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■ とかげ

1 名前:◆MidianP94o :2008/08/29(金) 23:52:50


転生無限者【てんせいむげんしゃ】

 生き続けるもの。
 死に続けるもの。
 無限に転生を繰り返すことで、死徒や妖魔とは異なる不老不死を可能とする。
 死ねば肉体を離れ、新たな躯に憑いたり生まれ変わったりするため、追跡は
困難を極める。死徒27祖のひとりアカシャの蛇≠ェ有名だが、教会や協会は
他にもタイプの異なる数人の転生無限者を存在していることを確認している。
 転生無限者が果たして人間なのか、それとも人外なのか。その定義は非常に
曖昧で、機関や研究者によって見解は異なる。

                ――――オーガスト・ダーレス『神秘学用語辞典』より

2 名前:アセルス ◆MidianP94o :2008/08/29(金) 23:53:32

Prologue



 ひとの命は脆い。自信の身をもってそれを証明したはずなのに、学習しない
私は同じ過ちを繰り返す。……気まぐれの不運はいつだって突然だ。もう百年
も昔、ある少女が馬車に轢かれただけで壊れてしまったように。

 取り返しのつかない悔恨が冷え切った躰を焦がす。

『まだ、もう少しだけ、人間のままでいたいんです』

 なぜ、彼女の言葉を安易に受け容れてしまったのか。

『いま、行くわけにはいかないんです。わたしはまだ子供で、この躰は父と母
のものだから。でも、大人になれば―――』

 耳を貸す必要なんてなかった。

『約束してください、アセルス様。わたしが成人した夜に、必ず迎えにくると。
わたしを永遠の世界に連れて行ってくれると』

 さらってしまえば良かったのだ。

『わたし、待ってますから。アセルス様を信じて、待ってますから』

 なのに、私は彼女がそれを望むなら≠ネどという欺瞞に目がくらんで。

『待ってますから―――』

 ひとの命は脆い。
 彼女に気付かれないように警護の妖魔を派遣しようと、その事実から逃れる
ことはできない。気まぐれに気まぐれが乗算され、不運と不運が掛け合わされ
れば、稀代の美女であろうとその容姿にそぐわぬ呆気ない末路を迎える。
 まさか、夏風邪を治すために呼んだ医者が薬の調合を間違えるなんて。悪意
も殺意も存在しない世界に住んだまま、彼女の笑みを失うことになるなんて。

 良家の令嬢だった。
 ほんとに美しい娘だった。
妖魔の君≠ニいう立場を隠し、夢魔と偽って屋敷に忍び込んだ。彼女は私に
脅えもせず、「愉快な悪魔さん」と呼んで友達になりたがった。世間を知らな
いがゆえの無邪気が、私の瞳にはとても眩しく映った。月に一度の新月の夜、
彼女の部屋で密会を重ねた。気付けば友人ではなくなっていた。私の望むがま
まに、彼女は私のものとなり、私は彼女のものとなった。
 そのまま、誰に気付かれることもなく、成人の夜に、彼女は悠久の闇へと旅
立つはずだったのに。私の寵姫となり、永遠を手にするはずだったのに。

 最後の新月の夜。彼女の屋敷に駆けつけたときには既に、葬式が始まってい
た。彼女は私の手を取ることなく、ひとりで永遠となってしまった。
 八つ当たりに警護の妖魔を八つ裂きにした。元凶であるヤブ医者にはもっと
深い苦しみを与えるべきだったが、私の怒りの瘴気を浴びた途端に心臓を止め
てしまった。満足に復讐することすら許されなかった私は、人間の身分を偽っ
て彼女の葬式に参列した。狭く暗い棺桶に幽閉され、墓地へと運ばれてゆく彼
女を呆然と見送った。土がかけられ、墓碑が立ち、参列者が散り散りに解散し
ても、その場から離れることはできなかった。

 人目につかぬよう離れた場所から、昼も夜も構わずに彼女が眠る場所を見守
り続けた。私の胸は、思い出を融かす空虚で占められつつあった。
 虚無の隙間からは狂気が芽生える。いっそ墓を暴いて、彼女の亡骸だけでも
針の城に迎えるべきじゃないだろうか。そんな考えがふとよぎったとき、視界
の先で、土が盛り上がり、墓碑が揺れて、白蝋の如き腕が地上を求めて突き出
した。我が目を疑う光景。そして、ああ、そして彼女が―――

3 名前:アセルス ◆MidianP94o :2008/08/30(土) 00:24:42


 

 再び夜空の下へと戻ったきた彼女は、はだけた屍衣から蜥蜴の刺青を覗かせていた。



.

4 名前:◆MidianP94o :2008/09/02(火) 22:52:29








とかげvsアセルス


零姫・甜蜜蜜(超仮題)





.


5 名前:◆MidianP94o :2008/09/02(火) 22:52:56


零姫【ぜろひめ】

 先代妖魔の君、オルロワージュの最初の寵姫。
 オルロワージュを逆吸血した唯一の妖魔でもある。
 妖魔の君の力を得たことで転生無限者となり、死ぬ度に生まれ変わって赤ん
坊から人生をやり直している。転生を繰り返して世界中をさまよっているが、
その美貌が絶えず不幸を呼び寄せて、彼女の居場所を奪ってしまう。
 上級妖魔にしては珍しく人間の社会を愛し、人間の生活を求めている。
 零姫は新生妖魔の君アセルスとは別の意味でオルロワージュの血を継ぐも
の≠フため、アセルスからしてみれば目障り極まりない存在のようだ。零姫が
転生する先々にアセルスが現れ、結果的に無理な転生を強いている。
 特性上、自身の領地を持たないため所在は不明。


とかげ【とかげ】
 
 詳細不明。神を喰らうことで転生無限者となった男。



      ――――魔術師協会封印指定手配書『転生無限者』の項より


6 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/02(火) 22:55:09



 クーロンは常夜のリージョンだ。
 けど、同時に夜を拒むリージョンとしても知られている。

 暗黒の天蓋を恐れるかのように、煌々と焚かれる無限のネオン。
 常夜であるがゆえに昼も夜もなく活動する人と人と人、そして人。
 雑踏が喧噪が矯声が夜の静寂を頑なに拒む。
 クーロンは永遠の夜に縛られているがためにどのリージョンよりも深く夜の
恐ろしさを知り、だからこそ夜を強烈に拒否する。

 ……そう、この街は眠らない不夜城。

 一束いくらの人間の命を燃焼させて闇を払う。

 ―――終わらない不眠症に悩まさるリージョンで、あたしたちは今日も澱んだ
空気を吸い、ネオンのまばゆさに目を細めながら生きていく。


.

7 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/02(火) 22:56:01







第一章「不夜城クーロン」







,

8 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/04(木) 05:44:42


.01

 ぞんざいにドアチャイムを鳴らす。玄関の奥から出てきたのは二十歳前後の
派手めの女だった。あたしを認めるなりぎょっと顔を強ばらせる。迂闊にドア
を開けてしまったことに対する後悔がありありと感じ取れた。
 あたしはちっと舌を打つ。これだから共同租界で仕事をするのはいやなんだ。
こいつ等はクーロンにいながらにして、クーロンの人間っていうのをリアルで
感じていない。人を容姿で判断してびびるような真似をするなんて。

 ―――頬の蜥蜴が疼く。

「……引き取りに来たんだけど」

 言葉にも自然と棘が含まれた。……いや、これはいつも通りか。

「ひ、引き取り?」

 女の顔がひきつる。

「あ、ああ。そ、そう。引き取り。回収よね。ごめんなさい、ちょっと想像し
ていた人と違ったから取り乱しちゃって」

 うるせー馬鹿。ほっとけ。
 唐突に部屋を引き払うことになった。身ひとつで出ていくから、家財道具や
服飾品などすべて買い取って欲しい。そう連絡を受けたから、わざわざ中心街
から出張してきたんだ。さっさと見積もりをさせて、さっさと戦利品を積み込
ませて、さっさと帰らせろ。

「たったこんだけ? トラックいっぱいに積んでおいて?」

 女は最後まであたしに対する警戒を解かなかったけれど、あたしが提示した
買い取り金額にだけはしっかり文句をつけてきた。
 あたしは如何にも面倒そうに答える。

「いや、ほとんどゴミだし。処分するのだってただじゃないし」

 すでに積み込みは済ませているんだから、この金額でノーとは言わせない。
そのことは女も理解しているらしく、渋々ながらあたしが突きつけたキャッシ
ュを受け取った。

 ―――ここでのもう仕事は終わった。見積もり鑑定のために必要だった蜥
蜴の眼≠眼帯で隠す。肩まで乱暴に伸ばした赤毛を翻して三輪トラックの運
転席に乗り込んだとき、あたしの背中に女が恐る恐る問いかけた。

「……あなた、ほんとに人間? 少なくとも、堅気じゃないわよね」

 頬から鎖骨にかけて痣にも刺青にも見える蜥蜴を飼い、燃え盛る赤毛で見る
ものを威嚇し、瞳孔が極端に細い爬虫類の眼を眼帯で隠す。そして、家具も家
電も一人で楽々と運び出せてしまう程度には力持ちな細腕。加えて自分でも困
ってしまうぐらいに美少女だっていうんだから、なるほど、これは確かに人間
離れしているように見えるかもしれない。
 あたしは女の問いかけを鼻で笑い飛ばしてイグニッションキーをひねった。
 堅気なのか、ヤクザなのか。人間なのか、化け物なのか。人として存在する
権利を与えられない針の城≠フ住人にとって、その質問はあまりに滑稽だ。

「ここをどこだと思ってるんだい。ここはクーロンだぜ」

 そう言い捨てて、あたしはアクセルを踏み込んだ。

9 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/04(木) 05:46:45


火蜥蜴(ロンユエン)≠フイーリン。
 それがあたしの名。
 あたしの通り名と、本名。
 孤児のあたしには、誰がイーリンという名を付けたのかは知らない。覚えて
いない。けど、あたしを火蜥蜴≠ニ呼んだのが誰かは知っている。
 媽媽(マーマ)だ。
 あたしの赤毛と刺青を揶揄してそう呼び出した。あたしの記憶が残る限り、
マーマは一度もあたしをイーリンと呼んだことはない。
 火蜥蜴―――パラケルススの四精霊がひとつ、サラマンドラ。
 かわいげの欠片もないあだ名だけど、名は体を為すというか、なかなか的を
射たネーミングだとは思う。あたしの赤毛は唐辛子のようだし、心臓へと這い
進むように肌に張りついた蜥蜴は、長く鋭い尻尾が頬に伸びて疵(スカー)の
ように見える。普段は眼帯で隠している右眼なんて、あからさま人間のそれと
は違う、畸形としか言いようがない魔眼だ。
 火事のような髪に、蜥蜴の刺青と眼を持つ小娘には、イーリンなんて愛らし
い名前よりも、幻獣・火蜥蜴のほうが相応しい。気付けばマーマだけではなく、
あたしを知る誰もがあたしを火蜥蜴(ロンユエン)≠ニ呼ぶようになった。
 クーロンの火蜥蜴。それが、あたしだ。


             * * * *


 むせ返るほどに濃密な香水とニンニクの臭い。クローンの中でも中心街特有
の異臭があたしを歓迎する。続いて、十数種類の雑多な言語が耳に襲いかかっ
た。誰が誰に話しかけているのやら、誰もが声を張り上げて怒鳴り合っている。
 色とりどりのネオンに出迎えられながら、あたしは荷物を満載した三輪トラ
ックを進めた。―――多くの人間がリージョン・クーロン≠ニ聞いて真っ先
にイメージするこのメインストリートは、まず嗅覚と聴覚から始まって、最後
に視覚が到着を告げる。つまり、臭くて喧しくて目障りな通りということ。
 
 馬車も人力車も現役のクーロンでは、数秘機関(クラック・エンジン)式の
自動車は非常に貴重だ。自動車即ち超富裕層の道楽玩具と断言しても間違いは
ない。こんなニンニク臭い通りで人混みに揉まれているような連中には、まず
縁がない乗り物だ。だから、オンボロの三輪トラックでも目立ちに目立つ。

 あたしとトラックの姿を認めた途端に、ガキの物乞いどもがばっと群がって
きた。狭い運転席を囲うようにして、なにかくれと囃し立てる。それを目隠し
にして、荷台に回った何人かが積み荷を掠め取ろうっていう算段だ。
 あたしはハンドルの真ん中を叩いて、改造したクラックションを鳴らした。
圧縮された言霊がホーンから拡散して、ガキどもを残らず弾き飛ばす。
 殺傷性なんて欠片もない敵意をもった音圧≠ノ過ぎないけれど、ガキども
を脅かすには充分だ。幼い物乞いたちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていっ
た。その様子を、あたしは醒めた目つきで見守る。

 ……よくもまぁ、毎日飽きもせずに繰り返すぜ。

 メインストリートをこの三輪トラックで通ることは、毎日どころか、日に二
度も三度もある。その度にガキどもはあたしの積み荷を狙い、そして撃退され
ていた。いい加減、とっくに車種もあたしの顔も覚えているはずなんだけど。
 それだけこいつ等も必死っていうことか。
 あたしはふんと鼻を鳴らして、トラックをゆっくりと進めた。

10 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/04(木) 05:50:04


 メインストリートに立ち入った瞬間から、人口密度は跳ね上がる。
 表通りと言っても、せいぜい馬車が通ることぐらいしか考慮せずに舗装した
道だから、当然のように道幅は広くない。そこにさらに、無許可の屋台がずら
りと道の両端を占拠するのだから、人の流れは悪くなる。歩いて進むことすら
困難なんだ。とてもじゃないけど、トラックなんかで進めたものじゃない。
 ―――けど、あたしの事務所はメインストリートの裏通りにある。ここを突
き進む以外に道はない。進める進めないじゃなくて、進むしかないんだ。

 だいたい、トラックと人間じゃ前者のほうが強いに決まっている。轢かれ損
のクーロンで、頑なに道を譲らない莫迦なんて滅多にいない。あたしはのろの
ろと進みながらも、決して止まることはせず、人混みをかき分けるようにして
トラックを前進させた。気分はまるで、人の海を泳ぐ鉄牛だ。

 車の進みは遅い。そればっかりはしかたがない。殆どの人間は、あたしのト
ラックを見ると面倒そうに道をあけるけど、後ろから自動車が迫るなんて考え
たこともないであろうやつもいる。そういうのは大抵外の人間だ。世界の中
心<Nーロン・ストリートを闊歩することで、気がでかくなっちまっている。
 対処法は簡単で、ケツをバンパーで小突いてやればいい。悪態を吐きながら
振り返っても、フロントガラス越しにあたしを見れば、必ず引き下がる。
 ダッシュボードに如何にもわざとらしく、ポンプアクションのショットガン
を置いているのが効果的なのかもしれない。

 喧噪をかき分け、雑踏を割りながらメインストリートをゆるゆると進む。
 ふと横丁に繋がる路地に目を向けてみると、三人組の街娼がリージョンシッ
プの船乗りの一団に愛想を飛ばしていた。その様子をまんじりと見つめるのは
スリの悪童だ。隙あらば船乗りの稼ぎを奪い取ろうと目を光らせている。
 クーロン・ストリートでは珍しくもなんともない光景だ。

 すべては日常のまま。永遠の夜の中で、眠らない昼を繰り返す。

 床屋が歩道に店を開き格安で散髪や耳掃除を請け負えば、飼い慣らした小鳥
に運動させる老人は竹籠に入れた鶸や鶯を観光客に売りつける。
 屋台の店主は通行人の迷惑も考えず路上にテーブルを並べ、様々な屋台から
客たちは粥や麺、魯肉飯など思い思いの料理を選んで腹を満たす。
 少しでも身なりの整った紳士を見つければ乞食がすぐに道を塞ぎ、IRPOに雇
われた下請けの警邏は人目も憚らずに大麻の煙草を吹かす。
 零落した知識人は舗道にチョークで自伝を書き、いちばん心を打つ箇所に金
を置けと呼びかけた。
 人間が生み出す狂的なエネルギーが夜の恐れをはね付ける。クーロンが不夜
城と呼ばれる由縁が、この通りにはあった。

 ……だけど、街並みを占めるのは人間ばかり。人外の姿はまずない。これだ
け人の熱気が渦巻き、想念がこびり付けているというのに、地縛霊ひとつ見え
やしない。クーロン・ストリートは薄汚れた通りだけど、霊的な意味合いでは
異常なまでに潔癖だった。だから畸形のあたしは余計に目立つ。視線を集める。
 でも、誰も声をかけてはこない。
 観光客や船乗りはともかく、メインストリートで商売をしているような連中
なら、故買屋の火蜥蜴≠フ名ぐらい知っているはずなのに。
 誰もあたしに関わろうとはしない。
 ―――それはあたしが針の城≠フ住人だから。

 メインストリートを含む中心街はリージョン・クローンの顔と云われている。
そういうことになっている。でもあたしから言わせれば、共同租界同様に、や
っぱりここはクーロンじゃない。クーロンお試し体験版。夜の世界をちょっと
だけ覗いてみよう。だけど本物の危険はゴメンです。その程度の街だ。

11 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/04(木) 05:53:45


 メインストリートを抜けて、ようやく裏通りに辿り着いた。表通りほどでは
ないけれど、ここもクーロン・ストリートの一部だけあって人通りは多い。
 あたしは路上に寝転がる酔客を轢かないように注意しながら、事務所に向け
て車を進めた。ネオンの明かりが遠ざかるだけで、視野はだいぶ狭くなる。

 あたしの事務所兼倉庫は、雨の多いクーロンで、水はけ良くするために作ら
れた人工河川沿いにある。三階建て、鉄筋コンクリート造のボロビルディング。
 ビルと呼べば聞こえはいいけど、面積の狭さを高さで補っているだけだ。

 入り口にトラックを停めると、エンジンを切るより疾く事務所から巨人が飛
び出してきた。……そう、巨人だ。あれを人間と呼ぶのはかなり苦しい。

 異様なまでに盛り上がった筋肉と、それを覆う鬱血したまま壊死したような
青黒い肌。胸板はドラム缶を横向きに埋め込んだかのように厚く、比例して肩
幅も広い。その巨腕は冗談ではなく、あたしの胴体がすっぽりと収まってしま
う。背丈は天を衝くほどで、あたしの1.5倍はある。仮面劇で用いられるような
牙を剥く悪魔の面を被っているため、表情は確認できない。
 人間のかたちこそしているものの、巨人の躰は人間が持てる肉体の限度を超
えていた。……無理もない。だって彼女≠ヘ人間なんかじゃないんだから。

 新鮮なミノタウロスの死体に、トリニティの中央部から流れてきた中古品の
人造霊(オートマトン)を魂の代替品≠ニして宿すことで生ける死者≠ノ
した人造僵尸=Bそれが彼女だ。名前はハダリーという。
 仮面を被っているのは、死者である以上、彼女は生前のミノタウロスとはま
ったくの別物だから。存在の揺らぎを少しでも誤魔化すために、仮面を被らせ
ている。ハダリーの素顔はあの仮面だと思ってくれて構わない。

 死体いじりと人造霊の改造はあたしの趣味にして、蜥蜴の眼≠もっとも
有効的に活用できる特技でもあった。その中でもハダリーは歴代最高傑作だ。

 このクーロンで手に入らないものなんてない。あたしがミノタウロスの死体
を選んだのは、単純に身体能力が高いほうが便利だったからだ。
 望めば当然、人間の死体だって手に入る。倫理さえ無視すれば人造僵尸の娼
婦だって作れるだろう。究極のダッチワイフだ。
 ……ただ、それにかかるコストを考えれば、高級娼館で一週間豪遊したほう
がよっぽど経済的だというだけで。
 このハダリーだって、今日までに注ぎ込んだ金は、苦力(クーリー)千人を
一ヶ月間ゆうに雇えるぐらいの額には上っている。
 まぁつまり、道楽ということ。

「社長、オカエリナサヰ」

 ハダリーは片言であたしを出迎えた。憑依した肉体を通して呪文を発声する
人造霊は多くても、自発的に会話を試みる人造霊は、なかなかいない。
 これもあたしの教育の賜物か。
 でも―――

「社長はやめろって言ってるだろ、ハダリー」

「スヰマセン、社長」

 知能は人間サマには遠く及ばない。

 ……別にいいんだ。あたしは、人間を造りたかったわけじゃないんだから。
 むしろ、人間を雇いたくなかったからこそ、ハダリーを積極的に労働力とし
て使っているのが真実か。でなければ、こんな燃費の悪い雌牛なんて誰が飼う
ものか。―――いや、あたしがホルモンバランスとか筋肉強度とかをいじりす
ぎたせいで、外見は雄にしか見えなくなってしまったんだけどさ。
 それでもきっと魂のレベルでは、乙女心を有している、はず。

12 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/05(金) 18:42:02


 あたしは運転席から降りると、ちょうどあたしの目の位置にあるハダリーの
腹筋を拳で叩いた。ゴムタイヤどころか、鉄板のような堅さ。

「荷台にあるやつ、冷風機と乾燥機は適当に掃除したら倉庫にぶち込んでおい
て。加熱調理器と冷蔵庫は欲しがっている人知っているから、明日あたしが持
っていくよ。これは磨いたら、荷台に戻しておいて」

 あたしの指示に、ハダリーは「ハヰ、ハヰ」と機械的な返事をする。

「他にも家電製品や蒸気製品はいくつかあったね。ぜんぶ在庫にしちゃうから、
リストアップしておいてよ。家具の方はほとんどゴミかなぁ。化粧台だけはブ
ランドものっぽかったけど。化粧台以外は全部バラして木材にしちゃっていい
や。食器類はそのままホワンのとこに流しちゃうから、木箱ごと倉庫へ」

「魔術品ワ、ナヰノデスカ」

「相手は商売女だぜ? そんなもの持ってないって。ま、共同租界に住んでる
だけあって、ものは上等だけどさ。どれもそこそこ高く売れるぜ」

「お疲れサマです。じャあ、ここワ私ニ任せて、社長は事務所デゆっくりして
クダサヰ。ここワ私に任セテ」

「あ、ああ……」

 言われなくてもそうするつもりだけど。
 ……どこでそんな不自然な気づかいを学習してきたのか。あたしは首を傾げ
ながら、ビルの奥へと消えていった。


                * * * *


 このビルは大まかに分けて、一階がガレージ兼倉庫、二階が事務所、三階が
あたしの工房やあたし以外の社員≠フ住居で構成されている。
 社員と言ってもあたしを含めて三人しかおらず、一人はハダリーなため、真
っ当な人間と呼べるようなやつは残りの一人しかいないのだけど。
 その一人っていうのが、あたしがロートル(老頭児)と呼ぶ男だ。自分では
ジェフリーと名乗っている。
 薄くなった白髪をオールバックにした六十代半ばの老人だけど、年齢の割に
は壮健で、痩せてはいるが上背があるためそれなりに貫禄もある。
 常に服装に気を配っていて、腰に張りつくようなタイトなスーツしか着よう
としない洒落者だ。
 あたしがマーマに拾われた頃から、面倒を見てもらっている。

 十年以上前、まだクーロンに妖魔租界があり、妖魔や魔物が平気で街中をう
ろつく魔界都市≠セった時代。ロートルはクーロン・マフィアとして、人か
ら怖れられる存在だったらしい。このリージョンで黒社会の一員として生きて
いくには、荒事が得意なだけではなく、運気に恵まれ、抜け目がないことが必
要だ。かつてはロートルも暴力を手なずけ、野心に満ちていたんだろう。
 ―――いま、その名残を垣間見ることはできない。

 あたしはロートルをビルの外で見たことはない。ロートルの言葉を信じるな
ら、妖魔租界戦争∴ネ後、十年近くこのビルから一歩も外に出ていないこと
になる。馴染みの商売相手は快く受け容れるが、一見の客は絶対に事務所に立
ち入らせない。ロートルは極度に知らない人間≠ニの接触を怖れていた。
 屋内で黙々と事務仕事をこなす。それが、かつてのクーロン・マフィアの成
れの果てだ。

13 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/05(金) 18:42:17

 事務所の扉を開く。ロートルは、あたしが戻ったのに気付くと、作業を中断
して椅子から立ち上がった。帳簿かなにかをつけていたんだろう。銭勘定はす
べてロートルに任せている。引きこもりと言えども、クーロンで六十年以上の
時を過ごした経験と博聞は貴重だ。
 信用もあった。あたしとの付き合いは、マーマに次いで古い。それにロート
ルは、あたし以外に頼れるやつがいない。
 このビルを追い出されたら、たちまちショック死しちまうんじゃないだろう
か。それ程までにロートルは外≠怖れていた。
 だから、十代半ばの小娘にも平気でへつらう。

「社長、早かったですね」

 ロートルの決まりきった挨拶。夜しかない世界で、遅いも早いもないだろう
に。あたしは嘆息して応える。

「だから、社長はやめろって」

 昔は小姑娘(シャオ・クーニャン)≠ネんて呼んで、あたしをからかって
いた。ロートルがあたしではなく、マーマに雇われていた頃の話だ。
 マーマが引退して、雇い主が変わった途端に態度も変わった。

「でも、あなたは社長ですから」
 
 あ、そう、とあたしは適当に返事をする。ハダリーともロートルとも、毎日
のように繰り返している儀式のようなやりとり。あたしは別に社長なんかじゃ
ないし、会社だって経営しているつもりはないのに。
 ただ飯のタネを稼いでいるだけだ。

 ―――このビルも、得意の客筋も、故買屋という商売も、社長という肩書き
も、クーロンで生きていく術すらも、あたしはマーマから受け継いだ。

 十年前。身よりもなく、記憶も曖昧なまま路地裏で凍えていたあたしに手を
差し伸べてくれたマーマ。左右で虹彩の異なる両眼を持ち、不気味な刺青を彫
り込んだ外道の子を、見せ物として売り飛ばすわけでもなく、自らの娘として
迎え入れてくれたマーマ。あたしがいまこうして生きていられるのは、すべて
彼女のお陰だ。マーマはあたしの母であり、師であった。

 阿嬌(アキュウ)。それがマーマの名前。
 本名ではないけれど、若く見られること、若く美しい女性として扱われるこ
とを何より好んだマーマは、人にそう呼ぶよう強いていた。あたしからマーマ
と呼ばれるのも、あまり嬉しくなかったに違いない。成長が遅いあたしを見る
度に、マーマは溜息をこぼしていた。

 マーマはクーロンの女傑だった。クーロンでは主席の名前は知らなくても、
阿嬌の名は畏敬をもって反芻する人が大勢いる。
 誰よりも強くたくましい女性だった。
『家族以外のなんでも買い、なんでも売る』と豪語するマーマは、言葉通り、
盗品を扱う故買屋を勤め、情報屋稼業を営み、娼館をいくつも持ち、不動産も
扱った。阿片窟の経営にすら手を伸ばしていた。
 黒社会とも強力な繋がりを持ち、妖魔租界戦争∴ネ後、クーロン黒社会の
勢力図が劇的に書き換えられた後も、その地位は不動のままだった。
 いま、あたしが火蜥蜴≠フ二つ名とともに怖れられている理由の半分は、
「あの阿嬌の娘」という事実があるからだ。残りの半分は、言うまでもなくこ
の外道の容姿。あたしの右眼を見れば、誰もが顔を歪め、心を乱す。

 マーマだけだ。マーマだけが、「普通の人間とは違う」あたしから価値を見
出してくれた。あたしの右眼は、何物にも代え難い宝だと教えてくれた。

14 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/06(土) 22:17:04


 あたしには幼い頃の記憶がない。マーマに拾われるまで、どこで何をしてい
たのか、まったく覚えてない。だから当然、出生の事情も分からない。
 どうしてこんな右眼を持って生まれてしまったのか。どうしてあたしの頬か
ら鎖骨にかけて、蜥蜴の刺青が彫られているのか。どうして躰が傷ついても、
すぐに治ってしまうのか。どうして人より力があるのか。
 全部、分からないままだ。
 きっと魔物とのハーフなのだろう。リザードマンあたりにレイプされた人間
の女が、あたしを産み落として、そのまま捨てた。
 ……別に珍しい話でもなんでもない。妖魔租界戦争≠ナクーロンから妖魔
が駆逐されるまでは、この街にも妖魔や魔物と人間のあいのこがうんざりする
ほどいたらしい。そんなありふれた出生を悲劇として抱え持つ気はない。

 どうして記憶がないのかも、覚えている価値がなかったからだろう、と考え
ることにしている。覚えていたくないほどの凄惨な記憶だったに違いない。
「もしかして、どっかのリージョンのお姫様だったのかもしれないよ」なんて
マーマはからかったりもしたけど、どっちにしろ、いまのあたしには五歳や六
歳の頃の過去なんて必要ない。
 あたしという火蜥蜴は、マーマの娘だ。その事実だけで充分だ。


 応接用のソファに腰掛けると、ロートルはジョッキにオレンジジュースを並
々と注いで持ってきた。あたしはそれをひと息で飲み干すと、ジョッキを突き
返して尋ねる。

「んで、なんかお仕事は入ったの」

「商品を見たいというお客様が一人。かなり脈ありです」

「なにか売れそうなの?」

 あたしは倉庫に眠っている商品の数々を頭の中に浮かべた。基本的に、在庫
になるようなものは商品価値が低い。本当に売れるものは、予約の段階で何人
も名を連ね、入荷して即日捌けてしまう。

「ピアノです。グランドピアノ。二週間前にウーから買い取った」

 あたしは口笛を吹く。あれが売れれば大儲けだ。
 どこかのナイトクラブが潰れたとき、借金のかたに差し押さえられた大きな
黒檀のグランドピアノで、黒鍵は化石樹の枝を、白鍵はナイトスケルトンの骨
でできた最高級品だ。弾くものが弾けば魔曲の領域にまで昇華するだろう。
 霊視を可能な蜥蜴の眼≠持つあたしにとって、そういった魔術品の査定
はもっとも得意とするところだった。

 向こうはグランドピアノなんて抱えるスペースはないものだから、早急に売
り払いたがっていた。その足下を見て、格安で買い取ることに成功したんだ。
 ―――が、いくら格安と言っても物が物だけに高価な買い物だ。しかもグラ
ンドピアノは重くてでかい。ただでさえ広くない一階の倉庫が余計に圧迫され
る。あたしとしてはさっさと捌いてしまいたいのだけど、グランドピアノを、
しかも無駄に最高級品を欲しがるような客なんてなかなかいない。
 魔術品なら金に糸目は付けないという金持ちもいるにはいるのだけど、そう
いった手合いに売りつけるには、あのピアノは少し綺麗すぎた。製造年はそこ
まで古くはないし、魔物の体皮や骨を使用しているのも、あくまで清涼な音を
出すためだ。好事家がよだれを垂らすようなおどろおどろしさを、あのグラン
ドピアノは持ち合わせていない。

15 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/06(土) 22:17:16


 その分、音は繊細で、かつ張りがある。間違いなく稀代の一品だった。売り
つけるならば音楽家やパトロンだろう。……そう考えてはいるのだけれど、あ
たしの客にそういった音楽関係者はいない。誰か紹介してくれないものかと頭
を悩ませたまま二週間経ったけれど、まさか餌が向こうから飛び込んでくるな
んて。これは素直に嬉しい知らせだ。

「グオワンホテルから二時間ほど前に連絡がありまして。どこで聞きつけたか
は知りませんが、うちのバーラウンジで使いたいから是非、と」

 舌打ちをこらえる。グオワンホテルは共同租界の中でも上流階級サマしか相
手にしない特等ホテルだ。現地民≠セとか先住民族≠ニ見下されるクーロ
ン人は、まず近づけない。売るときにも色々とごねるに決まっている。
 そもそも、ああいった高級ホテルだとか高級レストランだとかは、バックに
黒社会がついている。正規のルートでは仕入れられないような商品は、そいつ
等を使って入手するもんだ。直接あたしにコンタクトを取ってくるというのは、
どうもおかしい。グオワンホテルとは一回も取り引きしたことがないんだから、
尚更だ。……誰かの紹介だっていうのならまだ分かるけど。

「明日、ホテルの裏口までピアノを持ってきて欲しいと注文が。商品の状態を
見て、買うか買わないか決めると仰っていました」

 げ、とあたしは呻く。
 冗談じゃない。あのグランドピアノをあたしのオンボロトラックで運ぶのは
大仕事なんだ。いくら人より力があるといっても、あんなデカブツはあたし一
人じゃ運べない。ハダリーを手伝わせればいいのだけど、あいつはいまの設定
だと繊細な仕事に向いていないから、調整する必要がある。傷を付けられない
ように毛布などで梱包した上で、ボロトラックの震動に負けないように、ハダ
リーの馬鹿力でがっちりと固定させないと。そうやって神経をすり減らして運
んでも、売れるかどうか分からないのだからやってられない。
 面倒の極みだ。

 あたしは吐き捨てるように言った。

「こっちに来させろよ、何様のつもりなんだ」

「租界の紳士淑女がたは、クーロン・ストリートまで来たがりませんからね。
裏通りともなると尚更です。一歩でも足を踏み入れれば、たちまち取って喰わ
れると思っているのでしょう。連絡をしてきたのも下人らしき男でした」

「だとしても、なぁ……」

 面倒なものは面倒だ。それに、租界に住む外国人どものクーロン人に対する
差別意識は病的なまでに強い。外国人専用のホテルなんかにあたしが顔を出し
たら、どんな扱いをされるか分かったものじゃない。わざわざ不愉快な思いを
してまで、新規の、それも一見かもしれない客にへつらうのはごめんだ。

「しかし社長、あのピアノは正直言って邪魔です」

 ぐ、とあたしは言葉に詰まる。ロートルの言う通りだ。あんな大物を、二週
間も在庫として抱えてしまっている時点で、すでに客を選り好みできるような
状況じゃなくなっている。本来なら、どんなにいい品物であろうと買い手が見
つかりそうになければ引き取ったりしないものを、あたしの判断のミスで在庫
にしてしまった。……だって、あまりにお買い得だったから。

「ここは社長の、売り込みの腕の見せどころでは」

 あたしにそんな腕はねえ。

16 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/06(土) 22:17:27

「向こうはいくらなら買うと言ってるの?」

「まず、こちらの言い値を聞きたいと」

「いくら吹っかけた?」

「百万クレジット」

 百万……。
 クーロン自治政府が発行している独自の貨幣竜貨≠ノ換算するなら、五千
万近い値段になる。半額まで値切られたとしても、あたしは大儲けだ。

「あのホテルはゼニ、持ってますよ」

 だとしても、財布の紐が緩いかどうかは別問題だ。こっちの足下を見て、露
骨に値切ってくるに違いない。だが、値段交渉さえうまく運べば七十万クレジ
ット前後で売れるかもしれない。仕入れ値が十万クレジットだということを考
えると、かなりボロい。

 ―――こんなでかい儲け話を見逃したら、阿嬌に呪い殺されちまうぜ。

「……分かったよ、行くよ。その場で売りつけてくれば、二度手間にはならな
いからね。せいぜい粘って値段を釣り上げてくるさ」

「気をつけてください。くれぐれも正面から入らないように」

「ドレスコードに引っかかるってか」

「それもありますが、社長は……その、まだ少々幼いです。それに色々と奇抜
です。火蜥蜴≠知らないかたが見れば、ストリートギャングと勘違いされ
かねません。警備員と交渉するのは、お嫌でしょう」

 はん、とあたしは鼻を鳴らす。

「だったら、ハダリーにスーツでも着せるさ」


                  * * * *


 明日はピアノの取り引きだけで半日は潰れそうだ。他にも、何件か引き取り
の依頼が入っている。あたしは手帳を開いて、今週の予定を確認した。
 ―――はっ、と目を見開く。
 今日の日程の欄に、書いた覚えのない落書きを見つけた。へたくそな百合の
花。線が歪んでいて、半端に閉じかけた傘のようだ。落書きの下には、特徴的
な丸文字で『あなただけの庭で待つ』と書き込まれている。
 あたしはこんな字を書かない。自分の手帳に落書きもしない。けど、この手
帳は常に肌身離さず持ち歩いている。誰かがあたしに気付かれないように書き
込むのは不可能だ。―――ということは、つまり。
 あたしは事務所の奥に引っこむと、眼帯をずらし、蜥蜴の眼≠ナ百合の落
書きを睨んだ。黄金の魔眼が、見えないはずの何かを霊視する。
 ―――微かに見て取れるのは、霊気の残留物。

 あたしは手帳を閉じると、ロートルに「今日はもう上がるから、あとよろし
く」と声をかけた。……不自然に声が低くならないよう、注意しながら。

17 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/07(日) 23:31:05


 事務所を後にしたあたしは、一階のガレージから蒸気機関(スチーム・エン
ジン)式のスクーターを引っ張り出した。
 通勤用に使っている自動二輪車だけど、蒸気機関は数秘機関と違ってでかい
しうるさいし危ないしで、動力装置としてはかなりお粗末だ。故障も多く、ス
ピードもあまり伸びない。「歩くよりはマシ」という程度の乗り物だ。
 因みに設計したのはあたし。シートの下にボイラーを設置するなんて、我な
がら正気の沙汰じゃないと思う。交通事故を起こせば文字通りケツに火がつく。
 もしトラックを買い換えることがあれば、いまの三輪トラックに積んである
数秘機関を使い回して、ゼロから通勤用の二輪車を作ろうかなとすら考えてい
た。蒸気機関は煤の掃除だけでも骨が折れる。手がかかりすぎるんだ。

 エンジンの構造上、ボイラーで燃料を燃やして作った蒸気がタービンを回し、
エネルギーを生み出すまでにはどうしても時間がかかる。ピストンがゆっくり
と動き始めるのを待っている間、あたしは手持ち無沙汰のまま、ハダリーが三
輪トラックから積み荷を下ろしていく様子を見守った。
 実によく働いている。

「社長、ヲ帰りデスカ」

 荷台を空っぽにしたハダリーが、あたしに近付いてくる。
 社長はやめろって、とあたしは苦笑した。

「明日、ちょっと面倒な仕事があるからさ。ハダリーにも手伝ってもらいたい
んだ。調整が必要だから、いつもより早く顔を出すよ」

「ハヰ、社長」

「留守は頼んだぜ。あたしは帰って寝る」

「ハヰ、社長。ヲ気ヲ付けテ」

 真鍮の排気管から蒸気が噴き出す。あたしはシートに跨ると、ハダリーに向
けて親指を立ててみせてから、グリップアクセルをおもむろに捻った。

 はい、社長。お気を付けて―――

 ……お気を付けて、か。

 ハダリーは、帰宅するあたしに「気を付けて」と言った。これは、別に蒸気
機関式スクーターが危険な乗り物だから注意しろ、というわけではない。
 例え徒歩で帰宅したとしても、ハダリーは同じように「気を付けて」と言っ
ただろう。―――あたしが家に帰ること、そのものが危ないんだ。
 
 だって、あたしは針の城≠ノ住んでいるから。
 
針の城≠ヘ、クーロンに数多く点在するスラムの中でも、行政機関がまった
く手出しをできない、唯一にして完全な無法地帯だ。
 犯罪の苗床。暴力の釜。自由の末路。―――不夜城<Nーロンにおいて、
針の城≠セけは夜を怖れず、夜を識り、夜に融け込む異界だった。
針の城≠ゥら距離を置く人間は、誰もが口を揃えてあのスラムはもはやクー
ロンじゃない。クーロンでありながら、別の世界だと言う。
 人外が跋扈し、魍魎が飛び回る魔界都市。
 ……でも、あたしは知っている。
針の城≠ェ異界なんじゃない。針の城∴ネ外の全てが異界なんだ。

 十二年前に始まった妖魔租界戦争∴ネ後、変わってしまったクーロンにお
いて、針の城≠セけはかつての在り方を維持した。
 つまり、人と人外の間に垣根のない、真の意味での無法都市。
針の城≠アそクーロンの本当の姿だと、あたしは信じてる。

18 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/08(月) 23:39:04


 純粋なクーロン生まれクーロン育ちで学校に通えるガキなんて滅多にいない
けれど、このリージョンで生活する者なら、誰もが知る歴史がある。
 それが「妖魔租界戦争と紅の魔人」だ。

 いまでこそ人外は排斥され、人間の社会が根付くクーロンだけど、十二年前
まではそうじゃなかった。ファシナトゥール系妖魔貴族が居留する妖魔租界
から溢れ出した魔性の輩が、我がもの顔でクーロン・ストリートを闊歩した。
 あたしみたいな半端物が白い目で見られることもなく、人間は夜を恐れなが
らも、それなりに敬意をもって夜を受け容れていた。
 ……もちろん、あたしはその時代を知らない。生まれてはいたはずだけど、
記憶が欠落している。何より幼かった。全部、阿嬌やロートルから聞いた話だ。

 クーロンは歴史の始まりからずっと人間の社会だ。なぜそこに妖魔居留区な
んかが設けられ、人間は自らの立場を危うくしたのか。

 妖魔租界は、シリウス領事という役人が自治行政担当として管理していたら
しいが、シリウスは爵位を持つ妖魔貴族で、居留地とは名ばかりで、領事とい
うより領主≠ニ呼んだほうが正しい支配政治を強いていたらしい。
 軍を駐留させ、領事館という居城≠作り、シリウスは妖魔租界を「第二
のファシナトゥール」と呼んだ。

 侵略行為にも等しいシリウスの強気な外交政策に、クーロン自治政府はなぜ
反発しなかったのか。どうして唯々諾々と人外の流入を受け容れたのか。
 ……答えは簡単で、そんな力がなかったからだ。
 国営のリージョン間シップ・ターミナルが赤字続きで借金だらけのクーロン
自治政府は、土地を貸し、治外法権を与える代わりに国家予算規模の税収を妖
魔租界から得ていた。
 それに、自治政府の腐敗は凄まじく、クーロン・マフィアの操り人形と化し
ていた。クーロン・マフィアをスポンサードしていたのはファシナトゥールを
頂点に仰ぐ妖魔貴族社会だ。
 自治政府と妖魔租界の力関係は歴然としていた。

 君主がオルロワージュからアセルスに代替わりしてから、ファシナトゥール
は積極的に外の世界と関わりを持とうと試みている。各リージョンに、固有の
領地と独自の支配体制を持つ諸侯を置き、全リージョンに睨みを利かせていた。
 百年前まで、ファシナトゥールは人間社会とは完全に隔絶された幻のリージ
ョンだったらしいけど、いまは堂々たる人類の天敵≠セ。
 シリウスも、リージョンに散らばる諸侯のひとりというわけだ。

 シリウスは、妖魔貴族らしからぬ無頼の男だったらしい。豪胆かつ寛容な気
性の持ち主で、故郷の空気を嫌い、ぐつぐつと煮えたぎるクーロンの鉄火な空
気を好んだ。「第二のファシナトゥール」なんて呼びながら、シリウスがクー
ロンに作ろうとしたのは、ファシナトゥールとは別種の常夜だ。

 妖魔や魔物の社会は、出自ですべてが決まる。人間なんかよりはるかに厳し
い縦社会だ。卑しい種に生まれた魔物は永久に卑しく、上級妖魔はただそれだ
けで悠久の夜を怠惰に遊んで暮らせる。
 妖魔公アセルスは人間出身のせいか、実力のあるものを積極的に取り立てる
らしいけど、諸侯の領主たちはいまでも昔からの風習に従っている。
 シリウスはそんな息の詰まる妖魔のやり方を嫌った。渾沌を愛し、あらゆる
ものを受け容れると宣言した。それは人間すらも歓迎するという意味だ。
 結果、租界には一発奮起のチャンスを求める荒くれ者が溢れ、人間も妖魔も
魔物も、「いつの日か成り上がる」という純粋な目的の下、共存を始めた。

19 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/08(月) 23:39:16


 格差は広がった。
 貧困が蔓延した。
 スラムが巨大化した。
 治安は最悪だった。
 クーロンは魔術品や概念武装の非合法販売のメッカとなり、一箇所に魔力が
極端に集中したため、地盤が耐えきれず奈落墜ち≠フ危険が高まった。
 シリウスは、「人も妖魔も平等」という言葉を好んで使った。価値を決める
のは、出自ではなく金だと。
 そんなシリウスの政策から、人はクーロンを「誰もが平等に命の価値がない
リージョン」と揶揄した。人が魔物が妖魔が、あまりに簡単に生まれて、あま
りに簡単に死んでしまうから。

 妖魔租界に支配されたクーロンの生と死で満たされた渾沌の街だった。平和
とはあまりに程遠く、安寧はどこにもなかった。
 けど、当時のクーロンを知るひとは誰もが口を揃えてこう言う。

 ―――あの頃は自由だった、と。



 在りし日の自由を見失い、あたしは不自由の現在を生きる。



 妖魔租界の崩壊と魔界都市の消失は、十二年前に訪れる。話は伝説じみて、
誰も詳細な経緯を知らない。憶測が憶測を呼びながら、人は変化を受け容れる。

 ……ロマンもドラマも抜きに語れば、クーロン自治政府は浄化政策を打ち出
し、それに伴い(実質機能していなかった)警察権を放棄。治安維持をIRPOに
委託し、シップ・ターミナルを民営化した。
 さらに自治政府は、租界政策を妖魔だけではなく、シュライクやトリニティ
など他のリージョンにも適用。治外法権を安売りし、外企業を貪欲に誘致した。
 国土は切り売りされ、行政の執行力も失い、自治政府は完全に看板だけの存
在となったが、妖魔の言いなりになるよりかはマシ―――というのが、当時の
首脳陣の判断だったのだろう。IRPOとの闘争の結果、妖魔租界はお取り潰し。
浄化政策は成功し、潔癖なまでに人外を拒む風潮が生まれた結果を考えると、
自治政府の政策は成功したと云える。

 でも、そんなのはあくまで表向きの歴史だ。

 シリウスはIRPOが嘴を突っ込んできただけ引っこむようなタマじゃない。
 妖魔租界と、魔界都市と化したクーロンは、貧弱な自治政府が浄化を試みた
ところで掃除しきれるようなお手軽な汚れ≠カゃない。

 講談師は語る。吟遊詩人は謳う。

 ―――これは、紅の魔人と涙の赤児の物語。

 十二年前、妖魔租界のスラムに忌み子が生まれた。それは人間の子でありな
がら、妖魔すらも脅かす夜の結晶≠セった。
 シリウスはただちに、赤児をファシナトゥールへ送れと指示した。君主アセ
ルスならば正しい処理ができるはずだ、と。
 ……だが、赤児がクーロンを出ることはなかった。

 紅の魔人が上陸したからだ。

20 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/09(火) 00:35:04


 逆立つ炎の赤毛を持ち、燃える双眸で世界を見下す男。その容姿と、炎の魔
術を得意とすることから紅の魔人≠ニ呼ばれるようになったものの、彼が何
者なのか、人間なのか、妖魔なのか。どこから来たのか。なぜ、クーロンに訪
れたのか。……誰も知らない。愉快なまでに一切が謎に包まれている。

 紅の魔人は、妖魔の手から予言の赤児≠守るため、剣をとって戦った。
孤独な戦いにも限らず、シリウスを討ち滅ぼし、妖魔租界を火の海に包み、ク
ーロン・マフィアを壊滅に追いやった。

 ロートルは当時、黒社会の歴としたメンバーだったし、阿嬌もマフィアと共
存関係を築いた上で非合法の密を啜っていた。つまり、二人とも紅の魔人とは
某かのかたちで敵対関係にあったはずなんだけど……ロートルは、紅の魔人の
ことについては頑なに口を閉ざしているし、阿嬌は阿嬌で妖魔租界戦争前も戦
争後も、変わらずに商売を続けていたため、どんな関わりを持ったのかは分か
らない。他の住人にしたってそうだ。誰もが深くは語りたがらず、また語るほ
どの情報を持ち合わせていない。
 紅の魔人は、実在したはずなのに、あまりに非現実な存在だった。

 だけど、このリージョンに生きる人間ならば、それが四歳の子であろうと、
クーロンから妖魔を追い出したのは紅の魔人だ、と断言する。

 彼は英雄になれたかもしれない男だった。でも、なれなかった。
 妖魔との戦争に巻き添えに幾千という一般人が命を落とした経緯と、予言
の赤児≠守り抜いた後、妖魔租界跡地に立て籠もり、赤児を監禁したことで、
後の歴史の評価は決まった。紅の魔人は英雄ではなく、奸雄と成り果てた。

 伝説の後日談。皮肉にして数奇な現実は、ここから始まる。

 シリウスは討たれ、妖魔租界は滅びた。紅の魔人と妖魔との抗争のどさくさ
に紛れて、自治政府は浄化政策を打ち出し、IRPOはクーロンの警察権を握った。
 領地を失ったことでアセルスは激怒したというけれど、租界政策で多くの政
府や企業が参画し、IRPOが厳重に目を光らせるクーロンに兵を送るような真似
をすれば、下手をしなくても大戦争に発展する。君主としては、屈辱に耐える
しかなかったのだろう。今日までファシナトゥールが、クーロンに対して何ら
かのアクションをとったという話は聞かない。

 租界政策で、クーロンはすべての土地を外国に貸し出してしまったのかとい
うと、実はひとつだけ、自治政府が保有する地区がある。
 それが、かつての妖魔租界。―――現在の針の城≠セ。

 妖魔租界が灰となった場所で、紅の魔人は瀕死の裏社会をまとめ上げ、自ら
が新たな闇の頂点に立った。新生クーロン・マフィアのボス誕生だ。

 新生クーロン・マフィアのアジトとなった妖魔租界跡地には、行き場を失っ
た下級妖魔や魔物が集い、スラムを形成し始めた。
 難民の流入数に対して土地の面積が圧倒的に不足していたため、空まで届き
そうなペンシルビルが手抜き工事のまま次から次へと建ち並び、瞬く間にその
数は百を超えた。無計画な増築が繰り返され、街路は迷路と化した。四方をビ
ルに囲まれ、玄関からの立ち入りは不可能な建造物まで生まれた。

 肩を寄せ合うように密集したビルは、それぞれがそれぞれの傾きを支えるよ
うに建っているため、遠目からまるで一個の城塞のように見える。そして、針
のように天へと数多のビルが伸びる様から、人はやがてこのスラムを針の城
と呼ぶようになった。―――迷宮にして魔宮のスラムは、いまでも。「針の
城≠ノは一回入ると出てこられない」と怖れられている。

21 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/11(木) 18:53:01



 妖魔租界跡地―――つまり、針の城≠フ行政権はクーロン自治政府が有し
ているのだけど、警察権を放棄した自治政府は執行権を持たない。IRPOも手が
出せない完全な無法地帯である針の城≠ノは、人外のみならず人間の犯罪者
が逃げ込み、赤児が捨てられ、渾沌の様相を生み出した。
 皮肉にも、紅の魔人は自分が滅ぼしたクーロンの自由と渾沌を自分が作った
針の城≠ノ再現したというわけだ。

 ……そしてあたしは、そんな針の城≠フ住人のひとり。半端物らしく、自
由と束縛の境界を行ったり来たりしている。


                  * * * *


 一歩でも足を踏み入れただけで、世界≠ェ転じたことが分かる。
 不快を誘う湿度の高さに、回収されないまま放置されたゴミの臭い。極端に
人口密度が高いはずなのに、なぜか見かけることの叶わない人影。
 ―――そんな、どこにでもあるスラムの陰気さなんて問題にならない。あた
しがいま感じているのは、もっと根源的な畏れだ。あたしの中の人間の部分が
悲鳴をあげ、火蜥蜴の部分は帰還に悦ぶ。

 道―――というよりも、ビルとビルの隙間を縫って城内≠ノ入ったあたし
は、スクーターを引きずりながら慎重に足を進めた。
針の城≠ヘまず建物ありきで、そこから道が生まれた。路地のみで構成され
た特異の区画だから、自動車や馬車が通るような真っ当な街道はない。
 路地は狭く曲がりうねり、路上にはゴミやら屍体やら散乱しているため、ス
クーターで走り抜けるのも難しかった。
針の城≠フ移動手段は、自らの足だけ。……それは横≠カゃなくて縦
の移動についても同じ。中層ビルが森のように建ち並んでいるのに、エレベー
ターが設置されているビルはひとつもない。
 老人に冷たい街だった。

 夜空はビルの槍衾に阻まれて、月はおろか星すら隠れている。屋外にいるは
ずなのに、まるでどこかの地下室にでも閉じ込められているかのように暗い。
 行政が管理を放棄している針の城≠ノは、電気もガス灯も魔術煌も通って
おらず、上水も下水も詰まったまま放置されていた。公共機関はまったく機能
していない代わりに、個々人が闇業者と契約して、電気を通させたり、水道を
引かせたりしている。金が無ければ、トイレすらまともに使えない。

 つと、背筋に――いや、もっと上だ――うなじの辺りに寒気が走った。なに
かが、あたしの背後を無音で通過した。けど、後ろを振り返っても目に付くの
は静寂に蝕まれたスラムの景色だけ。
 ……人間の目≠ナは、なにも視えない。
 風もないのにゴミ缶の蓋が跳ね、頭上の看板がぎいぎいと揺れた。耳をすま
せば、亡者どもの囁き声が聞こえてきそうだ。……あたしの手は、自然と右眼
の眼帯へと伸びてしまう。視えないこと≠ェ、苦しくてたまらない。

 でも、駄目だ。

蜥蜴の眼≠開けば、街並みは一変するだろう。肉を持たない非実体の生命
を、たちどころに視認するだろう。針の城≠ヘいまこの瞬間、あらゆる路地
で、あらゆる種の生き物が夜に沸き返っている。……ただ、視えないだけで。
 視えないというのは、それだけで不安に繋がる。例え対処はできずとも、視
えてくれれば取りあえずの安心を抱ける。ましてあたしの場合、蜥蜴の眼
という、この異界にピントを合わせる道具を持っているんだ。
 使いたくてたまらない。視たくてたまらない。

 でも、我慢しなくちゃ。

22 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/12(金) 01:48:42


 あたしの右眼は奇蹟の産物。その能力は霊視に留まらない。……けど、それ
を操るあたし自身といえば、ちょっと頑丈なだけの人間で、特筆すべき魔術的
素養なんて持ち合わせていない。魔術回路も当然、ない。
 だから畸形なんだ。分不相応なパーツを持って生まれてきてしまった。
 本来、視えないはずのもの視て、操れないものを操り、介在できない事象に
介在してしまうんだから、そのツケは必ず躰のどこかで支払わされる。
 不可を超えれば脳は死に、あたしは廃人コース一直線。

『ご利用は計画的に。健康のためにも、使用は一日一時間。休憩を忘れずに』

蜥蜴の眼≠診て、あたしの主治医はそう言った。
 あたしが眼帯で右眼を隠しているのもそのせいだ。眼帯は裏に悉曇梵字の護
符が縫いつけられていて、強制的に魔眼の効果を眠らせてしまう。これのお陰
であたしは失明もせず、安心して日常生活を営むことができている。

 あたしは自分の右眼を使いこなせていない。
 異能の力を支配していない。
 あたしは人間じゃないけれど、さりとて歴とした人外というわけでもない。
針の城≠ノ戻る度に、その現実を思い知らされる。あたしは針の城≠ノ住
んでいるけれど、針の城≠フすべてが視えているわけじゃなかった。人間の
チャンネルに繋いだままで、人外たちと交流していかなければならない。

 地縛霊や浮遊霊といった怪奇な住人たちの存在を視覚じゃなく肌で感じなが
ら、路地からビルの裏口へと入る。あたしが通ってきた道からは、正面玄関ま
で回れなかった。もっぱら利用するのは裏口ばかり。正面玄関からどうすれば
針の城≠フ外に繋がっているか、あたしは知らなかった。
 誇張ではなく、ここの街路は迷路であり、誰ひとりとして全体図は把握して
いない。地図なんて当然ないから、居住しているビルから少しでも離れてしま
うと、住民でも道に迷うことになる。

針の城≠ヘバームクーヘンよろしく同心円状に広がっていて、階層は全部で
十に分かれている。これが大雑把な住所になっていた。
 紅の魔人が居住するとされている中心部分は火焔天≠ニ呼ばれ、そこから
第一層月天=A第二層水星天=A第三層金星天≠ニ各層が重なっていく。
中心に近いほど魔の瘴気が強くなり、外周に近いほど人間の比率が高くなった。
 この層ごとの名称は天国の構造から引用しているらしく、あたしは針の城
を天国に見立てるなんて狂気の沙汰だと思ったけれど、天国の場合は外周ほど
光に近付き、中心ほど至高から遠ざかると知って感想を改めた。火焔天≠ヘ
もっとも神から遠く、もっとも地獄に近いというのなら、これは皮肉の産物だ。

 因みにあたしが住んでいるのは、第七層土星天=B
 階層まるごと業者と契約しているためインフラが充実し、自警団も組織され
ているため比較的治安がいい。適度に外から離れていて、適度に中心から遠い
ため、住み心地も悪くなかった。針の城≠フ高級住宅区といったところか。
 ……住むのは手抜き工事で老朽化の激しいペンシルビルだけど。

 あたしが住んでいるのは地上八階。
 エレベーターはないから階段を使う。もちろんスクーターも一緒だ。いくら
治安がよくても、ここはスラム。下に置きっぱなしにすれば、たちまちパーツ
は盗まれ、怨霊に憑かれ、幸運に見放される。

 痩せ身の少女が軽々と肩にスクーターを担いで階段を昇る様は異様の一語に
尽きるだろう。蒸気エンジン搭載のスクーターを八階まで運ぶなんて、成人男
性が三人いても重労働だ。あたしもこの時ばかりは、自分の怪力に感謝する。

23 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/12(金) 18:48:41


 八階に昇るまで誰とも顔を会わさなかった。ビルの階段は狭く、人とすれ違
うには壁に身を寄せなければいけないから、デカブツを担いでいるあたしとし
ては助かるんだけど……これはちょっと、不自然だ。ここはもう屋内なのに。
針の城≠フ住民は、夜空の下に出たがらない。ビルからビルへと移動し、地
下道を通って各層と連絡する。屋外は風通しが良すぎて不愉快らしい。
 建物には建築者が当初想定した定員の三倍から十倍の人数が居住しているの
が常で、それはこのビルだって例外じゃない。あたしみたいにひとりで部屋を
独占している住人は珍しく、九割方はルームシェアだ。
 ……まぁ一年前までは、あたしもマーマと同居していたんだけど。

 いつもなら、狭すぎて部屋から追い出された人間やら下級妖魔やらが一人や
二人は階段の踊り場で暇そうにしているものなのに。今日は一人も見かけない。
みんなぴっちりと玄関のドアを閉めて、部屋の中に閉じこもっているようだ。

 ……なにかを怖れているのか?
 腹をすかした猫の侵入に気付いて、震え上がる鼠のように。
 日常を遠ざける異分子が、ここにいるのか。
 異物に敏感な隣人たちが、気配を感じ取ってしまったのか。

 ―――あなただけの庭で待つ、ねぇ。

 悪い予感をひしひしと覚えながら、自分の部屋の玄関の前で、あたしは担い
でいたスクーターを下ろした。
 眼帯をずらして、玄関の扉に施した地縛錠≠霊視する。
 ロックの数は合計八つ。アナログが三つに、オカルトが五つだ。あたしはポ
ケットからキーを取り出してアナログの錠前をさっさと解錠すると、オカルト
のほうも使い捨ての護符で簡易除霊した。
地縛錠≠ヘ特定の式で構成された人造霊だ。式に適合した護符じゃなければ
除霊は叶わない。この護符がキーの役目を果たす。

 この地縛錠≠ヘあたしのアイデアなんだけれど、隣人たちの受けはいまい
ちだ。彼等にはもともと施錠という習慣がないし、地縛錠≠ヘ鍵を開けるた
びにいちいち地縛錠≠ェ成仏してしまうから、コストパフォーマンスが悪す
ぎるんだとか。こんな単純な式鬼ぐらい自分で組めと言ってやりたいけど、こ
ういった神秘の模造や編集はあくまで人の技。妖魔や魔族には馴染みがない。
 人外が使う異能は、生まれつき備わっているものばかりだ。

 すべてのロックを解除すると、あたしはゆっくりと息を吸ってから、扉を開
けた。……覚悟は決めているし、だいたいの予想もついている。

 ―――耳に響くのは、どたた、と廊下を駆け抜ける音。だん、とフローリン
グの床を蹴り付ける音。ぼす、とあたしの胸に衝撃が走る音。

 ハウンズ・トゥースのスカートが翻る。視界に飛び込んできたのは、みどり
の黒髪を腰まで伸ばしたうら若き少女。妙齢にすら程遠いガキだ。

「回来了(ホゥエライラ)! おかえりなさい、イーリン!」

 普通、この勢いで体当たりを喰らったら、あたしみたいに体重が軽い女は尻
餅をつくもんだ。……けどまぁ、知っての通りあたしは普通じゃない。
 突っ立ったまま、ぐらりともバランスを崩さずに体当たりを受け容れる。
 ついでに、腰に回された両腕を振りほどき、あたしに抱きついてきた少女を
玄関の奥へ突き戻した。―――そして、後ろ手で素早くドアを閉める。

24 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/12(金) 23:56:22


「いったーい」

 あたしに突き飛ばされて転倒した少女は、立ち上がるとわざとらしくスカー
トの裾を整え、帽子を被り直した。あたしが睨んでばかりで返事をしないこと
に気付くと、もう一度「いたーい」と唇を突き出す。
 
 ―――あたしの部屋は、玄関だけではなく、窓という窓に、物理的にも霊的
にもロックをかけてある。セキュリティは鉄壁で、空き巣が入る余地はない。
 物理法則に縛られない非実体の霊体ならば壁を抜けて侵入することも可能だ
ろうけど、目の前の少女は肉を持つ実体だ。
 鍵が破壊された形跡はない。もし強力な呪術を上書きして力ずくで地縛錠
を解錠すれば、人造霊の断末魔が護符まで届く。
 ……前述した通り、あたしはひとり暮らし。当然、ルームメイトもいない。
 なら、この娘はどうやってあたしの部屋に入ってきたのか。

 ちっ―――と舌を打つ。

「なんのつもりだ」

 あたしの批難めいた言葉に、娘は「なにが?」と首を傾げた。

「あなたの手帳に、勝手に落書きしてしまったことかしら。それとも、ノック
もせずにお邪魔してしまったこと? ……あ、もしかして、冷蔵庫にあった桃
包(タオバオ)を食べちゃったのがまずかった」

「違う。あんたが―――」

「リリーよ」

 ぐ、と声が詰まる。

「わたしのことはリリーって呼んで。そう言ったでしょ?」

 僅かな媚びをたたえた囁くように穏やかな声音。なのに、言葉はあたしの深
層意識にまでもぐりこみ、脳に「リリー」の名を強制的に焼き付ける。
 声を媒体にして、精神に直接侵入するクラッキング。この娘―――リリーの
恐ろしいところは、それを無意識に、ただ唇を動かすだけで呪いとして成立さ
せてしまうことだ。彼女が会話を試みれば、それだけで人は理性を消失する。

 でも―――あたしには通用しない。

 がり、と奥歯を噛み締める。

「おい、てめえ=v

 誘惑(チャーム)呪いなんてクソ喰らえだ。どんなに高圧縮された言霊をぶ
つけられようと、それが霊的侵入である以上、あたしには通用しない。
 体内で、リリーの呪いが解呪(ディスペル)されてゆく。
 あたしの躰は―――蜥蜴の肉は、あらゆる霊的、呪的作用をキャンセルする
働きを持っていた。なぜかは知らないけど、生まれつきそういう体質になって
いた。だから、瘴気の濃い針の城≠ナも、あたしは呪詛を体内に溜めること
なく、平然と生活していけるんだ。

25 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/12(金) 23:56:36

 蜥蜴の刺青。
 蜥蜴の眼。
 蜥蜴の肉。
 蜥蜴づくしのあたしは、しかし脳みそだけは人間のまま。いつまで過分の才
質に溺れていられることやら。廃人へと至る日は、そう遠くはない。

「や、リリーって呼んで」

 リリーはかわいらしく(そして小憎たらしく)頬を膨らませるけど、この声
にも、やはり呪いが孕んでいる。つくづく物騒な小娘だ。
 
 二度目の舌打ち。

「お転婆娘のレイ・バイホー。あんたは、ここに来るまで、どこかで寄り道な
んてしてやいないだろうな。大人しく、ここであたしの帰りを待っていたんだ
ろうな。―――どうなんだ、え?」

 リリーはふっと微笑をこぼす。小娘らしからぬ妖艶な笑み。

「大丈夫。バベッジ・タワー≠フ屋上から、クーロン・ストリートの夜景を
眺めていただけよ。それもたったの二十分。イーリンがあたしの伝魂(でんご
ん)に、すぐに気付いてくれたから」

 二十分も?! それにバベッジ・タワーだって!?

 バベッジ・タワーは第十層至高天≠ノ建つ、針の城≠ナもっとも高い建
築物だ。針の城≠ヘ中心に近付くほど建物が低くなり、外環に近付くほど高
くなる。つまり、バベッジ・タワーは針の城≠フ最外周部というわけだ。

 こいつの足は、もうそこまで跳べるようになったのか!

 バベッジ・タワーの屋上までジャンプできるのなら、この針の城≠ナ彼女
の足が届かない場所はない。地下銀行の金庫だろうが、連れ込み宿の寝室だろ
うが、すべて彼女の庭先に等しい。あたしの部屋に侵入するなんて朝飯前だ。

 なんてことだ……。

「誰にも見られなかっただろうな」

「さあ」

 リリーは無責任に肩を竦める。

「見られたってへっちゃらよ。わたしを見て平気なやつなんて、イーリンとダ
ージョンぐらいだもの。後はみーんな、わたしの虜」

 だから告げ口の心配はいらないわ。そう言って、魔性の娘はくすくすと笑う。
 ……あたしは、戦慄を隠せない。
 ダージョン―――大兄(ダージョン)と大凶(ダーション)をかけた紅の
魔人≠フ異名。クーロン・マフィアの構成員は針の城≠フ城主をそう呼ぶ。
 逆に、堅気ならば決してその名は口にしない。
紅の魔人≠ヘあくまで伝説のキャラクターだけど、ダージョンはクーロンの
支配者。妖魔貴族やIRPOすら歯牙にかけない暴力と恐怖の象徴だからだ。
 ……それをこうも軽々しく呼び捨てにするなんて。

26 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 01:36:16


 レイ・バイホー。「涙」と書いてレイ≠ニ読み、「百合」と書いてバイ
ホー≠ニ読む。故に彼女は、縁あるものから涙姫(れいひめ)≠ニ呼ばれ、
あたしには百合(リリー)≠ニ呼ばせたがる。

 ―――彼女もまた、紅の魔人と同様に、伝説上のキャラクターだった。

 吟遊詩人は謳い、講談師は語る。

 妖魔租界戦争は、スラムに赤児が生まれ落ちたことにより始まった。シリウ
ス男爵は赤児の始末を企み、紅の魔人は赤児の護るために戦った。やがて妖魔
租界は炎上し、一千の人間と、一万の妖魔が命を落とす。
 ……すべては一人の赤児が原因。

 凶児は火焔天の最奥に監禁され、紅の魔人は奇蹟を独占した。

 リリーが―――あたしの目の前にいる色白の少女が、やたらとませたクソガ
キが、その運命の赤児<Tマだっていうのか。
 初めはあたしも信じなかった。
 紅の魔人も運命の赤児も、あたしにとってはおとぎ話の中の存在だ。妖魔租
界戦争も、人づてに聞いて知識を備えただけで経験はしていない。すべては記
録。すべては情報。現実味なんてあるはずもない。

 けど、現実としてリリーはここにいる。
 常識では考えられないほど莫大な妖力を内包し、歩くだけで霊瘴を呼び覚ま
し、淫魔すら狂わす微笑をあたしに向けている。
 こんな、魔性の権化のような存在が自然に発生するものなのか。いくら魑魅
魍魎が跋扈する針の城≠ナも、ここまで常識外れなバケモノがいるはずない。
 リリーの存在の桁外れな特異さが、運命の赤児本人であることに強烈な説得
力を加えていた。
 まさに奇蹟の申し子。
 ……いや、リリーの属性(アライメント)を考えるなら、反奇蹟の産物。
 渾沌の寵児だ。

 じゃあどうして、そんなバケモノがあたしの部屋にいるのか。

 ―――あたしとリリーの出会いは、あたしから言わせれば偶然。彼女の見解
では必然かつ運命的に行われた。

針の城≠ノは、未舗装の霊走路網が縦横無尽に走っている。霊脈とも呼ばれ
るエネルギーの流れは、属性が無垢なため指向を持たず、悪用すれば容易に災
厄を呼び起こせる。だから普通は行政が管理し、しっかりと舗装をするものな
のだけれど、針の城≠ヘ無政府地帯。霊走路網は放置され、漏れた霊気は超
常の現象を誘発する。

 五年前。物心がついたときから続いている鳥篭生活に飽き飽きとしていたリ
リーは、日に日に増大していく妖力があるレベルを超えたとき、この持て余し
気味の才覚の利用方法を唐突に思い付いた。

 奇門遁甲の方位術を応用して、霊走路を走ってみてはどうかしら?

 霊走路をトンネルに見立てて、霊脈の流れに乗る。これならば、針の城
のあらゆる場所に移動が可能だ。霊走路が続く限り、無限の距離をゼロに変え
られる。同じ瞬間移動でも転移(アポート)ではないため、出口も入り口も必
要ない。だから足跡も残らない。―――これならば、鳥篭から羽ばたけるわ。

27 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 01:40:30


 街路の地図すらない針の城≠ナ、五次元に広がる霊走路網を把握している
ものなどいるはずがない。ダージョンですら、霊走路を利用した瞬間移動なん
て思い付きはしないだろう。あまりに現実味がないからだ。
 だけど、リリーは不可能と可能に変えた。
 霊走路網の流れを読み解くのではなく、自分の都合が良いように作り替えて
しまった。火焔天に閉じ込められながらにして。五年の歳月を費やして。

 リリーが七つの歳に始めた秘密工事≠ヘ十二の歳で落成した。
 霊脈は、人体に例えるなら血管に等しい。針の城≠フ血液の流れを掌握し
たということは、針の城≠フ霊的要素を完全に管理下に置いたということ。
 彼女はこの針の城≠ナ、神にも等しい力を手にしたわけだ。……たったの
五年で。「外に出たい」という、それだけの理由のために。

 ―――こうして、霊走路の管理権を握ったリリーは、仙人が千年の修行の果
てに修得する縮地法≠十二歳にして独学し、鳥篭から飛び出した。

 ……飛び出したまま、道に迷った。

 生まれて初めて夜空の下を歩いたリリーは、霊脈の流れは知っていても、ど
こをどう進めば、どこに繋がるのか。第五層はどこで、第十層はどこなのか、
まったく分からなかった。
 通りすがりの背後霊に道を尋ねようにも、リリーの美貌は見る者を狂わせ、
リリーの声は聞く者の正気を奪う。誰も彼女とは話せないし、出会うことすら
できない。―――火蜥蜴≠フイーリン様を除いては。

「言っておくけど、偶然じゃないんだから」

 リリーは運命≠しつこく強調する。

「わたしはちゃんと、いついつどの時間にイーリンがどの座標に出現するのか、
予言した上でジャンプしたんだから。片っ端から『あのー』なんて話しかけて、
わたしとお話しできる当たりくじ≠引くのを待っていたら、外れくじが溜
まりすぎて、魔導災害が起こっていたわ」

「自慢げに言うことじゃないだろ」

 魔王の一人娘みたいなやつに、唐突に抱きつかれたこっちの身にもなってみ
ろ。―――あのときのリリーは途方に暮れて、藁にも縋る思いであたしを頼っ
てきた。いままで、ダージョン以外の生物と接触をしたことがなかったリリー
は、まさか自分が誰からも拒まれる存在だなんて思ってもみなかったんだ。
 外にさえ出れば、自分は森の中の木に過ぎない。そう考えていた。

 だからリリーは歓喜した。感謝した。絶望の中で、光を見出した。
運命の赤児≠フ魔性をキャンセルする火蜥蜴≠フ存在は、彼女が生まれて
初めて知るダージョン以外の他人≠ナあり、長らく続いた退屈を破壊してく
れる白馬の王子様だったというわけだ。

 ……あたしには、鳥のすりこみとしか思えないけどね。

 リリーは家出をしたわけじゃない。縮地を使って散歩≠するようになっ
ただけだ。ダージョンの監視の目を逃れて外に飛び出し、ダージョンに気付か
れる前に火焔天≠ノ戻る。ダージョンは間抜けではないから、迂闊にジャン
プはできない。精々、週に二回か三回。それも一時間以内。
 限られた自由の時間は、ほぼすべて、あたしとの交流に費やしている。

28 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 19:16:17


 リビング。リリーは三人掛けのソファに寝転がり、ブーツのヒールを肘掛け
に乗せている。……大したくつろぎようだ。そして、お嬢様の行いとしては少
々はしたない。きっと彼女は、こういったなんでもない自由≠フひとつひと
つが愉快でたまらないんだろう。

「さあ―――今夜は、どんなお話をしてくれるのかしら」

 ソファに膝を立て、猫のようなポーズであたしを見る。期待に輝く瞳の色は、
どこまでも深い漆黒。十二歳とは思えない蠱惑に満ちた表情は、同性のあたし
ですら胸を騒がせる。
 リリーは、あたしとは違った意味での畸形だ。幼くして艶めく明眸を身につ
けているなんて、畸形と呼ばずになんて呼ぶ。

「話なんてしない」

 あたしは目を合わせないように気を付けながら、ぶすりと応じる。

「あたしはシャワー浴びて着替えたらすぐに出かけるから、あんたは帰れ」

 リリーはがばっと身を起こし、両手を胸の前で組んだ。

「シャワー! それって素晴らしい!」

「は?」

「わたしね、わたし以外の誰かの裸って見たことないの。それに、誰かと一緒
にお風呂に入ったこともないのよ。生まれて初めて≠、一度に二度も体験
できるなんて、まるで夢のよう」

「……」

「ああ、早くイーリンのやせっぽちな裸が見たいわ」

「……」

 あたしはバスルームに向いていた足をくるりと反転させ、台所に向かった。
「あら、どうしたの」とリリー。「お風呂しないの?」とあたしの背中に問い
掛けてくる。……答える気力は、あたしにはない。
 冷蔵庫からオレンジジュースの紙パックを取り出し、直接口につける。濃縮
された甘味が喉に広がり、あたしの心に平穏をもたらす。

「わたし、イーリンのやせっぽちな―――」

「いや、繰り返さなくていいから」

 駄目だ。無視するなんて無理だ。
 
「……なあ、頼むから帰ってくれよ。あんたは、自分がどんだけヤバいモンス
ターなのか分かっちゃいないんだ。もし、こんなところで故買屋の女なんかと
密会していることがばれたら、ただじゃ済まされないぜ」

 ふん、とリリーは顔を背けた。

「ダージョンがわたしに何かできるはずがないわ。あいつは絶対にわたしを手
放せないもの。せいぜい、ちょっとお小言をもらうだけ」

29 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 19:16:29


「あんたはそうかもしれないけどさ……」

 一般人のあたしはそうもいかない。
 クーロン・マフィアのボスに目をつけらてしまったら、このリージョンで生
き残る術はない。次の日には死体すら残さず始末されて、成仏できない魂が怨
霊となって針の城≠フ景観を彩ることになる。
 冗談じゃなかった。リリーはその強大な妖力を無視しても、運命の赤児
というだけで特大の危険を孕んでいる。
 ヤバそうなものには近寄らない、それがクーロンで生きる者の鉄則なんだ。

「安心して。わたしが守るから」

「……災厄の化身が、よくもしれっと言いやがる」

 空になった紙パックをゴミ箱に叩き込む。リリーはソファから立ち上がると、
「わたしに考えがあるの」と力強く言った。
 ……こいつは基本的にも応用的にも、あたしの都合とか立場とか迷惑とかは、
心底どうでもいいと思っているらしい。

 ―――そこで、ふとあたしは気付く。

「あんた、その服」

 スカートの丈がくるぶしまで伸びたハウンズ・トゥースのワンピース。ノー
スリーブでは冷えるのか、剥き出しの肩はレースのカーディガンで隠している。
 室内だというのに脱ごうとしない純白の帽子はつばが広く、日傘の役割を果
たしてくれそうだ。―――いかにも淑女然とした服装は、確かにかわいらしい
んだけど……なんか、いつもと違う。
 リリーとはもう十回近く密会を重ねている。これまで彼女が着てきた服はお
およそ実用的とは言い難いドレスのような衣装ばかりだった。
 なのに、今日はまるで旅装のような出で立ち。というか、旅装そのものだ。
よくよく見ると、ソファの脇には革張りのトランクまで置いてある。

「なにその格好」

「だから、考えがあるの」

 聞きたくない。が、無視してもリリーは勝手にしゃべる。

「わたし、もう帰るのやめたわ。お散歩はお終い。今日からは世界中を旅して
回るわ。もっと外へ、もっと広い場所へ! もう火焔天には絶対に帰らない」

 だからそんな格好しているのか。

「あ、そう。いってらっしゃーい」

「イーリンも行くのよ?」

「……いや、行かないし」

 このガキはなにを言ってるんだ。

 リリーが外≠ヨと行きたがっているのは知っている。彼女の目的は、初め
から一貫して揺るがない。針の城¥體烽好き勝手にジャンプしているのは
足慣らしに過ぎず、いずれはリージョン間の大海へと踊り出したいと願ってい
た。針の城≠ヘおろかクーロンすら、彼女から見れば窮屈な密室に過ぎない。

30 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 19:16:44


 それは結構な話だけれど、リリーの瞬間移動能力は針の城′タ定だ。
 彼女が神になれるのは妖魔租界の跡地のみ。縮地法での移動しか知らない娘
が、どうやって自分の足で旅をするのか。地獄そのものとも言える妖力の高さ
と非業の美貌が、他者との交流を徹底的に拒むというのに。
 
 ―――答えは簡単で、あたしを利用すればいいんだ。
 
 必然的だとか運命的だとか、胸焼けするような夢想を押しつけてくるリリー
だけど、こいつはそんな分かりやすいタマじゃない。魔女らしく打算に長けて
いて、自分の利だけを考えようとする。
 リリーにはあたしが必要なんだ。
 いま、この世界でリリーとまともに会話ができるのは、ダージョンとあたし
しかいない。あたしを旅のお供に加えれば、他者とのコミュニケーションを任
せられるし、欠けている常識も補える。
 女の一人旅は危険だから、じゃあ二人で行きましょうというわけだ。

 もちろん、あたしは行かない。クーロンから出るつもりなんて欠片もない。

「や! 一緒に行くの!」

 リリーが駄々をこね始める。最後は必ずこうなるんだ。

「だってこれは駆け落ちなのよ。一人じゃ駆け落ちにならないわ」

「……深窓のお姫様が、どこでそんな言葉を覚えてくるんだ」

「なんで! どうして! わたしには理解できないわ。こんなお日様も当たら
ないリージョンに、どうしてイーリンは執着するの。世界はもっと広いんだか
ら。世界はもっと可能性に満ちているんだから。こんなとこで若さを消費する
のは間違ってる。いますぐ逃げ出すべきよ」

「べっつに、執着しているつもりはないよ」

 ただ、あたしには生活があるというだけの話。
 確かに故買屋の売り上げは好調だ。マーマから受け継いだ不動産の所得もか
なりの額に昇る。収入だけを見れば、あたしはきっとお金持ちになるんだろう。
 だが、入る額が大きければ、出て行く額も天文学的だ。
 あたしには主治医がいるけど、月に二回の診察費は狂気のお値段。趣味でや
っている心霊工学も金食い虫だ。死体いじりも安くはない。ハダリーの維持費
だけで家が買える。……それに、マーマにかかるお金もある。
 そういったあたしの日常を維持するためには、今日の生活を繰り返し続けな
ければいけないんだ。金持ちだなんて関係ない。生きるだけで必死なのは他の
クーロン人と変わらない。明日の夢なんて語る余裕はなかった。

「つまんないわ」

「なんだって」

「イーリンはつまんない!」

 リリーはソファの背もたれに器用に飛び乗ると、仁王立ちのようなポーズを
取って、人さし指をびしりとあたしに向けた。

31 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 23:59:20



「これは冒険なのよ。無限の世界が待っているのよ。誰もが夢見る興奮に満ち
た毎日が、手の届く場所にあるのよ。なのにどうして無視なんてできるの。ど
うして『生活がある』なんて言えるの。そんなの捨てちゃえばいい。わたしと
イーリンがいれば、なんだって手に入るんだから!」

 あたしは呆れを通り越して感心する。一ヶ月前まで一歩も自分の部屋から出
たことがなかった小娘が、よくも世界を語れたものだ。

 まぁ考えてみよう。こいつの望み通り外≠ニかいう抽象的かつ漠然として
場所に飛び出したとして、そこでどうやって生活をしていくつもりなのか。
 リリーは自分の部屋より広い世界を知らない。あたしだってクーロンの外に
出たことはない。―――おおよそ現実的な話じゃないんだ。

「……自分の部屋に戻りなよお嬢ちゃん。冒険がしたければお城の中ですれば
いい。針の城≠セって十分神秘に満ちているんだ。なにせ、クーロンでいっ
ちばん危険な場所だからな。冒険のし甲斐はあると思うぜ」

 そう言って、あたしはソファにどすっと腰掛けた。背もたれの上でリリーが
バランスを崩す。これ幸いと、あたしの背中に抱きついてきた。肩に両腕が絡
まり、頬と頬がぴったりとくっつく。
 ―――そして、あたしの耳元で唇を動かした。

「ここは退屈。だって、わたしに分からないことはないんだもの」

 ……万能者の憂鬱、か。

「わたし、こんな力持って生まれなければ良かった。普通の女の子なら、誰も
わたしを閉じ込めたりしなかったもの。色んな人と出会えて、色んなお話がで
きたもの。もっと広い世界を見て回れたもの」

 それはどうかな。あたしは左の人間の♀痰細める。

普通≠ェどういうものかあたしには分からないけど、力を持たずに生まれて
きた者は、力ある者に搾取されるしかないということぐらい分かる。弱いとい
うことはそれだけ生きる道を限定されるということだ。
 ―――リリーは、クーロン・ストリートでその日の糧を得るためだけに躰を
売る少女娼婦たちがいるということを知らない。あたしが躰を売らずに今日ま
で生きてこれたのは、この眼とこの肉があったからだ。火蜥蜴≠フ力の使い
道を、マーマが教えてくれたからだ。

「……リリー、あんたの理屈は持てる者≠フ傲りだよ」

 あたしの言葉に、少女はくすくすと肩を揺らす。

「そうよ? わたし、傲っているの。だってわたしはわがままだもの」

 だから、欲しいものは絶対に手に入れる。イーリンがクーロンに留まるって
いうのなら、あなたをここに縛り付ける鎖を断ち切ってやる。
 ―――無邪気≠ニ魔性=Bこの二つは矛盾するはずなのに、リリーの口
元に広がる笑みは、その両方を孕んでいた。

「イーリン。あなたは、わたしにだけ縛られればいい」

「……」

32 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/14(日) 00:01:30


 あたしを抱く腕の力が少しずつ強くなっていく。リリーはついにあたしの耳
たぶに唇を押しつけた。そのまま囁きを続ける。

「あなたのマーマが気になるの? あの老いぼれがいつまでもしぶとく生きて
いるから、あなたはここから離れられないでいるの? ―――だったら、安心
して。わたしがあの女の魂を地獄まで導いてあげるわ」

 ―――マーマ。

 あたしを拾ってくれた、マーマ。
 あたしに強さ≠フ意味を教えてくれたマーマ。
 あたしに故買屋の才があることを見出してくれたマーマ。
 あたしに価値を与えてくれたマーマ。
 若作りするのに必死だったマーマ。
 ……あたしの、お母さん。
 血は繋がっていなくとも、どんなにそう呼ばれることを拒んでいても、マー
マは、阿嬌は、あたしの母だ。かけがえのない家族だ。

 リリーの腕を乱暴に振りほどき、ソファから立ち上がる。抑えようもない怒
りが総身から溢れ出すのが分かった。
 彼女に背を向けたまま、低い声音で言葉を紡ぐ。

「レイ・バイホー。―――もし、あたしのマーマに手を出してみろ」

 眼帯を外すと、黄金に輝く瞳で魔女を睨んだ。

「その時は、あんたを殺す」


                  * * * *


「イーリン、待ってよー」

「ついてくるんじゃねえ!」

 第九層原動天=Bより深い階層と、最外周の第十層の間に挟まる緩衝地帯
として極度に低い人口密度を誇る亡霊街。
 あたしは人外の脚力を用いて、複雑に入り組んだ路地を縫うように進んでい
るのだけど、背後から響くリリーの甘えた声は一向に遠ざかろうとしない。
 こっちは物心ついたときから針の城≠ナ生活している経験を最大限に活か
して、普通ならものの数分で迷ってしまうような道をあえて選んでいるのに。
……撒けない。逃げ切れない。それどころか、あたしが進もうとする道にリリ
ーが待ち伏せているときすらあった。―――魔女め! 魔女め!

「ついてくるなって言ってんだろ!」

「ごめんなさいって謝っているのにー」

「聞きたくねえ!」

 ……いや、あたしだって分かっているんだ。
 この針の城≠ナリリーから逃げる術なんてない。針の城≠フ霊走路は完
全に彼女の管理下にある。縮地法を用いれば城内ならどこにでも瞬間移動でき
るし、あたしの位置は霊脈の微細な揺らぎから予測が可能……らしい。
 鬼ごっこも隠れん坊も無駄の極み。シャワーを浴びてる最中に転移してこな
いだけ、むしろ感謝すべきなのかもしれない。

33 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/15(月) 00:19:22


 でも、だからといってこのままリリーを連れ回すわけにはいかない。
 彼女は目立つ。致命的なまでに目立つ。ここが原動天≠セから、幸いまだ
物質的な被害は生じていないが、勘の鈍い人間が通りがかりでもしたら、廃人
が一人生まれることになる。……別に赤の他人がどうなろうが知ったことじゃ
ないけど、リリーの足跡≠残すのは極力避けたかった。
 ―――まぁ無駄な足掻きだとは思うよ。
 近いうちに、必ずダージョンはお姫様のお転婆に気付くだろう。リリーがい
くら身を隠したところで、彼女が発する瘴気までは隠しようがないんだから。
 けど、その時を無警戒に待っていたら、あたしはシリウス男爵と同じ運命を
辿ることになる。例え無駄でも、警戒と足掻きは続けていくべきだ。

 それに、いまから行く場所にリリーを同席させるわけにはいかない。

 路地裏で立ち止まったあたしは「降参だ」と言って手を上げた。すると、あ
たしの目の前にリリーがぱっと現れた。滝のような黒髪がさらりと流れる。

「ふふ、つーかまえた」

 リリーは鈴の音のような笑い声をこぼす。

「ようやくわたしを許してくれたのね」

「ああ、だから帰れ」

「またそんなことを言う」

 ぶー、とリリーはむくれる。

「わたしだって考えなしに抜け出しているわけじゃないのに。……最近、ダー
ジョンはあまり屋敷に来ないの。火焔天にすら滅多に戻ってこないわ。一層と
二層を行ったり来たり。だからわたしは気兼ねなくお出かけできるわけ。イー
リンもそんなに心配しないで。わたし、ずっと一緒にいられるから」

 そいつは迷惑な話だ。

「なあ、リリー。あたしが部屋から出て行ったのは、別に怒ったからじゃない
んだ。あたしはいまから行くべき場所があって、そこにあんたは来て欲しくな
いっていう……つまりそれだけの単純な理由なんだよ」

 リリーは腕を組むと、「ふうん」と醒めたを眼をあたしに向けた。

「もちろん、どこに行こうとしているのかぐらい教えてくれるのよね」

「聞くまでもないだろう。あんたは初めから分かっていたんだから」

「わたしはそうかもしれないけど、イーリン、あなたはなんにも分かってない
わ。わたしはあなたの口から、答えを聞きたいの」

 どんな理屈だ。ほとほと理解に困る。けど、ここで言い返しても無駄に時間
を食うだけだ。やれやれ、とあたしは嘆息した。

「―――マーマのとこだよ」

34 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/15(月) 00:19:43



                  * * * *


 第九層でリリーと別れたあたしは、第十層から大きく迂回するかたちで第七
層土星天≠ヨ。針の城≠ォっての商業区に移動した。

 第七層はビルの高度が下がる変わりに密集率が桁外れに高くなる。道と呼べ
るような道はなくなり、居住者はビルからビルへと渡り、廊下を進み、階段を
昇って目的地を目指した。
 街路がないため常に屋内を移動し、ビルの階段を上がったり下がったりする
ため、第八層を揶揄して全天候型立体都市≠ネんて呼ぶ奴もいるけれど、極
端に道幅が狭く天井も低い廊下を幾度も幾度もぐにゃぐにゃと曲がりくねりな
がら歩かされる居住者の立場になってみると、立体都市というよりも地上の地
下壕と呼んだほうが正しいことを思い知らされる。

 しかも、ただでさえ狭い廊下に敷物を広げた露天商(屋内なのに露天なんだ)
が居座り、低い天井にはけばけばしく塗り立てられた看板が放熱板のように飾
られるものだから、満足に歩くことすら困難になってくる。いつ窒息してもお
かしくない劣悪の環境だった。
 ……ただ、オカルト都市針の城≠フ商業区だけあって掘り出しものは多い。
悪態をつきながら、あたしは何度もお世話になっている。

 第七層には床屋が多数存在する。どのビルに入っても、まず真っ先に目に付
くのは床屋の看板だ。当然、大人しく散髪して終了なんてサービスをする店は
皆無に近く、床屋の床≠フ意味合いはより夜に近しくなる。
 客寄せの散髪女は、男だろうが女だろうが構わず袖を引っ張る。香水の臭い
をまき散らしながら「魂までさっぱりさせてあげる」なんて甘えられても、同
性のあたしは「間に合ってるよ」としか答えようがない。
 廊下が狭いせいで下手に避けて歩けないのがいやらしい。

 部屋の壁をぶち抜いて構えた日用品店でオレンジをバスケットいっぱいに購
入した。針の城≠ノ限らず、九龍では生鮮食品が特別に高価だ。自給率がゼ
ロに等しく、他のリージョンからの輸入に頼り切っているのが価格の高騰を招
いていた。外貨は高く、自治政府が発行する竜貨は安い。
 けど、オレンジなしではあたしは生きられない。

 オレンジを皮ごとかぶりついて食事に変える。ビルからビルへと跨いでいる
うちに、やがて目当ての建物が見えてきた。

 内側から下品なネオンの輝きが漏れ出す他の多くのビルとは違い、提灯の穏
やかな明かりを抱いた建物はビルではなく京風の屋敷だった。いや、正確には
ビルを屋敷に改造している。小汚いペンシルビルばかりがひしめき合う針の
城≠ナ、そのビル屋敷≠ヘあからさまに景観から浮いていた。

 屋敷の入り口には、これまた京風のキモノ≠ナ身を固めた巨漢のオークが
立ち番を務めている。ぎらつく目つきであたしを睨んでくるが、無視して脇を
通り過ぎた。オークも半歩だけ下がって道を譲る。

 屋敷に入るとすぐにウォンが駆けつけてきた。相変わらずの爬虫類顔。人間
を自称しているけれど、どこまで本当かは分かったものじゃない。マーマのか
つての部下の中でも、格別信用ならない男だ。

35 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/17(水) 22:00:22


 マーマの部下だったのだから、ロートルと同じようにあたしとも古馴染みと
いうことになる。ただロートルと違うのは、あたしはウォンのことを心底毛嫌
いしていて、ウォンも同様にあたしを嫌悪しているということ。
 あたしが顔を出した途端に駆けつけてきたのも、支配人自ら接待というわけ
ではなく、他の客にあたしが来たことを知られたくないだけだった。
 ウォンは権力欲の強い男だ。マーマが引退して彼がこのビルを継いでからは、
特にあたしを避けるようになった。自分が絶対の帝王でいられるようになった
この場所で、阿嬌の後継者≠ネど目障りでしかないのだろう。

 挨拶すら交わさず、ウォンは尖った顎で「こっちへ来い」と促した。
 別に案内がなくたってひとりで行ける。ウォンなんて無視したかったけど、
このビル屋敷≠フ営業システムがそれを許さない。
 勝手にずんずんと進めば、不似合いなキモノのコスプレをした用心棒に止め
られることになるし、ウォンの面子も潰れる。
 それはそれで愉快だけど、今夜は控えよう。
 
 一階のロビーには、ゲートを兼ねた巨大な双龍のモニュメントが鎮座してい
る。それをくぐると、クーロンでも特別珍しいエレベーターが待っていた。
 人力でも高級品だというのに、このビルの昇降機は蒸気機関だ。マーマが仕
切っているときは設置しておらず、ウォンの代になってから改装させた。
 彼の自慢のひとつだ。

「儲かってるみたいじゃないか」

 エレベーターのカゴに二人きりになって、ようやくあたしは口を開いた。
「冗談だろう」とウォンは鼻で笑う。

「いつでもカツカツだよ。とんでもない金食い虫がいるからな。どんなに儲け
ても、稼いだ端から出て行っちまう」

「いまさら泣き言かよ。契約内容を飲んだんじゃなかったのかい」

 あたしの言葉に、ウォンは吐き捨てるように呻いた。

「知ってるか、ものには限度ってもんがあるんだぜ。まさか、ここまで手がか
かるとは思わなかったんだ」

 マーマが引退したとき、故買屋の事務所になっているクーロン・ストリート
裏通りのビル同様に、このビル屋敷≠烽たしの所有物となった。故買屋商
売と違って、知識も経験もないあたしに維持できるような代物じゃなかったか
ら、すぐにウォンに譲った。ウォンは当時からここの支配人だった。
 商売の権利もあわせて売り払えば一億クレジット以上の価値が出るビルだけ
ど、あたしはウォンから金を吸い上げるような真似はしなかった。
 ……その代わり、条件をつけた。
 半永久的にマーマの面倒を見ろ、と。あんたのビルでマーマの世話をしろ、
と。―――厄介払いしたかったわけじゃない。ウォンの言う通り、いまのマー
マは手がかかる。彼女を満足させてあげられる環境は、このビル屋敷≠お
いて他になかった。だから金の成る木をウォンにただでくれてやったんだ。

 エレベーターのチャイムが「ちん」と鳴って、あたしたちを最上階まで運ば
んだことを知らせた。
 最上階はマーマのためだけのフロアになっている。客は誰も近寄らせない。
そういう約束であり、契約だ。どんなにウォンが疎ましがろうと、これから先
も変えるつもりはなかった。

36 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/17(水) 22:09:12


 エレベーターを降りたあたしは、京庭園を模したエントランスにウォンを待
たせて、ひとりでマーマの待つ寝室へと向かった。

 廊下を進むにつれて視界が不鮮明になっていく。廊下に立ちこめるつまめば
毟り取れそうなほど濃密な煙は、至るところに飾られた香炉で焚かれたものだ。
 吸えば脳が溶ける魔性の煙。けれどもあたしは臆さずに進む。足取りは重い。

 ……こんなとこ、本当なら仕事でだって来たくない。ウォンの蜥蜴面を見る
だけで苛立ちが募るし、それ以上にいまのマーマと会いたくなかった。

 いっそ、ここで引き返せたらどんなに楽だろうか。ウォンの横面を殴り飛ば
して、ビル屋敷≠飛び出して、針の城≠フ最新層に逃げ込めたらあたし
の心はどれだけ軽くなるだろう。この道を辿るとき、あたしはいつもすべてを
捨てたくなる。

 一瞬だけ、あたしの胸裏にリリーの言葉が浮かび上がった。

『一緒に、外へ』

 自然と口元が緩む。あいつは莫迦だな。本物の大莫迦だな。

 逃げるなんて。外を目指すなんて。……そんなこと、あたしは考えたことも
なかった。悪態を吐きつつも、毎日をクーロンで必死に生きてきた。それしか
生きる道はないと思っていた。『外』なんて漠然とした存在は、絶壁の先に待
つ暗黒に等しかった。―――なのにリリーは、つい一ヶ月前まで自分の部屋が
世界のすべてだったお姫様は、針の城≠ヘおろかリージョン・クーロンです
ら窮屈だと言う。どうしてそんな発想ができるのか。なにが彼女の足を外へと
向けさせるのか。……あたしは嘆息を漏らした。莫迦の考えは読めない。

 レースのカーテンの海をくぐり抜けると、天蓋付きの巨大なベッドが目に飛
び込む。部屋一面を占めかねないエンペラーサイズの寝台には、やせ細った女
がひとり。手に真鍮の長煙管を持って、ぼうと部屋の壁を見入っていた。

「やあ、マーマ」

 あたしが声をかけても反応はない。あたしだけじゃない。誰が話しかけても
マーマは応えない。マーマに動くときがあれば、それは長煙管の吸い口に唇を
近づけて、より深い快楽と幻想を機械的に貪るときだけだ。

 このビル屋敷≠ヘクーロンでも最大規模の阿片窟。しかも提供する阿片は
ファシナトゥールの土で育て魔精花となった芥子から精製した特別製。
 文字通りの魔薬≠フ味を知りたいと求める者はクーロンに留まらず、他の
リージョンにまで及ぶ。
 この阿片窟で部屋を持ち、毎日を阿片三昧で過ごすような中毒者は、あたし
なんかとは比べものにならない、正真正銘のお金持ちサマだ。

 ……マーマもそのうちの一人ってことになるのかな。

 阿片と部屋代、その他の面倒見代はすべてウォンが負担しているけれど、額
面にすればきっと天文学的単位。だからウォンはあたしを疎み、かつてはボス
だったマーマを追い出したがる。

 なに、構うものか。搾り取れるだけ搾り取ってやればいい。

37 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/17(水) 22:12:30


 あたしは無理矢理に微笑んで、ベッドの脇にバスケットを置いた。

「フルーツ。お土産に買ってきたんだ。オレンジ好きだろう? ここに置いて
おくから、良ければ食べてよ」

 マーマはなにも食べない。栄養はすべて強制的に打たれる注射や丸薬で摂取
している。マーマはなにも求めない。……阿片の煙以外は。

 娘のあたしがこうして面会に来ても、定まらぬ視線は宙を向いたまま。

 マーマは今年で六十七になる。なのに外見は二十代半ばのように若々しく、
美しい。―――マーマは、女の価値が外見であることを常日頃から強弁してい
た。老いることをなにより怖れ、常に若くあるよう努めていた。
 七十近い老婆が娘の外見を保つために、いったいどれだけの財産を注ぎ込ま
なければいけなかったのか。昔は知らなかった。……いまは痛いほどによく知
っている。いまのマーマの美容料はすべてあたしが負担しているから。

 マーマは廃人だった。感情は死に絶え、本能は衰え、ただ煙を吸って吐くだ
けの人形になってしまった。『家族以外のなんでも買って、なんでも売る』と
豪語した女傑はどこにもいない。五十年もの間、クーロンの鬼の商売人として
巨万の富を築き上げたやり手ババアはどこにもいない。年甲斐もなく若さにば
かり拘って、整形手術を繰り返した哀れな女は、もう、どこにも、いない。
 あたしの目の前にいるのは、ただの抜け殻。

 ――― 一年前。
 マーマはいつものように護衛に囲まれて、持ち店の見回りに出かけた。

 その頃、あたしはマーマに仕込まれた故買屋商売がだいぶ軌道に乗っていた
ため、かつてのようにマーマの背中を追って歩くようなことはせず、黙々と自
分の仕事をこなしていた。
 ……愉しかった。気持ちよかった。なによりも嬉しかった。自分で稼ぎ、自
分で生きていく術を見つけた。これからはマーマに養われるお荷物じゃなくて、
マーマに金を稼がせてあげられる共存関係の家族≠ノなれるんだ。そう思う
と仕事にも熱が入り、針の城≠フ自宅には戻らず、裏通りのビルに住み込ん
で毎日を消費した。未来はあたしのものだと、根拠のない自信に支配されてい
た。……つまり、幸せだったんだ、あたしは。

 マーマは見回りに出たまま戻ってこなかった。クーロン・ストリートの路地
裏で捨てられていたのを、その日のうちにロートルが発見した。
 連れていた四人の護衛の行方はいまになるまで分かっていない。きっと顔面
を潰され、首から下はバラのパーツとして売り払われてしまったんだろう。
 マーマまでもがそうならなかったのは不幸中の幸いかもしれないけど……。
 発見されたマーマはすでに、人の言葉をしゃべれなくなっていた。あたしが
駆けつけたときにはすでに、壊れてしまっていた。
 いったい、なにが起きたのか。なんの事件に巻き込まれたのか。それともマ
ーマ自身が狙われたのか。あたしに分かるのは、マーマは現実から逃げたとい
うことだけ。絶対に手を出さなかった阿片に手を染め、一週間もするとビル
屋敷≠ノ居着くようになった。……そして今日まで、一歩も外には出ていない。

 マーマはあたしを後継者に指名していた。だから、マーマの財産はすべてあ
たしのものとなった。不動産も店の所有権もひとのコネも、すべてあたしが受
け継いだ。あたしはそれを整理して、故買屋以外の仕事はマーマの部下だった
連中に任せた。ウォンのような奴に売り払った権利もあれば、いまでも一定の
売り上げを吸い上げてる権利もある。
 ……稼ぎは阿片の煙とマーマの整形代に消えている。

38 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/17(水) 22:16:08

 マーマが感情を失くしてしまっても、あたしはマーマが望むものを理解して
いる。それは若さを保つこと。例え阿片に溺れる廃人だったとしても、マーマ
は美しくあらねばならない。それがマーマの願い。
 だから肌を定期的に張り替え、皺をのばし、染みを抜いた。時には老朽化し
た骨を取り替えて、重力に引きずられるようになった肉さえも交換しなければ
ならなかった。……整形と呼ぶより改造。大手術の繰り返しだ。

 整形手術はマーマがこうなる前から懇意にしていた闇医者に任せている。
 かなりの腕利きで、針の城≠ナは知られた名前らしいけど、あたしは会っ
たことがない。あたしの主治医から会うなと言われている。
 依頼も支払いもウォン経由だった。

「心臓が、さ」

 背後から声がかかる。ウォンが断りもなく入ってきたんだ。莫迦野郎、と怒
鳴り散らしたい衝動を殺す。あたしはマーマと二人っきりでいたいのに。あん
たの声なんか聞きたくないのに。どうして邪魔をするのか。

「心臓の鼓動……心拍数っていうのか? それが、低い位置で安定しちまって
いるらしい。危険な徴候だってよ。このままだと、静かに心臓を止めることに
なっちまうって。―――ま、こんだけキメてればしょうがないか」

「ヌサカーンがそう言ったのか」

 ヌサカーン。闇医者の名前。もぐりの癖に、こっちの足下を見て法外な医療
費を請求する。マーマも顔負けの守銭奴だ。

「ああ。ついでに、整形のほうも限界だってよ。これ以上イジるなら、脳みそ
引っ越しさせて躰まるごとすげ替えちまったほうが良いとさ」

 ……人間のままで不老を求めるなんて、無茶な話なんだ。

 あたしは「ふぅん」と頷いた。
 ショックを押し殺して、平然とした態度を守る。

「じゃあ、活きの良い躰を探しとかないとな。……死体じゃ厳しいだろうから、
生きた人間か。若い娘だと莫迦みたいに高いんだよな」

 いっそ、どっかからさらっちまうか。そう言いかけたあたしを、ウォンの声
が阻んだ。「冗談じゃねえ」だとか「ふざけるな」だとか、そういう怒鳴り声
が部屋に響く。あたしはウォンに背中を向けたまま、眉をしかめた。
 ……マーマがいるのに騒ぐんじゃねえよ。

 ウォンの唾が飛ぶ。

「冗談じゃねえ。付き合いきれねえよ。いい加減、死なせてやればいいだろう
が。もう十二分に生きたはずだ。大往生じゃねえか」

 マーマが死ねば、阿片窟の稼ぎは丸ごとそっくりウォンの懐に飛び込むよう
になる。だからこいつはそんなことが言えるんだ。

「どうしてまだ生かしておく必要がある。阿片のせいで脳みそは縮む一方。い
まさら正気に返れるわけがねえ。だったら、楽にさせちまうのが―――」

「黙れ」

 振り向き様にウォンの喉笛を引っ掴んだ。喉から「ひゅっ」と音を漏らして
怒鳴り声が途切れる。このまま頸椎をへし折ってやろうか。―――あたしの憎
悪は、しかし燃え盛るのもつかの間、たちまち鎮火してしまう。

39 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/17(水) 22:19:12

 手を離し、胸を突き飛ばす。ウォンは咳き込みながら「狂ってるぜ」と言い
捨てて寝室から逃げ去った。あたしと殴り合うという選択肢はなかったらしい。
 そういう賢しさがあたしは大嫌いだ。

 憎しみが鎮まった理由。……考えるまでもなく、ウォンの言うことが正しい
からだ。もうマーマは死んでいる。残った抜け殻を、あたしが金に飽かせて生
き長らえさせているだけ。誰のためかと問われれば、この延命はマーマのため
ではなくあたしのためと答えるしかない。マーマがいなくなって欲しくないか
ら、虚しいだけの足掻きを続けている。すべてはあたしのわがままだ。

「マーマ」

 返事はない。

「マーマ」

 彼女は決して応えない。

「マーマ―――」

 胡乱な瞳は天蓋を見上げるばかり。

「マーマ!」

 右眼の眼帯を毟り取った。床を蹴り、ベッドに飛び乗る。マーマの痩せさら
ばえた躰を押し倒して、強引に視線を交錯させた。

 ……こんなに力に任せても、痛みの声ひとつ上げやしない。

蜥蜴の眼≠ナ、マーマの瞳を覗きこむ。更にその奥を覗きこむ。もっと深く、
マーマの深奥まで覗きこむ。―――あたしの魔眼は、ひとの精神の隙間に容易
に滑りこむ。あたしが視たいと望む他者の心象風景を、右眼が鮮明に浮かび上
がらせる。この右眼は、ひとの精神のカタチさえも視認してしまうんだ。

 でも、マーマからはなにも視えない。どんなに深くまで潜っても、闇ばかり
が広がっているだけ。魂の投影ともいえる心象風景は一切確認できない。
 それは意味することはつまり。
 マーマはいない。あたしの両手の下で、間抜け面晒して唇をすぼめているの
は、マーマのカタチをした肉のかたまりに過ぎない。

「くそ!」

 取り落とした長煙管を押しつけて、あたしは寝室から飛び出す。分かってい
るはずなのに。もう何十回も試みているのに。―――マーマの裡には虚無だけ
しかないことを確認する度に、涙がこみ上げる。

 どうして、どうしてなんだ。
 どうしてあたしを置いていった。
 どうして一人で行っちまった。
 あたしは家族じゃなかったのか。
 マーマはあたしの生きる理由じゃなかったのか。
 ただ震えるだけ。ただ泣いて乞うだけだったあたしに、火蜥蜴≠ニいう価
値を与えてくれたのはマーマじゃないか。拾ってやった恩義に報いて、私のた
めにあくせくと働くんだね―――そう言ったのはマーマじゃないか。
 あたしはマーマのために生きている。
 マーマがあたしのすべてだ。
 それは、マーマがこうなってしまったいまでも変わらない。マーマの美しさ
を保つため、マーマに永遠の快楽を与えるために、あたしは生きる。
 けど、ウォンが言うように、もしこのまま死んじまうっていうのなら―――

「あたし、なんにも見えなくなっちまうじゃないか……」

40 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 00:58:21



「―――わたしが、いるじゃない」

 温もりが背中から胸へと広がっていく。いつの間にか、あたしは後ろから細
腕に抱き締められていた。気配はなかった。ウォンが出て行ったいま、このフ
ロアにはあたしとマーマしかいないはずなのに。
 ……こんな真似ができる奇術師は針の城≠ノ一人しかいない。

 覗き見していたのか。帰れって言ったろう。そう、叱り付けてやるべきだ。
ここは聖域。あたしの拠り所。第三者の侵入は絶対に許されない。なのに、あ
たしは喉から溢れ出す嗚咽を噛み殺すのに必死で、背中をこするリリーの鼻先
を拒むことすらできなかった。立ち尽くしたまま抱擁を受け容れてしまう。

 ―――なんてことだろう。不覚にも、あたしはリリーの胸からぬくもりを感
じてしまっていた。
 魔女はどんな小さな疵も見逃さない。心の隙間を的確に見つけて滑りこむ。
いまのあたしは傷だらけ。こんな小娘でも付け入るのは容易い。

「わたしがイーリンに新しい価値を与えてあげる。わたしがイーリンの理由に
なる。……だから、ねえ。泣かないで。わたしを見て」

 魔女の呪文は、阿片の煙よりも甘い。

「一緒に生まれ変わろう。ここにいても疵が増えていくばかり。悲しいこと、
辛いこと、全部投げ出しちゃって、わたしと初めからやり直そう」

 ……タイミングは、悪くなかった。
 口説き文句も、まあ及第点だ。
 減点方式なら間違いなくあたしは堕ちていた。リリーにすべてを任せて、彼
女の望む駆け落ち≠ニやらを決行していたに違いない。
 脱出という名の閉塞。世界を知るという口実のもと、世界を閉ざす。それは
きっと、人を酔わす甘美な響きのだろう。

 ―――でも、あたしには白けた絵空事にしか聞こえない。

 悪いね、リリー。あたしはクーロンで育ち、クーロンで生きたんだ。
 夢で飯は食えないとマーマから学んだ。天空に浮かぶ星空よりも地面に転が
る銭だとマーマから教わった。利用されるより利用する女になれと、マーマか
ら言いつけられた。―――今更あんたにたぶらかされるには、あたしはあまり
に世界≠知りすぎている。
 だから、外には行けない。

「……あたしは強情なんじゃない。心に壁を作っているわけでもない。ただ、
生き汚いだけなんだ。醜く生き足掻いているだけなんだ」

 リリー。あんたからは死の香りしかない。隠しきれないほど濃密な死臭が、
あたしを醒めさせる。……あんたは気付いていないかもしれないけど、あんた
の言う外≠チていうのは、楽園だとか地獄だとか、そういうとこだよ。
 少なくとも、あたしにはそうとしか思えない。
 あんたにはそんなところに行きたいのか。……行きたいんだろうね。憧れて
しようがないんだろうね。でも、あたしはイヤなんだ。生きたいんだ。あたし
が欲しいのは生きる理由であって、死ぬ理由なんかじゃない。
 あんたの優しさは人を殺す。マーマの厳しさは人を生かす。その違いが分か
らなくちゃ、あたしを墜とすことはできないぜ。

 ―――でも、ま、抱き締めてくれたことは感謝するよ。

 寂しかった。孤独が痛かった。それは否定のしようがない事実だから。

41 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 01:01:24


「リリー、あたし―――」

 どうしたの、とリリーが応える。あどけなさと母性を両立させた囁き。ガキ
の癖に、よくもこんな声が出せるもんだ。あたしはやれやれと失笑する。
 表情は窺えないけど、リリーはいま、瞳を輝かせているに違いない。欲しい
ものがもうすぐ手に入る、その期待で胸は一杯。―――あたしはそんなかわい
らしい小悪魔の横っ腹に「えい」と肘鉄を喰らわせた。
 肘の尖端が柔肉にめり込む。

「げふ」

 お腹を押さえて、リリーはその場に蹲った。魔女の抱擁から解放されたあた
しは両手を挙げて伸びをする。うーん、空気がまずい。

 リリーは痛みに困惑しつつ、上目遣いにあたしを睨んだ。

「な、なんで……」

「飯」

「え?」

「飯、食いに行くぞ」

 事態を理解できないリリーは「はぁ?」と顔を歪めた。彼女のシナリオでは、
今頃あたしは自分の胸でむせび泣いていたんだろう。肘鉄を打ち込まれるなん
て予想もしていなかったはずだ。……まだまだガキだな。

「クーロン・ストリートにさ、まっずい点心を出す屋台があるんだ。あたしの
行きつけ。そこなら安いから、奢ってやってもいいぜ」

「それって―――」

 リリーは針の城≠謔闃Oを知らない。リリーは外の世界を求めている。

「あたしが連れて行ってやるよ、飲茶がてらにな」

 一拍おいて、リリーの唖然とした表情が年相応の無邪気さに塗り変わった。
「うん!」と力強く頷いて、あたしの腕に自分の腕を絡ませる。

「行こう、外へ!」


                  * * * *


針の城≠フ外の人間は妖気への抵抗力が低い。妖気の暴風みたいなリリーが
クーロン・ストリートを闊歩しようものなら、前代未聞の大虐殺が始まってし
まう。自分でも持て余してしまう巨大な妖力は、いくら押さえろと言っても調
節できるようなものじゃなかった。
 迷彩コートを着せて、フードを目深に被らせる。隠行≠フ護符をコートの
裏にべたべたを貼りつけ、あたしの影を常に踏ませて歩く。そこまで魔術的に
存在を隠しても、リリーは莫迦みたいに目立った。
 クーロン・ストリートなんて絶対に歩けない。

42 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 01:44:20


「こりゃ、裏通りで我慢するしかないな」

 あそこならネオンの灯りも遠い。影に影を重ねて濃くすることで、リリーの
妖気を誤魔化すこともできるかもしれない。クーロン・ストリートは四方から
ネオンが当たるため、影が薄れて隠れようがなかった。

 クーロンの華であるメインストリートに行けないんだ。お姫様はごねるに違
いないと思ったけど、意外にも「ん、別にいいよ」なんて呆気ない返事が待っ
ていた。〈針の城〉の外であれば、別にどこでもいいらしい。

 ―――が、結局それすらも叶うことはなかった。

「……出られない」

 人目につかないよう気を付けながら進んだ第十層。〈針の城〉の外周付近で
リリーは唖然と立ち尽くした。ビルとビルの間から覗く外≠凝視するその
表情は、ショックのあまり感情が抜け落ちていた。
 ……リリーがこんな顔をするなんて。

「なんなの、これ」

 魔女の唇がわななく。

「リリー?」

「わたし、出られない。外に行けないよ……」

 なにを、言ってるのか。

「こんなのがあるなんて知らなかった。わたし、ぜんぜん視えなかった」

 あたしの呼びかけが聞こえないのか、リリーは独り言に没頭する。
 呪詛のような呟きを繰り返す。

「外≠フ景色なんて、もう何度も何度も見たはずなのに、どうして今日まで
気づけなかったんだろう。無意識の迷彩? 境界を跨ごうとする自覚をして、
初めて看過できたのかしら。わたしの眼ですら欺くなんて……」

 リリーはなにを見てしまったんだ。

「そんな真似ができる奴はあいつしかいないわ。ダージョンね、ダージョンが
やったのね。あいつ、なに考えてるの。ここまでしてわたしを閉じ込めたいの。
なにがなんでもわたしを支配したいの。独占したいの。……冗談じゃないわ。
これじゃ、あいつだって出られないじゃない!」

 リリーが奥歯を噛む。負の感情の昂ぶりが怨霊を呼び寄せ、即席の霊場とな
る。……まずいぞ、これは。リリーの憎しみの澱は人間のそれとは桁違いだ。
放っておけば、怨念の重みに負けて地面が沈む。開かれた孔が続く先は、永遠
の闇。怒りと憎しみだけで構築された魔界だ。

「リリー!」

 あたしの叫びで、ようやく彼女はこっちを向く
 。浮かべるのは、始めてみせる儚げな笑み。涙を目元に浮かべて、「対不起
(トゥイプチー)」とあたしに告げる。

「―――ごめんなさい。わたし、あなたと行けないわ」

 そして彼女は消えた。

43 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 21:22:44


 一瞬のことだった。あまりに突然過ぎた。
 ひとり取り残されたあたしは、一秒前までリリーが立っていた地面を見つめ
たまま首を傾げることしかできない。まだすぐ側に彼女が隠れている気がして
「リリー?」と名前を呼んでみるけれど、返事はなかった。

 火焔天に帰ってしまったんだろうか。だとしても、なぜ。

 リリーは〈針の城〉の外を見つめていた。あたしもそれに倣う。だけど、左
の人間の眼≠ナは異常は確認できない。眼帯を外し、〈蜥蜴の眼〉を細めた。
 ……やはり、なにも視えない。
 ただいつも通りの汚れた大気と、終わりのない夜があるだけ。リリーに視え
てあたしの右眼じゃ視えないものなんてあるんだろうか。「わっかんねーな」
と独りごちて髪の毛を掻きむしる。せっかく飯に誘ってやったっていうのに、
まさかこんなかたちで反故されることになるなんて。
 気まぐれでないことだけは、確かだろうけど。……リリーのあの反応は尋常
じゃなかった。いったい、どうしちまったっていうんだ。

 あたしは睨むように眼を眇めて、中心街の方角を見入る。
 魔眼ですら変異を見つけられないのなら、それはあたしが変異と認めていな
いだけじゃないだろうか。〈針の城〉の外と裡との境界は、幾度となく魔眼で
も視ている。いま視界に広がる光景とまったく変わらない。〈針の城〉の城内
には有象無用の妖気が充満し、城外は霊力が枯渇して澄み切っている。
 これのなにがおかしいのか。

 ―――すべてがおかしいのか。

 ヒステリックにオカルトを拒否するクーロンで、〈針の城〉だけは妖気が充
実している。リリーが操る霊脈は、〈針の城〉城内に限定されている。
 ……あたしは根本的な疑問に至った。
 城外と城内。―――なにがこの二つを隔絶しているんだ。どうして〈針の城〉
はクーロンにありながら、異界として成り立っているんだ。

 物心ついたときから〈針の城〉はここにあった。だから、あたしは当然のよ
うに存在を受け容れていた。外と裡を分ける境界のことなんて、考えたことも
なかった。……もしかして、この境界は自然に発生したものじゃなく、人為的
に組まれたものなのか。


                  * * * *


 適当にぶらぶらと歩いていれば、気分を落ち着けたリリーがぱっと転移して
くるかもしれない。そんな期待に引きずられて一時間ほど至高天をさまよって
いたけれど、甘えた声が耳に響くことはなかった。
 あたしは忙しい。リリーのためだけに時間を消費するわけにはいかない。
 今日はこれから診察の予約を入れている。シップ港に隣接する旅行者向けの
ホテルで主治医が待っているはずだ。遅刻するとなにを言われるか分かったも
のじゃない。それに色々と相談したいこともあった。

 あたしは散歩を切り上げ、〈針の城〉を後にした。

「結界アルかぁ?」

 シャオジエは顎に指を当て、大袈裟に悩めるポーズを作った。

「んー。そんな話、ワタシ聞いたことないアルね。〈針の城〉は都市としては
小さいけれど、結界を張るには大きすぎるアル。そんな非常識な存在、今日ま
で誰も気付かないなんておかしいアルアル」

44 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 21:23:02


「なら、外と裡を仕切る境界はどうして生まれたのさ」

「あそこは妖魔租界があった頃から強力な霊力場ヨ。じめじめしたものを好む
手合いが自然と惹きつけられるようになってるアル。きっと火焔天が渾沌の根
源。あそこ、元々はシリウス男爵の領事館があったアルからね。それ考えると、
火焔天を中心に同心円状に異界が展開されているの、全然おかしくないヨ」

 妖魔租界の特質を〈針の城〉がそのまま引き継いでいる。理に叶っているよ
うに聞こえるけれど、その実答えになっていない。

「いや、そうじゃなくて、あたしは境界の話をしているんだ。妖魔租界があっ
た頃は、クーロンのリージョンすべてが魔界都市だった。妖魔租界は妖魔貴族
の居住区に過ぎなかったはずだ。租界の内側と外側を仕切る境界なんてない。
神秘はリージョン全体に氾濫していたんだから」

 ぐ、とシャオジエは言葉に詰まる。あたしは無視して言葉を続けた。

「〈針の城〉が形成された過程で、誰かが人為的に境界を作ったんだ。『ここ
から先は〈針の城〉だよ』と概念の線引きをした」

 いったい誰が、どうして。
 ―――そんなのは自問するまでもない。紅の魔人だ。〈針の城〉の城主にし
て、クーロン暗黒社会の支配者。自分の手で滅ぼした在りし日のクーロンを、
彼は自分の庭に再現した。そのために結界は必要だったのか。

〈針の城〉を作ることが目的で、境界線を引いた。……それはいい。でも、そ
うなると結界の性質が読めない。妖魔や魔物の通行を阻むものならば、あたし
やハダリーだって通れなくなるはずだ。他にも、中心街や共同租界には少数な
がら妖魔がいるし、旅行者にだって人外は紛れている。彼等が〈針の城〉に入
ることができないなんて話、聞いたこともなかった。
 逆に人間が通れない結界だったとしたら。……それはもっと考えにくい。絶
対にあり得ない。いまこの瞬間にも、〈針の城〉には犯罪者や浮浪児が逃げ込
んでいるはずなのだから。

 あくまで概念の境界に過ぎないのか。でも、だとしたらリリーのあの反応は
なんだ。彼女の言葉を信じれば、あの結界はやはり物理的な障壁となって通行
を阻んでいる。それが適用されるのがリリーだけ? たった一人の少女を幽閉
するためだけの結界? ……もしそうならば、〈針の城〉というのはリリーを
閉じ込めるための巨大な監獄ということになる。
 ダージョンはリリーを二重に監禁していたのか。
 火焔天と〈針の城〉。
 二つの壁。

「ダージョンが〈針の城〉を形成した目的は、妖魔租界を再現するためじゃな
くて、リリーを逃げられないようするためだったのか……」

 頭を振る。駄目だ。こんな仮定の推論に意味はない。
 大体、〈針の城〉の成り立ちの由縁を知ってどうする。あたしが頭を悩ませ
たところで〈針の城〉が現実としてそこに在ることは変わりないのだから、事
実としてそれだけを受け容れればいいじゃないか。

 ……でも、あのときのリリーの表情は。

「あー、火蜥蜴の。ワタシ、話がまたく見えないアルよ。いくらなんでも置き
去りにしすぎネ」

45 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 21:23:18


 シャオジエに半眼で睨まれていることに気付き、あたしは気まずそうに眼を
逸らした。「悪い」と口でだけ謝っておく。……常に機嫌を取っておかなくち
ゃまずい女だって分かっているのに、迂闊な真似をしてしまった。
 あたしは逃げるようにソファから立ち上がると、パノラマビューの窓からク
ーロンの夜景を見下ろした。「わー、綺麗」なんてわざとらしい声をあげる。

 ここは、リージョンシップ・ターミナルが運営するハイクラス・ホテル星
港≠フ最上階ペントハウス。クーロンでもっとも天国に近い部屋だ。
 必然、お値段も天国価格になる。リージョン間を好き勝手に行き来できるよ
うな国賓階級でもなければ、まずお近づきになれないエグゼクティブスイート
だった。……あたしはこの部屋に足を向ける度に疑問を抱く。たかが寝泊まり
するために、これだけ広い部屋を借りる意味があるんだろうか。どうして一人
部屋なのに、寝室やバスルームが二つも三つもあるんだろうか。
 金が余ってしかたがない奴が考えることはよく分からない。

 宿泊客の名はリュイ・チャンウェイ。あたしの主治医で、お仕事は魔法使
い≠ニいうことになっている。

 いまどき演劇の脚本でも聞かないようなクーロン訛りの言葉を操り、これま
た風俗店でも見かけなくなったクーロンの民族衣装チーパオ・ドレスで自らを
飾り立てる女。藍色の髪はアップにして、二つのお団子型にまとめている。
 ……つまり、絵に描いたような典型的クーロン娘≠ネわけだけど、あまり
にコテコテすぎて、逆にクーロンでは絶対に見かけない変人に仕上がってしま
っている。

 シルク地のドレスは闇より深い漆黒で、金糸で縫われた紋様の他に、胸元に
はアクセントとして薔薇の刺繍が咲いていた。際どく切れ込んだスリットから
伸びる白い素足は、性別を問わず視線を吸い付ける。
 ……変な格好だけど、似合っているのは、まぁ確かだ。それでも変という事
実は揺るがないけど。

 そもそも名前からしておかしい。リュイ(驢馬)でチャンウェイ(薔薇)だ
なんて。明らかな偽名だ。あまりに呼びづらいから、あたしは小姐(シャオジ
エ)と呼ぶことにしていた。
 年齢は、容姿から察すると二十歳前後。でも人間かどうかすら不確かなんだ
から、外見年齢なんて当てにもならない。一から十まですべてが胡散臭い女だ
った。そんな時代劇に出てくる町娘の格好で、なにが魔法使いだ。

 シャオジエはクーロンの人間ではない。自家用のリージョンシップで世界を
飛び回る根無し草だった。クーロンはリージョン旅行の基点だけあって、月に
一度は寄ってくる。その時があたしの診察の日となるわけだ。

 ……あたしは、生まれついてのリスクを抱えている。この蜥蜴の肉と/眼と
/刺青は、あたしの小さな器から溢れる過分な道具≠セった。
 マーマに拾われた頃は魔眼の制御のしかたも知らなかったため、毎日のよう
に高熱を出しては倒れていた。このまま衰弱死すると危ぶんだマーマが頼った
のが、この魔法使いサマだ。
 あたしの右眼の使い道を教えてくれたのはマーマだけど、使い方を教えてく
れたのはシャオジエだ。その他にも、躰の負担を軽減するために色々な心霊施
術を行ってくれている。シャオジエの定期診療は、あたしが生きる上で欠かせ
ない習慣だった。もう十年繰り返している。支払った金額は数えたくもない。

 ―――心霊施術なんて超高等医療を受けている奴、このクーロンでいったい
どれだけいるんだろうな。

46 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 21:23:34


 診療所の場所―――つまり、シャオジエと会うのは決まってこのペントハウ
スだった。彼女は〈針の城〉はおろか、中心街にも共同租界にも出ようとはし
ない。逗留生活はシップ港の敷地内でいつも完結していた。
 治安の悪さを気にしているんだろうか。……その割には、マーマみたいな物
騒な商売人と友達だったりするし。よく分からない。彼女のことで分かること
なんて、なにひとつない。―――それでも、マーマがああなってしまった今、
頼れる大人≠ヘシャオジエしかいなかった。
 変人だし奇人だけど、正しくあたしの姉貴分だ。

「ねえ、シャオジエ」

「ん、なにアルか」

 シャオジエはトランクから施術道具を広げている。

「クーロンの外ってさ、どういうとこなんだろ」

「……火蜥蜴の。あなたさっきから話飛びすぎヨ。ワタシと会話する気あるの
なら、もうちょっと話の筋道を立てて欲しいネ」

 彼女のクーロン訛りはほんとに嘘くさい。十年来の付き合いだけど、未だに
慣れない。けど、それを指摘すると施術中になにをされるか分かったものじゃ
ないから、あたしは黙っている。

「―――誘われちゃったんだ、あたし」

外≠フ住人であるシャオジエの意見が聞きたい。あたしは一ヶ月前の運命
的な出会い≠ゥら今日の別れまでの経緯を掻い摘んで説明した。
 もちろん、リリーの正体については適当に脚色して誤魔化している。いくら
シャオジエでも……いや、大切なシャオジエだからこそ、下手に真実を明かし
て、〈針の城〉の入り組んだ事情に巻き込みたくはなかった。

「ロマンチックな話アルねぇ……」

 話を聞き終えたシャオジエは溜息を漏らした。

「迷惑千万な話だよ」

「そうアルか? 女冥利に尽きるアル。ワタシなら手籠めにして、目一杯愛玩
するヨ。飽きたらさよならして、クーロンに戻ればいいだけネ」

 シャオジエはしれっと言う。……魔女というより、ただの人でなしの言葉だ。

「そうじゃなくて、お姉様に聞きたいのは外≠ノついてのお話。あいつがそ
んなに恋い焦がれるほど、外≠ニやらは素晴らしいものなのかい」

「外≠セけじゃ抽象的過ぎるアルよ。退屈なリージョンもあれば、奇天烈な
リージョンだってアルある。……でも、ただ別のリージョンに行ってそこで新
しい生活をしたいだけなら、クーロンのほうがスリリングで飽きが来ないかな
ぁ……とは思うアル。ワタシ、クーロン好きヨ」

 それは観光者の意見だな。あたしは胸のうちで嘆息する。
 クーロンで生活しているあたしからすれば、生きるために生きる毎日は絶対
に好き≠ニ言えるようなものじゃなかった。

47 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/20(土) 21:44:39


「お悩み相談もよろしいけれど、そろそろ本業のほうもさせるアルね。さっさ
と裸になって、ベッドに仰向けになるよろし。優しくしてあげるヨ」

「語弊のある言い方するよなぁ」

 あたしは渋々とブルゾンとニットセーターを脱ぎ、下着姿になった。躰を切
り開くことが目的じゃないから、下までサービスする必要はない。
 警戒心を露わにしながらクイーンサイズのベッドに横たわる。シャオジエは
指先であたしの肌をなぞるようにして身体の調子を検めた。さすがにプロだけ
あって、手つきにいやらしさはない。

「前に診たのはいつだたカ」

「一ヶ月と半分ぐらい前かな」

「休息はしっかり取ってるアルか」

「ぼちぼち」

「嘘ね」

 シャオジエは断言する。くりくりと動く大きな瞳で凄まれると、あたしはな
にも言えなくなってしまう。愛敬に富む顔作りなのに、どうしてこんなにも迫
力があるんだろうか。

「火蜥蜴の。オマエ、まだ不眠癖治してないのか。オマエが眠くならないのは
脳みその歯車がちょと狂ってしまっているからなだけで、眠らなくても生けて
いけるってわけじゃないアルよ。無茶な生活続けていたら寿命削るだけって、
ワタシ何十万回も言った。どうして改めないアルか」

「忙しいんだよ」

 半分嘘で、半分本当といったところか。
 故買屋の商売に定時なんてないし、マーマから引き継いだ利権関係の仕事が
あたしの時間を食い潰している。それに加えて趣味の心霊工学と死体いじり。
一日の時間が倍になっても足りやしない。
 けど、あたしが睡眠を遠ざけるのはそれが理由じゃない。……単純に、寝る
のが嫌いなんだ。いやな夢を見るから。

 夢の中では、必ずあたしはあたしでなくなる。男の場合もあれば女の場合も
あるけど、イーリンであることは絶対にない。まったく別の性格をして、まっ
たく別の思考をしていて、見たこともない世界で生きている。

 太陽を何度も見た。クーロンの日常とは無縁の陽光を、あたしは夢の中で幾
度となく目にしていた。あたしではないあたしが、太陽が浮かぶリージョンで
生きているんだ。

 あたしという自己が薄らぐ。気持ち悪かった。悪夢としか思えなかった。
 うなされて目を覚ます度に、あたしは自分の躯を自分で抱いて、そこに火
蜥蜴のイーリン≠ェいることを確かめる。自分が自分で無くなってしまう感触
は、何百何千と体験しても慣れるものじゃない。
 どうして夢の中で、赤の他人の生と死を繰り返さなくてはならないのか。

 昔から睡眠をとるのは嫌いだったけど、一年前まではマーマが口うるさかっ
たため、睡眠薬を飲んで強引に躰を休めていた。いまはあたしの躰を気にかけ
る奴なんて誰もいないから、滅多なことでは横にならない。ベッドで寝るぐら
いなら、仕事中にぶっ倒れたほうがマシだとさえ思っている。

48 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/20(土) 21:44:58


「怖いんだ……」

 胸元に置かれたシャオジエの手を握る。

「あたしはあたしでいたい。あたしじゃなければイヤだ。他の誰かになるなん
て耐えられない。だから、お願いだよシャオジエ。今日はあたしを睡らせない
で。あたし、痛くても我慢するから。このまま診てくれよ―――」

「火蜥蜴……」

 シャオジエのかんばせが珍しく真剣味を帯びた。
 ……が、すぐに崩れた。

「それは無理な注文ネ。意識が覚醒している状態だと、診られるものも診られ
ないアル。大人しく寝付いて幸せな夢見るヨロシ」

 あたしの手をほどくと、シャオジエは手のひらに魔法円を展開させた。肉眼
でも視認できるほど強力なサークル。魔法使い≠フ自称は伊達じゃない。

「てめえ……」

「大丈夫よ。お脳も休んでもらうから夢は見ないアル。安心して休むがいいネ」

「信用できねえ」

「言葉遣いには気を付けるアル」

 シャオジエの笑顔。人間どころか、虎すらも喰い殺しかねない笑顔。
 やばい、と戦慄したときには遅かった。シャオジエはにっこりと笑ったまま
魔法円を握り潰す。麻酔で眠らせるのはやめたんだ。
 ということは、つまり―――
「覇!」のかけ声と同時に、みぞおちに鉄拳が突き込まれた。うめき声をあげ
る暇も、痛みに悶える余裕も与えてはもらえなかった。
 あたしの意識は闇に削り取られ、一撃のもと昏倒する。

 ―――昔からそうだ。昔から大人げのない女だった。
 子供みたいにあたしにじゃれつき、見様見真似のカンフーでいじめてくる。
 見かけばかりの模倣術のはずなのに、やたらと堂に入っていて、昔はいつも
泣かされていたっけ。
 腕力で訴える魔法使い。つくづくわけの分からない姉貴分だと思う。


                  * * * *


 結局、夢は見てしまった。
 いままでとはおもむきの異なる、変わった夢だった。
 クーロンではないどこか。
あたし≠ヘ如何にもといった感じのお嬢様な容姿をしているのだけれど、な
ぜか服装は真っ白な死装束で、しかも土に汚れていた。

 目の前には、寒気がするほど美しい女が立っている。
 美しいといっても女性的な印象が欠落していて、絵本に出てくる王子様のよ
うな格好をしていた。髪型は手の込んだショートヘアで、浅葱色に燃えている。
 緑と藍が入り交じったかのような不可思議な色。

49 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/20(土) 21:45:15

 
 女は真紅の瞳であたしを睨んでいる。
 向けられる殺意は、鋭すぎて肌が切り裂けそうだ。
 ああ、憎まれているんだな、とあたしは思った。

 視界が反転する。景色が流れる。
 あたしの意識など気にも留めず、あたし≠ヘ逃げていた。殺意を迸らせる
女から逃げていた。『ついてねえ』だとか『変な死体を選んじまった』とか悪
態を吐きながら逃走する。

 女が追ってくる。容赦なく、慈悲もなく、死神の靴音を響かせて追ってくる。
あたし≠ヘ抵抗もそこそこに逃げる。実力差が違いすぎる。勝負にならない。
相手はバケモノの中のバケモノだ。

 どうしてこんな状況になってしまったのか。逃げた先に、どんな運命が待ち
構えているのか。あたしにはまったく分からない。
 趣向こそ違うが、やはりこれもいつもと同じ悪夢だった。
 あたしがあたしでなくなってしまった悪夢。究極の他人事。別の誰かが、ま
ったく別のリージョンで、別の人生を過ごす。

 違和感があるとすればそれは―――そう、その別人サマの人格は、常に決ま
っているような気がする。……そんなわけ、あるはずないのに。だって、あ
たし≠フ姿は夢を見る度に変わっているんだ。同じ人物だったことは一度とし
てない。なのに人格は同じだなんて、あり得るものか。

 女/死神があたし≠ノ追いついた。
 振りあげられた刃に月光が反射する。
 女の眼は、涙で濁っていた。
 ……まさか、泣いているのか。
 我が目を疑った次の瞬間、あたし≠フ胸に朱色の花が咲いた。

 あたしは死んだ。


                  * * * *


 眠っていた時間は三時間。診療なんていつもは一時間もかからないのに、シ
ャオジエが起こしてくれなかったせいで無駄な時間を重ねてしまった。

 悪夢に飛び起きたあたしに「早上好(ツァオシャン・ハオ)」なんてほがら
かに挨拶してくるシャオジエには、枕の一つでもぶん投げてやりたかったけれ
ど、報復の恐ろしさを考えると、上衣を引っ掴んで荒々しく部屋から出て行く
ことぐらいしかできない。
 乱暴に足音を立てながら玄関を目指すあたしの背中に、「今回は旅程の都合
で、一週間ほど留まることになったネ」と言葉がかかった。
 なんて珍しい。
 この十年間、彼女はクーロンに三日と居座ったことはなかったのに。

「いつでも遊びに来るヨロシ」

 返事はドアを閉める音。ちょっと冷たいかな、と一瞬だけ後悔したけれど、
あんな悪夢を誘発してくれた女に気を使う必要ないとすぐに考えを改めた。
 あたしは忙しいんだ。
 クーロンは常夜のせいで時間の感覚が狂いやすいけど、一日の区切りははっ
きりと存在する。スケジュールが埋まっているあたしには、三時間も眠る余裕
なんてなかった。今日はグオワンホテルにグランドピアノを売り込まなくちゃ
いけない日なのに。急がなければ遅刻だ。

50 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/23(火) 22:04:17


 クーロンが不夜城と呼ばれる理由のひとつは、社会的な意味合いでの夜
が存在しないからだ。終わらない夜というのは、夜の価値を見失わせてしまう
らしい。―――どの時間に業務を初めて、どの時間に終わるのか。いつ起きて、
いつ寝るのか。それらは家族や人種、会社や部隊といった集団ごとに異なる。
 生活時間を他者と合わせようという殊勝な心がけをもった人間は少なく、み
な他人が寝こけている時間に活動することがいちばん利に繋がると信じていた。
 お陰でクーロンにはコアタイムというものが存在せず、どの時間帯を切り取
っても、ひとは均等に起きていて、そして寝ていた。
 
 あたしの事務所の場合は、更に事情が特殊だ。
 トップのあたしは不眠症。事務担当のロートルは事務所に居住する引きこも
り。肉体労働担当のハダリーは屍体のため、人間が必要とするような休息はと
らない。―――三人が三人とも、常識からかけ離れた生活をしているため、必
然、営業時間なんてものも存在しなくなる。「仕事あれば働くし、なければ休
む」という故買屋としては理想的な就業形態になっていた。
 だから、どんな時間に事務所へ訪れようと、最低限の応対はされる。

「オハヨウゴザヰマス、社長」

 ……ただし、こんな応対でもよければ、の話だけど。

「社長はやめろって言ってるだろ、ハダリー」

 腰を屈めて掃除機をかけるハダリーの背中を挨拶代わりに蹴飛ばす。びくと
もしないどころか、逆に弾き返された。筋肉の状態は依然として良好だ。

「ハダリーは掃除好きだよな」

「さぼルト、社長ニ怒ラレマスカラ」

 うーん、かわいくない返事だ。

 掃除を言いつけるのには理由がある。
 別にあたしに小姑気質があるわけじゃない。
 
 クーロンは妖魔租界戦争以後、〈針の城〉以外の土地は霊力場としては貧弱
な地相に書き換えられてしまったが、それは天然もの≠ェ育ちにくいという
だけで、人為的な術≠ノ対する抑止力にはなっていない。むしろ、地相が潔
癖なぶんだけ、呪術などの効果が顕現しやすい。
 あたしみたいに何かとひとの恨みを買いがちな商売をしている場合は、神経
質なぐらい怨霊掃除機で簡易除霊をかけておく必要があった。
 掃除/除霊をサボったせいで、巨大化した悪霊に金庫を喰われただとか、火
事を誘われただとか、そういう被害は〈針の城〉の外でも多い。気を付けるに
越したことはないんだ。
 ……まあ、的にされるのは悪辣な金融業者だとか、牧場≠経営する人買
いだとかが大半だから、自業自得と言えばそうなのだけれど。

「ま、掃除もいいけど、仕事が待ってるからさ。区切りのいいところで工房に
上がってきたよ」

 ハダリーは「ハヰ」と返事すると、再びがーがーと掃除機をかけ始めた。 

51 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/23(火) 22:07:50


 グランドピアノをホテルまで運ぶ。そのために、ハダリーの調整≠ヘ必
要不可欠だった。―――牛頭の彼女の仕事は、トラックの荷台でしっかりと
ピアノを保持すること。劣悪な路面にべこべこの荷台。傷一つつけずに運ぶ
には、人外の膂力を繊細に使いこなさなければならない。

 ハダリーの躰はミノタウロスの死体だ。筋肉や骨に停滞≠フ呪文をかけて
防腐処理はしているものの、死んでいるという事実は揺るがない。血は枯れて
いるし、心臓も止まっている。
 彼女の躰はただの器≠セ。動かすことだけが目的なら、別に死体に拘らず
とも、人形でも紙コップでもなんでも構わない。どんな無機物でも、魂を宿ら
せれば霊的な活動は可能だ。―――けど、より高度な動き、人間に近い機能を
求めるのならば、やはり死体が望ましい。生命の肉体に勝る器≠ネんて、こ
の世には存在しないのだから。

 ハダリーの躰は死んでいる。では、死体を動かかすものはなにか。魂≠セ
けでは十全な答えにならない。この場合、霊的に駆動させるためのエネルギー
―――妖力だとか魔力だとか、そう呼ばれる類のものが必要となる。
 魂そのものにもエネルギーは内包されているが、より高機能を求めるならば、
頭脳とは別にエンジンを作ったほうがいい。魔力を生み出し、それを全身に循
環させる心臓。―――ハダリーの場合は、それが右眼に埋め込まれている。

 機関(エンジン)と呼ぶより増幅器(ブースター)と呼ぶべきか。それは莫
大な魔力を秘めた金緑石だった。

 五年ほど前にマーマからお守り≠ニして渡されたものだ。
 猫の瞳みたいな宝石だったから、初めの頃は金属にはめ込んで首飾りにして
いたけれど、その価値に気付いてからは魔力の源泉として使うようになった。

 魔石の中でも格別に霊的純度が高いものなのだろう。下手にナイフなどで疵
を入れれば、街ひとつ吹き飛ばし兼ねないほどのエネルギーを無限に回転させ
ている。魂の価値を底上げするには最適の媒体。ただ石を開放するではハダリ
ーの躰が消し飛んでしまうから、彼女の魂≠ナある人造霊とは別に、魔力量
調節の役割を担う魔石管理≠フ人造霊を右眼に組み込むことにした。
 ひとつの躰に二つの魂。
 ……これが、この人造僵尸の複雑さの原因になっていた。

 一般的な常識を持ち合わせる憑依術者なら、魔石管理の人造霊は肉体管理と
人格を受け持つ人造霊ハダリー≠フ支配下に置かせるだろう。魔石の出力調
整は、ハダリーの意思で行えるようにするんだ。
 ……けど、あたしはハダリーの人格を極力人間に近く、自由意思に基づいて行
動するよう設定している。知識も書き込むのではなく、自分で覚えるよう促して
いる。お陰でいまの彼女がいるわけだ。―――あんな頭のタリナイ筋肉ダルマに、
ソロモン級の魔石を自由に管理させられるものか。洋服箪笥を運ぶために全開放
など、血迷った真似を平気でしかねない。
 魔石管理は独自の権限を持つ人造霊にやらせる必要があった。

 魔石の人造霊猫睛石(びょうせいせき)

 この無人格の人工魂魄と、ハダリーの支配率≠いじることで、用途に応じ
た仕様になる。猫睛石(びょうせいせき)≠フ支配率を高めれば身体能力が上
がる代償として理性が薄れ、暴走気味になる。ハダリーの支配率を高めれば供給
される魔力が少なくなるため身体能力は下がるけど、使用効率が上がるから頭は
良くなる。細かい仕事もできるようになる。

52 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/24(水) 00:02:18


 猫睛石の支配率を一割弱まで落とし込む。あまり出力を絞りすぎると今度は
猫睛石が活動目的を見失って暴走する可能性があるため、あまり長くは続けら
れない。三時間が限界だろうか。積み卸しや輸送にそこまで時間はかからない
けど、商談が長引くと帰宅が遅れる。出先で支配率を調整するのはゴメンだ。

「さっさと終わらせて、帰りに屋台でオレンジジュースでも飲もうぜ」

「はい、社長」

 魔力供給が抑えられたハダリーは動きが機敏だ。ただし、人間味は損なわれ
る。あたしがプログラムしたことしかできなくなる。
 それは使い魔としては理想的なのだろうけど、予測不可能な進化≠求め
るあたしとしては、ハダリーにトラックやスクーターと同じ道具≠ナ終わっ
て欲しくないという思いがある。……成長や進化はただ時間を重ねても始まら
ない。燃焼するエネルギーをぶち込んで初めて歯車が回り始めるんだ。そのた
めにはやはり、魔石が必要だった。

 ピアノを何枚もの毛布で丁寧にくるみ、ロープで荷台に固定する。それを更
にハダリーががっちりと押さえて、ようやく準備完了だ。
 あたしはトラックの運転席に座って、エンジンを吹かした。

 珍しくロートルが見送りに立っている。二階の窓越しからだけど。
 あたしは適当に手を振ると、アクセルを踏みこんだ。


                  * * * *


 クーロンには自動車用の道路なんてないから、出せるスピードにも限界があ
る。あたしのトラックも普段は成人男性の全速力程度で走行していた。遅いと
は思うけど、積載量の多さを考えれば充分に便利だ。
 今日のように最高級の商品を運ぶ場合は、更にスピードを落とす。徐行と呼
んでも差し支えがないぐらいまで。トラブルの芽は可能性の段階で摘むのが長
生きの秘訣だ。
 ……けど、そのやり方ははっきり言ってイライラする。かっ飛ばせば十分で
辿り着ける距離を一時間かけて進むなんて納得がいかない。

 こういうとき、いつもならハダリーが愚にもつかない質問をしてくるから、
雑談で苛立ちを誤魔化せるのだけど、いまはお人形モードだからそれも期待で
きない。あたしは指先でハンドルをこつこつと叩きながら、フロントガラス越
しに代わり映えのしない街の風景を眺めた。

 あんな夢を見せられたせいで、無駄に気が立っている。
 それに、リリーのことも頭から離れない。

 せっかく歩み寄ろうと思ったのに。外≠ノは行けなくても、マフィアの目
を盗んで一緒に遊ぶぐらいの関係にはなれると思ったのに。
 どうしてあんな風にいなくなってしまったのか。また一週間ほど経てば、い
つものようにあたしの部屋に忍び込んできてくれるのか。

 思わず独りごちてしまう。

「……どうしてダージョンは、リリーを閉じ込めるんだろうな」

53 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/24(水) 00:02:27


 あんな桁外れの魔力を持った小娘を野に放てるはずがない。それは理解して
いる。けど、そんなのが監禁の理由ならば、さっさと殺してしまえばいいのに
とあたしは思う。幽閉して、それで誰が利を得るというんだ。

 リリーは外に出たがっている。それはつまり、火焔天での生活は退屈だとい
うことだ。―――あたしは、クーロンの生活を辛い≠ニ思ったことこそ多々
あれど、退屈なんて感じたことは一度もない。

 ……リリーは、かわいそうな子なのかもしれない。

 生きているならそれで満足だ。クーロンではそう嘯く奴が多い。あたしもリ
リーにそう諭したことがある。生きるために日々を過ごすことに忙殺されてし
まった者の泣き言。―――中には、マーマの境遇すら羨む奴もいた。阿片吸っ
て毎日を夢うつつに過ごせるなんて、最高の人生じゃないか、と。

 けど、それは違うだろう。

 いまのマーマはただ心臓が動いているだけだ。死体のハダリーのほうがよっ
ぽど人間らしい。だけど、誰もハダリーになりたいとは言わない。
 どうしてだ。
 ハダリーには理由≠ェあるじゃないか。生きていく上での目的を確立させ
人間に近付きたい≠ニいう欲求に基づいて日々学習を積み重ねている。阿片
に溺れる老婆よりもはるかに人間らしく生きているのに。
 確かに、ハダリーの理由≠ヘあたしが与えたものだ。人間を目指せ、とあ
たしがプログラムした。でも、切っ掛けに貴賤なんてない。問題は自分の中に
生きていく価値を見つけられるかどうかだ。
 ハダリーはそれを持っている。……だから、あたしはハダリーが羨ましい。
同じように、リリーも羨ましかった。

 彼女はいままで死んでいたんだろう。目的を持つことを許されず、ただ生き
るためだけに生かされる日々。火焔天は彼女の棺桶だったに違いない。
 けど、リリーは見つけた。外≠ヨの道を。目的を。理由を。価値を。
 火焔天の外を知ったいまのリリーは、間違いなく生きている。

「くそっ」

 ハンドルを殴る。

 リリーはかわいそうな子だ。この歳になるまで、自分の価値を見出せずにい
た。けど、リリーは恵まれたガキだ。だって、彼女は外へ行きたい≠ニいう
目的を抱いてしまったから。生きる上での原動力となる理由≠見つけてし
まったから。―――いまのあたしには、理由も目的もない。どっちも見失って
しまった。マーマの喪失とともに。

 このままクーロンで、ケチな故買屋として一生を終えるのか。

 脳裏によぎる焦燥。あたしは愕然とする。
 ……こんなこと、いままで考えたこともなかった。
 マーマのためにも、あたしのためにも、故買屋の仕事は続けていかなくちゃ
ならない。金が無くなれば、マーマもあたしもあっという間に地獄行きだ。生
きるために生きる。当然のように、その境遇を受け容れていたはずなのに。

 もう、限界なのかな。

54 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/24(水) 00:02:43


 一年努力した。マーマがああなってしまったことで欠落したあたしの価値を、
生きる≠ニいう目的で代替した。マーマに認められたい、マーマの力になり
たい。そういった感情はすべて、マーマを失いたくない≠ニいう絶望に変換
した。……でも、これ以上はもう無理だよ。

 狂気に期待していた。狂ってしまえば、いまの境遇にも価値を見出せるかも
と甘い考えに未来を託していた。けど、あたしの正気は予想以上に頑健だった。
 認めたくなくても、理性が認めてしまっている。
 マーマは、もう―――


 ―――そのとき。ふと覗いたサイドミラーが、見慣れない影を写した。
「なんだあれ」と声に出して呟いてしまう。

 四つに木製の車輪に篭が乗っかって走っている。例えるなら、馬車が馬に牽
かれず自走しているような。どこかで馬に逃げられたのか。
 ……いや、違う。あれは蒸気自動車だ。
 黒い煙を吹き出しているのが何よりの証拠だというのに、あまりに不格好過
ぎてすぐに気づけなかった。
 馬車に蒸気機関を乗せただけの粗悪な乗り物。エンジンの無駄遣いだ。その
癖、一丁前にスピードだけは出している。
 すぐにあたしのトラックの横に並び、そして―――そして、減速した。

 御者と言うべきか、運転手と言うべきか。黒いインバネスコートに黒いボー
ラーハットという黒装束の男が、これまた黒い拳銃の銃口をあたしに向ける。
 冷たく暗い銃口を。
 
「ハダリー! ピアノを!」

 守れ、と叫び終える前に衝撃が走った。口を開くより疾くハンドルを右に切
っている。鉄製のトラックが木製の蒸気自動車に体当たりをしかけ、馬力に任
せて押し潰した。どんなにオンボロでも、こっちはクラック・エンジンを搭載
しているんだ。馬力が違う。
 拳銃の銃爪は引かれたみたいだけど、弾があたしを貫くことはなかった。

 蒸気自動車は左側の二輪を破壊され、シップが墜落するように地面に倒れこ
む。バックミラーを睨みながら「強盗か?」と呟くのも一瞬、あたしはすぐに
目を見開き、驚愕に声を失った。

 自動車が立ち上がった。比喩ではなく、本当に立ったんだ。
 左側は車輪が破壊された部位か。右側はスポークの隙間から、先の細い多関
節の足≠ェ何本も伸びて車体を支えている。
 あれじゃまるで蜘蛛じゃないか。
 巨大な、蜘蛛。

「まさか―――」

 あれは蜘蛛そのものなのか。

 蒸気自動車の外見は、街中で目立たないよう隠れ蓑にしていただけで、本体
はエンジンかどこかに隠していたのか。妖魔は魔物を道具に憑依させる術に長
けているというけど、あれがそうなのか。
 蒸気自動車が破壊された拍子に蜘蛛の魔物が実体化したと言うのなら、バッ
クミラーに映る非現実も一応は納得できる。あれは巨大蜘蛛のモンスターだ。

 けど、どうしてあたしを追う!?

 魔物を使った強盗だっていうのか。こんな街中で? そんな莫迦な。

55 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/24(水) 23:43:38


 絹を裂くような悲鳴が響く。なんともお上品な恐怖の表現。どこかの不幸な
ご婦人が巨大蜘蛛と出くわし、その場で卒倒してしまう。付き人も恐怖に竦み
上がって動けないでいた。
 ここは既に租界の一部。閑静な住宅が並び、街灯が穏やかに道を照らす。
 租界の人口密度は中心街の一割以下だけど、居住者は中産階級以上の紳士淑
女ばかりだから、こういった凶事には慣れていない。いまのご婦人サマがいい
例だ。このままではパニックが起きかねない。

 租界で問題を起こすのだけは避けたい。魔物の一匹や二匹、駐留軍が華麗に
仕留めてくれるだろうけど、その場にクーロン人のあたしが居合わせたら、罪
をなすり付けらるに決まっている。
 租界の司法はクーロンから独立している。ここではあたしが外国人≠セ。

「バックれるしかねえな!」

 クラック・エンジンの出力を上げて、一気に加速する。もはや積み荷をどう
こう言うような状況じゃない。一刻も早くこの場から離れないと。
 だけど、市街で出せるスピードなんて自ずと限られる。中心街のような雑多
な人混みでこそないものの、街中を歩く人影は目立った。

 危うく人を轢きかけてしまい、ハンドルを切ってしまう。舌打ち。僅かな失
速だけど、魔物は一瞬の隙を見逃さなかった。

 バックミラーに広がる脅威の光景。巨大蜘蛛は八本の足をバネに変えて跳躍
する。足場に選んだのは街灯の尖端。その体躯からは想像もできないほど軽や
かに乗っかるものの、やはり街灯は重みに耐えきれず、鉄の支柱をぐにゃりと
曲げた。……が、巨大蜘蛛は素早く別の街灯に飛び移って難を逃れる。
 あとはその繰り返しだ。
 軽業師の如き体捌き。街灯から街灯へと跳ぶ魔物は、遮られるものがないた
めあっという間にトラックとの距離をゼロに変えた。
 
 ―――蜘蛛の背中に乗るインバネスコートの男は、いったいどんな表情であ
たしを追い詰めているのか。

 八本足のフライングボディプレスがトラックの荷台に直撃する。衝撃であた
しの躰はシートから跳ね上がり、肩をフロントガラスに激突させた。
 トラックは積載量を大幅にオーバーさせたまま路面を滑り、二階建ての民家
の玄関に頭から突っ込む。
 運転席が潰れる直前、あたしはドアを蹴破って外に躍り出た。宙で躰を回転
させて、足から綺麗に着地する。踵が土を引っかき、地面に疵痕を残す。

 確かめるまでもなくトラックは全壊だった。運転席は壁にめり込んで潰れ、
荷台は蜘蛛の着地点を中心に折れ曲がっている。
 ……最悪だ。仕事道具を失ってしまった。明日からなにを足にして商品の回
収と輸送を行えばいいのか。
 クーロンでは手に入らないものはないと言っても、自動車を非正規のルート
で買い付けるには時間も金もかかる。

「弁償は……期待できねえよな」

 巨大蜘蛛の四対八個の眼が一斉にあたしを睨んだ。
 禍々しい血色に染まった瞳。
 あたしは痛めた肩をさすりながら、超常の生物と相対する。蜘蛛の背中から
あたしを見下ろすインバネスコートの男は、不気味なまでに無表情だ。

56 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/24(水) 23:48:25

 あたしはやれやれ、と嘆息する。
 トラックの損失は痛い。痛すぎる。だからこれ以上の無駄な出費は控えたい。
 例えば、蜘蛛の腹の下に敷かれているグランドピアノとか。
 あれが無事なら涙は飲み込める。

「……ハダリー、あたしの言いつけは守ったかい」

 返事はない。
 やっぱりあの調整では無理か。あたしは更に深く溜息を吐く。トラックに加
えてピアノまでスクラップになってしまったら、あたしは三日くらい立ち直れ
ないかもしれない。故買屋を初めて以来の記録的大赤字だ。

 奇蹟を期待するか? ……いや、無理なものは無理だ。ピアノはハダリーご
と潰された。残酷な真実。あたしは「守れ」と言ったのに。

 巨大蜘蛛は八本足を地面に突き立て、トラックの荷台(だった粗大ゴミ)か
ら降り立った。そのままかさかさと地を這ってあたしに接近する。
 ……莫迦な奴。そのまま押し潰していれば、身動きが取れなかったのに。

「―――ハダリー、今度はあたしを守れ」

 トラックの残骸から一筋の影が飛び出す。牛面を悪魔の仮面で隠した人造僵
尸。衣服に損傷はあるものの、筋肉の鎧は無傷のまま、ハダリーは背後から巨
大蜘蛛に掴みかかった。
 ……が、あっさりと振り払われる。ハダリーは派手に宙を泳ぎ、トラックが
突っ込んだ民家に背中から激突した。

「……弱い」

 一割だと厳しいか。

 なら、

「―――猫睛石、喰え」

 支配率変換。人造霊ハダリー≠ェ魔石寄り≠ノ調整される。魔力の供給
量が跳ね上がった代償として、彼女は人格を暴走させながら再起動した。

 いま、ミノタウロスの躰を動かしているのはハダリーであってハダリーでは
ない。ハダリーの魂魄を通して顕現した魔石の代替霊猫睛石≠セ。
  
 魔力を孕んだ咆吼が夜を震わす。

 ハダリー―――いや、猫睛石はその場で四つん這いになった。尻を持ち上げ、
前足≠ナ地面を引っかくように突き立てる。
 牛が突撃する姿勢とは明らかに異なる猫の威嚇の如きポーズ。腰の細い女が
やれば様になるんだろうけど、全身を筋肉で固めた牛頭の魔物が背をしならせ
ても気持ち悪いだけだ。

 猫睛石の支配率が高まると、なぜか彼女は猫の動作を行うようになる。猫睛
石は無人格だ。癖なんて持っていない。だとすると、あれは魔石の特性なのだ
ろうか。魔石から流れる魔力が人造霊の行動パターンに影響を与えていると。
 真相は分からない。ただ、こうなってしまったハダリーは無敵だ。

 ハダリー/猫睛石が地面を蹴った。自身の体躯を一個の弾丸に変えて、空気
の壁を撃ち貫く。桁外れのスピード。あたしの視力でも視認は不可能。

 目前まで迫っていた巨大蜘蛛は横合いから襲いかかった衝撃に軌道を強制的
に変えさせられる。
 吹き飛ばされた蜘蛛は軽やかに受け身を取るが、追撃までは捌けなかった。
 ハダリー/猫睛石は巌の拳を爪に見立てて、蜘蛛の顔面を切り裂く。あたし
が瞬きする間に、八つの瞳すべてから明かりを消し去ってみせた。

57 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/30(火) 22:30:17


 ミノタウロスはただでさえ強力な魔物だ。それに加えて、肉体改造により筋
力を強化し、魔力でポテンシャルを底上げされている。純粋な戦闘能力ならば、
上級妖魔とだって対等に渡り合える自信があたしにはあった。
 アトラナートの巨大蜘蛛程度では絶対に太刀打ちできない。

 ハダリー/猫睛石の解体ショーが始まった。すでに事切れている巨大蜘蛛に
更なる攻撃を加える。返り血があたしの足下にまで飛び散った。
 怨恨すらこの場に残すことを許さない。絶対的な屈服を強いているんだ。
 ……あたしはそんな物騒なプログラムはしていない。
 恐らくはこれも、魔石の影響。

 巨大蜘蛛の背中に乗っていたインバネスコートの男は、いまは地面に放り出
されて無様に這い蹲っている。あたしは鷹揚に歩み寄ると、無言で男の腹を蹴
飛ばした。小娘の蹴りとはいっても、あたしの力なら人間は軽々と吹き飛ぶ。

「どこの誰かは分からないが、租界の軍警に引っ張られる前に、ちょっとあた
しの事務所まで付き合ってもらうぜ」

 男は何事かを呻きながら、よろよろと立ち上がる。痛々しい立ち振る舞い。
やはり召喚主自身は特別な力を持っていないようだ。

「ここで雑談している余裕はないんだ、さっさと―――」

 男がコートに手を突っ込んだ。出てきたのは、つや消し処理された黒い拳銃。
震える手で銃把を保持している。銃口は当然、あたしに向いていた。
 銃爪にかけた指に力が入る。

「おい、やめろ!」

 弾けた。―――男の胸が。
「あたしを護れ」という命令を遵守したハダリー/猫睛石が、握り拳程度の石
を男めがけてぶん投げたんだ。音速を突破する速度で投擲された石は、着弾の
衝撃でばらばらに砕けて、男の体内に飛び散ったに違いない。
 ……即死だ。

「馬鹿! 抵抗なんてしたって!」

 自殺同然の愚行。魔物の抵抗すら退ける相手に、拳銃程度で切り抜けられる
と本気で考えたのか。……あたしのハダリーに人殺しをさせやがって。
 なんて夢見の悪い結末。殺すぐらいなら、逃げられたほうがまだマシだ。

 ここはクーロン。危険な目には何度もあっているし、強盗に襲われたのだっ
て初めてではない。その度にハダリーが返り討ちにしてきた。だけど、殺人は
始めてだ。みんな「相手が悪い」と悟ると尻尾をまいて逃げていった。

 ―――ハダリーにひとを殺めさせてしまった。

 ……いや、違う。あたしが殺したのか。

 手を下したのはハダリーだけど、ハダリー≠ニいう道具を使っていたのは
あたしだ。彼女に責任をなすり付けることはできない。

 罪悪感はない。ショックで足が震えることもない。
 悪いのは相手のほうだと分かり切っている。あの状況で拳銃なんて抜けば、
こっちは殺すしかないのだから。でなければあたしが死んでいる。
 でも胸くそは悪かった。後味も悪ければ寝覚めも悪い。

58 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/30(火) 22:30:56


 軍警が駆けつける前に逃げる必要がある。租界から離れてしまえば、彼等は
追ってこない。中心街の警察権を握っているIRPOに身柄引き渡しを要求するこ
とは可能だけど、租界の人間が殺されでもしない限り、そこまで大きな捜査に
はしないだろう。ろくでなしが殺し合うのは中心街や〈針の城〉に限らない。
 暴力こそがクーロンの日常だ。

 スクラップになった三輪トラックから、数秘機関を抜き出してくるようハダ
リーに指示する。エンジンさえ生きてれば復活は可能だ。
 ……グランドピアノは諦めるしかないけど。
 
 その間にあたしは男の死体に近寄る。こいつも回収していくべきだろうか。
ここに残していけば、殺人の証拠を軍警に握られることになる。どうせ追って
こないとは分かっていても、杞憂は生まれるものだ。
 〈針の城〉ならば死体を「なかったこと」にするのは容易いし、ただ証拠隠
滅したいだけならあたしがパーツとして使えばいい。経費削減。リサイクル。
有機物のエコロジーってわけだ。

 けど、そんなマフィアみたいな真似はしたくないというのが本音だった。
 あたしはあくまで堅気の娘。暴力とは隣接していても、あたし自身が暴力で
はない。例え正当防衛でも、人殺しなんてしたくはなかった。

 取りあえず、死体の素性を簡単に確かめよう。
 年齢は三十代後半から四十代前半。黒ずくめの格好は舞台の衣装めいていて、
着慣れた雰囲気がない。絶命した顔に見覚えはないけど、他に身体的特徴はな
いものか。いざとなったら〈とかげの眼〉を使うまでだけど―――

 そこではた、と目にとまる。

 男の、右手の掌。

 炎龍を簡略化した、記号のような刺青が彫り込まれていた。

「こ、これって―――」

 慌てて地面に転がる拳銃も確かめる。想像通り、銃把に同様の紋様が刻まれ
ていた。……あたしの時間が止まる。考えもしなかった数奇な運命。今なら絶
句したまま窒息死することも可能だろう。心臓さえ止めかねない驚愕。

 ただの強盗だと思っていた。
 魔物を使役するような術者がそんな三流仕事をするのは不可解だけど、あり
得ない話じゃない。食い詰め物はどこにだっている。
 でも、それは現実から眼を逸らしていただけだ。
 強盗の手口ではなかった。男は明らかにあたしの命を狙っていた。
 そして、この炎龍の刺青。

「……こいつはマフィアだ」

 黒社会の人間凶手。〈針の城〉ではなく、中心街に常駐する兵隊。
 
 あたしは今になって殺人の重みに総身を震わせる。とんでもない過ちを犯し
てしまった。凶手がどうしてあたしを狙ったのか。それも気にかかるけど、も
っと重大な問題が目の前でほくそ笑んでいる。戦闘要員とは言え、あたしはク
ーロン・マフィアの構成員を殺してしまったんだ。
 それは疑いようもない敵対行為。

 このリージョンを支配しているのは自治政府でもIRPOでもなく、黒社会だ。
 あたしは、いまこの瞬間から、クーロンの敵≠ニなってしまった。

 あたしの日常が、粉々に砕けた。 

59 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/30(火) 23:01:24


 死体は現場に置いていった。クーロン・マフィアの情報網は正確かつ迅速だ。
あたしが凶手を殺した時点で、事実は知れ渡ったと考えていい。下手に証拠隠
滅したところでなんの結果も生み出さない。

 ハダリーはエンジンを持って事務所に帰らせた。戦闘行為があったのはシュ
ライク租界。ひとまず中心街まで引き上げてしまえば、軍警は手を出せない。
 もし事務所にマフィアが訪れたなら? ハダリーには丁寧に応対しろと言い
つけてある。殺したのはあたしだ。ハダリーは道具に過ぎない。それは向こう
も分かっているはずだし、本気でハダリーの消去≠ェご希望なら、中心街に
待機する凶手じゃ役者不足だ。それはこの結果≠ェ明確に語っている。
〈針の城〉から戦闘部隊を駆り出すぐらいなら、頭のあたしを狙うだろう。

 だから、事務所が問答無用で焼き討ちにあうようなことにはならない。
 ……なんてのは希望的観測だろうか。
 せめてあたしが戻るまでは無事であって欲しかった。

 ―――で、肝心の殺人火蜥蜴はというと。

 いま、クーロンでもっとも危険な場所にいた。
 いちばん近付いてはいけない禁区に足を踏み入れた。
 つまり〈針の城〉。
 黒社会の聖地。


                  * * * *


「リリー!」

 自分の部屋に戻るなり魔女の名を叫ぶ。
「もしかしたら」という期待は一瞬で霧散した。彼女はいない。さすがに、昨
日の今日であたしの帰宅を待ち伏せるなんてことはしないか。
 だけど、ここは〈針の城〉だ。距離は問題にならない。あたしの言葉を魔女
は絶対に盗み聞きしている。
 危険を冒してまで〈針の城〉に戻ったのは、リリーを掴まえるためなんだ。
絶対に呼び出してみせる。

「リリー!」

 だから叫んだ。

「リリー! 聞こえているんだろう。出てこい!」

 何度も。

「リリー!」

 何度も。

「あたしを嵌めて満足か。これで一緒に外≠ヨ行けるとご満悦ってか。淫売
が陳腐なシナリオ描きやがって。……ああ、そうさ。認めてやる。てめえのお
陰であたしはお終いだ。明日にはばら売りされていること間違いなしだぜ。
 ……けどよ、てめえのくそったれな逃避行に付き合うつもりはねえからな。
ここに来たのはあんたに縋るためじゃなくて、あんたに中指を突きたててやる
ためさ。離開、天明見、分別了、我門永別―――じゃあな、魔女め。再見
だけは絶対に言わねえぞ!」

60 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/30(火) 23:25:16


「ちょっとちょっとー」

 背後から声がかかる。花が開くような声。―――そのまま花弁が腐り落ちる
かのような、声。

「なに騒いでるの? わたし、いま悲しみに暮れている真っ最中なんだから。
放っておいてくれてもよくない? イーリンに慰めてもらうのは、もうちょっ
と後の予定。あと少しだけわたしはひとりで―――」

 力任せに胸ぐらを掴み上げる。リリーの表情が強張った。悲鳴すら上がらな
い。初めて触れる暴力に彼女はなにを思うんだろうか。そのまま小さな躰を壁
に押しつけた。

「話せ」

「な、なにを―――」

「知らないなんて言わせない!」

「わけがわかんない!」

 白々しいにも程がある。あたしは更に力を強めて魔女を締め上げた。
 シュライク租界のことだ、と耳元で怒鳴る。

「おかしいと思っていたんだ。黒社会があたしを狙うなんてあり得ない。あた
しだけじゃない。クーロンの人間なら、IRPOに指名手配はされてもマフィアの
敵にだけはならないよう細心の注意をするものだからな。連中にあたしを狙う
理由なんてないんだよ!」

 だけど、事実として凶手はあたしを狙った。魔物を使役して。銃口を向けて。
あたしの命を脅かした。―――結果、凶手は死んだ。
 黒社会の仕事としてはお粗末の極みだ。火蜥蜴≠フイーリン様を中心街の
人間凶手で仕留めるなんて不可能に決まっているのに。
 なら、どうしてインバネスコートの男はあたしを襲ったのか。

 あたしの右眼が真実を見据えた。

〈蜥蜴の眼〉が視たのは、誘惑(チャーム)≠フ名残。
 これはマフィアの仕事じゃない。あの男は操られていただけだ。あたしにマ
フィアを殺させるよう、裏で糸を引いていた奴がいる。

 いったい誰が? ―――そんなの、考えるまでもない。

「バッカじゃない?! 本気でわたしを疑っているわけ!?」

「あんた以外の誰が、こんな真似をして得するって言うんだよ!」

「できないわよ、わたし! 不可能なの!」

 リリーは必死で否定する。目縁に涙を浮かばせるのは、息が苦しいからか。
それともあたしに疑われたからか。……白々しい。白々しいけれども、リリー
ならばもっと上手に嘘を吐くんじゃないのか。胸裏であたしは揺れていた。

「わたしが好き勝手できるのは〈針の城〉の城内だけだし! 誘惑≠セって、
対象を支配するんじゃなくて、強力すぎて精神を吹き飛ばして真っ白にしてし
まうものだって―――そんなことぐらい、イーリンだって知ってるじゃない!」

61 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/01(水) 00:34:14


 ……それも、そうだ。
誘惑≠ニいう状況証拠だけであたしは頭っからリリーを疑ってかかったけど、
彼女の力はああいった搦め手に用いるには強力すぎる。火炎放射器で煙草に火
を点けるようなものだ。―――なら、本当にリリーじゃないのか?

「わたし、このままじゃお外に出られないって知っちゃったんだから。お城に
は結界が張ってあって、それをどうにかしない限り、わたしはずーっと篭の鳥
だって分かっちゃったんだから。その問題を解決しないで、イーリンだけ先に
行かせるわけないでしょ?! やるならもうちょっと後にするわよ!」

 ―――そうだった。

 リリーがあたしの前から消えた理由について完全に失念していた。想像通り、
彼女は物理的に〈針の城〉の外へ出られなかったのか。
 そうなると動機すら無くなってしまう。

 リリーから手を離す。ごめんと謝るより先に、「馬鹿!」と胸を突き飛ばさ
れた。……なにを言われてもしょうがない。彼女の言葉通り、あたしは馬鹿だ。
 だけど、リリーじゃないというのならいったい誰が。事態は余計に混迷した。
リリー以外の誰が、あたしをクーロンから追い出そうっていうんだ。

 あたしはうなだれたまま、ソファに力なく腰掛けた。床を見つめても、答え
は浮かび上がってこない。
 リリーの犯行ならば話はシンプルだった。「最悪の悪戯」という分かりやす
い絵図になった。……でも、そうはならなかった。なにも見えないまま、マフ
ィア殺しという事実だけが肩にのし掛かる。
 どうする、どうすればいいんだイーリン。こんなとき、マーマならどんな決
断をした。どうやって危機を乗り切った。

「ねえ、イーリン……」

 怒りより心配が勝ったのか、リリーが躊躇いがちに話しかけてきた。

「わたしからダージョンに言って聞かせてもいいよ。死んだのって使いっ走り
の殺し屋なんでしょ。そんなの大した被害じゃないもの。わたしがダージョン
にお願いすれば、きっと許してもらえるわよ」

「そんなこと―――」

 できるわけがない。
 事態をより悪くさせるだけだ。
 あたしとリリーの関係が紅の魔人サマに知れれば、彼女が火焔天の外へ自由
に出られることまで発覚するということ。マフィア殺しとは比較にならないほ
どの怒りを買うことになる。火に油を注ぐようなもんだ。

「でも、このままじゃイーリンは」

「ああ、間違いなく殺される」

 失笑してしまう。一時間前までは、今日の連続が明日だと信じていた。この
日常は永遠に続くと当然のように受け止めて、焦燥すら覚えていた。
理由なき今日≠どう生きようかなんて、そんな悩みに浸っていたのに。
 ―――まさか、明日が今日と違うものになるなんて。こんなにも突然、日常
が消えて無くなってしまうなんて。

62 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/01(水) 01:11:08


「そんなのイヤ! イーリン、死なないで」

 どさくさに紛れてリリーが抱きついてくる。拒む気にもなれず、あたしは彼
女の頭をそっと撫でてやった。……混乱していたとはいえ、暴力で脅したあた
しを憐れんでくれるなんて。改めてリリーの好意は本物なんだと思い知る。
 感謝すべきかもしれない。リリーのお陰で、ささくれ立っていた感情が静ま
り、優しい気持ちになれた。

「死ぬ気はないよ」

 ほら、微笑みすら浮かべられる。

「死ぬもんか」

「……ほんとに?」

「約束する。絶対に死なない」

 だから焦りもするんだ。事態を切り抜けようと頭を悩ませるんだ。
生きる理由が見当たらない≠ネんて苦悩に苛まれていた癖に、いざ生命が脅
かされると、あたしはこうして生きる道を探している。
 どうしようもない矛盾だ。でも、不快ではない。

「どっちにしろ、クーロンにはもういられないなぁ」

 ぼやくように言った。
 身を隠すにしても限界がある。命を惜しむなら、一分一秒でも早くこのリー
ジョンから離れなければならない。……けど、リージョン間移動には莫大な金
がかかる。それに、マーマを残したままここを離れるわけにもいかない。
 マーマと一緒にクーロンから離れるか。ツテがないこともないけれど、そこ
から先の生活に見通しがつかない。やはり、新しいどこかへ≠ネんて現実味
のある話じゃないんだ。―――でも今は、それと同じくらいここに居残る
という選択肢も現実味が薄れていた。八方塞がり。命を惜しむなら、全てを捨
てて逃げるより他に道はない。
 ……でも、マーマを置き去りにするなんて無理だ。

 マフィアはマーマを殺すだろうか。
 連中は面子を何より重んじる。あたしが捕まらなければ、その矛先を保護者
のマーマに向けても不思議はない。

 死ぬ気はない。死にたくはない。けれど状況が「火蜥蜴が命を差し出しさえ
すれば全ては丸く収まる」と語っていた。
 あたしが死ねばマーマは助かる。

 あたしの思考を遮って、リリーが口を開いた。

「……やっぱり、わたしがダージョンにお願いする」

 即座に否定する。

「だから、それは最悪の事態を招くだけで―――」

 ううん、とリリーは首を振った。

「それも含めてお願いするの。イーリンの命を助けてあげてって。今回のこと
はただの事故だということにしてって。……それで、もしダージョンがわたし
のお願いを聞いてくれるのなら、もうわたしは絶対に馬鹿なことはしないって」

63 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/01(水) 01:43:04


 それってつまり。

「……馬鹿なこと言うなよ。鳥篭生活を受け容れるのか。火焔天に一生閉じ込
められて、あんたが夢見た外≠ゥら遠ざかって。―――そんなの、口で言う
ほど楽じゃないだろ。あんた、なんのためにここにいるんだよ」

 彼女は即答した。

「イーリンのためだよ」

「はぁ?」

 違う。リリーがここにいるのは外≠ノ出るためだ。あたしはそれを助ける
ための道具に過ぎない。手段を護るために目的を見失うなんて、本末転倒もい
いところじゃないか。

 魔女はあたしの胸に顔を埋めて、甘く囁く。

「イーリンのいない外≠ネんて……」

「待て待て待て」

 肩を掴んで、リリーを胸から引き剥がす。きょとんとした目をする彼女に問
いかけた。

「それはなんだ。献身のつもりか? 自己犠牲? どうしてそこまであたしを
求める。自分をなげうってまであたしを護る必要なんてないだろう。リリーの
目的は外≠ネんだろう? だったら、重荷になったあたしなんて見捨てて、
ひとりで結界を破って、ひとりで飛び出せばいいじゃないか。あたしの問題に
首を突っ込んで夢を捨てるなんて馬鹿げてるぜ。どうしてそこまでするんだ」

 リリーはくすりと笑いをこぼした。

「だって―――」

 迷いのない、はっきりとした答え。

「ひとりじゃ寂しいじゃない」

 寂しいから。不安だから。支えて欲しいから。馬鹿げた理由だと鼻で笑うの
は簡単だ。でも、あたしにとってそれはもっとも信じられる答えだった。
 あたしも同じだ。ひとりはイヤだ。今日この日まで、ひたすら寂しさから逃
げて生きてきた。マーマという存在は、あたしから寂しさを取り除いてくれた。

「で、でも……」

 唾を飲み下す。動揺を表に出したくなくて、慎重に言葉を選んだ。

「閉じ込められて、もう二度と外へ出られなくなっちまったら、それから先は
どうするんだよ。寂しいのが嫌いなのに」

 リリーの微笑みは途絶えない。

「睡って過ごすの。二度と目を覚まさないわ」

「自殺するってことかよ」

64 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:25:51

「言葉通りよ。ほんとに寝たまま起きないの。……わたしね、睡るのは嫌いじ
ゃないんだ。夢を見られるから。夢の中では、わたしは自由だから」

 鼓動が跳ね上がった。夢。あたしがもっとも嫌うもの。それをリリーは恍惚
としながら語る。「どういうこと?」と問わずにはいられなかった。

「睡っているときだけ、わたしは外≠ノ出られるのよ。見たこともない世界
で、わたしはわたしじゃなくなっていて、色んなことをしているの。悲しい夢
が多いわ。夢の中のわたしはいつも泣いている。……でも、それも含めて自由
なの。ああ、イーリンも同じ夢を見られたらいいのに。外≠フ風景は、クー
ロンの変わらない夜とは比べものにならないほど変化に満ちていて、美しいの」

 ……こんな偶然が、果たしてあり得るのか。
 
「じゃあ、リリーが外≠ノ憧れるのも―――」

 ええ、と魔女は頷く。

「夢を現実にしたいから」

 わたし、お部屋にいるときはほとんど寝ているのよ。夢を見たいから。窮屈
な屋根の下から、解放されるから。―――そう語るリリーの表情は、一点の曇
りもなく至福に満ちていた。

 ハンマーで後頭部を殴られたかのような衝撃に、あたしは震える。
 リリーも見ていたのか。体験していたいのか。自分自身が否定される刹那の
悠久を。クーロンでは決して見ることの叶わない真昼の情景を。

 なんという皮肉だろうか。似た夢を見て、あたしは嫌悪から不眠症(インソ
ムニア)に陥った。対するリリーは夢に幸福を見出して、過眠症(ナルコレプ
シー)になった。……対極の反応を選びながら、行き着くところは同じ。自ら
の殻に閉じこもることでしか、安寧を得られない不器用な小娘二人だ。

 ……いや、違うな。あたしとリリーは同じじゃない。
 リリーは夢に耽るだけに留まらず、外≠目指している。自分の足で、新
たな世界を開こうとしている。夢は切っ掛けに過ぎない。ただ目を逸らして、
逃げて、拒んだだけのあたしと一緒にするのは失礼だ。

 彼女は、この事実を知っているんだろうか。あたしも同じような夢を見て、
うなされて、眠りから遠ざかってしまっている事実を。
 知るはずが、ない。
 あたしの不眠症を知っているのはシャオジエぐらいだ。いくらリリーが魔女
でも全知には遠く及ばない。この一致はただの偶然だろう。
 
 ―――ならば、それこそ。
 リリーの言葉通り「運命」になってしまうじゃないか。
 二人は出会うべき必然だったのか。

 馬鹿馬鹿しい。偶然はどこまでいっても偶然だ。そう笑い飛ばすことは容易
いはずなのに。……クーロンの終わらない夜にくたびれ果ててしまっているは
ずのあたしの心臓は、いま初めて動き出したかのように激しく脈打っていた。

「リリー……」

 枯れた声で名を呼ぶ。

 教えて欲しかった。答えを示して欲しかった。
 あたしも、あの夢を受け容れられるようになるだろうか。リリーのように、
他者の目を通して視る外≠肯定できるようになるだろうか。
 ……こんなあたしでも、安心して眠れる日が来るんだろうか。

65 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:28:08


 だけど、あたしが疑問を投げかけるために開いた唇は、リリーの言葉に遮ら
れた。彼女は表情を翳らせて言った。

「……そろそろ、ダージョンが帰ってきちゃう」

 タイムリミットか。いまの邂逅は、あたしがリリーを強引に呼び出したから
叶ったんだ。時間が短いのはしかたがない。別れを惜しむ気持ちを抑えて、あ
たしは尋ねる。

「次は―――」

 こんなこと、あたしから切り出すのは初めてだ。

「次はいつ、会える」

 いまになって、あたしの身を後悔が舐め始めた。
 リリーともっと話がしたい。リリーのことをもっと知りたい。彼女が見る夢
とはなんなのか。あたしのそれと、風景は同じなのか。彼女はどうして、自分
が自分で無くなってしまうことに耐えられるのか。リリーが言う運命≠チて
奴は、クーロンみたいなゴミ溜めのリージョンにも転がっているものなのか。
 いままで邪険に扱っていた分も含めて、思う存分に語り合いたい。

 ―――時間ならきっと、いくらでもあるさ。だって、ここでは夜が明ける
心配をする必要はないんだから。

 そうだろう、リリー?

「分かるでしょ、イーリン。次はないの」

「え……」

「これは別れ。これは別離。運命はいま、二人の絆を引き裂いたわ」

 冗談めかしてリリーは言う。だけど、表情は真剣そのものだ。感情を殺そう
と必死になって、逆に悲しみが顔にありありと刻まれてしまっている。
 ……魔女の癖に、自分に嘘を吐こうとなんて、らしくないことをするから。

「リリー……あんた、本気なのか。本気で紅の魔人に頼むつもりなのか。あた
しを守るために、自分の夢を犠牲にするつもりなのか」

 冗談だと思っていた。ただ思い付きを口にしているだけだと思っていた。
 リリーがあたしの事情を知ったのは、この部屋であたしに呼び出されたから
だ。まだ十分も経っていない。―――たったそれだけの時間で、すべてを捨て
る覚悟を決めたっていうのか。夢も、未来も、あたしのために犠牲にすると。

 ……駄目だ。そんなのは絶対に駄目だ。
 だって似合わないじゃないか。あんたはもっと、利己的な女のはずだ。自分
勝手で、他人の都合なんて考えなくて、甘いところばかりを摘もうとする。
 それがクーロンに咲いた百合(リリー)じゃなかったのか。

「この物語のフィナーレはハッピーエンドじゃないみたい。だけど、とっても
ロマンチック。だってお姫様は愛に殉じて眠りにつくんだから。大好きなひと
のことを想って、終わらない夢を見続けるんだから」

「リリー!」

「イーリン、知ってるでしょ? わたしは自分勝手なの。わがままなの。だか
ら、あなたの説得なんて聞かないわ。わたしはわたしのしたいようにする」

66 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:31:24


 ふざけるな。あたしは苛立ちに任せてリビングの壁を殴りつけた。拳が防呪
処理を施した壁紙を突き抜けて、石膏ボードの壁面をあっさりと貫通する。

「……そんなことをしても」

 低い声音で、呻くように言った。

「あたしは感謝しないぜ。あんたのことを想って泣いたりなんか、絶対にしな
い。これはあたしの問題だ。勘違いしたことは謝るけど……だからって、首を
突っ込むのはやめろ。あんたは、あんたのしたいことだけを―――」

「これは、私が望んだ物語よ」

「違う! あんたの目的は外≠ヨ行くことだ!」

 リリーは瞼を伏せると、ゆっくりと首を横に振った。

「その物語を完結させるには二つ足りないものがあるの。ひとつは結界。〈針
の城〉から出るには、わたしの魔力は育ちすぎてしまったわ。……もうひとつ
は、わたしが、わたしで居続けられる余裕。―――愉快よね、イーリン。わた
し、昨日まで、自分がどうして〈運命の赤児〉なのか、考えもしなかった。ど
うしてこんな強い力を持って生まれてしまったのか、知ろうとも思わなかった」

 あたしには理解できない。リリーはなにを言ってるんだ。彼女の語る足り
ないもの≠ニやらが、自分を犠牲にしてあたしを助ける理由になるとはとうて
い思えない。結界があるなら破ればいい。自分の力の由縁なんて、外≠ヨ出
てから探せばいい。―――どうしてそんなことで、未来への道を閉ざすんだ。

「イーリン、勘違いしないで。これは犠牲でも献身でもないの。初めからこの
物語にハッピーエンドは無かっただけ。物語の舞台は、最初から最後まで〈針
の城〉だったのよ。わたしが外≠ヨ行くシナリオなんて用意されていなかっ
たのよ。……だから、わたしはせめてもの抵抗として、あなたに未来をあげる。
そしてお姫様は醒めない眠りにつき、終わらない夢を見るの」

 でも、ひとつだけ望むことが許されるのなら。リリーがそう呟いたとき、彼
女の瞳からついに涙が溢れた。

「―――これから見る夢では、どうかイーリンと一緒になれますように」

 言葉には魔力が秘められていた。あたしが眼帯を外していたならば、リリー
を中心に霊路の門が開く様子をはっきりと霊視していただろう。
 彼女は跳ぶ気だ!

「リリー!」

 行かせない。話はまだ終わっていない。
 壁に突き刺さった腕を引き抜く。石膏ボードの破片に切り裂かれて、拳から
血が迸った。―――好都合だ。あたしの血は、あらゆる魔術を強制的にキャン
セルさせる。リリーの縮地だって中断させられるはずだ。

 どうしてあたしは蜥蜴の眼を開き、蜥蜴の血肉を持って生まれてきたのか。
いまなら答えに迷わない。はっきりと断言できる。それはこの瞬間のためだ。
人外の膂力と超常の能力でリリーを止めるためだ。彼女を行かせないためだ。

 あたしは手を伸ばす。
 力の限り叫んだ。
 彼女の名を。

67 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:31:48







 ―――ああ、だけど。

 あたしみたいな中途半端なバケモノじゃ、正真正銘のバケモノであるリリー
の術を止められるはずもなく。

 手を引き抜き、伸ばすというたったそれだけの挙動を最速で行ったにも関わ
らず、リリーの術の発動には間に合わず。

 あたしの指先は、空を切った。







.

68 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:32:32









 部屋には、もう、あたししかない。









.

69 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:34:44


 手を差し伸べたまま、無様に立ち尽くすことしかできない。あたしは瞬きす
ら忘れて、一瞬前までリリーが立っていた空間を見つめた。

 ……これで、お終いなのか。
 あたしは救われたのか。
 黒社会から制裁を受けることはないのか。明日からもクーロンで、今日と変
わらない日常を過ごすことができるのか。
 あたしの未来は約束されたのか。

「は、―――はは」

 渇いた笑いがこみ上げる。

「おかしいよな、どう考えても。……あたし、そんなに必死だったかな。大切
にしていたかな。誰かを犠牲にしてまで、守ろうとしていたかな」

 マーマが正気を取り戻したわけじゃない。
 あたしの余命が長くなったわけでもない。
 マーマはいまでも阿片中毒のまま。あたしの脳みそはいまでも蜥蜴の眼と血
肉に負荷に押し潰されて、悲鳴をあげたまま。
 なにも変わらない。変革は行われていない。くそみたいな今日が、くそまみ
れになってくそったれな明日へと続くだけだ。
 
 こんな、こんなくだらない人生のために、リリーはすべてを捨てたのか。

「誰が頼んだよ」

 あたしは頼んでいない。

「誰が喜ぶんだよ」

 あたしは喜ばない。

「誰が幸せになるんだよ」

 あたしは幸せにならない。

 心臓が痛む。痛哭の悲鳴を延々と繰り返す。あたしは胸を鷲づかみにして、
その場に跪いた。喉から、慟哭を伴った叫びが止めどなく溢れ出す。

「あたしが好きだったんだろう?! あたしのためになることをしたかったん
だろう!? なのに、なんだよこれは! あたしを哀しませて、苦しませて、
こんなの嫌がらせもいいとこじゃないか。誰も笑顔になれない。後味が悪いだ
けのくそみたいなエピソード。こんなセンスのない物語が、運命≠セってい
うのかよ! イヤだ! あたしはイヤだ! 絶対にイヤだ!」

 嘆きの悲鳴か、怨嗟の呪文か。あたしの言葉は、リーの耳にも届いているは
ずだ。しかし、返事はない。あたしの部屋は沈黙を守ったままだ。

 認めるしかない。
 リリーの物語は、終わってしまった。
 彼女は非日常の象徴に過ぎなかった。
 あたしとは別世界の人間だった。
 
 あたしは戻るんだ。
 日常へ。
 リリーが守ってくれた、今日という繰り返しへ。

70 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 22:48:59



                  * * * *


 帰ってきたときと違って、アパートメントから出て行くときは魔術迷彩どこ
ろか人影への警戒すらしなかった。糸が切れた人形か、はたまた夢遊病者のよ
うに、頼りない足取りで第七層を歩く。
 もしクーロン・マフィアがあたしを狙っているならば、絶好のカモだ。瞬き
する間にさらうことができる。……けど、そんな剣呑な気配は一向に訪れなか
った。〈針の城〉は常と変わらず、幽世の風景をビルディングの森に融け合わ
せているだけだ。

 一時期は死すら覚悟した。なのに、こんなに堂々と〈針の城〉を歩けてしま
うと、全部はあたしの早合点だったんじゃないかと疑ってしまう。あたしが殺
したのはクーロン・マフィアの凶手ではなく、ただのチンピラだったんじゃな
いか、と。

 リリーはきっと嘆願に成功したんだろう。彼女の自由と引き替えに、あたし
は命の保証を得た。
「二度と近付くな」なんて警告ぐらいはあると思ったけど、この様子では恐ら
く、マフィアは最後まで介入してこない。社会の影たらんとする彼等があたし
に望むのはすべてを忘れること。リリーという一輪の花があたしを惑わせた。
夢から醒めた以上は、現実を生きろ。―――そんな案配だろう。

 あたしはポケットに手を突っ込むと、やや猫背になって歩いた。

 日常は守られた。今日と変わらない明日が待っている。
 ……例えそうだとしても、変わらなくちゃいけないことだってあるはずだ。
 リリーになにもしてやれなかったあたしだけど、自分の尻だけは自分で拭い
たい。―――だから、最低限のケジメだけはつけようじゃないか。


                  * * * *


 三十分ほど待っただろうか。
 鍵が差し込まれ、ドアが開く。スイッチの場所では躰で覚えているのだろう。
暗闇の中でも、彼は迷うことなく電源を入れることができた。

「わあ!」

 室内灯があたしを照らすと同時に、ロートルは驚きの声をあげた。

「し、社長でしたか。いつの間にお戻りになったんですか」

 表情からも口調からも動揺が滲み出ている。……まあ、当然だろう。ハダリ
ーから事故の概要は聞いているはずだ。部下として、年長者として、あたしの
身を案じることに不自然はない。

「どうして事務所に顔を出さなかったんですか。私もハダリーも社長の帰りを
待っていたんですよ」

 問いかけは無視した。ロートルから視線を外し、ガス灯で照らされる部屋の
様子を見回した。可もなく不可もなし、といったところだろうか。適度にもの
はあるけど、決して雑多なわけじゃない。

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