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■ とかげ

1 名前:◆MidianP94o :2008/08/29(金) 23:52:50


転生無限者【てんせいむげんしゃ】

 生き続けるもの。
 死に続けるもの。
 無限に転生を繰り返すことで、死徒や妖魔とは異なる不老不死を可能とする。
 死ねば肉体を離れ、新たな躯に憑いたり生まれ変わったりするため、追跡は
困難を極める。死徒27祖のひとりアカシャの蛇≠ェ有名だが、教会や協会は
他にもタイプの異なる数人の転生無限者を存在していることを確認している。
 転生無限者が果たして人間なのか、それとも人外なのか。その定義は非常に
曖昧で、機関や研究者によって見解は異なる。

                ――――オーガスト・ダーレス『神秘学用語辞典』より

201 名前:あせるす ◆1kpREIHIME :2009/03/13(金) 00:29:57


 神速の刺突に対して、臆することなく前に進むなんて。
 根性だけは座っているのか、それとも恐怖や危機感が麻痺してしまうほど生
き疲れているのか―――果たしてとかげの狙い通り、アセルスが突き出した短
剣の切っ先は彼の腕の皮を裂くに留まった。

 ちっ―――と妖魔公は小さく舌を打つ。
 まさか私の突きをかわすとは。相手を侮りすぎたか。

 タイミングを合わせてとかげが抜刀する。
 アセルスの油断が生んだ隙に、うまくつけ込むかたちになったが―――間合
いの見切りに始まり、剣の冴えも、技のキレも、足の捌きも、彼の一太刀は何
もかもが稚拙だった。剣術と呼ぶにはあまりにも大胆で乱雑だ。野良犬に相応
しい喧嘩技でしかない。
 深く踏み込み過ぎたため、いまのアセルスはとかげに対して半身を無防備に
晒してしまっている格好だが、それでも余裕をもって捌ける自信が彼女にはあ
った。一度はとかげに勝利した身だ。彼の力量は分かり切っている。
 勝負にならない。

 ―――そのはず、だったのだが。

「っ?!」

 とかげが構える赤鞘の鯉口から閃光が迸った。
 少なくとも、アセルスにはそう見えた。

 白刃が鞘走り、〈針の城〉の闇に銀光の刀傷を残す。
 その一閃は、粗野であるが故に原始的な優美さを兼ね備えていた。
 虚飾とは無縁の純粋な一刀。
 危うく見惚れるところだったが、アセルスの剣士としての才覚が理性とは切
り離された部分で無意識に躰を操り、音速の勢いで後方に飛び退かせた。
 ただの一瞬でとかげの刃圏から脱出してみせたアセルスは、目を剥いて彼が
構える刀を睨んだ。その表情にはもはや不遜な余裕は微塵も窺えない。

「……そうか」

 呻くように妖魔は言う。

「それはゾズマの獲物だったか」

 道理で疾いわけだ。

 アセルスは、自嘲じみた笑みを口元に浮かべ―――

 そして、短剣を地面に落とした。
 彼女の、右腕ごと。

 とかげの抜き打ちの一刀は、アセルスの胴こそ薙げなかったものの、右腕の
肘から先を見事に断ち切っていた。致命傷には程遠いが、確実なダメージであ
ることには間違いない。とかげがついに一矢報いたわけだ。

 切り口から青い鮮血が噴き出し、地面に転がるアセルスの右腕に降りかかる。
 若き妖魔の君は、その光景をどこか他人事のような目つきで見下ろしていた
が、瞬きを二度と三度と繰り出すと、ようやく瞳に怒りらしい感情が灯った。

「……屈辱だ」

 呪詛のような呟き。
 否、それは本当に呪いの言葉だったのかもしれない。
 アセルスの一言に応じるかのように〈針の城〉の闇が蠢いた。線路や機関車
の残骸に密生していた荊が、やにわに騒ぎ始める。ぎちぎちと音をたててアセ
ルスの周りに集い、ついには彼女の右腕があった部分に巻き付いた。 
 ―――茨の義手、というわけだ。

 細い茨が何重にも巻き付いて作られた五指が、開いては閉じられる。
 悪くない感触。アセルスの世界で創られ、アセルスの魔力で編まれた義手な
のだから、馴染みがいいのは当然か。

「―――とかげよ」

 彼女は静かに呼びかける。

「そんなにも私と刃を交えたいというのなら」

 その願い、叶えてやろう。

 茨の義手が柄を掴み、右手に提げた鞘から引き抜かれるのは、いまはとかげ
が構えるゾズマの愛刀嘯風弄月≠ニ並び立つ稀代の神刀。
 この世でもっとも気高く、清廉なる無垢の刃。

月下美人≠ェ、紅い月の下に咲き誇った。

202 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/15(日) 22:12:22
>>

 いくらどうでも、何等かの傷を負わせられればつけいる隙もあるだろう。
 奴にあんなナマクラ短剣ではなく、例の刀を抜かせたところで、ダメージと合わせてトントンだ。
 ……その様にも判断した上での、斬り込みだったが。
 
 クソ――完全に裏目に出やがった! 腕を落としても意味がねえってかよ!
 デタラメにも程がある……それであの刀まで抜かせてりゃ世話もねえぞ。
 ましてやこちとら、空鞘手持ちのせいで片手持ちにせざるを得ねえってのに……
 
 どうする。
 実際どう動く。
 再び納刀……は、意味がねえ上に無理だ。抜刀なんぞは初速が全てだし、向こうが短剣
だからこそ、踏み込める意味があった。刀と刀ではメリットがねえ。第一、収める隙など奴が
くれるものか。
 このまま抜き身でやり合うしかねえが……斬り込んで互角に出来る相手とも思っちゃいねえ。
今度こそ本当に、防戦一方か?
 ……抜刀の勢いで畳みかけてた方がまだマシだったかも知れねえな。少し、臆しすぎたか。
 結果がこれでは、奴の怒りに油を注いだだけで……
 
 あー、くそ、めんどくせえ!
 
 
「は、刃を交えたい? 俺を殺りたい、の間違いだろ? 本当にてめえに殺されてたなら、
いっそそのほうが楽だったけどなあ! どっちにしろ、お門違いだろうがな。
それとも何か? こんな年端も行かねえガキの体、切り刻む趣味でもおありですか?
王子様気取りの色ボケ妖魔公さんはよ!」


 ……徹底的に挑発しきってやらあ。頭に血、上らせてやる。
 これで必殺狙いに来てくれたほうがまだしも御しやすい……はずだ。たぶん。
 後はこの剣と鞘と身躱しで、捌ききるしかねえか。
 
 イーリンを人質にするようで気は退けるが……済まねえな、本当。

203 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/03/19(木) 00:58:26


 悪足掻きのように思えるとかげの挑発だが、アセルスが相手の場合、使いど
ころを間違えなければあながち見当外れの行為とは言えなかった。
 なにせ彼女にとって、目下の最大の目的はイーリンの躰の奪取なのだから。
そこを指摘されるのは最大の痛点のはずだ。できうる限り傷付けたくないと考
えている。叶うことならば無傷で手に入れたい。
 その執着の強さは、魔列車を衝突させたとき、イーリンの周囲にだけとかげ
に覚られぬように魔術障壁を張ってしまったほどである。
 壊すわけにはいかない。だから、人質に取られるのは辛かった。

 ―――しかし、それはアセルスが月下美人を構えていなければ、の話。

 とかげは使いどころを過った。剣士としてのアセルスの性質を見誤った。

 妖魔社会の最高位に立つ妖魔の君≠ニして君臨するアセルスだが、その在
り方は限りなく俗人で、常に懊悩、逡巡、葛藤に嬲られて生きている。
 愛するものが人質に取られれば躊躇を覚えるし、挑発をされたら炉の如く激
昂する。良くも悪くも純粋なのだ。

 だが、それはあくまで妖魔≠ニしてのアセルスの在り方。ひとたび愛刀の
月下美人を抜き放てば、そこに立つのは剣士アセルスである。
 剣客としての彼女に迷いはない。あらゆる情念から解放された眼が見つめる
のは、己の生死にすら頓着しない無我の世界。
 月下美人を構えているときだけは、アセルスはアセルスであることを忘れる
ことができた。ただの名も無き剣士として、戦場に立つことができた。

 この瞬間、とかげと相対しているのは妖魔公アセルスではなく月下美人
という一振りの大刀―――と考えれば、いまの彼女に挑発などまったく通用し
ないことは、分かりすぎるぐらいに分かるはずだ。
 人は多情だが、剣は無情。いまのアセルスには、如何なる言葉も響かない。

 針のように細かく尖らせた集中力が、無言の気合いとともに炸裂する。
 踏み込みが無音ならば、刃が風を断つ音すらも無音。絶対的な静寂を乱すこ
となく放たれた右斜めからの斬り込みは、寸分違わずにとかげの鎖骨へ飛んだ。
 ただの袈裟懸けと呼べばいくらでも捌きようがあるかのように聞こえるが、
刃の疾さは尋常ではなく、音はおろか殺意すらも置き去りにしている。

 ―――この一太刀こそ、妖魔剣術が呼ぶところの心形剣≠ナある。

204 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/19(木) 23:32:59
>>

 ――あ?
 
 あ、
 やべえ、
 こいつ、表情が消えやがっ
 
 
 ……思わず剣を構えるも、反応できたのはそこまでだった。
 俊速の袈裟斬り。
 運良くも構えた剣にぶつかるも、それは世辞にも「受け止めた」とは言い難く、
火花散らして奴の刃は刃を滑り落ち、鐔が受け止めるも斬撃を殺しきれるはずもなく――

 ――俺の無謀の代償として、右腕を切り落とし。
 
 
「――――ぁああああああああああああっ!!」


 俺の、いやイーリンの喉が、イーリンの声で、絶叫を上げる。
 その声に突き動かされ、半ば本能的に、左手の鞘を突き入れる。
 剣を振り抜いた奴の横っ腹へと。
 
 
 ……くそ、くそくそ畜生! こいつ本当に俺を、イーリンの体を斬りやがった!
 冗談抜きに絶体絶命じゃねえかクソ!
 どうする、左手の鞘なんぞで戦えるわきゃねえぞ、鞘捨てて左手で剣を拾うか、それとも――――

205 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/03/20(金) 19:27:03


 普段ならば返す刀で首を刈りにいった。そうはしなかったのは、これが殺し
合いを目的とした立ち会いではないからだ。
 腕を切り落としただけで勝負はついている。それは、イーリンの躰を無駄に
傷付けたくないという思い以上に、とかげの転生≠招きたくないという意
図があったから。ここで彼を逃して大いに禍根を残すのは面倒だ。
 零姫との因縁も含めて、二人の無限転生者との決着は、絶対にこの〈針の城〉
でつけなければならない。

 ―――が、だからといって手加減をするつもりは微塵もなく。

 事実、とかげが反射的に突き出した鞘のこじりに対しても、アセルスは冷静
に対処した。冷静に―――なにも、しなかった。
 鞘といっても鉄拵えである。人外の膂力で繰り出せば、肋骨を砕き、肉を抉
る程度の威力は秘めている。アセルスほどの達人ならば、刃で払うことは不可
能でも紙一重で避けることはできたであろうに―――無抵抗と思われかねない
ほど従順に、とかげの反撃を受け容れてしまった。

 それは、特別に抵抗する理由が無かったから。

 鞘の尖端がアセルスの脇腹を抉った瞬間、とかげも違和感に気付いたはずだ。
 鞘越しに伝わるのは、肉を打つ感触ではない―――と。

 いつからだろうか。いつから、そこにアセルスはいなくなかったのか。
 虚ろと現(うつつ)が混濁した世界で、彼女を個体として認識するのはどだ
い不可能な話。この〈針の城〉そのものがアセルスであるのだから、目に見え
るアセルス≠討とうとしたところで―――まやかしばかりが残るだけ。

 月明かりの角度が微妙に変じ、事実が露呈する。
 幻が晴れた先には、渦を巻くように密生して佇立する茨の塊。
 まるで、茨でできた案山子のような風体。
 とかげが鞘を突き入れたのは、アセルスの変わり身だった。

 驚愕の暇を与えず、茨の案山子が蠢く。
 突き込まれた鞘に自ら体重を預けたかと思うと、抱きつくように崩れ落ち―
――あっという間に、とかげの全身に絡みついた。
 茨の拘束である。
 棘という棘が衣服を破り、白い肌に食い込む。
 赤い滴が蔦を濡らし、茨は歓喜に奮えた。

 それを嬲るような目つきで眺めるのは、妖魔公アセルスそのひと。闇から生
じた彼女が本物なのか、またしても幻影なのか、判別をつける手段はない。

 月下美人を地面に突き立てると、代わりにとかげの――いや、彼女に言わせ
ればイーリンの≠ゥ――右腕を拾う。
 切り離されてなお強情に構える嘯風弄月を引き剥がして投げ捨てると、半端
な角度で広げられた人さし指を自身の唇に導き―――優しく口に含んだ。

 口内でイーリンを感じるアセルスの表情に、恍惚が広がる。

 アセルスがシャオジエ≠演じていたとき、定期診療という大義名分のも
と、眠りに耽るイーリンの肌に幾度となく指と舌を這わせた。罪悪感に苦しみ
つつ、卑怯者めと自責しつつ、衝動を殺しきれずに肌を重ねた。
 あの頃、アセルスは悩んだ。零姫への憎しみをとるか、イーリンへの愛をと
るか、葛藤に心を荒らされた。
 しかし、いまやもはや零姫は篭の鳥。二百年近く続いた因縁にも決着がつこ
うとしている。零姫さえいなくなればイーリンは自由だ。彼女を利用する必要
はなくなり、この閉じられた世界で、一緒に永遠を過ごせるようになる。

 ―――この瞬間、イーリンの右腕が私の手の中にあるように、間もなく彼女
のすべてが私のものとなり、私と融け合い、私そのものとなる。

 そのためにも零姫を追わなければ。
 いつまでも爬虫類などと戯れている場合ではない。アセルスの目的はあくま
で零姫との決着。オルロワージュの血を継ぐ者は、この世に二人も必要ない。

「貴様は暫くそこで悶えていろ」

 アセルスは冷たく言い放つと、とかげに背を向けた。

206 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/21(土) 00:51:18
>>

 ……最悪の気分だ、なんてのは一体何度目だよおい。それでも、最悪には違いない以上、
否定する必要もないが。

 腕を切り落とせば速攻で腕を作り、かと思えば一転、全身これ現身と来たもんだ。
 今しがたこっちの腕を切り落としておきながら、その身を荊の塊に転じてやがったとか、デ
タラメここに極まれり。おかげでこちとら全身拘束。荊でぎちぎち。あっちもこっちも棘だらけ。
服はボロボロ、傷物だ。当然のように体中が痛え。もちろん右腕はそれ以上に痛え。全く何が
絶体絶命だ、この有様は、真っ当な勝負などとはほど遠い。
 だがそんなことさえ……ガキくせえイーリンの体を傷だらけにされたことさえ、「最悪」の理由
にはまだ足りねえ。この痛みだって、それ自体は俺のもんだ。慣れていると言えば慣れている。
 問題は、そんなことじゃねえ。
 
 
 ――右腕を、盗られた。
 イーリンの右腕を。
 この俺の眼前で。
 右腕を。
 指先を。
 腐れたツラして。
 
 
 怖気が走る。総身が寒気に冷え切り、激痛と言っていいはずの痛みさえ一瞬忘れる。
 
 ……俺は知っている。こいつがイーリンに生前、何をしてくれていたかを。
 ようく、知っている。
 むしろイーリンが眠っていたが故に、俺の存在は普段より浮上していた、と言ってもいい。
 だから何をされたか、よく覚えている。
 
 
 …………腐れ外道が。
 
 
 悲痛なツラして、それでも愛おしそうに、イーリンを愛撫。
 馬鹿馬鹿しい、巫山戯るな、全ての元凶。てめえに「悲痛なツラ」など浮かべる資格はねえ。
ああ? ご丁寧に、聞こえずとも構わず愛の言葉まで。一体どの口でそんな台詞を吐きやがる。
その所作は確かに繊細だった。端っからてめえでぶち壊しておきながら、だ。
 独善、文字通りのひとり「よがり」だ。自分でこの境遇に堕としておきながら、真摯に、真っ直ぐに
愛を語る? 全く気違いじみているとしか思えねえ……
 ましてや、この眼前の光景をや……だ。
 
 もちろん、俺のことだってイーリンは知りもしねえ。独善というなら俺も確かに独善だ。
 ただのエゴだ。
 俺の前で、魂って奴を冒涜するような真似が心底不快だってだけだ。
 虫酸が走る。こいつみたいな外道にゃ髪一本だってくれてやるわけにはいかねえ……まして
右腕を、なんぞ……

 だが現実として、どうにもならねえ。
 俺如きがどれだけ呪詛を送ろうが、奴に効く気配もねえ。
 奴は右腕を、イーリンの右腕を、まるで宝物のように、或いはお気に入りの玩具のように、
大事に抱えて背を向ける。もう声でも張り上げる以外に術はない。
 返せ、返しやがれ、それは俺のもんだ、俺が弔ってやると決めたものだ……その様に訴えるか?
聞く耳など持ちはしないだろう。いくらイーリンの声音だろうと……

 ……イーリンの、声音?
 …………そう、か。……ええい!

207 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/21(土) 00:51:48
>> 続き







「――――シャオ、ジエ? あたし……どうなってんだ? あたしの腕、どうしちまったんだ?
なあ、シャオジエ!」







 ――振り向けよ、「シャオジエ」。てめえに塩を送ってやるぜ。
 振り向けば、てめえの眼に映るはずだ。
 頬から胸元にかけて這う蜥蜴の刺青。
 片方の……「まともだったはず」の眼をつむり、もう片方の、金色の爬虫類の眼で見上げる、
燃えるような赤毛の少女の姿が。
 てめえの愛してやまない少女の姿が。
 「“火蜥蜴”のイーリン」の姿が。


 ふと、思いついた手段。文字通りの「最後の手段」だ。
 「魂を冒涜」というなら、こんなやり方は大概だろう。行きずりの死体に憑いているってん
ならいざ知らず、何年も見守ってきた人間の演技をしようなんざ、こんな俺だって気分良く
出来るはずがねえ。
 だからこそ――最後の手段たり得る。苦し紛れで破れかぶれだが、成功の可能性がある
なら賭けるしかねえ。こんな真似をしてでも、取り戻さなくちゃならねえ。

 俺は目的を違えない。
 「イーリンとリリー」を逃がす。この腐れ外道の魔の手から解放させる。
 例えあの右腕一本だって、残していけるわけはねえ。ずっと人の死を見続けてきた俺だ
からこそ、遺骸は換えの効かないものだとよく知っている。
 その為には手段を選ばん。何をしてでも取り戻す。
 
 振り向け、振り向け……こっちへ来い。
 ギリギリまで、演じてやる。

208 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/04/18(土) 18:43:08

 気付けば、軽功に頼らず自分の足で駆けていた。

 心の乱れが彼女から功夫を奪ったのか。
 生まれ落ちてから今日まで〈火焔天〉を離れたことなど数える程度しかなく、
その移動手段も転移に頼り切っていたリリーの躰には酷すぎる運動量。
 瞬く間に息は切れ、膝は笑い―――蔦にけつまずいて、零姫は地面に倒れこ
んだ。すぐにでも起き上がるべきなのに、思考が全身に行き渡らない。
 絶望が鉛となって小さな背中にのし掛かる。

 わらわは逃げぬ。必ず戻ってくる。―――そう、誓ったのに。

「なにも、見えぬ……」

 この昏い世界。妖魔公の傲慢と欺瞞で澱んだ闇の海で、たった一筋の光明を
求めて走ったのだが、アセルスの兇刃からイーリンを護る手立てが見つかる気
配はなかった。
 別に伝説の名刀を求めているわけではない。失われた古代の魔術を探してい
るわけでもない。アセルスの世界≠ノ罅を入れることができる概念の刃が欲
しいだけなのだ。この〈針の城〉の支配者の自我を揺るがせられるのであれば、
一本の縫い針でも構わない。

 けれど―――常に監視されているかのような不快感は、零姫が未だにアセル
スの掌の上にあることを示している。敵に利するような要素をあの女が世界
に残しておくわけがない。

 途方もない無力感が、意思の輝きを曇らせる。

 逃げたどころで無駄な足掻きでしかなかった。とかげと組んだところで外
になど行けるはずがなかった。
 勝敗は、ゾズマの結界が破れたときについていたのだ。あの紅の魔人すら十
年越しの闘争に敗れたのだ。逃げ回ることしかできない自分になにができる。

「なんと―――情けない」

 イーリンには手を差し伸べられるばかりで、自分から彼女にはなにもしてや
れなかった。とかげは危険を顧みずに護り抜こうとしてくれているのに、自分
はこうして地面に這い蹲ることしかできない。
深窓の少女≠気取るには泥だらけの衣装と傷だらけの躰が、容赦なく心を
苛んでくる。―――おまえは誰にも愛される資格などない、と。

 千年を生きてもこれか。
 永遠の転生を約束されても、この体たらくか。
 どうしてわらわは。
 どうしてわらわは―――

「……失うことしか、できないのじゃ」

 頬を伝い、唇へと流れた涙は―――絶望の味がした。

209 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/04/18(土) 18:43:34


 ―――その声は、アセルスから一切合切の理性を奪い去った。

 冷静に考えば、生命を停止したイーリンが魔術的な処置もせずに戻ってく
る≠アとなど絶対にあり得ないし、もしも意地の悪い奇蹟がそういった冗談を
見過ごしたとしても、イーリンの知るシャオジエとアセルスは容姿が違う。
 ゾズマやIRPOの目を誤魔化すために彼女は寵姫の影を借りたのだ。イーリン
が尊敬する姉≠ヘ、機関車の残骸のどこかに埋もれている。
 ここには、いない。

 しかし。
 愛情に理性を殺されたアセルスにそんな理屈が通じるはずもなく―――

「イーリン!」

 我を見失って振り返った。

 こんなカタチでの出会いは想定していなかった。アセルスとイーリン≠ヘ
もっと運命的に出会うはずだった。……イーリンの黄泉返りとは、アセルスの
心象風景に取り込み、魂を融け合わせることを指していた。
 なのに。

世界≠ェ揺らぐ。
世界≠ェ軋む。
〈針の城〉がアセルスそのものである以上、彼女の動揺は世界≠ノとって大
震災に等しい。立ちこめていた闇は薄れ、無限に増殖する茨は冗談のように呆
気なく枯れ果て、砂となって消えてゆく。
 とかげを拘束していた茨の鎖も例外ではなく、やせっぽちの少女は解放され
て地面に崩れ落ちた。アセルスは慌てて駆け寄り、肩を貸そうとしゃがみ込む。

「ほ、ほんとうに……」

 上ずった声で紡ぐ言葉は、ひどく場違いに聞こえた。

「君はイーリンなのか」

 アセルスの動揺は一瞬だった。単純な彼女の心象は、既にショック状態から
抜け出し、いまは熱い衝動に突き動かされている。
 もしも本当にイーリンが戻ってきたのならば、これに勝る悦びはない。
 想いの力がイーリンを呼び戻したのだ。

「この腕は……そう、君の指輪のサイズを知るために、ちょっと借りたんだ」

 そんな言い訳を紡いでいる間にも、〈針の城〉の闇は深まり、茨は湧き水の
ように茂り、元の姿を取り戻す。

 たった一瞬の動揺。
 たった一瞬の亀裂。
 ―――しかし稀代の魔女≠ナある彼女にとって、その一瞬は永遠にも等し
い好機だった。

210 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/04/18(土) 18:43:47

「とかげめ、やりおったな!」

 どんな手を使ったかは想像もつかないが、あのアセルスの頑なな世界≠
一瞬と言えども揺るがせた。絶対的な支配を打ち消した。
 この一瞬ならば―――零姫の力が通じる。運命さえも操るが故に、忌み子と
してクーロンの死神と成り果ててしまったリリーの魔力が通用する。
魔女≠フ本懐を発揮できる。

「吹けよ風! 急急如律令!」

 運命の風が、功徳とともに零姫の矮躯を運ぶ。茨の苗床と化したペンシルビ
ルの森を切り抜け、闇を裂き、運気が導く先にあるものは―――
 
「な、なんじゃこれは……」

それ≠ヘ〈針の城〉の象徴ともいえるコンクリートジャングルに打ち捨てら
れていた。まるで屍のように放置されていた。
 確かにリリーは、それ≠ノ跨るイーリンの姿を幾度となく霊視した。けれ
ど、いまこの絶体絶命の窮地を打開する概念武装として、なぜそれ≠ェ選ば
れたのか。なぜそれ≠ナなければいけなかったのか。
 功徳の導きとはいえ、零姫には理解できない。

 ……そもそも、彼女に扱えるのかも分からない。

「ええい! 躊躇しておる暇はないか」

 挫けかけた希望の柱を、とかげが支えてくれたのだ。
 この好機、絶対に逃すわけにはいかない。 

211 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/04/23(木) 23:23:53
>>

 ――上手くいった。
 上手くいきやがった。
 上手くいってしまった。

 そんな、快哉と若干の後悔がない交ぜのこの心境は、だが、奴の目の前では
おくびにも出すわけにはいかない。

「は、指輪……? 冗談きついぜ、そんなんで腕ごと持って行く奴があるかよ。
いくらあたしが“火蜥蜴“だからって、尻尾みたいに生え替わるってわけにはいかないんだぜ?」

 慎重に『台詞』を紡ぐ。俺が何年も何年も見続けてきた少女のそれと違わぬように。
 イーリンに悪いことをしている、そいつは分かっている。だが今となってはこれしか手だてがねえ。
 低級霊や式神相手とはわけが違う。ろくすっぽ武器も技能もねえ。
 唯一持ってた、例の刀は奴の向こう、地面に向かって聖剣よろしく……だ。
 抜く機会を、抜いて追い払って逃げる機会を作るためには……藁にもすがる、というもんだ。
 ……くそっ!
 
 台詞を選びつつ、握りっぱなしだった鞘を杖代わりに、ようよう立ち上がる。
 全身拘束の直後、おまけに片腕無くしてる……とはいえ、立ち上がるのに支障はない。
 体じゅうが棘痕で痛むのはまあ我慢。
 鞘を手放したくないので手は借りない。
 まあ、借りること自体後免被るってもんだが……
 
「で、シャオジエ。腕もだけど状況説明くらい寄越してくれたっていいだろ?
一体何が起きてどうなってんだよ、まったく……シャオジエも随分なイメチェンしてるしさ。
何だ、クーロン娘の次は王子様ごっこか?」

 これでいいのか、いけないのか、手探りのまま台詞を続ける。
 時間稼ぎだ、時間稼ぎ……何か、切り抜ける手段は、瞬間は、現われやしないか。
 右も左も分からない振りして辺りを見回し、耳を澄ませる。五感を研ぎ澄ませる。
 それでいて会話も続けつつ、だ。器用な真似だが、続けるしかない。
 
 
 
 
 
 ――――聞き慣れた、だがこの場で聞こえるはずのない音が聞こえてきたのは、その時だった。

212 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/05/18(月) 23:05:11


 ―――それは世界の果てから轟いた。

 少なくともアセルスはそう感じた。

 ぱぱぱぱぱ―――、と。
 空気でぱんぱんに膨らませた袋を連続して破裂させたかのような、軽い音。
 無機質でどこか間が抜けている。
〈針の城〉で耳にする音ではない。こんな異音、私は知らない。私は関知して
いない。私の世界には含まれていない音だ。
 どこから聞こえてくる。どうして聞こえる。
 アセルスは狼狽した。目に見えて戸惑った。この瞬間、愛おしきイーリンの
ことさえも忘却した。―――〈針の城〉の支配者として、認めてはならない事
態が起こりつつある。私の世界で、私の知らない音が鳴るだなんて。

「なんだ、なんなんだこの音は!」

 聞き慣れない音が響いた程度でなにを脅えるのか。そう、ひとは嘲笑うかも
しれない。しかし、ここはアセルスの世界で、アセルスの胎内で、アセルスそ
のものなのだ。すべてが自己≠ニいう調和に満たされているはずの空間で、
己の与り知らぬ異音が聞こえたならば、誰もが戸惑いを覚えるだろう。
 まして彼女は、この〈針の城〉に絶対の自信を抱いているのだから。

 なにを見落とした。どこで間違った。
 ……アセルスには分からない。
 ゾズマに幻魔を突き立てたとき勝利を確信してしまった彼女には、いまなぜ
自分が不明の状況に陥っているのか理解できない。

 音はまっすぐにこちらへと向かってきている。分かるのはそれだけだ。
 異音の正体は見えないし、視えない。アセルスが戸惑うことによって生じた
空間の綻びを的確にすり抜けている。

「なにが、」

 ぎり、と奥歯が軋む。同時に、世界≠覆う闇も緊張で張り詰めた。

「なにが起こっているんだ―――?」

213 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/05/18(月) 23:06:17
うむ! この隙に容赦なく月下美人を奪ってぶった切ってしまえい!

214 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/05/18(月) 23:44:10
>>

 ここにきて狼狽する奴の前で、俺自身はと言えば、その“音”の正体に気づいていた。
 よもや、というか、まさか、というか……場違いな音には違いないが、しかし間違いはねえ。
ある意味、とんでもないもんを姫さんは拾って来ちまったようだ……やれやれ。
 ま、本来のその音に比べりゃ、随分と危なっかしいけどな。
 
「あん? どうしたのさシャオジエ? つーかあたし無視か?」 
 
 ……ふん、どうやら本当にこいつには分からねえか。まあ、無理もないだろうがな。こんな
ことまで、知っていようはずが無い。
 ああそうとも――イーリンについて、てめえの知らないことなんざ山ほどあるってもんだ。
 幻想に耽るだけの馬鹿なてめえが知らないことがな。
 
 ――音はどんどん大きくなってくる。近付いてきている。
 じゃあ、俺はどうする? このまま演技を続けるか?
 もちろん答えはNO、だが……しかし実際何が出来る。頼みの剣まで、届きそうもないのは
相も変わらずだ。だが来るのを待ってるだけじゃ、せっかくのチャンスを棒に振りかねないのも
また確か。かといって素手でどうこうできるとも思えねえ。
 クソ、やっぱり八方塞がりなのか? イーリンの演技なんて真似までして、このザマか?
 ああ、せめてもうちょい剣が近くにありゃ……
 
 
 あ?
 
 
 いや……そうか、よし。
 
 
「はは、なんだよシャオジエ? そんなにこの音が気になるのか? 別に大したもんじゃねえだろ。
そりゃまあ、失くしたら大変なもんだったけどさ。どうやら届けてくれるみたいだ。助かったぜ」

 半分は既に、演技ではない……かもな。
 大体、こうなりゃこいつの反応なんぞもうどうでも良いからな。必要なのは機会を探ること
だけだ。狼狽から立ち直らせる前に、片を付ける。
 音はだいぶ大きくなってきた。もう、一押し。
 
「しっかしもう少ししっかりやってほしいけどなあ。ま、あいつじゃ仕方ねえか。
……まだわかんねえ、ってツラしてんな。この音はさ」
 
 
 
 
 
 
「――――『俺ら』の脱出の合図だ!」
 
 
 
 
 
 踏み込む。
 “生やした右腕”で、“月下美人の”柄を掴む。
 そう――奴の剣を!
 
 「尻尾みたいに生え替わらない」、確かに俺はそう言ったが――は! 大嘘だ!
 皮膚までいちどきに再生とはいかないが、生やすまでなら出来る。痛覚が剥き出しでも、
剣を握って斬り払うぐらいはしてみせる!
 そして得物は目の前にあった、ってわけだ! 斬られて貰うぜ、王子様よ!
 でもってもう一本、嘯風弄月を、こいつは左腕で――!

215 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/05/18(月) 23:45:27
ここに来て二刀流をせんとする

脳内にあるのは(なぜか)絶対に負けないヒーローなのはここだけの話。

216 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/09/03(木) 21:36:06



 まずは一閃、裂帛の斬撃。その軌跡に重なるようにして逆袈裟が一太刀。
 神刀二振りによる十字の剣閃は、型破りに乱暴でこそあったものの、刃を振るう者の
拓けた未来≠ノ対する希望を、不屈の精神を、真摯に描写していた。
 暴力と呼ぶにはあまりに感傷的な十文字の刃。―――吃驚と焦燥に我を失っていたア
セルスは、殺気を気取ることすらできず、正面から剣閃を浴びた。
 自分の左腕が落ちて、初めて彼女は自分が斬られたことに気付く。

「な―――」

 なぜ、私は斬られた。
 なぜ、イーリンは私を斬った。
 なぜ、彼女はそんな野蛮な表情を作っている。
 なぜ、なぜ―――

 呆然事実とはまさにこのこと。訳も分からぬまま親から平手打ちを食らった童子のよ
うに、アセルスはきょとんとした目つきでイーリンを見つめた。
「どうして……」と暗に語る魔眼が徐々に強張っていく。現実から目を背けようにも、
刀痕から流れ出す蒼血が逃避を許してくれない。
 ―――問いかけるまでもなく、答えはひとつしかなかった。

「……なんて、コト」

 要するに、彼女はイーリンではなく。
 こいつは初めから私を謀るつもりで。
 つまり、私の愛念を逆手に取った―――道化。

「そ、んな―――」


 ……とかげが追い打ちの太刀を用意しなかったのは、先の十文字の必殺を信じていた
からなのかもしれない。月下美人と嘯風弄月―――いくら妖魔の君といえども、なんの
防御もせずに正面から浴びれば致命傷は免れない、と。
 事実、アセルスは重傷だった。左肩から胸にかけて刃が通り抜けた。左手は二の腕か
ら斬り落とされ、胸の疵は心臓にまで達している。
 この世界≠ナの初めてのダメージらしいダメージが、まさかそのままゲームの終わ
りを告げる合図になろうとは。彼女の肉体と心の均衡が崩れたいま、針の城≠フ浸食
もキャンセルされるに違いない。―――違いないはずなのだが。

 アセルスは怒りで道理をねじ曲げた。敗者の法則を撥ね付けた。

「貴様……分かっているのか」

 自分が禁忌を侵したことを。
 もっともやってはならないことを、してしまったことを。
 この私の愛情を無惨に踏みにじったことを。

 私は、本当に―――

「喜んでいたんだぞ!」

 血の泡を吐きながらとかげに飛びかかる。
 半死人の抵抗……と侮るなかれ。月下美人が奪われたとしても、アセルスにはまだ幻魔
がある。この針の城≠ナもっとも醜く、もっとも利己的な―――つまり彼女自身に等し
い、恐るべき魔剣が。
 
 闇に手をかざし、距離の概念を歪めて、虚空の鞘から幻魔を引き抜―――けない。
 柄に手をかけられはするのだが、こっち側≠ノ持ち出すことができない。
 ―――火炎天≠ナ、シャオジエ/アセルスはイーリンを使って〈紅の魔人〉の胸に幻
魔を突き立てた。深紅の刃は、未だに彼の心臓に噛み付いたまま離れていない。
 離れてくれない。

「ゾズマ……!」

 彼は、自身の心臓を鞘に見立てて幻魔を封印しているのだ。
 アセルスは確かに霊視した。火炎天≠フ書棚で、脂汗を滝のように流しながらも涼し
げな笑みを消そうとしない上級妖魔の姿を。
 
 月下美人は奪われ、幻魔は封印させられた。
 妖魔の君の象徴ともいえる二つの刃をいっぺんに失ったアセルスは、一瞬だけ攻撃の手
段に悩み―――その一瞬の逡巡がすべてを手遅れにした。

 アセルスはまたもや油断した。怒りに囚われ、とかげに意識を傾けすぎたあまり、彼女
の世界≠フ果てから谺する奇怪な轟きを忘失してしまった。
 音は瞬く間に近づき、彼女の耳元で雄叫びをあげるまでになっていたというのに。

 まず、視界に黒い影が飛び込んだ。
 それが猛スピードで回転する車輪だと気付くより前に、アセルスの躰に鋼鉄の騎馬が突
撃する。浮遊感が訪れたが、すぐにそれは落下へと転じ、地面に墜落する。夜を踊るよう
にして跳ねられたアセルスは、まるで調律の狂った人形のように細かく痙攣した。
 霞む意識の中でほぞを噛む。―――まさか、あの音の正体はこいつだったのか。


「待たせたのう」

 後輪を滑らせて方向転換をした零姫は、それ≠ノ跨ったままとかげに手をさしのべた。

 まるで焼却炉にシートと車輪を無理矢理くっつけたかのような無骨なデザインは、クー
ロンでは高価ではあったが、見慣れないものではなかった。
それ≠ヘイーリンの足≠フ役割を果たしていたものであり、こうなってしまったいま、
唯一ともいえる忘れ形見だった。
 ―――そう、概念武装化された蒸気スクーターである。

「ほら、さっさと後ろに乗れい」

 照れを隠すように零姫は素っ気なく言った。

「約束通り一緒に外≠ヨと往ってやるわい。それものんすとっぷ≠ナじゃ!」

 アクセルを空吹かしする。蒸気機関から伸びる鉄筒が鬨の声をあげた。

217 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/09/03(木) 22:57:51

 とかげから受け取ったイーリンの一部を、大事そうに懐にしまう。

「よくやった。よくアセルスに取り込ませなかった……」

 とかげが後部座席に跨ったのを確認して零姫はアクセルを回した。
 臀部を棍棒で叩かれたかのような急発進。前輪が浮き上がり、危うくとかげもろとも
置き去りにされそうになる。
 いかにも拙い運転。
 ……幻獣の召還や使役は熟達している零姫でも、こういった無機物の乗り物にはまっ
たくと言っていいほど馴染みがなかった。いっぱしに運転してきたように見えるが、そ
れはこのスクーター≠フ操作方法が「ハンドルを回せば走り出す」という簡素極まり
ないからであり、零姫自身は四苦八苦しながら車体にしがみついている状況だった。

 そも蒸気スクーター≠ネどといっても、それはあくまでイーリンが残した記憶の形
骸であり、存在は極めて概念的で精密な機械とは程遠い。現実と心象が混濁した針の
城≠ノおけるイメージの産物に過ぎないのだ。
 だから石炭をくべなくてもタイヤは回る。このスクーターを動かすのは蒸気ではなく、
零姫の意志の輝きだ。彼女が走ると信じれば―――無骨な鉄馬は忠実に嘶く。


 ぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱ―――


 第七層土星天≠通過し、二人はついに第八層恒星天≠ヨと至る。
 第十層至高天≠フ先に待つ城外≠ヨ。更にリージョン港より向こう側にあるはず
の、本当の外≠ヨと―――迷いも躊躇も捨てて、二人を乗せたスクーターは快走する。
 恒星天≠いくら走れども真っ平らに舗装された道路しかなく、現実には剣山の如
く密集しているはずのペンシルビルの風景はどこにも見えなかった。
 アセルスの支配力が弱まった針の城≠ヘ、もはや零姫ととかげの意志の力を阻むほ
どの幻想を顕現できないでいるのだ。

 ―――行ける。

 小さな躰を更に前傾して、零姫はスピードを速めた。
 
 ―――イーリンを外へと、連れて行ける。

 胸に広がるのは希望。過去、幾千幾万と踏みにじられ、絶望へと置き換わった儚い感
情。それでも捨てきれず、諦められず、胸の奥底に隠し続けていた想い。
 それがゆっくりと花開いていくのを―――零姫は確かに感じた。

218 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/09/03(木) 22:58:11

 ―――ふざ、けるな。

 二人を乗せた鉄馬が走り去った地で。
 妖魔の君主は四肢を投げ出したまま、地響きの如き呻きを漏らした。
 例え致命傷に見えようとも、物理的なダメージにはなんの意味もない。ここは彼女の世
界なのだ。世界の支配者を殺したければ、世界そのものを破壊するしかない。

 そしていま、アセルスの世界≠ヘ脆く崩れ去ろうとしていた。

 少なくとも、クーロンに浸食した針の城≠ヘ限界を迎えている。アセルスの心理的ダ
メージが、あまりに大きいからだ。

 混沌を象徴する濃厚な闇は薄れ、非現実的な茨の大群は急速に枯れてゆく。どこからと
もなく眩い火が上がり、それは瞬く間に世界¢S体へと広がっていた。
 アセルスの城が燃えていく。
 策謀に策謀を重ね、とかげとイーリンを利用し、IRPOを出し抜き、十年以上の月日を注
いだ結果、ようやくゾズマの張った結界を破れたというのに―――クーロンを丸ごと取り
込み、零姫を捕らえるという悲願が炎に包まれてゆく。
 闇を蹴散らす焔の勢いはあまりに強い。

 クーロンが、燃える。

「―――まだだ」

 躰を引きずるようにして、アセルスは立ち上がる。

「例え、針の城≠失おうとも。我が世界の顕現に失敗しようとも。……私は諦めな
い。私は決して逃がさない。私は追い続ける」

 零姫もイーリンも私のものだ。

「バイコーン!」

 アセルスの声に応じて彼女の影が蠢いた。
 水面のような闇から巨馬が躍り出る。
 山羊の如き雄々しい二本の角を持ち、怖気を振るうほどに黒い毛並みを誇る魔獣――
―不純を司る二角獣バイコーン≠セ。

 アセルスは隻腕にも関わらず愛馬に跨ると、馬の腹を蹴って走らせた。

 とかげに負わせられた刀傷からは、鮮血の代わりにさらさらと闇が溢れ出している。
 アセルスが針の城≠ネのか、針の城≠ェアセルスなのか―――境界線が限りなく
曖昧になっている証拠だ。
 浄化の炎は高く高く上っていき、アセルスの世界≠現実の風景から猛烈な速度で
追い出していく。
 ……残された時間は少ない。

 赤炎の幕があがる。
 炎上する針の城≠ナ、いま、フィナーレとなる逃走/追走の劇が始まった。

219 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/09/03(木) 22:58:25

 ―――そして。
 
 鉄屑の墓地と化した機関車の残骸にて。

 自らの棺桶になるところだった冷蔵庫の扉を蹴破って、その寵姫は戻ってきた。
 大げさに頭をさすりながら呟く。「あいやー、死ぬとこだったアルよ」

 おどけたまなこが見据えるのは外≠フ方角。追う主と逃げる余所者がいるであろう
世界≠フ果て。
 彼女はしばらく立ち尽くし、考えた。
 自分は所詮寵姫であり、あのお方の所有物に過ぎない。これ以上首を突っ込むのは僭
越というもの。主君が私の姿を借りたのは、あくまで完璧な変装のためなのだ。
 他の寵姫同様に大人しく成り行きを見守ろう。別に零姫やらイーリンやらがどうなろ
うと、自分には関わり合いがないのだから。

 ―――しかし。

「……乗りかかった船ネ」

 そうして、道化もまた終幕へと参加する。

220 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/09/11(金) 22:44:54
>>216↓これ↓>>217-219、の順だな。
ちなみに赤字は追記な。……つーか、入れるつもりで書き忘れてた。


>>

 掴んだ月下美人でそのまま斬り上げ――同時に、左手の鞘を上空に放り投げる。
 空いた左手で嘯風弄月を掴み取り、反転一閃。
 俺流二刀十字斬、ってか。二刀を振るうにゃ流石に鞘は邪魔だからな。
 
 ……どうやら結構なダメージになったようだ。奴の驚愕のツラに胸がすく。
 もっともこれで致命傷だとは思わねえが……残念ながら追撃の余裕はない。
 即席二刀流はそうそう続かねえし、それに俺にはやるべきことがある。
 こいつを殺るのは決して「本懐」じゃあない。それよりも……片手フリーにしとかなけりゃな。
 
 驚愕が憤怒に塗り替えられていく様を油断無く見つめながらも、右の月下美人を地面に突き刺し
落ちてきた鞘を掴み、嘯風弄月を血振るい、納刀。
 そして…………姫さんが特攻して今に至る。
 いや、つーかやりすぎ。別にやりすぎて困ることはねえけど。
 むしろ「してやったり」ではあるけど。
 
 
「ああ、待ちくたびれたぜ。おかげでイーリンに泥を塗るハメになっちまった」
 
 実際、半分くらいは「見ればわかる」と言った案配だろう。衣服がボロボロってだけならまだしも、
右腕が「中の肉が剥き出し」となりゃあ、な。
 それに姫さんのことだ、おまけに俺が何をやらかしたかさえも、あのバカの様子から察しを付けるかも
知れねえしな。
 
 ……不甲斐ねえ、な。こうして我が身振り返ると。
 それでも、やっとの思いで掴んだ活路だ。不死者が死人の振りをする、なんて狼藉働いてまで
切り開いた脱出口だ。
 何としてでも逃げてやる――一緒に。
 そう。
 
 ……差し伸べられた手を取る代わりに、ある「もの」を拾い上げ、手渡す。
 
 そいつは、さっきの激突でアセルスが取り落としたもの。
 絶対に渡すべきではないもの。
 不甲斐ない俺が手放してしまった、俺のものではあったが、もう俺のものではないもの。
 ――切り落とされた、「イーリンの」、右腕。
 俺は自分の手で姫さんの手を握る代わりに、そいつを握らせた。
 ……今のこの血塗れの腕は、最早イーリンの腕ではない。こんな手では握れない。
 それにこいつを持って行かなけりゃ、目的は果たされない。拾っていくためには片手が必要……
と、そういうわけだ。
 
「ああ、気味悪いとか言うんじゃねえぞ? そいつも一緒に、弔ってやらなきゃいけねえからな。
 本当は俺が持って行くべきなんだろうが、まだまだ攻め手で手一杯になりそうなんでな。
 預かっといてくれや」
 
 手が空いたので、行きがけの駄賃とばかりに月下美人を引き抜いて、姫さんの後ろに跨る。
 これで全部だ。これで手の届くものは全部、奪い返してやった。
 奴の言う「喜び」、文字通りの偶さかの喜びさえもだ。
 あとは。
 
「それじゃ、仰るとおりノンストップで頼むぜ、姫さん!」
 
 逃げる、だけ。

221 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/09/11(金) 22:45:25
んで、つづき。


>>

 かくして物語は終局へ向けて、疾走する。文字通りに地の果てまでも。
 あちらこちらに火の手が上がるも、それは俺らの行く手を遮りはしない。
 行く手を阻む物は何も見えない。ゆえに、ただ前へひた走るのみであり、希望の未来へれっつらごー……
 
 か?
 
 ……はっ、まさか。
 
 絶対的な大前提、「この期に及んで奴が諦めるはずがない」。ゴールするまでは、油断なんか出来ねえ。
 ましてや姫さんはこいつの運転に手一杯だろう。だから警戒は俺の役目だ。
 抜き身の月下美人を右にぶら下げて、何かあればすぐに斬りかかれるよう、油断無く周囲を見据える。
 
 ……その右腕だが、思ったより治りが早い。薄皮がだいぶ形成されてきて、痛覚が抑えられてきている。
 ついでに全身を穿った荊の傷も、ほとんどが完治してきている。
 こいつは、俺の現在の『より』である姫さんの後ろにぴったりくっついているせいか。
 おまけにその姫さん自身も、希望が現実的になってきたとあって、かなり昂揚しているようだしな。
 全身に力が行き渡る感覚。俺だって昂揚しようと言うものだ。
 
 
 “共に外へと行ける”
 
 
 くく、こいつが正真正銘のイーリンとリリーだったら、最高の絵面だったんだろうがな。
 だが代役でも物語は物語だ。
 ハッピーエンドを迎えてみせる。
 警戒は怠らない、だが正直、何が来たって……負ける気はしねえ。雑魚の百や二百、斬り伏せてみせる。
 
 
 
 
 ――というその考えはやはりまだ甘かったのだと、僅かな後に思い知らされた。
 
 
 初めは、奇妙な閉塞感だった。
 
 前方には何もない。吹き上がる炎に煌々と照らされるその光景には未だ、俺らを阻む物は見えない。
 だというのに、何か袋小路へ突き進んでいるかのような感覚に襲われる。
 何なんだ。何があるってんだ?
 
 前方。何もない。
 後方。何もない。
 右方。何もない。
 左方。何もない。
 下方。轍が刻まれるだけ。
 上方。そもそも何もあるわきゃね……え、ええ!?
 
 我が目を疑うとはこの事だ。
 いや、実際には何があった訳じゃねえ。何もない。
 ――ただし、“地面があるのを除けば”、だ。
 
 それは紛れもなく地面だった。何しろ気づけば、土くれや雑草までが見えるほどにその“地面”が
近付いてきていたからだ。
 さらに程なくして、その“地面”がたわみ始める。
 慌てて前方を見やれば、ゴールが待っているはずの地平線までもが歪んでいた。
 ……素直にゴールさせる気は毛頭ねえってか、おい!
 
「くそ――おい姫さん! しっかり運転してくれよ! こりゃこの先あんたのアクセルワークにかかってんぞ!」

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