃん。冒険がしたければお城の中ですれば
いい。針の城≠セって十分神秘に満ちているんだ。なにせ、クーロンでいっ
ちばん危険な場所だからな。冒険のし甲斐はあると思うぜ」

 そう言って、あたしはソファにどすっと腰掛けた。背もたれの上でリリーが
バランスを崩す。これ幸いと、あたしの背中に抱きついてきた。肩に両腕が絡
まり、頬と頬がぴったりとくっつく。
 ―――そして、あたしの耳元で唇を動かした。

「ここは退屈。だって、わたしに分からないことはないんだもの」

 ……万能者の憂鬱、か。

「わたし、こんな力持って生まれなければ良かった。普通の女の子なら、誰も
わたしを閉じ込めたりしなかったもの。色んな人と出会えて、色んなお話がで
きたもの。もっと広い世界を見て回れたもの」

 それはどうかな。あたしは左の人間の♀痰細める。

普通≠ェどういうものかあたしには分からないけど、力を持たずに生まれて
きた者は、力ある者に搾取されるしかないということぐらい分かる。弱いとい
うことはそれだけ生きる道を限定されるということだ。
 ―――リリーは、クーロン・ストリートでその日の糧を得るためだけに躰を
売る少女娼婦たちがいるということを知らない。あたしが躰を売らずに今日ま
で生きてこれたのは、この眼とこの肉があったからだ。火蜥蜴≠フ力の使い
道を、マーマが教えてくれたからだ。

「……リリー、あんたの理屈は持てる者≠フ傲りだよ」

 あたしの言葉に、少女はくすくすと肩を揺らす。

「そうよ? わたし、傲っているの。だってわたしはわがままだもの」

 だから、欲しいものは絶対に手に入れる。イーリンがクーロンに留まるって
いうのなら、あなたをここに縛り付ける鎖を断ち切ってやる。
 ―――無邪気≠ニ魔性=Bこの二つは矛盾するはずなのに、リリーの口
元に広がる笑みは、その両方を孕んでいた。

「イーリン。あなたは、わたしにだけ縛られればいい」

「……」

32 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/14(日) 00:01:30


 あたしを抱く腕の力が少しずつ強くなっていく。リリーはついにあたしの耳
たぶに唇を押しつけた。そのまま囁きを続ける。

「あなたのマーマが気になるの? あの老いぼれがいつまでもしぶとく生きて
いるから、あなたはここから離れられないでいるの? ―――だったら、安心
して。わたしがあの女の魂を地獄まで導いてあげるわ」

 ―――マーマ。

 あたしを拾ってくれた、マーマ。
 あたしに強さ≠フ意味を教えてくれたマーマ。
 あたしに故買屋の才があることを見出してくれたマーマ。
 あたしに価値を与えてくれたマーマ。
 若作りするのに必死だったマーマ。
 ……あたしの、お母さん。
 血は繋がっていなくとも、どんなにそう呼ばれることを拒んでいても、マー
マは、阿嬌は、あたしの母だ。かけがえのない家族だ。

 リリーの腕を乱暴に振りほどき、ソファから立ち上がる。抑えようもない怒
りが総身から溢れ出すのが分かった。
 彼女に背を向けたまま、低い声音で言葉を紡ぐ。

「レイ・バイホー。―――もし、あたしのマーマに手を出してみろ」

 眼帯を外すと、黄金に輝く瞳で魔女を睨んだ。

「その時は、あんたを殺す」


                  * * * *


「イーリン、待ってよー」

「ついてくるんじゃねえ!」

 第九層原動天=Bより深い階層と、最外周の第十層の間に挟まる緩衝地帯
として極度に低い人口密度を誇る亡霊街。
 あたしは人外の脚力を用いて、複雑に入り組んだ路地を縫うように進んでい
るのだけど、背後から響くリリーの甘えた声は一向に遠ざかろうとしない。
 こっちは物心ついたときから針の城≠ナ生活している経験を最大限に活か
して、普通ならものの数分で迷ってしまうような道をあえて選んでいるのに。
……撒けない。逃げ切れない。それどころか、あたしが進もうとする道にリリ
ーが待ち伏せているときすらあった。―――魔女め! 魔女め!

「ついてくるなって言ってんだろ!」

「ごめんなさいって謝っているのにー」

「聞きたくねえ!」

 ……いや、あたしだって分かっているんだ。
 この針の城≠ナリリーから逃げる術なんてない。針の城≠フ霊走路は完
全に彼女の管理下にある。縮地法を用いれば城内ならどこにでも瞬間移動でき
るし、あたしの位置は霊脈の微細な揺らぎから予測が可能……らしい。
 鬼ごっこも隠れん坊も無駄の極み。シャワーを浴びてる最中に転移してこな
いだけ、むしろ感謝すべきなのかもしれない。

33 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/15(月) 00:19:22


 でも、だからといってこのままリリーを連れ回すわけにはいかない。
 彼女は目立つ。致命的なまでに目立つ。ここが原動天≠セから、幸いまだ
物質的な被害は生じていないが、勘の鈍い人間が通りがかりでもしたら、廃人
が一人生まれることになる。……別に赤の他人がどうなろうが知ったことじゃ
ないけど、リリーの足跡≠残すのは極力避けたかった。
 ―――まぁ無駄な足掻きだとは思うよ。
 近いうちに、必ずダージョンはお姫様のお転婆に気付くだろう。リリーがい
くら身を隠したところで、彼女が発する瘴気までは隠しようがないんだから。
 けど、その時を無警戒に待っていたら、あたしはシリウス男爵と同じ運命を
辿ることになる。例え無駄でも、警戒と足掻きは続けていくべきだ。

 それに、いまから行く場所にリリーを同席させるわけにはいかない。

 路地裏で立ち止まったあたしは「降参だ」と言って手を上げた。すると、あ
たしの目の前にリリーがぱっと現れた。滝のような黒髪がさらりと流れる。

「ふふ、つーかまえた」

 リリーは鈴の音のような笑い声をこぼす。

「ようやくわたしを許してくれたのね」

「ああ、だから帰れ」

「またそんなことを言う」

 ぶー、とリリーはむくれる。

「わたしだって考えなしに抜け出しているわけじゃないのに。……最近、ダー
ジョンはあまり屋敷に来ないの。火焔天にすら滅多に戻ってこないわ。一層と
二層を行ったり来たり。だからわたしは気兼ねなくお出かけできるわけ。イー
リンもそんなに心配しないで。わたし、ずっと一緒にいられるから」

 そいつは迷惑な話だ。

「なあ、リリー。あたしが部屋から出て行ったのは、別に怒ったからじゃない
んだ。あたしはいまから行くべき場所があって、そこにあんたは来て欲しくな
いっていう……つまりそれだけの単純な理由なんだよ」

 リリーは腕を組むと、「ふうん」と醒めたを眼をあたしに向けた。

「もちろん、どこに行こうとしているのかぐらい教えてくれるのよね」

「聞くまでもないだろう。あんたは初めから分かっていたんだから」

「わたしはそうかもしれないけど、イーリン、あなたはなんにも分かってない
わ。わたしはあなたの口から、答えを聞きたいの」

 どんな理屈だ。ほとほと理解に困る。けど、ここで言い返しても無駄に時間
を食うだけだ。やれやれ、とあたしは嘆息した。

「―――マーマのとこだよ」

34 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/15(月) 00:19:43



                  * * * *


 第九層でリリーと別れたあたしは、第十層から大きく迂回するかたちで第七
層土星天≠ヨ。針の城≠ォっての商業区に移動した。

 第七層はビルの高度が下がる変わりに密集率が桁外れに高くなる。道と呼べ
るような道はなくなり、居住者はビルからビルへと渡り、廊下を進み、階段を
昇って目的地を目指した。
 街路がないため常に屋内を移動し、ビルの階段を上がったり下がったりする
ため、第八層を揶揄して全天候型立体都市≠ネんて呼ぶ奴もいるけれど、極
端に道幅が狭く天井も低い廊下を幾度も幾度もぐにゃぐにゃと曲がりくねりな
がら歩かされる居住者の立場になってみると、立体都市というよりも地上の地
下壕と呼んだほうが正しいことを思い知らされる。

 しかも、ただでさえ狭い廊下に敷物を広げた露天商(屋内なのに露天なんだ)
が居座り、低い天井にはけばけばしく塗り立てられた看板が放熱板のように飾
られるものだから、満足に歩くことすら困難になってくる。いつ窒息してもお
かしくない劣悪の環境だった。
 ……ただ、オカルト都市針の城≠フ商業区だけあって掘り出しものは多い。
悪態をつきながら、あたしは何度もお世話になっている。

 第七層には床屋が多数存在する。どのビルに入っても、まず真っ先に目に付
くのは床屋の看板だ。当然、大人しく散髪して終了なんてサービスをする店は
皆無に近く、床屋の床≠フ意味合いはより夜に近しくなる。
 客寄せの散髪女は、男だろうが女だろうが構わず袖を引っ張る。香水の臭い
をまき散らしながら「魂までさっぱりさせてあげる」なんて甘えられても、同
性のあたしは「間に合ってるよ」としか答えようがない。
 廊下が狭いせいで下手に避けて歩けないのがいやらしい。

 部屋の壁をぶち抜いて構えた日用品店でオレンジをバスケットいっぱいに購
入した。針の城≠ノ限らず、九龍では生鮮食品が特別に高価だ。自給率がゼ
ロに等しく、他のリージョンからの輸入に頼り切っているのが価格の高騰を招
いていた。外貨は高く、自治政府が発行する竜貨は安い。
 けど、オレンジなしではあたしは生きられない。

 オレンジを皮ごとかぶりついて食事に変える。ビルからビルへと跨いでいる
うちに、やがて目当ての建物が見えてきた。

 内側から下品なネオンの輝きが漏れ出す他の多くのビルとは違い、提灯の穏
やかな明かりを抱いた建物はビルではなく京風の屋敷だった。いや、正確には
ビルを屋敷に改造している。小汚いペンシルビルばかりがひしめき合う針の
城≠ナ、そのビル屋敷≠ヘあからさまに景観から浮いていた。

 屋敷の入り口には、これまた京風のキモノ≠ナ身を固めた巨漢のオークが
立ち番を務めている。ぎらつく目つきであたしを睨んでくるが、無視して脇を
通り過ぎた。オークも半歩だけ下がって道を譲る。

 屋敷に入るとすぐにウォンが駆けつけてきた。相変わらずの爬虫類顔。人間
を自称しているけれど、どこまで本当かは分かったものじゃない。マーマのか
つての部下の中でも、格別信用ならない男だ。

35 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/17(水) 22:00:22


 マーマの部下だったのだから、ロートルと同じようにあたしとも古馴染みと
いうことになる。ただロートルと違うのは、あたしはウォンのことを心底毛嫌
いしていて、ウォンも同様にあたしを嫌悪しているということ。
 あたしが顔を出した途端に駆けつけてきたのも、支配人自ら接待というわけ
ではなく、他の客にあたしが来たことを知られたくないだけだった。
 ウォンは権力欲の強い男だ。マーマが引退して彼がこのビルを継いでからは、
特にあたしを避けるようになった。自分が絶対の帝王でいられるようになった
この場所で、阿嬌の後継者≠ネど目障りでしかないのだろう。

 挨拶すら交わさず、ウォンは尖った顎で「こっちへ来い」と促した。
 別に案内がなくたってひとりで行ける。ウォンなんて無視したかったけど、
このビル屋敷≠フ営業システムがそれを許さない。
 勝手にずんずんと進めば、不似合いなキモノのコスプレをした用心棒に止め
られることになるし、ウォンの面子も潰れる。
 それはそれで愉快だけど、今夜は控えよう。
 
 一階のロビーには、ゲートを兼ねた巨大な双龍のモニュメントが鎮座してい
る。それをくぐると、クーロンでも特別珍しいエレベーターが待っていた。
 人力でも高級品だというのに、このビルの昇降機は蒸気機関だ。マーマが仕
切っているときは設置しておらず、ウォンの代になってから改装させた。
 彼の自慢のひとつだ。

「儲かってるみたいじゃないか」

 エレベーターのカゴに二人きりになって、ようやくあたしは口を開いた。
「冗談だろう」とウォンは鼻で笑う。

「いつでもカツカツだよ。とんでもない金食い虫がいるからな。どんなに儲け
ても、稼いだ端から出て行っちまう」

「いまさら泣き言かよ。契約内容を飲んだんじゃなかったのかい」

 あたしの言葉に、ウォンは吐き捨てるように呻いた。

「知ってるか、ものには限度ってもんがあるんだぜ。まさか、ここまで手がか
かるとは思わなかったんだ」

 マーマが引退したとき、故買屋の事務所になっているクーロン・ストリート
裏通りのビル同様に、このビル屋敷≠烽たしの所有物となった。故買屋商
売と違って、知識も経験もないあたしに維持できるような代物じゃなかったか
ら、すぐにウォンに譲った。ウォンは当時からここの支配人だった。
 商売の権利もあわせて売り払えば一億クレジット以上の価値が出るビルだけ
ど、あたしはウォンから金を吸い上げるような真似はしなかった。
 ……その代わり、条件をつけた。
 半永久的にマーマの面倒を見ろ、と。あんたのビルでマーマの世話をしろ、
と。―――厄介払いしたかったわけじゃない。ウォンの言う通り、いまのマー
マは手がかかる。彼女を満足させてあげられる環境は、このビル屋敷≠お
いて他になかった。だから金の成る木をウォンにただでくれてやったんだ。

 エレベーターのチャイムが「ちん」と鳴って、あたしたちを最上階まで運ば
んだことを知らせた。
 最上階はマーマのためだけのフロアになっている。客は誰も近寄らせない。
そういう約束であり、契約だ。どんなにウォンが疎ましがろうと、これから先
も変えるつもりはなかった。

36 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/17(水) 22:09:12


 エレベーターを降りたあたしは、京庭園を模したエントランスにウォンを待
たせて、ひとりでマーマの待つ寝室へと向かった。

 廊下を進むにつれて視界が不鮮明になっていく。廊下に立ちこめるつまめば
毟り取れそうなほど濃密な煙は、至るところに飾られた香炉で焚かれたものだ。
 吸えば脳が溶ける魔性の煙。けれどもあたしは臆さずに進む。足取りは重い。

 ……こんなとこ、本当なら仕事でだって来たくない。ウォンの蜥蜴面を見る
だけで苛立ちが募るし、それ以上にいまのマーマと会いたくなかった。

 いっそ、ここで引き返せたらどんなに楽だろうか。ウォンの横面を殴り飛ば
して、ビル屋敷≠飛び出して、針の城≠フ最新層に逃げ込めたらあたし
の心はどれだけ軽くなるだろう。この道を辿るとき、あたしはいつもすべてを
捨てたくなる。

 一瞬だけ、あたしの胸裏にリリーの言葉が浮かび上がった。

『一緒に、外へ』

 自然と口元が緩む。あいつは莫迦だな。本物の大莫迦だな。

 逃げるなんて。外を目指すなんて。……そんなこと、あたしは考えたことも
なかった。悪態を吐きつつも、毎日をクーロンで必死に生きてきた。それしか
生きる道はないと思っていた。『外』なんて漠然とした存在は、絶壁の先に待
つ暗黒に等しかった。―――なのにリリーは、つい一ヶ月前まで自分の部屋が
世界のすべてだったお姫様は、針の城≠ヘおろかリージョン・クーロンです
ら窮屈だと言う。どうしてそんな発想ができるのか。なにが彼女の足を外へと
向けさせるのか。……あたしは嘆息を漏らした。莫迦の考えは読めない。

 レースのカーテンの海をくぐり抜けると、天蓋付きの巨大なベッドが目に飛
び込む。部屋一面を占めかねないエンペラーサイズの寝台には、やせ細った女
がひとり。手に真鍮の長煙管を持って、ぼうと部屋の壁を見入っていた。

「やあ、マーマ」

 あたしが声をかけても反応はない。あたしだけじゃない。誰が話しかけても
マーマは応えない。マーマに動くときがあれば、それは長煙管の吸い口に唇を
近づけて、より深い快楽と幻想を機械的に貪るときだけだ。

 このビル屋敷≠ヘクーロンでも最大規模の阿片窟。しかも提供する阿片は
ファシナトゥールの土で育て魔精花となった芥子から精製した特別製。
 文字通りの魔薬≠フ味を知りたいと求める者はクーロンに留まらず、他の
リージョンにまで及ぶ。
 この阿片窟で部屋を持ち、毎日を阿片三昧で過ごすような中毒者は、あたし
なんかとは比べものにならない、正真正銘のお金持ちサマだ。

 ……マーマもそのうちの一人ってことになるのかな。

 阿片と部屋代、その他の面倒見代はすべてウォンが負担しているけれど、額
面にすればきっと天文学的単位。だからウォンはあたしを疎み、かつてはボス
だったマーマを追い出したがる。

 なに、構うものか。搾り取れるだけ搾り取ってやればいい。

37 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/17(水) 22:12:30


 あたしは無理矢理に微笑んで、ベッドの脇にバスケットを置いた。

「フルーツ。お土産に買ってきたんだ。オレンジ好きだろう? ここに置いて
おくから、良ければ食べてよ」

 マーマはなにも食べない。栄養はすべて強制的に打たれる注射や丸薬で摂取
している。マーマはなにも求めない。……阿片の煙以外は。

 娘のあたしがこうして面会に来ても、定まらぬ視線は宙を向いたまま。

 マーマは今年で六十七になる。なのに外見は二十代半ばのように若々しく、
美しい。―――マーマは、女の価値が外見であることを常日頃から強弁してい
た。老いることをなにより怖れ、常に若くあるよう努めていた。
 七十近い老婆が娘の外見を保つために、いったいどれだけの財産を注ぎ込ま
なければいけなかったのか。昔は知らなかった。……いまは痛いほどによく知
っている。いまのマーマの美容料はすべてあたしが負担しているから。

 マーマは廃人だった。感情は死に絶え、本能は衰え、ただ煙を吸って吐くだ
けの人形になってしまった。『家族以外のなんでも買って、なんでも売る』と
豪語した女傑はどこにもいない。五十年もの間、クーロンの鬼の商売人として
巨万の富を築き上げたやり手ババアはどこにもいない。年甲斐もなく若さにば
かり拘って、整形手術を繰り返した哀れな女は、もう、どこにも、いない。
 あたしの目の前にいるのは、ただの抜け殻。

 ――― 一年前。
 マーマはいつものように護衛に囲まれて、持ち店の見回りに出かけた。

 その頃、あたしはマーマに仕込まれた故買屋商売がだいぶ軌道に乗っていた
ため、かつてのようにマーマの背中を追って歩くようなことはせず、黙々と自
分の仕事をこなしていた。
 ……愉しかった。気持ちよかった。なによりも嬉しかった。自分で稼ぎ、自
分で生きていく術を見つけた。これからはマーマに養われるお荷物じゃなくて、
マーマに金を稼がせてあげられる共存関係の家族≠ノなれるんだ。そう思う
と仕事にも熱が入り、針の城≠フ自宅には戻らず、裏通りのビルに住み込ん
で毎日を消費した。未来はあたしのものだと、根拠のない自信に支配されてい
た。……つまり、幸せだったんだ、あたしは。

 マーマは見回りに出たまま戻ってこなかった。クーロン・ストリートの路地
裏で捨てられていたのを、その日のうちにロートルが発見した。
 連れていた四人の護衛の行方はいまになるまで分かっていない。きっと顔面
を潰され、首から下はバラのパーツとして売り払われてしまったんだろう。
 マーマまでもがそうならなかったのは不幸中の幸いかもしれないけど……。
 発見されたマーマはすでに、人の言葉をしゃべれなくなっていた。あたしが
駆けつけたときにはすでに、壊れてしまっていた。
 いったい、なにが起きたのか。なんの事件に巻き込まれたのか。それともマ
ーマ自身が狙われたのか。あたしに分かるのは、マーマは現実から逃げたとい
うことだけ。絶対に手を出さなかった阿片に手を染め、一週間もするとビル
屋敷≠ノ居着くようになった。……そして今日まで、一歩も外には出ていない。

 マーマはあたしを後継者に指名していた。だから、マーマの財産はすべてあ
たしのものとなった。不動産も店の所有権もひとのコネも、すべてあたしが受
け継いだ。あたしはそれを整理して、故買屋以外の仕事はマーマの部下だった
連中に任せた。ウォンのような奴に売り払った権利もあれば、いまでも一定の
売り上げを吸い上げてる権利もある。
 ……稼ぎは阿片の煙とマーマの整形代に消えている。

38 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/17(水) 22:16:08

 マーマが感情を失くしてしまっても、あたしはマーマが望むものを理解して
いる。それは若さを保つこと。例え阿片に溺れる廃人だったとしても、マーマ
は美しくあらねばならない。それがマーマの願い。
 だから肌を定期的に張り替え、皺をのばし、染みを抜いた。時には老朽化し
た骨を取り替えて、重力に引きずられるようになった肉さえも交換しなければ
ならなかった。……整形と呼ぶより改造。大手術の繰り返しだ。

 整形手術はマーマがこうなる前から懇意にしていた闇医者に任せている。
 かなりの腕利きで、針の城≠ナは知られた名前らしいけど、あたしは会っ
たことがない。あたしの主治医から会うなと言われている。
 依頼も支払いもウォン経由だった。

「心臓が、さ」

 背後から声がかかる。ウォンが断りもなく入ってきたんだ。莫迦野郎、と怒
鳴り散らしたい衝動を殺す。あたしはマーマと二人っきりでいたいのに。あん
たの声なんか聞きたくないのに。どうして邪魔をするのか。

「心臓の鼓動……心拍数っていうのか? それが、低い位置で安定しちまって
いるらしい。危険な徴候だってよ。このままだと、静かに心臓を止めることに
なっちまうって。―――ま、こんだけキメてればしょうがないか」

「ヌサカーンがそう言ったのか」

 ヌサカーン。闇医者の名前。もぐりの癖に、こっちの足下を見て法外な医療
費を請求する。マーマも顔負けの守銭奴だ。

「ああ。ついでに、整形のほうも限界だってよ。これ以上イジるなら、脳みそ
引っ越しさせて躰まるごとすげ替えちまったほうが良いとさ」

 ……人間のままで不老を求めるなんて、無茶な話なんだ。

 あたしは「ふぅん」と頷いた。
 ショックを押し殺して、平然とした態度を守る。

「じゃあ、活きの良い躰を探しとかないとな。……死体じゃ厳しいだろうから、
生きた人間か。若い娘だと莫迦みたいに高いんだよな」

 いっそ、どっかからさらっちまうか。そう言いかけたあたしを、ウォンの声
が阻んだ。「冗談じゃねえ」だとか「ふざけるな」だとか、そういう怒鳴り声
が部屋に響く。あたしはウォンに背中を向けたまま、眉をしかめた。
 ……マーマがいるのに騒ぐんじゃねえよ。

 ウォンの唾が飛ぶ。

「冗談じゃねえ。付き合いきれねえよ。いい加減、死なせてやればいいだろう
が。もう十二分に生きたはずだ。大往生じゃねえか」

 マーマが死ねば、阿片窟の稼ぎは丸ごとそっくりウォンの懐に飛び込むよう
になる。だからこいつはそんなことが言えるんだ。

「どうしてまだ生かしておく必要がある。阿片のせいで脳みそは縮む一方。い
まさら正気に返れるわけがねえ。だったら、楽にさせちまうのが―――」

「黙れ」

 振り向き様にウォンの喉笛を引っ掴んだ。喉から「ひゅっ」と音を漏らして
怒鳴り声が途切れる。このまま頸椎をへし折ってやろうか。―――あたしの憎
悪は、しかし燃え盛るのもつかの間、たちまち鎮火してしまう。

39 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/17(水) 22:19:12

 手を離し、胸を突き飛ばす。ウォンは咳き込みながら「狂ってるぜ」と言い
捨てて寝室から逃げ去った。あたしと殴り合うという選択肢はなかったらしい。
 そういう賢しさがあたしは大嫌いだ。

 憎しみが鎮まった理由。……考えるまでもなく、ウォンの言うことが正しい
からだ。もうマーマは死んでいる。残った抜け殻を、あたしが金に飽かせて生
き長らえさせているだけ。誰のためかと問われれば、この延命はマーマのため
ではなくあたしのためと答えるしかない。マーマがいなくなって欲しくないか
ら、虚しいだけの足掻きを続けている。すべてはあたしのわがままだ。

「マーマ」

 返事はない。

「マーマ」

 彼女は決して応えない。

「マーマ―――」

 胡乱な瞳は天蓋を見上げるばかり。

「マーマ!」

 右眼の眼帯を毟り取った。床を蹴り、ベッドに飛び乗る。マーマの痩せさら
ばえた躰を押し倒して、強引に視線を交錯させた。

 ……こんなに力に任せても、痛みの声ひとつ上げやしない。

蜥蜴の眼≠ナ、マーマの瞳を覗きこむ。更にその奥を覗きこむ。もっと深く、
マーマの深奥まで覗きこむ。―――あたしの魔眼は、ひとの精神の隙間に容易
に滑りこむ。あたしが視たいと望む他者の心象風景を、右眼が鮮明に浮かび上
がらせる。この右眼は、ひとの精神のカタチさえも視認してしまうんだ。

 でも、マーマからはなにも視えない。どんなに深くまで潜っても、闇ばかり
が広がっているだけ。魂の投影ともいえる心象風景は一切確認できない。
 それは意味することはつまり。
 マーマはいない。あたしの両手の下で、間抜け面晒して唇をすぼめているの
は、マーマのカタチをした肉のかたまりに過ぎない。

「くそ!」

 取り落とした長煙管を押しつけて、あたしは寝室から飛び出す。分かってい
るはずなのに。もう何十回も試みているのに。―――マーマの裡には虚無だけ
しかないことを確認する度に、涙がこみ上げる。

 どうして、どうしてなんだ。
 どうしてあたしを置いていった。
 どうして一人で行っちまった。
 あたしは家族じゃなかったのか。
 マーマはあたしの生きる理由じゃなかったのか。
 ただ震えるだけ。ただ泣いて乞うだけだったあたしに、火蜥蜴≠ニいう価
値を与えてくれたのはマーマじゃないか。拾ってやった恩義に報いて、私のた
めにあくせくと働くんだね―――そう言ったのはマーマじゃないか。
 あたしはマーマのために生きている。
 マーマがあたしのすべてだ。
 それは、マーマがこうなってしまったいまでも変わらない。マーマの美しさ
を保つため、マーマに永遠の快楽を与えるために、あたしは生きる。
 けど、ウォンが言うように、もしこのまま死んじまうっていうのなら―――

「あたし、なんにも見えなくなっちまうじゃないか……」

40 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 00:58:21



「―――わたしが、いるじゃない」

 温もりが背中から胸へと広がっていく。いつの間にか、あたしは後ろから細
腕に抱き締められていた。気配はなかった。ウォンが出て行ったいま、このフ
ロアにはあたしとマーマしかいないはずなのに。
 ……こんな真似ができる奇術師は針の城≠ノ一人しかいない。

 覗き見していたのか。帰れって言ったろう。そう、叱り付けてやるべきだ。
ここは聖域。あたしの拠り所。第三者の侵入は絶対に許されない。なのに、あ
たしは喉から溢れ出す嗚咽を噛み殺すのに必死で、背中をこするリリーの鼻先
を拒むことすらできなかった。立ち尽くしたまま抱擁を受け容れてしまう。

 ―――なんてことだろう。不覚にも、あたしはリリーの胸からぬくもりを感
じてしまっていた。
 魔女はどんな小さな疵も見逃さない。心の隙間を的確に見つけて滑りこむ。
いまのあたしは傷だらけ。こんな小娘でも付け入るのは容易い。

「わたしがイーリンに新しい価値を与えてあげる。わたしがイーリンの理由に
なる。……だから、ねえ。泣かないで。わたしを見て」

 魔女の呪文は、阿片の煙よりも甘い。

「一緒に生まれ変わろう。ここにいても疵が増えていくばかり。悲しいこと、
辛いこと、全部投げ出しちゃって、わたしと初めからやり直そう」

 ……タイミングは、悪くなかった。
 口説き文句も、まあ及第点だ。
 減点方式なら間違いなくあたしは堕ちていた。リリーにすべてを任せて、彼
女の望む駆け落ち≠ニやらを決行していたに違いない。
 脱出という名の閉塞。世界を知るという口実のもと、世界を閉ざす。それは
きっと、人を酔わす甘美な響きのだろう。

 ―――でも、あたしには白けた絵空事にしか聞こえない。

 悪いね、リリー。あたしはクーロンで育ち、クーロンで生きたんだ。
 夢で飯は食えないとマーマから学んだ。天空に浮かぶ星空よりも地面に転が
る銭だとマーマから教わった。利用されるより利用する女になれと、マーマか
ら言いつけられた。―――今更あんたにたぶらかされるには、あたしはあまり
に世界≠知りすぎている。
 だから、外には行けない。

「……あたしは強情なんじゃない。心に壁を作っているわけでもない。ただ、
生き汚いだけなんだ。醜く生き足掻いているだけなんだ」

 リリー。あんたからは死の香りしかない。隠しきれないほど濃密な死臭が、
あたしを醒めさせる。……あんたは気付いていないかもしれないけど、あんた
の言う外≠チていうのは、楽園だとか地獄だとか、そういうとこだよ。
 少なくとも、あたしにはそうとしか思えない。
 あんたにはそんなところに行きたいのか。……行きたいんだろうね。憧れて
しようがないんだろうね。でも、あたしはイヤなんだ。生きたいんだ。あたし
が欲しいのは生きる理由であって、死ぬ理由なんかじゃない。
 あんたの優しさは人を殺す。マーマの厳しさは人を生かす。その違いが分か
らなくちゃ、あたしを墜とすことはできないぜ。

 ―――でも、ま、抱き締めてくれたことは感謝するよ。

 寂しかった。孤独が痛かった。それは否定のしようがない事実だから。

41 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 01:01:24


「リリー、あたし―――」

 どうしたの、とリリーが応える。あどけなさと母性を両立させた囁き。ガキ
の癖に、よくもこんな声が出せるもんだ。あたしはやれやれと失笑する。
 表情は窺えないけど、リリーはいま、瞳を輝かせているに違いない。欲しい
ものがもうすぐ手に入る、その期待で胸は一杯。―――あたしはそんなかわい
らしい小悪魔の横っ腹に「えい」と肘鉄を喰らわせた。
 肘の尖端が柔肉にめり込む。

「げふ」

 お腹を押さえて、リリーはその場に蹲った。魔女の抱擁から解放されたあた
しは両手を挙げて伸びをする。うーん、空気がまずい。

 リリーは痛みに困惑しつつ、上目遣いにあたしを睨んだ。

「な、なんで……」

「飯」

「え?」

「飯、食いに行くぞ」

 事態を理解できないリリーは「はぁ?」と顔を歪めた。彼女のシナリオでは、
今頃あたしは自分の胸でむせび泣いていたんだろう。肘鉄を打ち込まれるなん
て予想もしていなかったはずだ。……まだまだガキだな。

「クーロン・ストリートにさ、まっずい点心を出す屋台があるんだ。あたしの
行きつけ。そこなら安いから、奢ってやってもいいぜ」

「それって―――」

 リリーは針の城≠謔闃Oを知らない。リリーは外の世界を求めている。

「あたしが連れて行ってやるよ、飲茶がてらにな」

 一拍おいて、リリーの唖然とした表情が年相応の無邪気さに塗り変わった。
「うん!」と力強く頷いて、あたしの腕に自分の腕を絡ませる。

「行こう、外へ!」


                  * * * *


針の城≠フ外の人間は妖気への抵抗力が低い。妖気の暴風みたいなリリーが
クーロン・ストリートを闊歩しようものなら、前代未聞の大虐殺が始まってし
まう。自分でも持て余してしまう巨大な妖力は、いくら押さえろと言っても調
節できるようなものじゃなかった。
 迷彩コートを着せて、フードを目深に被らせる。隠行≠フ護符をコートの
裏にべたべたを貼りつけ、あたしの影を常に踏ませて歩く。そこまで魔術的に
存在を隠しても、リリーは莫迦みたいに目立った。
 クーロン・ストリートなんて絶対に歩けない。

42 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 01:44:20


「こりゃ、裏通りで我慢するしかないな」

 あそこならネオンの灯りも遠い。影に影を重ねて濃くすることで、リリーの
妖気を誤魔化すこともできるかもしれない。クーロン・ストリートは四方から
ネオンが当たるため、影が薄れて隠れようがなかった。

 クーロンの華であるメインストリートに行けないんだ。お姫様はごねるに違
いないと思ったけど、意外にも「ん、別にいいよ」なんて呆気ない返事が待っ
ていた。〈針の城〉の外であれば、別にどこでもいいらしい。

 ―――が、結局それすらも叶うことはなかった。

「……出られない」

 人目につかないよう気を付けながら進んだ第十層。〈針の城〉の外周付近で
リリーは唖然と立ち尽くした。ビルとビルの間から覗く外≠凝視するその
表情は、ショックのあまり感情が抜け落ちていた。
 ……リリーがこんな顔をするなんて。

「なんなの、これ」

 魔女の唇がわななく。

「リリー?」

「わたし、出られない。外に行けないよ……」

 なにを、言ってるのか。

「こんなのがあるなんて知らなかった。わたし、ぜんぜん視えなかった」

 あたしの呼びかけが聞こえないのか、リリーは独り言に没頭する。
 呪詛のような呟きを繰り返す。

「外≠フ景色なんて、もう何度も何度も見たはずなのに、どうして今日まで
気づけなかったんだろう。無意識の迷彩? 境界を跨ごうとする自覚をして、
初めて看過できたのかしら。わたしの眼ですら欺くなんて……」

 リリーはなにを見てしまったんだ。

「そんな真似ができる奴はあいつしかいないわ。ダージョンね、ダージョンが
やったのね。あいつ、なに考えてるの。ここまでしてわたしを閉じ込めたいの。
なにがなんでもわたしを支配したいの。独占したいの。……冗談じゃないわ。
これじゃ、あいつだって出られないじゃない!」

 リリーが奥歯を噛む。負の感情の昂ぶりが怨霊を呼び寄せ、即席の霊場とな
る。……まずいぞ、これは。リリーの憎しみの澱は人間のそれとは桁違いだ。
放っておけば、怨念の重みに負けて地面が沈む。開かれた孔が続く先は、永遠
の闇。怒りと憎しみだけで構築された魔界だ。

「リリー!」

 あたしの叫びで、ようやく彼女はこっちを向く
 。浮かべるのは、始めてみせる儚げな笑み。涙を目元に浮かべて、「対不起
(トゥイプチー)」とあたしに告げる。

「―――ごめんなさい。わたし、あなたと行けないわ」

 そして彼女は消えた。

43 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 21:22:44


 一瞬のことだった。あまりに突然過ぎた。
 ひとり取り残されたあたしは、一秒前までリリーが立っていた地面を見つめ
たまま首を傾げることしかできない。まだすぐ側に彼女が隠れている気がして
「リリー?」と名前を呼んでみるけれど、返事はなかった。

 火焔天に帰ってしまったんだろうか。だとしても、なぜ。

 リリーは〈針の城〉の外を見つめていた。あたしもそれに倣う。だけど、左
の人間の眼≠ナは異常は確認できない。眼帯を外し、〈蜥蜴の眼〉を細めた。
 ……やはり、なにも視えない。
 ただいつも通りの汚れた大気と、終わりのない夜があるだけ。リリーに視え
てあたしの右眼じゃ視えないものなんてあるんだろうか。「わっかんねーな」
と独りごちて髪の毛を掻きむしる。せっかく飯に誘ってやったっていうのに、
まさかこんなかたちで反故されることになるなんて。
 気まぐれでないことだけは、確かだろうけど。……リリーのあの反応は尋常
じゃなかった。いったい、どうしちまったっていうんだ。

 あたしは睨むように眼を眇めて、中心街の方角を見入る。
 魔眼ですら変異を見つけられないのなら、それはあたしが変異と認めていな
いだけじゃないだろうか。〈針の城〉の外と裡との境界は、幾度となく魔眼で
も視ている。いま視界に広がる光景とまったく変わらない。〈針の城〉の城内
には有象無用の妖気が充満し、城外は霊力が枯渇して澄み切っている。
 これのなにがおかしいのか。

 ―――すべてがおかしいのか。

 ヒステリックにオカルトを拒否するクーロンで、〈針の城〉だけは妖気が充
実している。リリーが操る霊脈は、〈針の城〉城内に限定されている。
 ……あたしは根本的な疑問に至った。
 城外と城内。―――なにがこの二つを隔絶しているんだ。どうして〈針の城〉
はクーロンにありながら、異界として成り立っているんだ。

 物心ついたときから〈針の城〉はここにあった。だから、あたしは当然のよ
うに存在を受け容れていた。外と裡を分ける境界のことなんて、考えたことも
なかった。……もしかして、この境界は自然に発生したものじゃなく、人為的
に組まれたものなのか。


                  * * * *


 適当にぶらぶらと歩いていれば、気分を落ち着けたリリーがぱっと転移して
くるかもしれない。そんな期待に引きずられて一時間ほど至高天をさまよって
いたけれど、甘えた声が耳に響くことはなかった。
 あたしは忙しい。リリーのためだけに時間を消費するわけにはいかない。
 今日はこれから診察の予約を入れている。シップ港に隣接する旅行者向けの
ホテルで主治医が待っているはずだ。遅刻するとなにを言われるか分かったも
のじゃない。それに色々と相談したいこともあった。

 あたしは散歩を切り上げ、〈針の城〉を後にした。

「結界アルかぁ?」

 シャオジエは顎に指を当て、大袈裟に悩めるポーズを作った。

「んー。そんな話、ワタシ聞いたことないアルね。〈針の城〉は都市としては
小さいけれど、結界を張るには大きすぎるアル。そんな非常識な存在、今日ま
で誰も気付かないなんておかしいアルアル」

44 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 21:23:02


「なら、外と裡を仕切る境界はどうして生まれたのさ」

「あそこは妖魔租界があった頃から強力な霊力場ヨ。じめじめしたものを好む
手合いが自然と惹きつけられるようになってるアル。きっと火焔天が渾沌の根
源。あそこ、元々はシリウス男爵の領事館があったアルからね。それ考えると、
火焔天を中心に同心円状に異界が展開されているの、全然おかしくないヨ」

 妖魔租界の特質を〈針の城〉がそのまま引き継いでいる。理に叶っているよ
うに聞こえるけれど、その実答えになっていない。

「いや、そうじゃなくて、あたしは境界の話をしているんだ。妖魔租界があっ
た頃は、クーロンのリージョンすべてが魔界都市だった。妖魔租界は妖魔貴族
の居住区に過ぎなかったはずだ。租界の内側と外側を仕切る境界なんてない。
神秘はリージョン全体に氾濫していたんだから」

 ぐ、とシャオジエは言葉に詰まる。あたしは無視して言葉を続けた。

「〈針の城〉が形成された過程で、誰かが人為的に境界を作ったんだ。『ここ
から先は〈針の城〉だよ』と概念の線引きをした」

 いったい誰が、どうして。
 ―――そんなのは自問するまでもない。紅の魔人だ。〈針の城〉の城主にし
て、クーロン暗黒社会の支配者。自分の手で滅ぼした在りし日のクーロンを、
彼は自分の庭に再現した。そのために結界は必要だったのか。

〈針の城〉を作ることが目的で、境界線を引いた。……それはいい。でも、そ
うなると結界の性質が読めない。妖魔や魔物の通行を阻むものならば、あたし
やハダリーだって通れなくなるはずだ。他にも、中心街や共同租界には少数な
がら妖魔がいるし、旅行者にだって人外は紛れている。彼等が〈針の城〉に入
ることができないなんて話、聞いたこともなかった。
 逆に人間が通れない結界だったとしたら。……それはもっと考えにくい。絶
対にあり得ない。いまこの瞬間にも、〈針の城〉には犯罪者や浮浪児が逃げ込
んでいるはずなのだから。

 あくまで概念の境界に過ぎないのか。でも、だとしたらリリーのあの反応は
なんだ。彼女の言葉を信じれば、あの結界はやはり物理的な障壁となって通行
を阻んでいる。それが適用されるのがリリーだけ? たった一人の少女を幽閉
するためだけの結界? ……もしそうならば、〈針の城〉というのはリリーを
閉じ込めるための巨大な監獄ということになる。
 ダージョンはリリーを二重に監禁していたのか。
 火焔天と〈針の城〉。
 二つの壁。

「ダージョンが〈針の城〉を形成した目的は、妖魔租界を再現するためじゃな
くて、リリーを逃げられないようするためだったのか……」

 頭を振る。駄目だ。こんな仮定の推論に意味はない。
 大体、〈針の城〉の成り立ちの由縁を知ってどうする。あたしが頭を悩ませ
たところで〈針の城〉が現実としてそこに在ることは変わりないのだから、事
実としてそれだけを受け容れればいいじゃないか。

 ……でも、あのときのリリーの表情は。

「あー、火蜥蜴の。ワタシ、話がまたく見えないアルよ。いくらなんでも置き
去りにしすぎネ」

45 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 21:23:18


 シャオジエに半眼で睨まれていることに気付き、あたしは気まずそうに眼を
逸らした。「悪い」と口でだけ謝っておく。……常に機嫌を取っておかなくち
ゃまずい女だって分かっているのに、迂闊な真似をしてしまった。
 あたしは逃げるようにソファから立ち上がると、パノラマビューの窓からク
ーロンの夜景を見下ろした。「わー、綺麗」なんてわざとらしい声をあげる。

 ここは、リージョンシップ・ターミナルが運営するハイクラス・ホテル星
港≠フ最上階ペントハウス。クーロンでもっとも天国に近い部屋だ。
 必然、お値段も天国価格になる。リージョン間を好き勝手に行き来できるよ
うな国賓階級でもなければ、まずお近づきになれないエグゼクティブスイート
だった。……あたしはこの部屋に足を向ける度に疑問を抱く。たかが寝泊まり
するために、これだけ広い部屋を借りる意味があるんだろうか。どうして一人
部屋なのに、寝室やバスルームが二つも三つもあるんだろうか。
 金が余ってしかたがない奴が考えることはよく分からない。

 宿泊客の名はリュイ・チャンウェイ。あたしの主治医で、お仕事は魔法使
い≠ニいうことになっている。

 いまどき演劇の脚本でも聞かないようなクーロン訛りの言葉を操り、これま
た風俗店でも見かけなくなったクーロンの民族衣装チーパオ・ドレスで自らを
飾り立てる女。藍色の髪はアップにして、二つのお団子型にまとめている。
 ……つまり、絵に描いたような典型的クーロン娘≠ネわけだけど、あまり
にコテコテすぎて、逆にクーロンでは絶対に見かけない変人に仕上がってしま
っている。

 シルク地のドレスは闇より深い漆黒で、金糸で縫われた紋様の他に、胸元に
はアクセントとして薔薇の刺繍が咲いていた。際どく切れ込んだスリットから
伸びる白い素足は、性別を問わず視線を吸い付ける。
 ……変な格好だけど、似合っているのは、まぁ確かだ。それでも変という事
実は揺るがないけど。

 そもそも名前からしておかしい。リュイ(驢馬)でチャンウェイ(薔薇)だ
なんて。明らかな偽名だ。あまりに呼びづらいから、あたしは小姐(シャオジ
エ)と呼ぶことにしていた。
 年齢は、容姿から察すると二十歳前後。でも人間かどうかすら不確かなんだ
から、外見年齢なんて当てにもならない。一から十まですべてが胡散臭い女だ
った。そんな時代劇に出てくる町娘の格好で、なにが魔法使いだ。

 シャオジエはクーロンの人間ではない。自家用のリージョンシップで世界を
飛び回る根無し草だった。クーロンはリージョン旅行の基点だけあって、月に
一度は寄ってくる。その時があたしの診察の日となるわけだ。

 ……あたしは、生まれついてのリスクを抱えている。この蜥蜴の肉と/眼と
/刺青は、あたしの小さな器から溢れる過分な道具≠セった。
 マーマに拾われた頃は魔眼の制御のしかたも知らなかったため、毎日のよう
に高熱を出しては倒れていた。このまま衰弱死すると危ぶんだマーマが頼った
のが、この魔法使いサマだ。
 あたしの右眼の使い道を教えてくれたのはマーマだけど、使い方を教えてく
れたのはシャオジエだ。その他にも、躰の負担を軽減するために色々な心霊施
術を行ってくれている。シャオジエの定期診療は、あたしが生きる上で欠かせ
ない習慣だった。もう十年繰り返している。支払った金額は数えたくもない。

 ―――心霊施術なんて超高等医療を受けている奴、このクーロンでいったい
どれだけいるんだろうな。

46 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 21:23:34


 診療所の場所―――つまり、シャオジエと会うのは決まってこのペントハウ
スだった。彼女は〈針の城〉はおろか、中心街にも共同租界にも出ようとはし
ない。逗留生活はシップ港の敷地内でいつも完結していた。
 治安の悪さを気にしているんだろうか。……その割には、マーマみたいな物
騒な商売人と友達だったりするし。よく分からない。彼女のことで分かること
なんて、なにひとつない。―――それでも、マーマがああなってしまった今、
頼れる大人≠ヘシャオジエしかいなかった。
 変人だし奇人だけど、正しくあたしの姉貴分だ。

「ねえ、シャオジエ」

「ん、なにアルか」

 シャオジエはトランクから施術道具を広げている。

「クーロンの外ってさ、どういうとこなんだろ」

「……火蜥蜴の。あなたさっきから話飛びすぎヨ。ワタシと会話する気あるの
なら、もうちょっと話の筋道を立てて欲しいネ」

 彼女のクーロン訛りはほんとに嘘くさい。十年来の付き合いだけど、未だに
慣れない。けど、それを指摘すると施術中になにをされるか分かったものじゃ
ないから、あたしは黙っている。

「―――誘われちゃったんだ、あたし」

外≠フ住人であるシャオジエの意見が聞きたい。あたしは一ヶ月前の運命
的な出会い≠ゥら今日の別れまでの経緯を掻い摘んで説明した。
 もちろん、リリーの正体については適当に脚色して誤魔化している。いくら
シャオジエでも……いや、大切なシャオジエだからこそ、下手に真実を明かし
て、〈針の城〉の入り組んだ事情に巻き込みたくはなかった。

「ロマンチックな話アルねぇ……」

 話を聞き終えたシャオジエは溜息を漏らした。

「迷惑千万な話だよ」

「そうアルか? 女冥利に尽きるアル。ワタシなら手籠めにして、目一杯愛玩
するヨ。飽きたらさよならして、クーロンに戻ればいいだけネ」

 シャオジエはしれっと言う。……魔女というより、ただの人でなしの言葉だ。

「そうじゃなくて、お姉様に聞きたいのは外≠ノついてのお話。あいつがそ
んなに恋い焦がれるほど、外≠ニやらは素晴らしいものなのかい」

「外≠セけじゃ抽象的過ぎるアルよ。退屈なリージョンもあれば、奇天烈な
リージョンだってアルある。……でも、ただ別のリージョンに行ってそこで新
しい生活をしたいだけなら、クーロンのほうがスリリングで飽きが来ないかな
ぁ……とは思うアル。ワタシ、クーロン好きヨ」

 それは観光者の意見だな。あたしは胸のうちで嘆息する。
 クーロンで生活しているあたしからすれば、生きるために生きる毎日は絶対
に好き≠ニ言えるようなものじゃなかった。

47 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/20(土) 21:44:39


「お悩み相談もよろしいけれど、そろそろ本業のほうもさせるアルね。さっさ
と裸になって、ベッドに仰向けになるよろし。優しくしてあげるヨ」

「語弊のある言い方するよなぁ」

 あたしは渋々とブルゾンとニットセーターを脱ぎ、下着姿になった。躰を切
り開くことが目的じゃないから、下までサービスする必要はない。
 警戒心を露わにしながらクイーンサイズのベッドに横たわる。シャオジエは
指先であたしの肌をなぞるようにして身体の調子を検めた。さすがにプロだけ
あって、手つきにいやらしさはない。

「前に診たのはいつだたカ」

「一ヶ月と半分ぐらい前かな」

「休息はしっかり取ってるアルか」

「ぼちぼち」

「嘘ね」

 シャオジエは断言する。くりくりと動く大きな瞳で凄まれると、あたしはな
にも言えなくなってしまう。愛敬に富む顔作りなのに、どうしてこんなにも迫
力があるんだろうか。

「火蜥蜴の。オマエ、まだ不眠癖治してないのか。オマエが眠くならないのは
脳みその歯車がちょと狂ってしまっているからなだけで、眠らなくても生けて
いけるってわけじゃないアルよ。無茶な生活続けていたら寿命削るだけって、
ワタシ何十万回も言った。どうして改めないアルか」

「忙しいんだよ」

 半分嘘で、半分本当といったところか。
 故買屋の商売に定時なんてないし、マーマから引き継いだ利権関係の仕事が
あたしの時間を食い潰している。それに加えて趣味の心霊工学と死体いじり。
一日の時間が倍になっても足りやしない。
 けど、あたしが睡眠を遠ざけるのはそれが理由じゃない。……単純に、寝る
のが嫌いなんだ。いやな夢を見るから。

 夢の中では、必ずあたしはあたしでなくなる。男の場合もあれば女の場合も
あるけど、イーリンであることは絶対にない。まったく別の性格をして、まっ
たく別の思考をしていて、見たこともない世界で生きている。

 太陽を何度も見た。クーロンの日常とは無縁の陽光を、あたしは夢の中で幾
度となく目にしていた。あたしではないあたしが、太陽が浮かぶリージョンで
生きているんだ。

 あたしという自己が薄らぐ。気持ち悪かった。悪夢としか思えなかった。
 うなされて目を覚ます度に、あたしは自分の躯を自分で抱いて、そこに火
蜥蜴のイーリン≠ェいることを確かめる。自分が自分で無くなってしまう感触
は、何百何千と体験しても慣れるものじゃない。
 どうして夢の中で、赤の他人の生と死を繰り返さなくてはならないのか。

 昔から睡眠をとるのは嫌いだったけど、一年前まではマーマが口うるさかっ
たため、睡眠薬を飲んで強引に躰を休めていた。いまはあたしの躰を気にかけ
る奴なんて誰もいないから、滅多なことでは横にならない。ベッドで寝るぐら
いなら、仕事中にぶっ倒れたほうがマシだとさえ思っている。

48 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/20(土) 21:44:58


「怖いんだ……」

 胸元に置かれたシャオジエの手を握る。

「あたしはあたしでいたい。あたしじゃなければイヤだ。他の誰かになるなん
て耐えられない。だから、お願いだよシャオジエ。今日はあたしを睡らせない
で。あたし、痛くても我慢するから。このまま診てくれよ―――」

「火蜥蜴……」

 シャオジエのかんばせが珍しく真剣味を帯びた。
 ……が、すぐに崩れた。

「それは無理な注文ネ。意識が覚醒している状態だと、診られるものも診られ
ないアル。大人しく寝付いて幸せな夢見るヨロシ」

 あたしの手をほどくと、シャオジエは手のひらに魔法円を展開させた。肉眼
でも視認できるほど強力なサークル。魔法使い≠フ自称は伊達じゃない。

「てめえ……」

「大丈夫よ。お脳も休んでもらうから夢は見ないアル。安心して休むがいいネ」

「信用できねえ」

「言葉遣いには気を付けるアル」

 シャオジエの笑顔。人間どころか、虎すらも喰い殺しかねない笑顔。
 やばい、と戦慄したときには遅かった。シャオジエはにっこりと笑ったまま
魔法円を握り潰す。麻酔で眠らせるのはやめたんだ。
 ということは、つまり―――
「覇!」のかけ声と同時に、みぞおちに鉄拳が突き込まれた。うめき声をあげ
る暇も、痛みに悶える余裕も与えてはもらえなかった。
 あたしの意識は闇に削り取られ、一撃のもと昏倒する。

 ―――昔からそうだ。昔から大人げのない女だった。
 子供みたいにあたしにじゃれつき、見様見真似のカンフーでいじめてくる。
 見かけばかりの模倣術のはずなのに、やたらと堂に入っていて、昔はいつも
泣かされていたっけ。
 腕力で訴える魔法使い。つくづくわけの分からない姉貴分だと思う。


                  * * * *


 結局、夢は見てしまった。
 いままでとはおもむきの異なる、変わった夢だった。
 クーロンではないどこか。
あたし≠ヘ如何にもといった感じのお嬢様な容姿をしているのだけれど、な
ぜか服装は真っ白な死装束で、しかも土に汚れていた。

 目の前には、寒気がするほど美しい女が立っている。
 美しいといっても女性的な印象が欠落していて、絵本に出てくる王子様のよ
うな格好をしていた。髪型は手の込んだショートヘアで、浅葱色に燃えている。
 緑と藍が入り交じったかのような不可思議な色。

49 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/20(土) 21:45:15

 
 女は真紅の瞳であたしを睨んでいる。
 向けられる殺意は、鋭すぎて肌が切り裂けそうだ。
 ああ、憎まれているんだな、とあたしは思った。

 視界が反転する。景色が流れる。
 あたしの意識など気にも留めず、あたし≠ヘ逃げていた。殺意を迸らせる
女から逃げていた。『ついてねえ』だとか『変な死体を選んじまった』とか悪
態を吐きながら逃走する。

 女が追ってくる。容赦なく、慈悲もなく、死神の靴音を響かせて追ってくる。
あたし≠ヘ抵抗もそこそこに逃げる。実力差が違いすぎる。勝負にならない。
相手はバケモノの中のバケモノだ。

 どうしてこんな状況になってしまったのか。逃げた先に、どんな運命が待ち
構えているのか。あたしにはまったく分からない。
 趣向こそ違うが、やはりこれもいつもと同じ悪夢だった。
 あたしがあたしでなくなってしまった悪夢。究極の他人事。別の誰かが、ま
ったく別のリージョンで、別の人生を過ごす。

 違和感があるとすればそれは―――そう、その別人サマの人格は、常に決ま
っているような気がする。……そんなわけ、あるはずないのに。だって、あ
たし≠フ姿は夢を見る度に変わっているんだ。同じ人物だったことは一度とし
てない。なのに人格は同じだなんて、あり得るものか。

 女/死神があたし≠ノ追いついた。
 振りあげられた刃に月光が反射する。
 女の眼は、涙で濁っていた。
 ……まさか、泣いているのか。
 我が目を疑った次の瞬間、あたし≠フ胸に朱色の花が咲いた。

 あたしは死んだ。


                  * * * *


 眠っていた時間は三時間。診療なんていつもは一時間もかからないのに、シ
ャオジエが起こしてくれなかったせいで無駄な時間を重ねてしまった。

 悪夢に飛び起きたあたしに「早上好(ツァオシャン・ハオ)」なんてほがら
かに挨拶してくるシャオジエには、枕の一つでもぶん投げてやりたかったけれ
ど、報復の恐ろしさを考えると、上衣を引っ掴んで荒々しく部屋から出て行く
ことぐらいしかできない。
 乱暴に足音を立てながら玄関を目指すあたしの背中に、「今回は旅程の都合
で、一週間ほど留まることになったネ」と言葉がかかった。
 なんて珍しい。
 この十年間、彼女はクーロンに三日と居座ったことはなかったのに。

「いつでも遊びに来るヨロシ」

 返事はドアを閉める音。ちょっと冷たいかな、と一瞬だけ後悔したけれど、
あんな悪夢を誘発してくれた女に気を使う必要ないとすぐに考えを改めた。
 あたしは忙しいんだ。
 クーロンは常夜のせいで時間の感覚が狂いやすいけど、一日の区切りははっ
きりと存在する。スケジュールが埋まっているあたしには、三時間も眠る余裕
なんてなかった。今日はグオワンホテルにグランドピアノを売り込まなくちゃ
いけない日なのに。急がなければ遅刻だ。

50 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/23(火) 22:04:17


 クーロンが不夜城と呼ばれる理由のひとつは、社会的な意味合いでの夜
が存在しないからだ。終わらない夜というのは、夜の価値を見失わせてしまう
らしい。―――どの時間に業務を初めて、どの時間に終わるのか。いつ起きて、
いつ寝るのか。それらは家族や人種、会社や部隊といった集団ごとに異なる。
 生活時間を他者と合わせようという殊勝な心がけをもった人間は少なく、み
な他人が寝こけている時間に活動することがいちばん利に繋がると信じていた。
 お陰でクーロンにはコアタイムというものが存在せず、どの時間帯を切り取
っても、ひとは均等に起きていて、そして寝ていた。
 
 あたしの事務所の場合は、更に事情が特殊だ。
 トップのあたしは不眠症。事務担当のロートルは事務所に居住する引きこも
り。肉体労働担当のハダリーは屍体のため、人間が必要とするような休息はと
らない。―――三人が三人とも、常識からかけ離れた生活をしているため、必
然、営業時間なんてものも存在しなくなる。「仕事あれば働くし、なければ休
む」という故買屋としては理想的な就業形態になっていた。
 だから、どんな時間に事務所へ訪れようと、最低限の応対はされる。

「オハヨウゴザヰマス、社長」

 ……ただし、こんな応対でもよければ、の話だけど。

「社長はやめろって言ってるだろ、ハダリー」

 腰を屈めて掃除機をかけるハダリーの背中を挨拶代わりに蹴飛ばす。びくと
もしないどころか、逆に弾き返された。筋肉の状態は依然として良好だ。

「ハダリーは掃除好きだよな」

「さぼルト、社長ニ怒ラレマスカラ」

 うーん、かわいくない返事だ。

 掃除を言いつけるのには理由がある。
 別にあたしに小姑気質があるわけじゃない。
 
 クーロンは妖魔租界戦争以後、〈針の城〉以外の土地は霊力場としては貧弱
な地相に書き換えられてしまったが、それは天然もの≠ェ育ちにくいという
だけで、人為的な術≠ノ対する抑止力にはなっていない。むしろ、地相が潔
癖なぶんだけ、呪術などの効果が顕現しやすい。
 あたしみたいに何かとひとの恨みを買いがちな商売をしている場合は、神経
質なぐらい怨霊掃除機で簡易除霊をかけておく必要があった。
 掃除/除霊をサボったせいで、巨大化した悪霊に金庫を喰われただとか、火
事を誘われただとか、そういう被害は〈針の城〉の外でも多い。気を付けるに
越したことはないんだ。
 ……まあ、的にされるのは悪辣な金融業者だとか、牧場≠経営する人買
いだとかが大半だから、自業自得と言えばそうなのだけれど。

「ま、掃除もいいけど、仕事が待ってるからさ。区切りのいいところで工房に
上がってきたよ」

 ハダリーは「ハヰ」と返事すると、再びがーがーと掃除機をかけ始めた。 

51 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/23(火) 22:07:50


 グランドピアノをホテルまで運ぶ。そのために、ハダリーの調整≠ヘ必
要不可欠だった。―――牛頭の彼女の仕事は、トラックの荷台でしっかりと
ピアノを保持すること。劣悪な路面にべこべこの荷台。傷一つつけずに運ぶ
には、人外の膂力を繊細に使いこなさなければならない。

 ハダリーの躰はミノタウロスの死体だ。筋肉や骨に停滞≠フ呪文をかけて
防腐処理はしているものの、死んでいるという事実は揺るがない。血は枯れて
いるし、心臓も止まっている。
 彼女の躰はただの器≠セ。動かすことだけが目的なら、別に死体に拘らず
とも、人形でも紙コップでもなんでも構わない。どんな無機物でも、魂を宿ら
せれば霊的な活動は可能だ。―――けど、より高度な動き、人間に近い機能を
求めるのならば、やはり死体が望ましい。生命の肉体に勝る器≠ネんて、こ
の世には存在しないのだから。

 ハダリーの躰は死んでいる。では、死体を動かかすものはなにか。魂≠セ
けでは十全な答えにならない。この場合、霊的に駆動させるためのエネルギー
―――妖力だとか魔力だとか、そう呼ばれる類のものが必要となる。
 魂そのものにもエネルギーは内包されているが、より高機能を求めるならば、
頭脳とは別にエンジンを作ったほうがいい。魔力を生み出し、それを全身に循
環させる心臓。―――ハダリーの場合は、それが右眼に埋め込まれている。

 機関(エンジン)と呼ぶより増幅器(ブースター)と呼ぶべきか。それは莫
大な魔力を秘めた金緑石だった。

 五年ほど前にマーマからお守り≠ニして渡されたものだ。
 猫の瞳みたいな宝石だったから、初めの頃は金属にはめ込んで首飾りにして
いたけれど、その価値に気付いてからは魔力の源泉として使うようになった。

 魔石の中でも格別に霊的純度が高いものなのだろう。下手にナイフなどで疵
を入れれば、街ひとつ吹き飛ばし兼ねないほどのエネルギーを無限に回転させ
ている。魂の価値を底上げするには最適の媒体。ただ石を開放するではハダリ
ーの躰が消し飛んでしまうから、彼女の魂≠ナある人造霊とは別に、魔力量
調節の役割を担う魔石管理≠フ人造霊を右眼に組み込むことにした。
 ひとつの躰に二つの魂。
 ……これが、この人造僵尸の複雑さの原因になっていた。

 一般的な常識を持ち合わせる憑依術者なら、魔石管理の人造霊は肉体管理と
人格を受け持つ人造霊ハダリー≠フ支配下に置かせるだろう。魔石の出力調
整は、ハダリーの意思で行えるようにするんだ。
 ……けど、あたしはハダリーの人格を極力人間に近く、自由意思に基づいて行
動するよう設定している。知識も書き込むのではなく、自分で覚えるよう促して
いる。お陰でいまの彼女がいるわけだ。―――あんな頭のタリナイ筋肉ダルマに、
ソロモン級の魔石を自由に管理させられるものか。洋服箪笥を運ぶために全開放
など、血迷った真似を平気でしかねない。
 魔石管理は独自の権限を持つ人造霊にやらせる必要があった。

 魔石の人造霊猫睛石(びょうせいせき)

 この無人格の人工魂魄と、ハダリーの支配率≠いじることで、用途に応じ
た仕様になる。猫睛石(びょうせいせき)≠フ支配率を高めれば身体能力が上
がる代償として理性が薄れ、暴走気味になる。ハダリーの支配率を高めれば供給
される魔力が少なくなるため身体能力は下がるけど、使用効率が上がるから頭は
良くなる。細かい仕事もできるようになる。

52 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/24(水) 00:02:18


 猫睛石の支配率を一割弱まで落とし込む。あまり出力を絞りすぎると今度は
猫睛石が活動目的を見失って暴走する可能性があるため、あまり長くは続けら
れない。三時間が限界だろうか。積み卸しや輸送にそこまで時間はかからない
けど、商談が長引くと帰宅が遅れる。出先で支配率を調整するのはゴメンだ。

「さっさと終わらせて、帰りに屋台でオレンジジュースでも飲もうぜ」

「はい、社長」

 魔力供給が抑えられたハダリーは動きが機敏だ。ただし、人間味は損なわれ
る。あたしがプログラムしたことしかできなくなる。
 それは使い魔としては理想的なのだろうけど、予測不可能な進化≠求め
るあたしとしては、ハダリーにトラックやスクーターと同じ道具≠ナ終わっ
て欲しくないという思いがある。……成長や進化はただ時間を重ねても始まら
ない。燃焼するエネルギーをぶち込んで初めて歯車が回り始めるんだ。そのた
めにはやはり、魔石が必要だった。

 ピアノを何枚もの毛布で丁寧にくるみ、ロープで荷台に固定する。それを更
にハダリーががっちりと押さえて、ようやく準備完了だ。
 あたしはトラックの運転席に座って、エンジンを吹かした。

 珍しくロートルが見送りに立っている。二階の窓越しからだけど。
 あたしは適当に手を振ると、アクセルを踏みこんだ。


                  * * * *


 クーロンには自動車用の道路なんてないから、出せるスピードにも限界があ
る。あたしのトラックも普段は成人男性の全速力程度で走行していた。遅いと
は思うけど、積載量の多さを考えれば充分に便利だ。
 今日のように最高級の商品を運ぶ場合は、更にスピードを落とす。徐行と呼
んでも差し支えがないぐらいまで。トラブルの芽は可能性の段階で摘むのが長
生きの秘訣だ。
 ……けど、そのやり方ははっきり言ってイライラする。かっ飛ばせば十分で
辿り着ける距離を一時間かけて進むなんて納得がいかない。

 こういうとき、いつもならハダリーが愚にもつかない質問をしてくるから、
雑談で苛立ちを誤魔化せるのだけど、いまはお人形モードだからそれも期待で
きない。あたしは指先でハンドルをこつこつと叩きながら、フロントガラス越
しに代わり映えのしない街の風景を眺めた。

 あんな夢を見せられたせいで、無駄に気が立っている。
 それに、リリーのことも頭から離れない。

 せっかく歩み寄ろうと思ったのに。外≠ノは行けなくても、マフィアの目
を盗んで一緒に遊ぶぐらいの関係にはなれると思ったのに。
 どうしてあんな風にいなくなってしまったのか。また一週間ほど経てば、い
つものようにあたしの部屋に忍び込んできてくれるのか。

 思わず独りごちてしまう。

「……どうしてダージョンは、リリーを閉じ込めるんだろうな」

53 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/24(水) 00:02:27


 あんな桁外れの魔力を持った小娘を野に放てるはずがない。それは理解して
いる。けど、そんなのが監禁の理由ならば、さっさと殺してしまえばいいのに
とあたしは思う。幽閉して、それで誰が利を得るというんだ。

 リリーは外に出たがっている。それはつまり、火焔天での生活は退屈だとい
うことだ。―――あたしは、クーロンの生活を辛い≠ニ思ったことこそ多々
あれど、退屈なんて感じたことは一度もない。

 ……リリーは、かわいそうな子なのかもしれない。

 生きているならそれで満足だ。クーロンではそう嘯く奴が多い。あたしもリ
リーにそう諭したことがある。生きるために日々を過ごすことに忙殺されてし
まった者の泣き言。―――中には、マーマの境遇すら羨む奴もいた。阿片吸っ
て毎日を夢うつつに過ごせるなんて、最高の人生じゃないか、と。

 けど、それは違うだろう。

 いまのマーマはただ心臓が動いているだけだ。死体のハダリーのほうがよっ
ぽど人間らしい。だけど、誰もハダリーになりたいとは言わない。
 どうしてだ。
 ハダリーには理由≠ェあるじゃないか。生きていく上での目的を確立させ
人間に近付きたい≠ニいう欲求に基づいて日々学習を積み重ねている。阿片
に溺れる老婆よりもはるかに人間らしく生きているのに。
 確かに、ハダリーの理由≠ヘあたしが与えたものだ。人間を目指せ、とあ
たしがプログラムした。でも、切っ掛けに貴賤なんてない。問題は自分の中に
生きていく価値を見つけられるかどうかだ。
 ハダリーはそれを持っている。……だから、あたしはハダリーが羨ましい。
同じように、リリーも羨ましかった。

 彼女はいままで死んでいたんだろう。目的を持つことを許されず、ただ生き
るためだけに生かされる日々。火焔天は彼女の棺桶だったに違いない。
 けど、リリーは見つけた。外≠ヨの道を。目的を。理由を。価値を。
 火焔天の外を知ったいまのリリーは、間違いなく生きている。

「くそっ」

 ハンドルを殴る。

 リリーはかわいそうな子だ。この歳になるまで、自分の価値を見出せずにい
た。けど、リリーは恵まれたガキだ。だって、彼女は外へ行きたい≠ニいう
目的を抱いてしまったから。生きる上での原動力となる理由≠見つけてし
まったから。―――いまのあたしには、理由も目的もない。どっちも見失って
しまった。マーマの喪失とともに。

 このままクーロンで、ケチな故買屋として一生を終えるのか。

 脳裏によぎる焦燥。あたしは愕然とする。
 ……こんなこと、いままで考えたこともなかった。
 マーマのためにも、あたしのためにも、故買屋の仕事は続けていかなくちゃ
ならない。金が無くなれば、マーマもあたしもあっという間に地獄行きだ。生
きるために生きる。当然のように、その境遇を受け容れていたはずなのに。

 もう、限界なのかな。

54 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/24(水) 00:02:43


 一年努力した。マーマがああなってしまったことで欠落したあたしの価値を、
生きる≠ニいう目的で代替した。マーマに認められたい、マーマの力になり
たい。そういった感情はすべて、マーマを失いたくない≠ニいう絶望に変換
した。……でも、これ以上はもう無理だよ。

 狂気に期待していた。狂ってしまえば、いまの境遇にも価値を見出せるかも
と甘い考えに未来を託していた。けど、あたしの正気は予想以上に頑健だった。
 認めたくなくても、理性が認めてしまっている。
 マーマは、もう―――


 ―――そのとき。ふと覗いたサイドミラーが、見慣れない影を写した。
「なんだあれ」と声に出して呟いてしまう。

 四つに木製の車輪に篭が乗っかって走っている。例えるなら、馬車が馬に牽
かれず自走しているような。どこかで馬に逃げられたのか。
 ……いや、違う。あれは蒸気自動車だ。
 黒い煙を吹き出しているのが何よりの証拠だというのに、あまりに不格好過
ぎてすぐに気づけなかった。
 馬車に蒸気機関を乗せただけの粗悪な乗り物。エンジンの無駄遣いだ。その
癖、一丁前にスピードだけは出している。
 すぐにあたしのトラックの横に並び、そして―――そして、減速した。

 御者と言うべきか、運転手と言うべきか。黒いインバネスコートに黒いボー
ラーハットという黒装束の男が、これまた黒い拳銃の銃口をあたしに向ける。
 冷たく暗い銃口を。
 
「ハダリー! ピアノを!」

 守れ、と叫び終える前に衝撃が走った。口を開くより疾くハンドルを右に切
っている。鉄製のトラックが木製の蒸気自動車に体当たりをしかけ、馬力に任
せて押し潰した。どんなにオンボロでも、こっちはクラック・エンジンを搭載
しているんだ。馬力が違う。
 拳銃の銃爪は引かれたみたいだけど、弾があたしを貫くことはなかった。

 蒸気自動車は左側の二輪を破壊され、シップが墜落するように地面に倒れこ
む。バックミラーを睨みながら「強盗か?」と呟くのも一瞬、あたしはすぐに
目を見開き、驚愕に声を失った。

 自動車が立ち上がった。比喩ではなく、本当に立ったんだ。
 左側は車輪が破壊された部位か。右側はスポークの隙間から、先の細い多関
節の足≠ェ何本も伸びて車体を支えている。
 あれじゃまるで蜘蛛じゃないか。
 巨大な、蜘蛛。

「まさか―――」

 あれは蜘蛛そのものなのか。

 蒸気自動車の外見は、街中で目立たないよう隠れ蓑にしていただけで、本体
はエンジンかどこかに隠していたのか。妖魔は魔物を道具に憑依させる術に長
けているというけど、あれがそうなのか。
 蒸気自動車が破壊された拍子に蜘蛛の魔物が実体化したと言うのなら、バッ
クミラーに映る非現実も一応は納得できる。あれは巨大蜘蛛のモンスターだ。

 けど、どうしてあたしを追う!?

 魔物を使った強盗だっていうのか。こんな街中で? そんな莫迦な。

55 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/24(水) 23:43:38


 絹を裂くような悲鳴が響く。なんともお上品な恐怖の表現。どこかの不幸な
ご婦人が巨大蜘蛛と出くわし、その場で卒倒してしまう。付き人も恐怖に竦み
上がって動けないでいた。
 ここは既に租界の一部。閑静な住宅が並び、街灯が穏やかに道を照らす。
 租界の人口密度は中心街の一割以下だけど、居住者は中産階級以上の紳士淑
女ばかりだから、こういった凶事には慣れていない。いまのご婦人サマがいい
例だ。このままではパニックが起きかねない。

 租界で問題を起こすのだけは避けたい。魔物の一匹や二匹、駐留軍が華麗に
仕留めてくれるだろうけど、その場にクーロン人のあたしが居合わせたら、罪
をなすり付けらるに決まっている。
 租界の司法はクーロンから独立している。ここではあたしが外国人≠セ。

「バックれるしかねえな!」

 クラック・エンジンの出力を上げて、一気に加速する。もはや積み荷をどう
こう言うような状況じゃない。一刻も早くこの場から離れないと。
 だけど、市街で出せるスピードなんて自ずと限られる。中心街のような雑多
な人混みでこそないものの、街中を歩く人影は目立った。

 危うく人を轢きかけてしまい、ハンドルを切ってしまう。舌打ち。僅かな失
速だけど、魔物は一瞬の隙を見逃さなかった。

 バックミラーに広がる脅威の光景。巨大蜘蛛は八本の足をバネに変えて跳躍
する。足場に選んだのは街灯の尖端。その体躯からは想像もできないほど軽や
かに乗っかるものの、やはり街灯は重みに耐えきれず、鉄の支柱をぐにゃりと
曲げた。……が、巨大蜘蛛は素早く別の街灯に飛び移って難を逃れる。
 あとはその繰り返しだ。
 軽業師の如き体捌き。街灯から街灯へと跳ぶ魔物は、遮られるものがないた
めあっという間にトラックとの距離をゼロに変えた。
 
 ―――蜘蛛の背中に乗るインバネスコートの男は、いったいどんな表情であ
たしを追い詰めているのか。

 八本足のフライングボディプレスがトラックの荷台に直撃する。衝撃であた
しの躰はシートから跳ね上がり、肩をフロントガラスに激突させた。
 トラックは積載量を大幅にオーバーさせたまま路面を滑り、二階建ての民家
の玄関に頭から突っ込む。
 運転席が潰れる直前、あたしはドアを蹴破って外に躍り出た。宙で躰を回転
させて、足から綺麗に着地する。踵が土を引っかき、地面に疵痕を残す。

 確かめるまでもなくトラックは全壊だった。運転席は壁にめり込んで潰れ、
荷台は蜘蛛の着地点を中心に折れ曲がっている。
 ……最悪だ。仕事道具を失ってしまった。明日からなにを足にして商品の回
収と輸送を行えばいいのか。
 クーロンでは手に入らないものはないと言っても、自動車を非正規のルート
で買い付けるには時間も金もかかる。

「弁償は……期待できねえよな」

 巨大蜘蛛の四対八個の眼が一斉にあたしを睨んだ。
 禍々しい血色に染まった瞳。
 あたしは痛めた肩をさすりながら、超常の生物と相対する。蜘蛛の背中から
あたしを見下ろすインバネスコートの男は、不気味なまでに無表情だ。

56 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/24(水) 23:48:25

 あたしはやれやれ、と嘆息する。
 トラックの損失は痛い。痛すぎる。だからこれ以上の無駄な出費は控えたい。
 例えば、蜘蛛の腹の下に敷かれているグランドピアノとか。
 あれが無事なら涙は飲み込める。

「……ハダリー、あたしの言いつけは守ったかい」

 返事はない。
 やっぱりあの調整では無理か。あたしは更に深く溜息を吐く。トラックに加
えてピアノまでスクラップになってしまったら、あたしは三日くらい立ち直れ
ないかもしれない。故買屋を初めて以来の記録的大赤字だ。

 奇蹟を期待するか? ……いや、無理なものは無理だ。ピアノはハダリーご
と潰された。残酷な真実。あたしは「守れ」と言ったのに。

 巨大蜘蛛は八本足を地面に突き立て、トラックの荷台(だった粗大ゴミ)か
ら降り立った。そのままかさかさと地を這ってあたしに接近する。
 ……莫迦な奴。そのまま押し潰していれば、身動きが取れなかったのに。

「―――ハダリー、今度はあたしを守れ」

 トラックの残骸から一筋の影が飛び出す。牛面を悪魔の仮面で隠した人造僵
尸。衣服に損傷はあるものの、筋肉の鎧は無傷のまま、ハダリーは背後から巨
大蜘蛛に掴みかかった。
 ……が、あっさりと振り払われる。ハダリーは派手に宙を泳ぎ、トラックが
突っ込んだ民家に背中から激突した。

「……弱い」

 一割だと厳しいか。

 なら、

「―――猫睛石、喰え」

 支配率変換。人造霊ハダリー≠ェ魔石寄り≠ノ調整される。魔力の供給
量が跳ね上がった代償として、彼女は人格を暴走させながら再起動した。

 いま、ミノタウロスの躰を動かしているのはハダリーであってハダリーでは
ない。ハダリーの魂魄を通して顕現した魔石の代替霊猫睛石≠セ。
  
 魔力を孕んだ咆吼が夜を震わす。

 ハダリー―――いや、猫睛石はその場で四つん這いになった。尻を持ち上げ、
前足≠ナ地面を引っかくように突き立てる。
 牛が突撃する姿勢とは明らかに異なる猫の威嚇の如きポーズ。腰の細い女が
やれば様になるんだろうけど、全身を筋肉で固めた牛頭の魔物が背をしならせ
ても気持ち悪いだけだ。

 猫睛石の支配率が高まると、なぜか彼女は猫の動作を行うようになる。猫睛
石は無人格だ。癖なんて持っていない。だとすると、あれは魔石の特性なのだ
ろうか。魔石から流れる魔力が人造霊の行動パターンに影響を与えていると。
 真相は分からない。ただ、こうなってしまったハダリーは無敵だ。

 ハダリー/猫睛石が地面を蹴った。自身の体躯を一個の弾丸に変えて、空気
の壁を撃ち貫く。桁外れのスピード。あたしの視力でも視認は不可能。

 目前まで迫っていた巨大蜘蛛は横合いから襲いかかった衝撃に軌道を強制的
に変えさせられる。
 吹き飛ばされた蜘蛛は軽やかに受け身を取るが、追撃までは捌けなかった。
 ハダリー/猫睛石は巌の拳を爪に見立てて、蜘蛛の顔面を切り裂く。あたし
が瞬きする間に、八つの瞳すべてから明かりを消し去ってみせた。

57 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/30(火) 22:30:17


 ミノタウロスはただでさえ強力な魔物だ。それに加えて、肉体改造により筋
力を強化し、魔力でポテンシャルを底上げされている。純粋な戦闘能力ならば、
上級妖魔とだって対等に渡り合える自信があたしにはあった。
 アトラナートの巨大蜘蛛程度では絶対に太刀打ちできない。

 ハダリー/猫睛石の解体ショーが始まった。すでに事切れている巨大蜘蛛に
更なる攻撃を加える。返り血があたしの足下にまで飛び散った。
 怨恨すらこの場に残すことを許さない。絶対的な屈服を強いているんだ。
 ……あたしはそんな物騒なプログラムはしていない。
 恐らくはこれも、魔石の影響。

 巨大蜘蛛の背中に乗っていたインバネスコートの男は、いまは地面に放り出
されて無様に這い蹲っている。あたしは鷹揚に歩み寄ると、無言で男の腹を蹴
飛ばした。小娘の蹴りとはいっても、あたしの力なら人間は軽々と吹き飛ぶ。

「どこの誰かは分からないが、租界の軍警に引っ張られる前に、ちょっとあた
しの事務所まで付き合ってもらうぜ」

 男は何事かを呻きながら、よろよろと立ち上がる。痛々しい立ち振る舞い。
やはり召喚主自身は特別な力を持っていないようだ。

「ここで雑談している余裕はないんだ、さっさと―――」

 男がコートに手を突っ込んだ。出てきたのは、つや消し処理された黒い拳銃。
震える手で銃把を保持している。銃口は当然、あたしに向いていた。
 銃爪にかけた指に力が入る。

「おい、やめろ!」

 弾けた。―――男の胸が。
「あたしを護れ」という命令を遵守したハダリー/猫睛石が、握り拳程度の石
を男めがけてぶん投げたんだ。音速を突破する速度で投擲された石は、着弾の
衝撃でばらばらに砕けて、男の体内に飛び散ったに違いない。
 ……即死だ。

「馬鹿! 抵抗なんてしたって!」

 自殺同然の愚行。魔物の抵抗すら退ける相手に、拳銃程度で切り抜けられる
と本気で考えたのか。……あたしのハダリーに人殺しをさせやがって。
 なんて夢見の悪い結末。殺すぐらいなら、逃げられたほうがまだマシだ。

 ここはクーロン。危険な目には何度もあっているし、強盗に襲われたのだっ
て初めてではない。その度にハダリーが返り討ちにしてきた。だけど、殺人は
始めてだ。みんな「相手が悪い」と悟ると尻尾をまいて逃げていった。

 ―――ハダリーにひとを殺めさせてしまった。

 ……いや、違う。あたしが殺したのか。

 手を下したのはハダリーだけど、ハダリー≠ニいう道具を使っていたのは
あたしだ。彼女に責任をなすり付けることはできない。

 罪悪感はない。ショックで足が震えることもない。
 悪いのは相手のほうだと分かり切っている。あの状況で拳銃なんて抜けば、
こっちは殺すしかないのだから。でなければあたしが死んでいる。
 でも胸くそは悪かった。後味も悪ければ寝覚めも悪い。

58 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/30(火) 22:30:56


 軍警が駆けつける前に逃げる必要がある。租界から離れてしまえば、彼等は
追ってこない。中心街の警察権を握っているIRPOに身柄引き渡しを要求するこ
とは可能だけど、租界の人間が殺されでもしない限り、そこまで大きな捜査に
はしないだろう。ろくでなしが殺し合うのは中心街や〈針の城〉に限らない。
 暴力こそがクーロンの日常だ。

 スクラップになった三輪トラックから、数秘機関を抜き出してくるようハダ
リーに指示する。エンジンさえ生きてれば復活は可能だ。
 ……グランドピアノは諦めるしかないけど。
 
 その間にあたしは男の死体に近寄る。こいつも回収していくべきだろうか。
ここに残していけば、殺人の証拠を軍警に握られることになる。どうせ追って
こないとは分かっていても、杞憂は生まれるものだ。
 〈針の城〉ならば死体を「なかったこと」にするのは容易いし、ただ証拠隠
滅したいだけならあたしがパーツとして使えばいい。経費削減。リサイクル。
有機物のエコロジーってわけだ。

 けど、そんなマフィアみたいな真似はしたくないというのが本音だった。
 あたしはあくまで堅気の娘。暴力とは隣接していても、あたし自身が暴力で
はない。例え正当防衛でも、人殺しなんてしたくはなかった。

 取りあえず、死体の素性を簡単に確かめよう。
 年齢は三十代後半から四十代前半。黒ずくめの格好は舞台の衣装めいていて、
着慣れた雰囲気がない。絶命した顔に見覚えはないけど、他に身体的特徴はな
いものか。いざとなったら〈とかげの眼〉を使うまでだけど―――

 そこではた、と目にとまる。

 男の、右手の掌。

 炎龍を簡略化した、記号のような刺青が彫り込まれていた。

「こ、これって―――」

 慌てて地面に転がる拳銃も確かめる。想像通り、銃把に同様の紋様が刻まれ
ていた。……あたしの時間が止まる。考えもしなかった数奇な運命。今なら絶
句したまま窒息死することも可能だろう。心臓さえ止めかねない驚愕。

 ただの強盗だと思っていた。
 魔物を使役するような術者がそんな三流仕事をするのは不可解だけど、あり
得ない話じゃない。食い詰め物はどこにだっている。
 でも、それは現実から眼を逸らしていただけだ。
 強盗の手口ではなかった。男は明らかにあたしの命を狙っていた。
 そして、この炎龍の刺青。

「……こいつはマフィアだ」

 黒社会の人間凶手。〈針の城〉ではなく、中心街に常駐する兵隊。
 
 あたしは今になって殺人の重みに総身を震わせる。とんでもない過ちを犯し
てしまった。凶手がどうしてあたしを狙ったのか。それも気にかかるけど、も
っと重大な問題が目の前でほくそ笑んでいる。戦闘要員とは言え、あたしはク
ーロン・マフィアの構成員を殺してしまったんだ。
 それは疑いようもない敵対行為。

 このリージョンを支配しているのは自治政府でもIRPOでもなく、黒社会だ。
 あたしは、いまこの瞬間から、クーロンの敵≠ニなってしまった。

 あたしの日常が、粉々に砕けた。 

59 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/30(火) 23:01:24


 死体は現場に置いていった。クーロン・マフィアの情報網は正確かつ迅速だ。
あたしが凶手を殺した時点で、事実は知れ渡ったと考えていい。下手に証拠隠
滅したところでなんの結果も生み出さない。

 ハダリーはエンジンを持って事務所に帰らせた。戦闘行為があったのはシュ
ライク租界。ひとまず中心街まで引き上げてしまえば、軍警は手を出せない。
 もし事務所にマフィアが訪れたなら? ハダリーには丁寧に応対しろと言い
つけてある。殺したのはあたしだ。ハダリーは道具に過ぎない。それは向こう
も分かっているはずだし、本気でハダリーの消去≠ェご希望なら、中心街に
待機する凶手じゃ役者不足だ。それはこの結果≠ェ明確に語っている。
〈針の城〉から戦闘部隊を駆り出すぐらいなら、頭のあたしを狙うだろう。

 だから、事務所が問答無用で焼き討ちにあうようなことにはならない。
 ……なんてのは希望的観測だろうか。
 せめてあたしが戻るまでは無事であって欲しかった。

 ―――で、肝心の殺人火蜥蜴はというと。

 いま、クーロンでもっとも危険な場所にいた。
 いちばん近付いてはいけない禁区に足を踏み入れた。
 つまり〈針の城〉。
 黒社会の聖地。


                  * * * *


「リリー!」

 自分の部屋に戻るなり魔女の名を叫ぶ。
「もしかしたら」という期待は一瞬で霧散した。彼女はいない。さすがに、昨
日の今日であたしの帰宅を待ち伏せるなんてことはしないか。
 だけど、ここは〈針の城〉だ。距離は問題にならない。あたしの言葉を魔女
は絶対に盗み聞きしている。
 危険を冒してまで〈針の城〉に戻ったのは、リリーを掴まえるためなんだ。
絶対に呼び出してみせる。

「リリー!」

 だから叫んだ。

「リリー! 聞こえているんだろう。出てこい!」

 何度も。

「リリー!」

 何度も。

「あたしを嵌めて満足か。これで一緒に外≠ヨ行けるとご満悦ってか。淫売
が陳腐なシナリオ描きやがって。……ああ、そうさ。認めてやる。てめえのお
陰であたしはお終いだ。明日にはばら売りされていること間違いなしだぜ。
 ……けどよ、てめえのくそったれな逃避行に付き合うつもりはねえからな。
ここに来たのはあんたに縋るためじゃなくて、あんたに中指を突きたててやる
ためさ。離開、天明見、分別了、我門永別―――じゃあな、魔女め。再見
だけは絶対に言わねえぞ!」

60 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/30(火) 23:25:16


「ちょっとちょっとー」

 背後から声がかかる。花が開くような声。―――そのまま花弁が腐り落ちる
かのような、声。

「なに騒いでるの? わたし、いま悲しみに暮れている真っ最中なんだから。
放っておいてくれてもよくない? イーリンに慰めてもらうのは、もうちょっ
と後の予定。あと少しだけわたしはひとりで―――」

 力任せに胸ぐらを掴み上げる。リリーの表情が強張った。悲鳴すら上がらな
い。初めて触れる暴力に彼女はなにを思うんだろうか。そのまま小さな躰を壁
に押しつけた。

「話せ」

「な、なにを―――」

「知らないなんて言わせない!」

「わけがわかんない!」

 白々しいにも程がある。あたしは更に力を強めて魔女を締め上げた。
 シュライク租界のことだ、と耳元で怒鳴る。

「おかしいと思っていたんだ。黒社会があたしを狙うなんてあり得ない。あた
しだけじゃない。クーロンの人間なら、IRPOに指名手配はされてもマフィアの
敵にだけはならないよう細心の注意をするものだからな。連中にあたしを狙う
理由なんてないんだよ!」

 だけど、事実として凶手はあたしを狙った。魔物を使役して。銃口を向けて。
あたしの命を脅かした。―――結果、凶手は死んだ。
 黒社会の仕事としてはお粗末の極みだ。火蜥蜴≠フイーリン様を中心街の
人間凶手で仕留めるなんて不可能に決まっているのに。
 なら、どうしてインバネスコートの男はあたしを襲ったのか。

 あたしの右眼が真実を見据えた。

〈蜥蜴の眼〉が視たのは、誘惑(チャーム)≠フ名残。
 これはマフィアの仕事じゃない。あの男は操られていただけだ。あたしにマ
フィアを殺させるよう、裏で糸を引いていた奴がいる。

 いったい誰が? ―――そんなの、考えるまでもない。

「バッカじゃない?! 本気でわたしを疑っているわけ!?」

「あんた以外の誰が、こんな真似をして得するって言うんだよ!」

「できないわよ、わたし! 不可能なの!」

 リリーは必死で否定する。目縁に涙を浮かばせるのは、息が苦しいからか。
それともあたしに疑われたからか。……白々しい。白々しいけれども、リリー
ならばもっと上手に嘘を吐くんじゃないのか。胸裏であたしは揺れていた。

「わたしが好き勝手できるのは〈針の城〉の城内だけだし! 誘惑≠セって、
対象を支配するんじゃなくて、強力すぎて精神を吹き飛ばして真っ白にしてし
まうものだって―――そんなことぐらい、イーリンだって知ってるじゃない!」

61 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/01(水) 00:34:14


 ……それも、そうだ。
誘惑≠ニいう状況証拠だけであたしは頭っからリリーを疑ってかかったけど、
彼女の力はああいった搦め手に用いるには強力すぎる。火炎放射器で煙草に火
を点けるようなものだ。―――なら、本当にリリーじゃないのか?

「わたし、このままじゃお外に出られないって知っちゃったんだから。お城に
は結界が張ってあって、それをどうにかしない限り、わたしはずーっと篭の鳥
だって分かっちゃったんだから。その問題を解決しないで、イーリンだけ先に
行かせるわけないでしょ?! やるならもうちょっと後にするわよ!」

 ―――そうだった。

 リリーがあたしの前から消えた理由について完全に失念していた。想像通り、
彼女は物理的に〈針の城〉の外へ出られなかったのか。
 そうなると動機すら無くなってしまう。

 リリーから手を離す。ごめんと謝るより先に、「馬鹿!」と胸を突き飛ばさ
れた。……なにを言われてもしょうがない。彼女の言葉通り、あたしは馬鹿だ。
 だけど、リリーじゃないというのならいったい誰が。事態は余計に混迷した。
リリー以外の誰が、あたしをクーロンから追い出そうっていうんだ。

 あたしはうなだれたまま、ソファに力なく腰掛けた。床を見つめても、答え
は浮かび上がってこない。
 リリーの犯行ならば話はシンプルだった。「最悪の悪戯」という分かりやす
い絵図になった。……でも、そうはならなかった。なにも見えないまま、マフ
ィア殺しという事実だけが肩にのし掛かる。
 どうする、どうすればいいんだイーリン。こんなとき、マーマならどんな決
断をした。どうやって危機を乗り切った。

「ねえ、イーリン……」

 怒りより心配が勝ったのか、リリーが躊躇いがちに話しかけてきた。

「わたしからダージョンに言って聞かせてもいいよ。死んだのって使いっ走り
の殺し屋なんでしょ。そんなの大した被害じゃないもの。わたしがダージョン
にお願いすれば、きっと許してもらえるわよ」

「そんなこと―――」

 できるわけがない。
 事態をより悪くさせるだけだ。
 あたしとリリーの関係が紅の魔人サマに知れれば、彼女が火焔天の外へ自由
に出られることまで発覚するということ。マフィア殺しとは比較にならないほ
どの怒りを買うことになる。火に油を注ぐようなもんだ。

「でも、このままじゃイーリンは」

「ああ、間違いなく殺される」

 失笑してしまう。一時間前までは、今日の連続が明日だと信じていた。この
日常は永遠に続くと当然のように受け止めて、焦燥すら覚えていた。
理由なき今日≠どう生きようかなんて、そんな悩みに浸っていたのに。
 ―――まさか、明日が今日と違うものになるなんて。こんなにも突然、日常
が消えて無くなってしまうなんて。

62 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/01(水) 01:11:08


「そんなのイヤ! イーリン、死なないで」

 どさくさに紛れてリリーが抱きついてくる。拒む気にもなれず、あたしは彼
女の頭をそっと撫でてやった。……混乱していたとはいえ、暴力で脅したあた
しを憐れんでくれるなんて。改めてリリーの好意は本物なんだと思い知る。
 感謝すべきかもしれない。リリーのお陰で、ささくれ立っていた感情が静ま
り、優しい気持ちになれた。

「死ぬ気はないよ」

 ほら、微笑みすら浮かべられる。

「死ぬもんか」

「……ほんとに?」

「約束する。絶対に死なない」

 だから焦りもするんだ。事態を切り抜けようと頭を悩ませるんだ。
生きる理由が見当たらない≠ネんて苦悩に苛まれていた癖に、いざ生命が脅
かされると、あたしはこうして生きる道を探している。
 どうしようもない矛盾だ。でも、不快ではない。

「どっちにしろ、クーロンにはもういられないなぁ」

 ぼやくように言った。
 身を隠すにしても限界がある。命を惜しむなら、一分一秒でも早くこのリー
ジョンから離れなければならない。……けど、リージョン間移動には莫大な金
がかかる。それに、マーマを残したままここを離れるわけにもいかない。
 マーマと一緒にクーロンから離れるか。ツテがないこともないけれど、そこ
から先の生活に見通しがつかない。やはり、新しいどこかへ≠ネんて現実味
のある話じゃないんだ。―――でも今は、それと同じくらいここに居残る
という選択肢も現実味が薄れていた。八方塞がり。命を惜しむなら、全てを捨
てて逃げるより他に道はない。
 ……でも、マーマを置き去りにするなんて無理だ。

 マフィアはマーマを殺すだろうか。
 連中は面子を何より重んじる。あたしが捕まらなければ、その矛先を保護者
のマーマに向けても不思議はない。

 死ぬ気はない。死にたくはない。けれど状況が「火蜥蜴が命を差し出しさえ
すれば全ては丸く収まる」と語っていた。
 あたしが死ねばマーマは助かる。

 あたしの思考を遮って、リリーが口を開いた。

「……やっぱり、わたしがダージョンにお願いする」

 即座に否定する。

「だから、それは最悪の事態を招くだけで―――」

 ううん、とリリーは首を振った。

「それも含めてお願いするの。イーリンの命を助けてあげてって。今回のこと
はただの事故だということにしてって。……それで、もしダージョンがわたし
のお願いを聞いてくれるのなら、もうわたしは絶対に馬鹿なことはしないって」

63 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/01(水) 01:43:04


 それってつまり。

「……馬鹿なこと言うなよ。鳥篭生活を受け容れるのか。火焔天に一生閉じ込
められて、あんたが夢見た外≠ゥら遠ざかって。―――そんなの、口で言う
ほど楽じゃないだろ。あんた、なんのためにここにいるんだよ」

 彼女は即答した。

「イーリンのためだよ」

「はぁ?」

 違う。リリーがここにいるのは外≠ノ出るためだ。あたしはそれを助ける
ための道具に過ぎない。手段を護るために目的を見失うなんて、本末転倒もい
いところじゃないか。

 魔女はあたしの胸に顔を埋めて、甘く囁く。

「イーリンのいない外≠ネんて……」

「待て待て待て」

 肩を掴んで、リリーを胸から引き剥がす。きょとんとした目をする彼女に問
いかけた。

「それはなんだ。献身のつもりか? 自己犠牲? どうしてそこまであたしを
求める。自分をなげうってまであたしを護る必要なんてないだろう。リリーの
目的は外≠ネんだろう? だったら、重荷になったあたしなんて見捨てて、
ひとりで結界を破って、ひとりで飛び出せばいいじゃないか。あたしの問題に
首を突っ込んで夢を捨てるなんて馬鹿げてるぜ。どうしてそこまでするんだ」

 リリーはくすりと笑いをこぼした。

「だって―――」

 迷いのない、はっきりとした答え。

「ひとりじゃ寂しいじゃない」

 寂しいから。不安だから。支えて欲しいから。馬鹿げた理由だと鼻で笑うの
は簡単だ。でも、あたしにとってそれはもっとも信じられる答えだった。
 あたしも同じだ。ひとりはイヤだ。今日この日まで、ひたすら寂しさから逃
げて生きてきた。マーマという存在は、あたしから寂しさを取り除いてくれた。

「で、でも……」

 唾を飲み下す。動揺を表に出したくなくて、慎重に言葉を選んだ。

「閉じ込められて、もう二度と外へ出られなくなっちまったら、それから先は
どうするんだよ。寂しいのが嫌いなのに」

 リリーの微笑みは途絶えない。

「睡って過ごすの。二度と目を覚まさないわ」

「自殺するってことかよ」

64 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:25:51

「言葉通りよ。ほんとに寝たまま起きないの。……わたしね、睡るのは嫌いじ
ゃないんだ。夢を見られるから。夢の中では、わたしは自由だから」

 鼓動が跳ね上がった。夢。あたしがもっとも嫌うもの。それをリリーは恍惚
としながら語る。「どういうこと?」と問わずにはいられなかった。

「睡っているときだけ、わたしは外≠ノ出られるのよ。見たこともない世界
で、わたしはわたしじゃなくなっていて、色んなことをしているの。悲しい夢
が多いわ。夢の中のわたしはいつも泣いている。……でも、それも含めて自由
なの。ああ、イーリンも同じ夢を見られたらいいのに。外≠フ風景は、クー
ロンの変わらない夜とは比べものにならないほど変化に満ちていて、美しいの」

 ……こんな偶然が、果たしてあり得るのか。
 
「じゃあ、リリーが外≠ノ憧れるのも―――」

 ええ、と魔女は頷く。

「夢を現実にしたいから」

 わたし、お部屋にいるときはほとんど寝ているのよ。夢を見たいから。窮屈
な屋根の下から、解放されるから。―――そう語るリリーの表情は、一点の曇
りもなく至福に満ちていた。

 ハンマーで後頭部を殴られたかのような衝撃に、あたしは震える。
 リリーも見ていたのか。体験していたいのか。自分自身が否定される刹那の
悠久を。クーロンでは決して見ることの叶わない真昼の情景を。

 なんという皮肉だろうか。似た夢を見て、あたしは嫌悪から不眠症(インソ
ムニア)に陥った。対するリリーは夢に幸福を見出して、過眠症(ナルコレプ
シー)になった。……対極の反応を選びながら、行き着くところは同じ。自ら
の殻に閉じこもることでしか、安寧を得られない不器用な小娘二人だ。

 ……いや、違うな。あたしとリリーは同じじゃない。
 リリーは夢に耽るだけに留まらず、外≠目指している。自分の足で、新
たな世界を開こうとしている。夢は切っ掛けに過ぎない。ただ目を逸らして、
逃げて、拒んだだけのあたしと一緒にするのは失礼だ。

 彼女は、この事実を知っているんだろうか。あたしも同じような夢を見て、
うなされて、眠りから遠ざかってしまっている事実を。
 知るはずが、ない。
 あたしの不眠症を知っているのはシャオジエぐらいだ。いくらリリーが魔女
でも全知には遠く及ばない。この一致はただの偶然だろう。
 
 ―――ならば、それこそ。
 リリーの言葉通り「運命」になってしまうじゃないか。
 二人は出会うべき必然だったのか。

 馬鹿馬鹿しい。偶然はどこまでいっても偶然だ。そう笑い飛ばすことは容易
いはずなのに。……クーロンの終わらない夜にくたびれ果ててしまっているは
ずのあたしの心臓は、いま初めて動き出したかのように激しく脈打っていた。

「リリー……」

 枯れた声で名を呼ぶ。

 教えて欲しかった。答えを示して欲しかった。
 あたしも、あの夢を受け容れられるようになるだろうか。リリーのように、
他者の目を通して視る外≠肯定できるようになるだろうか。
 ……こんなあたしでも、安心して眠れる日が来るんだろうか。

65 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:28:08


 だけど、あたしが疑問を投げかけるために開いた唇は、リリーの言葉に遮ら
れた。彼女は表情を翳らせて言った。

「……そろそろ、ダージョンが帰ってきちゃう」

 タイムリミットか。いまの邂逅は、あたしがリリーを強引に呼び出したから
叶ったんだ。時間が短いのはしかたがない。別れを惜しむ気持ちを抑えて、あ
たしは尋ねる。

「次は―――」

 こんなこと、あたしから切り出すのは初めてだ。

「次はいつ、会える」

 いまになって、あたしの身を後悔が舐め始めた。
 リリーともっと話がしたい。リリーのことをもっと知りたい。彼女が見る夢
とはなんなのか。あたしのそれと、風景は同じなのか。彼女はどうして、自分
が自分で無くなってしまうことに耐えられるのか。リリーが言う運命≠チて
奴は、クーロンみたいなゴミ溜めのリージョンにも転がっているものなのか。
 いままで邪険に扱っていた分も含めて、思う存分に語り合いたい。

 ―――時間ならきっと、いくらでもあるさ。だって、ここでは夜が明ける
心配をする必要はないんだから。

 そうだろう、リリー?

「分かるでしょ、イーリン。次はないの」

「え……」

「これは別れ。これは別離。運命はいま、二人の絆を引き裂いたわ」

 冗談めかしてリリーは言う。だけど、表情は真剣そのものだ。感情を殺そう
と必死になって、逆に悲しみが顔にありありと刻まれてしまっている。
 ……魔女の癖に、自分に嘘を吐こうとなんて、らしくないことをするから。

「リリー……あんた、本気なのか。本気で紅の魔人に頼むつもりなのか。あた
しを守るために、自分の夢を犠牲にするつもりなのか」

 冗談だと思っていた。ただ思い付きを口にしているだけだと思っていた。
 リリーがあたしの事情を知ったのは、この部屋であたしに呼び出されたから
だ。まだ十分も経っていない。―――たったそれだけの時間で、すべてを捨て
る覚悟を決めたっていうのか。夢も、未来も、あたしのために犠牲にすると。

 ……駄目だ。そんなのは絶対に駄目だ。
 だって似合わないじゃないか。あんたはもっと、利己的な女のはずだ。自分
勝手で、他人の都合なんて考えなくて、甘いところばかりを摘もうとする。
 それがクーロンに咲いた百合(リリー)じゃなかったのか。

「この物語のフィナーレはハッピーエンドじゃないみたい。だけど、とっても
ロマンチック。だってお姫様は愛に殉じて眠りにつくんだから。大好きなひと
のことを想って、終わらない夢を見続けるんだから」

「リリー!」

「イーリン、知ってるでしょ? わたしは自分勝手なの。わがままなの。だか
ら、あなたの説得なんて聞かないわ。わたしはわたしのしたいようにする」

66 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:31:24


 ふざけるな。あたしは苛立ちに任せてリビングの壁を殴りつけた。拳が防呪
処理を施した壁紙を突き抜けて、石膏ボードの壁面をあっさりと貫通する。

「……そんなことをしても」

 低い声音で、呻くように言った。

「あたしは感謝しないぜ。あんたのことを想って泣いたりなんか、絶対にしな
い。これはあたしの問題だ。勘違いしたことは謝るけど……だからって、首を
突っ込むのはやめろ。あんたは、あんたのしたいことだけを―――」

「これは、私が望んだ物語よ」

「違う! あんたの目的は外≠ヨ行くことだ!」

 リリーは瞼を伏せると、ゆっくりと首を横に振った。

「その物語を完結させるには二つ足りないものがあるの。ひとつは結界。〈針
の城〉から出るには、わたしの魔力は育ちすぎてしまったわ。……もうひとつ
は、わたしが、わたしで居続けられる余裕。―――愉快よね、イーリン。わた
し、昨日まで、自分がどうして〈運命の赤児〉なのか、考えもしなかった。ど
うしてこんな強い力を持って生まれてしまったのか、知ろうとも思わなかった」

 あたしには理解できない。リリーはなにを言ってるんだ。彼女の語る足り
ないもの≠ニやらが、自分を犠牲にしてあたしを助ける理由になるとはとうて
い思えない。結界があるなら破ればいい。自分の力の由縁なんて、外≠ヨ出
てから探せばいい。―――どうしてそんなことで、未来への道を閉ざすんだ。

「イーリン、勘違いしないで。これは犠牲でも献身でもないの。初めからこの
物語にハッピーエンドは無かっただけ。物語の舞台は、最初から最後まで〈針
の城〉だったのよ。わたしが外≠ヨ行くシナリオなんて用意されていなかっ
たのよ。……だから、わたしはせめてもの抵抗として、あなたに未来をあげる。
そしてお姫様は醒めない眠りにつき、終わらない夢を見るの」

 でも、ひとつだけ望むことが許されるのなら。リリーがそう呟いたとき、彼
女の瞳からついに涙が溢れた。

「―――これから見る夢では、どうかイーリンと一緒になれますように」

 言葉には魔力が秘められていた。あたしが眼帯を外していたならば、リリー
を中心に霊路の門が開く様子をはっきりと霊視していただろう。
 彼女は跳ぶ気だ!

「リリー!」

 行かせない。話はまだ終わっていない。
 壁に突き刺さった腕を引き抜く。石膏ボードの破片に切り裂かれて、拳から
血が迸った。―――好都合だ。あたしの血は、あらゆる魔術を強制的にキャン
セルさせる。リリーの縮地だって中断させられるはずだ。

 どうしてあたしは蜥蜴の眼を開き、蜥蜴の血肉を持って生まれてきたのか。
いまなら答えに迷わない。はっきりと断言できる。それはこの瞬間のためだ。
人外の膂力と超常の能力でリリーを止めるためだ。彼女を行かせないためだ。

 あたしは手を伸ばす。
 力の限り叫んだ。
 彼女の名を。

67 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:31:48







 ―――ああ、だけど。

 あたしみたいな中途半端なバケモノじゃ、正真正銘のバケモノであるリリー
の術を止められるはずもなく。

 手を引き抜き、伸ばすというたったそれだけの挙動を最速で行ったにも関わ
らず、リリーの術の発動には間に合わず。

 あたしの指先は、空を切った。







.

68 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:32:32









 部屋には、もう、あたししかない。









.

69 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:34:44


 手を差し伸べたまま、無様に立ち尽くすことしかできない。あたしは瞬きす
ら忘れて、一瞬前までリリーが立っていた空間を見つめた。

 ……これで、お終いなのか。
 あたしは救われたのか。
 黒社会から制裁を受けることはないのか。明日からもクーロンで、今日と変
わらない日常を過ごすことができるのか。
 あたしの未来は約束されたのか。

「は、―――はは」

 渇いた笑いがこみ上げる。

「おかしいよな、どう考えても。……あたし、そんなに必死だったかな。大切
にしていたかな。誰かを犠牲にしてまで、守ろうとしていたかな」

 マーマが正気を取り戻したわけじゃない。
 あたしの余命が長くなったわけでもない。
 マーマはいまでも阿片中毒のまま。あたしの脳みそはいまでも蜥蜴の眼と血
肉に負荷に押し潰されて、悲鳴をあげたまま。
 なにも変わらない。変革は行われていない。くそみたいな今日が、くそまみ
れになってくそったれな明日へと続くだけだ。
 
 こんな、こんなくだらない人生のために、リリーはすべてを捨てたのか。

「誰が頼んだよ」

 あたしは頼んでいない。

「誰が喜ぶんだよ」

 あたしは喜ばない。

「誰が幸せになるんだよ」

 あたしは幸せにならない。

 心臓が痛む。痛哭の悲鳴を延々と繰り返す。あたしは胸を鷲づかみにして、
その場に跪いた。喉から、慟哭を伴った叫びが止めどなく溢れ出す。

「あたしが好きだったんだろう?! あたしのためになることをしたかったん
だろう!? なのに、なんだよこれは! あたしを哀しませて、苦しませて、
こんなの嫌がらせもいいとこじゃないか。誰も笑顔になれない。後味が悪いだ
けのくそみたいなエピソード。こんなセンスのない物語が、運命≠セってい
うのかよ! イヤだ! あたしはイヤだ! 絶対にイヤだ!」

 嘆きの悲鳴か、怨嗟の呪文か。あたしの言葉は、リーの耳にも届いているは
ずだ。しかし、返事はない。あたしの部屋は沈黙を守ったままだ。

 認めるしかない。
 リリーの物語は、終わってしまった。
 彼女は非日常の象徴に過ぎなかった。
 あたしとは別世界の人間だった。
 
 あたしは戻るんだ。
 日常へ。
 リリーが守ってくれた、今日という繰り返しへ。

70 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 22:48:59



                  * * * *


 帰ってきたときと違って、アパートメントから出て行くときは魔術迷彩どこ
ろか人影への警戒すらしなかった。糸が切れた人形か、はたまた夢遊病者のよ
うに、頼りない足取りで第七層を歩く。
 もしクーロン・マフィアがあたしを狙っているならば、絶好のカモだ。瞬き
する間にさらうことができる。……けど、そんな剣呑な気配は一向に訪れなか
った。〈針の城〉は常と変わらず、幽世の風景をビルディングの森に融け合わ
せているだけだ。

 一時期は死すら覚悟した。なのに、こんなに堂々と〈針の城〉を歩けてしま
うと、全部はあたしの早合点だったんじゃないかと疑ってしまう。あたしが殺
したのはクーロン・マフィアの凶手ではなく、ただのチンピラだったんじゃな
いか、と。

 リリーはきっと嘆願に成功したんだろう。彼女の自由と引き替えに、あたし
は命の保証を得た。
「二度と近付くな」なんて警告ぐらいはあると思ったけど、この様子では恐ら
く、マフィアは最後まで介入してこない。社会の影たらんとする彼等があたし
に望むのはすべてを忘れること。リリーという一輪の花があたしを惑わせた。
夢から醒めた以上は、現実を生きろ。―――そんな案配だろう。

 あたしはポケットに手を突っ込むと、やや猫背になって歩いた。

 日常は守られた。今日と変わらない明日が待っている。
 ……例えそうだとしても、変わらなくちゃいけないことだってあるはずだ。
 リリーになにもしてやれなかったあたしだけど、自分の尻だけは自分で拭い
たい。―――だから、最低限のケジメだけはつけようじゃないか。


                  * * * *


 三十分ほど待っただろうか。
 鍵が差し込まれ、ドアが開く。スイッチの場所では躰で覚えているのだろう。
暗闇の中でも、彼は迷うことなく電源を入れることができた。

「わあ!」

 室内灯があたしを照らすと同時に、ロートルは驚きの声をあげた。

「し、社長でしたか。いつの間にお戻りになったんですか」

 表情からも口調からも動揺が滲み出ている。……まあ、当然だろう。ハダリ
ーから事故の概要は聞いているはずだ。部下として、年長者として、あたしの
身を案じることに不自然はない。

「どうして事務所に顔を出さなかったんですか。私もハダリーも社長の帰りを
待っていたんですよ」

 問いかけは無視した。ロートルから視線を外し、ガス灯で照らされる部屋の
様子を見回した。可もなく不可もなし、といったところだろうか。適度にもの
はあるけど、決して雑多なわけじゃない。

71 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 22:51:19


「……あの、どうして私の部屋に」

 彼はきっと、「どうして鍵を開けて勝手に入ってきているのか」と尋ねたい
に違いない。答えは当然「二人きりになりたいから」だけど、それをわざわざ
告げてやる必要はない。

 ここではあたしが尋問役で、ロートルが回答役。この臆病な老人の疑問に答
えるつもりは一片もない。

「あの、お怪我は―――」

「ロートル、どうしてあたしを嵌めた」

「……は?」

 間の抜けた、醜い表情。
 思い付く語彙の中で、いちばんストレートな言葉を選んだつもりだったけど、
どうやら回転が鈍った老人の頭では理解が難しいらしい。
 ならば、とあたしは再度問い掛ける。

「どうして、一年前、マーマを嵌めた」

「あの、社長? 言ってることが理解しかねるのですが」

「答えろ、ロートル」

 静かに、だけど確たる恫喝を秘めて、あたしは言った。

「濡れ衣です。社長、あまりに突飛すぎます」

「……一年前、行方不明になったマーマをいちばん始めに見つけたのは、あん
ただった。そして今日、あたしがトラックにピアノを積んでグオワンホテルに
行くことを知っているのも、あんただけだ」

 ロートルは目を剥いた。

「そ、それが根拠だって言うんですか」

「名推理だろう?」

「無茶苦茶です! いくらなんでも強引すぎる。第一発見者でなにが悪いんで
すか。社長がホテルに行くことを知らなくたって、尾行すれば襲撃するのは簡
単じゃないですか。そんな理由じゃ、警察だって逮捕には動きませんよ」

「あたしは警察じゃない。だから、証拠も動機もいらない。必要なのは疑念だ
けだ。あたしはあんたを疑っている。そしていま、疑いの根を絶やそうとして
いる。―――疑わしきは皆殺し≠セ」

 ……あたしが名探偵の器じゃないことぐらい、あたし自身が深く理解してい
る。理不尽の代名詞であるクーロン・マフィアだって、こんな言いがかりで制
裁を加えたりはしない。
 けれど、あたしは確信していた。ロートルは間違いなく一枚噛んでいる。
 彼の立ち位置は、あたしを追い詰めるには絶景の場所過ぎた。……事実、グ
オワンホテルに問い合わせてみても、ピアノを購入したいなどと連絡した覚え
はないという答えしか返ってこなかった。
 すべてはロートルのでっち上げだ。
 警察相手なら言い逃れることはできるだろう。彼もまた「使いのもの」とや
らに騙されただけなんだ、と。……そう、警察相手なら、ね。

72 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 23:35:11


「別にあんたが主犯格だなんて思っていないさ」

 座っていたテーブルから飛び降りる。ロートルと向き合うと、あたしの威圧
に押されたのか、彼は何歩か後じさった。その分だけ、あたしが詰め寄る。

「マーマの件にしろ、今日の件にしろ、駒に過ぎないんだろう? あんたみた
いな小物が、こんな大それた企てを実行に移せるはずがないからね」

 もっと早く疑いを持つべきだった。リリーよりも先に、この老人を怪しむべ
きだった。脳天気なあたしは、リリーを失う瞬間まで、ロートルを容疑者に数
えようとしなかった。……別に、信用していたわけじゃない。あたしがロート
ルに仲間意識を持ったことなんて一度もない。ただ、彼という存在があまりに
日常と密接し過ぎていたため、疑うという発想が湧かなかったんだ。

 ―――リリーの犠牲によって、改めて今回の事件について冷静に考えること
ができるようになったとき、ロートルの異端性は際立っていた。

 疑うな、というほうが無理がある。

 ……それに、証拠を揃えずにあたしがここまで強気に出られるのには、理由
がある。火蜥蜴≠ェ誰かを疑った場合、証拠なんて必要ないんだ。

「なあ、ロートル。あたし、ずっと疑問だったんだ。なんであんたは、ビルか
ら外に出ないんだろう。病的なまでに、外≠怖れるんだろう。……あんた
の言い分じゃ、マフィアに見つかったらやばいってことだったけど―――」

 一拍おいて、あたしは、いまや表情を蒼白に歪めた老人を睨み付けた。

「あんた、外に出られないんだろう」

 ロートルの顔が哀れなほどに引きつった。

 引きこもっているのじゃなく、閉じ込められている。
 例えば心臓に「所定の範囲より外に出ると爆散する」といった旨の呪文を刻
むのは、そこまで難しいことじゃない。
 ロートルは傀儡だ。悪意ではなく恐怖で動く、操り人形。……ならば、誰が
彼を操っているのか。どうしてあたしを狙うのか。その理由を、いまから覗か
せてもらおう。

「……社長」

「何度も言っただろう。あたしをそう呼ぶなって」

 毅然と言い放つ。

「あたしをそう呼んでいいのはハダリーだけだ」

 眼帯をずらし、〈蜥蜴の眼〉を開いた。

 ―――と同時に、ロートルはスーツの胸ポケットに差していた万年筆を、自
分の右眼に突っ込んだ。
 
 一瞬の出来事だった。潰れた水晶体から、液状のなにかがこぼれ出す。
 声にならない悲鳴をあげつつ、ロートルは左眼も同じように万年筆で突こう
とする。あたしは万年筆を握る彼の腕を掴んで、そのままへし折った。

 マフィア上がりは伊達じゃないということか。常人なら気絶しかねない肉体
的ダメージを負っているにも関わらず、なおもロートルは、無事な左手の指で
右眼を潰そうとした。あたしはすかさず、右手も叩き折った。

73 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 00:10:22


 両手を潰されたロートルはその場に膝から崩れ落ちながら、最後の足掻きと
して目を力強くつむった。あたしの瞳から逃れる術はそれしかない。
 ……けど、あまりに儚い抵抗だ。時間稼ぎにすらならない。

 瞼を引き千切ってやってもよかったけど、そこまでしなくても目を開かせる
方法はある。―――ロートルの腹に拳を叩き込んだ。それなりに手加減をして。
 彼は悶絶の呻きを吐き出すと同時に、目を見開く。瞼を閉じ続けるなんて意
思の力でどうこうできるわけがない。

 老人は左眼から血の涙を垂れ流す。残った右眼と、あたしの〈蜥蜴の眼〉の
視線が重なった。唇が「やめろ」と動きかけるが、もう遅い。

 ロートル。あんたの裡を視せてもらうぜ。

 黄金の魔眼を経由して精神世界にダイブする。
 彼の内側は恐怖の鎖に縛られて崩壊寸前だった。理性ある生物なら誰しも精
神防壁を持っているものだけど、ロートルのそれは肉体的なダメージと過剰な
脅えによって腐りかけの木材のように脆い。お陰で呆気なく侵入できた。

 あたしは魔女じゃない。ひとの精神を覗き見て、嬲って、支配するには知識
も経験も足りない。あくまで魔眼の力に寄った強引なクラッキングだ。
 だから、お目当ての情報をダイレクトに拾えはしない。右眼を通して頭に流れ
込んでくる膨大な情報を、いちいち取捨選択していかなければいけなかった。
 脳への負担はかなりのものだ。シャオジエがこの技を禁ずるのも理解できる。
他人の心を覗き見る度に、あたしは寿命を縮めていた。
 だけど、そのリスクを負うだけの価値は、ある。

 ロートルが何を怖れているのか。何を隠しているのか。そして何に関わって
いるのか。隠そうとすればするほど、精神世界では強調される。
 あたしはより強く輝く情報のもとへと泳ぎ、読み取っていった。

 ……浅いな。そして、腑に落ちない。

 それが初見の感想だった。
 彼があたしの監視役を任されていたこと。それは予想した通りだ。けど、マ
ーマとの関わりはどうだ。なぜ、マーマは一年前の夜、あんな目に合わなくて
はいけなかったのか。あの一件もロートルが絡んでいると当たりはつけていた
けど、彼の精神状態が不安定なせいで、真偽が確かめられない。
 もっと深く。もっと奥へと潜る必要がある。

 ―――阿嬌が廃棄されてからは、今まで彼女経由で接触していたあの女と直
接連絡を取らなければいけなくなった。

 あの女? そいつが黒幕か。

 ―――私は恐ろしい。阿嬌は最後まで真実を明かさなかったが、私の読みが
正しいなら、針の城から来たあの女の正体は……。

〈針の城〉から来た、か……。
 ここまで大胆なことをする奴だ。あの魔郷の住人であっても不自然はない。
けど、どうして〈針の城〉の人間があたしを狙う。
 そもそも、この情報だと、まるでマーマまでもがあたしを―――

 導かれるままに、意識の深層へと降りていく。
 あたしの侵入に気付いて、慌てて逃げゆく情報を見つけた。ロートルがもっ
とも露見を怖れる記憶か。すかさず追跡する。
針の城から来た女≠フ正体。ロートルとマーマの関わり。この二つの答えが
欲しくて、あたしは情報に手を伸ばした。

74 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 00:13:46


 指先が―――つまりあたしの意識が触れると同時に、その情報は赤熱した。
 視覚化するならば、ダイナマイトの導火線が根本から火花を噴き出したに等
しい光景。肉体から乖離したあたしの意識に寒気が走る。
 ロートルの精神に、こんな攻撃的な情報があるはずない。

 特定の条件をトリガーにして破壊活動を行う潜伏型プログラム。

 ―――こいつは論理爆弾(ロジックボム)だ!

「離脱……!」

 眼帯で目を隠すことはおろか、瞼を閉じる余裕すらない。あたしは視線を逸
らすことで、ロートルへの精神侵入を強制中断した。

 炸裂した論理爆弾はロートルの精神を容赦なく吹き飛ばす。
 理性も記憶もデリートされた老人は、その衝撃に耐えきれず、鼻と耳から血
を垂らして絶命した。
 ……強制中断が一瞬でも遅れていたら、あたしも爆発に巻き込まれていた。
 いや、ブービートラップとして仕掛けるつもりだったなら、トリガーと同時
に逃げ道を閉ざすことも可能だったはずだ。あの論理爆弾の目的は、証拠隠滅
に過ぎないってわけか。

「……それにしたって、他人の精神に自爆プログラムを仕込むなんて」

 生半可な術者じゃない。あたしのような、心霊工学を囓った程度のオカルト
マニアとは比べものにならないほどの実力を有している。
 リリーだって、こんな真似は不可能だろう。魔力の絶対値だけではなく、途
方もない魔道への造詣が必要だ。
 ……これも針の城から来た女≠フ仕業なのか。

 脱力してよりかかってきたロートルの死体を床に放ると、あたしは精神侵入
で得た情報を吟味した。
 真相に至れるような発見は皆無と言っていいだろう。小出しにされた情報は、
すべて倫理爆弾をトリガーさせるための餌だったんだ。

 思わず舌打ちをしてしまう。ひと一人殺して、この程度の収穫か。
 今日だけで二人も殺している。それもひとりは、空気のように扱っていたと
はいえ、物心がついたときからの付き合いだ。
 あたしの中の何かが壊れてしまったような気がする。日常は守られたかもし
れない。けど、もはや、あたしは昨日まであたしではなくなっている。
 暴力への抵抗が、自分でも驚くほど薄らいでしまっていた。
 必要なら、これからだって殺し続けるだろう。
針の城から来た女≠ニいうのがマーマを壊した張本人ならば――あたしから
リリーを奪った真犯人ならば――あたしはそいつを、絶対に許しはしない。

「殺してやる……」

 けど、その前に為すべきことがある。
 論理爆弾の起動成立は仕掛けた術者も気付いているはずだ。あたしが凶手を
殺したにも関わらず黒社会が動かないことも含めて、もはや事態が計画通りに
進んでいないのは自覚しているだろう。ならば、次の一手を打ってくるはずだ。
 どう動く。今度は何を仕掛けてくる。
 ……あたしに分かるはずがない。
 けど、何が危険かは分かる。

 あたしの弱点。あたしの心臓。―――マーマが狙われる可能性は十二分にあ
り得る。針の城から来た女≠ニ関わりがあるならば、尚更だ。

 あたしはビルから飛び出した。

75 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 20:13:24


 蒸気スクーターに跨って〈針の城〉へ。ビルの隙間の狭い路地を縫って第七
層まで辿り着く。目的地のビル屋敷=\――阿片窟は四方を雑居ビルに囲ま
れているため、屋外から近付くことはできない。あたしはスクーターを乗り捨
てると、屋内から駆け足でビル屋敷≠ヨと入った。

 入り口には立ち番が五人もいた。普段は一人しか置いていないのに、なぜ今
日はこんなに警戒が厚いのか。しかもみな揃って重武装だ。何かが起こってい
るのかもしれない。焦燥が歩の進みを急き立てる。立ち番があたしを制止しな
かったことがせめてもの救いか。

 普段は支配人室に閉じこもっているウォンだけど、この時はロビーに立って
他の客たちと積極的に会話をしていた。珍しいこともあるもんだ。
 無視して通り過ぎようとすると、慌てて呼び止めてきた。

「火蜥蜴!」

 相手にしている暇はない。だけど、運悪くエレベーターは一階で待機してい
なかった。待っている間にウォンが追いつく。

「阿嬌の様子を見に来たのか」

 あたしがこのビルに足を運ぶ理由なんてそれしかない。だけど、わざわざそ
れを尋ねるということは、特別な理由があるのか。
 ……こいつだって、ロートルと同じで信用はできない。

「火蜥蜴。おまえ、さっきまでどこにいたんだ。事務所にいたのか。だったら
教えてくれ。外の様子はどうだった」

 ウォンの言う外≠ニは〈針の城〉の城外のことだろう。彼の言動がおかし
いことに気付いて、あたしは初めてその爬虫類面に視線を向けた。

「どうって……なんでそんなことを聞くのさ」

 憮然と答える。

「おまえ、知らないのか?」

 ウォンは信じられない、と天を仰いだ。その大仰な身振りが余計にあたしを
苛立たせる。エレベーターはまだ来ないのか。

「クーロン・ストリートでクーデターだよ!」

「クーデター?」

「〈黒死病〉の奴等が、第二層から派遣されていた幹部をバラしたらしいんだ。
ストリートのほうはかなり混乱しているって聞いたぜ。下請けの連中どもと抗
争状態に陥っちまっているって」

 まったく気がつかなかった。いや、興味がないと言ったほうが正しいかもし
れない。ヤクザの戦争など知ったことか。
 
〈黒死病〉というのは、クーロン・マフィアが抱えている暗殺者集団の俗称だ。
 活動範囲は中心街に限定されている。マフィアに関わりのある暗殺組織は多
いけど、この〈黒社会〉が特別なのは組織の中枢である〈針の城〉直轄である
点だ。組織から委任されるかたちで利益を得る下請け組織とは違う。
 その役割は殺しから監視まで多岐にわたる。〈黒死病〉はクーロン・マフィ
アの中心街における手であり、目でもあった。

76 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 20:15:34


 そこまで重要な役割を担う〈黒死病〉の凶手どもが、〈針の城〉に反旗を翻
すなんてあり得ない。裏切るにしても、もっとうまくやるはずだ。いきなり殺
し合いから始めるなんて、素人以下の判断じゃないか。
 だからウォンもここまで驚いているのだろう。
 あたしは大体の事情を察知した。
 あたしを襲ったあのインバネスコートの蜘蛛遣い。あいつも〈黒死病〉の凶
手だったはずだ。理に叶わない行動が同じ組織によって再び行われた。考え得
る理由は一つ。―――いまの〈黒死病〉に理性はない。
 操られているんだろう。あのときと同じように。

 これが針の城から来た女≠フ次の一手なんだろうか。黒社会の瓦解を狙う
のならば、必殺とまでは言わずとも、手痛い一撃ではあるだろう。
 クーロンは大混乱に陥るに違いない。
 ……だけど、あたしと直接の関わりはない。

針の城から来た女≠フ目的は、クーロン・マフィアへの攻撃だったのか。
 そのためにあたしを利用した? ロートルに監視させた? ……それは考え
にくい。あたしをどう利用すれば、組織への攻撃になるっていうんだ。

 偽装クーデターにしたって、〈針の城〉から戦闘部隊が送り込まれれば容易
く鎮圧されるだろう。〈黒死病〉は確かにクーロン・ストリートにおける恐怖
の象徴だけれど、人外が蔓延る〈針の城〉を基準に見ればどうってことはない
相手だ。あの蜘蛛遣いがハダリーの敵ではなかった事実がそれを証明している。

 分からない。針の城から来た女≠フ目的が想像すらできない。
 どうしてあたしを監視した。どうしてあたしを嵌めようとした。どうしてマ
ーマを壊した。マーマとはいったいどんな関わりがあったんだ。

 目の前の視界が開ける。エレベーターが一階につき、扉が開いた。
 あたしは思考を中断して、エレベーターに乗り込んだ。ウォンもそれに続こ
うとしたけど、あたしの無言の威嚇がそれを押し止める。

「好きなだけ殺し合えばいいさ。あたしには関係ない」

 それだけ言い残して、扉を閉めた。

 
 マーマは無事だった。前に訪れたときと変わらず、気怠げに長煙管を吹かし
ている。理性の輝きも消えたままだ。
針の城から来た女≠ヘこれ以上マーマに危害を加えるつもりはないのか。そ
れともあたしの動きのほうが早かったのか。答えは見えないけれど、これで目
下の懸念は消えた。マーマが無傷なら、それでいい。

 さて、どうしたものか。

 マーマはこの阿片窟で最上級の待遇を受けている。警護も相応に厳重だ。
 彼女の無事が確認ができたら、あとはもうあたしにできることなんてない。
ウォンは信用できない男だけど、それでもここより安全な場所はないのだから。
下手に別の場所に動かすほうが、よっぽど危険だ。
 かといって、事務所に戻る気にもなれない。ウォンの言葉が真実ならば、今
頃クーロン・ストリート周辺は大騒動だ。わざわざ巻き添えを食いに行くこと
はない。事務所の警備はハダリーに任せよう。

「今日はゆっくりできそうだよ、マーマ」

 あたしは努めて優しい表情を作った。

77 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 21:51:32


「今日はここに泊まっちゃおうかな。ベッドこんなに広いんだし、あたしが邪
魔したって問題ないだろ?」

 なんて言いながら、ベッドの縁に腰かける。マーマはシーツに寝転んで阿片
を吸引していた。当然だけど、あたしの言葉なんて耳に入っていない。
 構わず語りかけた。

「マーマと一緒に寝るなんて、何年ぶりかなぁ。昔はあたし、マーマがいない
と絶対に寝ようとしなかったもんね」

 夢を見るのが怖かったからだ。
 ……でも、マーマは多くの人間が必要とされる立場だった。あたしのために
使える時間は限られている。目覚めて、横にマーマがいないと気付く度にあた
しは震えたものだ。恐怖のあまり、泣くことすらできなかった。それ程までに
孤独が怖かったんだ。
 やがて、マーマがあたしの有用性を気付き、故買屋商売を任せてくれるよう
になると、睡眠という行為自体忘れた。あたしは逃げるように心霊工学と死体
いじりに没頭し、添い寝の必要自体なくなった。
 
 なんでもっと早く思い付かなかったんだろう。マーマはもう、時間を縛られ
ることのない身だ。誰よりも自由になれたんだ。添い寝の時間だっていくらで
も作れる。―――睡眠が必要ならば、彼女の隣で取ればいいじゃないか。
 どんな悪夢にうなされても、マーマがいてくれたら恐怖を忘れられたあの頃
を思い出せ。今日までは仕事に追われて忙しかったけれど、明日からは暇もで
きるだろう。マーマと一緒に過ごす時間を、もっと増やさないと。

 でも……。
 いまでもあたしは、あの夢を悪夢だと決めつけることができるのか。
 自分が自分でなくなることが極端に怖かった。この世界から消えてしまうこ
とが耐えられなかった。……けど、いま、あたしが一番なりたくない人間はあ
たし自身だ。この世でいちばん軽蔑しているのは火蜥蜴<Cーリンだ。
 なら、もう、あの夢を怖れる必要もないじゃないか。

「ハ―――」

 自嘲の笑みがこぼれた。
 だったらどうするって言うんだ。リリーみたいに、あたしも眠りの世界へと
落ちてゆけって言うのか。真っ当な人間のように、睡眠を取れって言うのか。
 そして夢を見ろ、と。行けもしない外≠フ夢を。……あたしが握り潰して
しまった、リリーの夢を、だ。

「冗談じゃない」
 
 やはり悪夢だ。これから一生、あたしは眠る度に罪悪感にうなされなくちゃ
ならないんだから。

 表情が強張っていることに気付いて、慌てて取り繕った。

「ごめんごめん」

 マーマは気にしてないようだ。安心して、会話を再開する。

「そう言えば、さ。あたし、友達ができたんだ。信じられるか? このあたし
が、ハダリー以外で友達なんて上等なもんが作れたんだぜ」

 マーマはきっと信じないだろうなぁ。

78 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 21:53:33


 リリーのことをマーマに話して聞かせるのは楽しかった。いつになく冗舌に
なれた。身振り手振りすら交えて、リリーとの出会いから別れまで語ることが
できた。マーマも珍しく聞き入っているように見える。見えるだけだ。

「あいつには、色々と教えられたよ……」

 人間の絆。人と人はどうやって繋がりを作るのか。あたしは今日まで、その
答えを「自分自身の価値」と信じて疑わなかった。
 マーマはあたしに教えてくれた。イーリンの価値を。畸形である蜥蜴の眼と
血肉には、誰もが持ち得ない輝きが秘めていると気付かせてくれた。
 マーマにとってあたしは価値のある娘だった。だから女衒に売り飛ばさず、
自分の手で育ててくれた。あたしは、価値を見出してくれたマーマに感謝した。
自分を必要としてくれるマーマを愛した。
 人間の絆ってそういうもんだと確信していた―――。

「でも、リリーは……」

 彼女があたしを必要としたのは、外≠ヨ出るために必要不可欠な人材だっ
たからじゃないのか。一人で未知の大海に飛び出すには、寂しかったからじゃ
ないのか。リリーにとってのイーリンの価値とは、彼女の夢である外≠ノ付
随した代物じゃなかったのか。

「なのに、あいつは外≠ヨ行くことよりも、あたしを優先しやがった」

 理解できない。そんなの本末転倒じゃないか。どうしてあいつは、あんなに
憧れていた外≠ヨの羽ばたきを諦めてまで、あたしを救ったのか。

 ……考えられるとすれば、それは。

「外≠ヨ行くことよりも、あたしの命のほうが大事だったから」

 馬鹿馬鹿しい。そんなの絶対にあり得ない。
 ここをどこだって思っているんだ。不夜城クーロン。あらゆる善悪が煮えた
ぎる渾沌のリージョンだ。人の命の価値なんてあまりに儚い。
 あたしみたいなスラムの娘なら尚更だ。何かを捨ててまで守るような上等な
生き物じゃない。あたしなんて、人間でも魔物でもないただの畸形じゃないか。
 なのにリリーはどうして……。

「―――なんで、あたしなんかの、ために」

 価値だとか、有用性だとか、理由だとか。そういうことすら必要としない場
所に、リリーがいたとしか思えない。
 信じられない世界だ。マーマがいないだけで、歪んでしまったあたしには絶
対に行き着けない場所だ。

 あいつは本当に、〈運命の赤児〉だったんだな……。

「でも、もういない」

 あたしはどうすべきだったんだろうか。どうすれば、リリーを失わずに済ん
だんだろうか。彼女の願いに従って、さっさと外≠ヨ行ってしまえば良かっ
たのか。……そんなのは無理だ。だってあたしにはマーマがいるんだから。

79 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 21:57:34


「マーマ―――」
 
 教えて欲しい。あんたはなにを隠しているんだ。どうして一年前の夜、あん
な目に合わなくちゃいけなかったんだ。十年前、あたしを拾ったのはほんとに
偶然なのか。他の孤児と違い、あたしにだけあんなに優しくしてくれたのは、
あたしが他人にはない力を持っていたから、それだけなのか。

「……針の城から来た女≠チて誰なんだよ」

 そいつがあんたのボスなのか。十年も一緒にいたのにあたしは気付きもしな
かったけど、マーマはそいつに命令されてあたしを養っていたんじゃないのか。
 こんな疑い持ちたくない。マーマのことを信じていたい。でも、ロートルの
記憶の断片には、そうとしか思えない情報が散らばっていたんだ。

 マーマは騙していたのか、あたしを。
 あたしが信じていた価値は、理由は、すべて偽りだったのか。

『ああ? めんどくさいこと考えるんだね。だったらどうだって言うんだい。
いいからあんたはあたしのためだけに生きていればいいんだよ』

 取り繕う必要なんてない。いつもの調子でそう答えてくれれば、安心してあ
たしは明日からもマーマのために生きることができる。
 マーマとあたしの関係は、誰かに強制されたものなんかじゃなくて、マーマ
自身が見出し、必要としたものなんだって。
 そう答えてくれるだけでいいのに。

「……なにも、言ってくれないんだね」

 こんなに尽くしているのに。マーマだけを見てきたのに。あたしを生まれ変
わらせてくれるかもしれなかった友人さえも犠牲にしたっていうのに。
 その代価が無言かよ。

 弁解ぐらいしたらどうなんだ。
 慰めてくれたっていいだろう。
 優しく、してくれよ。

 ―――あたしの中の何かが、音をたてて崩れてゆく。

「いい加減にしてくれ。いつまでラリってんだよ!」

 マーマの手から長煙管を奪い取る。竹と真鍮でできたそれを、片手でへし折
った。マーマの胸ぐらを掴んで引き寄せる。あたしがあつらえさせたドレスが
乱れた。でも、マーマの虚ろな視線は床に投げ捨てた長煙管に向けられていた。
 いくら憎しみをこめて睨んでも、眼差しは返ってこない。

「分かっているのかよ……。あんた、分かっているのかよ」

 怒りに突き動かされているはずなのに。憤怒が躰を支配しているはずなのに。
なぜか、あたしの眼からは涙が溢れていた。右眼を覆う眼帯が濡れる。

「あんたはあたしの全てなんだぞ。あんたがいなかったら、あたしはもう、な
んにもなくなっちまうんだぞ」

 それなのに、あたしが信じてきた価値のすべてが偽りだったとしたら。

「あたし、どうすれば良いか分かんないよ……」

 リリーさえも、あたしにはいないんだから。

80 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 23:05:14


 気付いたらあたしはマーマを抱き締めていた。両腕を回し、肩に顔を埋めて
泣き暮れていた。口からは「畜生」だとか「どうして」だとか恨み言ばかりが
こぼれるけど、それが憎しみとしてかたちになることはない。

 怒ろうとしても無駄だ。嫌おうとしても無理だ。あたしはマーマから離れら
れない。あたしとマーマの関係が偽りだろうと真実だろうと、彼女はあたしが
持つ唯一の理由≠ネんだから。捨てられるはずがない。

 ……それに、針の城から来た女≠フ命令があろうとなかろうと、マーマと
過ごした十年間は疑いようもなく存在した。あたしは、その十年を間違いなく
生きた。あの思い出は絶対だ。

 マーマはあたしのすべてだ。
 いままでも、これからも。

 そうだ。これこそが絆≠ニ呼ぶべきものなんじゃないか。
 生半可な疑念じゃ揺るぎもしない愛情。
 あたしはマーマのために生きる。それだけを信じて今日まで生きてきたんだ
から、明日からもそうやって生きればいい。

 マーマの傲慢な笑みは二度と戻らないだろう。あの頃の思い出が再び現実に
なることは絶対にない。……でも、あたしが当時の輝きを忘れなければ、過去
を想って、生きてゆくことだってできる。

 マーマのために生きよう。この世界の誰もがマーマのことを忘れてしまって
も、あたしだけは想い続けよう。

 マーマの肉体は限界を迎えている。先は長くない。不死者に転生させるとい
う手段もあるけど、死霊術を囓ったあたしとしては、そこから生まれるものは
マーマであってマーマではない、別のなにかだと考えている。
 別人にしてしまうぐらいなら、人間のままで死なせるべきだ。

 ……そして、マーマが死んだとき、あたしの価値も消える。
 それは火蜥蜴<Cーリンそのものが消失するということ。
 躊躇いはない。充分すぎる人生だ。十年前、誰に拾われることもなく凍え死
んでいたかもしれない境遇を考えれば、お釣りだってくるだろう。
 マーマと一緒に、あたしも消えるんだ。

 心の枷が、ようやく落ちた気がする。

 吹っ切ってしまえば楽なものだ。笑顔さえ浮かべることができる。

「これからはずっと一緒だよ、マーマ」

 涙を拭う。マーマの乱れだ着衣を整えると、ベッドから立ち上がった。

「なんか喉が渇いちまったぜ」

 マーマも同じはずだ。いくら廃人だといっても、水分を取らないわけにはい
かないんだから。
 ワインやブランデーならこのペントハウスにもあるけど、アルコールという
気分じゃない。こういうときだからこそ、好物のオレンジジュースを飲みたい。
 そこらの従業員を掴まえれば、用意してくれるはずだ。ついでに、あたしが
折ってしまった長煙管の代わりも注文しないと。

 ベッドに背を向ける。寝室から離れて、あたしはエレベーターを目指した。

81 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 23:07:18


 ずっと一緒だと誓ったはずなのに。
 これからもマーマのために生きると決めたはずなのに。
 ……あたしはその直後に、マーマから目を離してしまった。
 取り返しのつかない、過ち。

 そして―――


 風が、あたしの背中を舐めた。


 冷たい、風。
 これまで浴びたどんな風よりも寒気立つ苦寒の風。
 あたしは立ち止まる。
 どうして、風なんかが吹くんだ。
 ここは屋内で、ビルの最上階で、それも最高級の部屋で……隙間風なんて吹
くはずがないのに。―――どうしてこんなに激しく風が吹き荒れるんだ。
 
 振り返る。入り口から寝室を見渡す。真っ先にマーマの姿を見たかったのに、
まず目についたのは風に煽られて踊るカーテンだった。

 窓が、開いている。

「どうして……」

 転落事故防止のために鍵をかけていたのに。外部からの呪的侵入を防ぐため、
封印すらしていたのに。―――どうして窓が開いているんだ。
 誰かが内側から開けたのか。

「ハ、ハ―――」

 喉からこぼれだす渇いた笑い。

「ウォンか? また勝手に入ってきたのか。懲りない奴だなぁ。換気がしたい
んだったら、まずあたしに言ってくれよ。じゃないとマーマが驚いちゃうじゃ
ないか。ゴメンよ、マーマ。ウォンの馬鹿が―――」

 ベッドの上にマーマの姿はない。
 ついさっきまで横になっていたはずなのに。
 忽然と消え失せてしまった。

「か、隠れん坊かい?」

 カーテンが踊る。
 ここは地上十二階。地上よりもはるかに風は強い。天気も乱れているようだ。
 だから、カーテンが踊る。花瓶が倒れ、香炉の煙が霧散する。

「……無茶すんなよ。どんなに若作りしたって、マーマはもう歳なんだからさ。
悪ふざけはやめて、大人しくベッドで寝ていてくれよ」

 カーテンが踊る。
 カーテンが踊る。

 マーマの姿はない。

82 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 23:08:39


 風が煩わしい。誰が窓を開けたんだ。
 ベッドから窓までの距離は、十歩以上ある。意識が曖昧な彼女が自分で開け
られるはずがない。誰かが開けたんだ。外側からは無理だから。誰かが内側か
ら鍵を開けて、誰かが護符を破って。マーマは隠れん坊をしていて。

 カーテンが踊る。
 カーテンが踊る。

 マーマが開けたはずがない。彼女は壊れているんだから。自分の意思なんて
持っていないんだから。マーマが開けたはずが、ない。

 カーテンが踊る。
 カーテンが踊る。

「……ウォン、窓閉めるからな。換気ならあとにしてくれ」

 マーマはまだ隠れん坊を続けている。この寝室は隠れるところがいっぱいあ
るから、見つけるのに手間取りそうだ。
 まず窓を閉めて、それから探してやろう。

 カーテンが踊る。
 カーテンが踊る。

 窓を開けたのはウォン。マーマは隠れん坊をしている。
 そうだ、そのはずだ。それしか考えられない。
 マーマは絶対に窓を開けない。マーマは立って歩いたりしない。
 だからあたしは落ち着いて窓を閉めればいいんだ。

 カーテンが踊る。

 ―――なのに、あたしは絨毯を蹴って。

 カーテンが、

 ―――躰に絡みつく鬱陶しいカーテンをレールから引き千切って。

 落ちて、

 ―――窓辺に手をかけると、身を乗り出して。

 カーテンが落ちて、

 ―――眼帯を毟り取って。

 落ちて、落ちて、

 ―――黄金の瞳で、窓から地上を見下ろした。


〈蜥蜴の眼〉が暗闇を払う。

 唇が震える。

 窓枠に置いた手に、力がこもる。

 あたしの視界の先には、花が咲いていた。

 夜の闇を染める赤い花が。

 マーマの花が、咲いていた。

83 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 23:09:03








 落ちたのは、カーテンだけじゃなかった。








.

84 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/17(金) 00:03:28


「うわあああああああああああああ!」

 迷う必要なんてなかった。
 迷う余地なんてなかった。
 あたしも同じだ。
 あたしも窓から飛び降りた。
 マーマを追った。
 夜空に躍り出た。

 風が全身を包む。

 ……ただ、あたしの場合は墜落が目的じゃない。
 これは近道なんだ。
 エレベーターなんて待ってられない。
 階段なんて下りてられない。

 しばらくの自由落下のあと、ビルから突き出したカワラ≠ニかいう屋根飾
りに手をかけて、勢いを殺す。それから手を離して、落ちる。また掴んで、離
して、落ちる。それを三回繰り返して地上に降り立った。
 こんなまどろっこしい真似をせず、さっさと飛び降りてしまいたかったけれ
ど、あの高さから落下したらいくらあたしでも死ぬと分かっていたから。
 どんなバケモノでも死ぬって分かっていたから。
 ……まして、それが人間ならば。

「マーマ!」

 地上に咲いた花に駆け寄る。白かったはずのドレスが赤く染まっていた。
 どこから落ちたんだろうか。胸か、背中か、足か。やせ細った四肢が、曲が
れないはずの方向に曲がってしまっている。
 ……確かめるまでもなく、即死だった。
 マーマは自分が咲かせた花の中央で、今度こそ本当に壊れてしまった。

「そんな……」

 誰かが投げ落としたのか。
 無理だ。考えられない。
 あの部屋にはあたしとマーマしかいなかった。
 
 じゃあ、誰かが侵入してマーマを落としたのか。
 それも無理だ。鍵は外からは開けない。封印だってある。強引に侵入したな
らば、あたしが気付いたはずだ。

 なら、マーマが自分で―――

「……嘘だろう」
 
 マーマは自殺なんてする女じゃない。誰よりもしぶとく生き長らえようとし
た。例え浅ましかろうと、醜かろうと、生き残ったものが勝者だと信じていた。
 自ら死を選ぶなんて、絶対にあり得ないんだ。

 でも、事実としてマーマは飛び降りた。
 どうして……どうしてなんだ。
 問い掛ける余地すらない容赦のない死。マーマの最期は、あたしに疑問をぶ
つける猶予すら与えてくれなかった。

85 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/17(金) 00:04:42


「マーマ……」

 血の海から死体を抱き上げる。
 ふと、いま、眼帯をしていないことに気付いた。〈蜥蜴の眼〉は開かれてい
る。ひとの心を覗き見る魔眼。……もう何十度も試して、その度に無為に終わ
った行為。最後にもう一度だけ、試そう。
 心臓は止まっても、魂魄はまだ肉体に宿っているはずだ。

 焦点が定まらないまま夜空を見上げるマーマの瞳を、あたしの右眼が捉える。
 いままでと同じなら、ダイブしても真っ白な景色が広がるだけ。魂魄が消失
しているなら、ダイブすることすら不可能だ。
 けど、あたしの意識はマーマの精神世界へと誘われて―――

 ―――もっと早く、こうすべきだった。

 マーマの声が、右眼を通して頭に響く。
 ……これは精神の内側というより、死の瞬間、マーマが抱いた強力な思いだ。
 肉体に残留する思念。いわば、マーマの遺言。

 ―――イーリン、あなたは。

 久しぶりに聞くマーマの声は、記憶にあるよりずっと穏やかだった。

 ―――あなたは自由に生きなさい。

 呼吸が止まる。
 考えてもみなかった言葉が、あたしの頭の中に流れ込んでくる。

 ―――イーリン、あなたは自由よ。

「あたしは、自由……」

 残された思念はそれだけだった。
 それだけで十分だった。
 マーマがなにを考え、なにを理由に飛び降りたのか。
 すべて分かってしまった。

 あたしに自由を与えるため。

「そんなのって……」

 それじゃリリーと同じじゃないか。
 マーマがあたしに教えてくれた絆≠ニはぜんぜん違うじゃないか。
 マーマは、あたしに利用する価値を見出したから、近くに置いていてくれた
んじゃないのか。リリーみたいなわけの分からない理屈じゃなくて、「自分の
ため」という理由があったんじゃないのか。

 自由なんて、そんなの。

 ……これじゃ、まったくマーマのためになってないじゃんか。
 こんな終わり方でマーマは良かったのか。クーロン・ストリートの女傑が、
こんなかたちで幕を下ろしちまって良かったのか。

「良くない! 絶対に良くない!」

 勝手だ。あまりに勝手すぎる。

86 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/22(水) 22:34:39


 マーマは初めからそうだった。なにもかもが勝手だった。
 勝手にあたしを拾って、勝手にあたしを育てて、勝手にあたしに優しくして、
勝手にあたしから愛されて―――勝手に壊れて、勝手に死んだ。
 最後の最後まで、あたしを顧みようとしなかった。

 いまさら自由に生きろなんて、そんなの卑怯だ。
 マーマのために生きるって決めたのに。マーマがあたしのすべてだって気付
いたのに。……なんで、最後まで面倒を見てくれないんだ。

 自由なんていらない。
 不自由でいい。
 マーマさえいてくれれば、あたしは生きてゆけた。
 自由なんてあったところで―――

「どうして良いか、分からないだけだよ……」

 マーマの上半身を抱き締める。血まみれの胸に顔を埋めた。鼻先を強くこす
りつけた。……願いはひとつ。マーマと一緒になりたい。彼女が行こうとして
いるところに、あたしも連れて行って欲しい。ひとりはイヤなんだ。
 ……だけど、どんなに力を込めて抱いても、あたしはあたしで、マーマはマ
ーマだった。マーマは死んだ。あたしはまだ生きている。
 不安で、胸が押し潰されそうだ。

 いつの間にか、ウォンがあたしの背後に立っていた。騒ぎを聞きつけた立ち
番が呼んだのだろう。他にも何人か、見知った顔が遠巻きにマーマと、マーマ
を抱くあたしを眺めている。

 ウォンは顔色は蒼白だった。滑稽なまでに目を見開き、呆然と立ち尽くして
いる。「死んだのか」と答えを求めない呟きを夢中で繰り返す。
 あれだけマーマを厄介もの扱いしたのに、いざ願いが叶うと喜ぶどころか愕
然とするなんて。器が知れるな、なんて感想を抱くと同時に、ウォンの気持ち
も痛いほど理解できた。
 マーマは伝説だったんだ。クーロンの闇の歴史のひとつだったんだ。阿片中
毒にまで落ちぶれても、その事実が消えることはない。

 いま、ひとつの伝説が終わった。

 あたしだけじゃない。ウォンだけでもない。クーロンで生きる多くの人間が
阿嬌の呪縛から解放されたことになる。
 今日までのマーマは死んだも同然だった。いまは本当に死んでしまっている。
その違いが如何に大きいか、ウォンは身に染みて実感しているはずだ。

 マーマを抱きかかえて、立ち上がる。
 軽い。なんて軽いんだろう。マーマの背丈はあたしより頭一つ分は大きいの
に、あたしの両腕はマーマが着るドレスの重みしか感じていなかった。
 あんなにあたしをやせっぽちって馬鹿にしていた癖に……。

「―――頼みが、あるんだ」

 未だ驚愕から抜け出せないウォンと向き合う。

「これは契約にないことだけれど……もう、あんたしか頼れるやつがいないん
だ。仕事じゃなく、ビジネスとしてあたしのわがままを訊いて欲しい」

 目の上のたんこぶとしか思っていなかった小娘に唐突に下手に出られて、ウ
ォンは更に混乱した。どうにか「な、なんだ」とだけ言い返す。

87 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/22(水) 22:36:22


 あたしは顔を歪めながらも、なんとか嗚咽を飲み下した。

「……マーマを葬式に出してやってくれ」

 あたしがひとりで弔ってもよかった。あたしが手ずからマーマを灰にしても
よかった。二人の絆を確かめるには、むしろそうすべきだ。
 だけど、派手好きなマーマに密葬なんて似合わない。たくさんお金をかけて、
大勢の参列者を呼んで、ありだっけの花火を打ち上げるべきだ。
 うんざりするほど過剰な演出で、儀式張った取り決めで、マーマという伝説
が終わったことをクーロン中の人間に知らしめるんだ。
 ウォンならそれができる。彼もまた、マーマの子供だから。

 ウォンはすぐには返事をしなかった。マーマほどの大人物の葬式となれば、
それだけ出費も嵩む。だけど同時に収益も見込める。どちらに天秤の針が傾く
か、混乱しつつも計算を始めた。三十秒ほど悩んでから、「……いいだろう」
と警戒の念をこめながら言った。

「悪いね。頼んだよ」

 マーマの遺体をウォンに渡す。

「お、おい……」

 ウォンはマーマを受け止めたものの、バランスを崩して落としそうになる。
脇に立っていた立ち番が、慌ててマーマの背中を支えた。

 あたしはマーマの死に顔に一瞥をくれると、踵を返し、その場を去ろうとす
る。背中越しにウォンが呼び止めた。

「どこへ行くんだ。一緒にいてやらなくていいのか。まさか、俺に任せきりに
するつもりか」

 ウォンの意外そうな声。葬式の采配に首を突っ込んでくるものとばかり思っ
ていたのだろう。あたしは背中を向けたまま「任せると言ったはずだぜ」と答
えた。……あたしに、葬式に参列する資格はない。

 あたしは捨てられたんだ。
 最後の最後で、置き去りにされたんだ。
 いまのあたしは独りだ。
 どうしようもないまでに孤独だ。
 あたしには誰もいない。
 あたしには誰もいない。

 あたしは自由だった。死にたくなるほど自由だった。

「さようなら、母さん」

 多くの視線を背中に感じながら、あたしはビル屋敷≠ゥら去った。
 一年前から幾度となく通った阿片窟。
 マーマの最後の城。
 あたしを縛り付けていた鎖。
 唯一の、絆。
 ……もう二度と、訪れることはない。 

88 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 00:17:43


 足を止める。
 第十層まで歩いて、蒸気スクーターを第七層に置いてきてしまったことに気
付いた。考え事に没頭していて気が回らなかったとはいえ、間抜けな忘れ物を
したもんだ。このまま徒歩で帰るのはちょっと骨が折れる。

 ……帰るのは。

 帰る、か。
 
「いったい、どこへ帰るっていうんだろうな」

 中心街の事務所か。
 第八層の自宅か。
 ……どっちも間違いじゃない。マーマがいなくなったところで、あたしの資
産までが失われるわけじゃない。クーロンの火蜥蜴は未だにマーマの後継者で、
年齢に不相応なお金持ちサマのままだ。
 だけど、自由≠ノなってしまったあたしには、もう、本当の意味で帰る場
所なんてない。どこへ帰ってもあたしは独りのままだ。

 事務所へ帰ってどうする。アパートへ帰ってどうする。故買屋の仕事を続け
るのか。なんのために。生きるために。
 ……くだらない。心底くだらない。
 あたしは自由なんだ。
 もうマーマはいないんだ。
 なんでもできるけど、なんにもできない。
 理由がなければ目的もない。
 帰る場所だってない。

「―――社長」

 唐突に呼びかけられて、あたしは躰を硬直させた。別にあたしを指している
んじゃないと思いたかったけど、こんな間の抜けた声を出すやつがクーロンに
二人もいるはずがない。

「社長、オカエリナサヰ」

 牛頭の巨漢が、悪鬼の仮面で表情を殺してあたしを待っていた。ただでさえ
窮屈な〈針の城〉の路地は、筋肉の壁によって完全に分断されている。
 ……こいつ、ここでなにやってんだよ。
 
「誰が迎えに来いなんて言った。事務所の留守を任せただろう。中心街はいま、
やばいんだろう。どさくさに紛れて強盗に入られたらどうすんだよ」
 
 ていうか、なんであたしがここを歩いているって知っているんだよ。

「ずっと社長ヲ捜してヰマシタ」

 ハダリーはあたしの説教をきっぱりと無視した。
 あたしは「はぁ?」と問い返す。

「感じたンです」

「なにをだよ」

「社長が寂しガってヰるって」

「……っ」

89 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 00:20:09

 こいつ、なに言ってやがるんだ。単細胞の癖に、なに一丁前に気を使ってい
やがるんだ。あたしがいつ、慰めろなんてプログラミングしたよ。
 言葉だけの優しさなんていらない。本を朗読するように憐れまれても、ちっ
とも嬉しくない。リビングデッドに寂しいなんて感情が分かるものか。筋肉が
満載された脳みそに、あたしの痛みが理解できるものか。

 ―――それとも、まさか。

 分かるのか。理解できるのか。
 学習したっていうのか。
 オートマトン・ハダリーの自由意思≠ェ、孤独を学んだのか。

「ハダリー」

 自然と声音が低くなる。

「……ハヰ、社長」

「寂しいってなんだよ」

「分かりませン」

「分からないのかよ」

「ハヰ」

「分からないのに、あたしが寂しがっているって思ったのか」

 はい、とハダリーは頷いた。

「ダカラ迎えに来ましタ」

 理屈になってねえ。道理が繋がっていねえ。倫理立てた思考より直感を優先
するのなら、こいつはまだまだ不完全な筋肉達磨だ。自立/独立なんて夢のま
た夢。手のかかるガキのようなもんだ。マーマがいなくなってあたしが壊れて
しまったように、あたしがいなくちゃまともに動けない。

「……ハダリー、あんた、あたしがいなくなったらどうする」

 珍しく人造僵尸が返事に窮した。ない頭をフル回転させて答えを探している。
 答えなんて、見つかるはずがないのに。あたしですら答えられなかった、答
えたくなかった問いを、こんな死体に見つけられてたまるか。
 ……あんたを自由になんて絶対にさせないよ、ハダリー。

「申し訳ありまン。私には分かりませんン」

 だろうな。

「ひとつ、勉強させてやるよハダリー」

「ハヰ、社長」

「いま、あんたが抱いた思いが、寂しい≠チてやつだ」

90 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 00:23:39

 分かったのか分かっていないのか、ハダリーはお馴染みの「ハヰ、社長」と
いう返事を繰り返しただけだった。……別にあたしも、感動を抱かれることを
期待したわけじゃない。こいつはこれでいいんだ。馬鹿なままでいいんだ。

 ハダリーが事務所に帰ってやることの指示を出す。
 事業と不動産の処分。売値は問わないから、とにかく現金を作れ。在庫の商
品は全部同業に二束三文でくれてやれ。あたしの工房は、ハダリーの予備のパ
ーツと最低限の仕事道具を持ち出して、あとは念入りに破壊しろ。
 最後に「行け」と命令する。「ハヰ、社長」とハダリー。

「ハダリー」

「ハヰ」

「社長はやめろ」

「ハヰ、社長」

 くそったれめ。
 あたしはほんの少しだけ、笑ってもいい気分になれた。どん底に浸っている
ときでも馬鹿を見れば心は和むもんだ。

 認めざるを得ない。あたしはハダリーにすら依存している。自由になんてと
てもなれない。本物の孤独なんて考えられない。
 だけど、もうマーマはいない。
 その事実だけは絶対に揺るがないのなら。
 あたしの為すべきことはひとつ。

火蜥蜴≠フイーリンを縛る鎖はもう存在しない。誰もあたしを飼い慣らすこ
とはできない。あたしは―――自由だ。くそみたいに自由だ。


                  * * * *


 連絡も入れずに訪れたけれど、シャオジエはいつもの軽口も小言も封印して、
黙ってあたしを部屋に通してくれた。
 二十時間ぶりぐらいだろうか。前にこのスイートルームに訪れてから一日す
ら経っていないのに、室内の瀟洒なインテリアも、シャオジエの愛敬のある美
貌も、なにもかもが変わって見えた。……それはきっと、あたしが変わってし
まったからだろう。二十時間前のあたしはまだ、なにも失っていなかった。

「悪いけど時間がない。要点だけを話すぜ」

「阿嬌が死んだらしいアルね」

「知っていたのか」

 さすがはシャオジエ。情報の敏さは一級品だ。こんなお高いホテルに籠もっ
ていても、知るべきことはすべて知っている。

 シャオジエはがくりとうなだれた。

「阿嬌とワタシはずっと親友だったアルよ。お互いにたくさんお金儲けした仲
ネ。だからこの結果悲しいアル。火蜥蜴にかける言葉見つからないネ」

 いつもの茶化す口ぶりは影をひそめている。……ま、当然か。

「そういうのはどうでもいいんだ」

 シャオジエの慰めをあたしはばっさりと切り捨てた。 

91 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 01:22:20


 あたしがわざわざシャオジエのもとまで足を運んだのは、一緒にマーマとの
思い出を偲ぶためじゃない。マーマという後ろ盾がいなくなったいま、あたし
が頼れる唯一のオトナ=シャオジエに、利害の関係を無視して頼みたいことが
―――いや、縋り付きたいことがあったからだ。

「あたしは外≠ヨ行く」

 だからあんたのリージョン・シップに乗せてくれ。

 ……この頼みは、シャオジエの予想の範疇を大幅に逸するものだった。彼女
はマーマを失った悲しみすら忘却して、ただただ唖然と目を丸めた。

 しかたがない。シャオジエの反応は健全だ。どう予測すれば、あたしの口か
ら『外≠ヨ行く』なんて言葉が出ると思うのか。
 言ったあたし自身が、その不自然さに面はゆくなってくる。
 だけど、大真面目だった。真剣に頼んでいた。この望みを叶えてくれるのは
プライベート・シップを持つシャオジエだけだ。
 出入国管理証明書を持たないあたしは、正規の手段でクーロンを出ることは
できない。密出国の手段はいくらでもあるけど、クーロンの場合はその全てが
マフィアと絡んでいる。連中の手を借りるわけにはいかないんだ。

 正気なのか、本気なのか。―――そんなのは問うまでもなく、あたしの目を
見れば分かるはずだ。だから丸まっていたシャオジエの目も、次第に細められ、
商売人の鋭さを取り戻しただけで「馬鹿なことは考えるな」なんて馬鹿な説得
をしたりはしなかった。

「金はある。マーマの遺産をいまハダリーに処分させているとこだ」

「……理由を、聞いてもいいアルか?」

 どうしてクーロンから出て行くのか。どうして、あんなに拒んでいた外
へと行く気になったのか。

「もう、ここにはいられないからだ」

「だから、それはどうしてアルか」

 あたしは、唇の隙間からひゅっと息を吸い込んだ。

「ダージョンを―――〈紅の魔人〉を、殺すからだ」

 本当の驚愕は、ひとから表情を奪い去る。このときのシャオジエも、いつも
の大袈裟で嘘くさい反応はせず、無表情にあたしを睨んだだけだった。

「チケットは三枚用意してくれ。あたしとハダリーと―――」

 力をこめて、その名を口にした。

「リリーの分だ」

 マーマを失ってしまった。
 いちばん怖れていた事態を迎えてしまった。
 だからあたしには、もうなにも、怖れるものがない。
 ゆえに、あたしは自由だ。 

92 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 23:16:51


 あたしはシャオジエに語って聞かせた。
 三輪トラックで配送中に、巨大蜘蛛のモンスターに襲われたこと。そのモン
スターを使役していたのが、〈黒死病〉の凶手だったということ。黒社会に命
を狙われるかもしれなくなったあたしを、リリーが庇ったこと。……その代償
として、リリーは外≠諦め〈火焔天〉へ帰ってしまったこと。
 あたしがロートルを殺したこと。あたしの目の前で、マーマが投身自殺をし
たこと。……そしてあたしは自由になったこと。
 ―――シャオジエと別れてからいまに至るまでの二十時間。その間に起こっ
た一連の事件すべてを説明した。
 それを踏まえて、あたしは改めて断言する。

「リリーは外≠ヨ行く。あたしと一緒に行くんだ」

 そう決めた。自由なあたしが決断した。
 マーマもそうなることを望んでいるはずだ。
 あたしがあの阿片窟でリリーのことをマーマに教えなければ、きっとマーマ
は飛び降りなかったと思う。なんの根拠もない推測だけれど、マーマは自分が
あたしの枷になっていることに耐えられなかったんだ。
 だから、飛び降りた。
 あたしはその責任を取らなくちゃいけない。

 それまで黙っていたシャオジエが、ようやく口を開いた。

「自分の言ってることが、どれくらい難しくて、現実離れしていて、荒唐無稽
かは、分かっているアルな」

 ふん、と鼻を鳴らす。
〈妖魔租界戦争〉の発端と謂われる運命の赤児≠力ずくでさらってしまう
んだ。相手は妖魔租界を単身で壊滅させた伝説の魔人と、その配下のクーロン
・マフィア。常識を無視した愚行なのは間違いない。
 ちんけな故買屋の小娘になにができる。返り討ちに遭うのがオチだ。

 昨日までのあたしなら、やるだけ無駄とせせら笑っただろう。
 だけど、いまのあたしには諦める理由がない。例え愚かな真似だったとして
も、それでリリーとまた会えるのなら、彼女に夢の続きを見せてあげられるの
なら、いくらでも愚かになってやる。リリーがあたしを救ったように、今度は
あたしが彼女を救うんだ。

 それに、勝機はある。勝率は決して低くない。

「シャオジエ。あんた、このあたしが誰か分かっているのかい? 阿嬌の後継
者、火蜥蜴≠フイーリン様だぜ。そりゃ、〈紅の魔人〉に比べればいくらか
見劣りはするだろうけどさ。あたしだってクーロンではちょっとは名の知れた
女なんだ。一杯食わせるぐらいのことは、やってやる」

 今度はシャオジエが鼻で笑う番だった。

「一杯食わせるなんて、そんな甘い表現じゃ追いつかないアルよ」

「そうかもな。けど、勝つのはあたしだ」

 シャオジエは目を眇めた。あたしの断固たる口調の根拠を探している。ここ
まで自信を持つからには、相応の計画があるんだろうね、と無言で尋ねてくる。

93 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 23:20:29


「分かってはいると思うけれど、〈火焔天〉は〈針の城〉のど真ん中にあるア
ルよ。あそこだけは、ビルじゃなくて一個のお屋敷ネ。〈針の城〉の道は複雑
で地図なんてないけれど、どう足掻いても〈火焔天〉には辿り着けないの有名
な話。〈針の城〉の第一層から第十層までは、〈火焔天〉の城塞に過ぎないな
んて言う奴までいるくらいアルよ。……例外は上空からの侵入だけれども、ま、
それも火蜥蜴には厳しいネ」

 ああ、と頷く。〈火焔天〉に行きたいのなら、空を飛ぶか、乱立するペンシ
ルビルの屋上を飛び移れ。これは有名な攻略法だ。いくら高くそびえ立つ城塞
でも、理論上は、飛び越えてしまえばそれでお終いなのだから。
 けど、シャオジエの言う通り、その攻め方はあたしには難しい。第一にあた
しは空を飛べない。第二に、いくら身体能力が優れていると言っても、ビルの
屋上から屋上を飛び移るなんてアクロバットな真似はできない。
 九層や十層ならともかく、二層や三層の密集率が低く高度もまばらなビル群
の屋上では絶対に不可能だ。
 それに、「上が弱点」なんてことはクーロン・マフィアだって百も承知して
いる。飛び込んでも迎え撃たれる可能性がひじょうに高い。

「なら、どうするアルね。地上からの道は誰も知らないアルよ」

 道は地上にだけにあるとは限らない。上空だけが唯一の道でもない。あたし
のたったひとりの友達は、上でも下でもない第三の道≠使っていた。

「縮地法≠使って、リリーが監禁されている部屋に直接跳ぶ」

 シャオジエの表情が露骨に変わった。あからさまに、あたしを馬鹿にした目
つきになる。

「ワタシ、悲しいアル。火蜥蜴はもうちょっと賢い娘だと思っていたヨ」

 魔術回路すら持たない半端な小娘が、仙人の奥義である縮地法を使えるはず
がないだろう。ちょっとは考えてものを言え、悪童が。―――そう、言いたい
わけだ。ついでに「私ですら使えないんだから」もつけられるかもしれない。

 シャオジエの疑念はもっともだ。あたしに縮地法を使いこなせるはずがない。
 莫大な魔力と、それを扱う才覚を持ち合わせているリリーですら、縮地によ
る移動が可能なのは〈針の城〉の城内という極めて限定的な領域のみだった。
 だけど〈針の城〉の城内に限っては、リリーは霊走路網を書き換え、自分の
管理下に置き、どんな場所でも跳べるようになった

 霊走路網というのは霊脈の地図みたいなものだ。人体の血管の如き細かく走
る霊走路をすべて理解すれば、リリーのように、どこにでも現れて、どこから
でも消えるようなとんでもない真似もできるようになる。
 ……けど、そうじゃなくても。
 地図を読むとき、リリーのようにすべての道を暗記する奴はいないように、
目的地までの道―――たったひとつの霊脈の〈径(パス)〉を知るだけでも、
その霊走路のみを利用し、縮地法に応用することは可能だ。
 まぁ普通は、〈径〉を見つけることすら不可能なんだけれど。
 
 ……生憎とあたしは、リリーほどじゃなくても、普通ではなかった。

「あたしは自分の目で何度も見ているんだ。リリーがお気に入りの〈径〉を通
って、あたしの部屋に遊びに来る様子を」

 シャオジエは、はっと顔をあげた。
 あたしは中指で右眼の眼帯を撫でながら言った。

「自分で〈径〉を見つける必要はない。リリーが彼女の部屋からあたしの部屋
へと直接跳んできた〈径〉を、逆に辿ればいいだけだ」

 あたしの右眼なら、その〈径〉を視ることができる。

94 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 23:22:48


 もちろん、〈蜥蜴の眼〉だけでは縮地法は使えない。霊走路の〈径〉が視え
たところで、奇門遁甲の方位術を理解していなければ跳びようがない。
「天・地・人」の三式のうち、地を代表する奇門遁甲の術は、応用範囲が広く
触れやすい一方で、果てしなく奥が深い。一朝一夕で学べるものじゃなかった。
 しかし、覚えることはできなくても、入力≠キることはあたしにとって比
較的容易い。―――なんのためにハダリーがいるのか。なんのために「霊体計
算機」「霊体頭脳」などと呼ばれる人造霊があるのか。
 心霊工学の目的は、神秘の機械化だ。術理だけなら、どんな複雑な式でも人
造霊にプログラムさせることができる。

〈径〉をあたしが作り、術をハダリーが担い―――

「魔力はどうするアル? 奇門遁甲を知ったところで、仙丹がなければただの
星占いか健康法アルよ」

 その問題もすでにクリアしている。
 ハダリーの右眼に埋め込んだ魔石から供給しても良かったけど、そうなると
猫睛石の干渉を受けることになる。ハダリーの術の成功率が歪んでしまうかも
しれない。失敗すればあたしの躰はばらばらだ。あまり冒険はしたくない。
 だから、

「数秘機関(クラック・エンジン)を使う」

 三輪トラックが巨大蜘蛛に潰されたせいで、裸のエンジンが一個、事務所に
眠っていた。いまハダリーがあたしの部屋へ運んでいるはずだ。
 数秘機関の出力量ならばあたしを〈火焔天〉まで楽に送り込めるはずだ。

「呆れたアル」

 シャオジエは大袈裟に肩を竦めた。

「転移装置を作る気アルか。もう風水の範疇じゃないアルよ」

「仕掛けはいまから作る。〈針の城〉のあたしの部屋でね。ハダリーの手を借
りれば、大して時間はかからないさ」

「お姫様のベッドまでどうやって行くか、は分かったアル。……で、それから
はどうするアルか? 話を聞くとその縮地は一方通行の片道切符よ。〈径〉は
火蜥蜴しか視れないんだから、当然、跳べるのも火蜥蜴だけある。数秘機関も
ミノタウロスも置いてけぼり。それでどうやって帰るアルね」

「でっかい花火を上げるさ」

 帰りはリリーの縮地法に随伴つかまつりたいところだけれど、そううまく話
が進むとは思えない。いまの彼女には何らかの封印が施されていると考えるべ
きだ。そうでなければ、簡単に〈火焔天〉から逃げ出せてしまう。

「ハダリーに迎えに来てもらう」

 行きと違って、帰りは力ずくだ。
 ハダリー……いや、この場合、猫睛石と呼ぶべきか。支配率を大きく魔石寄
りにした彼女ならば、真っ当な攻略手段―――つまり、ビルの屋上から屋上へ
と飛び移って〈火焔天〉に侵入することもできる。
 あたしを護る必要もなく、力の制限を課せられることもなく、魔力の奔流に
突き動かされるままに稼働するハダリー/猫睛石の戦闘能力は、クーロン・マ
フィアの迎撃などいとも容易くはねのけてくれるはずだ。

 クーロン・ストリートのクーデター騒動も、マフィア連中の戦力を分散させ
るという意味で、あたしに有利に働いてくれるだろう。
 

95 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 23:26:16


 それでも、縮地法を成功させればいいだけの行きの道と違って、帰り道は大
きなリスクを伴う。賭となる部分が大きい。なにしろ、〈火焔天〉にはどれほ
どの兵力が詰め込まれているのか、常駐している凶手の戦闘力はどの程度なの
か、あたしにはまったく分からないからだ。リリーを人質にとろうとは考えて
いるが、それもどこまで通用するかは分からない。

 とにかく迅速に行動する。リリーの身柄を確保したら即座に離脱する。シャ
オジエが待つシップ・ターミナルまで逃げ込めれば、あたしの勝ちだ。

 ……しかし、このゲームに勝つためには、もっとも大きな難題がまだ残って
いる。それはシャオジエも分かっているはずだ。

「―――結界」

 彼女の呟きに、あたしは「ああ」と不機嫌に返事した。

 リリーを閉じ込めるために用意された、本物の檻。〈針の城〉より外の世界
を絶望させた忌まわしき鳥篭。これを取り除かない限り、〈火焔天〉からリリ
ーを連れ出せたところで、外≠ヨ行くことは叶わない。

 この結界の対処について、二つの手段をあたしは考えている。

 ひとつは、他人にならばできずとも、あたしにならできること。蜥蜴の血肉
を持つあたしなら、結界そのものを破壊することはできなくても、一部を一時
的に無効化することはできるかもしれない。

 もうひとつは、〈紅の魔人〉を殺すこと。
 結界を張ったのが彼ならば、殺せば結界は消滅する……かもしれない。消え
ない可能性もある。五分と五分の勝負だ。

 あたしの力では結界を破れず、〈紅の魔人〉を始末しても結界が消滅しなか
ったらどうするか。それは「あとで考える」しかない。
 どちらにせよ、クーロン・マフィアのボスである〈紅の魔人〉を殺せば〈針
の城〉は混乱に陥る。姿はいくらでも眩ませられるはずだ。

 ―――だから。
 リリーを救うということは、〈紅の魔人〉を殺すことと同義。
 あたしが、あたしの手で伝説を終わらせるんだ。

 よっぽどあたしの計画が面白かったのか、シャオジエの口元には笑みが広が
っていた。底意地の悪そうな微笑で尋ねてくる。

「〈紅の魔人〉をどうやって仕留めるつもりアルか。あのミノタウロスじゃ、
彼は斃せないアルよ」

「やってみなくちゃ分からないぜ」

 あたしのハダリーは最強だ。

「無理アル。甘く考えすぎネ」
 
 そう言うとシャオジエは、チーパオ・ドレスのスリットから素足を放り出し
た。太股のベルトにさしていた短剣を鞘ごと抜くと、あたしに投げて渡す。

「それ使うネ。あんな出来損ないの僵尸よりかは、良い働きするアルよ」 

96 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 23:29:48

 短剣は、シャオジエにしては珍しくクーロン的な拵えではなく、共同租界の
外国人が携帯していそうな両刃のものだった。
 鞘は鉄製だろうか。表面に天鵞絨を張って高級感を出している。ハンドルの
部分には荊の蔦が彫金されている。装飾が過剰な分だけで、実用性に乏しいよ
うに思えるが……。

 ―――そんな感想も、鞘を払って刃を露わにしてみると一転した。

「こいつは……」

 成人男性の手首から指先程度の長さの刃は、光から見放されたかのように、
深い紅に沈んでいた。禍々しく毒々しい魔性の紅色だ。
 眼帯を外さずとも、肌から痺れるように伝わってくる濃密な魔力。ハダリー
の右眼の魔石と比べても遜色がないほどだ。……なるほど、シャオジエが請け
負うだけのことはある。こいつはとんでもない一品だ。

「ワタシの杖<Aル。大切に使うよろし」

 魔術師が自分の魔力を増幅させるために使用する杖は、あくまで概念上の道
具であって、実際に杖のカタチをしているわけではないと聞いていたが、シャ
オジエの場合は短剣のカタチをとっているというわけか。

「ありがたく使わせてもらうぜ」

「一億クレジット。現金でよろしくアル」

「あたしが死んだら、死体を売って金にしてくれ」

 軽口に軽口で応えつつ、短剣を鞘に収め、ブルゾンのポケットに突っ込む。
その動作だけでもかなりの緊張を強いられた。

 説明も終わり、必要な儀式はすべて済ませた。シャオジエは、あたしとリリ
ーをリージョン・シップに受け容れると約束してくれた。これで安心して、あ
たしは死地へと乗り込むことができる。

 別れ際に彼女は言った。

「これが最後かもしれないアルね」

「縁起でもないこと、言うなよ」

「成功したらクーロンはめちゃくちゃネ。旅行者としては、クーロン港による
のに制限がかかるような事態は、あまり嬉しくないアル」

「成功しなくたってもうめちゃくちゃだよ。クーロン・ストリートの騒ぎは、
IRPOが鎮圧部隊を出したらしいぜ。あたしはその騒動に便乗するだけさ」

 それもそうネ、とシャオジエは笑った。あたしも口元を緩めた。

 二度と会えないかも。そう考えると、もっとしんみりとした別れを演出する
べきだったかもしれない。けれど、そういう気分にはならなかった。
 マーマが死んでも、あたしが死ぬかもしれなくても、シャオジエは自分のペ
ースを崩さない。いつも通り、緊張感のない姑娘のままだ。だからまた会える
ことについても、疑いの余地を抱かせてくれなかった。
 あたしは彼女と会ったことで、初めて、この試みが成功するかもしれないと
思えるようになった。本当に、リリーを助け出せるかもしれない。
 一緒に、外≠ヨ行けるかもしれない。

 ……ありがとう、シャオジエ。

 感謝の念を胸に秘めて、あたしはホテルを後にした。

97 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/03(月) 21:01:33



                  * * * *


 第八層のあたしに部屋に戻ると、リビングのカーペットを剥ぎ取って床に直
接方位陣の下書きを書き込み始めた。
 携帯用の霊気羅針盤とあたしの右眼を頼りに、リリーが開いた〈径〉の残り
香を特定する。地道な作業で、時間が流水の如く流れていく。

 資産の整理を終えたハダリーが帰ってくると、下書きを中断して彼女の調整
に移った。非正規の手段で手に入れた陰陽五行の理気を人造霊にインストール
し、ハダリーを即席の風水師に仕上げる。
 魔法円や方位陣のような精緻さが求められる作業はハダリーの領分だ。調整
を済ませた彼女には、早速、あたしが書いた下書きの清書を頼んだ。
 ハダリーが筆代わりに使っているのはミスリル製の匕首だ。数秘機関を稼働
させ、鋼線で繋いだ匕首の切っ先に魔力を集中させる。これであたしやハダリ
ーのように、魔力回路を持たない術者でも、強力な魔力を内包した魔法円を書
くことが可能になる。方位陣の場合も同様だ。
 機械の正確さで方位陣を組み立てていくハダリーの背中を見守り、あたしは
満足そうに頷いた。

 集めた現金はすべてシュライクの架空口座に入金させた。一枚の磁気カード
があたしの全財産だ。

 シャオジエと別れてから六時間。ようやく方位陣が完成した。

「……ちょっと疲れた、かな」

 あたしの言葉に、ハダリーが首を傾げた。
 あたしも彼女も睡眠を必要としない。故買屋商売が忙しかったときは、一ヶ
月も二ヶ月も休息無しで駆け回ったことすらある。それに比べれば、この程度
の慌ただしさなど屁みたいなもの。どうしてあたしの口から「疲れた」なんて
言葉が出てくるのか理解できない―――そう言いたいのだろう。
 それでもハダリーは気を利かせて「少シ休ミマスカ」と言ってくれる。

「いや、大丈夫」

 時間が惜しい。クーロン・ストリートの様子が気にかかる。
 クーデターは鎮圧されたんだろうか。それとも混乱は未だに続いているのか。
続いているにしろ鎮められたにしろ、針の城から来た女≠ヘ目的を遂げたの
か。あたしを利用する気はもうないんだろうか。
 ……いま、クーロンではなにが起ころうとしているのか。

 分からないことが多すぎる。考えるな、とあたしは胸裏で言い聞かせた。
 あたしの目的はシンプルだ。リリーを助けて、シャオジエの船で外≠ヨ行
く。たったそれだけだ。他になにも、特別なことなんてしようとしていない。

 裏切られ続けてきた人生だった。
 笑うことより泣くことのほうが圧倒的に多かった。
 このまま夜に沈むのか。それとも陽光の下に飛び出すのか。
 ここが境界線だ。

 あたしはリリーに会いたい。彼女の見る夢を叶えてあげたい。
 そして一緒に―――

「……始めようぜ、ハダリー」

 あたしは静かに言った。

98 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/03(月) 21:01:46


 眼帯を引き千切ると、ハダリーに投げ渡す。
 ハダリーは仮面越しにあたしを見つめた。

 彼女の逡巡―――眼帯を手放すということは〈蜥蜴の眼〉を隠さないという
こと。常時魔眼を開きっぱなしにすれば、それだけあたしの躰に負荷がかかる。
 十年前、シャオジエから魔眼殺しの眼帯を渡されてから今日まで、眼帯を誰
かに預けたことなんて一度もなかった。だけど、これからの時間は……。
 右眼を隠す余裕なんて、ない。

〈蜥蜴の眼〉を眇めて、霊脈の流れから〈径〉の名残を見出す。
 ハダリーが数秘機関の出力を最大値まで上げた。方位陣が発光を初め、暗闇
の屋内を蛍光色で燃え上がらせる。

 かつ、かつ―――とあたしのエンジニアブーツの爪先がリズムを刻む。それ
にならって、ハダリーは奇怪な踊りを始めた。腰を屈め、足首をねじり、大袈
裟に足をあげながら方位順の外周をなぞる。
バカ歩き(シリー・ウォーク)≠ニ呼ばれる遁甲術特有の歩法だ。

 ハダリーの歩法のリズムに合わせて、あたしは床を踏む、踏む。

 霊脈のトンネルが開かれるのを、あたしの右眼は霊視し―――

 ハダリーになにか別れの言葉を言おうかと悩んだ。
 彼女とはこの後、火焔天で合流する予定だ。あたしは縮地法で移動し、ハダ
リーは自分の足で中央まで強行進撃する。
 地獄で会おう、とか。遅刻するなよ、とか。そういう軽口が必要な気がした
けれど、レイ・ラインのトンネルはあたしの迷いを待ってはくれなかった。
 ハダリーのバカ歩き≠ノ促されるままに、あたしは転移を初め、百億の距
離をゼロに詰めて、空間を跳躍した。


  リリー、とあたしは唇の内側で彼女の名を呟く。
  あの時、あんたがあたしを守ってくれたように。
  今度はあたしが、あんたを守る。


 跳躍は一瞬で終わった。感覚としては、視界が切り替わっただけ。風水術の
究極を成し遂げたという実感は薄い。
 あたしはベルトに差した短剣の柄に手を置きながら、周囲を見渡す。
 転移した先がリリーの居場所だというのは、彼女が幽閉されている事実を鑑
みれば当然の予測だ。転移先がクーロンのマーケットだったなんてことは絶対
にあり得ない。だから、ここにリリーがいるのは間違いないんだろうけれど。
 
 ……なんだ、ここは。

 あたしが転移した先は、幽閉や監禁という言葉から連想される場所とはかけ
離れていた。―――壁が見えないほど広い面積。空に届きかねないほど遠い天
井。雑多で狭苦しい〈針の城〉とは似つかわしくない贅沢な空間の使い方に、
あたしは戸惑いを隠せない。
 なによりも驚いたのは、ドーム状の広大な屋内に立ち並ぶ本棚の数だ。目に
つくのは本と本と本ばかり。さながら書籍の〈針の城〉だ。世界中の本という
本がここに蒐められているんじゃないかと錯覚させられる。
 リリーは、こんなところで十年以上のときを過ごしてきたのか。
 
「リリー!」

 彼女の名を叫びながら、あたしは〈図書室〉をさまよう。こんなのは予想外
だ。牢獄とまでは言わなくても、監禁されているからにはひとが一人居住でき
る程度の空間を想像していた。こんな馬鹿広い上に障害物が多い空間で、彼女
を見つけるまでにどれだけの時間がかかる。五分か、十分か。
 焦りによって冷静さを失いかけたあたしだったけれど、意外にも、リリーは
あたしの呼び声に素直に応じてくれた。

「―――こっちじゃ」

 鈴の音のような声が、〈図書館〉に響く。
 ……それは間違いなくリリーの声だった。けれども、あたしが知る彼女の声
に比べると、ずっと抑えられていて、あの媚びを孕んだ無邪気さは微塵も感じ
られなかった。つまり、同一でありながら別種の声。

99 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/03(月) 23:13:14


 声に誘われるがままに〈図書館〉を進む。
 迷宮の如く立ちはだかる本棚と本棚の狭間。ハダリーの身長よりも背の高い
脚立に腰かける人影を認めて、あたしは足を止めた。
 ……木製の脚立に座っているのはリリーだった。
 鈍器のような厳めしい装丁の本に視線を落としている。あたしには気付いて
いるはずなのに、見向きもしない。

 再会を喜ぶべきだ。会いたかったと素直な気持ちを告げるべきだ。
 けれど、あたしの口元は緊張したまま一向に緩もうとしない。脚立の上に座
す彼女を、黙って見上げることしかできない。
 目の前にリリーがいるのに。

 しかし、彼女は本当にリリーなのか。
 本を黙々と読み進める彼女の横顔は、幼いながらも、寒気を呼び起こすほど
に美しく、十二分に「女」として通用する。ひとを惑わす魔女のままだ。
 けれど、なにかが違う。なにもかもが違う。同じなのは容姿だけ。服装さえ
も、いつものドレスではなく、京風のキモノ≠まとっていた。
 髪も結い上げてるせいか印象がだいぶ違う。

 もっとも違和感を覚えるのは、あれだけ周囲を圧倒していた莫大な魔力が、
いまのリリーからはまったく感じられないことだ。
 リリーを魔女たらしめる魔力が、〈針の城〉をも支配した無限の魔力が枯
れてしまったのかと、一瞬だけ疑った。しかし、すぐにそうでないと気付く。
 リリーはあの魔力を持て余していた。あまりに強大なせいで押さえ込むこ
とができず、いつも躰から溢れさせていた。
 けれどいまの彼女は、自らの魔力を完全に制御下においている。支配しき
っている。だからこんなに静かなんだ。

 唇が震える。
 膝が笑う。

 リリーはあたしを見ない。頑なに読書を進める。
 この反応からして、すでにおかしいんだ。
 来るはずのないあたしが、来てしまった。それに対して、喜ぶなり、怒るな
りのアクションがあっていいはずじゃないか。
 なのに彼女は、あたしを見ようとしない。

 あたしは呆然と立ち尽くすことしかできなかった。不安に縛られ、恐怖に負
け、なにも尋ねることができなかった。

 そんなあたしの様子を気配だけで覚ったのか。リリーは本に目を落としたま
ま、眉を寄せて「―――愚かものめ」と呻いた。

「まさか、縮地の足跡を辿ってくるとはのう。とんでもない離れ業をしてくれ
たものじゃ。無謀も度が過ぎれば奇蹟となる良い見本か」

 耳を疑った。これがリリーの唇が出た言葉なのかと。

「なぜ来た。……そんな問いは今更したところで詮無きことじゃ。すぐにでも
立ち去れ―――と言っても、縮地での帰路は用意されておるまい」

 やれやれ、と彼女は大袈裟に嘆息を漏らす。

「ここでおまえを殺めれば、あの女の絵図通りにことが進んでしまう。しかし、
閉じ込めておくにはリスクが大きすぎる。……やはり、大人しく帰ってもらう
しかないのう」

100 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/03(月) 23:35:25


「あんたは誰だ!」

 ようやく、言えた。

「リリーはどこにいる!」

 訊きたくなかった。知りたくなかった。答えを聞いてしまったら、あたしは
二度と立ち直れない。けれど、このままこいつに喋らせておくのは我慢がなら
なかった。あたしはリリーに会いに来たんだ。彼女を取り戻しに来たんだ。

 リリーに酷似した少女は、やはり本を読みながら真実を告げた。
 残酷な、真実を。

「―――あの白百合の娘は、もう、どこにもいない」

 脚立を蹴り倒した。少女の矮躯が宙を舞う。あたしは抱き止めようとしたけ
れど、彼女は身軽な動作でくるりと反転すると、音もなく床に着地した。
 右の魔眼が、少女の魔力の流れをはっきりと識別している。

「暴力はやめよ」

 しれっと少女は言うと、立ったまま読書を再開した。

「なあ、教えてくれよ」

 縋るようにあたしは言う。
 
「リリーはどこなんだ。いったいどこに隠れているんだ」

 少女の返答は、あくまで冷淡だった。

「二度は言わん」

 胸ぐらを掴んで、絞め殺してやりたい衝動に駆られる。けれど、あたしは伸
ばした手を空中で止めた。
 別に、少女の魔力に阻まれたわけじゃない。暴力に身を任せる。その行為が
どれだけ虚しいのか、あたしは分かってしまったからだ。

 あたしの左眼は欺けても、右眼は決して誤魔化せない。目の前にいる彼女が
リリーはどこにもいないというのなら、きっとそれが真実なんだろう。

『イーリン、勘違いしないで。これは犠牲でも献身でもないの。初めからこの
物語にハッピーエンドは無かっただけ。物語の舞台は、最初から最後まで〈針
の城〉だったのよ。わたしが外≠ヨ行くシナリオなんて用意されていなかっ
たのよ』

『そしてお姫様は醒めない眠りにつき、終わらない夢を見るの』

 ―――こういうこと、だったのか。

 あたしはその場に跪いた。床に突っ伏し、大理石の冷たさを感じた。

 物語の舞台は最初から最後まで〈針の城〉。……あのときは、あたしの助命
を嘆願した代償として、外≠ヨ行けなくなることを指していたのだとばかり
思っていた。でも、そうじゃなかった。
 リリーは自分の運命を諦めていたんだ。

101 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/04(火) 01:10:23


「語れば、長くなる」

 あたしの絶望を見抜いたのか、少女は冷たく言い放つ。

「わらわが何者か。それを説明したところで、きっとおまえは理解できまい。
例え理解できたとしても、なにも変わらぬ。……しからば諦めよ。すべて忘れ
よ。不夜城に帰れ」

 少女はリリーだ。しかし、リリーじゃない。
 二重人格だったのか。それともリリーは表層意識で、少女は封印された意識
だったのか。……それがどういうことを意味するのか。どんな事情でそうなっ
たのか。彼女の言う通り、あたしには理解が及ばないだろう。
 
 リリーがどうして〈運命の赤児〉と呼ばれていたのか。なぜリリーの出生が
発端となって〈妖魔租界戦争〉は勃発したのか。その答えが、目の前にある。
 けれど、あたしはそんなことを知るためにここに来たんじゃない。
 ただリリーに会いたくて。リリーと一緒に外≠ヨと飛び出したくて、霊脈
のトンネルをくぐって来たんだ。……なのに、こんな結末。

 違う。そうじゃない。まだ終わりなわけがない。
 リリーはいないだって? なら、目の前に立つこいつは誰だっていうんだ。

 あたしは躰を起こすと、床に直接あぐらをかいた。

「一つだけ、聞きたいことがある」

 あたしの声が冷静だったことに意表を突かれたのか、本を読む少女の横顔に
僅かな同様が見えた。あたしは構わず言葉を続ける。

「リリーは死んだのか」

「……そう思ってくれて、構わぬ」

「ていうことは、死んでいないってことだな」

 リリーは諦めたのかもしれない。けれど、あたしは諦めない。

「おまえがそう思いたければ、そう思うがいい。しかし、あの娘が消えてしま
ったという事実は変わらぬ」

 あたしは返事もせず黙り込んだ。そして十秒ほど待ってから、まったく関係
のないことを呟いた。

「マーマが死んだんだ」

「……知っておる。だからここに、来たのじゃろう」

 ふ、とあたしは口元を緩ませた。この〈図書館〉に来て、初めての笑み。

「やっぱり、あんたがリリーだ」

 少女がリリー以上の力を持つのならば、〈針の城〉の様子は完全に把握して
いる。虫の羽音すら聞き漏らしはしないだろう。……しかし、それは注意して
いればの話だ。第八層の酔客がどうしただとか、第十層の地縛霊がなにをして
いるだとか、そんなことをいちいち意識してはいまい。
 なのに少女はマーマの自殺を知っていた。それは、あたしとマーマの関係を
彼女が知っているからだ。
 リリーの記憶を引き継いでいる。同じ肉体を持っているのだから、それは当
然だろう。でも、人格が入れ替わり、あたしとまったくの他人になったのなら
ば、あたしやマーマを気にかける理由なんて無いはずだ。

102 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/04(火) 01:10:38


 動揺は微々たるものだった。けれど、その僅かな隙をあたしは見逃さなかっ
た。―――あたしの言葉に反応して、少女の瞳が一瞬だけ泳いだ。本から目が
離れ、初めてあたしを見た。そのときの、少女の表情。瞳に秘められた哀切。
 どうして少女は頑なに読書に勤しんでいたのか。どうしてあたしを一瞥すら
しなかったのか。……もっと早く分かってやるべきだった。
 見るのが辛かったからだ。見たら感情を殺しきれなくなるからだ。

「……愚かなことを言う。受け容れがたい真理なのは分かるが、だからと言っ
て己を誤魔化しても、哀しみが深まるだけじゃぞ」

「違う。あんたはリリーだ。そうじゃないって言うのなら、リリーがあんただ
ったんだ。どっちでもいい。あたしにとってはどっちも同じことだ」

 少女はあたしを知っている。リリーの記憶を引き継いだように、感情も受け
継いでいる。―――いや、継ぐという表現そのものがが間違っているんだ。
 少女はリリーなのだから。リリーは少女なのだから。

「十年間、記憶喪失をしていた人間が、ふとした拍子で過去の記憶を取り戻し
た。そいつはもう他人なのか。十年の間活動していた人格とは別人なのか」

 あたしは、そうは思わない。

「リリーは眠る度に夢を見ると言っていた。不思議な夢で、自分では絶対に体
験しないものだと言っていた。それはあんたの記憶だったんじゃないか。リリ
ーは無意識の世界で、あんたの記憶を覗いていたんじゃないのか」

「……生意気な娘じゃ」

「それはあたしのことを言っているのか。それとも、リリーのことを言ってい
るのか。だとしたら、あんたも生意気だっていうことになるな」

 少女は本を盾にしてあたしの視線から逃げようとしたが、そうすることの情
けなさに気付いたのか、溜息をついてから、本を倒れた脚立の上に置いた。

「おまえと言葉遊びをする気はない。わらわと白百合の娘の関係の解釈につい
ては、おまえ自身が導き出した答えに従えば良かろう。……しかし、それでな
にが変わる。おまえはなにをしたいのじゃ」

 あたしは笑った。夢の中でしか見たことのない太陽を連想させる笑みを、口
元に精一杯広げた。
 いまこそ言おう。ずっと言えなかった言葉を。リリーが待っていた言葉を。


 
「一緒に外≠ヨ行こう」

 

 今度こそ、少女は目に見えて動揺した。躰を硬直させ、目を瞠った。
 本を読むか眠るか。火焔天での生活はそれしかないとリリーは言った。それ
はいまも変わっていないはずだ。目の前の少女は、本の世界に閉じ込められて
いる。広くて狭い空間に監禁されている。
 これは少女の望んだ生活なのか。
 そうでないとしたら―――


103 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/08(土) 21:22:40


「……痴れ言を言う」

 少女の自嘲めいた笑みがあたしの確信を鈍らせる。リリーはこんなに達観し
た表情をする奴じゃなかった。

「おまえは分かっておらんのじゃ。自分が何者なのか。わらわが何者なのか。
なにも知らぬから軽々しく『外へ』などと言える」

 そうかもしれない。いや、その通りだ。
 あたしは知らない。理解をしていない。どうしてこんなことになってしまっ
たのか。その答えを見つけられないまま、ただがむしゃらに結果を作ろうとし
ているだけだ。―――その指摘は否定せず受け容れよう。
 でも。

「だからなんだ」

 あたしは吐き捨てるように言った。

「なんにも知らない馬鹿で臆病なあたしが、周回遅れでようやく理解したんだ。
リリーが外≠ノ憧れる気持ちが、彼女とあたしの出会いが、どれだけ劇的で
かけがえのないものだったか。これさえ分かれば充分だ。他のなにもあたしは
知りたくない」

 繰り返すぜ。そう前置きしてから、あたしは右手を少女へと差し出した。

「一緒に行こう。一緒に見よう。リリーが夢見た世界へ。あたしたちみたいな
はぐれ者を照らしてくれる太陽があるリージョンへ」

 手を取って欲しかった。けれど、少女の返事は頑なだった。あたしから視線
を逸らし、床を睨んだまま答える。

「無理じゃ。そんな真似は不可能じゃ」

 そうじゃない。それは答えになっていない。

「あたしが聞きたいのは!」

 少女の細い手首を強引に掴んだ。リリーの顔をして、リリーの声をして、こ
んな煮え切らない態度を取る彼女が許せない。

「あんたが外≠ヨ行くことを望んでいるのか、いないのか。それだけだ!」

 死ぬまで本棚に隠れて、太陽を知らないまま〈針の城〉で時間を消費してい
って、それで心が満たされるのか。リリーに希望を与えた夢の正体が彼女の記
憶だというのなら、こんな荒涼とした世界で満足なんてできないはずだ。

 これじゃあ立場が逆だな、とあたしは胸裏で失笑した。
 つい数日前まで、リリーにどんなにしつこく誘われても応じなかったあたし
が、いまはリリー――の顔と声を持つ誰か――を相手に、必死になって外
へ行こうを説得しているなんて。
 リリーが感じていた期待と焦燥が、いまならよく分かる。一人では駄目なん
だ。一緒でなければ意味がないんだ。

 もしもあたしの想いが間違っているのなら、この手を振り切ってみせろ!

104 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/08(土) 21:25:26


 ―――けれど、少女はあたしの手を引き剥がそうとはしなかった。

 力ではあたしのほうが強いかもしれないけれど、その膨大な魔力を用いれば
容易にほどけるはずなのに。……そうは、しなかった。

 俯いたまま、少女は唇を震わせる。

「なんて残酷な企みなのじゃ。なんて無情な策なのじゃ。奴めはここまで見通
していたのか。わらわが感ずるこの苦しみまでも、読んでおったのか」

「なにを―――」

 言っているのか。

「ひとの心どころか魂さえも弄ぶ。悦びを幻惑させ、地獄を天国と偽る。これ
が、例え一時であろうと人間の心を持った者が思い付くことか」

 少女は首を横に振り、「いいや、違うな」と自分の言葉を自分で否定した。

「人間であればこそか。人間であったからこそ、非人を極められるのじゃ」

是(シー)≠ネのか不是(ブーシー)≠ネのか。少女はあたしの問いに答
えていない。だけれど、あんなにも凜としていた彼女が、気の毒なぐらいに落
ち込んでしまっているため、急かすどころか、慰めの言葉をかけることすらで
きなくなってしまった。手首を掴む力も弱まってしまう。

「……イーリンよ」

 狼狽するあたしの名を、少女は静かに呼んだ。
 どきり、と鼓動が跳ね上がる。
 初めて名前を呼ばれた。……いや、そうじゃない。リリーには何回も何百回
もイーリンと呼ばれている。なのにあたしは新鮮な衝撃にたじろぎ、胸のうち
から湧く興奮に恥じらいさえも覚えてしまった。

「わらわは、おまえに詫びねばならない」

「詫びるって……」

 謝ることなんてなんにもない。むしろ、謝るべきなのはあたしほうだ。

「わらわのせいで、おまえと白百合の娘―――二人の乙女に嘆きの道を進ませ
てしまった。人生を大きく狂わせてしまった。すべてはわらわの咎じゃ。
 おまえら二人だけではない。わらわはわらわの勝手のために、多くの命を犠
牲にした。わらわがいなければ、何千何万という人間が寿命を全うできたやも
しれぬ。そんなこと、オルロワージュめを逆吸血したときに覚悟したはずなの
にのう。こういう事態に直面する度に、わらわの胸は学習もせず痛むのじゃ」

 オルロワージュ。その名を聞いて、場違いなあたしの興奮が醒める。無学な
あたしだって知っている、先代の妖魔の君。百年も二百年も前に、現妖魔の君
であるアセルス公に斃されたのはあまりに有名な話だ。
 そんな歴史上の妖魔の名を、どうして少女は口に出す。

「幾人もの命を見捨てて。幾万人もの命を犠牲にして。それでもわらわは繰り
返す。懲りずに生きようとする。なぜだと思う? ……不思議なものじゃな。
その答えを、あの白百合の娘はわらわ以上に理解しておったわ」

 あたしはもう、少女の手首を掴んではいなかった。手首ではなく、彼女の手
を握っていた。いつの間にか、少女はあたしの指に指を絡めていた。

「―――わらわは自由になりたかったのじゃ。零姫の名さえも捨てて、あらゆ
るしがらみを振り切って、自由に生きたかったのじゃ」

105 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/09(日) 21:42:47


「れい、ひ……め?」

 本名なのか愛称なのか、それさえもあたしには分からない。戸惑うあたしを
見て、少女――零姫と呼ぶべきなのか――は「さすがに知らぬか」と苦笑した。

「妖魔世界の事情に多少なりとも精通しておれば、幻の第0寵姫≠フ名を知
っておるものなのじゃがな……さすがにそれをおまえに求めるのは酷か」

 喜ばしく思うぞ。わらわを知らぬ人間が、世界が、この世には多く残ってお
る。その事実が、わらわを自由へと走らせる根源となっているのじゃから。。
 ―――そう言って淡く微笑む零姫は、あまりに儚く、あまりに幸薄かった。

「行ける!絶対に行けるよ!」

 衝動的にあたしは叫んだ。零姫の冷たい手を握ったままで。

「やっぱりリリーはあんただ。あんたはリリーだ。だって、あんたもリリーも
同じものを夢見てる。同じ憧れを抱いている!リリーもそうだった。リリーも
あんたみたいに、昼を忘れた世界で窒素していた。もっと広い世界へと飛び出
したがっていた!」

 零姫の表情がついに崩れた。泣きながら笑い、笑いながら泣いている。

「……似ているのう。おまえは、若かりし頃のあ奴にそっくりじゃ」

 あいつって誰だ。

「迷いながらも、傷みながらも、前に進むことを諦めないその在り方は、遠か
りし日のアセルスめをいやがおうにも連想させられる。奴はそれさえも理解し
ておるのじゃろうか」

 衝撃のあまり、あたしの表情は凍結する。
 アセルス。まさか、こんなところでその名を耳にするはめになるとは思わな
かった。こいつはいったい何者なんだ。魔≠フ代名詞たる妖魔の君をスラム
育ちの娘に過ぎないあたしと重ねるなんて。
 似ているとか、似ていないだとか。そういう比較ができる相手じゃないこと
ぐらい、冷静に考えれば分かるだろうに。それとも零姫にとって、妖魔公アセ
ルスとはそれ程までに近しい存在なのか。

 混乱するあたしを余所に、決意を燃やした瞳であたしを見つめながら、零姫
が手を握り返す。

「例えその道の先に哀哭が牙を剥いていようとも、わらわは、おまえを肯定し
よう。わらわの負けじゃ。わらわはおまえを拒めぬ。拒めるはずが、ない」

「それって―――」

 一緒に行くってことなのか。

 声に出して確認しようとした瞬間、あたしでも零姫でもない、第三者の声が
〈図書館〉に響いた。

「その決断の意味を、君は分かっているんだろうね。聡明なる零姫様」

106 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/09(日) 22:36:04


 ―――声は、あたしが想像していたよりもずっと静かで、繊細で、胸の裏側
を狂わすほどに妖しげな色気を孕んでいた。
 驚かなければいけないシーンなのだろう。あたしはここで「誰だ」と叫びな
がら振り返るべきなんだろう。……けれど、〈火焔天〉に来た瞬間から、〈針
の城〉の中央に乗り込むと決めたその時から、あたしは覚悟を決めていた。 
 むしろ、予定外の出来事に時間を取られすぎたとさえ思っている。転移した
その瞬間から、殺し合いが始まってもおかしくないと思っていたのだから。

 あたしはリリー/零姫を背に庇うようにしながら、ゆっくりと振り返る。

「……諸悪の根源」

 燃え上がる紅髪――あたしのような赤毛とは違う、本物の紅だ――を逆立て
た魔人が、本棚の向こう、狭い廊下に佇立していた。溶岩の瞳をあたしと、あ
たしの背後の零姫に向けて、不敵な笑みを浮かべている。

 ……これが、紅の魔人。
 クーロンの凶つ者、ダージョン。
 こんな優男が、そうなのか。

 たくましい筋肉の鎧をまとっているものの、躰の線は女のように細い。長身
なせいで、細身の印象を余計に引き立てている。脚にぴったりと張りついたレ
ザーのパンツをはき、裸体の上半身に直に深紅のコートを羽織っていた。
 左手には、赤鞘の大刀を無造作に提げている。

 男でありながら女でもあり、同時に男でも女でもない。―――中性的で無性
的な風格をたたえた美丈夫。容姿だけを見れば、クーロン・マフィアのボスに
なんて、とても見えない。けれど、肌にびりびりと感じる威圧が、どうしよう
もないほどに男とあたしの格の違いを訴えていた。
 ……こいつは人間じゃない。

 紅の魔人は、あたしを一瞥しかしなかった。視線はすぐに零姫へと向けられ
る。あたしに向けた視線が、羽虫を見る視線ならば、零姫を見つめる視線は、
憐れみと慈愛が融け合った保護者のそれだ。

「零姫様、さっきの言葉は本気なのかい」

 かける言葉には、優しさすら篭められている。

「……王手じゃよ。もはやどうしようもない。アセルスは、わらわが思った以
上に、わらわの考えを、弱点を見抜いておる。どう足掻いたところで、今回
も≠らわの負けじゃ。ならばせめて、悔いのない道を選びたい」

「彼女はきっと、君がそうすることさえ読んでいる」

「……じゃろうな」

 気配で、零姫が俯くのが分かった。紅の魔人は小さく溜息を吐く。

「慣れないことをするものではないね。君の苦しみを少しでも和らげるために
動いたつもりだったのだけれど、結果として、余計に君を傷めてしまうことに
なってしまった。僕はやはり、観測者で在り続けるべきだった」

「言ってくれるな。わらわは感謝しておる。おまえがわらわを保護せなんだら、
わらわはまたしてもアセルスめの手中に落ちていた。奴にこれ以上辱められる
のは、絶対にゴメンじゃ」

107 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/11(火) 23:47:21


 あたしを置き去りにして二人に会話は進む。
 ダージョンはあたしをまるで相手にしていない。〈針の城〉の最深に侵入を
果たしたというのに、敵意も殺意も一切向けては来なかった。
 ……眼中にないってことか。

 認めざるを得ない。あたしは甘かった。伝説≠軽んじすぎた。
 あらゆるしがらみを振りほどいたあたしなら、捨て身で挑めばどんな敵でも
正気は見えてくると、そう考えていたのだけれど。いざ、こうして紅の魔人と
対峙してみると、自分の考えが如何に浅はかだったかを痛感させられる。
 桁が、違った。
 なまじ〈蜥蜴の眼〉が紅の魔人の力を霊視してしまうから、余計に絶望が深
まる。まるで動く魔力炉だ。ひとのカタチをした霊力場だ。
 斃せるはずがない。

 それでも、あたしは―――

「―――おい」

 会話を遮り、魔眼で睨み付ける。

「あたしはイーリンだ。火蜥蜴≠フイーリン」

 ダージョンは不気味なほど穏やかな視線を返した。しばらくの沈黙のあと、
「知っているよ」とだけ答える。

「リリーから聞いたのか」

「そういうことになるね」

「……あたしも、あんたのことはリリーから聞いている」

 奥歯が軋む音が、鼓膜の裏側で響いた。

「あたしは、あんたを許せない」

 すべての元凶。諸悪の根源。リリーから外≠奪った最凶の魔人。

「馬鹿なことを考えてはならんぞ」

 背後から零姫が口を挟んだ。

「ゾズマはおまえが思っているような男ではない。こやつはわらわを今日まで
守ってくれたのじゃ」

「ゾズマ?」

 それが、紅の魔人の名か。誰も知らなかった真名か。
 ゾズマ……当然のように聞き覚えはない。

「ゾズマ―――」

「なんだい、イーリン」

 茶目っ気をこめてダージョンは微笑む。挑発なのか、茶化しているだけなの
か。どちらにせよ、真面目にあたしを相手にする気は無いようだ。
 あたしは静かに、努めて静かに言った。

「あたしは、リリーを……零姫を、ここから連れてゆく」

108 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/13(木) 23:33:07


 覚悟を決めた発言。しかし、ダージョンの反応は「そうかい」と肩を竦める
だけだった。……なんなんだ、こいつは。
 ひとを小馬鹿にした態度。飄々として捉えどころがなく、リリーに対しても
さして執着を抱いていないように見える。こんな男が、リリーを、生まれたて
の赤児だった彼女が少女になるまで、十年以上も監禁していたというのか。
 とてもじゃないけれど、信じられない。

 ―――それに、さっき零姫が口にした「守った」ってどういうことだよ。

 リリーはダージョンに閉じ込められていると、そうはっきり語ったのに。
束縛から逃げ出し、外≠フ世界へ行きたいと、そう言ったのに。
 分からないことが多すぎる。
 零姫ってなんだよ。ゾズマって誰だよ。あたしが知っている〈妖魔租界戦争〉
と真実の間にはいったいどれだけ深い溝が走っているっていうんだ。
 或いはこいつ等なら、〈針の城から来た女〉の正体を知っているのかもしれ
ない。どうしてあたしを嵌めようとしたのか。どうしてマーマは廃人になって
しまったのか。クーロン・マフィア絡みなのだから、少なくともダージョンに
は思い当たる節があるはずだ。

 ……でも事実を確かめるには、あまりに時間が足りない。
 
 あたしがいまこの瞬間に確認すべきことは、ただひとつだ。
 リリー/零姫が外≠ヨと向かうのを、受け容れるのか、拒むのか。

 ダージョンは婀娜めく顔貌であたしを一瞥し、次に零姫を見つめ、また視線
をあたしに戻してから―――口笛でも吹くかのように、答えた。

「駄目だね。行くなら君ひとりで行けばいい」

「ゾズマ!」

 彼女にとっては予想外の言葉だったのだろう。零姫は驚愕に駆られるままに
声を荒げた。

「これ以上わらわに付き合う必要はない! このままでは、おまえまで奴に狙
われることになるぞ」

「どうせ、君が終われば次は僕さ」

「次などない! 終わりなどあるものか! わらわと奴から逃げ続け、奴はわ
らわを追い続ける。永遠のイタチごっこじゃ。それはおまえとて十二分に承知
していることじゃろう」

「そうかもね。でも―――」

 ダージョンの瞳の奥で光が鋭く瞬いた。

「今回≠ヘ僕が君の保護者だから。そういう役を進んで演じてしまったのだ
から。いくら無責任な僕でも、最後まで与えられた役目ぐらいは果たそうと思
っているんだ」

 そう言った彼は片眼をつむった。

「それに、君との付き合いは古い。追いつかれると分かっている逃亡劇なら、
当然止めるさ。……そこの火蜥蜴と一緒にクーロンから逃げ出して、あの子か
ら逃げ続けて、それでもやがては追いつかれて。―――破滅を約束された未来
を盲信するなんてあまりに儚いと思わないかい?」

109 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/14(金) 22:54:49


 ……答えは、出た。
 どんな理屈、どんな裏の事情があるかは知らないけれど、紅の魔人サマは零
姫を火焔天から解き放つつもりは毛頭ない。
 それで充分だ。その事実だけ分かれば、他のなにも、あたしはいらない。
 やっぱりこいつはあたしの敵だ。

 なおも言葉を返そうとする零姫を無言で押し止める。
 彼女は決断してくれた。あたしと一緒に行くと。二人で外≠目指すと。
 ……もう、あたしとリリーは離れない。
 誰にも二人の巣立ちを邪魔させない。
 あたしたちは自由だ。

「―――言っておくけれど、僕は強いよ」

 悪戯っぽい笑みを残したまま、ダージョンは大刀の鍔を鳴らした。たったそ
れだけの行為で、彼の言葉に偽りがないことを思い知らされる。
 なんてバケモノか。抜刀したわけでもないのに、剣気に押し潰されそうだ。

 他人よりちょっとだけ力が強くて。他人よりちょっとだけ見えないものが視
えて。他人よりちょっとだけ暴力に慣れ親しんでいる。
 ―――その程度でしかないあたしが、太刀打ちできる相手じゃない。

 目の前に立つ炎の彼は、たった一人で妖魔租界を壊滅させた男なんだ。
 クーロンの魔界都市〈針の城〉を作った男なんだ。
 あたしなんかになにができる。ちんけな故買屋に過ぎないあたしが、伝説と
対峙してどんな結果を残せる。

 嗚呼―――

 鉛の雨が全身に降り注ぐかのような絶望。ダージョンと向かい合うことで、
改めてあたしは自分の無力さを痛感した。

 マーマのお陰で今日まで生きてこられた。
 その認識は間違いじゃない。けど、それだけじゃなかったんだ。
 マーマだけではなく、もっと多くの、もっとたくさんのひとたちの力を借り
て、脆弱で臆病なあたしは今日までなんとか生きてこられた。
 なにがクーロンの火蜥蜴≠セ。なにが阿嬌の後継者だ。ただの甘ったれの
クソガキじゃないか。自分一人じゃなにも為せない小娘じゃないか。

 あたしは本当に弱い。
 怨敵を前にして、絶望することしかできないなんて。
 自分一人で窮地を切り抜けようとすらしないなんて。

 嗚呼―――

 この期に及んで、あたしはまだ。
 マーマだけじゃ飽きたらず。
 さらなる。
 犠牲を。

「……あたしはきっと、あんたを愛していた。唯一の親友だと思っていた」

 そんなかけがえのない友達を、あたしは―――

「ハダリィィぃーーーーーーっっっっ!!!!!」

 あたしの絶叫が谺すると同時に、〈図書館〉のドーム状の天窓が砕け散った。
 ガラス片のシャワーとともに降り注ぐのは、鋼鉄の筋肉をまとった牛頭人体
のモンスター・ミノタウロス。あたしの最高傑作にして、唯一無二の友であり、
そして……そして、マーマと同じように、あたしのために死ぬ女。

110 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/15(土) 22:00:38


 ハダリーは魔石の力を限界まで引き出している。支配率は完全に猫睛石に傾
き、暴走状態へと陥っていた。いまの彼女は一個の暴力装置に過ぎない。
 ゆえに、その動きはミノタウロスのスペックを大幅に上回っている。
 天窓を破って飛び降りてきたといっても、ただ自由落下に身を任せているわ
けじゃない。猫の如きしなやかな体捌きで宙を泳ぎ、室内を照らすシャンデリ
アを蹴っ飛ばして軌道をねじ曲げ、ダージョンの頭上へと殺到する。
 その速度は、音の壁すら破りかねないほどだ。

 無防備な頭上に、絶好のタイミングで不意打ち。まず間違いなく必殺が確定
する状況。ハダリー/猫睛石の強さを知り抜いているあたしは、普段ならば勝
利を確信したはずだ。それ程までにハダリー/猫睛石の攻撃は完璧だった。

 ……けれど、この状況は常識からあまりにかけ離れている。ハダリー/猫睛
石が牙を剥いた相手は、バケモノの中のバケモノだ。

 ダージョンが持つ大刀の鯉口が静かに切られ、銀光が迸る。
 まずは突き出した右拳が腕ごと断たれ、返す刀で胴を抜かれた。刹那の瞬間
に走った二つの剣筋が、生ける死者をただの死者へと戻す。
 さらに三つめの太刀で、ハダリーの首が―――飛んだ。

「うわああああああああああああ!」

 あたしは姿勢を低くしながら、紅の魔人へと突撃した。ベルトに挟んでいた
シャオジエの短剣を引き抜き、両手でしっかりと構える。
 紅の魔人は―――ダージョンの注意は、まだハダリーへと向けられたままだ。
 この隙をあたしは待っていた。たったひとりの友だちを餌にして、最凶の男
から致命の時を引き出した。あたしは最低の女だ。

 無駄のない筋肉で包まれたダージョンの胸板が視界に広がる。
 あと一歩だ。
 あと一歩、前に出られれば。
 この短剣の刃が、届く。

 三つに分断されたハダリーの亡骸は、慣性に引きずられたまま、まだ宙を舞
っている。

 ダージョンの大刀の刃が、あたしへと向けられた。直後に、あたしの魔眼が
あたしの死を未来視する。刀光が無慈悲にきらめいた。間に合わない。
 あと一歩なのに。たったの一歩が、あまりに遠い。
 ダージョンの剣は疾すぎる。

 駄目なのか。ハダリーを犠牲にしても、あたしは生き残れないのか。絶望が
総身を支配しかけたその時―――背後から零姫の叫びが響いた。

「殺してはならん! こやつの中には、あれが―――」

 ダージョンの注意が逸れる。切っ先の動きがほんの僅かに鈍った。

 ―――あたしの中に、なにがあるっていうんだ。

 確かめるどころか、疑問に意識を傾ける余裕すらない。あたしはただ、奇蹟
に縋り付き、がむしゃらになって最後の一歩を踏み出した。
 深紅の刃がダージョンの胸へと吸い込まれてゆく。短剣は、〈蜥蜴の眼〉が
霊視していた魔術障壁ごと、呆気なく彼の筋肉を貫いた。

 どう、とハダリーの死体が床を叩く。
 二秒とかかっていない、一瞬の決着だった。

111 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/15(土) 23:58:45


 短剣の柄から手を離す。深紅の刃に抉られたまま、ダージョンはその場に跪
いた。大刀が音をたてて床に転がる。

 ―――斃したのか。あたしは自由を勝ち取ったのか。

「愚か者!」

 零姫の叱咤の声が背中を叩く。あたしは緩慢な動作で振り向いた。笑顔を見
せて欲しかったけれど、彼女の表情は厳しい。

「あまりに無鉄砲過ぎる。ダガーなどで上級妖魔を殺しきれると思っておるの
か。手負いとなれば、いくら戯れを好むゾズマと言えども―――」

 そこで、零姫は言葉を止めた。眼を瞠り、表情を強張らせた。視線はあたし
を通り過ぎて、ダージョンへと向けられている。正確には、ダージョンの胸に
突き立つシャオジエの短剣に、だ。

「お、おぬし、そのダガーは―――」

「……やられたよ。まさか、そう来るとはねぇ」

 笑みこそ浮かべているものの、ダージョンのかんばせからは玉の汗が噴き出
し、先程までの余裕は消え失せている。彼も零姫同様、自分の胸から生える短
剣に注意を向けていた。

「ゾズマ、それは……」

「ああ、間違いなく幻魔だ。心臓に噛み付かれてしまった。これはだいぶ、骨
が折れるよ」

 幻魔。その名を聞いた瞬間、零姫の態度が豹変した。

「どこで手に入れたのじゃ?!」

 あたしの腕を掴んで、荒ぶる感情に流されるがまま詰め寄ってくる。

「どこで幻魔を渡されたのじゃ。おまえはすでに、アセルスと接触しておった
のか。奴は―――奴はまさか、クーロンにおるのか」

 またアセルスの名前が出てきた。ファシナトゥールの君主。妖魔の君。そん
なに頻繁に耳にしていい名前じゃないのに。……それに、ダージョンが上級妖
魔だっていうのは本当なのか。ただのバケモノじゃないとは思っていたけれど、
まさかファシナトゥールの貴族階級だったなんて。
 もしかすると、零姫もそうなのか。リリーがあんなに強大な魔力を有してい
たのは、人間じゃなかったからなのか。

 ……まぁ、どうでもいい話だ。
 あたしはダージョンを斃した。
 いまはその事実だけを、大事にしたい。

 これで、ようやく邪魔は無くなった。緊張する零姫の頬にそっと手を当てる。
安心させようと微笑みかけてから、あたしは言った。

「さあ、行こう―――」

外≠ヨ。……そう口にしかけるものの、直後にぐらりと視界が傾ぎ、あたし
は床に、受け身も取らずに倒れこんだ。

「イーリン!?」

112 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 12:55:20


 ……なんだ、コレ。
 大理石の硬質さにあたしは驚く。自分が置かれている状況が理解できない。
 どうしてあたしは床に伸びているんだ。どうして立ち上がろうとしても、躰
に力が入らないんだ。どうして―――

 零姫の声が遠くから聞こえる。

「なんて馬鹿なことをしたのじゃ。幻魔はアセルスの生命力で鍛えられた魔剣
じゃぞ。あ奴以外のものが使用すればどうなることか……」

 ……なるほど。
 ひと目見たときから、尋常ではない魔性を秘めた短剣だとは思ってはいたけ
れど、まさか妖魔公アセルスの武器だったとはね。
 だから、ダージョンが三重にも四重にも張っていた強力な魔術障壁を、ガラ
ス窓でも砕くかのようにあっさりと突き破ったのか。
 だから、まるで花が枯れゆくように、あたしの命の灯火が急速な勢いで衰え
ていっているのか。―――あの魔剣に、あたしの生命力は吸われたんだ。

 ダージョンの胸から濃厚な瘴気が噴き出しているのを、あたしの魔眼が霊視
した。胸の肉を抉った刃が変型し、彼の心臓にがっちりと根を張っている。
 なんておぞましい光景なんだろうか。武器というより、あれは一個の生命だ。
魔剣よりも魔物と呼んだほうが正しいんじゃないだろうか。
 致命こそは免れたらしいが、ダージョンのダメージは深刻らしい。魔剣の侵
食から身を守るのに精一杯で、あたしたちに意識を向ける余裕はないようだ。
 ……心臓を潰されて、それでもなお生きようとしているんだから、その不死
性の強さには感服する。あたしなんて、たった一度使用しただけでもう死にか
けている。魔剣に命を吸い尽くされてしまった。

「くそったれめ」

 せっかく、リリー/零姫を紅の魔人の戒めから解放することができたのに。
ようやく、外≠ノ繋がる道を拓くことができたのに。あたしの自由はこれか
らなのに。―――ここで、斃れてしまうなんて。
 こんなところで、終わってしまうなんて。
 
 納得がいかない。
 あまりに無情すぎる。
 イヤだ。マーマもハダリーも犠牲にして、なにもかもを捨て続けてリリーを
手に入れようとしたのに、結局なにも得られないまま、ひとりぼっちのままで
死ぬなんて―――絶対にイヤだ。

 行くんだ。
 あたしはリリーと一緒に。
外≠ヨ行くんだ。

「ああああああああ!」

 最後の命を燃やしてあたしは両腕を駆る。腰より下はもう感覚がないため、
起き上がることができない。無様に這い蹲って、前へと進んだ。

「もうやめよ!」と零姫が叫ぶ。あたしの躰を憂いての言葉だと思うと、悪い
気はしない。けれど、分かってくれ。ここでやめるわけにはいかないんだ。

 一分ほどかけて、数メートルの距離を進む。
 ダージョンに切断されたハダリーの生首が転がる位置まで到達すると、もう
二度と「社長」と口にすることのない親友の頭を抱き締めた。

113 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 12:55:50


 不気味な悪魔の仮面―――ハダリーの素顔と言っても過言ではない無機的な
表情に、あたしは震える指先で触れた。
 ハダリーとは、このミノタウロスの死体にインストールしたソフトウェア、
つまり人造霊のことを指す。彼女の肉体自体は、ハードウェア……ただ器に過
ぎない。人造霊(ソフト)が機能を停止すれば、ハードはもとの死体に戻る。
 それを有機的な死と捉えるべきかどうか、あたしは答えを持たない。分かる
のは、あたしの都合で、ハダリーも、この死体も、好き勝手に振り回してしま
ったという事実だけ。相も変わらず、あたしは最低だ。

 胸裏で侘びの言葉を繰り返しながら、あたしはそっとハダリーの仮面を剥い
だ。隠し続けていたミノタウロスの素顔が露わになる。魔石を埋め込み、媒介
機関や魔力血管の拡張手術を繰り返したせいで、仮面よりも醜悪に、おぞまし
いものとなってしまった死者の顔。―――でも、仮面というハダリーの絆が断
たれたことで、人造僵尸はいま、改めてもとの死体に戻った。

 ―――ハダリーも、あんたも、これで自由だよ。

 キャッツアイの魔石を死体の右眼からくりぬく。
 ハダリーが消失したいまでも、魔石は変わらず強い魔力を秘めていた。
 ……この力が、あたしには必要なんだ。

 ふっと微笑んでから、神秘の光を放つ魔石をあたしは一息で呑み込んだ。
 喉を硬質な感触が滑り、体内が途端に燃え上がる。

「馬鹿な!」

 零姫が狼狽の声をあげて、あたしの肩を抱く。

「いまのはなんじゃ。あれはなんの魔石じゃ。幻魔のみならず、あんなものま
で、どうしておまえは持っておるのじゃ。しかも―――しかもそれを呑み込む
などと、おまえは命が惜しくないのか! 無茶にも限度というものがあろう!」

「……そうじゃない」

 逆だ。
 命が惜しい。死にたくない。だから、魔石を取り込んだんだ。魔剣に吸い取
られたあたしの生命の代替として、魔石の力を借りるために。

「そんな貧相な躰で、耐えきれるわけがなかろう!」

「貧相は余計、だぜ……」

 はは、と渇いた笑い声をあげる。確かにあたしはやせっぽちだけれど、零姫
のほうがよほどにちびだ。

 力はだいぶ戻ってきた。あたしはゆっくりと立ち上がる。一瞬前まで死にか
けていたのが嘘のようだ。……けれど、躰の不調自体は変わらない。さっきと
違うのは、躰の内側が熱すぎて、中から融けてしまいそうなところだ。
 凍えているか、燃えているのか。そこが違うだけで、やはりあたしは死にか
けのままなんだろう。

 この躰で、どこまで行ける。リリー/零姫と一緒に、どこまで生ける。

「どうして、おまえはそこまで……」

 分かり切った問いを、零姫は涙混じりに口にする。
 ……そんなの、決まっているじゃないか。

「あんたと一緒に、外≠フ景色を見たいからだ」

114 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 21:26:25


 零姫の手を握り、〈図書館〉の外を目指す。火焔天の構造が分からないため、
どこをどう進めばいいのか分からない。とにかく〈図書館〉の出入り口を目指
そう。監禁されていたといっても、ダージョンは出入りしていたのだから、ど
こかに扉なり門なりがあるはずだ。

 ―――けど、あたしの躰は、そこまで保たなかった。

 派手に喀血すると、脇の本棚に体当たりでもするかのように寄りかかる。
 衝撃で本が何冊か、ばさばさと落ちてきてあたしの躰を叩いた。あたしはそ
のままずるずると床に座り込む。
 ……だ、駄目だ。とても無理だ。魔石の力を借りたところで、あたしという
肉体じゃ受け止めきれない。
 よくよく考えてみれば、当然のお話だ。魔術的強化を徹底的に施したハダリ
ーですら、魔石の出力を絞って管理していたんだ。素のまま呑み込めば、こう
いう結果になることは容易に想像がつく。

 馬鹿なのは分かっている。零姫に愚か者と詰られれば、否定する言葉はない。

 けれど、あたしは奇蹟に頼るしかなかった。そこに可能性があるのならば、
あたしのすべてを費やして、勝負に挑むしかなかった。
 ……その結果が、これか。

「イーリン! イーリン! しっかりせい!」

 ああ、なんてことだろう。零姫の声は深い悲しみに彩られている。あたしが
原因で、大好きな彼女を傷付けてしまっている。
 くそったれめ。あたしはリリー/零姫の笑顔が見たいのに、どうしてこんな
ことになってしまったのか。

「なぜじゃ! なぜ、そこまでするのじゃ。どうしてわらわなんぞのために死
のうとするのじゃ! 命まで賭けられるのじゃ!」

 それは、愚問が過ぎるってもんだぜ。

「だって、あんたはリリーじゃないか……」

 リリーは、あたしのために夢を捨てた。献身というものを教えてくれた。
 自分のためだけじゃなく、誰かのためにも生きられるということを、身をも
って証明してくれた。彼女は、あたしの未来だ。
 リリーがそうしてくれたように、あたしも、リリーのために尽くす。
 ……そしていま、あたしを抱いて涙を流してくれている少女は、零姫だけれ
ど、リリーでもあるんだ。彼女のためなら、あたしは自分さえも犠牲にできる。
 そうだ。あたしは、リリー/零姫のために、死ねる。
 もう、自分を失うことを怖れない。

 あたしの目的はなんだ。
 あたしの夢はなんだ。
外≠ヨ行くこと。
 リリーを外≠ヨと連れ出すこと。
 そのためにマーマは死んで、ハダリーも死んだんだ。それでもまだ犠牲が足
りないっていうのなら、今度はあたし自身を捨ててやる。
 リリーに自由を与えられるのなら、あたしは、なにも、いらない!

「ああああああああああああああああ!」

 力はあるんだ。魔石の力はいま、あたしの裡にある。足りないのはそれを制
御する器だ。あたしの肉体じゃ、魔石は飼い慣らせないんだ。

115 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 21:54:36


「イーリン、死ぬな!」

 死なないさ。このままじゃ、死ねないよ。零姫を外≠ヨと連れ出せる、そ
の確信が得られるまでは、死んでたまるか。

「莫迦者め。莫迦者め。こんなことをして、わらわが喜ぶと思ったのか。おま
えはなにも分かっておらんのじゃ」

 いや、分かるよ。なんにも知らない無知なあたしだったけれど、ダージョン
の胸に魔剣を突き立て、生命を吸われたとき、なんとなくだけれど、舞台の仕
掛けに気付いてしまった。気付かざるを得なかった。
 ……できれば、知らないまま果てたかったけれど、そうもいかない。
 だって、そうだろう?
 あの魔剣を、あたしは誰から託された。
〈針の城〉を統べるダージョンや、全知するリリー/零姫でさえ存在を察知で
きなかった魔女。あのひとなら、あたしとリリーの関係を知っていた。あのひ
となら、あたしに巨大蜘蛛にけしかけることもできた。あのひとなら、クーロ
ンストリートにも〈針の城〉にも近付かずに、マーマやロートルに命令を下す
ことができた。あのひとなら―――あたしに自覚させずに、あたしの行動を支
配することもできた。

 なんてことだろう。
 あたしは、あのひとに可愛がられていると思っていたのに。あのひとに、気
に入られていると思ったのに。……マーマの次に、好きだったのに。
 本物の家族だと、信じていたのに。

 莫迦野郎。大莫迦野郎。
 騙すなら、最後まで騙し通せっていうんだ。幸せのまま、あたしを死なせろ
っていうんだ。最後の最後に、後味の悪いもんを残しやがって。
 お陰で、せっかくリリーの腕の中で死ねるっていうのに、未練が残っちゃう
じゃないか。あんたが味方でいてくれないから、安心してくたばれないじゃな
いか。あんたが敵だから、あたしは、ここで死ぬわけにはいかなくなったんだ。

「零姫……結界は……晴れた、かな」

「……上級妖魔封じのあの結界は、街全体を術式として組んでおる。例えゾズ
マが死んでも消えることはないわ」

「そう、か……」

 上級妖魔封じ。
 だから、なのか。
 だから、リリーは〈針の城〉の外へと出られなかったのか。だから、ダージ
ョンは〈針の城〉に引きこもっていたのか。だから、あのひとは、直接、自分
の手でリリーをさらおうとはしなかったのか。
 こんな、回りくどいことをしたのか。

「なら……結界が……晴れた……ところで、安心……できない、か……」

「むしろ、最悪の状況になるわい」

 零姫の突っ込みに、あたしは不謹慎にも声を出して笑ってしまった。そうか、
あたしが状況を悪化させちまったのか。そいつは悪かったな。
 ……けれど、あの結界がある限り、リリーが外≠ヨと行けないのなら、い
つかは破らなければいけないんだ。

116 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 22:30:47


「おそらくだが、おまえの死と同時に、ゾズマの結界は消えるじゃろう」

「だろう、なぁ……」

「……知っておったのか」

「いや―――」

 確信はなかった。けれど、あたしの特異な躰は、どんな強力な魔術でも無効
化してしまう力を持っている。あたしの血を浴びせれば、頑固な呪縛も、たち
まち洗浄されてしまう。
 あのひとは、あたしになにを期待していたのか。あたしを利用して、なにを
得ようとしたのか。リリーを結界の外へと連れ出すことか。それとも、ダージ
ョンと対峙して、破れることか。……保険をかけて、両方の結末に対応してい
るとしたら、あたしの死は、いったいどんな意味を持つ。
 あのひとは、定期的にあたしの躰を診ていた。あのひとなら、あたし以上に、
あたしの躰の特異さを知っている。

 あたしはここで死ぬ。〈針の城〉の外までリリーを連れ出すことは叶わなか
った。その代わりに結界が消えてくれるなら……あのひとは、自ら〈針の城〉
に乗り込んで、リリーと接触できるというわけだ。
 あのひとの目的はリリーなんだ。十年前から、ダージョンが〈妖魔租界戦争〉
に勝利したときから、彼女はこの結末を計画していたんだ。

「駄目だ……」

 リリーは渡せない。リリーは誰にも奪わせない。彼女は自由だ。彼女は彼女
だけのものなんだ。

「うわあああああああああああああ!」

 死を振り払うために、声を張り上げる。

 最悪の人生だった。
 いやな思い出しかなかった。
 例えいいことがあっても、その直後に悲劇に見舞われた。
 世界はあたしを憎んでいると信じていた。
 悲しみがあたしのすべてだった。
 そんな最悪だらけのくそったれな人生だからこそ、あたしは、最後の最後に、
奇蹟に縋る。最後の最後まで、自分じゃない、他人の力に期待する。

 リリーを助けてくれ。
 零姫に笑顔を与えてくれ。
 あたしの代わりに、
 彼女を外≠ヨ。
 太陽の下へ。
 自由へ―――

117 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 22:30:58


「イーリン、気をしっかりと保て。わらわと一緒に外≠ヨ行くんじゃなかっ
たのか。おまえが、わらわと外≠フ架け橋となるんじゃなかったのか!」

 ああ、そうだよ畜生。
 ほんとはあたしだって行きたかったんだ。
 リリーと一緒に見たかったんだ。
 ほんとは悔しいんだ。
 死にたくないんだ。

「リリー、あたしの……分まで―――」

「イヤじゃ。聞きとうない! わらわは、白百合の娘は、おまえがいる外
を目指したのじゃ。おまえがおらん外≠ノ、どんな価値があるというのじゃ」

 いや、それは違う。
 リリーは外≠ヨと飛び出した。自分で霊路を拓いて、火焔天から飛び出し
た。その過程で、運命があたしとリリーを引き合わせたんだ。
 あたしはリリーがいなければ外≠ノ魅力を感じないけれど、リリーはあた
しがいなくても、外≠夢見ることはできる。あたしの目的はあんただけれ
ど、あんたの目的はあたしじゃなくて外≠ネんだ。

 ―――でも。
 最後にそう言ってくれたことは、ほんとに嬉しい。
 死にたくないけれど、もっと一緒に、どこまでも二人で生きたかったけれど、
こんなに幸せな気持ちで死ねるのなら……まぁそこそこ悪くはないぜ。

「イーリン、死ぬな!」

「リリー、生きて、くれ―――」

「イーリン!」

「あんたは……」

 あんたは自由だ。

「自由に、生きて……」

「イーリン!」

118 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 22:31:08










     ―――ごめんね、マーマ。







         あたし、最高に親不孝だ。









.

119 名前:火蜥蜴≠フイーリン? ◆LIZARD.khE :2008/11/16(日) 23:29:37










     ―――ああ、そうかよ。







         は、ふざけんなよ。勝手に終わらせんな。
         「俺が」お前を、親不孝になんかさせてやらねえよ。

120 名前:◆MidianP94o :2008/11/17(月) 23:13:29












第二部「クーロン炎上」











.

121 名前:◆MidianP94o :2008/11/18(火) 00:06:16

Prologue


 ―――最上階のペントハウスから、彼女≠ヘクーロンの夜景を見下ろして
いた。正確には、クーロンの一部を。

 眠らない夜のリージョンに、ぽっかりと穿たれた闇の孔。ネオンの瞬きをま
ったく寄せ付けないあの区画こそ、彼女にとってもっとも因業深き地。
 いまは〈針の城〉などと戯けた名で呼ばれるスラム街。かつての妖魔租界だ。

 こうしてパノラマの窓辺からあの忌まわしきゴミ溜めを眺めて、何時間が経
ったろう。彼女は、あの火蜥蜴の少女を送り出してからいまのいままで、微動
だにせずじっと一点を、もっとも闇が濃い〈旧妖魔租界〉の中心部を見つめて
いた。些細な異変すら、見逃さないために。

 彼女に約束された永遠と比べれば、それは取るに足らない刹那の時だ。
 けれど、やはり長かった。ただ結果を待つために時間を重ねるというのは性
に合わない。何百年生きようと慣れることはない。
 結局、私は待つのが嫌いなだけなのだ。そう覚って彼女は自嘲した。

 誰かを見送ったりだとか、誰かになにかを託したりだとか、そういう類は自
分がもっとも苦手とする行為なのに。―――そうせざるを得なかったのは、ゾ
ズマの老獪さゆえか。それとも零姫の怯懦ゆえか。或いはその両方か。
 ……どのみち、卑怯なことに代わりはない。

 さらにしばらく、彼女は〈旧妖魔租界〉を見下ろし続けた。

 人間の眼では決して捉えることのできない変化を、彼女が目聡く霊視したの
はいったいどれほどの時間が流れた頃だろう。世界を構築するすべてのチャン
ネルを同時に視認する彼女の魔眼が紅蓮に燃え上がる。

 ゾズマの結界が―――

 破れた。

〈旧妖魔租界〉を覆っていた瘴気が、火焔天を中心に急速な勢いで晴れつつあ
る。あらゆる呪的要素、魔性の類が強制的にキャンセルされてしまっているの
だ。ゾズマが施術した忌まわしい上級妖魔殺しの結界も、糸がほどけるように
呆気なくディスペルされてしまった。
 そんな突飛な現象が顕現する理由など、ひとつしかない。

 彼女は静かに瞼を伏せた。
 窓辺に立ってから初めて、〈旧妖魔租界〉の夜景から眼を逸らした。

「……そうか」

 奥歯を噛み締め、痛切の声を漏らす。

「あの子は帰ってこないのか」

 だから待つのは嫌いなんだ。そう呟くと、彼女は踵を返し、パノラマビュー
の窓に背を向けた。

 もう待つのはやめだ。
 あの子のいない妖魔租界に価値などない。
 十二年前にゾズマがそうしたように。
 今度は私が灰にしてやる。
 燃やし尽くしてやる。

 そして零姫を―――

122 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/18(火) 23:58:53

 逝ってしまった。
 最後まで零姫の正体を知らないまま、イーリンは逝ってしまった。

 ……かわいそうな火蜥蜴。零姫のことだけじゃない。彼女は、自分のことさ
えも満足に知らなかった。

 例えば、彼女の生まれはクーロンから遠く離れたファシナトゥールの〈根っ
この町〉だということだとか。人間と魔物のあいのこと信じていたが、実は純
粋な人間だったことだとか。蜥蜴の血肉と魔眼は、後天的に移植≠ウれたも
のだとか。記憶も、消されていただけだったことだとか。
 ―――尽きぬ感謝と愛情をささげてきたマーマこと阿嬌は、実はシリウス領
事の腹心で、根っこの町からさらわれてきたイーリンを、この計画≠フため
に身請けしたことだとか。最後はイーリンへの愛情に負けて、主君を裏切り、
独断で零姫を殺めようとして、廃人にさせられてしまったことだとか。
 その他諸々、イーリンをイーリンとして構築する一切合切の事情を、しかし
イーリン本人はまったく知らなかった。
 知らないまま、逝ってしまった。

 それで、良かったのだろうか。

 真実を知れば、イーリンは発狂するかもしれない。
「リリーと一緒に外≠ヨと飛び出したい」という願いすらも、裏で、そう選
択するように仕組まれたものだったのだ。火蜥蜴の少女は最初から最後まで、
あの女の駒として利用され続けた。あまりに虚しく、あまりに哀れな人生だ。
 なにも知らずに死ねたのは、報われない彼女の人生の、たったひとつの幸福
だと―――そう考えることもできる。

 しかし、しかしだ。

 零姫は納得しない。
 零姫は認めない。
 すべてを知ってしまって、自分が如何に虚無的な存在かを気付いて、地獄の
苦難に悶えようとも―――零姫は、イーリンに生きて欲しかった。
 苦しみながらも生きて、生きて、生き抜いて欲しかった。
 他人のために死ぬなんて、とんでもない過ちだ。

「この、莫迦娘め!」

 微笑を浮かべたまま、瞳の焦点を曖昧にさせてゆくイーリンの肩を揺すって、
怒鳴りつける。

「どうして自分のために生きられぬ。どうして他人にばかり尽くそうとする。
おまえはイーリンなのじゃから、イーリンのために生きればよいのじゃ!」

 自分勝手だとか自分本位だとか、そんなことで悩んでいたらしいが、零姫か
ら見ればイーリンは主体性が欠落した娘だった。優しさに飢えるあまり、愛さ
れたいと思った相手に自分のすべてを預けてしまう娘だった。

「背負いすぎなのじゃ。悩みすぎなのじゃ。たかが人間の癖に、ゾズマに立ち
向かうじゃと?! 相手はかつての黒騎士筆頭じゃぞ。妖魔貴族の頂点に立っ
た武人じゃぞ。敵うわけがなかろう! 絶対に勝てぬ戦いで勝ちを拾おうとす
れば、どこかで歪みが生まれるに決まっておるのに―――」

 はた、と叫びを止める。
 零姫は、いま、自分が涙を流していることに気付いた。大粒の空知らぬ雨が
頬を濡らし、目を腫らす。―――こんなに無様に大泣きするなんて。久しくな
かった体験に、零姫は奮えた。
零姫として<Cーリンに会ったのは、ほんの一時間ほど前だ。なのに、彼女
の中でイーリンという娘はかけがえのない存在にまで育ってしまっていた。
 リリーと呼ばれた、あの白百合の娘の記憶が、零姫の凍てついた感情に火を
入れたのか。……まだ零姫が睡っていた頃の、もうひとりの自分が。

123 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/18(火) 23:59:04


 零姫は転生無限者である。
 先代の妖魔の君、オルロワージュの血の戒めから逃れるために、まさかの逆
吸血を果たし、自由を勝ち取った。
 現在の零姫は、厳密にはオルロワージュの血族ではない。妖魔でありながら
妖魔でもない。奇蹟の如き特異な存在だ。

 しかし、零姫にとって自由は呪いに等しかった。血の解放の代償として、零
姫は死≠ニいう絶対の自由を失ってしまったのだ。
 肉体が朽ちれば、転生し、生まれ変わって赤児から人生をやり直す。彼女が
寵姫零姫≠ニして記憶と魔力を取り戻すのは、九つから遅ければ二十五歳と
ばらつきがあるが、おおむね少女期で共通している。
 では、覚醒するまでまったくの別人なのかというと、決してそんなことはな
い。ひとつの肉体に宿る魂はひとつ。だから、あの白百合の娘も間違いなく零
姫だったのだ。ただ、寵姫零姫≠ニしての記憶が睡っていたというだけで。

 悲劇の始まりは、十三年前、クーロンの妖魔租界などに生まれ落ちてしまっ
たことだ。呪いの如し美貌を持つ零姫は赤児の時から美しく、すぐにシリウス
領事の目にとまった。あのとき、紅の魔人≠アとゾズマが横槍を入れなけれ
ば、今頃零姫は針の城――ファシナトゥールに建つ、本物の魔宮だ――で死ぬ
ことも生きることもできない拷問に苛まれ続けていただろう。
 ゾズマは運命の赤児≠ナある零姫を守るために、シリウス領事と、彼が支
配する妖魔租界を相手取った。たったひとりで戦争を始めた。
 当時、クーロンを魔界都市化させている原因となっていた妖魔租界をなんと
か排除したいと考えていたクーロン自治政府やIRPOの外交的圧力のせいで、フ
ァシナトゥールは援軍を送るに送れず、孤立したシリウス領事と妖魔租界の魑
魅魍魎どもはゾズマの鬼神の如き働きを前に、不死の命を散らせていった。

 妖魔租界を壊滅させることに成功したゾズマだったが、しかし、零姫を連れ
てクーロンから脱出するのは至難の業だった。一歩リージョンの外を出れば、
百万の妖魔が瞬く間に殺到するだろう。……それ以上に恐ろしいのは、零姫に
執心するあの女≠ェ直接挑んでくることだ。
 妖魔最強の武人として知られるイルドゥンをも凌駕すると言われるゾズマだ
ったが、あの女≠相手に、零姫を守りながら勝ち抜くことは不可能だと覚
った。―――覚ったからこそ、苦肉の策として、妖魔租界が燃え尽きた跡地に
上級妖魔殺し≠フ結界を張り、あの女≠ニの対決から逃れた。
あの女≠ウえ相手にしなければ、どんな刺客が送り込まれようとゾズマなら
対処できたからだ。
……しかし、結界は境界に過ぎず、外から内へと入れないように、内から外へ
も通行はできない。上級妖魔であるゾズマは、妖魔租界跡地に封印されたも同
然だった。―――そして、上級妖魔の素質を持つ運命の赤児≠焉B

 妖魔租界跡地は幼き零姫が垂れ流す魔力によって澱みを深め、魔界地区とし
てスラムを形成していった。〈針の城〉の誕生である。

 ―――これが、妖魔租界戦争のすべてだ。
 そして、零姫とゾズマがクーロンに流れ着いた事情でもある。

 ゾズマは他人との付き合い方を知らない男だ。目覚める前の話とはいえ、零
姫――つまりはリリーを――監禁したのは、愚かの極みとしか言えない。
 彼からすれば、零姫が覚醒するまで適当に時間を潰す。その程度の考えしか
なかったのだろうが、閉じ込められた当人はたまったものじゃない。
 そこが、結界の綻びとなった。あの女≠つけ込ませる疵となった。イー
リンを悲運へと走らせる原因となった。

 零姫に、ゾズマを責める気はない。
 彼は変人だが、ある意味、もっとも妖魔らしい妖魔だ。執着心というものが
なく、人間の感情を決して理解しない。風に流されるように、興味が赴くまま
に生きていく。―――だから、リリーの不満を理解できなかった。
 対するあの女≠ヘ、人間以上に人間らしい。だから、イーリンを利用する
ことを思い付いた。つくづく対照的な二人だ。

124 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/18(火) 23:59:18


 零姫は、目覚めた瞬間からあの女≠フ計画を見抜いた。あの女≠ェ覚え
ているかどうかは知らないが、零姫は前の人生で一度だけイーリンの魔力の
源≠目にしていた。そうでなくても、自分と同種の存在がいることは知って
いた。だから、イーリンのうちに潜むものを魔眼で見通したとき、非業の運命
までも確信してしまったのだ。

 ……だが、逃げられるところまで逃げるつもりだった。イーリンの言葉を信
じて、死を踏み台にして生きることの悦びを再確認したかった。
 まさか、火焔天からすら出られずに終わりを迎えてしまうなんて。自分が死
ねばイーリンだけは見逃してもらえるだろうと考えていただけに、零姫のショ
ックは計り知れない。自分の無策さが、あたら若い命を散らせてしまった。

 零姫の中の、リリーの部分が悲鳴をあげる。
 大声で、零姫を詰る。
 ……零姫は反抗する言葉を持たない。
 自責と自戒の嵐に飲まれて、いまにも溺死してしまいそうだ。
 どうして、こんなことになってしまったのか。
 こういうかたちでしか、終わらせることはできなかったのか。

 認めよう。
 零姫は、リリーが妬ましい。
 同じ零姫とは言え、零姫が零姫としてイーリンと過ごした時間は一時間にも
満たない。それに対して、リリーはどうか。彼女はイーリンとともに多くの時
間を過ごし、思い出を育んだ。イーリンが知る零姫とは、あくまでリリーとし
ての零姫なのだ。―――だからこそ、零姫とイーリンの関係はこれから築かれ
てゆくはずだったのに。

 火蜥蜴の娘の鼓動が、弱まっていく。

「イーリン! 莫迦娘のイーリン! 聞こえておるか!」

 零姫は必死で呼びかける。
 まだ彼女が生きているうちに。
 心の臓が止まる前に。

「わらわは諦めんぞ。死がなんじゃ。死んだ程度でなんだというのじゃ。おま
えが地獄に堕ちるのなら地獄へ、極楽へ昇るのなら極楽へ。おまえがこの火焔
天までわらわを迎えに来たように、わらわもおまえを必ず見つけ出してみせる!
だから待っておれ。百年かかろうと千年かかろうと、絶対に会いにゆくから!」

 そして、いつか一緒に、蒼穹の空の下で、ひなたぼっこでもしようではない
か。そう言い聞かせてやりたかったけれど、イーリンは最後に頬の筋肉を僅か
に緩めて微笑すると、そのまま生命の火を―――消した。

 イーリンは死んだ。彼女の躰は死体となった。

 涙は一瞬で枯れ果てた。

「……出てくるがよい、悪霊め。わらわが祓ってやる」

 先の情愛に満ちたものとは打って変わり、常の零姫が響かせる――否、それ
以上に凍えた――冷徹な声が、〈図書館〉に谺した。

「その躰はイーリンのものじゃ。イーリンだけのものじゃ。他の誰のものでも
なく、他の誰にも穢させぬ。例え一秒でも他人には盗ませぬ」

 零姫の背後で、炎の尾を持つ炎駒の麒麟が立ち上がった。妖力で編まれた実
体を持たない幻獣―――妖魔の中でも零姫だけが駆使できる幻術≠フ一端だ。
 幻とはいえ、古の神獣であることに代わりはない。

「アセルスの狗め。わらわは、おまえを決して許さんぞ」

 零姫は百年ぶりに、憎しみという感情を自覚した。

125 名前:火蜥蜴≠フイーリン? ◆LIZARD.khE :2008/11/19(水) 01:27:21
>>

 ……糞が。ああ畜生、胸糞悪ぃ。
 
 ようやくの「体」だ。待ちに待った自由の身だ、喜べよ俺……だなんて無理矢理誤魔化したところで
この気分の悪さは消えやしない。

 ……初めから分かっていたことだ。
 奴に利用されると知ったあの時から。
 こいつの中に無理矢理押し込められたあの時から。
 結末は一つしかない、こいつが死ななきゃ、俺は表に出られねえ。こいつが死ぬまで、俺はこいつの中で
見ていることしかできねえ。声さえも届きやしねえ。
 だから俺はこいつが死ぬのを待った、いや待たされた。
 そうするしか他になかったんだ。
 
 だからこそ、心底から――胸糞悪い。
 
 
 イーリン、イーリンと姫さんの呼ぶ声が聞こえる。「俺の耳」に聞こえる。
 もちろん俺に呼びかけている訳じゃない、その額面通りに、イーリンに呼びかけてんだ。
 だが俺も、久方ぶりの体の感覚を覚えつつある。主導権が入れ替わりつつある。
 その事実が更に俺の気分を悪くさせる。ああ全く、こんな皮肉があるものかよ。
 いっそもう、手に力を入れて起き上がってしまうべきかと逡巡しているうちに……
 
 頬が「俺の意志とは無関係に」、微笑を作った。
 
 ……なんだ、聞こえてたのかよお前にも。そっか。
 よかったな姫さん。報われたぜ。もっともこれだけじゃ足りないんだろうがな。
 だがしかし、これでもうこの体は――――俺のものだ。
 
 
「――――は。怖いじゃねえか姫さん。俺ごと、この体を荼毘に付そうって腹かよ?」
 
 打って変わって冷徹な声音の、零姫とやらの台詞を聞きながら、両目を開いて手足に力を入れ
片膝をつき、立ち上がって、埃を払って彼女を見やる。
 見えてるはずだ。
 俺の目。片目ではなく両目が爬虫類の、「とかげ」の眼となっていることが。
 蜥蜴の刺青、そいつが動いて服の内へと降りていく様が。
 それを見て案の定、零姫の表情が一層冷たくなる。ま……俺としてもこういう演出は嫌いじゃねえしな。
気を紛らわすにも丁度良い。ウォーミングアップと洒落込もうじゃねえか。

「ふん、思ったより体の馴染みがいいな。ずっと『同じ体』でいたせいか、それとも……姫さん、
 あんたのあいつへの思いのおかげか」

 おっと、更に険しくなりやがった。これ以上のお遊びは地雷踏みか。
 
「残念ながら、もうこの体は俺のもんだ。あんたが怒ろうがどうしようが、この現実は覆らねえよ。
 そうとも、あの活発な、あんたと共に外へ行こうとしたイーリンは……死んじまったよ。
 そいつは事実だ――だがな」
 
 幻獣の炎の明るさに目を細めながら、淡々と事実を口にする。
 実際、あれをけしかけられたら文字通りお陀仏だろうな。もっともどうせ俺は死ねねえんだが。
 だがそうかと言って、ここでこの体を奪われるわけにもいかねえ。
 俺にはまだやることがある。
 
「――ざけんな、誰が誰の狗だと?
 俺は俺だ、誰のもんでもありゃしねえ。てめえが許そうが許すまいが知った事じゃねえがな、
 あの女の狗呼ばわりだけは看過できねえな。それこそ一秒だって俺は奴に与した憶えはねえ。
 俺は只の、このくそったれな物語を見せ続けさせられた――――『とかげ』だ」

126 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/19(水) 23:55:53


 ……分かって、おる。

 啖呵を切られるまでもなく、零姫は充分に彼≠フ事情を理解していた。
 なにせ、零姫の知る彼≠ヘ、針の城に封印された存在だったのだから。
 イーリンがそうであったように、この爬虫類も被害者だ。あの女≠ノ利用
された駒なのだ。憎しみをぶつけるのは、お門違いもいいところだった。
 
 憤ってどうする。これは、そういう生き物なのだ。
 蜥蜴の尻尾が切られれば自然と新たな尻尾が生えてくるように、彼≠ヘ神
の摂理に基づいてイーリンの死体に憑依した。
 悪意があるどころか意識的ですらもない。彼≠ゥらしてみれば、ただ「イ
ーリンが死ねば顕現しろ」というプログラムに基づいただけだ。

 ……零姫とリリーの関係に似ている。
 零姫は彼≠フようにリリーの躰に憑いていたわけではなく、零姫自身がリ
リーだったのだけれど、見方を変えれば、リリーの躰を我が物顔で使っている
と解釈できなくもない。そう責められたところで、零姫の立場では「目覚めて
しまったものはしかたがない」としか答えられないのだが。
 ……それは、彼≠燗ッじだろう。
 だから、零姫は素直に怒りを収めたのだ。
 種は違えど、同じ無限転生者だ。その宿業は理解できる。

「とかげ……」

彼≠フ名を呟く。
 神を喰らったことで、決して死ねない呪いにかかってしまった男。死体から
死体へと憑依を繰り返すことで無限の転生を行う彼は、どういった経緯からか
数十年前に針の城の封印され、此度の策謀のために、十年前、イーリンの肉体
に魔術迷彩処理を施した上で埋め込まれた。
 なぜ、イーリンは蜥蜴の血肉を持っていたのか。人間でありながら、黄金に
輝く魔眼を持っていたのか。あの頬の刺青はなんだったのか。
 答えはすべて、このとかげ≠ェ握っていた。

 蜥蜴の血肉も魔眼も、とかげの魂を肉体に封印した副作用だったのだ。漏れ
出した特異性がイーリンの躰に侵食し、変異を呼んだ。
 零姫は知らないが、イーリンが不眠症になる切っ掛けとなった他人の夢
も、このとかげの記憶を無意識の世界で拾い取っていたからだった。

 つまり、イーリンの躰にとかげは同居していたということになる。
 死体にしか憑けない彼は、イーリンが存命中は表に出てくることは叶わなか
ったが―――彼女の死がスイッチとなって、こうして顕現を果たした。
 容姿も声もイーリンのままで、零姫の前に現れた。

127 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/19(水) 23:56:03


 なぜ、そんな回りくどいことをあの女≠ヘしたのか。それは、とかげには
魔術や妖術の類を強制的に無効化させる特質があるからだ。イーリンも似たよ
うな力を持っていたが、オリジナルは規模が桁違いだ。
 そこにいるだけで、周囲の霊力を消し飛ばしてしまう。魔術の計算式を分解
してしまう。零姫の背後の麒麟も、幻体を維持するだけでかなりの消耗を強い
られていた。……実に希有な特性だ。

あの女≠ヘ、そこに目をつけた。不可侵を誇る上級妖魔殺し≠フ結界も、
とかげの能力ならば内側から破れるのではないか、と。
あの女≠フ目論見は成功した。事実、彼が目覚めると同時にゾズマの結界は
解呪されてしまっている。いまの〈針の城〉は裸に等しい状態だ。
 十年以上も零姫を守っていた城塞は、消え去った。

 ―――すべてはこの瞬間のために。

 ゾズマの結界を破るために、イーリンは根っこの町からさらわれた。
 リリーと運命的な出会いを果たすように演出され、逃避行を裏で操作され、
火焔天で死にとかげが目覚めることすら計算されて―――ついにいま、十年越
しの念願が叶い、結界は消え去った。

あの女≠ヘ得意の絶頂にいるに違いない。十三年前の屈辱を見事に晴らして
みせたのだから。己の計画が一から十まで予定通りに成功したのだから。

 イーリンと同じく、とかげも道具以上の価値はない。〈針の城〉の結界が消
えたいま、あの女≠ェ直接零姫に手を下しに来るだろう。
 よもやクーロンにいるとは思わなかったが……ゾズマの胸に突き立つ魔剣が、
彼女の存在をはっきりと証明している。

「ならばここから早急に去るがよい」

 冷たい声のまま、零姫はとかげに言った。

「おまえの言う通り、それはおまえの躰じゃ。……イーリンの中で、おまえは
十年も待っていたのだから、そう主張する権利ぐらいはあろう。だから、その
躰でどこへなりとも自由に行ってしまうがよい」

 零姫がとかげを追い出そうとするのは、彼がイーリンの顔で、イーリンの声
で話しかけてくるのが、辛くてしかたがないから―――という理由だけではな
い。彼を丁寧に歓迎する時間的余裕などまったくないのだ。

 ここは、もうすぐ戦場になる。
 第二次妖魔租界戦争が始まろうとしているのだ。 

128 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/20(木) 01:55:12
>>

「へっ。話が早いじゃねえか。だが……そうもいかねえんだ。
 そりゃあ『はいそうですかではお言葉に甘えて』とズラかれるんなら、俺も苦労はしねえんだがな」
 
 実際、この言葉に嘘はない。
 俺には俺のやるべき事がある……探さなくちゃならない奴がいる。それ以外の者など、俺にとっては
何の関係もねえ。あの女も、この姫さんも、何もかも。
 おまけに俺は特異存在だ。居るだけで霊脈を歪ませ、結界に干渉し、余計なものを呼び寄せる……
一つ所に居てはろくな事にならねえ。叶うなら、さっさとここからおさらばしたいというのはだから本音だ。
 しかし。

「まずあんただ、姫さん。あんたは俺の『より』なんだよ。
 イーリンは今際の際まであんたを想っていた。この体にはその念が宿り、俺はそいつに縛られる。
 次の死体を探すまで、俺は残念ながらあんたから離れられねえんだよ。離れたが最後、この体は
 腐っちまうからな」

 もっとも、その『依』はこんな幻獣を作り出せるような強力な妖魔だと来ているんだからややこしい
話だが。おかげで随分と、体の調子は良い……飲み込んだあの「石」の力も相まって、例の幻魔とやらの
力をはね除けられる程度には。

「それでも出てけってんなら仕方ねえがな。俺自身はどうせ死ねやしねえし、こんなスラムなら
 死体なんぞ早々に見つかるだろ。そして代わりにイーリンは無縁仏だ。
 それであんたの気が済むってんなら、別に構わねえぜ?」
 
 相手にとって見知った人間のツラをして、あえてそんな風に突き放してやる。
 こう言われてなおも出て行けと言える人間は多くはない。
 まあ、こいつは人間じゃなく妖魔だが……表情見る限り、大して変わらねえだろ。
 
「まあそういうわけだ、悪いが付き合って貰うぜ。
 ……それに俺自身、あのクソ女には借りを返してやりたいんでな。
 その為にもこの、イーリンの体が必要なんだよ。他の死体じゃ意味がねえ。
 それにこっちは、あんたにとっても悪い話じゃねえはずだ」
 
 上手くいけば、だが……と心中で付け加える。
 正直言えば勝算はあまりない、馬鹿げていると俺自身思う。
 だがそれでも――このままで済ませる気は、毛頭ねえ。

129 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/21(金) 00:01:08



 ……こやつ、正気か。

 予想外の申し出に零姫は眉をひそめた。
 口調こそ乱暴だが、とかげの言い分はつまり「零姫の騎士になる」というこ
とだ。自殺志願も甚だしい。なんの義理があってそんな真似をするのか。せっ
かく取り憑いた躰をなぜ進んで壊そうとする。
 零姫にはとかげの考えが一分も理解できなかった。

 男性の魂を持つとかげが、なぜイーリンという女性の躰に宿るようになった
のか。それは、彼があの女≠ノ封印され、駒として利用されたからだ。
 つまり、一度は敗北しているのだ。
 無理もない。あの女≠ニ正面から対峙して、勝ちを収められる戦士がこの
世界にどれだけいる。ゾズマやイルドゥンですら厳しい戦いになるはずだ。
あの女≠ヘそれほどまでに強い。疑いようもなく妖魔最強である。彼の加勢
があったところで、勝算は変わらず絶望的なままだ。

 ―――負けると分かっている勝負に挑む愚か者は、ひとりで充分じゃ。

 それに、彼の躰は彼女の躰なのだ。
 もう、これ以上イーリンを傷付けたくはない。願わくば、せめて肉体だけで
も外≠ヨ連れて行ってやって欲しいとすら思っている。
 やはり、とかげを戦いには参加させられない。……しかし、零姫から離れれ
ば肉体が腐ってしまうというのだから性質が悪い。
 どうしたものか。

「あやつの狙いはわらわじゃ。わらわの側にいる限り、おまえは災厄に晒され
続けることになるぞ。であるならば、例え我が身が腐ろうとも、逃げられるだ
け逃げるのが得策というものであろう。……だから、わらわに構うな」

 零姫は素っ気ない口ぶりで言った。
 美しさが際立つからこそ、余計に冷たく見える彼女の横顔。これこそが本来
の零姫だ。誰にも興味を持たず、他人との関わりを拒絶する。
 イーリンに見せた感情の炎は、彼女の隠れた一面でしかない。

「これは、わらわの戦いじゃ」

 零姫の魔力は誰よりも高い。純粋な霊的スペックだけで比べれば、あの女
など零姫の足下にも及ばない。しかし、こと戦闘という分野において、零姫の
魔力はあまり役に立たず、逆にあの女≠フ武人としての力量は一個の軍に匹
敵するほど高かった。殺し合いになれば、まず勝てない。
 だから今日まで、零姫はあの女≠ニ剣を交えようなどとは思わなかった。
 逃げて、隠れて、一秒でも自分の生を伸ばすことに腐心していた。……しか
し今回だけは、零姫は自分の信念を曲げてあの女≠迎え撃つつもりだった。

 怒りがある。あの女≠、零姫は許せない。
 しかし、それ以上に―――悲しみが強い。
あの女≠ヘ憎いが、それ以上に自分自身が憎い。
 零姫は疲れを覚えていた。
 イーリンを守れなかった自分に、罰を与えたいとすら思っている。

 これは、そのための戦争だ。

130 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/21(金) 01:16:03
>>

 ……あーあ、見事に曲解してくれやがった。まあ、俺の言い方も悪かったかも知れねえけど。
 「借りを返す」なんぞと言っちまえば、確かにタイマンでも張ろうって思われるわな。
 だがこの姫さんも悲劇的に捉えすぎだぜ。……イーリンがどうしたかったのか、忘れちまったのかよ。
 
「あのな、姫さん……イーリンと共にいたのはあんただけじゃねえ。俺の望んだことじゃなかろうが、結局は
 俺もずっとこいつに付き合わされて……付き合ってきたんだよ。
 ふん……まあ、確かに俺らしくもねえ話だろうがな」
 
 本来なら俺は、適当な、しがらみの無さそうな死体を選んでずっと「生きて」きた。
 すぐに行方をくらませて、軽く変装をして、あまり人と関わらないようにしてきた。
 ……そうせざるを得ないんだから仕方がない。「とかげ」とは名ばかりに、俺は冷血ではいられねえタチ
らしい。あまり人と関わりすぎると情が移る。どうせ皆死んじまうのに、どうせ俺は異端なのに、どうせこの
手からこぼれ落ちてしまうというのに。
 だから誰とも関わらぬよう、俺は俺だと嘯いていつもは人の間をすり抜けていくことにしていた。
 いつもなら。
 
 ――――今度ばかりは別なんだよクソッタレが!
 
「ざっと十年……ああ十年間、こいつを『中』から見てきたんだぜ俺は。こんなクソくだらねえ、ろくな終わ
 り方もしねえと分かり切ってる三文芝居を、俺はずっと見てきたんだよ畜生が!
 責任者出てこい、ってやつだ。このまんま終わらせてたまるか、俺の気が済まねえんだよ!」
 
 情が移るだのなんだのという次元じゃねえ。
 ここまでさせられて、素知らぬ顔で居られるほど俺は冷血にはなれない。
 そんなだだ甘の自分にすら腹が立つが……どっちにせよこの最悪の気分は収めたくて仕方がねえ。
 
「だからだ、姫さん。俺は俺のしたいようにさせて貰うぜ」

 ではどうするか? んなもん、答えは決まっている。


「俺は――――イーリンの本懐を遂げさせる」


 そう言って、零姫の手を取った――先刻のイーリンと、同じように。


「逃げるぜ、一緒に。あの女の筋書きはここでご破算だ。成功率なんぞ関係ねえ。最後まで抗ってやる。
 この街からもあの女からも逃げおおせてやる――最悪の物語を、ぶち壊してやる。
 これが俺の戦いってやつだ。あんたと同じようにな」

 ついでに笑ってやろうか。
 もちろんそりゃ、悪人ヅラでだ。

131 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/21(金) 20:06:53
少し修正。


>>

 ……あーあ、見事に曲解してくれやがった。まあ、俺の言い方も悪かったかも知れねえけど。
 「借りを返す」なんぞと言っちまえば、確かにタイマンでも張ろうって思われるわな。
 だがこの姫さんも悲劇的に捉えすぎだぜ。……イーリンがどうしたかったのか、忘れちまったのかよ。
 
「あのな、姫さん……イーリンと共にいたのはあんただけじゃねえ。俺の望んだことじゃなかろうが、結局は
 俺もずっとこいつに付き合わされて……付き合ってきたんだよ。
 ふん……まあ、確かに俺らしくもねえ話だろうがな」
 
 本来なら俺は、適当な、しがらみの無さそうな死体を選んでずっと「生きて」きた。
 すぐに行方をくらませて、軽く変装をして、あまり人と関わらないようにしてきた。
 ……そうせざるを得ないんだから仕方がない。「とかげ」とは名ばかりに、俺は冷血ではいられねえタチ
らしい。あまり人と関わりすぎると情が移る。どうせ皆死んじまうのに、どうせ俺は異端なのに、どうせこの
手からこぼれ落ちてしまうというのに。
 だから誰とも関わらぬよう、俺は俺だと嘯いていつもは人の間をすり抜けていくことにしていた。
 いつもなら。
 
 ――――今度ばかりは別なんだよクソッタレが!
 
「ざっと十年……ああ十年間、こいつを『中』から見てきたんだぜ俺は。こんなクソくだらねえ、ろくな終わ
 り方もしねえと分かり切ってる三文芝居を、俺はずっと見てきたんだよ畜生が!
 責任者出てこい、ってやつだ! このまんま終わらせてたまるか、俺の気が済まねえんだよ!」
 
 情が移るだのなんだのという次元じゃねえ。
 「やがて死ぬ人間」に入れられたんだ。死を看取るまでただ黙って見ているしか術がなかった。
 それはこいつの一生を無理矢理背負わされたも同然だ。しかも当のイーリンにすら存在を知られずに!
 ここまでさせられて、素知らぬ顔で居られるほど俺は冷血にはなれない。
 そんなだだ甘の自分にすら腹が立つが……どっちにせよこの最悪の気分は収めたくて仕方がねえ。
 ましてやこんな馬鹿げた陰謀劇のおまけ付きとなりゃあ尚更だ。
 
「だからだ、姫さん。俺は俺のしたいようにさせて貰うぜ」

 ではどうするか? んなもん、答えは決まっている。


「俺は――――イーリンの本懐を遂げさせる」


 そう言って、零姫の手を取った――先刻のイーリンと、同じように。


「逃げるぜ、一緒に。あの女の筋書きはここでご破算だ。成功率なんぞ関係ねえ。最後まで抗ってやる。
 この街からもあの女からも逃げおおせてやる――最悪の物語を、ぶち壊してやる。
 だから今の俺はイーリンの体が必要なんだよ。『こいつと一緒に』脱出しなきゃ、意味がねえからな。
 『あんたの戦い』が知ったことか。これが俺の戦いってやつだ。あんたと同じように、な」

 ついでに笑ってやろうか。
 もちろんそりゃ、悪人ヅラでだ。

132 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/24(月) 20:40:26


 零姫は礼節を重んずる女だ。礼儀を軽んじる輩をもっとも忌み嫌う。無礼を
許しておけない性分だった。
 親しくもない他人に断りもなく触れられれば当然気分を害するし、それが異
性となると手厳しく叱責もする。
 とかげに手を握られたときも、やはり零姫は嫌悪に眉を寄せた。その馴れ馴
れしい振る舞いに、仕置きのひとつでもしてやろうかとすら考えた。

 ―――しかし、彼の指先の感触が、彼の肌から伝わる体温が、イーリンのも
のとまったく同じであることに気付いてしまい、零姫は何も言えなくなった。
 お仕置きどころか、手を払うことすらできなかった。

 ……この男は、卑怯じゃ。

 とかげはイーリンの指で零姫に触れ、イーリンの声で呼びかける。イーリン
のかんばせを向けて、イーリンの瞳で胸のうちを射貫く。
 抗えるわけがない。
 いまの零姫のもっとも弱い部分を、とかげは的確に突いてきた。
 彼はイーリンとはまったく別物で、もうイーリンはこの躰にいないというこ
とを、零姫は知っている。しかし、頭では理解していても、胸が納得しない。
とかげの表情に、イーリンの名残を求めてしまう。

 とかげとイーリン。
 変わったのは、右眼だけだった黄金の魔眼が、とかげが顕現してからは左眼
も開いたことか。……それと、頬の刺青が胸まで降りていったこと。
 この二つの変異に、零姫はだいぶ救われていた。
 顔面の刺青が無くなったお陰で、同じ顔と言えども印象はかなり異なる。
 両眼の魔眼も然りだ。片眼だけが瞳孔の細い黄金瞳なのと、両眼がそれなの
とでは表情の作りがやはり違う。
 とかげのかんばせからイーリンを探そうとして、逆に異なる点を見つけてし
まった零姫は、改めて「彼女はもういない」と自分に言い聞かせた。

 とかげの言葉を吟味するかのように、黙り込む。
 彼には感謝しなければならない。彼が一方的にまくし立ててくれたお陰で、
零姫は少しだけ冷静になることができた。とかげにはとかげの事情があるとい
うことを、落ち着いて考えることができた。

 ……不幸なのは、わらわだけではない。

 とかげだってそうだ。否、とかげのほうがはるかに辛いかもしれない。
 零姫は覚醒するその時までリリーの最深層で睡っていたけれど、とかげは自
らの意識を持ったまま、イーリンの躰に封印されていたのだ。
 彼はイーリンのクーロンでの生涯をずっと見守ってきた。見守っていながら
にして、なにもしてあげることができなかった。
 それは拷問に勝る苦痛だったに違いない。

 とかげのことをただの悪霊としか見なしていなかった零姫は、自分の了見の
狭さを素直に認めて、反省した。

133 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/24(月) 20:40:47


「……おまえの提案通り、一緒に行ってやらぬでもない」

 反省したのに偉そうな物言いが治らないのは、これしか零姫は他人との接し
方を知らないからだ。本音の部分では、いたく心を打たれていた。
 とかげはイーリンの裡にいた。彼は彼女の心の底までくまなく見渡していた
はずだ。自身が望む望まないに関わらず、強制的にイーリンのすべてを覗き見
させられていたはずだ。
 ―――そんなとかげだからこそ、イーリンの願いを、彼女がほんとうに望ん
でいたことを代弁できる。

 一緒に、外≠ヨ。

「よいの、だな」

 唇を震わせながら言う。

「わらわでも、よいのだな」

 それはとかげへの言葉というよりも、いまはいなくなってしまったイーリン
に手向ける最後の確認だった。

「リリーではなく、零姫であるわらわでも、おまえは誘ってくれるのじゃな。
一緒に行ってくれるのじゃな」

 イーリンは、どうして死んだ。なぜ死ななければならなかった。
 ―――それはリリーの夢を叶えるためだ。零姫を外≠フ世界へと連れ出す
ためだ。そのために愚かで一途な少女はすべてを捨てた。自分の命すらも平気
で投げ出した。
 これは、呪いに等しい。あまりに重い愛情を、零姫は背負わされてしまった。
 
 いまここであの女≠ヨの憎しみを破裂させ、命を賭して仇討ちに挑み、そ
して玉砕すれば、この呪いは解けるかもしれない。
 けれど、それではイーリンの死はどうなる。彼女の死が、まったくの無意味
になってしまうではないか。
 とかげは、そこまで考えていたのだ。

「……よかろう」

 イーリンは死に、リリーは消えてしまった。出会った二人はいないけれど、
躰はここに残っている。ならばまだ、零姫にもとかげにもできることがあるは
ずだ。死に逃避する前に、生きてやるべきことがあるはずだ。

「おまえがパートナーというのは大いに不服じゃが、互いに目的は一致してお
る。わらわはイーリンのため。おまえもイーリンのため」

 零姫はリリーとは違い、外≠知っている。無限の転生で、多くのリージ
ョンを巡った。例えクーロンが出ようとも、幸せは約束はされておらず、同じ
ように困難が待ち受けていることを、零姫は知り抜いていた。
 だが、それでも―――零姫はもう、ここには一秒たりともいたくはなかった。
 一秒でも疾くイーリンと一緒に、ここではないどこかへと行きたかった。

「クーロンなどクソ喰らえじゃ」

 イーリンの口ぶりを真似てから、零姫は笑った。微笑ではなく、イーリンの
ように快活に、笑った。

134 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/24(月) 21:54:16


「―――そうか。やはり、行ってしまうんだね」

 背後からかかった声に、零姫ははっと表情を驚かせて、振り向いた。

「ゾズマ……」

 胸に幻魔を突き立てた赤髪の魔人が、脚を引きずりながらとかげと零姫の近
くまで来ていた。本棚に肩を預けると、苦しそうに息を吐く。
「無茶をするでない」と忠告しかけるが、喉まで出かかった言葉を零姫はその
まま呑み込んだ。ゾズマは別に無茶をしているわけではない。この元筆頭騎士
は、ただそうしたいからしているだけ。気づかいが意味を為さない男なのだ。

「僕としては、火焔天に留まって欲しいところだけど……。なにせ、ここが一
番安全だから。けど、強制はしない。君がしたいようにすればいい」

 うむ、と零姫は頷いた。ゾズマは一度たりとも、零姫に何かを強いたことな
どなかった。リリーを閉じ込めた彼だけれど、零姫が目覚めたら、即座に〈図
書館〉の鍵も開いた。―――彼はただ、零姫が覚醒するまで、彼女の躰を守っ
ていただけなのだ。不器用というより、純粋すぎる男だった。
 あまりに純粋であるが故に、人間味を欠片も持ち合わせていない。
 それがゾズマという妖魔だ。

「わらわは行く。ゾズマ、今日まで迷惑をかけたな」

「……次に転生するときは、もうちょっとお淑やかな子を頼むよ。あの子はち
ょっと、元気がありすぎて僕の手には負えなかったから」

 ゾズマの手さえ焼かせたのだ。あの白百合の娘は本物の大物だった。

「おぬしはどうするのじゃ」

「僕は―――残るよ。この躰で火焔天の外へ行くのは賢くないからね。とても
じゃないけど、あの子からは逃れられない。ならば、ここで息を潜めるさ」

 それが一番妥当な選択だということは、零姫も分かっている。
〈針の城〉の第零層火焔天≠ヘ、ゾズマの最後の城。他のすべての層が陥落
しようとも、ここは〈紅の魔人〉の結界として機能し続ける。どうせあの女
と戦わなければならないのなら、自分のフィールドでやるべきだ。

 しかし、零姫の目的は外≠ヨと行くことだから―――

「ここで、お別れじゃな」

 ああ、とゾズマは頷いた。

「僕は心から願うよ。君が今度こそ寿命を全うしてくれることを」

 無限の転生を繰り返す零姫だったが、あの女≠ノ執着される以前から、ま
だオルロワージュが妖魔の君だった時代から、その生涯は短命のまま終わって
いた。どんなに長く生きても二十代半ばで果ててしまう。平均すれば寿命は十
代の前半で、年齢が二桁に達する前に死ぬことも珍しくなかった。

 そんな儚い生の連続に苦しむ零姫は、だから「せめて一度ぐらいは人間とし
て人生を全うしたい」と切に望んだ。零姫も妖魔もファシナトゥールも関係の
ない世界で、穏やかな営みに幸せを感じたいと。
 ゾズマは、その想いを汲んでくれたのだ。

135 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/24(月) 21:54:27


「今回限りの特別サービスだよ。次はない。僕はもう懲りたからね」

 幻魔からの侵食で発狂しかねないほどの痛みを覚えているはずなのに、顔に
汗を浮かべつつも、ゾズマは悪戯っぽく微笑んで、ウインクした。
 ふふ、と零姫もつられて笑う。しかし、次のゾズマの言葉を聞いてすぐに表
情に強張らせた。

「クーロンの外を目指す君たちに告げるのは、心苦しいのだけれど」

 ゾズマにしては珍しく、若干の躊躇いを見せつつ口にする。

「〈針の城〉は、この火焔天を除いて十層まですべて墜ちている。〈針の城〉
はいまや敵の城で、僕たちは完全に包囲されていて、君たちは敵陣の真っ直中
を通り抜けなければならない。とても愉快な状況だね」

「なんと……」

 結界が破られた瞬間から侵攻は始まるだろうと覚悟していたが、まさかもの
の数分で九割方が制圧されてしまうとは。あの女≠ヘ自分の軍を使えないは
ずだが、まさか単身でそこまでやってのけたのか。

「こんな事態を招いてしまった侘びというわけではないけれど、幻魔は僕が引
き受けよう。この魔剣が無いだけでも、あの子の力はだいぶ削げるからね」

「しかし、それではおぬしが―――」

「勘違いしちゃ駄目だよ、零姫様。僕は火蜥蜴の子みたいに、自分の命を燃や
し尽くしてまで……なんて情熱はない。あくまで死なない程度に粘るだけさ」

 それを聞いて安心した。イーリンに続いてゾズマまで自分のせいで死なれて
は、業が深すぎて窒息してしまう。

「ついでに、これも」

 ゾズマは赤鞘に収めた自分の愛刀を、零姫に渡そうとしたが、少し考えてか
らとかげに押しつけた。

「銘は嘯風弄月≠ニいう。月下美人と並び称される名刀だ。君にあげるよ。
これで、零姫様を守ってあげてくれ。クーロンを無事に出られたら、好きにし
て構わない。売れば一財産になるよ」

 イーリンはゾズマを怨敵と見なしていた。ゾズマも、イーリンを味方とは決
して思っていなかった。なのに、とかげに愛刀を譲ったのは、ゾズマはゾズマ
なりに、イーリンとリリーについて思うことがあったからだろう。
 なにせ、彼はこの数百年――オルロワージュとの決戦さえ含んでも――ここ
までの重傷を負わされたことは一度として無かった。たかが人間の小娘に、上
級妖魔の中でもトップクラスの力を持つ〈紅の魔人〉が敗れたのだ。
 ゾズマの性格なら、愉快に思わずにはいられないのだろう。

「この十二年―――鬱陶しいことも多かったけれど、その分だけ、退屈を忘れ
られた。君たちには感謝するよ」

 だから、いってらっしゃい―――と。
 ゾズマは火焔天をホームに見立てて、零姫ととかげを送り出した。

136 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/24(月) 23:50:20
>>

「くく……くははははははっ!」

 思わず声出して笑う。より正確に言えば笑うしかない。
 
 ダージョン……いや、ゾズマっつったか。野郎の言うことにはこの<針の城>が現状ここ中心部を除いて
既に敵地。クーロンから、どころかこの真っ赤に染まりきった状況からの脱出ゲーム開始の合図と来た
もんだ。

「サービス精神旺盛すぎてますます借りを返してやりたくなったぜあのクソ女。どっかのテレビゲームよ
ろしく俺に千人斬り無双でもしろってのかよ?」

 ……出来るかんなもん。こちとら別に戦闘のプロでもなんでもねえぞ。
 まあ、しかしそれはそれとしてだ。
 
「まあくれるってんならありがたく貰っとくが……いいのかよ? 俺にはてめえの無事を祈る義理はねえぜ
ダージョン様よ? 俺の義理はイーリンに対してのみだからな。……ま、その為にも姫さんはきっちり守
ってやるけどな」
 
 千人斬りしようがしまいが、確かに武器があるならありがたい。
 ――実際受けとった「嘯風弄月」とやらは、確かにその名に負けぬ名刀だった。それでいて俺としては
具合の良いことに霊刀の類でもない。銘から言っても、こいつは何かに染まりきることのない刀ということか。
案外に、俺の手に馴染むかも知れないな。
 鞘を挿しておけるようなもんはないが、まあそこは仕方ねえか。

「良し、と。……さて、姫さん」

 改めて、向き直る。
 反撃の狼煙って奴のために。
 
 
「結局の所、こいつは代理闘争だ。あんたの言うとおり、俺らはイーリンのためにここを脱出する。
だからこそ……死ねないぜ? 玉砕じゃねえ、絶対に生き延びてやる」

 まったく、こんなことは初めてだ。
 こんな身になって、どうせ死ねないと諦めることや、俺だけが生き残って後悔することはあっても……
絶対に生き延びてみせる、だなんて状況に放り込まれるなどとは。
 
 ――俺の本当の望みは「死」だ。無為な生など、もう重ねたくない。
 それなのに。
 それなのに……この気分は悪くない。明確な敵がいるからなのか、それとも「生き延びてやる」という
思いのためなのか。

 まあ、なんでもいい。とにかくやってやる。
 
「クソ食らえついでに、この最悪の状況とやらもクソ食らえと行くぜ、姫さん。どこまでも突っ走って、
目指すは馬鹿どものいない場所へ、だ!」

137 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/26(水) 20:58:19
よく考えたら俺別に「イーリンに義理がある」訳じゃねえよな。
んなわけで↓このように訂正だ。

「まあくれるってんならありがたく貰っとくが……いいのかよ? 俺にはてめえの無事を祈る義理はねえぜ
ダージョン様よ? 俺はただ俺の勝手で姫さんと逃げようってだけだからな。……ま、その為にも姫さんは
きっちり守ってやるが」

138 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/29(土) 22:55:58


 とかげの威勢の良さは、悲観的思考に陥りがちな零姫の気分をいくらか和ら
げてくれた。彼は彼なりに気を使って慰めようとしてくれているのだと解釈し
て、少しは認めてやってもいいかもしれぬな、などと考えたりする。
 ―――が、しかし。
 現実的な問題として、いま二人が置かれている状況はかなり厳しい。とかげ
が想像しているよりもはるかにだ。最悪を通り越して、絶望と断言してもいい
かもしれない。だから零姫も、一時は玉砕を覚悟したのだ。

 ……あの女≠ヘ本気じゃ。

 十年越しの計画が大成するのだ。とかげと零姫がクーロン脱出を試みる可能
性も当然考慮しているだろう。あの女≠ヘいったいどんな綿密な計画のもと、
最後の詰めとしてとかげを排除し、零姫を捕らえるのか。
 それが、見えてこない。

 クーロンは、治安こそ悪いが外交では非常に強い力を持っている。共同租界
には自国民を守るために、それぞれのリージョンが軍隊を駐留させているし、
IRPOの治安維持軍もターミナル港警備を名目に一個師団が常駐している。
 いくらあの女≠ナも、軍を率いて電撃的に攻め込んで一晩二晩で制圧する
なんて芸当は不可能だ。かといって戦闘が長引けば、トリニティやシュライク、
IRPOをも巻き込んで恐ろしい規模の戦争に発展してしまう。もう百年近くムス
ペルニブル制圧に忙殺されているあの女≠ノ、そんな余裕はない。
 動かせるとしても精々一部隊程度。可能性としてもっとも濃厚なのは、あ
の女≠ェ愚かでかつ無謀にも単身で乗り込んでいること。
 しかし、だとしたら。

 ……説明がつかぬ。

 ゾズマは確かに言った。〈針の城〉は火焔天を残して陥落した、と。
 それも結界が破れた瞬間にだ。いくらあの女≠ニいえど、物量に頼らずど
うしてそんな真似ができる。軍を動かさずに、どうやってあの女≠ヘ〈針の
城〉を制圧したのか。いま、この火焔天の外の様子はどうなっているのか。
〈針の城〉はいったいどうなってしまったのか。
 零姫は考える。考える……が、分からない。

 かつてはすべての霊脈を掌握し、自身の身体の一部として完璧に〈針の城〉
を理解していた零姫だったが、とかげの顕現により霊場は乱れに乱れ、いま
は縮地はおろか千里眼すら使用することは叶わない。
 地の利は完全に失せていた。
 ゾズマの言葉通り、火焔天で迎え撃つのがもっとも賢い選択だ。
 ……しかし、それでは外≠ヨは至れない。

「案じても道は開けぬ、か」

 零姫は結論する。ここはとかげという不確定因子に期待をよせるしかない。
あらゆる魔術的作用を否定するとかげの特異能力ならば、あの女≠フ算段を
狂わすことができるかもしれない。
 零姫ととかげの目的は、あの女≠斃すことではなく、生きたままクーロ
ンから脱出することなのだ。その程度の奇蹟ぐらい、期待してもいいはずだ。

 ―――イーリン、待っておれ。

「わらわが見せてやる。色彩に満ちた外≠フ景色を」

 無限転生の姫は、閉じられた世界の扉を開いた。

139 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/29(土) 22:56:14


 ―――開いて、絶句した。

「こ、これは何事じゃ」

 第零層火焔天≠ニはリリーを監禁すること――ゾズマから言わせれば零姫
を護ること――を目的とした建造物だ。多層都市〈針の城〉の中心にあり、高
層建築物の密集地帯である〈針の城〉において唯一の一階部分で完結した平屋
の低層建築物であった。外観は薄べったい箱状で、まるで黒檀の巨大な棺桶の
ようだった。面積の八割方を零姫の私室である〈図書館〉が閉めているため、
屋外に出るのは苦労しない。零姫もとかげと一緒に〈図書館〉を出てから、ほ
んの数分でゲートに辿り着いてしまった。

 ―――問題はそこからだ。

 零姫は火焔天と第一層月天(つきてん)≠フ境界の風景を直に見たことは
ない。……が、リリーのときに幾度となく霊視はした。彼女の視界≠ヘ〈針
の城〉の全層に及んでいるのだ。零姫が知らない〈針の城〉の風景などない。
 しかし、ゲートの向こう側に広がるそれは、驚愕で思考が真っ白になってし
まうほど、あまりに―――あまりに見知らぬ景色に成り果てていた。
 まるで異界に迷い込んでしまったかのようだ。誤ってワープゲートでもくぐ
ってしまったのではないか、とすら零姫は一瞬勘ぐった。
 それほどまでに、零姫の知る〈針の城〉とは異なる風景。

「―――いや」

 知っている。
 わらわは知っているぞ。
 確かにこの景色を見ているぞ。

 人工的な明かりの一切が見当たらなず、周囲は闇が支配している。目視でき
てしまうほど濃厚な瘴気が立ちこめ、まるで暗黒の霧のようだ。
 目を凝らして街並みを観察することで、ようやくここが〈針の城〉であると
知れるが、その変容の具合は絶望するほどに激しい。
 夜空へと突き立つあらゆるビルは荒廃し、窓という窓からは鏃のように尖っ
た枯れ枝が突き出している。攻撃的な荊がどこからともなく密生して、舗装さ
れた路地を引き裂き、ビルの壁を食い破っていた。
 印象で語るならば、荊と枯れ枝の津波に〈針の城〉が呑み込まれてしまった
かのようだ。枯れ枝にも荊にも生気というものがまるで感じられず、闇が凝固
して生成されたように見える。空気は澱みきって、夜空すら満足に窺えない。
 ―――そんな隠されたクーロンの空に、異常なまでにはっきりと浮かび上が
る血色の満月。

 こんなのは断じて〈針の城〉の景色ではない。
 しかし、零姫は知っている。
 この景色を知っている。
 クーロンよりも遥かに馴染み深いこの景色は―――

「針の城……」

 妖魔としての零姫の故郷。
 かつて彼女が逃げ出した場所と瓜二つの光景が、そこにはあった。

140 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/29(土) 22:57:07


 ―――そして、紅の満月を背負った女がひとり。

 零姫の視界の先で、二人を待ち受けていた。悠々自適に佇み、まるで、来訪
者は零姫ととかげのほうで、自分こそがこの城の主だと言いたげな態度で。

 女は特異な存在だった。チーパオ・ドレスにお団子頭というクーロンの伝統
衣装は今時演劇でも滅多にお目にかかれないほど時代錯誤なのだが、クーロン
ストリートの茶屋で給仕でもしていそうな町娘然として愛敬のある顔立ちのせ
いで、不思議と違和感はない。……が、その素朴な印象が、この異様な光景と
はまったく相容れず、余計に倒錯感を掻き立てている。

 クーロン女は自身に満ちた不遜な笑みを絶やさず、これまた伝統的な訛りで
零姫に声をかける。

「ニーハオ! ファシナトゥールにようこそ、アル」

 それは、かつてイーリンにシャオジエと呼ばれて、慕われていた女だった。

141 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/29(土) 23:18:57
加筆




 ―――そして、紅の満月を背負った娘がひとり。

 零姫の視界の先で、二人を待ち受けていた。
 悠々自適に佇み、まるで、来訪者は零姫ととかげのほうで、自分こそがこの
城の主だと言いたげな態度で。

 娘は特異な存在だった。
 チーパオ・ドレスにお団子頭というクーロンの伝統衣装は今時演劇でも滅多
にお目にかかれないほど時代錯誤なのだが、クーロンストリートの茶屋で給仕
でもしていそうな町娘然とした愛敬のある顔立ちのせいで、不思議と違和感は
ない。
 ……が、その素朴な印象が、この異様な光景とはまったく相容れず、余計に
倒錯感を掻き立てている。

「誰じゃ、あやつは」

 零姫は眉をよせた。自分たちを待ち受ける者がいるであろうことは想像して
いた。しかし、それは彼女ではない。てっきりあの女≠ェ待ち構えているも
のだとばかり思っていたのに。
 こんな娘、零姫は知らない。リリーとして過ごした時間まで遡っても、見た
ことも視たこともなかった。

 零姫が訝しむ一方で、クーロン娘は自信に満ちた不遜な笑みを絶やさず、こ
れまた伝統的な訛りで快活に声をあげる。

「ニーハオ、零姫様! ファシナトゥールにようこそ、アル」

 それは、かつてイーリンにシャオジエと呼ばれて、慕われていた女だった。

142 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/30(日) 21:23:26
>>

 ――は、やれやれ、なんとまあ。
 
 ほぼ全域が制圧済みだとは聞いてたが……蓋を開けてみればなるほど、こういう訳か。
 実際に姫さんが驚愕しているあたり、効果はあったんだろう。
 ついでに俺にとっても見覚えが無くもないが……まあそんなに動揺はしてねえな、我ながら。
 クソ忌々しい光景なのは確かだが、俺としてはそれ以上に……
 
「てめえは本当に小細工好きだな。なあ、シャオジエ?」

 目の前にこいつが居ることのほうが、よっぽど重大だ。
 ……クソ、初っぱなからこれかよ、ええ?

「初めまして、じゃねえよな。お久しぶりですってのも少し違うが。イーリンがお世話になって
ました、ってのが妥当なとこか? しっかし第一ステージでいきなり顔合わせとは俺としても
予想外だったぜ。姫さんはあんたのことを知るはずがねえんだから、俺への当てつけか?」

 その通り、実際姫さんの表情を見るに、知る由もなかった相手のはずだ。
 だが俺は知っている。……嫌になるほど知っている。
 だからこそ俺の今の台詞は不正解だともわかる。ああ、「俺への当てつけ」なんかじゃね
えだろうさ、こいつは……

「なあ、シャオジエ……ええと、てめえの本名なんつったかな。忘れちまったよ。まあ別に
んなもんは重要でもなんでもねえから構わねえだろ? てめえは『そんなもんじゃねえ』んだ
からな。……ったく、マジで小細工好きだよな。んな格好、恥ずかしくねえのかよ?」

 名探偵、皆を集めて「さて」と言い。……二人しか居ねえけど。
 
 実際、全く見た目は違う。ただの変装目的ってだけなら大したもんだ。霊格さえも異なって
見えるってんだから尚更だろう。現に姫さんですら気づいてねえしな。一体全体どんなカラク
リを用いてやがるんだか、俺があやかりたいほどだ。
 だが、ここにこうして現れりゃ当然そいつはぶち壊しだ。だからこそ、小細工好きだと言っ
ているんだが。……こいつ、何のためにここに現れやがった。こんな風にして俺と姫さんの
意表を突いて、その好きに俺らをやっちまおうって腹か?
 は、まさかな。それこそ必要もない。別にこんなとこで待つ必要なんぞあるわきゃねえんだから。
 だったら……まだ、勝機はあるか。
 せいぜい軽口叩いて、こいつの「小細工」に乗っかってやろう。
 

「姫さんに分からなくとも俺にはわかる。状況証拠が揃いすぎてるってやつだ。大体てめえ
自身、暴いて欲しくて俺らの前に現れたんだろ? 違うかよ、なあ……


  妖魔公さん、よ!」

143 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/01(月) 23:54:25


 シャオジエはとかげを見つめ続けた。初めは、くりくりと愛らしく動く大き
な瞳を丸くして。次に、蔑みを孕みつつ眼を細めて。
 感情に富んだ表情が死んでいく。愛敬は失せ、冷徹な殺意が小さな躰から放
射される。シャオジエからものの数秒で「喜」の色彩が抜け落ちた

 ―――やがて彼女は表情を歪ませて、苦痛を表現する。

「……醜い、アル」

 吐き捨てるように紡がれたシャオジエの言葉に追従するように、荊と枯れ枝
に蹂躙された〈針の城〉が奮えた。闇が蠢き、肉声となって夜に谺する。

 
  貴様はもう、なにも喋るな。

 
 ―――確かに、そう言った。〈針の城〉がとかげに語りかけた。ビルとビル
の隙間を走る風の音が女の声を作ったのだ。
 不気味な現象に零姫は「むぅ」と呻く。ここはいったいどこなのか。あのク
ーロン娘はいったい誰なのか。ようやく彼女にも分かりかけてきた。

 地面をびっしりと埋め尽くす荊が、シャオジエの脚に絡まっていく。脛に巻
き付き、太股を昇り、瞬く間にチーパオ・ドレスの姑娘を呑み込んでいくのだ
が―――異様な事態に晒されても、シャオジエの表情はまったく乱れない。
 変わらずとかげを見つめている。

「……なるほど、見えたわ」

 いまや胸まで荊に抱擁されたシャオジエを睨みながら、零姫は言う。

「なぜ、ファシナトゥールを留守にしてまであやつが直々にクーロンに乗り込
んできたのか。わらわを捕らえることのみが目的であるならば、手勢を差し向
ければよいものを……」

 ぎり、と奥歯を噛んでから、零姫は叫んだ。

「おまえは狂っておる!」

 荊が螺旋の渦を巻いて娘の矮躯に幾重も幾重も絡みつく。ついに、シャオジ
エは頭のてっぺんまで、完全に茨に呑み込まれた。

「ああ、そうさ!」

 なんと、荊の塊が声を張り上げた。シャオジエの声ではない。先程の、〈針
の城〉に谺した凜と透き通る女性の声だ。

「認めよう。私は狂っている! しかし、誰が私を狂わせた?! どうして私
は狂わなければいけなかったんだ?! すべて、すべて貴様のせいだろう!」

 零姫、と荊は叫んで―――蕾が開花するかのように、戒めを解いた。

 シャオジエはどこにもいなかった。ほどけた荊のドレスから姿を見せたのは、
恐ろしいほどに端正な顔立ちをした一人の少女だった。

 少女は、少女にあるまじき格好をしていた。
 胸の部分にたっぷりとフリルをあしらったブラウスに天鵞絨地のジュストコ
ールを羽織り、太股まで露わになったタイトなショートパンツに、オーバーニ
ーのレースソックスを組み合わせている。
 少年のような服装だった。
 少女は男装をしていた。
 しかし、それが奇矯にはまったく見えず、短く刈った浅葱色の髪との相乗効
果で、異性同性を問わずに感服してしまうほど美しく仕上がっていた。

144 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/01(月) 23:54:48


 少女は、上級妖魔の証である血色の瞳で零姫を睨む。零姫もまた、少女を睨
み返してから呻いた。

「アセルス!」

 妖魔公。
 男装の麗人。
 妖魔最強の剣客。
 闇を統べる者。
 魔法剣士。
 妖魔の君。

 通り名は多くあれど、彼女の真名はたったひとつしかない。

 妖魔アセルス。

 ―――すべての妖魔の頂点に立つ者が、ここにいる。

 ……しかし、零姫はまったく物怖じせずに怒鳴りつけた。

「アセルス。おぬし、自分の寵姫を喰いおったな!」

 ふん、とつまらなそうにアセルスは鼻を鳴らす。

「私が目指す永遠の、一つの完成系さ」
 
 だから、なのだ。
 だから、アセルスはゾズマにも零姫にも気付かれることなくクーロンに滞在
できた。魔女シャオジエ≠ニいう偽りの身分で、好き勝手に振る舞えた。
 ただの変装ではなく、魔術迷彩ですらない。
 彼女は完全な他人に成り代わっていたのだ。霊格はおろか魂でさえも、シャ
オジエとアセルスでは異なっていた。

 シャオジエの、容姿と声と愛らしさは―――元々は、蓮華姫≠ニいうアセ
ルスの寵姫のものだった。蓮華姫とアセルスは互いに好き合う仲であったが、
ファシナトゥール入りを果たす前に、不治の病に蝕まれて死亡した。
 アセルスには、そういった「愛し合っていたのに、結ばれずに失ってしまっ
た」お姫様が数多く存在する。
 ―――この妖魔の君は、蓮華姫に留まらずそのような永遠になってしまっ
た£桾Pたちの亡骸を取り込むことで、魂の婚姻を目指したのだ。

 もはやアセルスは、一匹の妖魔ではなかった。
 彼女は城であり軍であり世界であった。
 クーロンに顕現したこのファシナトゥールは、〈針の城〉を呑み込んだこの
針の城は、その一つ一つがアセルスの細胞であり内臓である。……つまり、こ
こは妖魔の君の体内と呼ぶに相応しい、閉じられた世界であった。

「アセルス、おぬしというやつは……大馬鹿じゃ」
 
 数十年会わないうちに変わり果ててしまったかつての戦友を前にして、零姫
は怒り以上の憐れみを抱いてしまった。

 対するアセルスの返答は―――

「この私の城に、イーリンを招き入れる」

 だから、イーリンの躰を返してもらおうか。
 そう、とかげに命令した。
 その口調は、紛うことなく命令だった。

145 名前:あせるす:2008/12/04(木) 13:22:14


 ―――イーリン。
 その名を口にするだけで胸が強く痛む。心が折れそうになってしまう。

 アセルスは流浪の魔女シャオジエ≠ニして、イーリンがまだ言葉すら満足
に操れない頃から面倒を見てきた。今日までの十年間、成長を見守り続けた。
根っこの町≠ゥら幼いイーリンをさらった当時は、無作為に選んだ贄程度に
しか思っていなかったが、イーリンが美しい少女へと育ってゆくにつれ、アセ
ルスの心のうちには火蜥蜴の彼女の存在が強く居座るようになった。

診察≠ニ称してイーリンの精神拘束を調整するとき、睡っていることをいい
ことに唇を奪った回数は――― 一度や二度では済まない。

 アセルスは火蜥蜴イーリンを愛していた。彼女が死んだ事実をもっとも悼ん
でいるのは他ならぬ自分自身だと、根拠もなく確信していた。
 寵姫にしてあげてもよかったのに、とすら考えている。
 彼女と一緒に永遠を生きたかった―――そう強く思えるからこそ、アセルス
は零姫を許せない。イーリンを殺した彼女が憎くてしかたがない。

 この魔女さえいなければ、私の火蜥蜴は死なずに済んだのに。

 確かにアセルスは、数十年前に封印したとかげを人造霊に偽装させてイーリ
ンに憑依させた。彼女が死ねば、自動的にとかげが顕現するように仕組んだ。
 しかし、それは保険に過ぎず、アセルスは「イーリンがリリーを結界の外へ
連れ出す」可能性に賭けていた。零姫を自分の手の届く範囲にまでおびき寄せ
ることができるのなら、とかげに利用価値はないのだから。

 結果は―――アセルスは期待と愛情を裏切られ、イーリンは〈針の城〉の中
心で事切れた。とかげは顕現し、結界は消滅し、保険は十全の役割を果たした。
「零姫を捕らえる」という十年越しの計画は、いままさに成就せんとしている。
が、そのために犠牲となったものは―――あまりに大きい。

「イーリン……」

 失いたく、なかった。

「イーリン―――」

 彼女の苦悩と葛藤を、もっと見ていたかった。

「イーリン!」

 一緒に、永遠になりたかった。


 ―――しかしもう、クーロンの火蜥蜴はどこにもいない。

146 名前:あせるす:2008/12/04(木) 13:22:33


「貴様のせいだ!」

 アセルスの美貌が憎悪に染まる。
 なぜ、零姫はイーリンが差し出した外≠ヨと続く手を取らなかったのか。
彼女が素直にイーリンの願いに従っていれば、イーリンは幻魔を使う必要はな
かったのに。零姫の優柔不断な態度がイーリンを殺した―――そう確信してい
るアセルスは、だからこそ余計に零姫を憎む。先代妖魔の君の血の縛りから唯
一抜け出した寵姫という事実だけでも憎悪に値するというのに。

 妖魔公アセルスの目的は三つある。

 ひとつめは、零姫を捕らえ、屈服させること。針の城の地下迷宮に突き落と
して、死ぬことも生きることも叶わぬ身にさせること。

 ふたつめは、妖魔の君という立場を省みての悲願。このままクーロンをファ
シナトゥール化させて、世界の中心であるターミナル港を占拠すること。
 リージョン・シップの航路を押さえてしまえば、人間社会への侵略は格段に
楽になり、より堅固な支配体制を確立できる。

 みっつめは―――
 いまのアセルスにとって、これこそが最大の目的かもしれない。
 いままで早世していった幾人もの寵姫をそうしてきたように、イーリンの亡
骸を自身の闇に受け入れる。自分と他者を分ける『肉体』という境界線を排除
することで、二人はようやく永遠へと至れるのだ。

 イーリンは、私だけのものだ。
 誰にも渡さない。
 まして、零姫などには絶対に。

「火蜥蜴の彼女の目指した外≠ヘここにある!」

 シリウスはぬるい。ゾズマもぬるい。彼等はファシナトゥールや針の城を騙
るだけで、その本質をまったく理解していなかった。
 この私が見せつけてやる。ファシナトゥールとはなんなのか。針の城とはな
んなのか。―――自由とはどこにあるのか、を。

 アセルスの血色の瞳が禍々しい輝きを帯びる。彼女が口元を歪ませると同時
に、荊が、城が、世界が地響きをあげて震え始めた。

 第二次妖魔租界戦戦争の始まりである。

147 名前:あせるす:2008/12/04(木) 13:23:11
逃げるなり攻撃するなり、自由にアクションしてくれて構わない

148 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/05(金) 22:14:46
>>

 ……ち。
 「俺もあやかりたい」なんて前言は撤回だ。寵姫を喰った、だと?
 吐き気を催す邪悪、ってのはこういう事を言うのかも知れねえな……はっきりいって、おぞましい。
永遠がどうとか知ったこっちゃねえ、こいつは確かに狂ってやがる。

「言ってろ馬鹿。てめえなんかにイーリンを渡してたまるかよ」

 吐き捨てる。狂王に諭してやる言葉なんぞねえ。
 姫さんは憐れんでるようだが……俺はむしろ呆れる、といった心境だぜ。

「……てめえでイーリンに俺を混ぜやがって、てめえが勝手にそこに現れといて、それでそのツラか?
本当に吐き気がしそうだな。弁えろよ、そもそも俺もてめえも、ただの脇役だろうがよ」

 そうとも、こいつはてめえで都合の良いように話をすり替えているだけだ。
 このクソッタレな物語の主役はイーリン。
 ああ確かにイーリンにとっちゃシャオジエは重要な人物だったろうさ。
 
 『シャオジエは』、な!

「今更出しゃばるんじゃねえよ。本当に分かってねえのか?
イーリンが慕っていたのは『シャオジエ』だ。てめえじゃねえんだよ悪の妖魔公。
俺がどんなに苦悩しようが、てめえがどんなにイーリンを想っていようが……俺らは
『イーリンの知らない』ただの脇役だ。それを弁えるどころか、てめえは……」

 鞘を構える。姫さんを庇うように前に立つ。
 ……王子様ごっこなぞ柄じゃねえな。そもそも逃げなきゃいけねえんだし。
 だから足は引き気味だ。姫さんにもそれはわかるだろう。
 だが……挑発のために言葉を繰ってるわけでもないのも、きっと読まれてるんだろうな。
 ああ、正直腹が立っている。だから言わずにはいられねえよ。
 あとはせいぜい……挑発として機能してくれることを祈って、
 
「……イーリンの慕っていたシャオジエまでもを殺しやがって。
 ああそうだぜ、てめえはたった今イーリンの目の前でシャオジエを、リュイ・チャンウェイを
 殺したんだよ。そんな奴がなに言ってんだ馬鹿。付き合ってられねえな。
 勝手に言ってろ、俺らは行くぜ。イーリンを待たせられねえんでな」
 
 イーリンの弔いの合図を、言い切った。
 ……さて、そんじゃ逃げるとしますか。

149 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/06(土) 00:04:05


 アセルスは、とかげを見ながらにしてとかげを見ていない。彼女が見つめる
のは、とかげの躰―――つまりはイーリンのかんばせであり、肢体だった。
 どれだけとかげが口舌の刃で鋭くアセルスを斬りつけようと、彼を用済みの
寄生虫としか認識していない彼女はまったく堪えない。
 アセルスには聞こえないのだ。愛するもの以外の、如何なる声も。

 しかし、だからといってとかげの啖呵が無駄に終わったわけでは決してない。
 アセルスには聞こえずとも、彼の言葉をはっきりと聞き届け、胸に刻み込ん
だ者が、ここにはいる。

「―――感謝するぞ」

 とかげが盾のように構えた鞘を押しのけて、零姫は一歩前に進んだ。その眼
には毅然とした意思の輝きが宿っている。

「とかげよ。おまえはわらわよりも――リリーよりも――イーリンと一緒にい
た時間が長い。あの娘がクーロンに流れてから今日までずっと見守り続けたお
まえは、だからこそ誰よりもイーリンという娘を理解しておる」

 そんなおまえが紡いだ言葉だからこそ、強い説得力を秘めておるのじゃ。
 ……そう語る零姫は、シャオジエ≠ニ呼ばれる女の存在すら知らない。
 イーリンとシャオジエがどんな関係で、イーリンはシャオジエにどんな感情
を抱いていたのか。まったく察することができない。
 だから、とかげの言葉が重く聞こえるのだ。

「わらわも決断した。はっきりと答えを見出した」

 零姫はアセルスをきっと睨み据えると、声を張り上げた。

「大馬鹿者のアセルス! おまえにだけは、絶対にイーリンは渡さぬ!」

 とかげの声は耳に入らなくても、さすがに零姫の言葉は意識せざるを得なか
ったのだろう。アセルスは表情に不快の相を走らせた。しかし、それが実力行
使へと至るよりも疾く―――先手必勝。零姫が攻撃に出た。

 炎の竜巻が吹き荒れ、闇を払う。

 零姫はわずか一瞬の挙動で鳳凰と燭陰の幻獣を編んでみせ、アセルスにけし
かけさせた。―――幻術による並行召喚。それもただの幻獣ではなく、四竜と
四霊という神獣クラスの二匹だ。超常的な魔力量と、それを使いこなす明智を
持つ零姫だから可能とする奇蹟の具現。
 炎より生まれ、炎を支配する竜と鳥が、アセルスと彼女を護る荊を瞬く間に
炎で焼き尽くした。一瞬で灰となる妖魔の君。あまりに呆気ない。

「まだじゃ!」

 零姫は当然、これで終わりなどとは思っていない。

「この城≠ノおる限り、あやつは不死身に限りなく近い。ここは奴の世界。
わらわは奴の心象風景を見ているに等しいのじゃ」

 では、どうすればいいのか。
 ――― 一歩でも遠くまで逃げるのじゃ、と零姫。
 とかげの手を引いて、駆け出した。
 ……イーリンがリリーを、そうするはずであったように、だ。

150 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 20:12:32


 アセルスを荊ごと焼き払い、第一層月天≠突破した零姫ととかげが次に
足を踏み入れるのは水星天=\――〈針の城〉の第三層にしてクーロン・マ
フィア直属の凶手集団黒死病≠フ総本山だ。

 三階建ての、ビルと呼ぶより家屋と呼んだほうがしっくりと来そうな建築物
が整然と建ち並ぶ、貧民街には似付かわしくない街並み。歪なものなど何ひと
つなく、どの建物も同じ表情をしている。暗殺集団として、凶手の個性を極限
まで殺す黒死病≠フ在り方を忠実に再現した光景。水星天≠ヘ〈針の城〉
の秩序の象徴であり、その秩序の執行者こそが黒死病≠ネのである。

「おかしい」

 零姫は呻くように言った。
 視界に広がる第二層の街並み。それは零姫がリリーとして、幾度となく霊視
し、時には縮地で訪れたこともある光景だった。
〈針の城〉として一切の不自然がない。人気がまったく感じられないことすら
凶手集団の根城ということを鑑みると、違和感を覚えるには値しない。
 ……しかし、だからこそおかしいのだ。
 妖魔アセルスによって、月天≠ヘあそこまで禍々しく闇に汚染されていた
というのに、どうして水星天≠ヘもとの〈針の城〉のまままなのか。
 アセルスによるファシナトゥール化が進んでいるのならば、ここも月天
と同様に変異が始まっていてもおかしくはないのに。
 アセルスの魔力は月天≠ワでしか及んでいなかったのか。第二層以降の階
層はこれから侵されていくのか。
 ……いや、それは考えにくい。
 ゾズマは確かに「〈針の城〉は完全に制圧された」と語った。完全に、と言
い切ったのだ。ならば、まったくの変異なしなど考えられない。

 とかげとともに家屋の平べったい屋根を道にして第三層へと目指しつつ、零
姫の紅の眼はせわしなく周囲を探ってアセルスの気配を探る。
 この静けさが凶兆を予告している、と零姫が確信を胸に抱いたとき―――彼
女が危惧していた変異≠ェ足下から顕現した。
 正確には、いまのいままで気付かなかっただけで、零姫が水星天≠ノ足を
踏み入れた瞬間から、変異≠ヘ始まっていた―――

 ずぼり、と零姫のはいていた草履が、足袋ごと沈む。先を急ぎすぎたあまり、
屋根を踏み抜いてしまったのだ。わらわはそんなに重くないぞ、と視線でとか
げに弁明しつつ、変な疑惑を与えてくれた脆い屋根に無言で抗議する。

「……ん、これは」

 零姫はすぐに気付いた。この家屋の屋根だけ他とは違う。外見はまったく同
じなのに材質が違う。奇妙なまでに柔らかくて弾力性がある。心なしか香ばし
い匂いまでしていた。まるでイーストで発酵させたブリヌイの生地ような……。
 いや、これは。

「ブリヌイそのものじゃ!」

151 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 20:12:46


 お菓子の家だ。この家屋はパンケーキでできている。
 零姫は、連なる他の建物に慌てて視線を向けた。見た目に不自然なところは
ないが、よくよく観察してみるとそれぞれ材質が異なる。明らかにチョコレー
トでできている建物まであった。
 零姫は奇怪な事実に愕然とする。まさか、第二層のすべての建物がお菓子で
きているのか。黒死病≠ェ甘党だなんていう話は、今日まで聞いたことがな
い。ということは、これは―――

 はっと我に返る。今までまったく人の気配というものを感じなかった水星
天=Bしかし、零姫は気付いた。向かいの家の三階の窓から、自分たちを凝視
する人影があることを。この階層に棲まう殺し屋のひとりだ。
 視線は見る間に増えてゆく。向かいの家だけでも数十。他の家屋からも、黒
いインパネスコートにボーラーハットという出で立ちの凶手どもが続々と姿を
現してくる。どれもゾズマの忠実な下僕であるはずだが……。

 凶手はみな揃って生気が失せていた。闇が濃すぎて表情を窺えない。零姫は
瞳に魔力を集中させて、視力を強化しようと試みた。―――その瞬間。

 ぱん、と凶手のひとりが破裂した。服だけを残し、黒い霧となって霧散した。

「なっ……!」

 零姫が戸惑ううちにも、凶手たちは連鎖するように弾けていく。糸が切れた
人形のように、主を失った衣服が地面に崩れ落ちた。
黒死病≠ヘいったいどれほどの規模を持つ組織なのか。構成員は何人いるの
か。零姫はまったく知らないが、恐らく、水星天≠ノ残っていた凶手は全滅
したに違いない。ひとり残らず弾けて、黒い霧となった。

 しかし、零姫が砂糖菓子の魔宮で本当の恐怖を味わうのはこれからだった。

 零姫はすぐに認識を改める。自分が黒い霧だと見なしたもの。その正体を、
強化した視力がはっきりと捉えてしまった。

 それは親指ほどの大きさの、コオロギによく似た昆虫だった。
 漆黒の躰に人を狂わす紋様を刻み、夜に鈍く輝く赤い瞳を持つ魔棲蟲。
 ファシナトゥールでも辺境に棲息しており、針の城住まいだった零姫にはあ
まり馴染みがない蟲だ。―――それが、一瞬にして十万も百万も発生した。
黒死病≠フ凶手を苗床にして、無限に生まれ落ちた。

 零姫は顔を引きつらせて後ずさった。いくら世慣れた姫君といっても、この
光景には生理的嫌悪を掻き立てられる。あまりに悪趣味で、あまりにおぞまし
すぎる。まさかアセルスとの戦いで、こんなものを見せつけられるとは。
 妖魔公の美意識からかけ離れた情景だ。

 一千万の羽音が空気を震わす。鼓膜を破りかねないほどの騒々しさ。魔棲蟲
の大軍は水星天≠構成するお菓子の家に突撃し、貪欲に家々を食い散らか
し始めた。一件につき何千匹という魔棲蟲が殺到し、一分とかからずに家を消
滅させてしまう。
 一匹一匹は非力といえど、あれほどの数が相手ではさばきようがない。魔棲
蟲の食欲の対象が自分たちに向けられる前に―――

「わらわは逃げる!」

 零姫は幻術で道徳天尊の白鹿を召喚すると、跨る―――というよりしがみつ
くようにして騎乗し、颯爽と逃げ去った。

152 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/07(日) 20:59:51
>>

 ……って、おい。
 マジ逃げやがったぞ姫さん!
 てめえ一蓮托生の俺を置いていく気か!
 
 とかなんとかわめいて追っかけても構わねえんだが、とりあえずパス。
 状況的には悪くねえし、露払いを引き受けてやっても良いだろう。
 ……いや違ぇ。逃げる仲間の後ろで”露払い”は確実におかしいな、くそ。
 
 
「は! あの女、俺が『何なのか』を忘れてんじゃねえのか?」

 つかさっきの俺の啖呵も聞いてねえようだったしな、舐められたもんだ。
 ――迫り来る虫、虫、虫。これぞ文字通り雲霞の如く、ってやつだ。御馳走食ってご機嫌です
僕たち、あとはデザートに俺と姫さんを、ってか?
 馬ぁ鹿。餌はどっちだ雑魚共が。身の程を知りやがれ。
 
「何の因果か俺は『とかげ』だ。そしててめえらはどんな姿形してようがただの『虫』だ。
なら――食ってやるのが礼儀ってもんだよなあ?」

 もちろん、口でばくばく食ってやる気はない。さすがにそんなグロは後免被る。
 だが俺の眼には見えている。奴らは虫の形をしたただの魔力体だ。
 そして余計な属性を持っちまったのが運の尽き、ってやつだ。
 
 剣は左手に持ち替え、”とかげの刺青”を右手に移し、掲げる。
 そら――餌の皆さんがやってきた。こいつらは一匹残らず「とかげの餌」だ!
 消えやがれ!
 片っ端から俺に食われちまえよ!
 何千だろうが何万だろうが、俺の力になるだけだ!
 
 
 
 
「――おおい! ”貸し1”だかんな姫さん!」
 
 聞こえてんのかどうか知らねえ……と言いたいとこだが聞こえてねえと俺が困る。
 ともあれ、一匹残らず魔力に還元して「食い尽くした」俺は、刺青を胸元に戻して成果を主張する。
 大声で。
 つかどこまで行ったんだあの姫さん。「イーリン」を置いてってどうすんだ全く。
 
 まあいい、行きますか。

153 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 22:42:23

「ほう、やるのう」

 滅多に他人を褒めることのない零姫が、心の底から感嘆した。あれほどまで
に大量の蟲を、すべてもとの不定形の魔力へ還してしまうとは。
魔≠ニいうカタチを混乱させる彼の能力と、昆虫の天敵である爬虫類の特性
が合わさって初めて可能となる芸当だ。

 白鹿から恐る恐る降り立った零姫は、周囲には虫一匹残っておらず、ただお
菓子の家だけが廃墟の如く食い散らかされていることを確認すると、ふぅ、と
安堵の吐息を漏らした。

「しかし―――」

 解せぬな、と零姫は呟く。
 思い出すだけでも身の毛がよだつ、魔棲蟲の大軍。あれはどう考えてもアセ
ルスの嗜好の産物ではない。ファシナトゥール化が進むこの〈針の城〉が、ア
セルスの心象風景の具現であるならば、彼女が忌み嫌うような概念がカタチと
なるなどあり得ないはずなのに。

 この城≠ヘ思った以上に複雑な構造をしているのかもしれぬのう。

 零姫は、慌てて逃げたために乱れた裾を整えると、蟲の大軍など見もしなか
ったと言いたげな表情で、遠く離れたとかげに話しかける。

「なにをぼさっとしておるのじゃ。敵を全滅させたいまが好機じゃ。さっさと
次の階層へ―――」

 行くぞ、と言いかけて唇を止めた。

 とかげの頭上に浮かぶ、深紅の満月に影がさす。零姫は初め、高層ビルが月
を隠したのかと思った。が、すぐにそんなことはあり得ないと考え直す。
 ここは〈針の城〉の第二層。高層建築物が密集する外周層とは距離が離れて
いる。こんなに間近で目視できるはずがない。
 ……なら、あの影はなんなのか。

 巨人だった。

 先程まで、どこにその巨体を隠していたのか。
 比喩でも誇張でもなく、天を衝く背丈。馬鹿馬鹿しすぎるほどに常識外れの
巨躯。人のかたちをした塔や山と考えたほうが、まだ納得できそうなほどの大
きさに、零姫はただただ呆然と見上げるしかなかった。
 あれほどまでに巨大な生物が存在するものなのか。
 サイクロプスやタイタン、ギガントなどといった所謂巨人≠ニ称される魔
物の類が小人となってしまうほどのオーバーサイズだ。
 この巨人、零姫の深い知識で思い当たるのはでいだらぼっち≠ニいう伝説
上の妖怪だが、あれは神に限りなく近しい存在だ。零姫の幻術ですら召喚は叶
わない。いくらアセルスといえども、顕現させることは不可能なはずだ。
 なら目の前のこれはなんなのか。

 巨人は衣服をまとっておらず、顔ものっぺらぼうのように表情がなく、ただ
眼らしき部分に亀裂が入っているだけだった。躰も起伏に乏しく、ただひとの
カタチをとっているだけのように思える。まるで出来の悪い人形だ。
 ただ大きさだけが狂気の域に達している。巨人が十歩も歩けば、〈針の城〉
の外へと出てしまうのではないだろうか。

 先の蟲の大軍といい、この巨人といい。あまりにも常軌を逸した展開の連続
に、零姫は驚きを通り越して疲れを覚えかけていた。

154 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 22:42:38


 巨人はゆっくりとした動作で手を振りあげた。

 まずい―――。

 零姫は白鹿に飛び乗ると、風の速さでとかげへと接近し、そのまま速度を緩
めず、体当たりするように彼を騎乗へと抱き上げた。
 直後に、巨人は腕を振り下ろす。お菓子の家が潰れるだけに留まらず、その
衝撃は地震となって周囲の家屋まで倒壊させた。
 零姫ととかげが乗る白鹿は軽快な足取りで宙を跳び、被害を免れたものの―
――すぐに巨人は躰を前傾にして、鹿を掴もうと逆の手を繰り出した。

 魔力で編まれたものといえども、幻獣には己の意思がある。逃げ切れないと
覚った白鹿は、零姫ととかげを振り落とすと、踵を還して巨人に突っ込んだ。
 雄々しくも麗しい大角を巨人の掌に突き立てた次の瞬間、自らを構築する魔
力を暴走させ、白鹿は自爆。見事に巨人の右手を消し飛ばしてみせた。

 ……が、巨人は痛がるそぶりも見せずに、左手一本でお菓子の家の残骸をす
くい取り、器用にこねくり回して、パテのように右手を補修しはじめた。

「こ、こいつは手に負えぬぞ」

 逃げるしかない。先の蟲の大軍のときと同じ結論に達した零姫は――今度は
とかげと一緒に――全速力で駆け出した。

 とかげはただでさえ身体能力が高い上に、魔石を呑み込んでさらにブースト
されている。脚力は相当なものだった。
 対する零姫は、正直に言って運動が苦手だ。足代わりの白鹿を早々に失って
しまったことを悔やみつつ、韋駄天走りの歩法でとかげの背中を追う。

 巨人は動きこそ緩慢だが、サイズがサイズだけに、僅かな挙動だけで距離を
詰められてしまう。一歩前に進むだけで水星天≠フ街並みは無惨に引き裂か
れ、腕を振るえば区画が消し飛んだ。

「ええい、埒が明かぬ!」

 ファシナトゥール化した〈針の城〉は、距離感が大きく狂ってしまっている
ため、どこまで走れば次の階層へとゆけるのか皆目見当が付かない。
 ……まぁ、そもそもの話として、次の階層に逃げ込んだところで巨人に追い
かけ回されている現状ではどうにもならないのかもしれないが。

 いい加減、零姫の息も切れ始めたとき―――他のお菓子でできた建物とは明
らかにおもむきの異なる、木造の建築物が視界に飛び込んできた。
 横に長い一階建ての平屋。基礎のコンクリートは建物の五倍も近くも突き出
して、まるで舞台のようになっている。あの独特の外観は、まさか―――

「……駅舎じゃと?」

 間違いない。クーロンには存在しないはずの鉄道だ。建物に並ぶようにして、
漆黒の汽車までもが停まっている。目を凝らせば、丁寧に線路まで敷かれてい
ることが分かる。

 如何にも怪しく不自然な建物だったが、進路の先にわざとらしく建っている
のだ。ここで左や右に曲がれば、巨人が振り下ろす拳の餌食になってしまう。
しかたがなしに零姫は得体の知れない駅舎へと駆けこんだ。

 駅のホームには少女がひとり、ハンドベルをからんからんと鳴らしながら突
っ立っている。……その少女の正体を知って、零姫はさらに混乱した。
 チーパオ・ドレスの上から車掌用の上衣を羽織り、制帽を頭に乗せたあの娘
は―――

155 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 22:42:50


「妖魔鉄道快速便は、間もなく『水星天・翠玉姫駅』を発車するアルー。駆け
込み乗車は遠慮するよろしねー」

 シャオジエ、と。……そう、とかげに呼ばれていた少女。
 つい十数分前に、第一層月天≠ナ零姫たちと対峙したクーロン娘。
 ―――彼女が車掌を気取って、ホームに立っていた。

「アセルス、おまえどういうつもりじゃ!」

 ホームによじ登る零姫を見て、シャオジエは「あいやー」とわざとらしく驚
いてみせる。

「お客さん駄目アルよー。ちゃんと改札口通るネ。無賃乗車許さないヨ」

「戯けたことを抜かすな!」

 普段の清楚さを忘れてシャオジエの胸ぐらを掴もうとした零姫だったが、直
後に背後からの地響きを感じて、視線をクーロン娘から漆黒の汽車へと移した。

「あれは張りぼてか! ブリキの玩具か!」

「莫迦言っちゃいけないアルよ。ばりばり現役の魔列車ね。地獄まで超特急で
お送りするネ」

「ならばさっさと出せい。このままじゃおまえも汽車ごと潰されるぞ」

 零姫の背後を見やって、シャオジエは再び「あいやー」と呑気に驚く。

「あれは別の階層の姫ネ。どうして水星天≠ノいるアルか。翠玉姫の顕現が
弱まったせいで、他層からの侵食が始まったとか? ……どっちにしろおまえ
等、迷惑なことしてくれたアルね。あいつ、他の寵姫と仲悪かったアル。きっ
とわたしのことも嬉々として潰してくれるネ。―――って、おーい」

 零姫も――ついでにとかげも――シャオジエの言葉などまったく耳を貸さず、
さっさと客車に乗り込んでしまっていた。

「……仕方ないアルねー。あとでお金はしっかりともらうアルよ」

 シャオジエは溜息を吐くと、手旗を振って汽車に合図した。手旗信号に反応
して汽笛が吹き鳴らされる。ゆっくりと動き始める車輪と車体。車内で零姫は
「むぅ」と呻いた。優雅にボックスタイプの座席に腰かけているものの、内心
は巨人に追いつかれやしないかとかなり焦っている。
 しかし、汽車はスムーズに加速し、あっという間に巨人を引き離した。巨人
は見る間に彼方の風景へと追いやられてゆく。

「……取りあえず、一難は去ったのう」

 ―――が、次の一難が目前に迫っているのもまた事実。
 巨人から逃げ延びたいという一心で乗り込んでしまったが、危険の度合いで
はこの汽車も十二分に危うい。自ら棺桶に入りこんでしまったようなものだ。
 車掌を気取っていたあのクーロン娘―――シャオジエは、先のようにアセル
スの擬態なのか、それとも本当に寵姫なのか。それも分からない。
 そもそもこの汽車はどこに向かっているのか。零姫たちを降ろす気はあるの
か。なにもかもが分からない。

「とにかく、じゃ」

 対面する席に座るとかげに、ごほんと咳払いしてから話しかける。

「弁当でも食うかのう」

156 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/07(日) 23:37:09
>>

「弁当ってお前……当たり前だが俺はなんも用意してねえぞ。駅弁売りでも来るってのか?」
 
 ボックス席、姫さんの向かい。
 足組んで頬杖突いて(スカート穿いてるわけじゃねえんだから何の問題もない)、しかめっ面
してみせて、ぼやく。
 実際、イーリンは飯粒一つオレンジ一つたりとも用意せずに”火焔天”へ特攻してきた
ようだしな。まあ……それこそ、当たり前の話なんだろうが。

 んなことは、まあいい。
 それよりもなんなんだこのデタラメな展開は。まさかこんなとこでぶらり途中下車の旅、
なんて羽目になるとはこれっぽっちも予想してねえぞ。しかもあの女が車掌だとか、ぞっと
しねえ。何やら色々事情はあるようだが全くどんな呉越同舟だよおい。

 ……今更、俺らの因果についてあれこれ突っ込んでも意味ねえのかも知れねえけど。
 大体俺にしてみればそもそもあの時、あの娘に「入って」しまったのがこの因果の始まり、
って奴なんだしな。それで何年も封印された挙げ句、訳も分からねえままイーリンに入れられ……

「……あー。訳が分からねえのは始めっからか」

 思わず口に出した。ので姫さんが訝しんでくれた。
 たりめーだ。
 だが分からねえもんは分からねえ。
 ……暇つぶしでもしてみるか。気分転換じゃねえけど。
 
「なあ、姫さんよ」

 頬杖突くのをやめて、向き直って呼びかける。
 ま、それなりに真面目な話だからな。
 
「姫さん……っつーかリリーは、確か人間だったはずだよな? 少なくともイーリンはそう思ってたし」

 観念的な意味でならともかく、リリーは運命のなんたらだろうが人間だったはずだ。
 文字通りの人外存在だとは思っちゃいなかった。イーリンは元より、”中”で見ていた俺も
確かにリリーはただのませたガキだとしか思ってなかった。

「だが姫さん、今の俺から見ればあんたは明らかに妖魔だ。まああんだけの力が使えるんなら
尚更って奴だけどな。……こいつはどういうことだ。そもそもあの女、なんであんたを狙って
俺をけしかけた? まさかあんたも俺とおんなじような因縁でも持ってるんじゃねえだr


――うぇ」


 真面目な話してたのに自分で台無しにしちまった俺。
 だが許せ。
 「マジで駅弁売りに来やがった」んだから許せ。
 つーか売り子あの女じゃねえかよおい! 空気読め馬鹿!
 大体てめえの売る弁当なんぞぞっとしねえよ!

157 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/09(火) 00:15:16


 売りに来たのなら、買わずに無視するわけにもいくまい。零姫は遠慮無く、
弁当の売り子――要するにシャオジエなのだが――から、ファシナトゥール
名物妖魔弁当≠二つと、土瓶入りの煎茶を二人前注文した。
「まいどーアル」と調子のいい声が返ってくる。ついでに「あとで切符代も頂
くアルからねー」という余計な一言も。

「わらわのおごりじゃ、喰え」

 言いつつ、弁当箱の包装紙を開く。零姫もとかげも、人間としての食餌は必
要としない。だから、弁当など頼まずに黙って座っていればいいのだが、風流
と礼儀作法を重んじる零姫は、例えそこが魔性の坩堝であろとも鉄道に乗って
しまった以上は駅弁を食べなければならないと頑なに信じていた。

 沈黙がしばらく続く。零姫は背筋を伸ばし、無言で箸を動かした。
 たっぷりと時間をかけて弁当箱を空にすると、熱いお茶で一息をつく。車窓
から覗く風景が水星天≠フお菓子の街並みから二転も三転もした頃、ようや
く零姫は「さて」と止まっていた話題を再開した。

「おまえの言う通り、いまのわらわは確かに妖魔じゃ。そしてやはりおまえの
言う通り、リリーは人間じゃった。同じ肉体を持ちながら、なぜに不死者と定
命者という相反するふたつの属性を持つのか―――」

 零姫は自嘲じみた笑みを口元に浮かべた。

「それはわらわの魂が、妖魔として、オルロワージュめの寵姫として汚染され
てしまっているからじゃよ」

 魂の穢れは肉体にまで伝播する。零姫がいくら純粋な人間に生まれ変わろう
とも、覚醒のときを迎えれば自ずと躰も変容する。零姫が零姫であることと妖
魔であることは同類項なのだ。

「確かにわらわは無限転生者になることでオルロワージュめの血の縛りから解
放されたのじゃが……躰は捨てられても、魂の汚染までは洗いきれなんだ。こ
の躰はいまや自由の身じゃが、わらわの魂は未だオルロワージュめの血に縛ら
れたままなのじゃよ……」

 リリーがゾズマの結界の存在に気付き、自分は絶対に〈針の城〉から出られ
ないのだと諦念を抱いたのも、零姫覚醒の時期が近付いていたからだ。肉体の
変容―――つまり妖魔化が始まったことで、彼女は結界から出られなくなった。
 リリーがイーリンを連れ出すことに拘泥せず、ひとりで外≠目指す勇気
があったなら、少なくとも〈針の城〉を脱出することはできただろう。
 ……が、その場合はアセルスの魔手にほぼ確実に捕らわれてしまう。リリー
という少女の自由と幸福は、始めから存在しなかったのだ。

「あれは強い娘であった」

 湯飲みの水面に視線を落として零姫は言う。

「自分の運命を知った瞬間、すべての希望をイーリンに託しおったよ。……あ
の娘は本当に、イーリンが好きじゃったのじゃ」

 異なる人格を客観視するかの如き口振りだが、あくまでリリーとは「目覚め
る前の零姫」であり、とかげとイーリンの関係とはまったく違う。リリーの感
情も記憶も、すべては零姫のものだ。―――だからこそ、零姫は他人事のよう
に語らずにはいられない。我がこととして思い返すには、あまりに辛い喪失。
気持ちを落ち着けるまでもう少し時間が欲しかった。

 音をたてずにお茶を飲むと、零姫は不機嫌そうに「わらわのことなぞどうで
もいいのじゃ」と言い捨てた。

「それよりも問題はおまえじゃ」

 不躾に指をさす。

「どうしてアセルスに捕まるような失態を犯したのじゃ。わらわは前の生で、
針の城に封印されておるおまえを見たが……なぜそうなったのか、その経緯ま
では知らぬ」

 間抜けにも程があろう、と零姫は溜息を吐いた。汽車は二人を乗せたまま、
次なる層へと向かっていく。止まる気配はない。まだまだ雑談の時間はたっぷ
りとありそうだ。
 イーリンのためという利害の一致によって手を組んだ二人だが、ここで「イ
ーリンとリリー」ではなく、「とかげと零姫」という関係を作ってみるのも悪
くはないな―――と、無限転生の少女は列車に揺らされながら思ったのだった。

158 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/09(火) 16:40:25
>>

 「妖魔弁当」て……俺ぁ頭痛くなってきたぞ。死んでるのに。
 つーか本当に食えんのかよこれ……と思ったが、少なくとも姫さんは食ってるしなあ。
 まあ今更毒を食らって死ねるタマでもねえけどな……
 
 と思いつつ食った。
 食ったら予想以上に美味かった。
 美味かったのが尚更嫌すぎたが――――
 
 
「……あー、俺か? つーか見られてたのか、あんたに。こうなるとばつが悪いな……」

 爪楊枝を使いつつ(ご丁寧に箸袋の中に入ってた)、一服していたら今度は俺が面倒なことを
追求された。ので、とりあえず視線逸らして窓の外を眺める。
 ……眺めたかったが、当然外は暗く、窓はうっすらと鏡の役割を果たしてくれやがる。
 おかげで「イーリンのツラした」俺が、しかめっ面しているのが視界に飛び込んできて
余計気分が悪くなった。
 しゃーねーから向き直る。くそ。
 
「まあ……俺としちゃ『運が悪かった』と済ませたいところなんだがな。好き好んで、こんな
目に合ってるわけじゃねえよ。……丁度俺が『体』を失くしたときに、都合の良いことに
病気で死んだご令嬢の葬式があってな。そりゃ動き回るのには不向きだが、こういう奴は
イメージが固まってる分変装もしやすい。繋ぎには悪くないかと思ってそいつを借りたんだが」

 ご令嬢、のあたりを少し強調して、恥ずかしい告白を始める。
 まあここまで言えば、たぶん姫さんは察しが付くだろうとは思うんだが。
 
「ああそうだ、よりにもよってそいつは――あの女の寵姫候補だったんだよ」

 そいつを俺が奪ってしまった……と言われたって、俺はそんなこと分かるわけがねえ。
 だがそれが全て。見事にあの女の怒りを買っちまった、ってわけだ。
 
「逃げるには逃げたんだけどな。つってもまだ『体に慣れてない』上に元々ろくに動いてもない
ご令嬢の体だ。速攻、追いつかれてこのザマ、ってわけだ。頂いたばっかのその体は、ごく
あっさりとあの女の剣にかかって……」

 かかって……ああ?
 ちょっと待て、あの体は奴に斬られて……それでどうなった?
 いやもちろん、俺自身はそのまま奴に捕まったが、それは今は問題じゃねえ。
 “あの娘はどうなった?”
 俺は何とはなしに、あの後埋葬されなおしたか程度に思ってたが……まさか、いや、
あの「シャオジエ」の件を考えれば――――

「まさか、あの娘も喰われて『ここにいる』、ってんじゃねえだろうな、おい?」

 冗談じゃねえ。悪趣味にも程がある。
 死んだ人間を弔うどころか、てめえのうちに取り込んで閉じこめちまおうなんざ……
 
 
「……やっぱイーリンを渡すわけにはいかねえな、こいつは。何が永遠だ、気が知れねえ。
死ぬことも出来ねえ俺にしてみりゃそんなもんは」

 言いかけて、はたと気が付く。
 ……姫さんも似たようなもんだったな。クソ、言い過ぎたか。
 尚更ばつが悪いぜ。

159 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/09(火) 23:16:10


「ふむ」と零姫は重々しく頷いた。つまり、イーリンの躰にとかげを封印した
のは、結界を破壊するという目的の他に、復讐も含まれていたということか。
 ……ま、そんなところじゃろうな、と零姫は胸裏で嘆息した。あの色狂いの
妖魔が本気になるのは、いつだって女絡みのときだけだ。
 とかげからすればいい迷惑に違いない。そのご令嬢≠ニやらの若き死は、
とかげの憑依と一切関係がないものを。―――まぁ、そんな理屈をあの女にぶ
つけたところで聞く耳などまったく持とうとしないだろうが。

 零姫にも、だんだんと見えてきたことがある。
 まずは、この〈針の城〉について。リージョン・クーロンからかけ離れた風
景。異界の迷宮と化してしまった旧妖魔租界だが、アセルスの心象風景の具現
と断言してしまっていいだろう。桁違いに巨大な固有結界だ。
 とかげの想像通り、妖魔公は自分の内側に寵姫を何人も飼っている。自己と
いう器を箱庭にして、魂の補完を目指したのだ。だから、ノイズのように複数
の異なる心象風景が入り乱れる。あのお菓子の家や魔棲蟲、無貌の巨人などは
すべて、アセルスが取り込んだ寵姫の心象風景だろう。

「うーむ、まずいのう」

 もしも零姫の読みが的中しているのならば、二人はいま現在、アセルスの
世界≠ノいることになる。〈針の城〉が完全にアセルスに取り込まれる前に脱
出しなければ、永遠の時間をこの閉塞した闇で過ごすことになってしまう。

 ……とりあえずは、この汽車がどこに向かっているのか。あのクーロン娘は
なにを考えているのか。そこらへんから片づけていきたいところだが。

 その前にひとつ、とかげが気になることを口にした。

「死ぬこともできない―――か」

 ……そうか。この男は、死にたいのか。

 短い生を幾百と繰り返した零姫だが、自分以外の転生無限者と出会ったのは
初めてである。無限の死と生を約束された者は、どのような夢を持ち、なにに
苦しみ、どうやって生きようとしているのか―――少なからず興味があったの
だが、とかげのその一言で、零姫は己の感情に蓋をしめてしまった。

 零姫は人間を愛している。
 零姫は人間として生き、人間として死ぬことを望んでいる。
 零姫は生きたかった。人間としての生を満喫したかった。
 だから―――自己嫌悪に陥ることはあっても、後悔だけは絶対にしない。
 どんなに犠牲の屍を積み重ねようとも、自分は生きてみせる。
 その信念に基づいて、零姫はさすらい続けてきた。
 死を願ったことなど、一度もない。

 とかげにはとかげの事情がある。その程度のことは零姫にだって分かる。
 しかし叶うことならば、ファシナトゥールで享楽に耽る妖魔連中のように生
に飽いたりせず、生きることの喜びを知って欲しかった。

「死ぬために生きるというのでは、あまりに悲しかろう」

 言ってしまってから、零姫は後悔した。
 つい説教臭くなってしまうのは彼女の悪い癖だ。彼なりの事情があると分か
っているのなら、黙って聞き過ごすべきだったのに。

 ごほん、と零姫はわざとらしく咳をした。こうなったら最後まで責任を持っ
て言うしかない。

「わらわにしろおまえにしろ、いつかは必ず終わりが来る。そう考えたことは
ないのか。無限や永遠などというものが本当にあると信じておるのか」

 あの愚かで幼稚な妖魔公は信じている。盲信の域に達している。
 逆に、零姫はそういった類の寝言は一切信じていなかった。永遠などあるわ
けがない。自分もいつかは必ず果てる。だから、せめてその日までは―――

160 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/10(水) 00:27:13
>>

 姫さんも、俺と同じように何度も何度も「生き続けて」いるのだと、さっき聞かされた。
 ならばきっと、その心中も俺と同じようなもんだろう……そう、思ってたんだが。
 
「ふん……死ぬために生きるのは悲しい、ねえ」

 そんな風に言うからには、姫さんはそうは思っちゃいない、ってわけだろう。
 どこの誰として生まれてきても、必ず“零姫”としての自分が現れる、らしい。魂がそういう
形になってしまったんだと、さっき言ってたはずだ。
 それでもなお、この姫さんは「生きるために生き続けている」のだと……そういうことなのか。
 
「まあ、そりゃあな。最悪でも『世界の終わり』とかでも来ちまった日には、俺だってそのまま
死ねそうな気はする……っつーか、せめてそれぐらいは願ってるけどな。俺一人だけが生き
続けている世界、だなんてそれこそ恐ろしい話だ」

 あの性悪の“神様”のやることだ、それさえもあり得そうな気がしてしまうのが嫌だが。
 
「だが、そりゃいつだよ? 見えもしねえ、あるかどうかも分からねえ『ゴール』目指して
もう何百年だ。いい加減俺だって生き飽きるぜ、何より……なあ、姫さん」

 言いつつ、一瞬だけ、もう一度窓を見る。
 ……俺が見守り続け、もう死んでしまった、あいつの顔を見て。
 
「自分だけが死なず、周りの奴らが望む望まざるに関わらず『旅立って』いくのは……辛くねえのか?」

161 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/10(水) 23:26:05


 辛い。
 当然辛い。
 気が狂いかねないほどに辛い。
 いままで、自分のせいで何千何万という命が潰えていったと思っているのか。
 死んだものの中には血の繋がった家族がいた。心を許した友がいた。忠節を
尽くす家臣がいた。零姫は長い人生で、多くの愛すべき人と出会い、そのほと
んどと別れを告げた。零姫の生とは、他人の死で成り立っていると言っても過
言ではない。この業深き生を辛くないなどと言えようものか。
 
 しかし、そういった痛みに喘いでもなお、生への渇望が勝っているのもまた
事実。妖魔の姫君としての矜恃がそうさせるのだろうか。零姫は、自分が生き
て生きて生き続けることは使命だとすら考えていた。

 覚悟はとっくに決まっている。オルロワージュを逆吸血したあの夜、零姫は
自由とともに孤独を得たのだ。

 ―――が、その考えをとかげにまで押しつけるのは無粋というもの。

 孤独が辛いと漏らすとかげの思いは、零姫も痛いほどに理解できる。
 ただ少しだけとかげのほうが優しくて、その分だけ打たれ弱くて、だから死
を望むようになってしまったという―――それだけの話だ。
 零姫は自分が冷酷な女であることを重々承知していた。己の自由のために、
愛する男を見捨てた女だ。……優しさなど、とうに枯れ果てている。

 それに―――
 憎しみに駆られるままに玉砕しようとした零姫に、イーリンのために生きろ
と言ったのはとかげではないか。どんな主義主張を持っていようとも、あの瞬
間、死のうとしたのは零姫であり、生きようとしたのはとかげである。その事
実だけは、決して揺らがない。

「まあ―――」

 零姫は慎重に言葉を選んだ。彼の誇り高き優しさを傷付けないように。

「俺一人だけが生き続けている世界≠ネどという戯けた終末が、未来永劫訪
れないことだけはこの零姫が約束しよう」

 零姫は真顔で言った。その表情には、一分たりとも戯けた色はない。

「安心せい。わらわという無限転生者がいる限り、おまえがひとりぼっちにな
ることだけは絶対にないわ」

 気休めにすらならない言葉だが、零姫とて別にとかげを慰めるために言った
のではない。事実を口にしたまでだ。

 死を望む転生無限者と生に執着する転生無限者。対照的な二人が客車で揺ら
れながら向き合っているわけだが、少なくともいまのところは互いに「生きて
ここから出る」という共通の目的を持っている。
 ならばそろそろ、休憩の時間は終わらせて行動に移るとしようか。

「大馬鹿のアセルスめは、この心象世界の弱点にまるっきり気付いておらんよ
うじゃのう。大方、わらわたちを閉じ込めたことで特異絶頂になっておるのじ
ゃろう。相も変わらずおめでたい奴よ」

 反撃を始めるぞ。
 ―――そう言って、零姫はボックス席を立った。

162 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/11(木) 22:02:19
>>

 別に。
 別に、今更聖人君子を気取る気なんぞはさらさらねえ。
 “ただ一人を除いて”誰にも望まれなかった生が、その“ただ一人”の思いと、くそったれな
運命のイタズラ(運命なんて奴は神様が握ってるとか、よくある話だ)、その二つのためだけに
生かされ続ける羽目になった、ってだけの話だ。
 だから俺は死を渇望する。
 俺の生を願ってくれたあいつの所には行けず。
 俺の生を呪いやがった奴の尻尾も掴めず。
 つまるところ、俺の生はそれそのものが悲しい……なんてな、そんな自己憐憫はそれこそ
くそったれ、ってもんだが。……ただ、望んでも死ねない俺の周りに、望まずに死んでいく奴ら
が居た、というだけ。
 それでも生き続けていられるほど、俺は強くない……それだけだ。

 向こうとこっちじゃ、大元からして違うのかも知れねえ。境遇が違えば考え方も変わる。
 だから姫さんを傲慢と笑うのは簡単だ。だが俺にはむしろ……少しばかり、姫さんが眩しい。
 まったく……
 
「ひとりじゃなくふたり、が正解ってか? ったく、俺なんかと居たっていいことなんてありゃしねえぜ?」

 照れ隠し半分。
 だから「気持ちだけは受けとっておく」なんて言葉だって、絶対言ってやらねえ。
 どうせ望んでもいねえだろうし。

 その代わりに、もういい加減ぬるくなってきた茶をぐいっと一気飲み。
 しっかし渋いなこの茶は。おかげで気が引き締まるぜ。
 そして飲んだついでに勢いつけて、剣を片手に同じく立ち上がる。
 
「カウンターは懐に飛び込んでから、ってとこかこりゃ? ま、俺は好きなようにやらせて貰うが。
じゃ、とりあえず……機関室の見学とでも洒落込むか、良い機会だしな」

163 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/13(土) 21:35:17


「乗車券を確認するアルー」

 呑気な声を出しつつ、車掌役のシャオジエが前の車両から入ってきた。改札
鋏をぱちぱちと鳴らして零姫のほうに歩み寄る。

「ただ乗りは許さないアルよー」

 大した気楽さ加減だ。その脳天気さはアセルスに勝るとも劣らない。
 初めはこのクーロン娘がなにを企み、どんな罠に陥れようとしているのか、
零姫にはまったく見えなかった。しかし今なら断言できる。彼女はなにも考え
ていない。勢いと思い付きだけで生きている。
 もしもシャオジエがアセルスの忠実なら下僕であるのなら、この汽車はとっ
くに零姫たちをアセルスのもとへと運んでいただろう。
 なぜ、そうしないのか。なぜいたずらに時間を遊ばせ、敵であるはずの零姫
たちに反撃の好機さえ与えてしまうのか。
 理解できない。……当然だ。なぜなら彼女は莫迦なのだから。

 そんな性分だから、アセルスともうまくやっていけるのだろう。もしかした
ら、羨ましい女なのかもしれない。寵姫としては珍しいタイプだ。

 零姫は、通せんぼするようにシャオジエの進路の先に立った。
「乗車券乗車券」と改札鋏を鳴らして急かす彼女に、「そんなものはない」と
にべもなく言い放つ。

「そんなの酷いアル! 無賃乗車絶対反対アル! というか、よくよく考える
とさっきの弁当代ももらってないアル。どっちも耳揃えていますぐ払うアル。
一億万円クレジットで許してやるアル」

 ふむ、と零姫は神妙ぶって頷いた。

「これで足りるかのう」

 袖から巾着袋を取り出して、シャオジエに渡す。
 シャオジエは零姫の気前の良さに眼を丸くして驚いた。まさかこんなにあっ
さりと支払ってくれるなんて。この娘、もしかしたらかなりいい奴なのかもし
れない、とすら思ってしまう。
 しかし、シャオジエは自分が慎重かつしたたかな女である自負していた。本
当にこんな小さな布袋に大金が入っているのかどうか、袋の口を縛る紐をほど
き、貪るようにして中味を確認する。

「……やはりおまえ、莫迦じゃのう」

 巾着の紐―――封印を切ることによって、零姫が設定した呪いがスイッチ。
 麻痺の呪文が発動して、シャオジエを行動不能に陥らせる。「しまったアル
ー!」と痺れる舌で叫ぶクーロン娘に蔑みの眼を向けつつ、零姫は幻術で編ん
だヴァナルガンドの鎖で、シャオジエをあっという間に縛り上げた。
 麻痺の呪いは破れても、神を喰らう狼さえも拘束する鎖までは断ち切れまい。
悔しそうに歯噛みする愚かな寵姫を尻目に、零姫は背後に向けて叫んだ。

「こやつと汽車との魔術的関係は絶たれた! 進路を変えるならいまじゃ!」

164 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/13(土) 22:34:26
>>

 ………………なんか、すっげえイーリンが草葉の陰で泣いてそう(もしくは呆れてそう、或いは
うなだれてそう)な気がしてきたんだが。てめえシャオジエいいのかそれで。おい。
 まあ、俺には関係のねえ話だと言えばそうなんだが……
 姫さんの手練手管、つーことにしとくか、いちおう。
 
「……ま、了解と。なら俺は予定通り機関室へ行ってくるか。スピード上げてかっ飛ばさなきゃな」

 完全に拘束されたクーロン娘――そろそろシャオジエと呼びたくなくなってきた、色んな
意味で――を尻目に、俺はひらひら手を振ってお先に失礼。
 姫さんには姫さんの仕事があるからな、ここからは。
 “依“と離れるのはあんまり好ましい事じゃねえが……まあ、何とかなるだろう。



 それはそうと、だ。
 この列車、曲がりなりにも汽車であるというなら蒸気機関で動いているわけだ。俺もそれなりに
生きている以上、そういう知識は多少は身につけている。
 ……本来なら、と但し書きを付けるべきだろうがな。こんなとこで真っ当な「汽車」が走っている
わけがねえ。ましてや姫さんはさっき「魔術的関係」と言っていた。つまりこいつは魔法の乗り物
ってわけだ。
 魔法と言うからにはその動力部も便利な代物で出来てるんだろう。俺はそう当たりを付けてみて……
 
「……ち。半分は当たった、ってとこかこりゃ?」

 機関室、駆動系の心臓部は……は、確かに真っ当な蒸気機関なんぞじゃねえ。
 何しろ――何もねえのに燃えてやがる。石炭だのコークスだのなんぞは見あたらねえ。
 ま、燃料要らずってんならそりゃなんともリーズナブルな話だが……問題は、そういうわけ
でもなかった、ということだ。
 俺の予想は外れた、そいつは“便利な代物”であるどころか……
 
 
 魂を燃やす、という“悪趣味な代物”だったからだ。

165 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/13(土) 22:34:42
>> 続き

 つまり、こいつの燃料は歴として存在している。この<針の城>の住人……それこそ、さっき
虫どもに食い尽くされた凶手みてえな奴らを、体どころかその魂まで食い尽くしてこの魔列車
とやらは走っている、というわけだ。
 耳を澄ませば、燃える音に混じって怨嗟が聞こえる。
 目を懲らせば、炎の向こうに苦痛の形相まで見えてきそうだ。
 全く、どこまでも胸糞悪い……こんなもんに俺らは乗って、あの脳天気な馬鹿と付き合って、
さらには弁当まで食ってた、なんて反吐が出るぜ。

 もっとも、俺は正義の人でも何でもねえ。この機関そのものは悪趣味極まりねえが……
別に義憤に駆られて、こいつをぶっ壊してやるなんて義理も俺にはない。
 そもそも今はこいつを走らせなきゃならねえんでな。俺がこいつを止めちゃ意味がねえんだ。
 だから、その代わりに……
 
「恨みを晴らさせてやろうじゃねえか。こいつで更に燃えちまえよ、オーバーヒート寸前までな!」

 再び“とかげの刺青”を右手に持っていく。
 そしてその口を開けるように、拳を開き……さっき食った虫共の魔力を、炉へ向けて解き放つ。
 
 ――そら、食いついた!
 そりゃあそうだろう、自分らを殺った元凶が目の前に現れたんだ、怨嗟が燃え上がらねえ
わけがねえ!
 さしずめ、飛んで火に「入らせる」夏の虫、ってわけだ! ははは!
 
 さあ、こいつで更に燃えてしまえ、そうして列車を加速させろ。
 あとは姫さんが、上手くやってくれるだろうからな。

166 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/13(土) 23:17:30
 全く、どこまでも胸糞悪い……こんなもんに俺らは乗って、あの脳天気な馬鹿と付き合って、
さらには弁当まで食ってた、なんて反吐が出るぜ。

     ↓

 全く、どこまでも胸糞悪い……こんなもんに俺らは乗って、あの脳天気な馬鹿と付き合って、
さらには弁当まで食ってた、ってわけかよ。あの馬鹿と姫さんとの漫才めいたやりとりさえ、
こうなればいっそ薄ら寒い……反吐が出そうだ。

訂正。まあ大勢に影響ねえことだけどな。

167 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/14(日) 19:52:30
>>165を完全に書き直し。



 つまり、こいつの燃料は歴として存在している。この<針の城>の住人……それこそ、さっき
虫どもに食い荒らされた凶手みてえな奴らを、体どころかその魂まで食い尽くしてこの魔列車
とやらは走っている、というわけだ。
 耳を澄ませば、燃える音に混じって怨嗟が聞こえる。
 目を懲らせば、炎の向こうに苦痛の形相まで見えてきそうだ。
 全く、どこまでも胸糞悪い……こんなもんに俺らは乗って、あの脳天気な馬鹿と付き合って、
さらには弁当まで食ってた、ってわけかよ。あの馬鹿と姫さんとの漫才めいたやりとりさえ、
こうなればいっそ薄ら寒い……反吐が出そうだ。

 もっとも、俺は正義の人でも何でもねえ。この機関そのものは悪趣味極まりねえが……
別に義憤に駆られて、こいつをぶっ壊してやるなんて義理も俺にはない。
 そもそも今はこいつを走らせなきゃならねえんでな。俺がこいつを止めちゃ意味がねえんだ。
 だから、その代わりに……
 
「――恨みを晴らさせてやろうじゃねえか。喜べよ」

 ”とかげの刺青”を再び右手に持っていき……その手で剣を、嘯風弄月とやらを引き抜く。
 もっとも、半ばまでで良い。全部抜く必要はない。
 
 ……この刀は明らかに霊刀・妖刀の類じゃねえ。
 だが刀はそもそもそれ自体が殺傷のための道具だ。そいつが「ただ鋭利なだけの刀」
だろうが、魔力妖力の類を持ってなかろうが、ただ“殺せる”というだけでそれは良からぬものを
引きつけやすい。
 ましてや、俺という特異存在が、磁場・霊脈の類を歪ませ霊瘴を引き起こす俺がそれを
持っていたならどうなるか?

 そら、やってきたぜ――お前らを殺した奴らが! さっきの虫どものような奴らが!
 俺とこの刀に惹かれてな!
 さあ、更に怨嗟を燃やせ! こいつらを燃やし尽くしてやれ! 俺が手助けしてやるよ!
 そうして、この列車をどこまでも加速させちまいな!
 
 あとは姫さんが、上手くやってくれるだろうからな。

168 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/14(日) 23:08:17

「よくやった、とかげ」

 シャオジエをギャレーの冷蔵庫に放りこんできた零姫は、機関室まで韋駄天
すると、すでに列車を暴走させることに成功していたとかげの頭を「よしよし」
と撫でてやった。褒めるときは、素直に褒めてやらないと。

「……しかし、もしやとは思ったが、やはり〈針の城〉の住民を贄にしておっ
たか」

 零姫が想像するに、この汽車は心象風景の産物ではない。現実に存在する、
幽世と現世を繋ぐ魔列車を丸ごと取り込んでしまったのだ。
 この列車は生きている。生きて、ひとの魂を喰らう。魔導機械というよりも
幻獣や魔物の類だ。

 零姫の心が曇る。
 なんの罪もない〈針の城〉の住民たちが、自分のせいで劫火に灼かれ、身悶
え、絶叫し、その絶望のエネルギーが魔列車の動力となっている。
 自分さえいなければ、あるいは天寿を全うできたかもしれない数千人の命。
 零姫は胸裏で詫びた。悪いのはすべてわらわじゃ、と。

「だが、わらわは退かぬ」

 自分のせいで何万人死のうとも。何億人の命が潰えようとも。自由を決して
諦めない。あの澱んだ瘴気で満ちた世界には決して帰らない。
 零姫は覚悟を決めると、目を見開き、汽車が進む先を見据えた。

「レールはわらわが作る」

 ぱんと合掌すると、零姫は膝を折り、機関車の床に手をつけた。
 幻術の応用として、線路を魔力で編む。いままでシャオジエがどのようにし
て進路を決めていたのかは知らないが、これからはこの魔列車が進む先に線路
が生まれて、道が開ける。元来、列車の進路とは線路の軌道に従うものだが、
この機関車は己の進路に線路が従うのだ。
魔想レール≠ニ呼ばれる、想念で作られる線路だ。

 駅は終点まで必要ない。目指すはひたすらに外=Bこの〈針の城〉の最果
てにあるはずの、クーロン港だ。

169 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/14(日) 23:09:15


 その階層はもはや、〈針の城〉としてのカタチを完全に失っていた。

 第五層火星天=B司法の監視が及ばないという特権を利用して、芥子や大
麻草などの他に、魔棲の妖花まで大量に栽培していた〈針の城〉最大規模の田
園都市。精製工場がひしめき、ビルの庭という庭、屋上という屋上に緑を植え
ていた土星天≠ヘ、毎日何トンもの麻薬をクーロン・ストリートに出荷し、
市場の金をさらっていった。第六層の重工場区画とあわせて、ここは〈針の城〉
の生産拠点であり、クーロン・マフィアの資金源だった。

 ―――が、それもかつての話。

 アセルスによってファシナトゥール化した火星天≠ヘ違う。闇の瘴気に侵
され、現実という輪郭を失ってしまった火星天≠ヘ、もはや〈針の城〉にあ
って〈針の城〉ではない、異形の空間と化していた。

 目につくのは、花と花と花と花と―――ただひたすらに、花ばかり。
 宵闇の空を仰いで、何十万何百万――いや、幾千万かもしれない――という
花弁が、街を、世界を、夜を、支配していた。
土星天≠ェ麻薬栽培のための階層であったことを考えれば、花が咲き誇るこ
と自体はおかしくない。だが、この数は異常だ。限度を超えている。
 建ち連なっていたペンシルビルは花の苗床となってコンクリートの肌を隠し、
その重みで崩れたり、傾いたりしてしまっている始末。
 人間が居住するような隙間はない。道と呼べるような道さえも、用意されて
はいなかった。ここは、人間の足を必要としていないのだ。
 アネモネ、キンセンカ、クロッカスにサフラン、バンジー―――いまの火
星天≠ヘ狂い咲く花たちの楽園だった。

 そんな有機的な麗しの都で、忘却≠花言葉とする芥子が特別に咲き乱れ
る場所があった。ビルをいくつも潰して空き地を作り、スラムの一部とは思え
ないほどに立派な芥子畑となったそこには―――唯一の人影。
 夜しか知らないクーロンであるにも関わらず、レースの飾りがついた日傘を
優雅にさして花を愛でる彼女は、この花畑の、ひいてはファシナトゥール化し
た土星天≠フ管理者であった。
 この異形の風景は、日傘の女性の心象の具現だ。

 うなじまで伸ばした僅かに癖のある髪の色は、深みのある緑。土星天≠
埋め尽くす茎や葉と同色の、緑。あまりにも印象深い、緑。
 清潔感のあるブラウスに、タータンチェックのベストとスカートをあわせた
出で立ちは淑女然としており、立ち振る舞いの優雅さもあって、どこのご令嬢
かと思わせられるが―――口元にたたえた笑みを見れば、女性がただの淑女で
はないことは、素人でも察することができる。

 日傘の彼女は、美しい女性だった。
 容姿は紛うことなき人間のものだった。
 だが、彼女は怪物だった。
 この〈針の城〉に棲まう、他の誰よりも――もしかしたら、妖魔公と比較し
ても――恐ろしい怪物だった。
 棘がある、では済まない。恐怖が花のかたちをしたような、女性。
 彼女の笑みの凄惨さが、それをとくと物語っていた。
 
 女性はアセルスの寵姫であったが、アセルスの中に棲まう他の寵姫たちのよ
うに肉体を持たない、死した魂ではなかった。
 日傘の彼女は、生きながらにしてアセルスと同化した。彼女の肉体はいまで
も、幻想の彼方で向日葵畑に抱かれて睡っている。
 なぜ生きた肉体を持っているのに、アセルスの一部となる道を選んだのか。
いやそもそも、なぜここまで強大な力を持ちながら、他人の世界に囚われるこ
とを良しとしたのか。……それは、ここでしか為し得ない目的があったからだ。

170 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/14(日) 23:10:14


 アセルスの世界―――この〈針の城〉で言うなら、第六層土星天≠フ管理
者である白い霞の寵姫。彼女もまた、日傘の女性と同様に、生きたままアセル
スと融け合った奇特者だった。
 その寵姫は、日傘の女性に劣らず強大な力を持っている。リージョンの一つ
や二つ、容易く鎮めてしまうほどの、桁外れな力を。
 日傘の女性の目的は、そんな彼女を、自分の花の養分とすること。斃し、屈
服させ、鬱陶しい霞を払って土に還してやること。
 ―――強いものいじめ≠フためなら、日傘の女性は、他人の世界に潜り込
むことすら厭わなかった。どうせあそこ≠烽アこも、大した違いはない。
 土と水さえあれば、花はどこでも咲いてくれるのだから。
 ……まぁ、陽の光がないのだけは、面白くないけれども。

 今夜はどんな風にして虐めてやろうかしら。どんな風に虐められてしまうの
かしら。―――芥子の花を愛でながらそんな妄想に耽っていたときだった。
 妙な違和感を覚えて、ふと、足下に目をやる。

 いつの間にか、地面には鈍く錆びた鉄鋼の輝き。枕木にがっしりと支持され
た鉄道レールが、芥子の花畑を横断していた。

「これは……?」

 線路なんて。花で満ちた世界には、あまりに不似合いだ。日傘の女性は眉を
よせて訝しむ。―――が、すぐに、自分の世界が侵食されているんだというこ
とに気付いた。心象の景色がねじ曲げられている。
 いったい誰が。

 そのとき、彼方から、鼓膜を震わせる汽笛の音が響いた。
 線路が軋み、車輪が滑る。はっと日傘の女性が身構えたときにはもう遅い。
 鋼鉄の牛が、花弁の道を蹴散らし、蔦のトンネルを引き裂いて猛スピードで
突っ込んできていた。避ける暇もなかった。

 日傘の女性は、久しぶりに空を飛んだ。






「……ん、なんか轢いたかのう?」

 機関室で魔想レールの生成に勤しむ零姫は、汽車が感じた僅かな衝撃に首を
傾げた。ところ構わずにレールを敷いてしまっているため、ともすればひとを
轢きかねないと危惧していたところだ。
 ―――が、こんな狂った世界にいる類のやつを轢いたところで良心が咎める
はずもなし。零姫はすぐに忘れて、進路の調整に没頭した。

 さっきから寒気が止まらない。この階層はあまりに剣呑すぎる。一分一秒で
も疾く、突破してしまいたかった。

171 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/15(月) 01:21:47


 錐もみをしながら空を舞い、芥子のベッドに背中から落下した日傘の女性は、
しばらくそのまま、呆然と夜空を見上げていた。
 ―――服が汚れてしまったことよりも。日傘が折れてしまったことよりも。
無粋な鉄の車輪が、愛おしい花の根を引き裂いていったことが憎らしい。
 痛かったでしょう。辛かったでしょう。

「……私が」

 女性はゆっくりと立ち上がった。スカートの汚れを払って身なりを整えると、
折れた日傘を強引に閉じ、剣弁のように鋭く尖らせる。

「私がお仕置きをしてあげる」

 女の口元には、愉悦の笑み。
 あの妖怪仙人との遊びに熱中しすぎるあまり、周囲に気を配ることを忘れて
いた。いつの間にこんな活きのいい玩具を仕入れたのか。
 面白いじゃないか。面白いじゃないか。―――今夜はそれだけで、退屈を忘
れられる程度には。

 みんなで歓迎してあげましょう―――と、女性は傘を、オーケストラーの指
揮棒のように掲げてみせた。
火星天≠フ幾千万の花が、一斉に疾走する機関車を睨む。
 花から吐き出されるのは、非実体の光弾。一発一発は脆弱でも、数千万発も
放たれれば街ひとつが消し飛ぶ程度の威力にはなる。それが、八両編成の機関
車に殺到したのだ。レールに進路を支配される列車には、弾幕を縫うことはで
きない。あの醜くて歪な鋼鉄の塊は、ここで沈むのだ。



「なんじゃなんじゃなんじゃ?!」

 機関室で、零姫は驚きの声をあげる。
 突然の集中砲火。しかも、攻撃をしてくるのはこの街に狂い咲く無限の花々
だ。そのひとつひとつが、拳大の光弾を撃ち放ってくる。
 なんと苛烈な攻撃なのか。砲撃の豪雨だ。重爆撃だ。すべての車両に魔術障
壁を張って防御しているが、いつまでも耐えられるものじゃない。
 さっさとこの階層から脱出してしまわないと。
 零姫は頭を低くし、流れ弾に当たらないように気を付けながら、炉の炎をさ
らに激しく燃え上がらせた。
  
 そのとき、ギャレーでは着弾の衝撃で冷蔵庫の蓋が勢いよく開かれた。中か
ら、鎖で拘束されたシャオジエが飛び出す。

「この風景は、この弾幕は―――幻想嬌アル! 幻想嬌アル! 妖怪仙人と並
んで、寵姫の中でも一等危険な奴アル! 絶対に関わっちゃいけない怪物の中
の怪物アル! あいつは洒落にならないアル! やばすぎアル!」

 シャオジエは機関室へと走ろうとしたが、両手を縛る鎖は冷蔵庫に結わえ付
けられているため、ギャレーから出ることは叶わない。
 シャオジエはパニック状態のまま、ひとりで叫んだ。

「一巻の終わりアル! 絶対に虐められるアル! 誰か助けてー、アル!」



「―――あらあら、なんだか聞き覚えのある声が」

 囁くように独りごちるのは、緑の髪に赤い瞳を持つ火星天≠フ管理者。
 この世のすべての花の支配者。アセルスの二十六番目の寵姫幻想嬌=B

 幻想の姫君は、ふふ、と笑いをこぼす。弾幕に晒された機関車は、抵抗も虚
しく速度を緩めた。さらに仕上げとして、ジギタリスやオーキッドの花が急速
に成長して、機関車に絡みついて、鋼鉄の皮膚を食い破り始める。
 一時的ではあるだろうが、スピードはだいぶ失せた。これなら、足の遅い彼
女でも容易に追いつける。
 幻想の彼女は、客車の最後尾に取り付き、軽い足取りで乗り込んだ。
 魔砲で消し飛ばしてしまうのは簡単だけれど、それでは面白くない。花を散
らす愚かしさを、その身にしっかりと教え込まなければ。

「いまの私は、太陽の光から遠ざかって気が立っている。葩が時にそうされる
ように、私があなたたちの指を千切って、未来を占ってあげましょう」

 女のかたちをした暴力が、花の香りをたたえた災害が、魔列車に乗車した。

172 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/16(火) 00:57:07
>>

 ああまったく、バケモンの楽園かよここは! 何が悲しくて絨毯爆撃なんぞに晒されなきゃ
ならねえってんだ馬鹿野郎!
 ……実際、あんなもんに対抗できる手段なんぞこちとら持ち合わせてねえぞ。
 自分で言うのもなんだが、俺はただ死ねないってだけでろくな特技は持っちゃいねえ。剣の
扱いこそそれなりには出来るが、それだけだ。接近戦ならいざ知らず、あんな戦争紛いの事が
出来る奴なんぞ相手に出来るか。
 ……懐に飛び込んで一撃必殺でも狙うか?
 いや“死んでもいい”ならそれも手だろうが、今の俺はこの体を失くすわけにはいかねえ。
おまけにこの体は(イーリンには悪いが)所詮ガキの体だ。いくらスラム育ちだからって限度
がある。相手が悪すぎるぜ。
 あのミノタウロスキョンシー、ハダリーでも手駒に残ってりゃ話は別だったんだろうが……
あ? いや待てよ、ハダリーには確か……つーかあの「石」、イーリンが飲み込んで……

 ――くはは! 切り札ここにあり、ってやつか!
 つーか「あいつ」まで関わろうなんざどんな奇遇だよ全く。
 まあいい、温存して死ぬくらいなら使うっきゃねえだろうさ。
 相も変わらず爆撃が列車を揺さぶり、さらに後部から何かが絡みついたのか、線路から
凄まじい軋み音が聞こえてくる。正に絶体絶命って奴だからな。
 喚ぶ、もとい「再生」するなら、今しかねえだろ。


「ま、しかし本当……なあ姫さん? 俺らみたいな『死なない』奴が、実はここにもう一人
いるって言ったら、これこそ奇遇だと思わねえか?」

 軽口叩きつつ、どう「再生」するか考える。
 あの石はこの体の中にあるわけだから……俺の言霊で何とかなるか?
 ……いや、そう「気でも狂ったか」みてえなツラして見るなよ姫さん。慌てる乞食は貰いが
少ないんだぜ?

「いやマジ、いるんだよここに。イーリンの置き土産としてな。



 ――――出番だぜ、出てこいよ『百万回生きた猫ミリオンライヴズ』!」

173 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/16(火) 01:40:41
>> 続き

 果たして――上手くいった。
 俺の声は言霊となり、言霊は意味を持った形となり、意味を持った形は情報となり、
情報はデータとなり、データは命令となり、命令は体内の「石」に作用した。
 「石」はその中に封ぜられている奴を「再生」する。
 無数の文字のようなものが俺らの前に煌めき、形作る。
 そうして現れたのは……
 
 
「――はいはい、呼ばれて飛び出て〜ってあれ、あれれ? あんた、もしかして『とかげ』
かい? いやあこいつは驚いた! この期に及んでまたあんたと出会えるなんてさ!
世の中狭いねえ……いや、それとも『もう何度も会ってる』のかな、あたしは?」

「いや、お前がその“英霊“とやらになっちまってからは初めてだよ、ミリオン。
ってそれどころじゃねえ、悪いが昔話している暇はねえんだ」

「その『ミリオン』ってのはどうにかしとくれよ、そりゃあたしにはろくな名前もってうわ、
わたたたた!?」

 話してる途中で砲撃が飛んできた。振動でたたら踏む「ミリオン」。
 ……現れ、俺と話しているのは、黒い着物を着たただの少女だ。ただし、猫の耳に尻尾、
そして赤く尖った爪を持っていることを除けば、だが。
 所謂「化猫」というやつだ。しかも死んでもまた別の体で生まれ百万回生きたのだ、と言われる
トップクラスに奇妙な化猫だ。
 そんなだったから、俺とこいつ……「生前の」こいつとはちょっとした面識があったわけだが。
 
 ……しかしまさか、こんな形でこいつと再会することになるとはな。
 死ねない連中がこれで三人。そして敵さんは「永遠」を標榜していると来たもんだ。
 とち狂った話じゃねえか、まったくよ。
 
「いってて……ああもうなんだい、随分剣呑な状況じゃないか。ってああ、だからあたしを呼んだ
ってわけかい、とかげ? つまりこいつをなんとかしとくれと」

「ま、そういうわけだ。俺にはあいつを止める術がねえし、こっちの姫さんはこの列車を動かすのに
忙しくってな。お前に頼むしかないってわけだ。やってくれるか?」

「やってくれも何も、今のあたしは『そうするため』の存在みたいなもんだ、って知ってて
言ってんだろう? やってみせるさね……再生時間は保証できないけど、それでいいかい?」

「そりゃ仕方ねえだろ。撃退だけでも出来りゃ御の字ってやつだからな」

「はは、そいつは随分と過小評価してくれるじゃないかね? ちゃちゃっと片付けてくるさ、
待ってておくれよ」

 それじゃ行ってくるよ〜……と、場違いなほど明るい調子で後部車両へ飛んでいくミリオン。
 つーか飛べるのかよあいつ。英霊になったからなのかどうか知らねえけど。

 さて、と。あとはあいつの活躍に期待しつつ……姫さんにもカラクリを説明してやらなきゃいけねえかな?

174 名前:英霊・ミリオンライヴズ ◆C/1000000c :2008/12/16(火) 02:02:30
>> 続き

 なあんて安請け合いして出てきてみれば……あーあー、ほんと派手に弾幕かまして
くれちゃってるねえ。しかも撃ってきてるのは花かい。いや、まさかねえ……
 っとと、そんなことよりお仕事お仕事。
 まずはこの弾幕をなんとかしなくちゃいけないかな?
 
 とりあえず適当な車両に降りたって、と。
 首謀者はえーと……ああ、最後部から侵入してきてるあれがそうかな?
 じゃあ、弾幕遮断後、一気に突っ込みますか!
 
 ――あたしのこの爪はなんだって引き裂く。
 空間さえも引き裂いてみせる。
 両腕、振りかぶってぇ……目ぇ見開いて、ようく見ときな!
 
 
 
     面
     影
     を
     語
     る
     爪
     痕
     ――――<NOSTALGIC PAIN>!
 
 
 
「……っていう名前を付けてくれたのは、誰だったかねえ?」

 中空に残った“赤い爪痕”が飛んでくる弾幕を悉く遮断する。
 せいぜい数秒間しか遮断できないけど、列車の体勢を立て直すには十分。
 その間に連結部から最後部の車両に突っ込んで……突っ込みつつ、あたしは独りごちた。
 
 いや、うん、今のは嘘さ。独りごちたんじゃない、「あいつ」に話しかけてんのさ、あたしは。
 
「『面影を語る』だよ? まったく今のあたしにぴったりじゃあないか! 何せとかげどころか、
あんたの顔まで見る羽目になってんだからねえ……やれやれ、花が弾幕撃ってくるってんだから
まさかと思ったけどね。本当にあんたかい、世の中狭すぎじゃあないかね?」

 とっくに、あいつに聞こえる距離まで近づいているさ。
 いけ好かない、あのフラワーマスターとやらの真っ正面にね!
 
「それともあれかね? 妖怪同士惹かれあったりしてんのかね……そう思わないかい、風見の!」

175 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/02(金) 15:05:05



 奇蹟を目にした。
 零姫は、奇蹟に立ち会った。

 事態は、彼女たちが考えている以上に絶体絶命だった。車両の最後尾から乗
り込んできた咲き誇る花弁の寵姫は、シャオジエが絶叫する通り――あるいは
それ以上に――絶望的な力を有していた。
 ましてここはかりそめと言えど、妖魔公が花の姫君のために与えた彼女のた
めの階層。絶対的に有利な領地だ。向かい合えば、まず勝負にならない。

 アセルスに斃されるならいざ知らず、イーリンともリリーとも関わりのない、
暇を持てますだけの戦闘狂に未来を断たれるのか。通り魔に襲われて人生を終
えるかのような運命を受け容れろというのか。

 ―――断じて、否。

 零姫の胸に宿った疑問に答えを示したのはとかげだった。
 ……いや、正確にはイーリンか。
 イーリンの最後の足掻きが、自らの命と引き替えに手にした力が、あらゆる
理不尽を拒否した。零姫たちの終点は、ここではない。

「な、なにごとじゃ―――」

 人間の目では見ることのかなわない情報≠フ暴走を、零姫は霊視した。
 彼女の魔術回路をもってしても処理しきれない複雑かつ膨大な霊力の奔流が、
とかげの放った言霊によって指向性を与えられ、ひとのかたちを作り始める。

 零姫の混乱は深まるばかりだ。

 なんなのじゃこれは。まさか、イーリンめが呑み込んだ魔石か。はだりぃ
だとかいう屍体を動かしていた魔力装置なのか。
 ……疑問には思っておった。幻魔はアセルスめが与えたものじゃ。それは分
かる。しかし、この魔石はどこから、どういった経緯でイーリンめの手に渡っ
たのか。斯くも強力な魔石を、なぜ市井の娘が―――

 やがて荒れ狂う情報の渦は肉となり血となりこの世界に具現した。

 零姫よりも、さらに一回りは小さい座敷童のような少女。喪服の如き漆黒の
着物を左前に着こなして、底の厚い舞妓下駄を危うげに揺らしている。
 口元には挑戦的な八重歯が覗き、癖のある毛の間からは獣の耳が――あれは
猫のものか――が生えていた。
 外見だけならば、獣人の亜種だろうと片づけることもできる。しかし、矮躯
から発散される桁違いな霊力と、突然召喚されたにも関わらずまったく物怖じ
しない態度には狂気すら覚えてしまう。

百万回生きた猫(ミリオンライヴズ)=\――この猫娘を指して、とかげは
そう呼んだ。理不尽に抗う刃である。

176 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/02(金) 15:06:28


「―――ふふ」

 彼女の微笑は止まらない。
 彼女の嗤笑は終わらない。

 零姫の驚愕とは対照的に、火星天≠フ姫君は冷静だった。
 数十秒後には機関車を鉄屑に変えるはずだった自慢の弾幕が悉く遮断された
にも関わらず。対軍宝具に匹敵する威力と密度を誇る光弾の嵐が呆気なく攻略
されてしまったにも関わらず。……彼女は冷静だった。
 冷静に興味の矛先を変えた。

「死に続ける死の先にあなたが行き着く場所は、幻想の郷しかないと思ってい
たのだけれど……そう、まさかこんなとこに閉じこもっていただなんて」

 姫君は穏やかに笑う。それは植物の笑み。花の笑み。
 誰も知らない。人間の笑みなんて。獣の笑みなんて。植物や花が笑うことに
比べれば、ずっと恐怖が少ないことを。
 花は笑うのだ。彼女のように。

「伊予の星屑≠ネんてどうかしら? ……いや、貴方に合いそうな花を想像
していたの」

 車両に乗り込んできた猫娘に微笑みかけると、姫君は日傘を投げ捨て、変わ
りに胸のポケットから一枚のカードを取り出した。
 戯れに作ってみた、針の城―――妖魔公の世界では唯一のスペルカード。ル
ールに縛られない城内では必要のないものだが、やはりこれがないと気分が乗
らない。本当は木星天≠フ主を相手に使うつもりだったが―――
 この子が相手なら、出し惜しみなく宣言できる。

「たっぷりといじめてあげるわ」

 ―――妖花『妖魔城の開花』

 姫君の呟きと同時に、いままで展開していた弾幕が途切れる。数十秒ぶりに
訪れる静寂。嵐の前哨。暴風は静かに這い寄り―――車両と車両の連結部から
猛り始めた。線路の隙間から伸びた植物の蔦が、二人の乗る最後部車両の連結
器をねじ切る。牽引する力はなくなっても慣性が働いているため最後部車両だ
けは置き去りにされることはないと思われたが―――

 ぎい、と姫君と猫娘の足下で車輪が鈍い音を立てて動きを止めた。いつの間
にか線路に敷き詰められたタンポポの花が絡まって、車輪が回らなくなってし
まったのだ。慣性に突き動かされるままに車輪が滑る。フルブレーキ状態。
 こうなってしまったは、客車もただの待合室だ。

 姫君の目的は、密室を作ること。
 どちらかが屈服するまで出ることのかなわない牢獄を作ること。

 機関車が遠ざかる。残りの十両を牽引して遠ざかる。いま、この瞬間なら脱
出の余地はまだあるが―――当然、姫君は猫娘を逃すつもりなどない。

 彼女は自分の世界を圧縮した。
火星天≠フ密度を変えた。
 広大な花畑なんていらない。無限の花々なんていらない。いまは、指が届く
程度の距離で愛でられる花とその養分となるべき骸が一匹あればいい。
 第五層火星天≠ヘここ≠セけでいい。この客車が、針の城におけるわた
しの世界のすべてだ。

 急激な空間の圧縮によって、零姫たちを乗せる魔列車は強制的に第六層木
星天≠ヨと移動する。

 幻想の姫君の唯一の領地となったこの客車は、まさに棺桶だ。花を敷き詰め
て、この子を弔ってやろう―――そう考えて、ふふ、と彼女は笑った。

177 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/02(金) 15:08:38
うむ。
このままでは本気で別の闘争が始まってしまうので、回避回避回避じゃ。
このままミリオンめはいったんドロップアウト→後の合流か。
なんとかがんばって火星天(客車)から脱出する。
どっちかにすべてきだと考えておる。
どちらにせよ、火星天の姫君の出番はここでお終いだと考えてくれ。
これ以上しゃしゃらせはせん!

178 名前:英霊・ミリオンライヴズ ◆C/1000000c :2009/01/09(金) 00:04:40
>>

 一枚のカードを取り出し、宣言、数俊後に車両にかかる急制動、そして「おわたたたたたっ」と
たたらを踏みかけて座席にしがみつくあたし。ああかっこわる。
 あたしだってちったあかっこよく行きたいってのにさあ。まああんな(見かけによらない)
力業の奴を相手にするんじゃあ仕方ないか、ったく。

「あーもー、あいっかわらずやり方が乱暴だねえ、風見の。そんなにあたしとやり合いたい……
違うか、あたしを『いじめたい』ってのかい? あんたも大概、変わりゃしないね。
妖怪ってなそういうもんだって事かもしれないけど」

 車両が完全に止まるのを待って、一息つきつつ……「痛っ」 あれ?
 ふと見たら指先が切れて血が出ている。あー、さっきしがみついたときに座席のどっかで
切っちまったかな? 見た目ふるーい車両だもんねえこれ。
 ぺろり、とひと舐めしてみるけれど、とりあえず止まっちゃくれない。
 ま、いいか。どうせこれからいくらでも怪我をする羽目になるんだろう?
 下手すりゃ死ぬほど、さ。
 
「で? 見た感じ、このままあたしを車両ごと花で覆って嬲ってやろうって腹積もりかね?
『いじめる』というからには、あたしを速攻で殺ろうってわけでもないんだろうしさ。
おまけにとかげらは先に行かせちゃってるし……ま、それならあたしの役目は
果たされてるから、いいんだけどね?」

 ざわざわ、と植物の生い茂っていく音も、あちらこちらで緑も赤も白も黄色も揺らめく様も
見えるけれども、あたしは気にせず、フラワーマスターに笑いかける。
 何故って、気にする必要がないから。
 いじめる? 嬲る? 殺す? それがどうしたって?
 あたしは確かに百万回も生きてきたけど――“今のあたし”はもう、そんなものじゃあない。
 全く……
 
 
 
「――無意味なことさ」

179 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/09(金) 00:05:10
>> 続き


「あいつはな、姫さん。確かに昔は『百万回も生きてきた猫』だったそうだが……もう違うんだよ」

「あいつが“死ぬ前”に、俺に聞かせてくれた話でしかないから、詳しいことは知らねえがな。
……ああ、その通り。あいつは本当に死んでいる。と言っても幽鬼の類でもねえ。全然別だ」

「あいつが言うには――何らかの能力・技能を持つ奴を、その使い手の文字通りの心身と共に
ある種の媒体……まあ要するにあの『石』だな、に記録させる、そんな方法をどっかの奴らが
確立させたんだそうだ」

「何回も何千回も何十万回も生きて死んで繰り返してきたあいつは、ある時そいつを持ちだして……
つーかまあ、大方盗んできたってとこだろうが、最期にご丁寧にも俺を捜し出して言ったのさ」


「こいつで『ただの記録』になるつもりだ、そうすればもう嬉しいことも悲しいことも
引き継がなくて済む――ってな」


「石に記録された存在……英霊、って呼ぶらしいが、そいつはいつでも元通りの姿形で
『再生』されるが……それだけ、なんだそうだ」

「簡単に言えば、自分で考えて動いて喋って触れる立体映像みたいなもんだ。
俺らには……いや、そいつ自身にだって本物、実体に見えるだけで、実際には
魂もなにもない。だから再生が終われば……」


「跡形もなく、消え去る」


「もちろん、そいつが起こした事も残るし、俺らの記憶にだってそりゃ残る。
だが、そいつ自身は――何も覚えることなく、何も持って行くことなく、どこにも行かずに
消えるだけ、ってわけだ」

「ま、俺も実際にあいつを『再生』したのは初めてだがな。だがあいつ自身にはそんな事は分からない。
言ってただろ? 『もう何度も会ってるのか?』って。あいつは俺が自分を“初めて再生した”のか
“もう何度も再生しているのか”なんてことはわからねえんだよ。あいつの記憶は、石に記録された
その時までしか残らねえからな。追記は、出来ねえ」


「あいつはもうそういう存在……ってわけなんだそうだ」

180 名前:英霊・ミリオンライヴズ ◆C/1000000c :2009/01/09(金) 00:05:40
>> 続き

「伊予の星屑、ねえ。まあ別に何に例えてくれたっていいけどさ……風見の、
生憎とあたしは、もう紫陽花のようには居られなくってね。何にも変われやしないから」

 戯れに、指に膨れあがった血だまを弾き飛ばしてみる。
 散った鮮血は、けれど地に落ちることなく……ひらがなカタカナアルファベットキリル文字ギリシャ文字、
その他諸々の文字と化して、消え去る。
 あたしがただの記録、再生されたデータである事の、証。
 
「ま、でもね。どうしてもってんならあんたに、あたしとのお遊びの思い出を残してやるくらいは出来るさね。
花と散ってやろうか? もちろん――あたしの振るう技の記憶と一緒に、さ」

 もう一度指先を舌で舐め……にぃ、と猫らしく笑って、指を更に噛み切る。
 溢れる鮮血。またぺろり。

「赤猫って知ってるかい? 放火の隠語なんだそうだよ。
随分な話じゃないか。勝手にあたしら猫に例えちまってさ!
炎の揺らめきは赤猫の舌なんだってさ、ねえ……」

 あっちこっちから花が侵入してくる。あいつを守る矛となり盾となって。
 はん、でもさ……結局は植物だ、こいつには弱かろう?

「ならあたしも――猫の化生らしく、火を放ってやろうじゃないさ!」


       吻接の灯鬼たっ狂
――――<VOLCANIC LIBIDO>!!


 舐めた指先に滴る血潮、そいつを周囲に振りまく。
 『文字化け』した次の瞬間――あたりを焼き尽くす真っ赤な炎と化した。
 客車の何もかもを焼き尽くす大火と。
 
 
 とかげらには、もう見えないかも知れないがね……風見の、あんたが見てりゃ十分さ。
 何なら消え去るまで、付き合ってやるよ。

181 名前:英霊・ミリオンライヴズ ◆C/1000000c :2009/01/09(金) 00:10:49
これのどこがフェイドアウトだやる気満々だろ常考
……ってなもんだからさ、なんだったらもうちょいばっさり切り捨てちゃってもいいよ。
何でもご要望にお応えするさ。

ついでの与太話。
「英霊」としてのあたしがただの記録存在だってんなら……「本物のあたし」はやっぱりどっかで
生きて死んでを繰り返してるのかも知れないねえ。
あたしはただのコピーってだけでさ。
ま、そんなんだとしてもその「本物のあたし」とやらはとかげに合わす顔がないだろうけどさw

まあそんだけ。その辺掘り下げても下げなくてもどっちでもいいよ。

182 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/12(月) 20:22:41

 あらゆるものが炎に包まれ、あらゆるものが蒸発されゆく世界で、火星天
の姫君は愛しき花たちが灰へと変わる様子をおごそかに見守っていた。
 笑みはとうに消えている。さりとて、余裕を失っているわけでもなく、むっ
つりとした表情から怒りは感じられない。
 姫君のかんばせを彩る感情の色は何か。……あえて言葉を探すならば、戸惑
いと憐憫だ。姫君は、猫の娘を心底憐れんでいた。

 火を放ったことで、花は燃え尽き、やがてこの世界は崩れよう。植物に対し
て、これ程効果的な攻撃はない。猫娘の選択は間違っていない。
 ―――しかし、それは、姫君に対して有効的な攻撃≠ニイコールで結ばれ
るわけではない。

 花が燃えれば姫君の心は痛む。しかし躰は決して傷まない。彼女は妖怪であ
って花の精ではないのだから。
 花による攻撃を行えない環境に置かれたせいで、姫君はフラワーマスターと
してではなく、妖怪として戦わざるを得なくなってしまった。
 それは圧倒的な力で相手を押し潰す優雅さとは無縁の戦闘行為。そこにルー
ルはなく、明確な勝敗の境目もない。

 姫君は憂鬱そうに溜息を吐いて、

「……ほんと、何百万年生きても子供のままなのね」

 と呟いた。

 気怠げに右手をあげて、
 五指を開き、
 彼女は灼熱ごと、
 彼女は客車ごと、
 彼女は猫娘ごと、
 彼女は彼女の世界ごと―――

 津波の如し熱量の大砲で、太陽の如し光量の奔流で、すべてを撃ち抜き、蹂
躙する。世界は白亜に包まれ、闘争の舞台すら消滅した。

 この瞬間から、アセルスの城において第五層火星天≠ヘ存在しなくなる。

183 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/12(月) 20:22:56


 世界の圧縮によって火星天≠ゥら強制的に追い出された魔列車が次に走る
のは、第六層の木星天=B濃厚な霧が一帯に広がる視界ゼロの世界である。
 窓に頬を押しつけてもまともに外の景色を見ることは叶わない。進路もなに
もあったものではなく、ただ霧を切り開いて疾走するのみ。魔列車の走行を管
理する零姫としては、鉄路に障害物が置かれているかどうかすら確認できない
現状は恐ろしくてしかたがないのだが、だからといって対処する術などなく、
腹を括って走り去るより他に選択肢はない。

 時より、どこからともなく谺する「イヒヒヒヒー!」という哄笑を不気味に
思いながらも、零姫はとかげを連れて機関部から客車に戻った。
 彼とは話しておかなければならないことがある。―――ミリオンと呼んだあ
の化け猫はなんなのか。なぜ、とかげに力を貸したのか。

 ……因みにシャオジエは、改めて冷蔵庫に叩き込んでおいた。

「―――つまりあの化け猫は、転生無限者だったのじゃな」

 ボックス席でとかげと向き合う零姫は、いつになく真剣な表情で言った。

「死に続けて生き続ける転生無限者の、ひとつの完成系であり終焉でもあるわ
けじゃ。あのミリオンとやらにこれ以上の未来はなく、ただ永遠に記録された
現在≠ヘ再生し続ける。停滞すれば死ぬことも生きることもないからのう」

 そんなバケモノがイーリンの人造僵尸に埋め込まれたいたなんて。奇縁もこ
こに極まれり、だ。偶然で片付けるにはあまりに都合が良すぎる。……なにせ、
これでひとつの空間に三人もの転生無限者が集ったことになるのだから。

 死を願うとかげからすれば、永久に停滞≠キるミリオンは受け容れがたい
存在だろう。同様に、生を愛する零姫も、未来なきミリオンの再生≠ノは共
感できずにいる。同じ転生無限者でありながら、三者三様。こうも考え方が違
ってしまうものなのか。面白いと思う反面、寂しくもあった。

 時と場所が違えば、殺し合うしかなかった三人かもしれない。
 でもいまだけは、イーリンのために―――

「これだけは確認しておきたいのじゃが」
 
 零姫は躊躇いがちに切り出した。

「あの化け猫は、また再生≠ナきるのか?」

 話を聞く限り、こと戦闘力においてミリオンライヴスは飛び抜けている。
 彼女がいてくれれば、これからの道中もぐっと楽になるだろう。気は進まな
いが、いまは藁にでも縋りたい思いなのだ。利用できるものは利用しなければ。

184 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/15(木) 00:08:55
>>

「また“再生”出来るのか、ねえ……」


 さぞや、俺は苦虫を十匹や二十匹は余裕で噛み潰してるようなツラをしていることだろう。
姫さんにこんだけ慮ってもらってるんだからな。まあ外が視界ゼロなんだから、俺自身でも
窓を見れば自分でもそのツラを拝むことは出来るだろうが……別段、そんな気にもなれない。

 大方お察しの通り、俺はミリオンのとったやり方は気にくわない、と言っていい。
 仮に俺自身がそういう存在になる機会を得られたって、きっと蹴り飛ばすことだろう。
 ……もっとも、こんなのは理屈じゃねえ、ということも俺自身、いい加減理解できちゃいるが。
 
 俺が「死にたい」と思うことも、
 姫さんが「生きたい」と思うことも、
 ミリオンが「止めたい」と思ったことも、
 
 それぞれがそれぞれに選んだ答え、ってやつだ。
 今更変えられやしねえ。残される側に配慮なんぞしてたら、きりがねえからな。
 
 わかっちゃいる。
 わかっちゃいるが……実際に残される方は、それはそれでやはり気分の良いもんじゃ
ねえようだ。本当に、理屈じゃねえ。
 だから、俺は……


「出来るのか、と言われりゃ正直分からねえ、というところだけどな。
 ただ、さっき“再生”したばかりだからな。あいつがまだ戦ってるなら……」

185 名前:◆C/1000000c :2009/01/15(木) 00:09:22


『あーあ、やっぱ分が悪かったかねえ……あたしももう少し、粘っておきたかったんだけどな。
ま、仕方ないね。もう行くよ、とかげ、風見の。
“次のあたし”に会うようなら、またよろしく頼むさ。じゃあね』

186 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/15(木) 00:09:37
>> 続き

「……まだ戦ってるなら、追加再生とはいかねえだろうな。二重に再生できるとはあまり思えねえし。
しばらくは無理だと思っておくほうが無難だろ」


 本当にまだ戦ってるのかどうか、もちろん俺には分からねえ。
 とっくに消えちまってて、もう再生可能なのかも知れねえが……それでも俺は、そう答えていた。
 
 ……本音を言えば、さっきの今で“再生し直された”あいつを見たくねえからだ。
 今ふたたび再生すれば、あいつはまた俺を見て驚くのだろう。いや今に限らず、今後もずっとか?
 とんでもねえ茶番だ、ましてさっきの今じゃ尚更気分が悪すぎる。
 ……今頃になって少し後悔している。切り札を早々に切りすぎた。こんな気分に囚われる羽目に
なるなんざ……俺も焼きが回ったとしか言いようがねえ。「英霊」と化したあいつを見るってのが
どういう意味を持つのか、考えておくべきだったぜ、クソ!

 噛み潰している苦虫は、そろそろ三桁の大台に突入しようって雰囲気だろうなこりゃ。
 けったくそ悪ぃ。
 気分を切り替えるように――ように、じゃねえか。本当に切り替えだ――剣の鞘で床を突いて
席から立つ。


「そろそろ機関室に戻らねえか、姫さん? いい加減次のエリアに抜ける頃だろ」


 ――「石」を通じてか、あいつの別れの言葉が聞こえたような気がしたが、
 そんなものなど、気分もろともに押しやるようにして。

187 名前:あぼーん:あぼーん
あぼーん

188 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/18(日) 22:14:19


 言葉として伝えられずとも、その苦しげな表情を見れば、とかげの葛藤はい
やというほどに透けて見えてしまう。
 ……やはり、こやつは転生無限者として永劫を生きるには優しすぎる。零姫
は胸裏で溜息を吐いた。

「ふむ、そうか」

 そうとしか答えなかったのは、とかげの思慮を汲むためでもあったが、零姫
なりに打算を働かせたためでもあった。再生が可能であろうと不可能であろう
と、ミリオンの出番はここではないことだけは揺るがない事実だ。
 この狂った迷宮の主は英霊≠フ存在を感じ取っただろうか。イレギュラー
として認識しただろうか。あの隔絶された花畑―――第五層の寵姫を相手にア
セルスはどこまで干渉できるのか。
 いささか楽観的かもしれないが、妖魔の君の性格を考えると、未だにミリオ
ンは切り札として有効だと考えられる。

 ミリオンの再生機≠ナある魔石が、人造僵尸の動力源となっていたならば、
彼女もイーリンとは無関係ではないのだ。力を貸して欲しかったし、協力を拒
むのであれば強引に巻き込む気ですらいた。
 零姫はとかげとは違う。ミリオンはイーリンの下僕だった。ならば、主人の
ために忠義を尽くす義務がある。……零姫はそう、考えていた。
 手段や倫理を問うてる余裕はない。

 零姫は席を立つと、袴の裾を直した。
 とかげを先導して機関部へと向かうその表情は、厳しい。


 第六層木星天=\――霞に支配された階層は、最後まで車窓からの風景を
白く染めたまま、何事も起こらずに終着を迎えた。
 車掌役のシャオジエが猿轡を噛まされて監禁されているため、とかげも零姫
も知ることはなかったが、木星天≠フ寵姫こそアセルスの内なる城≠ェ生
まれる切っ掛けであり、同時に妖魔公の狂気の走りでもあった。
 個人と個人の境界を曖昧にし、隔てられた世界は融け合い、不完全は不完全
によって補われ、永遠は完成する。この方程式を実行に移した寵姫は、「いひ
ひひー」と不気味な笑い声を残すだけで、零姫たちには一切手出しをせず、大
人しく自分の階層を通過させた。

 そして一行は第七層土星天≠ヨと至る―――。

「ついに、ここまで来たか」

 現実の〈針の城〉は、第八層から十層までは外環部分として扱われ、イーリ
ンのようにマフィアとは無縁の人間も多数住み着いていた。
 アセルスの支配がどこまで完璧なのかは知らないが、この針の城≠ェ妖魔
公の内面世界でありながら同時に現実の〈針の城〉でもある以上、外≠ヨ近
付けば近付くほど支配も弱まるのが道理だ。
 これまでのように、あまりに現実離れした光景を見ることもなくなるだろう。
 そんな零姫の考えを裏付けるように、土星天≠フ風景は現実の第七層と変
わらないものであった。闇が濃厚で、ビルというビルに荊が絡みついていると
いう差異はあるものの―――そういう違う部分≠ェ分かりやすいお陰で、余
計に支配率が低いのだと安心できた。
 奇妙な旅路の終わりは、近い。

189 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/18(日) 22:14:33


 線路はビルとビルの隙間を縫うように細かくうねりながら敷かれ、時には建
物をトンネルに見立てて、屋内にまで侵入した。
 元々の〈針の城〉は機関車どころか自動車や馬車すら走るスペースが無かっ
たことを考えると、これはかなり強引な荒技だ。必然的にスピードは落ちる。
 零姫も魔想レールを生成するために、より深い集中を要した。

 七層さえ超えれば。
 八層にさえ至ってしまえば。
外≠ェ近い。
外≠ェ現実のものとなってきた。
 イーリンの想いが叶おうとしている。
 彼女の自由が、いま、開かれる。

 ―――だがそこに、最大の障害が立ち塞がった。

土星天≠フどこにそんな空間があったのか、高層の建物――それは、阿嬌が
飛び降りたビル屋敷≠セった――を通り抜けたその先は、地平線まで続く一
直線の道だった。
 あらゆるビルは、まるで線路を避けるように両脇に建ち並んでいる。
 零姫は当然、こんな鉄路は生成していない。何者かが干渉して、道を歪めた
のだ。そんな真似ができるのはこの階層の寵姫か、あるいは―――

 機関車の進路の先、線路の上に佇む人影ひとつ。
 闇色の風に煽られて、ジュストコールの裾が踊る。
 魔列車の疾走を阻む無謀な人影は少女だった。
 少女でありながら、少女にあるまじき格好をしていた。
 少年のような服装をしていた。
 少女は男装をしていた。

 少女の姿を魔眼で認めた瞬間、零姫は目を剥いて叫んだ。

「アセルス!」

 進路の遥か先で、妖魔の君ははっきりと零姫を睨み返してから、薄く嗤った。
 その笑みは戯れの終わりを告げていた。黙したまま、観光旅行はここまでだ
と語っていた。―――全ては二人の因縁から始まったのだ。ならば、二人が対
峙せずに、このまま外≠ヨなどと大人しく行かせるものか。
 
「……もう十分だろう? そろそろ、イーリンを帰してもらうぞ」

 アセルスの呟きは、零姫の耳にまで届く距離ではなかったが、彼女ははっき
りとアセルスの声≠聞き、そして―――激昂した。

「アセルス! おまえだけは……!」

 だが、憤激しながらも理性を残せるのが零姫という女だ。彼女の中の冷静な
部分が、アセルスとの対決だけは避けろと警鐘を鳴らしていた。

 魔列車が走る。
外≠目指して。
 迷宮の城主へと向かって。
 終点へと走る。

190 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/18(日) 22:44:13
>>

 「悪の親玉」のお出まし。物語の終わりは近い、ということか。
 
 ……誰の物語だ?
 切り札呼ばわりしたミリオンはもちろん、俺だってただのゲストキャラだ。イーリンの代わりに
現われただけの、俗に言うオルタナティブ。
 そしてイーリンはもういない。
 
 因縁を辿ればあの女と姫さんか?
 だがそんなことは勝手にやってろ。イーリンを、いや「イーリンとリリー」を巻き込むんじゃねえ。
 そしてリリーももういない。
 
 主役いねえヒロインもいねえ、いるのは代役と代役と悪役と脇役。
 ふざけた茶番の物語。
 代役の俺らは、そんな物語をきちっと終わらせるだけだ。
 イーリンのために、リリーのために。
 
 つまり。
 
「……お呼びじゃねえってんだよ。勝手に生きてろ、勝手に死んでろ。
 勝手に――轢かれてろや阿呆」
 
 機関の出力を上げる。オーバーヒートぎりぎり。
 にっくき悪役が目の前にいるせいか、加速度つけて炉心は燃え上がる。
 弾丸列車はひた走り――――
 
 
 ――は! わかってるさ、あのクソ女はそんなタマじゃねえ。
 絶対に何かある。いやさ本物かどうかさえ怪しいぜ、こんな世界じゃ。
 だがどっちにしろ、こんな列車に何かされるなら……
 
 
 激突コンマ数秒前。
 俺は姫さんを庇った。
 
 何故と問うんじゃないぜ姫さん? イーリンなら、そうするに決まってんだろう?

191 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/21(水) 00:52:42


それ≠ヘ闇の蒸気に隠れていたのか。あるいは、二人がアセルスを注視する
あまり、彼女の背後に控えるそれ≠ノ注意が向かなかったのか。
 どちらなのかは分からない。正解はどこにも見えない。
 ひとつのみ分かる真実は、魔列車が加速したことにより、二人は確実に己の
首を絞めてしまったということ。
 とかげはアセルスの挑発に乗ってしまったのだ。彼も零姫も、ここが妖魔公
の庭だということを知っていながら、それが意味する恐ろしさを十全には理解
していなかった。例え支配率が低かろうと、魔想レールに干渉して軌道を歪め
る程度のことは容易いのだ。

 汽笛が、死霊の絶叫の如き音で闇に響き渡る。蒸気が吹き出し、車輪は猛烈
な勢いで回転する。第五層での絨毯爆撃によって機関車の車体はだいぶ傷んで
いたが、動力源へのダメージは皆無に等しく、加速はスムーズに行われ、猛り
狂う鉄牛は華奢な小娘を挽き肉にせんと鉄路に沿って突撃した。

 妖魔公の口元の笑みは消えない。
 圧倒的な質量に肉薄されてなお不敵な態度を崩そうとせず、ショートパンツ
から伸びた細い素足を見せつけるように軽くレールを蹴った。
 アセルスの躰が宙に舞い上がる。魔列車との相対距離は車両一つ分。アセル
スの企みを見定めようと目を凝らしていた零姫は、そこでようやく、自分が罠
に嵌められたことに気付いた。

 ―――アセルスの背後には、漆黒の鋼鉄が控えていた。

 重甲冑の騎士を彷彿とさせる鋼の躰。蹂躙を目的とした凶器にしか見えない
無数の車輪。将軍に追従するように牽引される、十一両の客車。
 零姫は思わず呻く。

「……もう一台、じゃと」

 彼女たちが乗るそれと同型の機関車が、同じ線路上に、向き合うようにして
鎮座していた。稼働してはいない。だが、停車していようとも、これ程までに
大きな質量に進路を阻まれたら―――

 宙を舞うアセルスの爪先が、対面する汽車の煙突に触れた。
 その瞬間。

 二台の魔列車は、正面から激突した。

 接触の瞬間、とかげが零姫に覆い被さるようにして守ったのと同じ理由で、
零姫もまた、とかげを――いや、イーリンを――咄嗟に張り巡らした魔術障壁
で衝突の衝撃からガードした。
 充分にスピードの乗った機関車が、不動の機関車に突っ込んだのだ。その被
害は、どちらも鉄屑に還ってなお余りあるほどに酷かった。
 とかげと零姫を乗せた機関室は衝撃で浮き上がり、鼻面を中心に逆立ちした。
当然、二人は闇へと投げ出されることになる。
 脱線した機関車は地響きを立てながら転がり、線路の脇のペンシルビルに激
突。それでも勢いを殺せず、一階部分を丸ごと抉り取って、奥のビルにまで破
壊をもたらした。後続の客車は鞭の如く振り回され、連結部が引き千切れた車
両は宙を舞い、砲弾となって街に降り注いだ。
 接触事故というより、もはや爆弾の炸裂に近い。二台の機関車と計二十両の
客車は全損し、周辺一帯の建築物にも深刻な疵痕を残した。
 炉が壊れたことにより、燃料となっていた怨霊は逃げ出し、霊的エントロピ
ーの均衡を致命的なレベルまで狂わせる。

「なんて……めちゃくちゃな……やつ、じゃ」

 積み木のように折り重なった客車の残骸から、零姫はほうほうの体で這い出
した。打撲やすり傷で全身が痛んでいる。あれだけの惨事で、この程度の負傷
で済んだのは僥倖か。

192 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/21(水) 00:52:57


 零姫は線路上の砂利に這い蹲ったまま、首を左右に振ってとかげの姿を探し
た。機関室から放り出されるまでは、確かに魔術障壁で守った。しかし、それ
より後のことは分からない。果たしてとかげは無事なのだろうか。しっかりと
イーリンの躰を守れているだろうか。もしも客車やビルの瓦礫に潰されるよう
になってことになっていたら―――

「とかげ、生きておるのか! どこにいるのじゃ! 返事をせい!」

「―――相変わらず、病弱ぶっている割には頑丈だな」

 はっと息を殺す。零姫の呼びかけに応えたのはとかげではなかった。地面に
ひれ伏す零姫の目の前に、ブーツのヒールがざくりと落ちる。
 見上げるまでもなく、そこにはこの魔宮の城主が佇立していた。彼女も正面
衝突に巻き込まれたはずだというのに、傷はおろか、埃すら被っていない。
 蔑みの眼で零姫を見下ろしている。

「アセルス……!」

 起き上がろうとした零姫の肩を、アセルスは軽く蹴飛ばした。それだけで零
姫は砂利に頬を滑らせ、血を滲ませた。
 剣術を極めたアセルスは、ことこの間合いにおいては無敵に近い。いくら零
姫が魔術に長けていても、白兵戦では赤児以下の抵抗しかできなかった。

「よくも好き勝手に私の世界を荒らしてくれたな」

 ブーツの靴底が、零姫の後頭部を踏みつける。

「貴様が勝手に呼んだのじゃろうが……!」

「誰も荒らしてくれ、とは頼んでいない」

 足を離し、すぐに蹴り付ける。零姫の矮躯が一瞬浮き上がった。

 アセルスは手に提げた月下美人ではなく、腰に差した儀礼用の装飾短剣を抜
き放った。切れ味は鈍いが、だからこそ余計に痛みを与えることができる。
 咳き込む彼女の腹部をもう一度蹴ってから、アセルスは零姫の目の前にしゃ
がみ込んだ。その白い肌に刃を突き立てる前に、最後の確認として、妖魔公は
口を開く。

「……貴様は私に、なにか言うべきことがあるはずだ」

 アセルスなりの恩情のつもりだったのだろう。しかし零姫は迷いもせず、唇
から鮮血をこぼしながら、

「貴様は最低じゃ。人間としても、妖魔としても、屑にすら値せん」

 あらん限りの憎しみをこめて言い捨てた。

「……そうか。ならば苦しめ」

 アセルスは無表情のまま、短剣を振りあげて―――  

193 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/27(火) 00:52:44
>>

 ――振り上げた短剣は当然に振り下ろされる。
 止めねえと。
 そう思った。
 結果。


 その短剣は、横から突きだした俺の左腕に深々と、ってわけだ。
 ……なんて冷静に語ってられるか! いってえ……ッ! クソが!


「……お呼びじゃねえ、って言ってんだろうがサド野郎。手前勝手極みきりやがって」

 同じく放り出され、瓦礫に投げつけられ、痛む全身を引きずって姫さんを探し、極めて不吉な
会話を聞きつけ、それを頼りにしてようやく視界に飛び込んできた光景が、それ。
 俺も、この体も、多少の荒事には慣れてる。
 だからこそ……こうするより他になかった。いや、あったかも知れねえがとっさに出た判断が
それだった、って事かも知れねえが。
 もっとも、どのみち俺の剣は所詮我流だ。逆手持ちの短剣を、それも姫さんを傷つけずに
弾き飛ばす自信は今だってねえよ。おかげでこの体を更に傷つける羽目になっちまったが。
 世話もねえな。……イーリンならどうしてたろうな。もっとクレバーに立ち回ってたか?

「つーかあんたも律儀に付き合ってんじゃねえよ姫さん。とっとと逃げてくれ。
あんたチャンバラ出来るようなタマじゃねえだろ」

 刺さったもんを抜かせ――もちろん、更に痛えが、無視。
 死んでるっつーのに痛いなんて理不尽だがそれも無視。
 目の前の馬鹿も、背後に庇う姫さんも、何もかも、ある意味全部無視。
 俺一人で逃げれば助かるか? やってられるか馬鹿。「イーリンとリリー」で逃げなきゃ
意味がねえ。なら今は俺が悪役を引き受けるっきゃねえだろうが。

「いい加減うぜえぞ……『私の世界』だとかなんとか、引きこもりのタワゴトかよ。
ましてイーリンを弄んだ元凶の癖に、勝手に執着してんじゃねえ。
この体はもう俺のもんだ、何一つだって渡しゃしねえぞ」

 スラム育ちの、荒事慣れで、ろくに出るとこも出てねえイーリンの体。ああそうとも俺のもんだ。
だからこそ義理があるし、何より俺が許しゃしねえ。絶対に逃げてやる。
 その為にも……
 
「ほら何やってんだ、早く逃げろってんだよ!」

 不釣り合いかも知れない、頂きもんの刀の柄に手をかけ、もう一度姫さんに呼びかける。
 もちろん俺だって、隙あらば逃げる心算だが……今はやるっきゃねえだろ、クソ。 

194 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/02/21(土) 21:01:46


「貴様……」

 妖魔の麗人は顔を歪めて呻いた。
 声の低さが彼女の怒りの強さを物語っている。
 とかげが盾になって零姫を護った。自分の行動を阻害された。零姫が痛みに
喘ぐ表情を見られなかった。―――そんなことは、別にどうでもいい。
 アセルスが許せないのは、とかげが、己の都合でイーリンの∫[を傷付け
たからだ。アセルスが支配すべき寵愛の対象を、キズモノにしてくれたからだ。
 イーリンという少女の価値は、刃に肉を抉られ程度で落ちるものではない。
そんなことぐらいはアセルスも理解している。むしろ土に汚れ、血を流し、地
面に這いずるほど強く眩く輝く手合いの女だ。
 ……が、それはイーリンの魂あっての話。とかげが、零姫如きを庇うために
イーリンの肌を犠牲にするなど断じてあってはならない。決して見逃せない。

「貴様」

 激したアセルスは、もう一度呟くと、とかげの黄金瞳を睨み据えた。あらゆ
る魔術作用を無効化するとかげには、当然魔眼も通用しない。そう、分かって
いてもつい瞳に力をこめてしまう。

 イーリンの躰で私に刃を向けるなんて。
 絶対に許せない。

「貴様ぁ!」

 魔眼の猛りがとかげにではなく、彼女の世界≠侵しはじめたとき、もう
一人の怒れる妖魔が、とかげの背中に怒声を浴びせた。

「戯けめ! 勝手に傷付けおって、誰の躰じゃと思っておる!」

 躰の痛みも忘れて立ち上がり、ぽこりととかげの頭を叩く。

「庇うにしても、庇いかたというものがあろう! わらわを護るな、とは言わ
ぬ。せめて、もっと考えて護れ!」

 まさかそちらからも怒りが飛んでくるとは思わず、アセルスは一瞬だけ目を
丸めてしまった。いくらなんでも庇われた当人が、庇った人間を責めるのはお
門違いというものだろう。それも庇ってくれたのは、魂は違うとはいえイーリ
ンなのだ。涙を流して感動に打ち震えるべきではないか。
 驚きもつかの間、アセルスはすぐに怒りを取り戻す。
 この淫売はなんて自分勝手なのか。私だって、叶うことならイーリンに身を
挺して護られたいのに。それをはね付けて説教までするとは。
 わがままにも限度がある。やはりこいつだけは許せない。絶対に許せない。

「戯けているのは貴様だ、零姫。貴様等二人揃って、どこまで度し難いのか」

「黙るのは貴様じゃ! 口を挟むな! ……とかげよ、わらわ達の目的を忘れ
たのではあるまいな。イーリンの躰を外≠ヨと導くための脱出口で、そのイ
ーリンの躰を傷付けては本末転倒じゃろうが。二度とこんな真似は―――」

「貴様、私を無視したな!」

 アセルスは、殴るどころか刺し殺しかねない勢いで零姫に食ってかかるが、
二人の間にはとかげが嘯風弄月を構えて毅然と立っている。

「……そこをどけ、とかげ。爬虫類如きに私と対峙する資格があると思ってい
るのか」

 それともまさか、この私と刀で対するつもりではなかろうな。侮蔑を孕んだ
瞳で、アセルスはとかげと―――その背後の零姫を見据えた。

195 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/02/21(土) 22:30:11
>>


 …………あの、なあ……


「ごちゃごちゃ五月蠅えぞてめえら……」

 ったく、揃いも揃って――ああ、もちろん俺もだ、それくらいは認めてやる――手前勝手な
連中ばかりだ。
 後ろの姫さんは「イーリンを護りたい」
 当の俺は「イーリンとリリーを逃がしたい」
 それと……めんどくせ、約一名省略。まあ明後日のほう向いてんのは間違いねえが。
 ……噛み合ってねえな、全く。目の前のバカはもう論外だが、姫さんまでこんな調子じゃあな、
いい加減ぶちぎれるぞ、俺も。

「もう一回はっきり言うぞコラ。この体はもうお・れ・の・か・ら・だ・だ! 俺がどう立ち回ろうが
俺の勝手だ。ああ? 目的? 『俺とあんたで』逃げることだろうが。だってのにあんたが
殺られそうになってんのを我が身優先で見てろってのか? 第一、イーリンだったら自分の身を
優先させたってのか? 違うだろうがそんなもんは」

 イライラに身を任せた勢いで姫さんに説教。つーかまだ痛えもんは痛えんだよクソ。
 まあ、この程度の傷なら止血も治癒もすぐだけどな。そうでもなきゃ、こんな立ち回りするかよ。
 もちろん、だからって頭や心臓までくれてやる気もねえんだが……その辺くらい分かれ、姫さん。
 目の前のバカは知らん。
 
「大体俺だってな、好き好んで死んでやる気もねえよ。この体は全力で『死守』してやる。
あとは適材適所の理屈ってやつだ。あんたを死なせやしねえ、俺だって死ぬ気はねえ。
どっちも生きてんのが大前提なら、前衛後衛はっきりさせて動いた方がいいに決まってんだろうが」

 「イーリン」が大事なのはわかるが、姫さん自身を蔑ろにしちゃ意味がねえんだよ、俺にとっちゃ。
忘れてんのはどっちだ、全く。
 やれやれ、王子様ごっこも大変なもんだな、イーリンよ。
 目の前のバカは知らん。
 
「だからとっとと行ってくれって。せめて下がれ。このままじゃ動けるもんも動けねえだろうが」

 以上、説得終了! あとはチャンバラのお時間だくそったれ!
 
 目の前のバカは知らん。
 ガン無視だガン無視。
 どうせ今まで俺のほうが無視されてんだからおあいこだろうが。

196 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/03/05(木) 08:30:27


 喧嘩には自信がある。反論ならいくらでも用意できた。
 確かに零姫は白兵戦を得意としない。そこらの下級妖魔にすら劣るだろう。
そういう意味では後衛に徹しろというとかげの意見は妥当だ。
 が、いま二人を怒りの視線で貫いているのは妖魔公アセルスなのだ。妖魔最
強の剣客なのだ。彼女を前にして、前衛が誰か、後衛が誰かなどという議論を
するのはあまりにナンセンス。絶望的な力量の差に晒されて導き出される答え
はただ一つ―――対峙した者の敗北と死。
 とかげは論点をずらしている。誤魔化しを用いている。いくら口で「死ぬ気
はない」と言っても、説得力というものが欠けている。この窮地で、どちらも
斃れずに切り抜ける選択肢などというものが本当にあるのか。
 どちらを犠牲にして、どちらが生き残るか。―――優先すべき議論はそっち
ではないのか。

「……」

 とかげは死ぬ気なのか。お姫様を庇う騎士にでもなるつもりなのか。先走っ
た英雄願望の果てに、取り返しのつかない終末を迎えるつもりなのか。
 その程度の男だったのか。

 ―――いや。

 違う。そうじゃない。
 死を願う男だからこそ、死にたがりの魂だからこそ、ここでは死ねないと分
かっているはずだ。こんなところで果てては、彼の最後の拠り所である死
が穢される。妖魔公アセルスは静粛な死さえも許さぬ女だ。

 とかげの横顔を見てみろ。イーリンのかんばせで感情を表現する彼は、いま、
なにを思っている。あの自信に満ちた笑みが、死を受け容れる者のそれに見え
るか。……否、見えない。見えるはずがない。

 なぜ、そんな表情を作れるのか。
 どうして、そんな風に不敵に笑えるのか。

 ―――この大馬鹿者は生き残るつもりなのだ。
 アセルスと一対一で対峙して、それでもなお、希望を捨てていないのだ。
 なんたる傲岸不遜。うつけにも程がある。

「ふっ」

 思わず口から息が漏れる。気付けば零姫の口元にも笑みが浮かんでいた。

「とかげよ。別におまえが死のうが灼かれようが寵姫にされようがわらわの知
ったところではない。好きに料理されてしまえばいい。―――しかし、じゃ。
その肉体はイーリンのもの。その凛々しい横顔はイーリンのもの。一時の借り
物に過ぎぬということ頭に留めて……おまえが死ぬときはせめて、躰だけは護
りきるがよい」

 それともう一つ。そう言って、零姫はアセルスととかげに背中を向けた。

「わらわは自由じゃ。誰の言葉にも従わぬ。自由であるが故に、自分以外の何
人も信用せぬ。……故に、おまえの命令は受け容れぬし、おまえがアセルスを
相手にして生き残るとも思っておらぬ」

 わらわは逃げぬぞ。―――己の言葉と矛盾して、零姫は駆け出した。軽功で
躰を絹のように軽くして、舞うようにその場を離脱する。

 零姫は逃げない。とかげに殿(しんがり)を任せたりしない。
 自分がこの場に残っても足手まといに過ぎない事実を顧みれば、一時撤退し
つつ、この窮地を打開するなにか≠探すのが最良の策……の、はずだ。

 納得できない部分は多々ある。釈然としないことだらけだ。
 それでも零姫は駆けた。胸に燻る不安から目を背けて、自分に言い聞かせた。
 一緒に行くのじゃ。外≠目指すのじゃ、と。

197 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/03/05(木) 08:30:50


「ふむ」

 零姫の後ろ姿を見送るアセルスに、取り立てて焦燥の色は見えない。先程ま
での猛りすらだいぶ沈静していた。いまの彼女は醒めている。
 アセルスには自信があるのだ。いま零姫を逃がしたところで、どうせすぐに
補足できると。―――なにせ、ここはアセルスの世界であり、アセルスの胎内
なのだから。どこまで逃げようと、手中からこぼれ出ることは不可能だ。
 ならば精々、無様に足掻け。

 いまはそれよりも、優先して片付けるべき問題がある。

「とかげ……」

 妖魔の魔眼が転生無限者をきっと射貫く。
 雑魚と決めつけてきた相手に。零姫をゾズマの結界から燻り出すための道具
としか見なしていなかった相手に、ここまで邪魔される屈辱は如何ほどか。
 アセルスは静かな怒りをたたえて転生無限者を睨んだ。

「つくづく勘に障る男だな、貴様は。あの時もそうで……いまはあんな淫売に
味方し、挙げ句、この私と一対一で対峙するだと? 思い上がりも甚だしい。
いい加減、存在自体が鬱陶しくなってきたぞ」

 零姫をいたぶるために用いていた装飾短剣の切っ先をとかげの鼻先に向ける。

「いいだろう。願い通り貴様を殺してやるから、さっさとかかってこい」

 不愉快げにアセルスは言う。朱い月光に晒されて、刃が血色にきらめいた。

198 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/08(日) 21:32:42
>>

 ……ったく、やっと行ってくれたか。それにしたって命令がどうのこうのって、七面倒くせえ
科白並べ立てやがって。……自由、な。こちとら自由だった記憶なんぞほとんどありゃしねえ
ってのに。
 本当に好き勝手言ってくれるぜ。俺が生き残ると思ってねえだと? 知るかんなもん。
 どうせ死ぬときゃ死ぬ。それでいて死ねやしねえ。ならば死など恐れやしない。
 死中に活を見いだす、だ。相手がこの色ボケ妖魔公だろうが、関係ねえ!
 
 ともあれ姫さんは行ったんだ。これで思う存分に動ける。
 向けられた短剣から目を離さず、間合いを計る。
 鯉口を切りつつも剣は抜かず、間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る――――
 
 
 
 だけ、だ。
 
 け、かかってこいだと? 馬ぁ鹿、誰がわざわざ殺されに行ってやるかよ!
 業腹だが確かに姫さんの言うとおりだ、俺の剣なんぞ所詮我流、こいつと真っ向斬り合って
勝てようなんぞ思っちゃいねえよ。
 だが、別にこいつに「勝つ」必要なんて無いんだからな。
 防戦一方、それで十分だ。その為に姫さんを逃がしてんだ、姫さんの出来る「助太刀」を
期待して……な。

 ああ、全く我ながら馬鹿げたやり方だ。希望観測が強すぎて、まるでまともな戦法じゃねえ。
 だが「死中に活」なんてのは所詮そんなもんだ。理屈じゃねえ。悪あがきにこそ、活路は
あるもんだ。
 ましてや俺はとっくに死んでる。本当の死が来ないからこそ、死ぬことには慣れている。
 そんな俺が「生き延びてやる」と言ってるんだ、ならば死中に活、見いだせるに決まっている。
 
 どこまでだって悪あがいてやる。死んでも、時間を稼いでみせるさ。

199 名前:あせるす ◆1kpREIHIME :2009/03/09(月) 04:07:02

 暫くの沈黙が流れた。
 互いに睨み合ったまま微動だにしない剣士二人。
 もしこの場に第三者の人間がいたら、緊張で窒息死していたであろうと思わ
せるほど空気が張り詰めている―――が、それも初めの数十秒だけの話で、ア
セルスがとかげの意図を察すると、緊張は即座に失望と軽蔑に転じた。

 とかげの目的は外≠ヨと脱出することであって、アセルスを斃すことでは
ない。そこに彼特有の賢しさを加味すれば、「待ちに徹する」という結論に至
るのは当然のこと。彼に剣士の矜恃など期待できるわけもなく、必然、立ち会
いの場における崇高な礼法とも縁がない。
 彼はただ醜く生き足掻いているだけだ。浅ましく生き延びようとしているだ
けだ。所詮は爬虫類。地を這う動物に相応しい考え方だな―――とアセルスは
口を歪めてせせら笑った。

「死にたがりの貴様が、死にに来ないというのなら―――」

 一回転、二回転と手の中で短剣を器用に踊らせてから、改めて切っ先をとか
げへと向ける。

「―――私から殺しに行ってやる」

 瞬間、風景はコマ送りに変ずる。ただの一度の踏み込みで、二人の距離は肉
薄する。転移の魔術でも用いたかのようなスピード。突き出された刃は見惚れ
てしまうほどに無慈悲で、吐き気を催すほどに容赦がない。
 紫電の如き突きだった。雷光にも等しき疾さだった。
 狙いは心の臓―――アセルスには、無駄にイーリンの肉体を傷付ける意図は
ない。刃に篭められた呪いで、とかげの魂を魔術の鎖でがんじがらめにしてし
まえば、それで決着はつく。

200 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/11(水) 00:54:21
>>

 ふん、どうぞ存分に笑いやがれ。どうせ望まぬ生、どう生きようがどう死のうが俺の勝手だ。
 ましてやこんな真似、柄じゃねえのは先刻承知。好き好んで切った張ったしてたまるか。
 
 短剣の切っ先が再び向く――ち、もうやる気になったか。
 だがどう来る。
 ……斬りつけてくることはねえだろう。明らかに奴の分が悪すぎる。そもそもこいつは、俺など
とっとと片付けたいところだろう。ならば一撃必殺か。
 もっとも――俺の『心臓』は、別にあるようなもんなんだがな。
 
 
 果たして――――転瞬!
 
 
 俺もまた、奴に対し踏み込んだ。
 俺のほうが遅い? 構わねえ。
 案の定、左胸を狙ってきた短剣は逸れ、腕を掠め切り裂くが、それも構わねえ。
 構ってる暇はねえ。
 
 踏み込み――抜き打ち、払い抜け。
 「居合い・後の先」などとはおこがましくも――交錯する。

201 名前:あせるす ◆1kpREIHIME :2009/03/13(金) 00:29:57


 神速の刺突に対して、臆することなく前に進むなんて。
 根性だけは座っているのか、それとも恐怖や危機感が麻痺してしまうほど生
き疲れているのか―――果たしてとかげの狙い通り、アセルスが突き出した短
剣の切っ先は彼の腕の皮を裂くに留まった。

 ちっ―――と妖魔公は小さく舌を打つ。
 まさか私の突きをかわすとは。相手を侮りすぎたか。

 タイミングを合わせてとかげが抜刀する。
 アセルスの油断が生んだ隙に、うまくつけ込むかたちになったが―――間合
いの見切りに始まり、剣の冴えも、技のキレも、足の捌きも、彼の一太刀は何
もかもが稚拙だった。剣術と呼ぶにはあまりにも大胆で乱雑だ。野良犬に相応
しい喧嘩技でしかない。
 深く踏み込み過ぎたため、いまのアセルスはとかげに対して半身を無防備に
晒してしまっている格好だが、それでも余裕をもって捌ける自信が彼女にはあ
った。一度はとかげに勝利した身だ。彼の力量は分かり切っている。
 勝負にならない。

 ―――そのはず、だったのだが。

「っ?!」

 とかげが構える赤鞘の鯉口から閃光が迸った。
 少なくとも、アセルスにはそう見えた。

 白刃が鞘走り、〈針の城〉の闇に銀光の刀傷を残す。
 その一閃は、粗野であるが故に原始的な優美さを兼ね備えていた。
 虚飾とは無縁の純粋な一刀。
 危うく見惚れるところだったが、アセルスの剣士としての才覚が理性とは切
り離された部分で無意識に躰を操り、音速の勢いで後方に飛び退かせた。
 ただの一瞬でとかげの刃圏から脱出してみせたアセルスは、目を剥いて彼が
構える刀を睨んだ。その表情にはもはや不遜な余裕は微塵も窺えない。

「……そうか」

 呻くように妖魔は言う。

「それはゾズマの獲物だったか」

 道理で疾いわけだ。

 アセルスは、自嘲じみた笑みを口元に浮かべ―――

 そして、短剣を地面に落とした。
 彼女の、右腕ごと。

 とかげの抜き打ちの一刀は、アセルスの胴こそ薙げなかったものの、右腕の
肘から先を見事に断ち切っていた。致命傷には程遠いが、確実なダメージであ
ることには間違いない。とかげがついに一矢報いたわけだ。

 切り口から青い鮮血が噴き出し、地面に転がるアセルスの右腕に降りかかる。
 若き妖魔の君は、その光景をどこか他人事のような目つきで見下ろしていた
が、瞬きを二度と三度と繰り出すと、ようやく瞳に怒りらしい感情が灯った。

「……屈辱だ」

 呪詛のような呟き。
 否、それは本当に呪いの言葉だったのかもしれない。
 アセルスの一言に応じるかのように〈針の城〉の闇が蠢いた。線路や機関車
の残骸に密生していた荊が、やにわに騒ぎ始める。ぎちぎちと音をたててアセ
ルスの周りに集い、ついには彼女の右腕があった部分に巻き付いた。 
 ―――茨の義手、というわけだ。

 細い茨が何重にも巻き付いて作られた五指が、開いては閉じられる。
 悪くない感触。アセルスの世界で創られ、アセルスの魔力で編まれた義手な
のだから、馴染みがいいのは当然か。

「―――とかげよ」

 彼女は静かに呼びかける。

「そんなにも私と刃を交えたいというのなら」

 その願い、叶えてやろう。

 茨の義手が柄を掴み、右手に提げた鞘から引き抜かれるのは、いまはとかげ
が構えるゾズマの愛刀嘯風弄月≠ニ並び立つ稀代の神刀。
 この世でもっとも気高く、清廉なる無垢の刃。

月下美人≠ェ、紅い月の下に咲き誇った。

202 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/15(日) 22:12:22
>>

 いくらどうでも、何等かの傷を負わせられればつけいる隙もあるだろう。
 奴にあんなナマクラ短剣ではなく、例の刀を抜かせたところで、ダメージと合わせてトントンだ。
 ……その様にも判断した上での、斬り込みだったが。
 
 クソ――完全に裏目に出やがった! 腕を落としても意味がねえってかよ!
 デタラメにも程がある……それであの刀まで抜かせてりゃ世話もねえぞ。
 ましてやこちとら、空鞘手持ちのせいで片手持ちにせざるを得ねえってのに……
 
 どうする。
 実際どう動く。
 再び納刀……は、意味がねえ上に無理だ。抜刀なんぞは初速が全てだし、向こうが短剣
だからこそ、踏み込める意味があった。刀と刀ではメリットがねえ。第一、収める隙など奴が
くれるものか。
 このまま抜き身でやり合うしかねえが……斬り込んで互角に出来る相手とも思っちゃいねえ。
今度こそ本当に、防戦一方か?
 ……抜刀の勢いで畳みかけてた方がまだマシだったかも知れねえな。少し、臆しすぎたか。
 結果がこれでは、奴の怒りに油を注いだだけで……
 
 あー、くそ、めんどくせえ!
 
 
「は、刃を交えたい? 俺を殺りたい、の間違いだろ? 本当にてめえに殺されてたなら、
いっそそのほうが楽だったけどなあ! どっちにしろ、お門違いだろうがな。
それとも何か? こんな年端も行かねえガキの体、切り刻む趣味でもおありですか?
王子様気取りの色ボケ妖魔公さんはよ!」


 ……徹底的に挑発しきってやらあ。頭に血、上らせてやる。
 これで必殺狙いに来てくれたほうがまだしも御しやすい……はずだ。たぶん。
 後はこの剣と鞘と身躱しで、捌ききるしかねえか。
 
 イーリンを人質にするようで気は退けるが……済まねえな、本当。

203 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/03/19(木) 00:58:26


 悪足掻きのように思えるとかげの挑発だが、アセルスが相手の場合、使いど
ころを間違えなければあながち見当外れの行為とは言えなかった。
 なにせ彼女にとって、目下の最大の目的はイーリンの躰の奪取なのだから。
そこを指摘されるのは最大の痛点のはずだ。できうる限り傷付けたくないと考
えている。叶うことならば無傷で手に入れたい。
 その執着の強さは、魔列車を衝突させたとき、イーリンの周囲にだけとかげ
に覚られぬように魔術障壁を張ってしまったほどである。
 壊すわけにはいかない。だから、人質に取られるのは辛かった。

 ―――しかし、それはアセルスが月下美人を構えていなければ、の話。

 とかげは使いどころを過った。剣士としてのアセルスの性質を見誤った。

 妖魔社会の最高位に立つ妖魔の君≠ニして君臨するアセルスだが、その在
り方は限りなく俗人で、常に懊悩、逡巡、葛藤に嬲られて生きている。
 愛するものが人質に取られれば躊躇を覚えるし、挑発をされたら炉の如く激
昂する。良くも悪くも純粋なのだ。

 だが、それはあくまで妖魔≠ニしてのアセルスの在り方。ひとたび愛刀の
月下美人を抜き放てば、そこに立つのは剣士アセルスである。
 剣客としての彼女に迷いはない。あらゆる情念から解放された眼が見つめる
のは、己の生死にすら頓着しない無我の世界。
 月下美人を構えているときだけは、アセルスはアセルスであることを忘れる
ことができた。ただの名も無き剣士として、戦場に立つことができた。

 この瞬間、とかげと相対しているのは妖魔公アセルスではなく月下美人
という一振りの大刀―――と考えれば、いまの彼女に挑発などまったく通用し
ないことは、分かりすぎるぐらいに分かるはずだ。
 人は多情だが、剣は無情。いまのアセルスには、如何なる言葉も響かない。

 針のように細かく尖らせた集中力が、無言の気合いとともに炸裂する。
 踏み込みが無音ならば、刃が風を断つ音すらも無音。絶対的な静寂を乱すこ
となく放たれた右斜めからの斬り込みは、寸分違わずにとかげの鎖骨へ飛んだ。
 ただの袈裟懸けと呼べばいくらでも捌きようがあるかのように聞こえるが、
刃の疾さは尋常ではなく、音はおろか殺意すらも置き去りにしている。

 ―――この一太刀こそ、妖魔剣術が呼ぶところの心形剣≠ナある。

204 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/19(木) 23:32:59
>>

 ――あ?
 
 あ、
 やべえ、
 こいつ、表情が消えやがっ
 
 
 ……思わず剣を構えるも、反応できたのはそこまでだった。
 俊速の袈裟斬り。
 運良くも構えた剣にぶつかるも、それは世辞にも「受け止めた」とは言い難く、
火花散らして奴の刃は刃を滑り落ち、鐔が受け止めるも斬撃を殺しきれるはずもなく――

 ――俺の無謀の代償として、右腕を切り落とし。
 
 
「――――ぁああああああああああああっ!!」


 俺の、いやイーリンの喉が、イーリンの声で、絶叫を上げる。
 その声に突き動かされ、半ば本能的に、左手の鞘を突き入れる。
 剣を振り抜いた奴の横っ腹へと。
 
 
 ……くそ、くそくそ畜生! こいつ本当に俺を、イーリンの体を斬りやがった!
 冗談抜きに絶体絶命じゃねえかクソ!
 どうする、左手の鞘なんぞで戦えるわきゃねえぞ、鞘捨てて左手で剣を拾うか、それとも――――

205 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/03/20(金) 19:27:03


 普段ならば返す刀で首を刈りにいった。そうはしなかったのは、これが殺し
合いを目的とした立ち会いではないからだ。
 腕を切り落としただけで勝負はついている。それは、イーリンの躰を無駄に
傷付けたくないという思い以上に、とかげの転生≠招きたくないという意
図があったから。ここで彼を逃して大いに禍根を残すのは面倒だ。
 零姫との因縁も含めて、二人の無限転生者との決着は、絶対にこの〈針の城〉
でつけなければならない。

 ―――が、だからといって手加減をするつもりは微塵もなく。

 事実、とかげが反射的に突き出した鞘のこじりに対しても、アセルスは冷静
に対処した。冷静に―――なにも、しなかった。
 鞘といっても鉄拵えである。人外の膂力で繰り出せば、肋骨を砕き、肉を抉
る程度の威力は秘めている。アセルスほどの達人ならば、刃で払うことは不可
能でも紙一重で避けることはできたであろうに―――無抵抗と思われかねない
ほど従順に、とかげの反撃を受け容れてしまった。

 それは、特別に抵抗する理由が無かったから。

 鞘の尖端がアセルスの脇腹を抉った瞬間、とかげも違和感に気付いたはずだ。
 鞘越しに伝わるのは、肉を打つ感触ではない―――と。

 いつからだろうか。いつから、そこにアセルスはいなくなかったのか。
 虚ろと現(うつつ)が混濁した世界で、彼女を個体として認識するのはどだ
い不可能な話。この〈針の城〉そのものがアセルスであるのだから、目に見え
るアセルス≠討とうとしたところで―――まやかしばかりが残るだけ。

 月明かりの角度が微妙に変じ、事実が露呈する。
 幻が晴れた先には、渦を巻くように密生して佇立する茨の塊。
 まるで、茨でできた案山子のような風体。
 とかげが鞘を突き入れたのは、アセルスの変わり身だった。

 驚愕の暇を与えず、茨の案山子が蠢く。
 突き込まれた鞘に自ら体重を預けたかと思うと、抱きつくように崩れ落ち―
――あっという間に、とかげの全身に絡みついた。
 茨の拘束である。
 棘という棘が衣服を破り、白い肌に食い込む。
 赤い滴が蔦を濡らし、茨は歓喜に奮えた。

 それを嬲るような目つきで眺めるのは、妖魔公アセルスそのひと。闇から生
じた彼女が本物なのか、またしても幻影なのか、判別をつける手段はない。

 月下美人を地面に突き立てると、代わりにとかげの――いや、彼女に言わせ
ればイーリンの≠ゥ――右腕を拾う。
 切り離されてなお強情に構える嘯風弄月を引き剥がして投げ捨てると、半端
な角度で広げられた人さし指を自身の唇に導き―――優しく口に含んだ。

 口内でイーリンを感じるアセルスの表情に、恍惚が広がる。

 アセルスがシャオジエ≠演じていたとき、定期診療という大義名分のも
と、眠りに耽るイーリンの肌に幾度となく指と舌を這わせた。罪悪感に苦しみ
つつ、卑怯者めと自責しつつ、衝動を殺しきれずに肌を重ねた。
 あの頃、アセルスは悩んだ。零姫への憎しみをとるか、イーリンへの愛をと
るか、葛藤に心を荒らされた。
 しかし、いまやもはや零姫は篭の鳥。二百年近く続いた因縁にも決着がつこ
うとしている。零姫さえいなくなればイーリンは自由だ。彼女を利用する必要
はなくなり、この閉じられた世界で、一緒に永遠を過ごせるようになる。

 ―――この瞬間、イーリンの右腕が私の手の中にあるように、間もなく彼女
のすべてが私のものとなり、私と融け合い、私そのものとなる。

 そのためにも零姫を追わなければ。
 いつまでも爬虫類などと戯れている場合ではない。アセルスの目的はあくま
で零姫との決着。オルロワージュの血を継ぐ者は、この世に二人も必要ない。

「貴様は暫くそこで悶えていろ」

 アセルスは冷たく言い放つと、とかげに背を向けた。

206 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/21(土) 00:51:18
>>

 ……最悪の気分だ、なんてのは一体何度目だよおい。それでも、最悪には違いない以上、
否定する必要もないが。

 腕を切り落とせば速攻で腕を作り、かと思えば一転、全身これ現身と来たもんだ。
 今しがたこっちの腕を切り落としておきながら、その身を荊の塊に転じてやがったとか、デ
タラメここに極まれり。おかげでこちとら全身拘束。荊でぎちぎち。あっちもこっちも棘だらけ。
服はボロボロ、傷物だ。当然のように体中が痛え。もちろん右腕はそれ以上に痛え。全く何が
絶体絶命だ、この有様は、真っ当な勝負などとはほど遠い。
 だがそんなことさえ……ガキくせえイーリンの体を傷だらけにされたことさえ、「最悪」の理由
にはまだ足りねえ。この痛みだって、それ自体は俺のもんだ。慣れていると言えば慣れている。
 問題は、そんなことじゃねえ。
 
 
 ――右腕を、盗られた。
 イーリンの右腕を。
 この俺の眼前で。
 右腕を。
 指先を。
 腐れたツラして。
 
 
 怖気が走る。総身が寒気に冷え切り、激痛と言っていいはずの痛みさえ一瞬忘れる。
 
 ……俺は知っている。こいつがイーリンに生前、何をしてくれていたかを。
 ようく、知っている。
 むしろイーリンが眠っていたが故に、俺の存在は普段より浮上していた、と言ってもいい。
 だから何をされたか、よく覚えている。
 
 
 …………腐れ外道が。
 
 
 悲痛なツラして、それでも愛おしそうに、イーリンを愛撫。
 馬鹿馬鹿しい、巫山戯るな、全ての元凶。てめえに「悲痛なツラ」など浮かべる資格はねえ。
ああ? ご丁寧に、聞こえずとも構わず愛の言葉まで。一体どの口でそんな台詞を吐きやがる。
その所作は確かに繊細だった。端っからてめえでぶち壊しておきながら、だ。
 独善、文字通りのひとり「よがり」だ。自分でこの境遇に堕としておきながら、真摯に、真っ直ぐに
愛を語る? 全く気違いじみているとしか思えねえ……
 ましてや、この眼前の光景をや……だ。
 
 もちろん、俺のことだってイーリンは知りもしねえ。独善というなら俺も確かに独善だ。
 ただのエゴだ。
 俺の前で、魂って奴を冒涜するような真似が心底不快だってだけだ。
 虫酸が走る。こいつみたいな外道にゃ髪一本だってくれてやるわけにはいかねえ……まして
右腕を、なんぞ……

 だが現実として、どうにもならねえ。
 俺如きがどれだけ呪詛を送ろうが、奴に効く気配もねえ。
 奴は右腕を、イーリンの右腕を、まるで宝物のように、或いはお気に入りの玩具のように、
大事に抱えて背を向ける。もう声でも張り上げる以外に術はない。
 返せ、返しやがれ、それは俺のもんだ、俺が弔ってやると決めたものだ……その様に訴えるか?
聞く耳など持ちはしないだろう。いくらイーリンの声音だろうと……

 ……イーリンの、声音?
 …………そう、か。……ええい!

207 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/21(土) 00:51:48
>> 続き







「――――シャオ、ジエ? あたし……どうなってんだ? あたしの腕、どうしちまったんだ?
なあ、シャオジエ!」







 ――振り向けよ、「シャオジエ」。てめえに塩を送ってやるぜ。
 振り向けば、てめえの眼に映るはずだ。
 頬から胸元にかけて這う蜥蜴の刺青。
 片方の……「まともだったはず」の眼をつむり、もう片方の、金色の爬虫類の眼で見上げる、
燃えるような赤毛の少女の姿が。
 てめえの愛してやまない少女の姿が。
 「“火蜥蜴”のイーリン」の姿が。


 ふと、思いついた手段。文字通りの「最後の手段」だ。
 「魂を冒涜」というなら、こんなやり方は大概だろう。行きずりの死体に憑いているってん
ならいざ知らず、何年も見守ってきた人間の演技をしようなんざ、こんな俺だって気分良く
出来るはずがねえ。
 だからこそ――最後の手段たり得る。苦し紛れで破れかぶれだが、成功の可能性がある
なら賭けるしかねえ。こんな真似をしてでも、取り戻さなくちゃならねえ。

 俺は目的を違えない。
 「イーリンとリリー」を逃がす。この腐れ外道の魔の手から解放させる。
 例えあの右腕一本だって、残していけるわけはねえ。ずっと人の死を見続けてきた俺だ
からこそ、遺骸は換えの効かないものだとよく知っている。
 その為には手段を選ばん。何をしてでも取り戻す。
 
 振り向け、振り向け……こっちへ来い。
 ギリギリまで、演じてやる。

208 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/04/18(土) 18:43:08

 気付けば、軽功に頼らず自分の足で駆けていた。

 心の乱れが彼女から功夫を奪ったのか。
 生まれ落ちてから今日まで〈火焔天〉を離れたことなど数える程度しかなく、
その移動手段も転移に頼り切っていたリリーの躰には酷すぎる運動量。
 瞬く間に息は切れ、膝は笑い―――蔦にけつまずいて、零姫は地面に倒れこ
んだ。すぐにでも起き上がるべきなのに、思考が全身に行き渡らない。
 絶望が鉛となって小さな背中にのし掛かる。

 わらわは逃げぬ。必ず戻ってくる。―――そう、誓ったのに。

「なにも、見えぬ……」

 この昏い世界。妖魔公の傲慢と欺瞞で澱んだ闇の海で、たった一筋の光明を
求めて走ったのだが、アセルスの兇刃からイーリンを護る手立てが見つかる気
配はなかった。
 別に伝説の名刀を求めているわけではない。失われた古代の魔術を探してい
るわけでもない。アセルスの世界≠ノ罅を入れることができる概念の刃が欲
しいだけなのだ。この〈針の城〉の支配者の自我を揺るがせられるのであれば、
一本の縫い針でも構わない。

 けれど―――常に監視されているかのような不快感は、零姫が未だにアセル
スの掌の上にあることを示している。敵に利するような要素をあの女が世界
に残しておくわけがない。

 途方もない無力感が、意思の輝きを曇らせる。

 逃げたどころで無駄な足掻きでしかなかった。とかげと組んだところで外
になど行けるはずがなかった。
 勝敗は、ゾズマの結界が破れたときについていたのだ。あの紅の魔人すら十
年越しの闘争に敗れたのだ。逃げ回ることしかできない自分になにができる。

「なんと―――情けない」

 イーリンには手を差し伸べられるばかりで、自分から彼女にはなにもしてや
れなかった。とかげは危険を顧みずに護り抜こうとしてくれているのに、自分
はこうして地面に這い蹲ることしかできない。
深窓の少女≠気取るには泥だらけの衣装と傷だらけの躰が、容赦なく心を
苛んでくる。―――おまえは誰にも愛される資格などない、と。

 千年を生きてもこれか。
 永遠の転生を約束されても、この体たらくか。
 どうしてわらわは。
 どうしてわらわは―――

「……失うことしか、できないのじゃ」

 頬を伝い、唇へと流れた涙は―――絶望の味がした。

209 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/04/18(土) 18:43:34


 ―――その声は、アセルスから一切合切の理性を奪い去った。

 冷静に考えば、生命を停止したイーリンが魔術的な処置もせずに戻ってく
る≠アとなど絶対にあり得ないし、もしも意地の悪い奇蹟がそういった冗談を
見過ごしたとしても、イーリンの知るシャオジエとアセルスは容姿が違う。
 ゾズマやIRPOの目を誤魔化すために彼女は寵姫の影を借りたのだ。イーリン
が尊敬する姉≠ヘ、機関車の残骸のどこかに埋もれている。
 ここには、いない。

 しかし。
 愛情に理性を殺されたアセルスにそんな理屈が通じるはずもなく―――

「イーリン!」

 我を見失って振り返った。

 こんなカタチでの出会いは想定していなかった。アセルスとイーリン≠ヘ
もっと運命的に出会うはずだった。……イーリンの黄泉返りとは、アセルスの
心象風景に取り込み、魂を融け合わせることを指していた。
 なのに。

世界≠ェ揺らぐ。
世界≠ェ軋む。
〈針の城〉がアセルスそのものである以上、彼女の動揺は世界≠ノとって大
震災に等しい。立ちこめていた闇は薄れ、無限に増殖する茨は冗談のように呆
気なく枯れ果て、砂となって消えてゆく。
 とかげを拘束していた茨の鎖も例外ではなく、やせっぽちの少女は解放され
て地面に崩れ落ちた。アセルスは慌てて駆け寄り、肩を貸そうとしゃがみ込む。

「ほ、ほんとうに……」

 上ずった声で紡ぐ言葉は、ひどく場違いに聞こえた。

「君はイーリンなのか」

 アセルスの動揺は一瞬だった。単純な彼女の心象は、既にショック状態から
抜け出し、いまは熱い衝動に突き動かされている。
 もしも本当にイーリンが戻ってきたのならば、これに勝る悦びはない。
 想いの力がイーリンを呼び戻したのだ。

「この腕は……そう、君の指輪のサイズを知るために、ちょっと借りたんだ」

 そんな言い訳を紡いでいる間にも、〈針の城〉の闇は深まり、茨は湧き水の
ように茂り、元の姿を取り戻す。

 たった一瞬の動揺。
 たった一瞬の亀裂。
 ―――しかし稀代の魔女≠ナある彼女にとって、その一瞬は永遠にも等し
い好機だった。

210 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/04/18(土) 18:43:47

「とかげめ、やりおったな!」

 どんな手を使ったかは想像もつかないが、あのアセルスの頑なな世界≠
一瞬と言えども揺るがせた。絶対的な支配を打ち消した。
 この一瞬ならば―――零姫の力が通じる。運命さえも操るが故に、忌み子と
してクーロンの死神と成り果ててしまったリリーの魔力が通用する。
魔女≠フ本懐を発揮できる。

「吹けよ風! 急急如律令!」

 運命の風が、功徳とともに零姫の矮躯を運ぶ。茨の苗床と化したペンシルビ
ルの森を切り抜け、闇を裂き、運気が導く先にあるものは―――
 
「な、なんじゃこれは……」

それ≠ヘ〈針の城〉の象徴ともいえるコンクリートジャングルに打ち捨てら
れていた。まるで屍のように放置されていた。
 確かにリリーは、それ≠ノ跨るイーリンの姿を幾度となく霊視した。けれ
ど、いまこの絶体絶命の窮地を打開する概念武装として、なぜそれ≠ェ選ば
れたのか。なぜそれ≠ナなければいけなかったのか。
 功徳の導きとはいえ、零姫には理解できない。

 ……そもそも、彼女に扱えるのかも分からない。

「ええい! 躊躇しておる暇はないか」

 挫けかけた希望の柱を、とかげが支えてくれたのだ。
 この好機、絶対に逃すわけにはいかない。 

211 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/04/23(木) 23:23:53
>>

 ――上手くいった。
 上手くいきやがった。
 上手くいってしまった。

 そんな、快哉と若干の後悔がない交ぜのこの心境は、だが、奴の目の前では
おくびにも出すわけにはいかない。

「は、指輪……? 冗談きついぜ、そんなんで腕ごと持って行く奴があるかよ。
いくらあたしが“火蜥蜴“だからって、尻尾みたいに生え替わるってわけにはいかないんだぜ?」

 慎重に『台詞』を紡ぐ。俺が何年も何年も見続けてきた少女のそれと違わぬように。
 イーリンに悪いことをしている、そいつは分かっている。だが今となってはこれしか手だてがねえ。
 低級霊や式神相手とはわけが違う。ろくすっぽ武器も技能もねえ。
 唯一持ってた、例の刀は奴の向こう、地面に向かって聖剣よろしく……だ。
 抜く機会を、抜いて追い払って逃げる機会を作るためには……藁にもすがる、というもんだ。
 ……くそっ!
 
 台詞を選びつつ、握りっぱなしだった鞘を杖代わりに、ようよう立ち上がる。
 全身拘束の直後、おまけに片腕無くしてる……とはいえ、立ち上がるのに支障はない。
 体じゅうが棘痕で痛むのはまあ我慢。
 鞘を手放したくないので手は借りない。
 まあ、借りること自体後免被るってもんだが……
 
「で、シャオジエ。腕もだけど状況説明くらい寄越してくれたっていいだろ?
一体何が起きてどうなってんだよ、まったく……シャオジエも随分なイメチェンしてるしさ。
何だ、クーロン娘の次は王子様ごっこか?」

 これでいいのか、いけないのか、手探りのまま台詞を続ける。
 時間稼ぎだ、時間稼ぎ……何か、切り抜ける手段は、瞬間は、現われやしないか。
 右も左も分からない振りして辺りを見回し、耳を澄ませる。五感を研ぎ澄ませる。
 それでいて会話も続けつつ、だ。器用な真似だが、続けるしかない。
 
 
 
 
 
 ――――聞き慣れた、だがこの場で聞こえるはずのない音が聞こえてきたのは、その時だった。

212 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/05/18(月) 23:05:11


 ―――それは世界の果てから轟いた。

 少なくともアセルスはそう感じた。

 ぱぱぱぱぱ―――、と。
 空気でぱんぱんに膨らませた袋を連続して破裂させたかのような、軽い音。
 無機質でどこか間が抜けている。
〈針の城〉で耳にする音ではない。こんな異音、私は知らない。私は関知して
いない。私の世界には含まれていない音だ。
 どこから聞こえてくる。どうして聞こえる。
 アセルスは狼狽した。目に見えて戸惑った。この瞬間、愛おしきイーリンの
ことさえも忘却した。―――〈針の城〉の支配者として、認めてはならない事
態が起こりつつある。私の世界で、私の知らない音が鳴るだなんて。

「なんだ、なんなんだこの音は!」

 聞き慣れない音が響いた程度でなにを脅えるのか。そう、ひとは嘲笑うかも
しれない。しかし、ここはアセルスの世界で、アセルスの胎内で、アセルスそ
のものなのだ。すべてが自己≠ニいう調和に満たされているはずの空間で、
己の与り知らぬ異音が聞こえたならば、誰もが戸惑いを覚えるだろう。
 まして彼女は、この〈針の城〉に絶対の自信を抱いているのだから。

 なにを見落とした。どこで間違った。
 ……アセルスには分からない。
 ゾズマに幻魔を突き立てたとき勝利を確信してしまった彼女には、いまなぜ
自分が不明の状況に陥っているのか理解できない。

 音はまっすぐにこちらへと向かってきている。分かるのはそれだけだ。
 異音の正体は見えないし、視えない。アセルスが戸惑うことによって生じた
空間の綻びを的確にすり抜けている。

「なにが、」

 ぎり、と奥歯が軋む。同時に、世界≠覆う闇も緊張で張り詰めた。

「なにが起こっているんだ―――?」

213 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/05/18(月) 23:06:17
うむ! この隙に容赦なく月下美人を奪ってぶった切ってしまえい!

214 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/05/18(月) 23:44:10
>>

 ここにきて狼狽する奴の前で、俺自身はと言えば、その“音”の正体に気づいていた。
 よもや、というか、まさか、というか……場違いな音には違いないが、しかし間違いはねえ。
ある意味、とんでもないもんを姫さんは拾って来ちまったようだ……やれやれ。
 ま、本来のその音に比べりゃ、随分と危なっかしいけどな。
 
「あん? どうしたのさシャオジエ? つーかあたし無視か?」 
 
 ……ふん、どうやら本当にこいつには分からねえか。まあ、無理もないだろうがな。こんな
ことまで、知っていようはずが無い。
 ああそうとも――イーリンについて、てめえの知らないことなんざ山ほどあるってもんだ。
 幻想に耽るだけの馬鹿なてめえが知らないことがな。
 
 ――音はどんどん大きくなってくる。近付いてきている。
 じゃあ、俺はどうする? このまま演技を続けるか?
 もちろん答えはNO、だが……しかし実際何が出来る。頼みの剣まで、届きそうもないのは
相も変わらずだ。だが来るのを待ってるだけじゃ、せっかくのチャンスを棒に振りかねないのも
また確か。かといって素手でどうこうできるとも思えねえ。
 クソ、やっぱり八方塞がりなのか? イーリンの演技なんて真似までして、このザマか?
 ああ、せめてもうちょい剣が近くにありゃ……
 
 
 あ?
 
 
 いや……そうか、よし。
 
 
「はは、なんだよシャオジエ? そんなにこの音が気になるのか? 別に大したもんじゃねえだろ。
そりゃまあ、失くしたら大変なもんだったけどさ。どうやら届けてくれるみたいだ。助かったぜ」

 半分は既に、演技ではない……かもな。
 大体、こうなりゃこいつの反応なんぞもうどうでも良いからな。必要なのは機会を探ること
だけだ。狼狽から立ち直らせる前に、片を付ける。
 音はだいぶ大きくなってきた。もう、一押し。
 
「しっかしもう少ししっかりやってほしいけどなあ。ま、あいつじゃ仕方ねえか。
……まだわかんねえ、ってツラしてんな。この音はさ」
 
 
 
 
 
 
「――――『俺ら』の脱出の合図だ!」
 
 
 
 
 
 踏み込む。
 “生やした右腕”で、“月下美人の”柄を掴む。
 そう――奴の剣を!
 
 「尻尾みたいに生え替わらない」、確かに俺はそう言ったが――は! 大嘘だ!
 皮膚までいちどきに再生とはいかないが、生やすまでなら出来る。痛覚が剥き出しでも、
剣を握って斬り払うぐらいはしてみせる!
 そして得物は目の前にあった、ってわけだ! 斬られて貰うぜ、王子様よ!
 でもってもう一本、嘯風弄月を、こいつは左腕で――!

215 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/05/18(月) 23:45:27
ここに来て二刀流をせんとする

脳内にあるのは(なぜか)絶対に負けないヒーローなのはここだけの話。

216 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/09/03(木) 21:36:06



 まずは一閃、裂帛の斬撃。その軌跡に重なるようにして逆袈裟が一太刀。
 神刀二振りによる十字の剣閃は、型破りに乱暴でこそあったものの、刃を振るう者の
拓けた未来≠ノ対する希望を、不屈の精神を、真摯に描写していた。
 暴力と呼ぶにはあまりに感傷的な十文字の刃。―――吃驚と焦燥に我を失っていたア
セルスは、殺気を気取ることすらできず、正面から剣閃を浴びた。
 自分の左腕が落ちて、初めて彼女は自分が斬られたことに気付く。

「な―――」

 なぜ、私は斬られた。
 なぜ、イーリンは私を斬った。
 なぜ、彼女はそんな野蛮な表情を作っている。
 なぜ、なぜ―――

 呆然事実とはまさにこのこと。訳も分からぬまま親から平手打ちを食らった童子のよ
うに、アセルスはきょとんとした目つきでイーリンを見つめた。
「どうして……」と暗に語る魔眼が徐々に強張っていく。現実から目を背けようにも、
刀痕から流れ出す蒼血が逃避を許してくれない。
 ―――問いかけるまでもなく、答えはひとつしかなかった。

「……なんて、コト」

 要するに、彼女はイーリンではなく。
 こいつは初めから私を謀るつもりで。
 つまり、私の愛念を逆手に取った―――道化。

「そ、んな―――」


 ……とかげが追い打ちの太刀を用意しなかったのは、先の十文字の必殺を信じていた
からなのかもしれない。月下美人と嘯風弄月―――いくら妖魔の君といえども、なんの
防御もせずに正面から浴びれば致命傷は免れない、と。
 事実、アセルスは重傷だった。左肩から胸にかけて刃が通り抜けた。左手は二の腕か
ら斬り落とされ、胸の疵は心臓にまで達している。
 この世界≠ナの初めてのダメージらしいダメージが、まさかそのままゲームの終わ
りを告げる合図になろうとは。彼女の肉体と心の均衡が崩れたいま、針の城≠フ浸食
もキャンセルされるに違いない。―――違いないはずなのだが。

 アセルスは怒りで道理をねじ曲げた。敗者の法則を撥ね付けた。

「貴様……分かっているのか」

 自分が禁忌を侵したことを。
 もっともやってはならないことを、してしまったことを。
 この私の愛情を無惨に踏みにじったことを。

 私は、本当に―――

「喜んでいたんだぞ!」

 血の泡を吐きながらとかげに飛びかかる。
 半死人の抵抗……と侮るなかれ。月下美人が奪われたとしても、アセルスにはまだ幻魔
がある。この針の城≠ナもっとも醜く、もっとも利己的な―――つまり彼女自身に等し
い、恐るべき魔剣が。
 
 闇に手をかざし、距離の概念を歪めて、虚空の鞘から幻魔を引き抜―――けない。
 柄に手をかけられはするのだが、こっち側≠ノ持ち出すことができない。
 ―――火炎天≠ナ、シャオジエ/アセルスはイーリンを使って〈紅の魔人〉の胸に幻
魔を突き立てた。深紅の刃は、未だに彼の心臓に噛み付いたまま離れていない。
 離れてくれない。

「ゾズマ……!」

 彼は、自身の心臓を鞘に見立てて幻魔を封印しているのだ。
 アセルスは確かに霊視した。火炎天≠フ書棚で、脂汗を滝のように流しながらも涼し
げな笑みを消そうとしない上級妖魔の姿を。
 
 月下美人は奪われ、幻魔は封印させられた。
 妖魔の君の象徴ともいえる二つの刃をいっぺんに失ったアセルスは、一瞬だけ攻撃の手
段に悩み―――その一瞬の逡巡がすべてを手遅れにした。

 アセルスはまたもや油断した。怒りに囚われ、とかげに意識を傾けすぎたあまり、彼女
の世界≠フ果てから谺する奇怪な轟きを忘失してしまった。
 音は瞬く間に近づき、彼女の耳元で雄叫びをあげるまでになっていたというのに。

 まず、視界に黒い影が飛び込んだ。
 それが猛スピードで回転する車輪だと気付くより前に、アセルスの躰に鋼鉄の騎馬が突
撃する。浮遊感が訪れたが、すぐにそれは落下へと転じ、地面に墜落する。夜を踊るよう
にして跳ねられたアセルスは、まるで調律の狂った人形のように細かく痙攣した。
 霞む意識の中でほぞを噛む。―――まさか、あの音の正体はこいつだったのか。


「待たせたのう」

 後輪を滑らせて方向転換をした零姫は、それ≠ノ跨ったままとかげに手をさしのべた。

 まるで焼却炉にシートと車輪を無理矢理くっつけたかのような無骨なデザインは、クー
ロンでは高価ではあったが、見慣れないものではなかった。
それ≠ヘイーリンの足≠フ役割を果たしていたものであり、こうなってしまったいま、
唯一ともいえる忘れ形見だった。
 ―――そう、概念武装化された蒸気スクーターである。

「ほら、さっさと後ろに乗れい」

 照れを隠すように零姫は素っ気なく言った。

「約束通り一緒に外≠ヨと往ってやるわい。それものんすとっぷ≠ナじゃ!」

 アクセルを空吹かしする。蒸気機関から伸びる鉄筒が鬨の声をあげた。

217 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/09/03(木) 22:57:51

 とかげから受け取ったイーリンの一部を、大事そうに懐にしまう。

「よくやった。よくアセルスに取り込ませなかった……」

 とかげが後部座席に跨ったのを確認して零姫はアクセルを回した。
 臀部を棍棒で叩かれたかのような急発進。前輪が浮き上がり、危うくとかげもろとも
置き去りにされそうになる。
 いかにも拙い運転。
 ……幻獣の召還や使役は熟達している零姫でも、こういった無機物の乗り物にはまっ
たくと言っていいほど馴染みがなかった。いっぱしに運転してきたように見えるが、そ
れはこのスクーター≠フ操作方法が「ハンドルを回せば走り出す」という簡素極まり
ないからであり、零姫自身は四苦八苦しながら車体にしがみついている状況だった。

 そも蒸気スクーター≠ネどといっても、それはあくまでイーリンが残した記憶の形
骸であり、存在は極めて概念的で精密な機械とは程遠い。現実と心象が混濁した針の
城≠ノおけるイメージの産物に過ぎないのだ。
 だから石炭をくべなくてもタイヤは回る。このスクーターを動かすのは蒸気ではなく、
零姫の意志の輝きだ。彼女が走ると信じれば―――無骨な鉄馬は忠実に嘶く。


 ぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱ―――


 第七層土星天≠通過し、二人はついに第八層恒星天≠ヨと至る。
 第十層至高天≠フ先に待つ城外≠ヨ。更にリージョン港より向こう側にあるはず
の、本当の外≠ヨと―――迷いも躊躇も捨てて、二人を乗せたスクーターは快走する。
 恒星天≠いくら走れども真っ平らに舗装された道路しかなく、現実には剣山の如
く密集しているはずのペンシルビルの風景はどこにも見えなかった。
 アセルスの支配力が弱まった針の城≠ヘ、もはや零姫ととかげの意志の力を阻むほ
どの幻想を顕現できないでいるのだ。

 ―――行ける。

 小さな躰を更に前傾して、零姫はスピードを速めた。
 
 ―――イーリンを外へと、連れて行ける。

 胸に広がるのは希望。過去、幾千幾万と踏みにじられ、絶望へと置き換わった儚い感
情。それでも捨てきれず、諦められず、胸の奥底に隠し続けていた想い。
 それがゆっくりと花開いていくのを―――零姫は確かに感じた。

218 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/09/03(木) 22:58:11

 ―――ふざ、けるな。

 二人を乗せた鉄馬が走り去った地で。
 妖魔の君主は四肢を投げ出したまま、地響きの如き呻きを漏らした。
 例え致命傷に見えようとも、物理的なダメージにはなんの意味もない。ここは彼女の世
界なのだ。世界の支配者を殺したければ、世界そのものを破壊するしかない。

 そしていま、アセルスの世界≠ヘ脆く崩れ去ろうとしていた。

 少なくとも、クーロンに浸食した針の城≠ヘ限界を迎えている。アセルスの心理的ダ
メージが、あまりに大きいからだ。

 混沌を象徴する濃厚な闇は薄れ、非現実的な茨の大群は急速に枯れてゆく。どこからと
もなく眩い火が上がり、それは瞬く間に世界¢S体へと広がっていた。
 アセルスの城が燃えていく。
 策謀に策謀を重ね、とかげとイーリンを利用し、IRPOを出し抜き、十年以上の月日を注
いだ結果、ようやくゾズマの張った結界を破れたというのに―――クーロンを丸ごと取り
込み、零姫を捕らえるという悲願が炎に包まれてゆく。
 闇を蹴散らす焔の勢いはあまりに強い。

 クーロンが、燃える。

「―――まだだ」

 躰を引きずるようにして、アセルスは立ち上がる。

「例え、針の城≠失おうとも。我が世界の顕現に失敗しようとも。……私は諦めな
い。私は決して逃がさない。私は追い続ける」

 零姫もイーリンも私のものだ。

「バイコーン!」

 アセルスの声に応じて彼女の影が蠢いた。
 水面のような闇から巨馬が躍り出る。
 山羊の如き雄々しい二本の角を持ち、怖気を振るうほどに黒い毛並みを誇る魔獣――
―不純を司る二角獣バイコーン≠セ。

 アセルスは隻腕にも関わらず愛馬に跨ると、馬の腹を蹴って走らせた。

 とかげに負わせられた刀傷からは、鮮血の代わりにさらさらと闇が溢れ出している。
 アセルスが針の城≠ネのか、針の城≠ェアセルスなのか―――境界線が限りなく
曖昧になっている証拠だ。
 浄化の炎は高く高く上っていき、アセルスの世界≠現実の風景から猛烈な速度で
追い出していく。
 ……残された時間は少ない。

 赤炎の幕があがる。
 炎上する針の城≠ナ、いま、フィナーレとなる逃走/追走の劇が始まった。

219 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/09/03(木) 22:58:25

 ―――そして。
 
 鉄屑の墓地と化した機関車の残骸にて。

 自らの棺桶になるところだった冷蔵庫の扉を蹴破って、その寵姫は戻ってきた。
 大げさに頭をさすりながら呟く。「あいやー、死ぬとこだったアルよ」

 おどけたまなこが見据えるのは外≠フ方角。追う主と逃げる余所者がいるであろう
世界≠フ果て。
 彼女はしばらく立ち尽くし、考えた。
 自分は所詮寵姫であり、あのお方の所有物に過ぎない。これ以上首を突っ込むのは僭
越というもの。主君が私の姿を借りたのは、あくまで完璧な変装のためなのだ。
 他の寵姫同様に大人しく成り行きを見守ろう。別に零姫やらイーリンやらがどうなろ
うと、自分には関わり合いがないのだから。

 ―――しかし。

「……乗りかかった船ネ」

 そうして、道化もまた終幕へと参加する。

220 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/09/11(金) 22:44:54
>>216↓これ↓>>217-219、の順だな。
ちなみに赤字は追記な。……つーか、入れるつもりで書き忘れてた。


>>

 掴んだ月下美人でそのまま斬り上げ――同時に、左手の鞘を上空に放り投げる。
 空いた左手で嘯風弄月を掴み取り、反転一閃。
 俺流二刀十字斬、ってか。二刀を振るうにゃ流石に鞘は邪魔だからな。
 
 ……どうやら結構なダメージになったようだ。奴の驚愕のツラに胸がすく。
 もっともこれで致命傷だとは思わねえが……残念ながら追撃の余裕はない。
 即席二刀流はそうそう続かねえし、それに俺にはやるべきことがある。
 こいつを殺るのは決して「本懐」じゃあない。それよりも……片手フリーにしとかなけりゃな。
 
 驚愕が憤怒に塗り替えられていく様を油断無く見つめながらも、右の月下美人を地面に突き刺し
落ちてきた鞘を掴み、嘯風弄月を血振るい、納刀。
 そして…………姫さんが特攻して今に至る。
 いや、つーかやりすぎ。別にやりすぎて困ることはねえけど。
 むしろ「してやったり」ではあるけど。
 
 
「ああ、待ちくたびれたぜ。おかげでイーリンに泥を塗るハメになっちまった」
 
 実際、半分くらいは「見ればわかる」と言った案配だろう。衣服がボロボロってだけならまだしも、
右腕が「中の肉が剥き出し」となりゃあ、な。
 それに姫さんのことだ、おまけに俺が何をやらかしたかさえも、あのバカの様子から察しを付けるかも
知れねえしな。
 
 ……不甲斐ねえ、な。こうして我が身振り返ると。
 それでも、やっとの思いで掴んだ活路だ。不死者が死人の振りをする、なんて狼藉働いてまで
切り開いた脱出口だ。
 何としてでも逃げてやる――一緒に。
 そう。
 
 ……差し伸べられた手を取る代わりに、ある「もの」を拾い上げ、手渡す。
 
 そいつは、さっきの激突でアセルスが取り落としたもの。
 絶対に渡すべきではないもの。
 不甲斐ない俺が手放してしまった、俺のものではあったが、もう俺のものではないもの。
 ――切り落とされた、「イーリンの」、右腕。
 俺は自分の手で姫さんの手を握る代わりに、そいつを握らせた。
 ……今のこの血塗れの腕は、最早イーリンの腕ではない。こんな手では握れない。
 それにこいつを持って行かなけりゃ、目的は果たされない。拾っていくためには片手が必要……
と、そういうわけだ。
 
「ああ、気味悪いとか言うんじゃねえぞ? そいつも一緒に、弔ってやらなきゃいけねえからな。
 本当は俺が持って行くべきなんだろうが、まだまだ攻め手で手一杯になりそうなんでな。
 預かっといてくれや」
 
 手が空いたので、行きがけの駄賃とばかりに月下美人を引き抜いて、姫さんの後ろに跨る。
 これで全部だ。これで手の届くものは全部、奪い返してやった。
 奴の言う「喜び」、文字通りの偶さかの喜びさえもだ。
 あとは。
 
「それじゃ、仰るとおりノンストップで頼むぜ、姫さん!」
 
 逃げる、だけ。

221 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/09/11(金) 22:45:25
んで、つづき。


>>

 かくして物語は終局へ向けて、疾走する。文字通りに地の果てまでも。
 あちらこちらに火の手が上がるも、それは俺らの行く手を遮りはしない。
 行く手を阻む物は何も見えない。ゆえに、ただ前へひた走るのみであり、希望の未来へれっつらごー……
 
 か?
 
 ……はっ、まさか。
 
 絶対的な大前提、「この期に及んで奴が諦めるはずがない」。ゴールするまでは、油断なんか出来ねえ。
 ましてや姫さんはこいつの運転に手一杯だろう。だから警戒は俺の役目だ。
 抜き身の月下美人を右にぶら下げて、何かあればすぐに斬りかかれるよう、油断無く周囲を見据える。
 
 ……その右腕だが、思ったより治りが早い。薄皮がだいぶ形成されてきて、痛覚が抑えられてきている。
 ついでに全身を穿った荊の傷も、ほとんどが完治してきている。
 こいつは、俺の現在の『より』である姫さんの後ろにぴったりくっついているせいか。
 おまけにその姫さん自身も、希望が現実的になってきたとあって、かなり昂揚しているようだしな。
 全身に力が行き渡る感覚。俺だって昂揚しようと言うものだ。
 
 
 “共に外へと行ける”
 
 
 くく、こいつが正真正銘のイーリンとリリーだったら、最高の絵面だったんだろうがな。
 だが代役でも物語は物語だ。
 ハッピーエンドを迎えてみせる。
 警戒は怠らない、だが正直、何が来たって……負ける気はしねえ。雑魚の百や二百、斬り伏せてみせる。
 
 
 
 
 ――というその考えはやはりまだ甘かったのだと、僅かな後に思い知らされた。
 
 
 初めは、奇妙な閉塞感だった。
 
 前方には何もない。吹き上がる炎に煌々と照らされるその光景には未だ、俺らを阻む物は見えない。
 だというのに、何か袋小路へ突き進んでいるかのような感覚に襲われる。
 何なんだ。何があるってんだ?
 
 前方。何もない。
 後方。何もない。
 右方。何もない。
 左方。何もない。
 下方。轍が刻まれるだけ。
 上方。そもそも何もあるわきゃね……え、ええ!?
 
 我が目を疑うとはこの事だ。
 いや、実際には何があった訳じゃねえ。何もない。
 ――ただし、“地面があるのを除けば”、だ。
 
 それは紛れもなく地面だった。何しろ気づけば、土くれや雑草までが見えるほどにその“地面”が
近付いてきていたからだ。
 さらに程なくして、その“地面”がたわみ始める。
 慌てて前方を見やれば、ゴールが待っているはずの地平線までもが歪んでいた。
 ……素直にゴールさせる気は毛頭ねえってか、おい!
 
「くそ――おい姫さん! しっかり運転してくれよ! こりゃこの先あんたのアクセルワークにかかってんぞ!」

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