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■ とかげ

1 名前:◆MidianP94o :2008/08/29(金) 23:52:50


転生無限者【てんせいむげんしゃ】

 生き続けるもの。
 死に続けるもの。
 無限に転生を繰り返すことで、死徒や妖魔とは異なる不老不死を可能とする。
 死ねば肉体を離れ、新たな躯に憑いたり生まれ変わったりするため、追跡は
困難を極める。死徒27祖のひとりアカシャの蛇≠ェ有名だが、教会や協会は
他にもタイプの異なる数人の転生無限者を存在していることを確認している。
 転生無限者が果たして人間なのか、それとも人外なのか。その定義は非常に
曖昧で、機関や研究者によって見解は異なる。

                ――――オーガスト・ダーレス『神秘学用語辞典』より

21 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/11(木) 18:53:01



 妖魔租界跡地―――つまり、針の城≠フ行政権はクーロン自治政府が有し
ているのだけど、警察権を放棄した自治政府は執行権を持たない。IRPOも手が
出せない完全な無法地帯である針の城≠ノは、人外のみならず人間の犯罪者
が逃げ込み、赤児が捨てられ、渾沌の様相を生み出した。
 皮肉にも、紅の魔人は自分が滅ぼしたクーロンの自由と渾沌を自分が作った
針の城≠ノ再現したというわけだ。

 ……そしてあたしは、そんな針の城≠フ住人のひとり。半端物らしく、自
由と束縛の境界を行ったり来たりしている。


                  * * * *


 一歩でも足を踏み入れただけで、世界≠ェ転じたことが分かる。
 不快を誘う湿度の高さに、回収されないまま放置されたゴミの臭い。極端に
人口密度が高いはずなのに、なぜか見かけることの叶わない人影。
 ―――そんな、どこにでもあるスラムの陰気さなんて問題にならない。あた
しがいま感じているのは、もっと根源的な畏れだ。あたしの中の人間の部分が
悲鳴をあげ、火蜥蜴の部分は帰還に悦ぶ。

 道―――というよりも、ビルとビルの隙間を縫って城内≠ノ入ったあたし
は、スクーターを引きずりながら慎重に足を進めた。
針の城≠ヘまず建物ありきで、そこから道が生まれた。路地のみで構成され
た特異の区画だから、自動車や馬車が通るような真っ当な街道はない。
 路地は狭く曲がりうねり、路上にはゴミやら屍体やら散乱しているため、ス
クーターで走り抜けるのも難しかった。
針の城≠フ移動手段は、自らの足だけ。……それは横≠カゃなくて縦
の移動についても同じ。中層ビルが森のように建ち並んでいるのに、エレベー
ターが設置されているビルはひとつもない。
 老人に冷たい街だった。

 夜空はビルの槍衾に阻まれて、月はおろか星すら隠れている。屋外にいるは
ずなのに、まるでどこかの地下室にでも閉じ込められているかのように暗い。
 行政が管理を放棄している針の城≠ノは、電気もガス灯も魔術煌も通って
おらず、上水も下水も詰まったまま放置されていた。公共機関はまったく機能
していない代わりに、個々人が闇業者と契約して、電気を通させたり、水道を
引かせたりしている。金が無ければ、トイレすらまともに使えない。

 つと、背筋に――いや、もっと上だ――うなじの辺りに寒気が走った。なに
かが、あたしの背後を無音で通過した。けど、後ろを振り返っても目に付くの
は静寂に蝕まれたスラムの景色だけ。
 ……人間の目≠ナは、なにも視えない。
 風もないのにゴミ缶の蓋が跳ね、頭上の看板がぎいぎいと揺れた。耳をすま
せば、亡者どもの囁き声が聞こえてきそうだ。……あたしの手は、自然と右眼
の眼帯へと伸びてしまう。視えないこと≠ェ、苦しくてたまらない。

 でも、駄目だ。

蜥蜴の眼≠開けば、街並みは一変するだろう。肉を持たない非実体の生命
を、たちどころに視認するだろう。針の城≠ヘいまこの瞬間、あらゆる路地
で、あらゆる種の生き物が夜に沸き返っている。……ただ、視えないだけで。
 視えないというのは、それだけで不安に繋がる。例え対処はできずとも、視
えてくれれば取りあえずの安心を抱ける。ましてあたしの場合、蜥蜴の眼
という、この異界にピントを合わせる道具を持っているんだ。
 使いたくてたまらない。視たくてたまらない。

 でも、我慢しなくちゃ。

22 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/12(金) 01:48:42


 あたしの右眼は奇蹟の産物。その能力は霊視に留まらない。……けど、それ
を操るあたし自身といえば、ちょっと頑丈なだけの人間で、特筆すべき魔術的
素養なんて持ち合わせていない。魔術回路も当然、ない。
 だから畸形なんだ。分不相応なパーツを持って生まれてきてしまった。
 本来、視えないはずのもの視て、操れないものを操り、介在できない事象に
介在してしまうんだから、そのツケは必ず躰のどこかで支払わされる。
 不可を超えれば脳は死に、あたしは廃人コース一直線。

『ご利用は計画的に。健康のためにも、使用は一日一時間。休憩を忘れずに』

蜥蜴の眼≠診て、あたしの主治医はそう言った。
 あたしが眼帯で右眼を隠しているのもそのせいだ。眼帯は裏に悉曇梵字の護
符が縫いつけられていて、強制的に魔眼の効果を眠らせてしまう。これのお陰
であたしは失明もせず、安心して日常生活を営むことができている。

 あたしは自分の右眼を使いこなせていない。
 異能の力を支配していない。
 あたしは人間じゃないけれど、さりとて歴とした人外というわけでもない。
針の城≠ノ戻る度に、その現実を思い知らされる。あたしは針の城≠ノ住
んでいるけれど、針の城≠フすべてが視えているわけじゃなかった。人間の
チャンネルに繋いだままで、人外たちと交流していかなければならない。

 地縛霊や浮遊霊といった怪奇な住人たちの存在を視覚じゃなく肌で感じなが
ら、路地からビルの裏口へと入る。あたしが通ってきた道からは、正面玄関ま
で回れなかった。もっぱら利用するのは裏口ばかり。正面玄関からどうすれば
針の城≠フ外に繋がっているか、あたしは知らなかった。
 誇張ではなく、ここの街路は迷路であり、誰ひとりとして全体図は把握して
いない。地図なんて当然ないから、居住しているビルから少しでも離れてしま
うと、住民でも道に迷うことになる。

針の城≠ヘバームクーヘンよろしく同心円状に広がっていて、階層は全部で
十に分かれている。これが大雑把な住所になっていた。
 紅の魔人が居住するとされている中心部分は火焔天≠ニ呼ばれ、そこから
第一層月天=A第二層水星天=A第三層金星天≠ニ各層が重なっていく。
中心に近いほど魔の瘴気が強くなり、外周に近いほど人間の比率が高くなった。
 この層ごとの名称は天国の構造から引用しているらしく、あたしは針の城
を天国に見立てるなんて狂気の沙汰だと思ったけれど、天国の場合は外周ほど
光に近付き、中心ほど至高から遠ざかると知って感想を改めた。火焔天≠ヘ
もっとも神から遠く、もっとも地獄に近いというのなら、これは皮肉の産物だ。

 因みにあたしが住んでいるのは、第七層土星天=B
 階層まるごと業者と契約しているためインフラが充実し、自警団も組織され
ているため比較的治安がいい。適度に外から離れていて、適度に中心から遠い
ため、住み心地も悪くなかった。針の城≠フ高級住宅区といったところか。
 ……住むのは手抜き工事で老朽化の激しいペンシルビルだけど。

 あたしが住んでいるのは地上八階。
 エレベーターはないから階段を使う。もちろんスクーターも一緒だ。いくら
治安がよくても、ここはスラム。下に置きっぱなしにすれば、たちまちパーツ
は盗まれ、怨霊に憑かれ、幸運に見放される。

 痩せ身の少女が軽々と肩にスクーターを担いで階段を昇る様は異様の一語に
尽きるだろう。蒸気エンジン搭載のスクーターを八階まで運ぶなんて、成人男
性が三人いても重労働だ。あたしもこの時ばかりは、自分の怪力に感謝する。

23 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/12(金) 18:48:41


 八階に昇るまで誰とも顔を会わさなかった。ビルの階段は狭く、人とすれ違
うには壁に身を寄せなければいけないから、デカブツを担いでいるあたしとし
ては助かるんだけど……これはちょっと、不自然だ。ここはもう屋内なのに。
針の城≠フ住民は、夜空の下に出たがらない。ビルからビルへと移動し、地
下道を通って各層と連絡する。屋外は風通しが良すぎて不愉快らしい。
 建物には建築者が当初想定した定員の三倍から十倍の人数が居住しているの
が常で、それはこのビルだって例外じゃない。あたしみたいにひとりで部屋を
独占している住人は珍しく、九割方はルームシェアだ。
 ……まぁ一年前までは、あたしもマーマと同居していたんだけど。

 いつもなら、狭すぎて部屋から追い出された人間やら下級妖魔やらが一人や
二人は階段の踊り場で暇そうにしているものなのに。今日は一人も見かけない。
みんなぴっちりと玄関のドアを閉めて、部屋の中に閉じこもっているようだ。

 ……なにかを怖れているのか?
 腹をすかした猫の侵入に気付いて、震え上がる鼠のように。
 日常を遠ざける異分子が、ここにいるのか。
 異物に敏感な隣人たちが、気配を感じ取ってしまったのか。

 ―――あなただけの庭で待つ、ねぇ。

 悪い予感をひしひしと覚えながら、自分の部屋の玄関の前で、あたしは担い
でいたスクーターを下ろした。
 眼帯をずらして、玄関の扉に施した地縛錠≠霊視する。
 ロックの数は合計八つ。アナログが三つに、オカルトが五つだ。あたしはポ
ケットからキーを取り出してアナログの錠前をさっさと解錠すると、オカルト
のほうも使い捨ての護符で簡易除霊した。
地縛錠≠ヘ特定の式で構成された人造霊だ。式に適合した護符じゃなければ
除霊は叶わない。この護符がキーの役目を果たす。

 この地縛錠≠ヘあたしのアイデアなんだけれど、隣人たちの受けはいまい
ちだ。彼等にはもともと施錠という習慣がないし、地縛錠≠ヘ鍵を開けるた
びにいちいち地縛錠≠ェ成仏してしまうから、コストパフォーマンスが悪す
ぎるんだとか。こんな単純な式鬼ぐらい自分で組めと言ってやりたいけど、こ
ういった神秘の模造や編集はあくまで人の技。妖魔や魔族には馴染みがない。
 人外が使う異能は、生まれつき備わっているものばかりだ。

 すべてのロックを解除すると、あたしはゆっくりと息を吸ってから、扉を開
けた。……覚悟は決めているし、だいたいの予想もついている。

 ―――耳に響くのは、どたた、と廊下を駆け抜ける音。だん、とフローリン
グの床を蹴り付ける音。ぼす、とあたしの胸に衝撃が走る音。

 ハウンズ・トゥースのスカートが翻る。視界に飛び込んできたのは、みどり
の黒髪を腰まで伸ばしたうら若き少女。妙齢にすら程遠いガキだ。

「回来了(ホゥエライラ)! おかえりなさい、イーリン!」

 普通、この勢いで体当たりを喰らったら、あたしみたいに体重が軽い女は尻
餅をつくもんだ。……けどまぁ、知っての通りあたしは普通じゃない。
 突っ立ったまま、ぐらりともバランスを崩さずに体当たりを受け容れる。
 ついでに、腰に回された両腕を振りほどき、あたしに抱きついてきた少女を
玄関の奥へ突き戻した。―――そして、後ろ手で素早くドアを閉める。

24 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/12(金) 23:56:22


「いったーい」

 あたしに突き飛ばされて転倒した少女は、立ち上がるとわざとらしくスカー
トの裾を整え、帽子を被り直した。あたしが睨んでばかりで返事をしないこと
に気付くと、もう一度「いたーい」と唇を突き出す。
 
 ―――あたしの部屋は、玄関だけではなく、窓という窓に、物理的にも霊的
にもロックをかけてある。セキュリティは鉄壁で、空き巣が入る余地はない。
 物理法則に縛られない非実体の霊体ならば壁を抜けて侵入することも可能だ
ろうけど、目の前の少女は肉を持つ実体だ。
 鍵が破壊された形跡はない。もし強力な呪術を上書きして力ずくで地縛錠
を解錠すれば、人造霊の断末魔が護符まで届く。
 ……前述した通り、あたしはひとり暮らし。当然、ルームメイトもいない。
 なら、この娘はどうやってあたしの部屋に入ってきたのか。

 ちっ―――と舌を打つ。

「なんのつもりだ」

 あたしの批難めいた言葉に、娘は「なにが?」と首を傾げた。

「あなたの手帳に、勝手に落書きしてしまったことかしら。それとも、ノック
もせずにお邪魔してしまったこと? ……あ、もしかして、冷蔵庫にあった桃
包(タオバオ)を食べちゃったのがまずかった」

「違う。あんたが―――」

「リリーよ」

 ぐ、と声が詰まる。

「わたしのことはリリーって呼んで。そう言ったでしょ?」

 僅かな媚びをたたえた囁くように穏やかな声音。なのに、言葉はあたしの深
層意識にまでもぐりこみ、脳に「リリー」の名を強制的に焼き付ける。
 声を媒体にして、精神に直接侵入するクラッキング。この娘―――リリーの
恐ろしいところは、それを無意識に、ただ唇を動かすだけで呪いとして成立さ
せてしまうことだ。彼女が会話を試みれば、それだけで人は理性を消失する。

 でも―――あたしには通用しない。

 がり、と奥歯を噛み締める。

「おい、てめえ=v

 誘惑(チャーム)呪いなんてクソ喰らえだ。どんなに高圧縮された言霊をぶ
つけられようと、それが霊的侵入である以上、あたしには通用しない。
 体内で、リリーの呪いが解呪(ディスペル)されてゆく。
 あたしの躰は―――蜥蜴の肉は、あらゆる霊的、呪的作用をキャンセルする
働きを持っていた。なぜかは知らないけど、生まれつきそういう体質になって
いた。だから、瘴気の濃い針の城≠ナも、あたしは呪詛を体内に溜めること
なく、平然と生活していけるんだ。

25 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/12(金) 23:56:36

 蜥蜴の刺青。
 蜥蜴の眼。
 蜥蜴の肉。
 蜥蜴づくしのあたしは、しかし脳みそだけは人間のまま。いつまで過分の才
質に溺れていられることやら。廃人へと至る日は、そう遠くはない。

「や、リリーって呼んで」

 リリーはかわいらしく(そして小憎たらしく)頬を膨らませるけど、この声
にも、やはり呪いが孕んでいる。つくづく物騒な小娘だ。
 
 二度目の舌打ち。

「お転婆娘のレイ・バイホー。あんたは、ここに来るまで、どこかで寄り道な
んてしてやいないだろうな。大人しく、ここであたしの帰りを待っていたんだ
ろうな。―――どうなんだ、え?」

 リリーはふっと微笑をこぼす。小娘らしからぬ妖艶な笑み。

「大丈夫。バベッジ・タワー≠フ屋上から、クーロン・ストリートの夜景を
眺めていただけよ。それもたったの二十分。イーリンがあたしの伝魂(でんご
ん)に、すぐに気付いてくれたから」

 二十分も?! それにバベッジ・タワーだって!?

 バベッジ・タワーは第十層至高天≠ノ建つ、針の城≠ナもっとも高い建
築物だ。針の城≠ヘ中心に近付くほど建物が低くなり、外環に近付くほど高
くなる。つまり、バベッジ・タワーは針の城≠フ最外周部というわけだ。

 こいつの足は、もうそこまで跳べるようになったのか!

 バベッジ・タワーの屋上までジャンプできるのなら、この針の城≠ナ彼女
の足が届かない場所はない。地下銀行の金庫だろうが、連れ込み宿の寝室だろ
うが、すべて彼女の庭先に等しい。あたしの部屋に侵入するなんて朝飯前だ。

 なんてことだ……。

「誰にも見られなかっただろうな」

「さあ」

 リリーは無責任に肩を竦める。

「見られたってへっちゃらよ。わたしを見て平気なやつなんて、イーリンとダ
ージョンぐらいだもの。後はみーんな、わたしの虜」

 だから告げ口の心配はいらないわ。そう言って、魔性の娘はくすくすと笑う。
 ……あたしは、戦慄を隠せない。
 ダージョン―――大兄(ダージョン)と大凶(ダーション)をかけた紅の
魔人≠フ異名。クーロン・マフィアの構成員は針の城≠フ城主をそう呼ぶ。
 逆に、堅気ならば決してその名は口にしない。
紅の魔人≠ヘあくまで伝説のキャラクターだけど、ダージョンはクーロンの
支配者。妖魔貴族やIRPOすら歯牙にかけない暴力と恐怖の象徴だからだ。
 ……それをこうも軽々しく呼び捨てにするなんて。

26 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 01:36:16


 レイ・バイホー。「涙」と書いてレイ≠ニ読み、「百合」と書いてバイ
ホー≠ニ読む。故に彼女は、縁あるものから涙姫(れいひめ)≠ニ呼ばれ、
あたしには百合(リリー)≠ニ呼ばせたがる。

 ―――彼女もまた、紅の魔人と同様に、伝説上のキャラクターだった。

 吟遊詩人は謳い、講談師は語る。

 妖魔租界戦争は、スラムに赤児が生まれ落ちたことにより始まった。シリウ
ス男爵は赤児の始末を企み、紅の魔人は赤児の護るために戦った。やがて妖魔
租界は炎上し、一千の人間と、一万の妖魔が命を落とす。
 ……すべては一人の赤児が原因。

 凶児は火焔天の最奥に監禁され、紅の魔人は奇蹟を独占した。

 リリーが―――あたしの目の前にいる色白の少女が、やたらとませたクソガ
キが、その運命の赤児<Tマだっていうのか。
 初めはあたしも信じなかった。
 紅の魔人も運命の赤児も、あたしにとってはおとぎ話の中の存在だ。妖魔租
界戦争も、人づてに聞いて知識を備えただけで経験はしていない。すべては記
録。すべては情報。現実味なんてあるはずもない。

 けど、現実としてリリーはここにいる。
 常識では考えられないほど莫大な妖力を内包し、歩くだけで霊瘴を呼び覚ま
し、淫魔すら狂わす微笑をあたしに向けている。
 こんな、魔性の権化のような存在が自然に発生するものなのか。いくら魑魅
魍魎が跋扈する針の城≠ナも、ここまで常識外れなバケモノがいるはずない。
 リリーの存在の桁外れな特異さが、運命の赤児本人であることに強烈な説得
力を加えていた。
 まさに奇蹟の申し子。
 ……いや、リリーの属性(アライメント)を考えるなら、反奇蹟の産物。
 渾沌の寵児だ。

 じゃあどうして、そんなバケモノがあたしの部屋にいるのか。

 ―――あたしとリリーの出会いは、あたしから言わせれば偶然。彼女の見解
では必然かつ運命的に行われた。

針の城≠ノは、未舗装の霊走路網が縦横無尽に走っている。霊脈とも呼ばれ
るエネルギーの流れは、属性が無垢なため指向を持たず、悪用すれば容易に災
厄を呼び起こせる。だから普通は行政が管理し、しっかりと舗装をするものな
のだけれど、針の城≠ヘ無政府地帯。霊走路網は放置され、漏れた霊気は超
常の現象を誘発する。

 五年前。物心がついたときから続いている鳥篭生活に飽き飽きとしていたリ
リーは、日に日に増大していく妖力があるレベルを超えたとき、この持て余し
気味の才覚の利用方法を唐突に思い付いた。

 奇門遁甲の方位術を応用して、霊走路を走ってみてはどうかしら?

 霊走路をトンネルに見立てて、霊脈の流れに乗る。これならば、針の城
のあらゆる場所に移動が可能だ。霊走路が続く限り、無限の距離をゼロに変え
られる。同じ瞬間移動でも転移(アポート)ではないため、出口も入り口も必
要ない。だから足跡も残らない。―――これならば、鳥篭から羽ばたけるわ。

27 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 01:40:30


 街路の地図すらない針の城≠ナ、五次元に広がる霊走路網を把握している
ものなどいるはずがない。ダージョンですら、霊走路を利用した瞬間移動なん
て思い付きはしないだろう。あまりに現実味がないからだ。
 だけど、リリーは不可能と可能に変えた。
 霊走路網の流れを読み解くのではなく、自分の都合が良いように作り替えて
しまった。火焔天に閉じ込められながらにして。五年の歳月を費やして。

 リリーが七つの歳に始めた秘密工事≠ヘ十二の歳で落成した。
 霊脈は、人体に例えるなら血管に等しい。針の城≠フ血液の流れを掌握し
たということは、針の城≠フ霊的要素を完全に管理下に置いたということ。
 彼女はこの針の城≠ナ、神にも等しい力を手にしたわけだ。……たったの
五年で。「外に出たい」という、それだけの理由のために。

 ―――こうして、霊走路の管理権を握ったリリーは、仙人が千年の修行の果
てに修得する縮地法≠十二歳にして独学し、鳥篭から飛び出した。

 ……飛び出したまま、道に迷った。

 生まれて初めて夜空の下を歩いたリリーは、霊脈の流れは知っていても、ど
こをどう進めば、どこに繋がるのか。第五層はどこで、第十層はどこなのか、
まったく分からなかった。
 通りすがりの背後霊に道を尋ねようにも、リリーの美貌は見る者を狂わせ、
リリーの声は聞く者の正気を奪う。誰も彼女とは話せないし、出会うことすら
できない。―――火蜥蜴≠フイーリン様を除いては。

「言っておくけど、偶然じゃないんだから」

 リリーは運命≠しつこく強調する。

「わたしはちゃんと、いついつどの時間にイーリンがどの座標に出現するのか、
予言した上でジャンプしたんだから。片っ端から『あのー』なんて話しかけて、
わたしとお話しできる当たりくじ≠引くのを待っていたら、外れくじが溜
まりすぎて、魔導災害が起こっていたわ」

「自慢げに言うことじゃないだろ」

 魔王の一人娘みたいなやつに、唐突に抱きつかれたこっちの身にもなってみ
ろ。―――あのときのリリーは途方に暮れて、藁にも縋る思いであたしを頼っ
てきた。いままで、ダージョン以外の生物と接触をしたことがなかったリリー
は、まさか自分が誰からも拒まれる存在だなんて思ってもみなかったんだ。
 外にさえ出れば、自分は森の中の木に過ぎない。そう考えていた。

 だからリリーは歓喜した。感謝した。絶望の中で、光を見出した。
運命の赤児≠フ魔性をキャンセルする火蜥蜴≠フ存在は、彼女が生まれて
初めて知るダージョン以外の他人≠ナあり、長らく続いた退屈を破壊してく
れる白馬の王子様だったというわけだ。

 ……あたしには、鳥のすりこみとしか思えないけどね。

 リリーは家出をしたわけじゃない。縮地を使って散歩≠するようになっ
ただけだ。ダージョンの監視の目を逃れて外に飛び出し、ダージョンに気付か
れる前に火焔天≠ノ戻る。ダージョンは間抜けではないから、迂闊にジャン
プはできない。精々、週に二回か三回。それも一時間以内。
 限られた自由の時間は、ほぼすべて、あたしとの交流に費やしている。

28 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 19:16:17


 リビング。リリーは三人掛けのソファに寝転がり、ブーツのヒールを肘掛け
に乗せている。……大したくつろぎようだ。そして、お嬢様の行いとしては少
々はしたない。きっと彼女は、こういったなんでもない自由≠フひとつひと
つが愉快でたまらないんだろう。

「さあ―――今夜は、どんなお話をしてくれるのかしら」

 ソファに膝を立て、猫のようなポーズであたしを見る。期待に輝く瞳の色は、
どこまでも深い漆黒。十二歳とは思えない蠱惑に満ちた表情は、同性のあたし
ですら胸を騒がせる。
 リリーは、あたしとは違った意味での畸形だ。幼くして艶めく明眸を身につ
けているなんて、畸形と呼ばずになんて呼ぶ。

「話なんてしない」

 あたしは目を合わせないように気を付けながら、ぶすりと応じる。

「あたしはシャワー浴びて着替えたらすぐに出かけるから、あんたは帰れ」

 リリーはがばっと身を起こし、両手を胸の前で組んだ。

「シャワー! それって素晴らしい!」

「は?」

「わたしね、わたし以外の誰かの裸って見たことないの。それに、誰かと一緒
にお風呂に入ったこともないのよ。生まれて初めて≠、一度に二度も体験
できるなんて、まるで夢のよう」

「……」

「ああ、早くイーリンのやせっぽちな裸が見たいわ」

「……」

 あたしはバスルームに向いていた足をくるりと反転させ、台所に向かった。
「あら、どうしたの」とリリー。「お風呂しないの?」とあたしの背中に問い
掛けてくる。……答える気力は、あたしにはない。
 冷蔵庫からオレンジジュースの紙パックを取り出し、直接口につける。濃縮
された甘味が喉に広がり、あたしの心に平穏をもたらす。

「わたし、イーリンのやせっぽちな―――」

「いや、繰り返さなくていいから」

 駄目だ。無視するなんて無理だ。
 
「……なあ、頼むから帰ってくれよ。あんたは、自分がどんだけヤバいモンス
ターなのか分かっちゃいないんだ。もし、こんなところで故買屋の女なんかと
密会していることがばれたら、ただじゃ済まされないぜ」

 ふん、とリリーは顔を背けた。

「ダージョンがわたしに何かできるはずがないわ。あいつは絶対にわたしを手
放せないもの。せいぜい、ちょっとお小言をもらうだけ」

29 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 19:16:29


「あんたはそうかもしれないけどさ……」

 一般人のあたしはそうもいかない。
 クーロン・マフィアのボスに目をつけらてしまったら、このリージョンで生
き残る術はない。次の日には死体すら残さず始末されて、成仏できない魂が怨
霊となって針の城≠フ景観を彩ることになる。
 冗談じゃなかった。リリーはその強大な妖力を無視しても、運命の赤児
というだけで特大の危険を孕んでいる。
 ヤバそうなものには近寄らない、それがクーロンで生きる者の鉄則なんだ。

「安心して。わたしが守るから」

「……災厄の化身が、よくもしれっと言いやがる」

 空になった紙パックをゴミ箱に叩き込む。リリーはソファから立ち上がると、
「わたしに考えがあるの」と力強く言った。
 ……こいつは基本的にも応用的にも、あたしの都合とか立場とか迷惑とかは、
心底どうでもいいと思っているらしい。

 ―――そこで、ふとあたしは気付く。

「あんた、その服」

 スカートの丈がくるぶしまで伸びたハウンズ・トゥースのワンピース。ノー
スリーブでは冷えるのか、剥き出しの肩はレースのカーディガンで隠している。
 室内だというのに脱ごうとしない純白の帽子はつばが広く、日傘の役割を果
たしてくれそうだ。―――いかにも淑女然とした服装は、確かにかわいらしい
んだけど……なんか、いつもと違う。
 リリーとはもう十回近く密会を重ねている。これまで彼女が着てきた服はお
およそ実用的とは言い難いドレスのような衣装ばかりだった。
 なのに、今日はまるで旅装のような出で立ち。というか、旅装そのものだ。
よくよく見ると、ソファの脇には革張りのトランクまで置いてある。

「なにその格好」

「だから、考えがあるの」

 聞きたくない。が、無視してもリリーは勝手にしゃべる。

「わたし、もう帰るのやめたわ。お散歩はお終い。今日からは世界中を旅して
回るわ。もっと外へ、もっと広い場所へ! もう火焔天には絶対に帰らない」

 だからそんな格好しているのか。

「あ、そう。いってらっしゃーい」

「イーリンも行くのよ?」

「……いや、行かないし」

 このガキはなにを言ってるんだ。

 リリーが外≠ヨと行きたがっているのは知っている。彼女の目的は、初め
から一貫して揺るがない。針の城¥體烽好き勝手にジャンプしているのは
足慣らしに過ぎず、いずれはリージョン間の大海へと踊り出したいと願ってい
た。針の城≠ヘおろかクーロンすら、彼女から見れば窮屈な密室に過ぎない。

30 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 19:16:44


 それは結構な話だけれど、リリーの瞬間移動能力は針の城′タ定だ。
 彼女が神になれるのは妖魔租界の跡地のみ。縮地法での移動しか知らない娘
が、どうやって自分の足で旅をするのか。地獄そのものとも言える妖力の高さ
と非業の美貌が、他者との交流を徹底的に拒むというのに。
 
 ―――答えは簡単で、あたしを利用すればいいんだ。
 
 必然的だとか運命的だとか、胸焼けするような夢想を押しつけてくるリリー
だけど、こいつはそんな分かりやすいタマじゃない。魔女らしく打算に長けて
いて、自分の利だけを考えようとする。
 リリーにはあたしが必要なんだ。
 いま、この世界でリリーとまともに会話ができるのは、ダージョンとあたし
しかいない。あたしを旅のお供に加えれば、他者とのコミュニケーションを任
せられるし、欠けている常識も補える。
 女の一人旅は危険だから、じゃあ二人で行きましょうというわけだ。

 もちろん、あたしは行かない。クーロンから出るつもりなんて欠片もない。

「や! 一緒に行くの!」

 リリーが駄々をこね始める。最後は必ずこうなるんだ。

「だってこれは駆け落ちなのよ。一人じゃ駆け落ちにならないわ」

「……深窓のお姫様が、どこでそんな言葉を覚えてくるんだ」

「なんで! どうして! わたしには理解できないわ。こんなお日様も当たら
ないリージョンに、どうしてイーリンは執着するの。世界はもっと広いんだか
ら。世界はもっと可能性に満ちているんだから。こんなとこで若さを消費する
のは間違ってる。いますぐ逃げ出すべきよ」

「べっつに、執着しているつもりはないよ」

 ただ、あたしには生活があるというだけの話。
 確かに故買屋の売り上げは好調だ。マーマから受け継いだ不動産の所得もか
なりの額に昇る。収入だけを見れば、あたしはきっとお金持ちになるんだろう。
 だが、入る額が大きければ、出て行く額も天文学的だ。
 あたしには主治医がいるけど、月に二回の診察費は狂気のお値段。趣味でや
っている心霊工学も金食い虫だ。死体いじりも安くはない。ハダリーの維持費
だけで家が買える。……それに、マーマにかかるお金もある。
 そういったあたしの日常を維持するためには、今日の生活を繰り返し続けな
ければいけないんだ。金持ちだなんて関係ない。生きるだけで必死なのは他の
クーロン人と変わらない。明日の夢なんて語る余裕はなかった。

「つまんないわ」

「なんだって」

「イーリンはつまんない!」

 リリーはソファの背もたれに器用に飛び乗ると、仁王立ちのようなポーズを
取って、人さし指をびしりとあたしに向けた。

31 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/13(土) 23:59:20



「これは冒険なのよ。無限の世界が待っているのよ。誰もが夢見る興奮に満ち
た毎日が、手の届く場所にあるのよ。なのにどうして無視なんてできるの。ど
うして『生活がある』なんて言えるの。そんなの捨てちゃえばいい。わたしと
イーリンがいれば、なんだって手に入るんだから!」

 あたしは呆れを通り越して感心する。一ヶ月前まで一歩も自分の部屋から出
たことがなかった小娘が、よくも世界を語れたものだ。

 まぁ考えてみよう。こいつの望み通り外≠ニかいう抽象的かつ漠然として
場所に飛び出したとして、そこでどうやって生活をしていくつもりなのか。
 リリーは自分の部屋より広い世界を知らない。あたしだってクーロンの外に
出たことはない。―――おおよそ現実的な話じゃないんだ。

「……自分の部屋に戻りなよお嬢ちゃん。冒険がしたければお城の中ですれば
いい。針の城≠セって十分神秘に満ちているんだ。なにせ、クーロンでいっ
ちばん危険な場所だからな。冒険のし甲斐はあると思うぜ」

 そう言って、あたしはソファにどすっと腰掛けた。背もたれの上でリリーが
バランスを崩す。これ幸いと、あたしの背中に抱きついてきた。肩に両腕が絡
まり、頬と頬がぴったりとくっつく。
 ―――そして、あたしの耳元で唇を動かした。

「ここは退屈。だって、わたしに分からないことはないんだもの」

 ……万能者の憂鬱、か。

「わたし、こんな力持って生まれなければ良かった。普通の女の子なら、誰も
わたしを閉じ込めたりしなかったもの。色んな人と出会えて、色んなお話がで
きたもの。もっと広い世界を見て回れたもの」

 それはどうかな。あたしは左の人間の♀痰細める。

普通≠ェどういうものかあたしには分からないけど、力を持たずに生まれて
きた者は、力ある者に搾取されるしかないということぐらい分かる。弱いとい
うことはそれだけ生きる道を限定されるということだ。
 ―――リリーは、クーロン・ストリートでその日の糧を得るためだけに躰を
売る少女娼婦たちがいるということを知らない。あたしが躰を売らずに今日ま
で生きてこれたのは、この眼とこの肉があったからだ。火蜥蜴≠フ力の使い
道を、マーマが教えてくれたからだ。

「……リリー、あんたの理屈は持てる者≠フ傲りだよ」

 あたしの言葉に、少女はくすくすと肩を揺らす。

「そうよ? わたし、傲っているの。だってわたしはわがままだもの」

 だから、欲しいものは絶対に手に入れる。イーリンがクーロンに留まるって
いうのなら、あなたをここに縛り付ける鎖を断ち切ってやる。
 ―――無邪気≠ニ魔性=Bこの二つは矛盾するはずなのに、リリーの口
元に広がる笑みは、その両方を孕んでいた。

「イーリン。あなたは、わたしにだけ縛られればいい」

「……」

32 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/14(日) 00:01:30


 あたしを抱く腕の力が少しずつ強くなっていく。リリーはついにあたしの耳
たぶに唇を押しつけた。そのまま囁きを続ける。

「あなたのマーマが気になるの? あの老いぼれがいつまでもしぶとく生きて
いるから、あなたはここから離れられないでいるの? ―――だったら、安心
して。わたしがあの女の魂を地獄まで導いてあげるわ」

 ―――マーマ。

 あたしを拾ってくれた、マーマ。
 あたしに強さ≠フ意味を教えてくれたマーマ。
 あたしに故買屋の才があることを見出してくれたマーマ。
 あたしに価値を与えてくれたマーマ。
 若作りするのに必死だったマーマ。
 ……あたしの、お母さん。
 血は繋がっていなくとも、どんなにそう呼ばれることを拒んでいても、マー
マは、阿嬌は、あたしの母だ。かけがえのない家族だ。

 リリーの腕を乱暴に振りほどき、ソファから立ち上がる。抑えようもない怒
りが総身から溢れ出すのが分かった。
 彼女に背を向けたまま、低い声音で言葉を紡ぐ。

「レイ・バイホー。―――もし、あたしのマーマに手を出してみろ」

 眼帯を外すと、黄金に輝く瞳で魔女を睨んだ。

「その時は、あんたを殺す」


                  * * * *


「イーリン、待ってよー」

「ついてくるんじゃねえ!」

 第九層原動天=Bより深い階層と、最外周の第十層の間に挟まる緩衝地帯
として極度に低い人口密度を誇る亡霊街。
 あたしは人外の脚力を用いて、複雑に入り組んだ路地を縫うように進んでい
るのだけど、背後から響くリリーの甘えた声は一向に遠ざかろうとしない。
 こっちは物心ついたときから針の城≠ナ生活している経験を最大限に活か
して、普通ならものの数分で迷ってしまうような道をあえて選んでいるのに。
……撒けない。逃げ切れない。それどころか、あたしが進もうとする道にリリ
ーが待ち伏せているときすらあった。―――魔女め! 魔女め!

「ついてくるなって言ってんだろ!」

「ごめんなさいって謝っているのにー」

「聞きたくねえ!」

 ……いや、あたしだって分かっているんだ。
 この針の城≠ナリリーから逃げる術なんてない。針の城≠フ霊走路は完
全に彼女の管理下にある。縮地法を用いれば城内ならどこにでも瞬間移動でき
るし、あたしの位置は霊脈の微細な揺らぎから予測が可能……らしい。
 鬼ごっこも隠れん坊も無駄の極み。シャワーを浴びてる最中に転移してこな
いだけ、むしろ感謝すべきなのかもしれない。

33 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/15(月) 00:19:22


 でも、だからといってこのままリリーを連れ回すわけにはいかない。
 彼女は目立つ。致命的なまでに目立つ。ここが原動天≠セから、幸いまだ
物質的な被害は生じていないが、勘の鈍い人間が通りがかりでもしたら、廃人
が一人生まれることになる。……別に赤の他人がどうなろうが知ったことじゃ
ないけど、リリーの足跡≠残すのは極力避けたかった。
 ―――まぁ無駄な足掻きだとは思うよ。
 近いうちに、必ずダージョンはお姫様のお転婆に気付くだろう。リリーがい
くら身を隠したところで、彼女が発する瘴気までは隠しようがないんだから。
 けど、その時を無警戒に待っていたら、あたしはシリウス男爵と同じ運命を
辿ることになる。例え無駄でも、警戒と足掻きは続けていくべきだ。

 それに、いまから行く場所にリリーを同席させるわけにはいかない。

 路地裏で立ち止まったあたしは「降参だ」と言って手を上げた。すると、あ
たしの目の前にリリーがぱっと現れた。滝のような黒髪がさらりと流れる。

「ふふ、つーかまえた」

 リリーは鈴の音のような笑い声をこぼす。

「ようやくわたしを許してくれたのね」

「ああ、だから帰れ」

「またそんなことを言う」

 ぶー、とリリーはむくれる。

「わたしだって考えなしに抜け出しているわけじゃないのに。……最近、ダー
ジョンはあまり屋敷に来ないの。火焔天にすら滅多に戻ってこないわ。一層と
二層を行ったり来たり。だからわたしは気兼ねなくお出かけできるわけ。イー
リンもそんなに心配しないで。わたし、ずっと一緒にいられるから」

 そいつは迷惑な話だ。

「なあ、リリー。あたしが部屋から出て行ったのは、別に怒ったからじゃない
んだ。あたしはいまから行くべき場所があって、そこにあんたは来て欲しくな
いっていう……つまりそれだけの単純な理由なんだよ」

 リリーは腕を組むと、「ふうん」と醒めたを眼をあたしに向けた。

「もちろん、どこに行こうとしているのかぐらい教えてくれるのよね」

「聞くまでもないだろう。あんたは初めから分かっていたんだから」

「わたしはそうかもしれないけど、イーリン、あなたはなんにも分かってない
わ。わたしはあなたの口から、答えを聞きたいの」

 どんな理屈だ。ほとほと理解に困る。けど、ここで言い返しても無駄に時間
を食うだけだ。やれやれ、とあたしは嘆息した。

「―――マーマのとこだよ」

34 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/15(月) 00:19:43



                  * * * *


 第九層でリリーと別れたあたしは、第十層から大きく迂回するかたちで第七
層土星天≠ヨ。針の城≠ォっての商業区に移動した。

 第七層はビルの高度が下がる変わりに密集率が桁外れに高くなる。道と呼べ
るような道はなくなり、居住者はビルからビルへと渡り、廊下を進み、階段を
昇って目的地を目指した。
 街路がないため常に屋内を移動し、ビルの階段を上がったり下がったりする
ため、第八層を揶揄して全天候型立体都市≠ネんて呼ぶ奴もいるけれど、極
端に道幅が狭く天井も低い廊下を幾度も幾度もぐにゃぐにゃと曲がりくねりな
がら歩かされる居住者の立場になってみると、立体都市というよりも地上の地
下壕と呼んだほうが正しいことを思い知らされる。

 しかも、ただでさえ狭い廊下に敷物を広げた露天商(屋内なのに露天なんだ)
が居座り、低い天井にはけばけばしく塗り立てられた看板が放熱板のように飾
られるものだから、満足に歩くことすら困難になってくる。いつ窒息してもお
かしくない劣悪の環境だった。
 ……ただ、オカルト都市針の城≠フ商業区だけあって掘り出しものは多い。
悪態をつきながら、あたしは何度もお世話になっている。

 第七層には床屋が多数存在する。どのビルに入っても、まず真っ先に目に付
くのは床屋の看板だ。当然、大人しく散髪して終了なんてサービスをする店は
皆無に近く、床屋の床≠フ意味合いはより夜に近しくなる。
 客寄せの散髪女は、男だろうが女だろうが構わず袖を引っ張る。香水の臭い
をまき散らしながら「魂までさっぱりさせてあげる」なんて甘えられても、同
性のあたしは「間に合ってるよ」としか答えようがない。
 廊下が狭いせいで下手に避けて歩けないのがいやらしい。

 部屋の壁をぶち抜いて構えた日用品店でオレンジをバスケットいっぱいに購
入した。針の城≠ノ限らず、九龍では生鮮食品が特別に高価だ。自給率がゼ
ロに等しく、他のリージョンからの輸入に頼り切っているのが価格の高騰を招
いていた。外貨は高く、自治政府が発行する竜貨は安い。
 けど、オレンジなしではあたしは生きられない。

 オレンジを皮ごとかぶりついて食事に変える。ビルからビルへと跨いでいる
うちに、やがて目当ての建物が見えてきた。

 内側から下品なネオンの輝きが漏れ出す他の多くのビルとは違い、提灯の穏
やかな明かりを抱いた建物はビルではなく京風の屋敷だった。いや、正確には
ビルを屋敷に改造している。小汚いペンシルビルばかりがひしめき合う針の
城≠ナ、そのビル屋敷≠ヘあからさまに景観から浮いていた。

 屋敷の入り口には、これまた京風のキモノ≠ナ身を固めた巨漢のオークが
立ち番を務めている。ぎらつく目つきであたしを睨んでくるが、無視して脇を
通り過ぎた。オークも半歩だけ下がって道を譲る。

 屋敷に入るとすぐにウォンが駆けつけてきた。相変わらずの爬虫類顔。人間
を自称しているけれど、どこまで本当かは分かったものじゃない。マーマのか
つての部下の中でも、格別信用ならない男だ。

35 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/17(水) 22:00:22


 マーマの部下だったのだから、ロートルと同じようにあたしとも古馴染みと
いうことになる。ただロートルと違うのは、あたしはウォンのことを心底毛嫌
いしていて、ウォンも同様にあたしを嫌悪しているということ。
 あたしが顔を出した途端に駆けつけてきたのも、支配人自ら接待というわけ
ではなく、他の客にあたしが来たことを知られたくないだけだった。
 ウォンは権力欲の強い男だ。マーマが引退して彼がこのビルを継いでからは、
特にあたしを避けるようになった。自分が絶対の帝王でいられるようになった
この場所で、阿嬌の後継者≠ネど目障りでしかないのだろう。

 挨拶すら交わさず、ウォンは尖った顎で「こっちへ来い」と促した。
 別に案内がなくたってひとりで行ける。ウォンなんて無視したかったけど、
このビル屋敷≠フ営業システムがそれを許さない。
 勝手にずんずんと進めば、不似合いなキモノのコスプレをした用心棒に止め
られることになるし、ウォンの面子も潰れる。
 それはそれで愉快だけど、今夜は控えよう。
 
 一階のロビーには、ゲートを兼ねた巨大な双龍のモニュメントが鎮座してい
る。それをくぐると、クーロンでも特別珍しいエレベーターが待っていた。
 人力でも高級品だというのに、このビルの昇降機は蒸気機関だ。マーマが仕
切っているときは設置しておらず、ウォンの代になってから改装させた。
 彼の自慢のひとつだ。

「儲かってるみたいじゃないか」

 エレベーターのカゴに二人きりになって、ようやくあたしは口を開いた。
「冗談だろう」とウォンは鼻で笑う。

「いつでもカツカツだよ。とんでもない金食い虫がいるからな。どんなに儲け
ても、稼いだ端から出て行っちまう」

「いまさら泣き言かよ。契約内容を飲んだんじゃなかったのかい」

 あたしの言葉に、ウォンは吐き捨てるように呻いた。

「知ってるか、ものには限度ってもんがあるんだぜ。まさか、ここまで手がか
かるとは思わなかったんだ」

 マーマが引退したとき、故買屋の事務所になっているクーロン・ストリート
裏通りのビル同様に、このビル屋敷≠烽たしの所有物となった。故買屋商
売と違って、知識も経験もないあたしに維持できるような代物じゃなかったか
ら、すぐにウォンに譲った。ウォンは当時からここの支配人だった。
 商売の権利もあわせて売り払えば一億クレジット以上の価値が出るビルだけ
ど、あたしはウォンから金を吸い上げるような真似はしなかった。
 ……その代わり、条件をつけた。
 半永久的にマーマの面倒を見ろ、と。あんたのビルでマーマの世話をしろ、
と。―――厄介払いしたかったわけじゃない。ウォンの言う通り、いまのマー
マは手がかかる。彼女を満足させてあげられる環境は、このビル屋敷≠お
いて他になかった。だから金の成る木をウォンにただでくれてやったんだ。

 エレベーターのチャイムが「ちん」と鳴って、あたしたちを最上階まで運ば
んだことを知らせた。
 最上階はマーマのためだけのフロアになっている。客は誰も近寄らせない。
そういう約束であり、契約だ。どんなにウォンが疎ましがろうと、これから先
も変えるつもりはなかった。

36 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/17(水) 22:09:12


 エレベーターを降りたあたしは、京庭園を模したエントランスにウォンを待
たせて、ひとりでマーマの待つ寝室へと向かった。

 廊下を進むにつれて視界が不鮮明になっていく。廊下に立ちこめるつまめば
毟り取れそうなほど濃密な煙は、至るところに飾られた香炉で焚かれたものだ。
 吸えば脳が溶ける魔性の煙。けれどもあたしは臆さずに進む。足取りは重い。

 ……こんなとこ、本当なら仕事でだって来たくない。ウォンの蜥蜴面を見る
だけで苛立ちが募るし、それ以上にいまのマーマと会いたくなかった。

 いっそ、ここで引き返せたらどんなに楽だろうか。ウォンの横面を殴り飛ば
して、ビル屋敷≠飛び出して、針の城≠フ最新層に逃げ込めたらあたし
の心はどれだけ軽くなるだろう。この道を辿るとき、あたしはいつもすべてを
捨てたくなる。

 一瞬だけ、あたしの胸裏にリリーの言葉が浮かび上がった。

『一緒に、外へ』

 自然と口元が緩む。あいつは莫迦だな。本物の大莫迦だな。

 逃げるなんて。外を目指すなんて。……そんなこと、あたしは考えたことも
なかった。悪態を吐きつつも、毎日をクーロンで必死に生きてきた。それしか
生きる道はないと思っていた。『外』なんて漠然とした存在は、絶壁の先に待
つ暗黒に等しかった。―――なのにリリーは、つい一ヶ月前まで自分の部屋が
世界のすべてだったお姫様は、針の城≠ヘおろかリージョン・クーロンです
ら窮屈だと言う。どうしてそんな発想ができるのか。なにが彼女の足を外へと
向けさせるのか。……あたしは嘆息を漏らした。莫迦の考えは読めない。

 レースのカーテンの海をくぐり抜けると、天蓋付きの巨大なベッドが目に飛
び込む。部屋一面を占めかねないエンペラーサイズの寝台には、やせ細った女
がひとり。手に真鍮の長煙管を持って、ぼうと部屋の壁を見入っていた。

「やあ、マーマ」

 あたしが声をかけても反応はない。あたしだけじゃない。誰が話しかけても
マーマは応えない。マーマに動くときがあれば、それは長煙管の吸い口に唇を
近づけて、より深い快楽と幻想を機械的に貪るときだけだ。

 このビル屋敷≠ヘクーロンでも最大規模の阿片窟。しかも提供する阿片は
ファシナトゥールの土で育て魔精花となった芥子から精製した特別製。
 文字通りの魔薬≠フ味を知りたいと求める者はクーロンに留まらず、他の
リージョンにまで及ぶ。
 この阿片窟で部屋を持ち、毎日を阿片三昧で過ごすような中毒者は、あたし
なんかとは比べものにならない、正真正銘のお金持ちサマだ。

 ……マーマもそのうちの一人ってことになるのかな。

 阿片と部屋代、その他の面倒見代はすべてウォンが負担しているけれど、額
面にすればきっと天文学的単位。だからウォンはあたしを疎み、かつてはボス
だったマーマを追い出したがる。

 なに、構うものか。搾り取れるだけ搾り取ってやればいい。

37 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/17(水) 22:12:30


 あたしは無理矢理に微笑んで、ベッドの脇にバスケットを置いた。

「フルーツ。お土産に買ってきたんだ。オレンジ好きだろう? ここに置いて
おくから、良ければ食べてよ」

 マーマはなにも食べない。栄養はすべて強制的に打たれる注射や丸薬で摂取
している。マーマはなにも求めない。……阿片の煙以外は。

 娘のあたしがこうして面会に来ても、定まらぬ視線は宙を向いたまま。

 マーマは今年で六十七になる。なのに外見は二十代半ばのように若々しく、
美しい。―――マーマは、女の価値が外見であることを常日頃から強弁してい
た。老いることをなにより怖れ、常に若くあるよう努めていた。
 七十近い老婆が娘の外見を保つために、いったいどれだけの財産を注ぎ込ま
なければいけなかったのか。昔は知らなかった。……いまは痛いほどによく知
っている。いまのマーマの美容料はすべてあたしが負担しているから。

 マーマは廃人だった。感情は死に絶え、本能は衰え、ただ煙を吸って吐くだ
けの人形になってしまった。『家族以外のなんでも買って、なんでも売る』と
豪語した女傑はどこにもいない。五十年もの間、クーロンの鬼の商売人として
巨万の富を築き上げたやり手ババアはどこにもいない。年甲斐もなく若さにば
かり拘って、整形手術を繰り返した哀れな女は、もう、どこにも、いない。
 あたしの目の前にいるのは、ただの抜け殻。

 ――― 一年前。
 マーマはいつものように護衛に囲まれて、持ち店の見回りに出かけた。

 その頃、あたしはマーマに仕込まれた故買屋商売がだいぶ軌道に乗っていた
ため、かつてのようにマーマの背中を追って歩くようなことはせず、黙々と自
分の仕事をこなしていた。
 ……愉しかった。気持ちよかった。なによりも嬉しかった。自分で稼ぎ、自
分で生きていく術を見つけた。これからはマーマに養われるお荷物じゃなくて、
マーマに金を稼がせてあげられる共存関係の家族≠ノなれるんだ。そう思う
と仕事にも熱が入り、針の城≠フ自宅には戻らず、裏通りのビルに住み込ん
で毎日を消費した。未来はあたしのものだと、根拠のない自信に支配されてい
た。……つまり、幸せだったんだ、あたしは。

 マーマは見回りに出たまま戻ってこなかった。クーロン・ストリートの路地
裏で捨てられていたのを、その日のうちにロートルが発見した。
 連れていた四人の護衛の行方はいまになるまで分かっていない。きっと顔面
を潰され、首から下はバラのパーツとして売り払われてしまったんだろう。
 マーマまでもがそうならなかったのは不幸中の幸いかもしれないけど……。
 発見されたマーマはすでに、人の言葉をしゃべれなくなっていた。あたしが
駆けつけたときにはすでに、壊れてしまっていた。
 いったい、なにが起きたのか。なんの事件に巻き込まれたのか。それともマ
ーマ自身が狙われたのか。あたしに分かるのは、マーマは現実から逃げたとい
うことだけ。絶対に手を出さなかった阿片に手を染め、一週間もするとビル
屋敷≠ノ居着くようになった。……そして今日まで、一歩も外には出ていない。

 マーマはあたしを後継者に指名していた。だから、マーマの財産はすべてあ
たしのものとなった。不動産も店の所有権もひとのコネも、すべてあたしが受
け継いだ。あたしはそれを整理して、故買屋以外の仕事はマーマの部下だった
連中に任せた。ウォンのような奴に売り払った権利もあれば、いまでも一定の
売り上げを吸い上げてる権利もある。
 ……稼ぎは阿片の煙とマーマの整形代に消えている。

38 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/17(水) 22:16:08

 マーマが感情を失くしてしまっても、あたしはマーマが望むものを理解して
いる。それは若さを保つこと。例え阿片に溺れる廃人だったとしても、マーマ
は美しくあらねばならない。それがマーマの願い。
 だから肌を定期的に張り替え、皺をのばし、染みを抜いた。時には老朽化し
た骨を取り替えて、重力に引きずられるようになった肉さえも交換しなければ
ならなかった。……整形と呼ぶより改造。大手術の繰り返しだ。

 整形手術はマーマがこうなる前から懇意にしていた闇医者に任せている。
 かなりの腕利きで、針の城≠ナは知られた名前らしいけど、あたしは会っ
たことがない。あたしの主治医から会うなと言われている。
 依頼も支払いもウォン経由だった。

「心臓が、さ」

 背後から声がかかる。ウォンが断りもなく入ってきたんだ。莫迦野郎、と怒
鳴り散らしたい衝動を殺す。あたしはマーマと二人っきりでいたいのに。あん
たの声なんか聞きたくないのに。どうして邪魔をするのか。

「心臓の鼓動……心拍数っていうのか? それが、低い位置で安定しちまって
いるらしい。危険な徴候だってよ。このままだと、静かに心臓を止めることに
なっちまうって。―――ま、こんだけキメてればしょうがないか」

「ヌサカーンがそう言ったのか」

 ヌサカーン。闇医者の名前。もぐりの癖に、こっちの足下を見て法外な医療
費を請求する。マーマも顔負けの守銭奴だ。

「ああ。ついでに、整形のほうも限界だってよ。これ以上イジるなら、脳みそ
引っ越しさせて躰まるごとすげ替えちまったほうが良いとさ」

 ……人間のままで不老を求めるなんて、無茶な話なんだ。

 あたしは「ふぅん」と頷いた。
 ショックを押し殺して、平然とした態度を守る。

「じゃあ、活きの良い躰を探しとかないとな。……死体じゃ厳しいだろうから、
生きた人間か。若い娘だと莫迦みたいに高いんだよな」

 いっそ、どっかからさらっちまうか。そう言いかけたあたしを、ウォンの声
が阻んだ。「冗談じゃねえ」だとか「ふざけるな」だとか、そういう怒鳴り声
が部屋に響く。あたしはウォンに背中を向けたまま、眉をしかめた。
 ……マーマがいるのに騒ぐんじゃねえよ。

 ウォンの唾が飛ぶ。

「冗談じゃねえ。付き合いきれねえよ。いい加減、死なせてやればいいだろう
が。もう十二分に生きたはずだ。大往生じゃねえか」

 マーマが死ねば、阿片窟の稼ぎは丸ごとそっくりウォンの懐に飛び込むよう
になる。だからこいつはそんなことが言えるんだ。

「どうしてまだ生かしておく必要がある。阿片のせいで脳みそは縮む一方。い
まさら正気に返れるわけがねえ。だったら、楽にさせちまうのが―――」

「黙れ」

 振り向き様にウォンの喉笛を引っ掴んだ。喉から「ひゅっ」と音を漏らして
怒鳴り声が途切れる。このまま頸椎をへし折ってやろうか。―――あたしの憎
悪は、しかし燃え盛るのもつかの間、たちまち鎮火してしまう。

39 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/17(水) 22:19:12

 手を離し、胸を突き飛ばす。ウォンは咳き込みながら「狂ってるぜ」と言い
捨てて寝室から逃げ去った。あたしと殴り合うという選択肢はなかったらしい。
 そういう賢しさがあたしは大嫌いだ。

 憎しみが鎮まった理由。……考えるまでもなく、ウォンの言うことが正しい
からだ。もうマーマは死んでいる。残った抜け殻を、あたしが金に飽かせて生
き長らえさせているだけ。誰のためかと問われれば、この延命はマーマのため
ではなくあたしのためと答えるしかない。マーマがいなくなって欲しくないか
ら、虚しいだけの足掻きを続けている。すべてはあたしのわがままだ。

「マーマ」

 返事はない。

「マーマ」

 彼女は決して応えない。

「マーマ―――」

 胡乱な瞳は天蓋を見上げるばかり。

「マーマ!」

 右眼の眼帯を毟り取った。床を蹴り、ベッドに飛び乗る。マーマの痩せさら
ばえた躰を押し倒して、強引に視線を交錯させた。

 ……こんなに力に任せても、痛みの声ひとつ上げやしない。

蜥蜴の眼≠ナ、マーマの瞳を覗きこむ。更にその奥を覗きこむ。もっと深く、
マーマの深奥まで覗きこむ。―――あたしの魔眼は、ひとの精神の隙間に容易
に滑りこむ。あたしが視たいと望む他者の心象風景を、右眼が鮮明に浮かび上
がらせる。この右眼は、ひとの精神のカタチさえも視認してしまうんだ。

 でも、マーマからはなにも視えない。どんなに深くまで潜っても、闇ばかり
が広がっているだけ。魂の投影ともいえる心象風景は一切確認できない。
 それは意味することはつまり。
 マーマはいない。あたしの両手の下で、間抜け面晒して唇をすぼめているの
は、マーマのカタチをした肉のかたまりに過ぎない。

「くそ!」

 取り落とした長煙管を押しつけて、あたしは寝室から飛び出す。分かってい
るはずなのに。もう何十回も試みているのに。―――マーマの裡には虚無だけ
しかないことを確認する度に、涙がこみ上げる。

 どうして、どうしてなんだ。
 どうしてあたしを置いていった。
 どうして一人で行っちまった。
 あたしは家族じゃなかったのか。
 マーマはあたしの生きる理由じゃなかったのか。
 ただ震えるだけ。ただ泣いて乞うだけだったあたしに、火蜥蜴≠ニいう価
値を与えてくれたのはマーマじゃないか。拾ってやった恩義に報いて、私のた
めにあくせくと働くんだね―――そう言ったのはマーマじゃないか。
 あたしはマーマのために生きている。
 マーマがあたしのすべてだ。
 それは、マーマがこうなってしまったいまでも変わらない。マーマの美しさ
を保つため、マーマに永遠の快楽を与えるために、あたしは生きる。
 けど、ウォンが言うように、もしこのまま死んじまうっていうのなら―――

「あたし、なんにも見えなくなっちまうじゃないか……」

40 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 00:58:21



「―――わたしが、いるじゃない」

 温もりが背中から胸へと広がっていく。いつの間にか、あたしは後ろから細
腕に抱き締められていた。気配はなかった。ウォンが出て行ったいま、このフ
ロアにはあたしとマーマしかいないはずなのに。
 ……こんな真似ができる奇術師は針の城≠ノ一人しかいない。

 覗き見していたのか。帰れって言ったろう。そう、叱り付けてやるべきだ。
ここは聖域。あたしの拠り所。第三者の侵入は絶対に許されない。なのに、あ
たしは喉から溢れ出す嗚咽を噛み殺すのに必死で、背中をこするリリーの鼻先
を拒むことすらできなかった。立ち尽くしたまま抱擁を受け容れてしまう。

 ―――なんてことだろう。不覚にも、あたしはリリーの胸からぬくもりを感
じてしまっていた。
 魔女はどんな小さな疵も見逃さない。心の隙間を的確に見つけて滑りこむ。
いまのあたしは傷だらけ。こんな小娘でも付け入るのは容易い。

「わたしがイーリンに新しい価値を与えてあげる。わたしがイーリンの理由に
なる。……だから、ねえ。泣かないで。わたしを見て」

 魔女の呪文は、阿片の煙よりも甘い。

「一緒に生まれ変わろう。ここにいても疵が増えていくばかり。悲しいこと、
辛いこと、全部投げ出しちゃって、わたしと初めからやり直そう」

 ……タイミングは、悪くなかった。
 口説き文句も、まあ及第点だ。
 減点方式なら間違いなくあたしは堕ちていた。リリーにすべてを任せて、彼
女の望む駆け落ち≠ニやらを決行していたに違いない。
 脱出という名の閉塞。世界を知るという口実のもと、世界を閉ざす。それは
きっと、人を酔わす甘美な響きのだろう。

 ―――でも、あたしには白けた絵空事にしか聞こえない。

 悪いね、リリー。あたしはクーロンで育ち、クーロンで生きたんだ。
 夢で飯は食えないとマーマから学んだ。天空に浮かぶ星空よりも地面に転が
る銭だとマーマから教わった。利用されるより利用する女になれと、マーマか
ら言いつけられた。―――今更あんたにたぶらかされるには、あたしはあまり
に世界≠知りすぎている。
 だから、外には行けない。

「……あたしは強情なんじゃない。心に壁を作っているわけでもない。ただ、
生き汚いだけなんだ。醜く生き足掻いているだけなんだ」

 リリー。あんたからは死の香りしかない。隠しきれないほど濃密な死臭が、
あたしを醒めさせる。……あんたは気付いていないかもしれないけど、あんた
の言う外≠チていうのは、楽園だとか地獄だとか、そういうとこだよ。
 少なくとも、あたしにはそうとしか思えない。
 あんたにはそんなところに行きたいのか。……行きたいんだろうね。憧れて
しようがないんだろうね。でも、あたしはイヤなんだ。生きたいんだ。あたし
が欲しいのは生きる理由であって、死ぬ理由なんかじゃない。
 あんたの優しさは人を殺す。マーマの厳しさは人を生かす。その違いが分か
らなくちゃ、あたしを墜とすことはできないぜ。

 ―――でも、ま、抱き締めてくれたことは感謝するよ。

 寂しかった。孤独が痛かった。それは否定のしようがない事実だから。

41 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 01:01:24


「リリー、あたし―――」

 どうしたの、とリリーが応える。あどけなさと母性を両立させた囁き。ガキ
の癖に、よくもこんな声が出せるもんだ。あたしはやれやれと失笑する。
 表情は窺えないけど、リリーはいま、瞳を輝かせているに違いない。欲しい
ものがもうすぐ手に入る、その期待で胸は一杯。―――あたしはそんなかわい
らしい小悪魔の横っ腹に「えい」と肘鉄を喰らわせた。
 肘の尖端が柔肉にめり込む。

「げふ」

 お腹を押さえて、リリーはその場に蹲った。魔女の抱擁から解放されたあた
しは両手を挙げて伸びをする。うーん、空気がまずい。

 リリーは痛みに困惑しつつ、上目遣いにあたしを睨んだ。

「な、なんで……」

「飯」

「え?」

「飯、食いに行くぞ」

 事態を理解できないリリーは「はぁ?」と顔を歪めた。彼女のシナリオでは、
今頃あたしは自分の胸でむせび泣いていたんだろう。肘鉄を打ち込まれるなん
て予想もしていなかったはずだ。……まだまだガキだな。

「クーロン・ストリートにさ、まっずい点心を出す屋台があるんだ。あたしの
行きつけ。そこなら安いから、奢ってやってもいいぜ」

「それって―――」

 リリーは針の城≠謔闃Oを知らない。リリーは外の世界を求めている。

「あたしが連れて行ってやるよ、飲茶がてらにな」

 一拍おいて、リリーの唖然とした表情が年相応の無邪気さに塗り変わった。
「うん!」と力強く頷いて、あたしの腕に自分の腕を絡ませる。

「行こう、外へ!」


                  * * * *


針の城≠フ外の人間は妖気への抵抗力が低い。妖気の暴風みたいなリリーが
クーロン・ストリートを闊歩しようものなら、前代未聞の大虐殺が始まってし
まう。自分でも持て余してしまう巨大な妖力は、いくら押さえろと言っても調
節できるようなものじゃなかった。
 迷彩コートを着せて、フードを目深に被らせる。隠行≠フ護符をコートの
裏にべたべたを貼りつけ、あたしの影を常に踏ませて歩く。そこまで魔術的に
存在を隠しても、リリーは莫迦みたいに目立った。
 クーロン・ストリートなんて絶対に歩けない。

42 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 01:44:20


「こりゃ、裏通りで我慢するしかないな」

 あそこならネオンの灯りも遠い。影に影を重ねて濃くすることで、リリーの
妖気を誤魔化すこともできるかもしれない。クーロン・ストリートは四方から
ネオンが当たるため、影が薄れて隠れようがなかった。

 クーロンの華であるメインストリートに行けないんだ。お姫様はごねるに違
いないと思ったけど、意外にも「ん、別にいいよ」なんて呆気ない返事が待っ
ていた。〈針の城〉の外であれば、別にどこでもいいらしい。

 ―――が、結局それすらも叶うことはなかった。

「……出られない」

 人目につかないよう気を付けながら進んだ第十層。〈針の城〉の外周付近で
リリーは唖然と立ち尽くした。ビルとビルの間から覗く外≠凝視するその
表情は、ショックのあまり感情が抜け落ちていた。
 ……リリーがこんな顔をするなんて。

「なんなの、これ」

 魔女の唇がわななく。

「リリー?」

「わたし、出られない。外に行けないよ……」

 なにを、言ってるのか。

「こんなのがあるなんて知らなかった。わたし、ぜんぜん視えなかった」

 あたしの呼びかけが聞こえないのか、リリーは独り言に没頭する。
 呪詛のような呟きを繰り返す。

「外≠フ景色なんて、もう何度も何度も見たはずなのに、どうして今日まで
気づけなかったんだろう。無意識の迷彩? 境界を跨ごうとする自覚をして、
初めて看過できたのかしら。わたしの眼ですら欺くなんて……」

 リリーはなにを見てしまったんだ。

「そんな真似ができる奴はあいつしかいないわ。ダージョンね、ダージョンが
やったのね。あいつ、なに考えてるの。ここまでしてわたしを閉じ込めたいの。
なにがなんでもわたしを支配したいの。独占したいの。……冗談じゃないわ。
これじゃ、あいつだって出られないじゃない!」

 リリーが奥歯を噛む。負の感情の昂ぶりが怨霊を呼び寄せ、即席の霊場とな
る。……まずいぞ、これは。リリーの憎しみの澱は人間のそれとは桁違いだ。
放っておけば、怨念の重みに負けて地面が沈む。開かれた孔が続く先は、永遠
の闇。怒りと憎しみだけで構築された魔界だ。

「リリー!」

 あたしの叫びで、ようやく彼女はこっちを向く
 。浮かべるのは、始めてみせる儚げな笑み。涙を目元に浮かべて、「対不起
(トゥイプチー)」とあたしに告げる。

「―――ごめんなさい。わたし、あなたと行けないわ」

 そして彼女は消えた。

43 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 21:22:44


 一瞬のことだった。あまりに突然過ぎた。
 ひとり取り残されたあたしは、一秒前までリリーが立っていた地面を見つめ
たまま首を傾げることしかできない。まだすぐ側に彼女が隠れている気がして
「リリー?」と名前を呼んでみるけれど、返事はなかった。

 火焔天に帰ってしまったんだろうか。だとしても、なぜ。

 リリーは〈針の城〉の外を見つめていた。あたしもそれに倣う。だけど、左
の人間の眼≠ナは異常は確認できない。眼帯を外し、〈蜥蜴の眼〉を細めた。
 ……やはり、なにも視えない。
 ただいつも通りの汚れた大気と、終わりのない夜があるだけ。リリーに視え
てあたしの右眼じゃ視えないものなんてあるんだろうか。「わっかんねーな」
と独りごちて髪の毛を掻きむしる。せっかく飯に誘ってやったっていうのに、
まさかこんなかたちで反故されることになるなんて。
 気まぐれでないことだけは、確かだろうけど。……リリーのあの反応は尋常
じゃなかった。いったい、どうしちまったっていうんだ。

 あたしは睨むように眼を眇めて、中心街の方角を見入る。
 魔眼ですら変異を見つけられないのなら、それはあたしが変異と認めていな
いだけじゃないだろうか。〈針の城〉の外と裡との境界は、幾度となく魔眼で
も視ている。いま視界に広がる光景とまったく変わらない。〈針の城〉の城内
には有象無用の妖気が充満し、城外は霊力が枯渇して澄み切っている。
 これのなにがおかしいのか。

 ―――すべてがおかしいのか。

 ヒステリックにオカルトを拒否するクーロンで、〈針の城〉だけは妖気が充
実している。リリーが操る霊脈は、〈針の城〉城内に限定されている。
 ……あたしは根本的な疑問に至った。
 城外と城内。―――なにがこの二つを隔絶しているんだ。どうして〈針の城〉
はクーロンにありながら、異界として成り立っているんだ。

 物心ついたときから〈針の城〉はここにあった。だから、あたしは当然のよ
うに存在を受け容れていた。外と裡を分ける境界のことなんて、考えたことも
なかった。……もしかして、この境界は自然に発生したものじゃなく、人為的
に組まれたものなのか。


                  * * * *


 適当にぶらぶらと歩いていれば、気分を落ち着けたリリーがぱっと転移して
くるかもしれない。そんな期待に引きずられて一時間ほど至高天をさまよって
いたけれど、甘えた声が耳に響くことはなかった。
 あたしは忙しい。リリーのためだけに時間を消費するわけにはいかない。
 今日はこれから診察の予約を入れている。シップ港に隣接する旅行者向けの
ホテルで主治医が待っているはずだ。遅刻するとなにを言われるか分かったも
のじゃない。それに色々と相談したいこともあった。

 あたしは散歩を切り上げ、〈針の城〉を後にした。

「結界アルかぁ?」

 シャオジエは顎に指を当て、大袈裟に悩めるポーズを作った。

「んー。そんな話、ワタシ聞いたことないアルね。〈針の城〉は都市としては
小さいけれど、結界を張るには大きすぎるアル。そんな非常識な存在、今日ま
で誰も気付かないなんておかしいアルアル」

44 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 21:23:02


「なら、外と裡を仕切る境界はどうして生まれたのさ」

「あそこは妖魔租界があった頃から強力な霊力場ヨ。じめじめしたものを好む
手合いが自然と惹きつけられるようになってるアル。きっと火焔天が渾沌の根
源。あそこ、元々はシリウス男爵の領事館があったアルからね。それ考えると、
火焔天を中心に同心円状に異界が展開されているの、全然おかしくないヨ」

 妖魔租界の特質を〈針の城〉がそのまま引き継いでいる。理に叶っているよ
うに聞こえるけれど、その実答えになっていない。

「いや、そうじゃなくて、あたしは境界の話をしているんだ。妖魔租界があっ
た頃は、クーロンのリージョンすべてが魔界都市だった。妖魔租界は妖魔貴族
の居住区に過ぎなかったはずだ。租界の内側と外側を仕切る境界なんてない。
神秘はリージョン全体に氾濫していたんだから」

 ぐ、とシャオジエは言葉に詰まる。あたしは無視して言葉を続けた。

「〈針の城〉が形成された過程で、誰かが人為的に境界を作ったんだ。『ここ
から先は〈針の城〉だよ』と概念の線引きをした」

 いったい誰が、どうして。
 ―――そんなのは自問するまでもない。紅の魔人だ。〈針の城〉の城主にし
て、クーロン暗黒社会の支配者。自分の手で滅ぼした在りし日のクーロンを、
彼は自分の庭に再現した。そのために結界は必要だったのか。

〈針の城〉を作ることが目的で、境界線を引いた。……それはいい。でも、そ
うなると結界の性質が読めない。妖魔や魔物の通行を阻むものならば、あたし
やハダリーだって通れなくなるはずだ。他にも、中心街や共同租界には少数な
がら妖魔がいるし、旅行者にだって人外は紛れている。彼等が〈針の城〉に入
ることができないなんて話、聞いたこともなかった。
 逆に人間が通れない結界だったとしたら。……それはもっと考えにくい。絶
対にあり得ない。いまこの瞬間にも、〈針の城〉には犯罪者や浮浪児が逃げ込
んでいるはずなのだから。

 あくまで概念の境界に過ぎないのか。でも、だとしたらリリーのあの反応は
なんだ。彼女の言葉を信じれば、あの結界はやはり物理的な障壁となって通行
を阻んでいる。それが適用されるのがリリーだけ? たった一人の少女を幽閉
するためだけの結界? ……もしそうならば、〈針の城〉というのはリリーを
閉じ込めるための巨大な監獄ということになる。
 ダージョンはリリーを二重に監禁していたのか。
 火焔天と〈針の城〉。
 二つの壁。

「ダージョンが〈針の城〉を形成した目的は、妖魔租界を再現するためじゃな
くて、リリーを逃げられないようするためだったのか……」

 頭を振る。駄目だ。こんな仮定の推論に意味はない。
 大体、〈針の城〉の成り立ちの由縁を知ってどうする。あたしが頭を悩ませ
たところで〈針の城〉が現実としてそこに在ることは変わりないのだから、事
実としてそれだけを受け容れればいいじゃないか。

 ……でも、あのときのリリーの表情は。

「あー、火蜥蜴の。ワタシ、話がまたく見えないアルよ。いくらなんでも置き
去りにしすぎネ」

45 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 21:23:18


 シャオジエに半眼で睨まれていることに気付き、あたしは気まずそうに眼を
逸らした。「悪い」と口でだけ謝っておく。……常に機嫌を取っておかなくち
ゃまずい女だって分かっているのに、迂闊な真似をしてしまった。
 あたしは逃げるようにソファから立ち上がると、パノラマビューの窓からク
ーロンの夜景を見下ろした。「わー、綺麗」なんてわざとらしい声をあげる。

 ここは、リージョンシップ・ターミナルが運営するハイクラス・ホテル星
港≠フ最上階ペントハウス。クーロンでもっとも天国に近い部屋だ。
 必然、お値段も天国価格になる。リージョン間を好き勝手に行き来できるよ
うな国賓階級でもなければ、まずお近づきになれないエグゼクティブスイート
だった。……あたしはこの部屋に足を向ける度に疑問を抱く。たかが寝泊まり
するために、これだけ広い部屋を借りる意味があるんだろうか。どうして一人
部屋なのに、寝室やバスルームが二つも三つもあるんだろうか。
 金が余ってしかたがない奴が考えることはよく分からない。

 宿泊客の名はリュイ・チャンウェイ。あたしの主治医で、お仕事は魔法使
い≠ニいうことになっている。

 いまどき演劇の脚本でも聞かないようなクーロン訛りの言葉を操り、これま
た風俗店でも見かけなくなったクーロンの民族衣装チーパオ・ドレスで自らを
飾り立てる女。藍色の髪はアップにして、二つのお団子型にまとめている。
 ……つまり、絵に描いたような典型的クーロン娘≠ネわけだけど、あまり
にコテコテすぎて、逆にクーロンでは絶対に見かけない変人に仕上がってしま
っている。

 シルク地のドレスは闇より深い漆黒で、金糸で縫われた紋様の他に、胸元に
はアクセントとして薔薇の刺繍が咲いていた。際どく切れ込んだスリットから
伸びる白い素足は、性別を問わず視線を吸い付ける。
 ……変な格好だけど、似合っているのは、まぁ確かだ。それでも変という事
実は揺るがないけど。

 そもそも名前からしておかしい。リュイ(驢馬)でチャンウェイ(薔薇)だ
なんて。明らかな偽名だ。あまりに呼びづらいから、あたしは小姐(シャオジ
エ)と呼ぶことにしていた。
 年齢は、容姿から察すると二十歳前後。でも人間かどうかすら不確かなんだ
から、外見年齢なんて当てにもならない。一から十まですべてが胡散臭い女だ
った。そんな時代劇に出てくる町娘の格好で、なにが魔法使いだ。

 シャオジエはクーロンの人間ではない。自家用のリージョンシップで世界を
飛び回る根無し草だった。クーロンはリージョン旅行の基点だけあって、月に
一度は寄ってくる。その時があたしの診察の日となるわけだ。

 ……あたしは、生まれついてのリスクを抱えている。この蜥蜴の肉と/眼と
/刺青は、あたしの小さな器から溢れる過分な道具≠セった。
 マーマに拾われた頃は魔眼の制御のしかたも知らなかったため、毎日のよう
に高熱を出しては倒れていた。このまま衰弱死すると危ぶんだマーマが頼った
のが、この魔法使いサマだ。
 あたしの右眼の使い道を教えてくれたのはマーマだけど、使い方を教えてく
れたのはシャオジエだ。その他にも、躰の負担を軽減するために色々な心霊施
術を行ってくれている。シャオジエの定期診療は、あたしが生きる上で欠かせ
ない習慣だった。もう十年繰り返している。支払った金額は数えたくもない。

 ―――心霊施術なんて超高等医療を受けている奴、このクーロンでいったい
どれだけいるんだろうな。

46 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/19(金) 21:23:34


 診療所の場所―――つまり、シャオジエと会うのは決まってこのペントハウ
スだった。彼女は〈針の城〉はおろか、中心街にも共同租界にも出ようとはし
ない。逗留生活はシップ港の敷地内でいつも完結していた。
 治安の悪さを気にしているんだろうか。……その割には、マーマみたいな物
騒な商売人と友達だったりするし。よく分からない。彼女のことで分かること
なんて、なにひとつない。―――それでも、マーマがああなってしまった今、
頼れる大人≠ヘシャオジエしかいなかった。
 変人だし奇人だけど、正しくあたしの姉貴分だ。

「ねえ、シャオジエ」

「ん、なにアルか」

 シャオジエはトランクから施術道具を広げている。

「クーロンの外ってさ、どういうとこなんだろ」

「……火蜥蜴の。あなたさっきから話飛びすぎヨ。ワタシと会話する気あるの
なら、もうちょっと話の筋道を立てて欲しいネ」

 彼女のクーロン訛りはほんとに嘘くさい。十年来の付き合いだけど、未だに
慣れない。けど、それを指摘すると施術中になにをされるか分かったものじゃ
ないから、あたしは黙っている。

「―――誘われちゃったんだ、あたし」

外≠フ住人であるシャオジエの意見が聞きたい。あたしは一ヶ月前の運命
的な出会い≠ゥら今日の別れまでの経緯を掻い摘んで説明した。
 もちろん、リリーの正体については適当に脚色して誤魔化している。いくら
シャオジエでも……いや、大切なシャオジエだからこそ、下手に真実を明かし
て、〈針の城〉の入り組んだ事情に巻き込みたくはなかった。

「ロマンチックな話アルねぇ……」

 話を聞き終えたシャオジエは溜息を漏らした。

「迷惑千万な話だよ」

「そうアルか? 女冥利に尽きるアル。ワタシなら手籠めにして、目一杯愛玩
するヨ。飽きたらさよならして、クーロンに戻ればいいだけネ」

 シャオジエはしれっと言う。……魔女というより、ただの人でなしの言葉だ。

「そうじゃなくて、お姉様に聞きたいのは外≠ノついてのお話。あいつがそ
んなに恋い焦がれるほど、外≠ニやらは素晴らしいものなのかい」

「外≠セけじゃ抽象的過ぎるアルよ。退屈なリージョンもあれば、奇天烈な
リージョンだってアルある。……でも、ただ別のリージョンに行ってそこで新
しい生活をしたいだけなら、クーロンのほうがスリリングで飽きが来ないかな
ぁ……とは思うアル。ワタシ、クーロン好きヨ」

 それは観光者の意見だな。あたしは胸のうちで嘆息する。
 クーロンで生活しているあたしからすれば、生きるために生きる毎日は絶対
に好き≠ニ言えるようなものじゃなかった。

47 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/20(土) 21:44:39


「お悩み相談もよろしいけれど、そろそろ本業のほうもさせるアルね。さっさ
と裸になって、ベッドに仰向けになるよろし。優しくしてあげるヨ」

「語弊のある言い方するよなぁ」

 あたしは渋々とブルゾンとニットセーターを脱ぎ、下着姿になった。躰を切
り開くことが目的じゃないから、下までサービスする必要はない。
 警戒心を露わにしながらクイーンサイズのベッドに横たわる。シャオジエは
指先であたしの肌をなぞるようにして身体の調子を検めた。さすがにプロだけ
あって、手つきにいやらしさはない。

「前に診たのはいつだたカ」

「一ヶ月と半分ぐらい前かな」

「休息はしっかり取ってるアルか」

「ぼちぼち」

「嘘ね」

 シャオジエは断言する。くりくりと動く大きな瞳で凄まれると、あたしはな
にも言えなくなってしまう。愛敬に富む顔作りなのに、どうしてこんなにも迫
力があるんだろうか。

「火蜥蜴の。オマエ、まだ不眠癖治してないのか。オマエが眠くならないのは
脳みその歯車がちょと狂ってしまっているからなだけで、眠らなくても生けて
いけるってわけじゃないアルよ。無茶な生活続けていたら寿命削るだけって、
ワタシ何十万回も言った。どうして改めないアルか」

「忙しいんだよ」

 半分嘘で、半分本当といったところか。
 故買屋の商売に定時なんてないし、マーマから引き継いだ利権関係の仕事が
あたしの時間を食い潰している。それに加えて趣味の心霊工学と死体いじり。
一日の時間が倍になっても足りやしない。
 けど、あたしが睡眠を遠ざけるのはそれが理由じゃない。……単純に、寝る
のが嫌いなんだ。いやな夢を見るから。

 夢の中では、必ずあたしはあたしでなくなる。男の場合もあれば女の場合も
あるけど、イーリンであることは絶対にない。まったく別の性格をして、まっ
たく別の思考をしていて、見たこともない世界で生きている。

 太陽を何度も見た。クーロンの日常とは無縁の陽光を、あたしは夢の中で幾
度となく目にしていた。あたしではないあたしが、太陽が浮かぶリージョンで
生きているんだ。

 あたしという自己が薄らぐ。気持ち悪かった。悪夢としか思えなかった。
 うなされて目を覚ます度に、あたしは自分の躯を自分で抱いて、そこに火
蜥蜴のイーリン≠ェいることを確かめる。自分が自分で無くなってしまう感触
は、何百何千と体験しても慣れるものじゃない。
 どうして夢の中で、赤の他人の生と死を繰り返さなくてはならないのか。

 昔から睡眠をとるのは嫌いだったけど、一年前まではマーマが口うるさかっ
たため、睡眠薬を飲んで強引に躰を休めていた。いまはあたしの躰を気にかけ
る奴なんて誰もいないから、滅多なことでは横にならない。ベッドで寝るぐら
いなら、仕事中にぶっ倒れたほうがマシだとさえ思っている。

48 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/20(土) 21:44:58


「怖いんだ……」

 胸元に置かれたシャオジエの手を握る。

「あたしはあたしでいたい。あたしじゃなければイヤだ。他の誰かになるなん
て耐えられない。だから、お願いだよシャオジエ。今日はあたしを睡らせない
で。あたし、痛くても我慢するから。このまま診てくれよ―――」

「火蜥蜴……」

 シャオジエのかんばせが珍しく真剣味を帯びた。
 ……が、すぐに崩れた。

「それは無理な注文ネ。意識が覚醒している状態だと、診られるものも診られ
ないアル。大人しく寝付いて幸せな夢見るヨロシ」

 あたしの手をほどくと、シャオジエは手のひらに魔法円を展開させた。肉眼
でも視認できるほど強力なサークル。魔法使い≠フ自称は伊達じゃない。

「てめえ……」

「大丈夫よ。お脳も休んでもらうから夢は見ないアル。安心して休むがいいネ」

「信用できねえ」

「言葉遣いには気を付けるアル」

 シャオジエの笑顔。人間どころか、虎すらも喰い殺しかねない笑顔。
 やばい、と戦慄したときには遅かった。シャオジエはにっこりと笑ったまま
魔法円を握り潰す。麻酔で眠らせるのはやめたんだ。
 ということは、つまり―――
「覇!」のかけ声と同時に、みぞおちに鉄拳が突き込まれた。うめき声をあげ
る暇も、痛みに悶える余裕も与えてはもらえなかった。
 あたしの意識は闇に削り取られ、一撃のもと昏倒する。

 ―――昔からそうだ。昔から大人げのない女だった。
 子供みたいにあたしにじゃれつき、見様見真似のカンフーでいじめてくる。
 見かけばかりの模倣術のはずなのに、やたらと堂に入っていて、昔はいつも
泣かされていたっけ。
 腕力で訴える魔法使い。つくづくわけの分からない姉貴分だと思う。


                  * * * *


 結局、夢は見てしまった。
 いままでとはおもむきの異なる、変わった夢だった。
 クーロンではないどこか。
あたし≠ヘ如何にもといった感じのお嬢様な容姿をしているのだけれど、な
ぜか服装は真っ白な死装束で、しかも土に汚れていた。

 目の前には、寒気がするほど美しい女が立っている。
 美しいといっても女性的な印象が欠落していて、絵本に出てくる王子様のよ
うな格好をしていた。髪型は手の込んだショートヘアで、浅葱色に燃えている。
 緑と藍が入り交じったかのような不可思議な色。

49 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/20(土) 21:45:15

 
 女は真紅の瞳であたしを睨んでいる。
 向けられる殺意は、鋭すぎて肌が切り裂けそうだ。
 ああ、憎まれているんだな、とあたしは思った。

 視界が反転する。景色が流れる。
 あたしの意識など気にも留めず、あたし≠ヘ逃げていた。殺意を迸らせる
女から逃げていた。『ついてねえ』だとか『変な死体を選んじまった』とか悪
態を吐きながら逃走する。

 女が追ってくる。容赦なく、慈悲もなく、死神の靴音を響かせて追ってくる。
あたし≠ヘ抵抗もそこそこに逃げる。実力差が違いすぎる。勝負にならない。
相手はバケモノの中のバケモノだ。

 どうしてこんな状況になってしまったのか。逃げた先に、どんな運命が待ち
構えているのか。あたしにはまったく分からない。
 趣向こそ違うが、やはりこれもいつもと同じ悪夢だった。
 あたしがあたしでなくなってしまった悪夢。究極の他人事。別の誰かが、ま
ったく別のリージョンで、別の人生を過ごす。

 違和感があるとすればそれは―――そう、その別人サマの人格は、常に決ま
っているような気がする。……そんなわけ、あるはずないのに。だって、あ
たし≠フ姿は夢を見る度に変わっているんだ。同じ人物だったことは一度とし
てない。なのに人格は同じだなんて、あり得るものか。

 女/死神があたし≠ノ追いついた。
 振りあげられた刃に月光が反射する。
 女の眼は、涙で濁っていた。
 ……まさか、泣いているのか。
 我が目を疑った次の瞬間、あたし≠フ胸に朱色の花が咲いた。

 あたしは死んだ。


                  * * * *


 眠っていた時間は三時間。診療なんていつもは一時間もかからないのに、シ
ャオジエが起こしてくれなかったせいで無駄な時間を重ねてしまった。

 悪夢に飛び起きたあたしに「早上好(ツァオシャン・ハオ)」なんてほがら
かに挨拶してくるシャオジエには、枕の一つでもぶん投げてやりたかったけれ
ど、報復の恐ろしさを考えると、上衣を引っ掴んで荒々しく部屋から出て行く
ことぐらいしかできない。
 乱暴に足音を立てながら玄関を目指すあたしの背中に、「今回は旅程の都合
で、一週間ほど留まることになったネ」と言葉がかかった。
 なんて珍しい。
 この十年間、彼女はクーロンに三日と居座ったことはなかったのに。

「いつでも遊びに来るヨロシ」

 返事はドアを閉める音。ちょっと冷たいかな、と一瞬だけ後悔したけれど、
あんな悪夢を誘発してくれた女に気を使う必要ないとすぐに考えを改めた。
 あたしは忙しいんだ。
 クーロンは常夜のせいで時間の感覚が狂いやすいけど、一日の区切りははっ
きりと存在する。スケジュールが埋まっているあたしには、三時間も眠る余裕
なんてなかった。今日はグオワンホテルにグランドピアノを売り込まなくちゃ
いけない日なのに。急がなければ遅刻だ。

50 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/23(火) 22:04:17


 クーロンが不夜城と呼ばれる理由のひとつは、社会的な意味合いでの夜
が存在しないからだ。終わらない夜というのは、夜の価値を見失わせてしまう
らしい。―――どの時間に業務を初めて、どの時間に終わるのか。いつ起きて、
いつ寝るのか。それらは家族や人種、会社や部隊といった集団ごとに異なる。
 生活時間を他者と合わせようという殊勝な心がけをもった人間は少なく、み
な他人が寝こけている時間に活動することがいちばん利に繋がると信じていた。
 お陰でクーロンにはコアタイムというものが存在せず、どの時間帯を切り取
っても、ひとは均等に起きていて、そして寝ていた。
 
 あたしの事務所の場合は、更に事情が特殊だ。
 トップのあたしは不眠症。事務担当のロートルは事務所に居住する引きこも
り。肉体労働担当のハダリーは屍体のため、人間が必要とするような休息はと
らない。―――三人が三人とも、常識からかけ離れた生活をしているため、必
然、営業時間なんてものも存在しなくなる。「仕事あれば働くし、なければ休
む」という故買屋としては理想的な就業形態になっていた。
 だから、どんな時間に事務所へ訪れようと、最低限の応対はされる。

「オハヨウゴザヰマス、社長」

 ……ただし、こんな応対でもよければ、の話だけど。

「社長はやめろって言ってるだろ、ハダリー」

 腰を屈めて掃除機をかけるハダリーの背中を挨拶代わりに蹴飛ばす。びくと
もしないどころか、逆に弾き返された。筋肉の状態は依然として良好だ。

「ハダリーは掃除好きだよな」

「さぼルト、社長ニ怒ラレマスカラ」

 うーん、かわいくない返事だ。

 掃除を言いつけるのには理由がある。
 別にあたしに小姑気質があるわけじゃない。
 
 クーロンは妖魔租界戦争以後、〈針の城〉以外の土地は霊力場としては貧弱
な地相に書き換えられてしまったが、それは天然もの≠ェ育ちにくいという
だけで、人為的な術≠ノ対する抑止力にはなっていない。むしろ、地相が潔
癖なぶんだけ、呪術などの効果が顕現しやすい。
 あたしみたいに何かとひとの恨みを買いがちな商売をしている場合は、神経
質なぐらい怨霊掃除機で簡易除霊をかけておく必要があった。
 掃除/除霊をサボったせいで、巨大化した悪霊に金庫を喰われただとか、火
事を誘われただとか、そういう被害は〈針の城〉の外でも多い。気を付けるに
越したことはないんだ。
 ……まあ、的にされるのは悪辣な金融業者だとか、牧場≠経営する人買
いだとかが大半だから、自業自得と言えばそうなのだけれど。

「ま、掃除もいいけど、仕事が待ってるからさ。区切りのいいところで工房に
上がってきたよ」

 ハダリーは「ハヰ」と返事すると、再びがーがーと掃除機をかけ始めた。 

51 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/23(火) 22:07:50


 グランドピアノをホテルまで運ぶ。そのために、ハダリーの調整≠ヘ必
要不可欠だった。―――牛頭の彼女の仕事は、トラックの荷台でしっかりと
ピアノを保持すること。劣悪な路面にべこべこの荷台。傷一つつけずに運ぶ
には、人外の膂力を繊細に使いこなさなければならない。

 ハダリーの躰はミノタウロスの死体だ。筋肉や骨に停滞≠フ呪文をかけて
防腐処理はしているものの、死んでいるという事実は揺るがない。血は枯れて
いるし、心臓も止まっている。
 彼女の躰はただの器≠セ。動かすことだけが目的なら、別に死体に拘らず
とも、人形でも紙コップでもなんでも構わない。どんな無機物でも、魂を宿ら
せれば霊的な活動は可能だ。―――けど、より高度な動き、人間に近い機能を
求めるのならば、やはり死体が望ましい。生命の肉体に勝る器≠ネんて、こ
の世には存在しないのだから。

 ハダリーの躰は死んでいる。では、死体を動かかすものはなにか。魂≠セ
けでは十全な答えにならない。この場合、霊的に駆動させるためのエネルギー
―――妖力だとか魔力だとか、そう呼ばれる類のものが必要となる。
 魂そのものにもエネルギーは内包されているが、より高機能を求めるならば、
頭脳とは別にエンジンを作ったほうがいい。魔力を生み出し、それを全身に循
環させる心臓。―――ハダリーの場合は、それが右眼に埋め込まれている。

 機関(エンジン)と呼ぶより増幅器(ブースター)と呼ぶべきか。それは莫
大な魔力を秘めた金緑石だった。

 五年ほど前にマーマからお守り≠ニして渡されたものだ。
 猫の瞳みたいな宝石だったから、初めの頃は金属にはめ込んで首飾りにして
いたけれど、その価値に気付いてからは魔力の源泉として使うようになった。

 魔石の中でも格別に霊的純度が高いものなのだろう。下手にナイフなどで疵
を入れれば、街ひとつ吹き飛ばし兼ねないほどのエネルギーを無限に回転させ
ている。魂の価値を底上げするには最適の媒体。ただ石を開放するではハダリ
ーの躰が消し飛んでしまうから、彼女の魂≠ナある人造霊とは別に、魔力量
調節の役割を担う魔石管理≠フ人造霊を右眼に組み込むことにした。
 ひとつの躰に二つの魂。
 ……これが、この人造僵尸の複雑さの原因になっていた。

 一般的な常識を持ち合わせる憑依術者なら、魔石管理の人造霊は肉体管理と
人格を受け持つ人造霊ハダリー≠フ支配下に置かせるだろう。魔石の出力調
整は、ハダリーの意思で行えるようにするんだ。
 ……けど、あたしはハダリーの人格を極力人間に近く、自由意思に基づいて行
動するよう設定している。知識も書き込むのではなく、自分で覚えるよう促して
いる。お陰でいまの彼女がいるわけだ。―――あんな頭のタリナイ筋肉ダルマに、
ソロモン級の魔石を自由に管理させられるものか。洋服箪笥を運ぶために全開放
など、血迷った真似を平気でしかねない。
 魔石管理は独自の権限を持つ人造霊にやらせる必要があった。

 魔石の人造霊猫睛石(びょうせいせき)

 この無人格の人工魂魄と、ハダリーの支配率≠いじることで、用途に応じ
た仕様になる。猫睛石(びょうせいせき)≠フ支配率を高めれば身体能力が上
がる代償として理性が薄れ、暴走気味になる。ハダリーの支配率を高めれば供給
される魔力が少なくなるため身体能力は下がるけど、使用効率が上がるから頭は
良くなる。細かい仕事もできるようになる。

52 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/24(水) 00:02:18


 猫睛石の支配率を一割弱まで落とし込む。あまり出力を絞りすぎると今度は
猫睛石が活動目的を見失って暴走する可能性があるため、あまり長くは続けら
れない。三時間が限界だろうか。積み卸しや輸送にそこまで時間はかからない
けど、商談が長引くと帰宅が遅れる。出先で支配率を調整するのはゴメンだ。

「さっさと終わらせて、帰りに屋台でオレンジジュースでも飲もうぜ」

「はい、社長」

 魔力供給が抑えられたハダリーは動きが機敏だ。ただし、人間味は損なわれ
る。あたしがプログラムしたことしかできなくなる。
 それは使い魔としては理想的なのだろうけど、予測不可能な進化≠求め
るあたしとしては、ハダリーにトラックやスクーターと同じ道具≠ナ終わっ
て欲しくないという思いがある。……成長や進化はただ時間を重ねても始まら
ない。燃焼するエネルギーをぶち込んで初めて歯車が回り始めるんだ。そのた
めにはやはり、魔石が必要だった。

 ピアノを何枚もの毛布で丁寧にくるみ、ロープで荷台に固定する。それを更
にハダリーががっちりと押さえて、ようやく準備完了だ。
 あたしはトラックの運転席に座って、エンジンを吹かした。

 珍しくロートルが見送りに立っている。二階の窓越しからだけど。
 あたしは適当に手を振ると、アクセルを踏みこんだ。


                  * * * *


 クーロンには自動車用の道路なんてないから、出せるスピードにも限界があ
る。あたしのトラックも普段は成人男性の全速力程度で走行していた。遅いと
は思うけど、積載量の多さを考えれば充分に便利だ。
 今日のように最高級の商品を運ぶ場合は、更にスピードを落とす。徐行と呼
んでも差し支えがないぐらいまで。トラブルの芽は可能性の段階で摘むのが長
生きの秘訣だ。
 ……けど、そのやり方ははっきり言ってイライラする。かっ飛ばせば十分で
辿り着ける距離を一時間かけて進むなんて納得がいかない。

 こういうとき、いつもならハダリーが愚にもつかない質問をしてくるから、
雑談で苛立ちを誤魔化せるのだけど、いまはお人形モードだからそれも期待で
きない。あたしは指先でハンドルをこつこつと叩きながら、フロントガラス越
しに代わり映えのしない街の風景を眺めた。

 あんな夢を見せられたせいで、無駄に気が立っている。
 それに、リリーのことも頭から離れない。

 せっかく歩み寄ろうと思ったのに。外≠ノは行けなくても、マフィアの目
を盗んで一緒に遊ぶぐらいの関係にはなれると思ったのに。
 どうしてあんな風にいなくなってしまったのか。また一週間ほど経てば、い
つものようにあたしの部屋に忍び込んできてくれるのか。

 思わず独りごちてしまう。

「……どうしてダージョンは、リリーを閉じ込めるんだろうな」

53 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/24(水) 00:02:27


 あんな桁外れの魔力を持った小娘を野に放てるはずがない。それは理解して
いる。けど、そんなのが監禁の理由ならば、さっさと殺してしまえばいいのに
とあたしは思う。幽閉して、それで誰が利を得るというんだ。

 リリーは外に出たがっている。それはつまり、火焔天での生活は退屈だとい
うことだ。―――あたしは、クーロンの生活を辛い≠ニ思ったことこそ多々
あれど、退屈なんて感じたことは一度もない。

 ……リリーは、かわいそうな子なのかもしれない。

 生きているならそれで満足だ。クーロンではそう嘯く奴が多い。あたしもリ
リーにそう諭したことがある。生きるために日々を過ごすことに忙殺されてし
まった者の泣き言。―――中には、マーマの境遇すら羨む奴もいた。阿片吸っ
て毎日を夢うつつに過ごせるなんて、最高の人生じゃないか、と。

 けど、それは違うだろう。

 いまのマーマはただ心臓が動いているだけだ。死体のハダリーのほうがよっ
ぽど人間らしい。だけど、誰もハダリーになりたいとは言わない。
 どうしてだ。
 ハダリーには理由≠ェあるじゃないか。生きていく上での目的を確立させ
人間に近付きたい≠ニいう欲求に基づいて日々学習を積み重ねている。阿片
に溺れる老婆よりもはるかに人間らしく生きているのに。
 確かに、ハダリーの理由≠ヘあたしが与えたものだ。人間を目指せ、とあ
たしがプログラムした。でも、切っ掛けに貴賤なんてない。問題は自分の中に
生きていく価値を見つけられるかどうかだ。
 ハダリーはそれを持っている。……だから、あたしはハダリーが羨ましい。
同じように、リリーも羨ましかった。

 彼女はいままで死んでいたんだろう。目的を持つことを許されず、ただ生き
るためだけに生かされる日々。火焔天は彼女の棺桶だったに違いない。
 けど、リリーは見つけた。外≠ヨの道を。目的を。理由を。価値を。
 火焔天の外を知ったいまのリリーは、間違いなく生きている。

「くそっ」

 ハンドルを殴る。

 リリーはかわいそうな子だ。この歳になるまで、自分の価値を見出せずにい
た。けど、リリーは恵まれたガキだ。だって、彼女は外へ行きたい≠ニいう
目的を抱いてしまったから。生きる上での原動力となる理由≠見つけてし
まったから。―――いまのあたしには、理由も目的もない。どっちも見失って
しまった。マーマの喪失とともに。

 このままクーロンで、ケチな故買屋として一生を終えるのか。

 脳裏によぎる焦燥。あたしは愕然とする。
 ……こんなこと、いままで考えたこともなかった。
 マーマのためにも、あたしのためにも、故買屋の仕事は続けていかなくちゃ
ならない。金が無くなれば、マーマもあたしもあっという間に地獄行きだ。生
きるために生きる。当然のように、その境遇を受け容れていたはずなのに。

 もう、限界なのかな。

54 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/24(水) 00:02:43


 一年努力した。マーマがああなってしまったことで欠落したあたしの価値を、
生きる≠ニいう目的で代替した。マーマに認められたい、マーマの力になり
たい。そういった感情はすべて、マーマを失いたくない≠ニいう絶望に変換
した。……でも、これ以上はもう無理だよ。

 狂気に期待していた。狂ってしまえば、いまの境遇にも価値を見出せるかも
と甘い考えに未来を託していた。けど、あたしの正気は予想以上に頑健だった。
 認めたくなくても、理性が認めてしまっている。
 マーマは、もう―――


 ―――そのとき。ふと覗いたサイドミラーが、見慣れない影を写した。
「なんだあれ」と声に出して呟いてしまう。

 四つに木製の車輪に篭が乗っかって走っている。例えるなら、馬車が馬に牽
かれず自走しているような。どこかで馬に逃げられたのか。
 ……いや、違う。あれは蒸気自動車だ。
 黒い煙を吹き出しているのが何よりの証拠だというのに、あまりに不格好過
ぎてすぐに気づけなかった。
 馬車に蒸気機関を乗せただけの粗悪な乗り物。エンジンの無駄遣いだ。その
癖、一丁前にスピードだけは出している。
 すぐにあたしのトラックの横に並び、そして―――そして、減速した。

 御者と言うべきか、運転手と言うべきか。黒いインバネスコートに黒いボー
ラーハットという黒装束の男が、これまた黒い拳銃の銃口をあたしに向ける。
 冷たく暗い銃口を。
 
「ハダリー! ピアノを!」

 守れ、と叫び終える前に衝撃が走った。口を開くより疾くハンドルを右に切
っている。鉄製のトラックが木製の蒸気自動車に体当たりをしかけ、馬力に任
せて押し潰した。どんなにオンボロでも、こっちはクラック・エンジンを搭載
しているんだ。馬力が違う。
 拳銃の銃爪は引かれたみたいだけど、弾があたしを貫くことはなかった。

 蒸気自動車は左側の二輪を破壊され、シップが墜落するように地面に倒れこ
む。バックミラーを睨みながら「強盗か?」と呟くのも一瞬、あたしはすぐに
目を見開き、驚愕に声を失った。

 自動車が立ち上がった。比喩ではなく、本当に立ったんだ。
 左側は車輪が破壊された部位か。右側はスポークの隙間から、先の細い多関
節の足≠ェ何本も伸びて車体を支えている。
 あれじゃまるで蜘蛛じゃないか。
 巨大な、蜘蛛。

「まさか―――」

 あれは蜘蛛そのものなのか。

 蒸気自動車の外見は、街中で目立たないよう隠れ蓑にしていただけで、本体
はエンジンかどこかに隠していたのか。妖魔は魔物を道具に憑依させる術に長
けているというけど、あれがそうなのか。
 蒸気自動車が破壊された拍子に蜘蛛の魔物が実体化したと言うのなら、バッ
クミラーに映る非現実も一応は納得できる。あれは巨大蜘蛛のモンスターだ。

 けど、どうしてあたしを追う!?

 魔物を使った強盗だっていうのか。こんな街中で? そんな莫迦な。

55 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/24(水) 23:43:38


 絹を裂くような悲鳴が響く。なんともお上品な恐怖の表現。どこかの不幸な
ご婦人が巨大蜘蛛と出くわし、その場で卒倒してしまう。付き人も恐怖に竦み
上がって動けないでいた。
 ここは既に租界の一部。閑静な住宅が並び、街灯が穏やかに道を照らす。
 租界の人口密度は中心街の一割以下だけど、居住者は中産階級以上の紳士淑
女ばかりだから、こういった凶事には慣れていない。いまのご婦人サマがいい
例だ。このままではパニックが起きかねない。

 租界で問題を起こすのだけは避けたい。魔物の一匹や二匹、駐留軍が華麗に
仕留めてくれるだろうけど、その場にクーロン人のあたしが居合わせたら、罪
をなすり付けらるに決まっている。
 租界の司法はクーロンから独立している。ここではあたしが外国人≠セ。

「バックれるしかねえな!」

 クラック・エンジンの出力を上げて、一気に加速する。もはや積み荷をどう
こう言うような状況じゃない。一刻も早くこの場から離れないと。
 だけど、市街で出せるスピードなんて自ずと限られる。中心街のような雑多
な人混みでこそないものの、街中を歩く人影は目立った。

 危うく人を轢きかけてしまい、ハンドルを切ってしまう。舌打ち。僅かな失
速だけど、魔物は一瞬の隙を見逃さなかった。

 バックミラーに広がる脅威の光景。巨大蜘蛛は八本の足をバネに変えて跳躍
する。足場に選んだのは街灯の尖端。その体躯からは想像もできないほど軽や
かに乗っかるものの、やはり街灯は重みに耐えきれず、鉄の支柱をぐにゃりと
曲げた。……が、巨大蜘蛛は素早く別の街灯に飛び移って難を逃れる。
 あとはその繰り返しだ。
 軽業師の如き体捌き。街灯から街灯へと跳ぶ魔物は、遮られるものがないた
めあっという間にトラックとの距離をゼロに変えた。
 
 ―――蜘蛛の背中に乗るインバネスコートの男は、いったいどんな表情であ
たしを追い詰めているのか。

 八本足のフライングボディプレスがトラックの荷台に直撃する。衝撃であた
しの躰はシートから跳ね上がり、肩をフロントガラスに激突させた。
 トラックは積載量を大幅にオーバーさせたまま路面を滑り、二階建ての民家
の玄関に頭から突っ込む。
 運転席が潰れる直前、あたしはドアを蹴破って外に躍り出た。宙で躰を回転
させて、足から綺麗に着地する。踵が土を引っかき、地面に疵痕を残す。

 確かめるまでもなくトラックは全壊だった。運転席は壁にめり込んで潰れ、
荷台は蜘蛛の着地点を中心に折れ曲がっている。
 ……最悪だ。仕事道具を失ってしまった。明日からなにを足にして商品の回
収と輸送を行えばいいのか。
 クーロンでは手に入らないものはないと言っても、自動車を非正規のルート
で買い付けるには時間も金もかかる。

「弁償は……期待できねえよな」

 巨大蜘蛛の四対八個の眼が一斉にあたしを睨んだ。
 禍々しい血色に染まった瞳。
 あたしは痛めた肩をさすりながら、超常の生物と相対する。蜘蛛の背中から
あたしを見下ろすインバネスコートの男は、不気味なまでに無表情だ。

56 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/24(水) 23:48:25

 あたしはやれやれ、と嘆息する。
 トラックの損失は痛い。痛すぎる。だからこれ以上の無駄な出費は控えたい。
 例えば、蜘蛛の腹の下に敷かれているグランドピアノとか。
 あれが無事なら涙は飲み込める。

「……ハダリー、あたしの言いつけは守ったかい」

 返事はない。
 やっぱりあの調整では無理か。あたしは更に深く溜息を吐く。トラックに加
えてピアノまでスクラップになってしまったら、あたしは三日くらい立ち直れ
ないかもしれない。故買屋を初めて以来の記録的大赤字だ。

 奇蹟を期待するか? ……いや、無理なものは無理だ。ピアノはハダリーご
と潰された。残酷な真実。あたしは「守れ」と言ったのに。

 巨大蜘蛛は八本足を地面に突き立て、トラックの荷台(だった粗大ゴミ)か
ら降り立った。そのままかさかさと地を這ってあたしに接近する。
 ……莫迦な奴。そのまま押し潰していれば、身動きが取れなかったのに。

「―――ハダリー、今度はあたしを守れ」

 トラックの残骸から一筋の影が飛び出す。牛面を悪魔の仮面で隠した人造僵
尸。衣服に損傷はあるものの、筋肉の鎧は無傷のまま、ハダリーは背後から巨
大蜘蛛に掴みかかった。
 ……が、あっさりと振り払われる。ハダリーは派手に宙を泳ぎ、トラックが
突っ込んだ民家に背中から激突した。

「……弱い」

 一割だと厳しいか。

 なら、

「―――猫睛石、喰え」

 支配率変換。人造霊ハダリー≠ェ魔石寄り≠ノ調整される。魔力の供給
量が跳ね上がった代償として、彼女は人格を暴走させながら再起動した。

 いま、ミノタウロスの躰を動かしているのはハダリーであってハダリーでは
ない。ハダリーの魂魄を通して顕現した魔石の代替霊猫睛石≠セ。
  
 魔力を孕んだ咆吼が夜を震わす。

 ハダリー―――いや、猫睛石はその場で四つん這いになった。尻を持ち上げ、
前足≠ナ地面を引っかくように突き立てる。
 牛が突撃する姿勢とは明らかに異なる猫の威嚇の如きポーズ。腰の細い女が
やれば様になるんだろうけど、全身を筋肉で固めた牛頭の魔物が背をしならせ
ても気持ち悪いだけだ。

 猫睛石の支配率が高まると、なぜか彼女は猫の動作を行うようになる。猫睛
石は無人格だ。癖なんて持っていない。だとすると、あれは魔石の特性なのだ
ろうか。魔石から流れる魔力が人造霊の行動パターンに影響を与えていると。
 真相は分からない。ただ、こうなってしまったハダリーは無敵だ。

 ハダリー/猫睛石が地面を蹴った。自身の体躯を一個の弾丸に変えて、空気
の壁を撃ち貫く。桁外れのスピード。あたしの視力でも視認は不可能。

 目前まで迫っていた巨大蜘蛛は横合いから襲いかかった衝撃に軌道を強制的
に変えさせられる。
 吹き飛ばされた蜘蛛は軽やかに受け身を取るが、追撃までは捌けなかった。
 ハダリー/猫睛石は巌の拳を爪に見立てて、蜘蛛の顔面を切り裂く。あたし
が瞬きする間に、八つの瞳すべてから明かりを消し去ってみせた。

57 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/30(火) 22:30:17


 ミノタウロスはただでさえ強力な魔物だ。それに加えて、肉体改造により筋
力を強化し、魔力でポテンシャルを底上げされている。純粋な戦闘能力ならば、
上級妖魔とだって対等に渡り合える自信があたしにはあった。
 アトラナートの巨大蜘蛛程度では絶対に太刀打ちできない。

 ハダリー/猫睛石の解体ショーが始まった。すでに事切れている巨大蜘蛛に
更なる攻撃を加える。返り血があたしの足下にまで飛び散った。
 怨恨すらこの場に残すことを許さない。絶対的な屈服を強いているんだ。
 ……あたしはそんな物騒なプログラムはしていない。
 恐らくはこれも、魔石の影響。

 巨大蜘蛛の背中に乗っていたインバネスコートの男は、いまは地面に放り出
されて無様に這い蹲っている。あたしは鷹揚に歩み寄ると、無言で男の腹を蹴
飛ばした。小娘の蹴りとはいっても、あたしの力なら人間は軽々と吹き飛ぶ。

「どこの誰かは分からないが、租界の軍警に引っ張られる前に、ちょっとあた
しの事務所まで付き合ってもらうぜ」

 男は何事かを呻きながら、よろよろと立ち上がる。痛々しい立ち振る舞い。
やはり召喚主自身は特別な力を持っていないようだ。

「ここで雑談している余裕はないんだ、さっさと―――」

 男がコートに手を突っ込んだ。出てきたのは、つや消し処理された黒い拳銃。
震える手で銃把を保持している。銃口は当然、あたしに向いていた。
 銃爪にかけた指に力が入る。

「おい、やめろ!」

 弾けた。―――男の胸が。
「あたしを護れ」という命令を遵守したハダリー/猫睛石が、握り拳程度の石
を男めがけてぶん投げたんだ。音速を突破する速度で投擲された石は、着弾の
衝撃でばらばらに砕けて、男の体内に飛び散ったに違いない。
 ……即死だ。

「馬鹿! 抵抗なんてしたって!」

 自殺同然の愚行。魔物の抵抗すら退ける相手に、拳銃程度で切り抜けられる
と本気で考えたのか。……あたしのハダリーに人殺しをさせやがって。
 なんて夢見の悪い結末。殺すぐらいなら、逃げられたほうがまだマシだ。

 ここはクーロン。危険な目には何度もあっているし、強盗に襲われたのだっ
て初めてではない。その度にハダリーが返り討ちにしてきた。だけど、殺人は
始めてだ。みんな「相手が悪い」と悟ると尻尾をまいて逃げていった。

 ―――ハダリーにひとを殺めさせてしまった。

 ……いや、違う。あたしが殺したのか。

 手を下したのはハダリーだけど、ハダリー≠ニいう道具を使っていたのは
あたしだ。彼女に責任をなすり付けることはできない。

 罪悪感はない。ショックで足が震えることもない。
 悪いのは相手のほうだと分かり切っている。あの状況で拳銃なんて抜けば、
こっちは殺すしかないのだから。でなければあたしが死んでいる。
 でも胸くそは悪かった。後味も悪ければ寝覚めも悪い。

58 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/30(火) 22:30:56


 軍警が駆けつける前に逃げる必要がある。租界から離れてしまえば、彼等は
追ってこない。中心街の警察権を握っているIRPOに身柄引き渡しを要求するこ
とは可能だけど、租界の人間が殺されでもしない限り、そこまで大きな捜査に
はしないだろう。ろくでなしが殺し合うのは中心街や〈針の城〉に限らない。
 暴力こそがクーロンの日常だ。

 スクラップになった三輪トラックから、数秘機関を抜き出してくるようハダ
リーに指示する。エンジンさえ生きてれば復活は可能だ。
 ……グランドピアノは諦めるしかないけど。
 
 その間にあたしは男の死体に近寄る。こいつも回収していくべきだろうか。
ここに残していけば、殺人の証拠を軍警に握られることになる。どうせ追って
こないとは分かっていても、杞憂は生まれるものだ。
 〈針の城〉ならば死体を「なかったこと」にするのは容易いし、ただ証拠隠
滅したいだけならあたしがパーツとして使えばいい。経費削減。リサイクル。
有機物のエコロジーってわけだ。

 けど、そんなマフィアみたいな真似はしたくないというのが本音だった。
 あたしはあくまで堅気の娘。暴力とは隣接していても、あたし自身が暴力で
はない。例え正当防衛でも、人殺しなんてしたくはなかった。

 取りあえず、死体の素性を簡単に確かめよう。
 年齢は三十代後半から四十代前半。黒ずくめの格好は舞台の衣装めいていて、
着慣れた雰囲気がない。絶命した顔に見覚えはないけど、他に身体的特徴はな
いものか。いざとなったら〈とかげの眼〉を使うまでだけど―――

 そこではた、と目にとまる。

 男の、右手の掌。

 炎龍を簡略化した、記号のような刺青が彫り込まれていた。

「こ、これって―――」

 慌てて地面に転がる拳銃も確かめる。想像通り、銃把に同様の紋様が刻まれ
ていた。……あたしの時間が止まる。考えもしなかった数奇な運命。今なら絶
句したまま窒息死することも可能だろう。心臓さえ止めかねない驚愕。

 ただの強盗だと思っていた。
 魔物を使役するような術者がそんな三流仕事をするのは不可解だけど、あり
得ない話じゃない。食い詰め物はどこにだっている。
 でも、それは現実から眼を逸らしていただけだ。
 強盗の手口ではなかった。男は明らかにあたしの命を狙っていた。
 そして、この炎龍の刺青。

「……こいつはマフィアだ」

 黒社会の人間凶手。〈針の城〉ではなく、中心街に常駐する兵隊。
 
 あたしは今になって殺人の重みに総身を震わせる。とんでもない過ちを犯し
てしまった。凶手がどうしてあたしを狙ったのか。それも気にかかるけど、も
っと重大な問題が目の前でほくそ笑んでいる。戦闘要員とは言え、あたしはク
ーロン・マフィアの構成員を殺してしまったんだ。
 それは疑いようもない敵対行為。

 このリージョンを支配しているのは自治政府でもIRPOでもなく、黒社会だ。
 あたしは、いまこの瞬間から、クーロンの敵≠ニなってしまった。

 あたしの日常が、粉々に砕けた。 

59 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/30(火) 23:01:24


 死体は現場に置いていった。クーロン・マフィアの情報網は正確かつ迅速だ。
あたしが凶手を殺した時点で、事実は知れ渡ったと考えていい。下手に証拠隠
滅したところでなんの結果も生み出さない。

 ハダリーはエンジンを持って事務所に帰らせた。戦闘行為があったのはシュ
ライク租界。ひとまず中心街まで引き上げてしまえば、軍警は手を出せない。
 もし事務所にマフィアが訪れたなら? ハダリーには丁寧に応対しろと言い
つけてある。殺したのはあたしだ。ハダリーは道具に過ぎない。それは向こう
も分かっているはずだし、本気でハダリーの消去≠ェご希望なら、中心街に
待機する凶手じゃ役者不足だ。それはこの結果≠ェ明確に語っている。
〈針の城〉から戦闘部隊を駆り出すぐらいなら、頭のあたしを狙うだろう。

 だから、事務所が問答無用で焼き討ちにあうようなことにはならない。
 ……なんてのは希望的観測だろうか。
 せめてあたしが戻るまでは無事であって欲しかった。

 ―――で、肝心の殺人火蜥蜴はというと。

 いま、クーロンでもっとも危険な場所にいた。
 いちばん近付いてはいけない禁区に足を踏み入れた。
 つまり〈針の城〉。
 黒社会の聖地。


                  * * * *


「リリー!」

 自分の部屋に戻るなり魔女の名を叫ぶ。
「もしかしたら」という期待は一瞬で霧散した。彼女はいない。さすがに、昨
日の今日であたしの帰宅を待ち伏せるなんてことはしないか。
 だけど、ここは〈針の城〉だ。距離は問題にならない。あたしの言葉を魔女
は絶対に盗み聞きしている。
 危険を冒してまで〈針の城〉に戻ったのは、リリーを掴まえるためなんだ。
絶対に呼び出してみせる。

「リリー!」

 だから叫んだ。

「リリー! 聞こえているんだろう。出てこい!」

 何度も。

「リリー!」

 何度も。

「あたしを嵌めて満足か。これで一緒に外≠ヨ行けるとご満悦ってか。淫売
が陳腐なシナリオ描きやがって。……ああ、そうさ。認めてやる。てめえのお
陰であたしはお終いだ。明日にはばら売りされていること間違いなしだぜ。
 ……けどよ、てめえのくそったれな逃避行に付き合うつもりはねえからな。
ここに来たのはあんたに縋るためじゃなくて、あんたに中指を突きたててやる
ためさ。離開、天明見、分別了、我門永別―――じゃあな、魔女め。再見
だけは絶対に言わねえぞ!」

60 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/09/30(火) 23:25:16


「ちょっとちょっとー」

 背後から声がかかる。花が開くような声。―――そのまま花弁が腐り落ちる
かのような、声。

「なに騒いでるの? わたし、いま悲しみに暮れている真っ最中なんだから。
放っておいてくれてもよくない? イーリンに慰めてもらうのは、もうちょっ
と後の予定。あと少しだけわたしはひとりで―――」

 力任せに胸ぐらを掴み上げる。リリーの表情が強張った。悲鳴すら上がらな
い。初めて触れる暴力に彼女はなにを思うんだろうか。そのまま小さな躰を壁
に押しつけた。

「話せ」

「な、なにを―――」

「知らないなんて言わせない!」

「わけがわかんない!」

 白々しいにも程がある。あたしは更に力を強めて魔女を締め上げた。
 シュライク租界のことだ、と耳元で怒鳴る。

「おかしいと思っていたんだ。黒社会があたしを狙うなんてあり得ない。あた
しだけじゃない。クーロンの人間なら、IRPOに指名手配はされてもマフィアの
敵にだけはならないよう細心の注意をするものだからな。連中にあたしを狙う
理由なんてないんだよ!」

 だけど、事実として凶手はあたしを狙った。魔物を使役して。銃口を向けて。
あたしの命を脅かした。―――結果、凶手は死んだ。
 黒社会の仕事としてはお粗末の極みだ。火蜥蜴≠フイーリン様を中心街の
人間凶手で仕留めるなんて不可能に決まっているのに。
 なら、どうしてインバネスコートの男はあたしを襲ったのか。

 あたしの右眼が真実を見据えた。

〈蜥蜴の眼〉が視たのは、誘惑(チャーム)≠フ名残。
 これはマフィアの仕事じゃない。あの男は操られていただけだ。あたしにマ
フィアを殺させるよう、裏で糸を引いていた奴がいる。

 いったい誰が? ―――そんなの、考えるまでもない。

「バッカじゃない?! 本気でわたしを疑っているわけ!?」

「あんた以外の誰が、こんな真似をして得するって言うんだよ!」

「できないわよ、わたし! 不可能なの!」

 リリーは必死で否定する。目縁に涙を浮かばせるのは、息が苦しいからか。
それともあたしに疑われたからか。……白々しい。白々しいけれども、リリー
ならばもっと上手に嘘を吐くんじゃないのか。胸裏であたしは揺れていた。

「わたしが好き勝手できるのは〈針の城〉の城内だけだし! 誘惑≠セって、
対象を支配するんじゃなくて、強力すぎて精神を吹き飛ばして真っ白にしてし
まうものだって―――そんなことぐらい、イーリンだって知ってるじゃない!」

61 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/01(水) 00:34:14


 ……それも、そうだ。
誘惑≠ニいう状況証拠だけであたしは頭っからリリーを疑ってかかったけど、
彼女の力はああいった搦め手に用いるには強力すぎる。火炎放射器で煙草に火
を点けるようなものだ。―――なら、本当にリリーじゃないのか?

「わたし、このままじゃお外に出られないって知っちゃったんだから。お城に
は結界が張ってあって、それをどうにかしない限り、わたしはずーっと篭の鳥
だって分かっちゃったんだから。その問題を解決しないで、イーリンだけ先に
行かせるわけないでしょ?! やるならもうちょっと後にするわよ!」

 ―――そうだった。

 リリーがあたしの前から消えた理由について完全に失念していた。想像通り、
彼女は物理的に〈針の城〉の外へ出られなかったのか。
 そうなると動機すら無くなってしまう。

 リリーから手を離す。ごめんと謝るより先に、「馬鹿!」と胸を突き飛ばさ
れた。……なにを言われてもしょうがない。彼女の言葉通り、あたしは馬鹿だ。
 だけど、リリーじゃないというのならいったい誰が。事態は余計に混迷した。
リリー以外の誰が、あたしをクーロンから追い出そうっていうんだ。

 あたしはうなだれたまま、ソファに力なく腰掛けた。床を見つめても、答え
は浮かび上がってこない。
 リリーの犯行ならば話はシンプルだった。「最悪の悪戯」という分かりやす
い絵図になった。……でも、そうはならなかった。なにも見えないまま、マフ
ィア殺しという事実だけが肩にのし掛かる。
 どうする、どうすればいいんだイーリン。こんなとき、マーマならどんな決
断をした。どうやって危機を乗り切った。

「ねえ、イーリン……」

 怒りより心配が勝ったのか、リリーが躊躇いがちに話しかけてきた。

「わたしからダージョンに言って聞かせてもいいよ。死んだのって使いっ走り
の殺し屋なんでしょ。そんなの大した被害じゃないもの。わたしがダージョン
にお願いすれば、きっと許してもらえるわよ」

「そんなこと―――」

 できるわけがない。
 事態をより悪くさせるだけだ。
 あたしとリリーの関係が紅の魔人サマに知れれば、彼女が火焔天の外へ自由
に出られることまで発覚するということ。マフィア殺しとは比較にならないほ
どの怒りを買うことになる。火に油を注ぐようなもんだ。

「でも、このままじゃイーリンは」

「ああ、間違いなく殺される」

 失笑してしまう。一時間前までは、今日の連続が明日だと信じていた。この
日常は永遠に続くと当然のように受け止めて、焦燥すら覚えていた。
理由なき今日≠どう生きようかなんて、そんな悩みに浸っていたのに。
 ―――まさか、明日が今日と違うものになるなんて。こんなにも突然、日常
が消えて無くなってしまうなんて。

62 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/01(水) 01:11:08


「そんなのイヤ! イーリン、死なないで」

 どさくさに紛れてリリーが抱きついてくる。拒む気にもなれず、あたしは彼
女の頭をそっと撫でてやった。……混乱していたとはいえ、暴力で脅したあた
しを憐れんでくれるなんて。改めてリリーの好意は本物なんだと思い知る。
 感謝すべきかもしれない。リリーのお陰で、ささくれ立っていた感情が静ま
り、優しい気持ちになれた。

「死ぬ気はないよ」

 ほら、微笑みすら浮かべられる。

「死ぬもんか」

「……ほんとに?」

「約束する。絶対に死なない」

 だから焦りもするんだ。事態を切り抜けようと頭を悩ませるんだ。
生きる理由が見当たらない≠ネんて苦悩に苛まれていた癖に、いざ生命が脅
かされると、あたしはこうして生きる道を探している。
 どうしようもない矛盾だ。でも、不快ではない。

「どっちにしろ、クーロンにはもういられないなぁ」

 ぼやくように言った。
 身を隠すにしても限界がある。命を惜しむなら、一分一秒でも早くこのリー
ジョンから離れなければならない。……けど、リージョン間移動には莫大な金
がかかる。それに、マーマを残したままここを離れるわけにもいかない。
 マーマと一緒にクーロンから離れるか。ツテがないこともないけれど、そこ
から先の生活に見通しがつかない。やはり、新しいどこかへ≠ネんて現実味
のある話じゃないんだ。―――でも今は、それと同じくらいここに居残る
という選択肢も現実味が薄れていた。八方塞がり。命を惜しむなら、全てを捨
てて逃げるより他に道はない。
 ……でも、マーマを置き去りにするなんて無理だ。

 マフィアはマーマを殺すだろうか。
 連中は面子を何より重んじる。あたしが捕まらなければ、その矛先を保護者
のマーマに向けても不思議はない。

 死ぬ気はない。死にたくはない。けれど状況が「火蜥蜴が命を差し出しさえ
すれば全ては丸く収まる」と語っていた。
 あたしが死ねばマーマは助かる。

 あたしの思考を遮って、リリーが口を開いた。

「……やっぱり、わたしがダージョンにお願いする」

 即座に否定する。

「だから、それは最悪の事態を招くだけで―――」

 ううん、とリリーは首を振った。

「それも含めてお願いするの。イーリンの命を助けてあげてって。今回のこと
はただの事故だということにしてって。……それで、もしダージョンがわたし
のお願いを聞いてくれるのなら、もうわたしは絶対に馬鹿なことはしないって」

63 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/01(水) 01:43:04


 それってつまり。

「……馬鹿なこと言うなよ。鳥篭生活を受け容れるのか。火焔天に一生閉じ込
められて、あんたが夢見た外≠ゥら遠ざかって。―――そんなの、口で言う
ほど楽じゃないだろ。あんた、なんのためにここにいるんだよ」

 彼女は即答した。

「イーリンのためだよ」

「はぁ?」

 違う。リリーがここにいるのは外≠ノ出るためだ。あたしはそれを助ける
ための道具に過ぎない。手段を護るために目的を見失うなんて、本末転倒もい
いところじゃないか。

 魔女はあたしの胸に顔を埋めて、甘く囁く。

「イーリンのいない外≠ネんて……」

「待て待て待て」

 肩を掴んで、リリーを胸から引き剥がす。きょとんとした目をする彼女に問
いかけた。

「それはなんだ。献身のつもりか? 自己犠牲? どうしてそこまであたしを
求める。自分をなげうってまであたしを護る必要なんてないだろう。リリーの
目的は外≠ネんだろう? だったら、重荷になったあたしなんて見捨てて、
ひとりで結界を破って、ひとりで飛び出せばいいじゃないか。あたしの問題に
首を突っ込んで夢を捨てるなんて馬鹿げてるぜ。どうしてそこまでするんだ」

 リリーはくすりと笑いをこぼした。

「だって―――」

 迷いのない、はっきりとした答え。

「ひとりじゃ寂しいじゃない」

 寂しいから。不安だから。支えて欲しいから。馬鹿げた理由だと鼻で笑うの
は簡単だ。でも、あたしにとってそれはもっとも信じられる答えだった。
 あたしも同じだ。ひとりはイヤだ。今日この日まで、ひたすら寂しさから逃
げて生きてきた。マーマという存在は、あたしから寂しさを取り除いてくれた。

「で、でも……」

 唾を飲み下す。動揺を表に出したくなくて、慎重に言葉を選んだ。

「閉じ込められて、もう二度と外へ出られなくなっちまったら、それから先は
どうするんだよ。寂しいのが嫌いなのに」

 リリーの微笑みは途絶えない。

「睡って過ごすの。二度と目を覚まさないわ」

「自殺するってことかよ」

64 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:25:51

「言葉通りよ。ほんとに寝たまま起きないの。……わたしね、睡るのは嫌いじ
ゃないんだ。夢を見られるから。夢の中では、わたしは自由だから」

 鼓動が跳ね上がった。夢。あたしがもっとも嫌うもの。それをリリーは恍惚
としながら語る。「どういうこと?」と問わずにはいられなかった。

「睡っているときだけ、わたしは外≠ノ出られるのよ。見たこともない世界
で、わたしはわたしじゃなくなっていて、色んなことをしているの。悲しい夢
が多いわ。夢の中のわたしはいつも泣いている。……でも、それも含めて自由
なの。ああ、イーリンも同じ夢を見られたらいいのに。外≠フ風景は、クー
ロンの変わらない夜とは比べものにならないほど変化に満ちていて、美しいの」

 ……こんな偶然が、果たしてあり得るのか。
 
「じゃあ、リリーが外≠ノ憧れるのも―――」

 ええ、と魔女は頷く。

「夢を現実にしたいから」

 わたし、お部屋にいるときはほとんど寝ているのよ。夢を見たいから。窮屈
な屋根の下から、解放されるから。―――そう語るリリーの表情は、一点の曇
りもなく至福に満ちていた。

 ハンマーで後頭部を殴られたかのような衝撃に、あたしは震える。
 リリーも見ていたのか。体験していたいのか。自分自身が否定される刹那の
悠久を。クーロンでは決して見ることの叶わない真昼の情景を。

 なんという皮肉だろうか。似た夢を見て、あたしは嫌悪から不眠症(インソ
ムニア)に陥った。対するリリーは夢に幸福を見出して、過眠症(ナルコレプ
シー)になった。……対極の反応を選びながら、行き着くところは同じ。自ら
の殻に閉じこもることでしか、安寧を得られない不器用な小娘二人だ。

 ……いや、違うな。あたしとリリーは同じじゃない。
 リリーは夢に耽るだけに留まらず、外≠目指している。自分の足で、新
たな世界を開こうとしている。夢は切っ掛けに過ぎない。ただ目を逸らして、
逃げて、拒んだだけのあたしと一緒にするのは失礼だ。

 彼女は、この事実を知っているんだろうか。あたしも同じような夢を見て、
うなされて、眠りから遠ざかってしまっている事実を。
 知るはずが、ない。
 あたしの不眠症を知っているのはシャオジエぐらいだ。いくらリリーが魔女
でも全知には遠く及ばない。この一致はただの偶然だろう。
 
 ―――ならば、それこそ。
 リリーの言葉通り「運命」になってしまうじゃないか。
 二人は出会うべき必然だったのか。

 馬鹿馬鹿しい。偶然はどこまでいっても偶然だ。そう笑い飛ばすことは容易
いはずなのに。……クーロンの終わらない夜にくたびれ果ててしまっているは
ずのあたしの心臓は、いま初めて動き出したかのように激しく脈打っていた。

「リリー……」

 枯れた声で名を呼ぶ。

 教えて欲しかった。答えを示して欲しかった。
 あたしも、あの夢を受け容れられるようになるだろうか。リリーのように、
他者の目を通して視る外≠肯定できるようになるだろうか。
 ……こんなあたしでも、安心して眠れる日が来るんだろうか。

65 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:28:08


 だけど、あたしが疑問を投げかけるために開いた唇は、リリーの言葉に遮ら
れた。彼女は表情を翳らせて言った。

「……そろそろ、ダージョンが帰ってきちゃう」

 タイムリミットか。いまの邂逅は、あたしがリリーを強引に呼び出したから
叶ったんだ。時間が短いのはしかたがない。別れを惜しむ気持ちを抑えて、あ
たしは尋ねる。

「次は―――」

 こんなこと、あたしから切り出すのは初めてだ。

「次はいつ、会える」

 いまになって、あたしの身を後悔が舐め始めた。
 リリーともっと話がしたい。リリーのことをもっと知りたい。彼女が見る夢
とはなんなのか。あたしのそれと、風景は同じなのか。彼女はどうして、自分
が自分で無くなってしまうことに耐えられるのか。リリーが言う運命≠チて
奴は、クーロンみたいなゴミ溜めのリージョンにも転がっているものなのか。
 いままで邪険に扱っていた分も含めて、思う存分に語り合いたい。

 ―――時間ならきっと、いくらでもあるさ。だって、ここでは夜が明ける
心配をする必要はないんだから。

 そうだろう、リリー?

「分かるでしょ、イーリン。次はないの」

「え……」

「これは別れ。これは別離。運命はいま、二人の絆を引き裂いたわ」

 冗談めかしてリリーは言う。だけど、表情は真剣そのものだ。感情を殺そう
と必死になって、逆に悲しみが顔にありありと刻まれてしまっている。
 ……魔女の癖に、自分に嘘を吐こうとなんて、らしくないことをするから。

「リリー……あんた、本気なのか。本気で紅の魔人に頼むつもりなのか。あた
しを守るために、自分の夢を犠牲にするつもりなのか」

 冗談だと思っていた。ただ思い付きを口にしているだけだと思っていた。
 リリーがあたしの事情を知ったのは、この部屋であたしに呼び出されたから
だ。まだ十分も経っていない。―――たったそれだけの時間で、すべてを捨て
る覚悟を決めたっていうのか。夢も、未来も、あたしのために犠牲にすると。

 ……駄目だ。そんなのは絶対に駄目だ。
 だって似合わないじゃないか。あんたはもっと、利己的な女のはずだ。自分
勝手で、他人の都合なんて考えなくて、甘いところばかりを摘もうとする。
 それがクーロンに咲いた百合(リリー)じゃなかったのか。

「この物語のフィナーレはハッピーエンドじゃないみたい。だけど、とっても
ロマンチック。だってお姫様は愛に殉じて眠りにつくんだから。大好きなひと
のことを想って、終わらない夢を見続けるんだから」

「リリー!」

「イーリン、知ってるでしょ? わたしは自分勝手なの。わがままなの。だか
ら、あなたの説得なんて聞かないわ。わたしはわたしのしたいようにする」

66 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:31:24


 ふざけるな。あたしは苛立ちに任せてリビングの壁を殴りつけた。拳が防呪
処理を施した壁紙を突き抜けて、石膏ボードの壁面をあっさりと貫通する。

「……そんなことをしても」

 低い声音で、呻くように言った。

「あたしは感謝しないぜ。あんたのことを想って泣いたりなんか、絶対にしな
い。これはあたしの問題だ。勘違いしたことは謝るけど……だからって、首を
突っ込むのはやめろ。あんたは、あんたのしたいことだけを―――」

「これは、私が望んだ物語よ」

「違う! あんたの目的は外≠ヨ行くことだ!」

 リリーは瞼を伏せると、ゆっくりと首を横に振った。

「その物語を完結させるには二つ足りないものがあるの。ひとつは結界。〈針
の城〉から出るには、わたしの魔力は育ちすぎてしまったわ。……もうひとつ
は、わたしが、わたしで居続けられる余裕。―――愉快よね、イーリン。わた
し、昨日まで、自分がどうして〈運命の赤児〉なのか、考えもしなかった。ど
うしてこんな強い力を持って生まれてしまったのか、知ろうとも思わなかった」

 あたしには理解できない。リリーはなにを言ってるんだ。彼女の語る足り
ないもの≠ニやらが、自分を犠牲にしてあたしを助ける理由になるとはとうて
い思えない。結界があるなら破ればいい。自分の力の由縁なんて、外≠ヨ出
てから探せばいい。―――どうしてそんなことで、未来への道を閉ざすんだ。

「イーリン、勘違いしないで。これは犠牲でも献身でもないの。初めからこの
物語にハッピーエンドは無かっただけ。物語の舞台は、最初から最後まで〈針
の城〉だったのよ。わたしが外≠ヨ行くシナリオなんて用意されていなかっ
たのよ。……だから、わたしはせめてもの抵抗として、あなたに未来をあげる。
そしてお姫様は醒めない眠りにつき、終わらない夢を見るの」

 でも、ひとつだけ望むことが許されるのなら。リリーがそう呟いたとき、彼
女の瞳からついに涙が溢れた。

「―――これから見る夢では、どうかイーリンと一緒になれますように」

 言葉には魔力が秘められていた。あたしが眼帯を外していたならば、リリー
を中心に霊路の門が開く様子をはっきりと霊視していただろう。
 彼女は跳ぶ気だ!

「リリー!」

 行かせない。話はまだ終わっていない。
 壁に突き刺さった腕を引き抜く。石膏ボードの破片に切り裂かれて、拳から
血が迸った。―――好都合だ。あたしの血は、あらゆる魔術を強制的にキャン
セルさせる。リリーの縮地だって中断させられるはずだ。

 どうしてあたしは蜥蜴の眼を開き、蜥蜴の血肉を持って生まれてきたのか。
いまなら答えに迷わない。はっきりと断言できる。それはこの瞬間のためだ。
人外の膂力と超常の能力でリリーを止めるためだ。彼女を行かせないためだ。

 あたしは手を伸ばす。
 力の限り叫んだ。
 彼女の名を。

67 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:31:48







 ―――ああ、だけど。

 あたしみたいな中途半端なバケモノじゃ、正真正銘のバケモノであるリリー
の術を止められるはずもなく。

 手を引き抜き、伸ばすというたったそれだけの挙動を最速で行ったにも関わ
らず、リリーの術の発動には間に合わず。

 あたしの指先は、空を切った。







.

68 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:32:32









 部屋には、もう、あたししかない。









.

69 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:34:44


 手を差し伸べたまま、無様に立ち尽くすことしかできない。あたしは瞬きす
ら忘れて、一瞬前までリリーが立っていた空間を見つめた。

 ……これで、お終いなのか。
 あたしは救われたのか。
 黒社会から制裁を受けることはないのか。明日からもクーロンで、今日と変
わらない日常を過ごすことができるのか。
 あたしの未来は約束されたのか。

「は、―――はは」

 渇いた笑いがこみ上げる。

「おかしいよな、どう考えても。……あたし、そんなに必死だったかな。大切
にしていたかな。誰かを犠牲にしてまで、守ろうとしていたかな」

 マーマが正気を取り戻したわけじゃない。
 あたしの余命が長くなったわけでもない。
 マーマはいまでも阿片中毒のまま。あたしの脳みそはいまでも蜥蜴の眼と血
肉に負荷に押し潰されて、悲鳴をあげたまま。
 なにも変わらない。変革は行われていない。くそみたいな今日が、くそまみ
れになってくそったれな明日へと続くだけだ。
 
 こんな、こんなくだらない人生のために、リリーはすべてを捨てたのか。

「誰が頼んだよ」

 あたしは頼んでいない。

「誰が喜ぶんだよ」

 あたしは喜ばない。

「誰が幸せになるんだよ」

 あたしは幸せにならない。

 心臓が痛む。痛哭の悲鳴を延々と繰り返す。あたしは胸を鷲づかみにして、
その場に跪いた。喉から、慟哭を伴った叫びが止めどなく溢れ出す。

「あたしが好きだったんだろう?! あたしのためになることをしたかったん
だろう!? なのに、なんだよこれは! あたしを哀しませて、苦しませて、
こんなの嫌がらせもいいとこじゃないか。誰も笑顔になれない。後味が悪いだ
けのくそみたいなエピソード。こんなセンスのない物語が、運命≠セってい
うのかよ! イヤだ! あたしはイヤだ! 絶対にイヤだ!」

 嘆きの悲鳴か、怨嗟の呪文か。あたしの言葉は、リーの耳にも届いているは
ずだ。しかし、返事はない。あたしの部屋は沈黙を守ったままだ。

 認めるしかない。
 リリーの物語は、終わってしまった。
 彼女は非日常の象徴に過ぎなかった。
 あたしとは別世界の人間だった。
 
 あたしは戻るんだ。
 日常へ。
 リリーが守ってくれた、今日という繰り返しへ。

70 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 22:48:59



                  * * * *


 帰ってきたときと違って、アパートメントから出て行くときは魔術迷彩どこ
ろか人影への警戒すらしなかった。糸が切れた人形か、はたまた夢遊病者のよ
うに、頼りない足取りで第七層を歩く。
 もしクーロン・マフィアがあたしを狙っているならば、絶好のカモだ。瞬き
する間にさらうことができる。……けど、そんな剣呑な気配は一向に訪れなか
った。〈針の城〉は常と変わらず、幽世の風景をビルディングの森に融け合わ
せているだけだ。

 一時期は死すら覚悟した。なのに、こんなに堂々と〈針の城〉を歩けてしま
うと、全部はあたしの早合点だったんじゃないかと疑ってしまう。あたしが殺
したのはクーロン・マフィアの凶手ではなく、ただのチンピラだったんじゃな
いか、と。

 リリーはきっと嘆願に成功したんだろう。彼女の自由と引き替えに、あたし
は命の保証を得た。
「二度と近付くな」なんて警告ぐらいはあると思ったけど、この様子では恐ら
く、マフィアは最後まで介入してこない。社会の影たらんとする彼等があたし
に望むのはすべてを忘れること。リリーという一輪の花があたしを惑わせた。
夢から醒めた以上は、現実を生きろ。―――そんな案配だろう。

 あたしはポケットに手を突っ込むと、やや猫背になって歩いた。

 日常は守られた。今日と変わらない明日が待っている。
 ……例えそうだとしても、変わらなくちゃいけないことだってあるはずだ。
 リリーになにもしてやれなかったあたしだけど、自分の尻だけは自分で拭い
たい。―――だから、最低限のケジメだけはつけようじゃないか。


                  * * * *


 三十分ほど待っただろうか。
 鍵が差し込まれ、ドアが開く。スイッチの場所では躰で覚えているのだろう。
暗闇の中でも、彼は迷うことなく電源を入れることができた。

「わあ!」

 室内灯があたしを照らすと同時に、ロートルは驚きの声をあげた。

「し、社長でしたか。いつの間にお戻りになったんですか」

 表情からも口調からも動揺が滲み出ている。……まあ、当然だろう。ハダリ
ーから事故の概要は聞いているはずだ。部下として、年長者として、あたしの
身を案じることに不自然はない。

「どうして事務所に顔を出さなかったんですか。私もハダリーも社長の帰りを
待っていたんですよ」

 問いかけは無視した。ロートルから視線を外し、ガス灯で照らされる部屋の
様子を見回した。可もなく不可もなし、といったところだろうか。適度にもの
はあるけど、決して雑多なわけじゃない。

71 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 22:51:19


「……あの、どうして私の部屋に」

 彼はきっと、「どうして鍵を開けて勝手に入ってきているのか」と尋ねたい
に違いない。答えは当然「二人きりになりたいから」だけど、それをわざわざ
告げてやる必要はない。

 ここではあたしが尋問役で、ロートルが回答役。この臆病な老人の疑問に答
えるつもりは一片もない。

「あの、お怪我は―――」

「ロートル、どうしてあたしを嵌めた」

「……は?」

 間の抜けた、醜い表情。
 思い付く語彙の中で、いちばんストレートな言葉を選んだつもりだったけど、
どうやら回転が鈍った老人の頭では理解が難しいらしい。
 ならば、とあたしは再度問い掛ける。

「どうして、一年前、マーマを嵌めた」

「あの、社長? 言ってることが理解しかねるのですが」

「答えろ、ロートル」

 静かに、だけど確たる恫喝を秘めて、あたしは言った。

「濡れ衣です。社長、あまりに突飛すぎます」

「……一年前、行方不明になったマーマをいちばん始めに見つけたのは、あん
ただった。そして今日、あたしがトラックにピアノを積んでグオワンホテルに
行くことを知っているのも、あんただけだ」

 ロートルは目を剥いた。

「そ、それが根拠だって言うんですか」

「名推理だろう?」

「無茶苦茶です! いくらなんでも強引すぎる。第一発見者でなにが悪いんで
すか。社長がホテルに行くことを知らなくたって、尾行すれば襲撃するのは簡
単じゃないですか。そんな理由じゃ、警察だって逮捕には動きませんよ」

「あたしは警察じゃない。だから、証拠も動機もいらない。必要なのは疑念だ
けだ。あたしはあんたを疑っている。そしていま、疑いの根を絶やそうとして
いる。―――疑わしきは皆殺し≠セ」

 ……あたしが名探偵の器じゃないことぐらい、あたし自身が深く理解してい
る。理不尽の代名詞であるクーロン・マフィアだって、こんな言いがかりで制
裁を加えたりはしない。
 けれど、あたしは確信していた。ロートルは間違いなく一枚噛んでいる。
 彼の立ち位置は、あたしを追い詰めるには絶景の場所過ぎた。……事実、グ
オワンホテルに問い合わせてみても、ピアノを購入したいなどと連絡した覚え
はないという答えしか返ってこなかった。
 すべてはロートルのでっち上げだ。
 警察相手なら言い逃れることはできるだろう。彼もまた「使いのもの」とや
らに騙されただけなんだ、と。……そう、警察相手なら、ね。

72 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 23:35:11


「別にあんたが主犯格だなんて思っていないさ」

 座っていたテーブルから飛び降りる。ロートルと向き合うと、あたしの威圧
に押されたのか、彼は何歩か後じさった。その分だけ、あたしが詰め寄る。

「マーマの件にしろ、今日の件にしろ、駒に過ぎないんだろう? あんたみた
いな小物が、こんな大それた企てを実行に移せるはずがないからね」

 もっと早く疑いを持つべきだった。リリーよりも先に、この老人を怪しむべ
きだった。脳天気なあたしは、リリーを失う瞬間まで、ロートルを容疑者に数
えようとしなかった。……別に、信用していたわけじゃない。あたしがロート
ルに仲間意識を持ったことなんて一度もない。ただ、彼という存在があまりに
日常と密接し過ぎていたため、疑うという発想が湧かなかったんだ。

 ―――リリーの犠牲によって、改めて今回の事件について冷静に考えること
ができるようになったとき、ロートルの異端性は際立っていた。

 疑うな、というほうが無理がある。

 ……それに、証拠を揃えずにあたしがここまで強気に出られるのには、理由
がある。火蜥蜴≠ェ誰かを疑った場合、証拠なんて必要ないんだ。

「なあ、ロートル。あたし、ずっと疑問だったんだ。なんであんたは、ビルか
ら外に出ないんだろう。病的なまでに、外≠怖れるんだろう。……あんた
の言い分じゃ、マフィアに見つかったらやばいってことだったけど―――」

 一拍おいて、あたしは、いまや表情を蒼白に歪めた老人を睨み付けた。

「あんた、外に出られないんだろう」

 ロートルの顔が哀れなほどに引きつった。

 引きこもっているのじゃなく、閉じ込められている。
 例えば心臓に「所定の範囲より外に出ると爆散する」といった旨の呪文を刻
むのは、そこまで難しいことじゃない。
 ロートルは傀儡だ。悪意ではなく恐怖で動く、操り人形。……ならば、誰が
彼を操っているのか。どうしてあたしを狙うのか。その理由を、いまから覗か
せてもらおう。

「……社長」

「何度も言っただろう。あたしをそう呼ぶなって」

 毅然と言い放つ。

「あたしをそう呼んでいいのはハダリーだけだ」

 眼帯をずらし、〈蜥蜴の眼〉を開いた。

 ―――と同時に、ロートルはスーツの胸ポケットに差していた万年筆を、自
分の右眼に突っ込んだ。
 
 一瞬の出来事だった。潰れた水晶体から、液状のなにかがこぼれ出す。
 声にならない悲鳴をあげつつ、ロートルは左眼も同じように万年筆で突こう
とする。あたしは万年筆を握る彼の腕を掴んで、そのままへし折った。

 マフィア上がりは伊達じゃないということか。常人なら気絶しかねない肉体
的ダメージを負っているにも関わらず、なおもロートルは、無事な左手の指で
右眼を潰そうとした。あたしはすかさず、右手も叩き折った。

73 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 00:10:22


 両手を潰されたロートルはその場に膝から崩れ落ちながら、最後の足掻きと
して目を力強くつむった。あたしの瞳から逃れる術はそれしかない。
 ……けど、あまりに儚い抵抗だ。時間稼ぎにすらならない。

 瞼を引き千切ってやってもよかったけど、そこまでしなくても目を開かせる
方法はある。―――ロートルの腹に拳を叩き込んだ。それなりに手加減をして。
 彼は悶絶の呻きを吐き出すと同時に、目を見開く。瞼を閉じ続けるなんて意
思の力でどうこうできるわけがない。

 老人は左眼から血の涙を垂れ流す。残った右眼と、あたしの〈蜥蜴の眼〉の
視線が重なった。唇が「やめろ」と動きかけるが、もう遅い。

 ロートル。あんたの裡を視せてもらうぜ。

 黄金の魔眼を経由して精神世界にダイブする。
 彼の内側は恐怖の鎖に縛られて崩壊寸前だった。理性ある生物なら誰しも精
神防壁を持っているものだけど、ロートルのそれは肉体的なダメージと過剰な
脅えによって腐りかけの木材のように脆い。お陰で呆気なく侵入できた。

 あたしは魔女じゃない。ひとの精神を覗き見て、嬲って、支配するには知識
も経験も足りない。あくまで魔眼の力に寄った強引なクラッキングだ。
 だから、お目当ての情報をダイレクトに拾えはしない。右眼を通して頭に流れ
込んでくる膨大な情報を、いちいち取捨選択していかなければいけなかった。
 脳への負担はかなりのものだ。シャオジエがこの技を禁ずるのも理解できる。
他人の心を覗き見る度に、あたしは寿命を縮めていた。
 だけど、そのリスクを負うだけの価値は、ある。

 ロートルが何を怖れているのか。何を隠しているのか。そして何に関わって
いるのか。隠そうとすればするほど、精神世界では強調される。
 あたしはより強く輝く情報のもとへと泳ぎ、読み取っていった。

 ……浅いな。そして、腑に落ちない。

 それが初見の感想だった。
 彼があたしの監視役を任されていたこと。それは予想した通りだ。けど、マ
ーマとの関わりはどうだ。なぜ、マーマは一年前の夜、あんな目に合わなくて
はいけなかったのか。あの一件もロートルが絡んでいると当たりはつけていた
けど、彼の精神状態が不安定なせいで、真偽が確かめられない。
 もっと深く。もっと奥へと潜る必要がある。

 ―――阿嬌が廃棄されてからは、今まで彼女経由で接触していたあの女と直
接連絡を取らなければいけなくなった。

 あの女? そいつが黒幕か。

 ―――私は恐ろしい。阿嬌は最後まで真実を明かさなかったが、私の読みが
正しいなら、針の城から来たあの女の正体は……。

〈針の城〉から来た、か……。
 ここまで大胆なことをする奴だ。あの魔郷の住人であっても不自然はない。
けど、どうして〈針の城〉の人間があたしを狙う。
 そもそも、この情報だと、まるでマーマまでもがあたしを―――

 導かれるままに、意識の深層へと降りていく。
 あたしの侵入に気付いて、慌てて逃げゆく情報を見つけた。ロートルがもっ
とも露見を怖れる記憶か。すかさず追跡する。
針の城から来た女≠フ正体。ロートルとマーマの関わり。この二つの答えが
欲しくて、あたしは情報に手を伸ばした。

74 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 00:13:46


 指先が―――つまりあたしの意識が触れると同時に、その情報は赤熱した。
 視覚化するならば、ダイナマイトの導火線が根本から火花を噴き出したに等
しい光景。肉体から乖離したあたしの意識に寒気が走る。
 ロートルの精神に、こんな攻撃的な情報があるはずない。

 特定の条件をトリガーにして破壊活動を行う潜伏型プログラム。

 ―――こいつは論理爆弾(ロジックボム)だ!

「離脱……!」

 眼帯で目を隠すことはおろか、瞼を閉じる余裕すらない。あたしは視線を逸
らすことで、ロートルへの精神侵入を強制中断した。

 炸裂した論理爆弾はロートルの精神を容赦なく吹き飛ばす。
 理性も記憶もデリートされた老人は、その衝撃に耐えきれず、鼻と耳から血
を垂らして絶命した。
 ……強制中断が一瞬でも遅れていたら、あたしも爆発に巻き込まれていた。
 いや、ブービートラップとして仕掛けるつもりだったなら、トリガーと同時
に逃げ道を閉ざすことも可能だったはずだ。あの論理爆弾の目的は、証拠隠滅
に過ぎないってわけか。

「……それにしたって、他人の精神に自爆プログラムを仕込むなんて」

 生半可な術者じゃない。あたしのような、心霊工学を囓った程度のオカルト
マニアとは比べものにならないほどの実力を有している。
 リリーだって、こんな真似は不可能だろう。魔力の絶対値だけではなく、途
方もない魔道への造詣が必要だ。
 ……これも針の城から来た女≠フ仕業なのか。

 脱力してよりかかってきたロートルの死体を床に放ると、あたしは精神侵入
で得た情報を吟味した。
 真相に至れるような発見は皆無と言っていいだろう。小出しにされた情報は、
すべて倫理爆弾をトリガーさせるための餌だったんだ。

 思わず舌打ちをしてしまう。ひと一人殺して、この程度の収穫か。
 今日だけで二人も殺している。それもひとりは、空気のように扱っていたと
はいえ、物心がついたときからの付き合いだ。
 あたしの中の何かが壊れてしまったような気がする。日常は守られたかもし
れない。けど、もはや、あたしは昨日まであたしではなくなっている。
 暴力への抵抗が、自分でも驚くほど薄らいでしまっていた。
 必要なら、これからだって殺し続けるだろう。
針の城から来た女≠ニいうのがマーマを壊した張本人ならば――あたしから
リリーを奪った真犯人ならば――あたしはそいつを、絶対に許しはしない。

「殺してやる……」

 けど、その前に為すべきことがある。
 論理爆弾の起動成立は仕掛けた術者も気付いているはずだ。あたしが凶手を
殺したにも関わらず黒社会が動かないことも含めて、もはや事態が計画通りに
進んでいないのは自覚しているだろう。ならば、次の一手を打ってくるはずだ。
 どう動く。今度は何を仕掛けてくる。
 ……あたしに分かるはずがない。
 けど、何が危険かは分かる。

 あたしの弱点。あたしの心臓。―――マーマが狙われる可能性は十二分にあ
り得る。針の城から来た女≠ニ関わりがあるならば、尚更だ。

 あたしはビルから飛び出した。

75 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 20:13:24


 蒸気スクーターに跨って〈針の城〉へ。ビルの隙間の狭い路地を縫って第七
層まで辿り着く。目的地のビル屋敷=\――阿片窟は四方を雑居ビルに囲ま
れているため、屋外から近付くことはできない。あたしはスクーターを乗り捨
てると、屋内から駆け足でビル屋敷≠ヨと入った。

 入り口には立ち番が五人もいた。普段は一人しか置いていないのに、なぜ今
日はこんなに警戒が厚いのか。しかもみな揃って重武装だ。何かが起こってい
るのかもしれない。焦燥が歩の進みを急き立てる。立ち番があたしを制止しな
かったことがせめてもの救いか。

 普段は支配人室に閉じこもっているウォンだけど、この時はロビーに立って
他の客たちと積極的に会話をしていた。珍しいこともあるもんだ。
 無視して通り過ぎようとすると、慌てて呼び止めてきた。

「火蜥蜴!」

 相手にしている暇はない。だけど、運悪くエレベーターは一階で待機してい
なかった。待っている間にウォンが追いつく。

「阿嬌の様子を見に来たのか」

 あたしがこのビルに足を運ぶ理由なんてそれしかない。だけど、わざわざそ
れを尋ねるということは、特別な理由があるのか。
 ……こいつだって、ロートルと同じで信用はできない。

「火蜥蜴。おまえ、さっきまでどこにいたんだ。事務所にいたのか。だったら
教えてくれ。外の様子はどうだった」

 ウォンの言う外≠ニは〈針の城〉の城外のことだろう。彼の言動がおかし
いことに気付いて、あたしは初めてその爬虫類面に視線を向けた。

「どうって……なんでそんなことを聞くのさ」

 憮然と答える。

「おまえ、知らないのか?」

 ウォンは信じられない、と天を仰いだ。その大仰な身振りが余計にあたしを
苛立たせる。エレベーターはまだ来ないのか。

「クーロン・ストリートでクーデターだよ!」

「クーデター?」

「〈黒死病〉の奴等が、第二層から派遣されていた幹部をバラしたらしいんだ。
ストリートのほうはかなり混乱しているって聞いたぜ。下請けの連中どもと抗
争状態に陥っちまっているって」

 まったく気がつかなかった。いや、興味がないと言ったほうが正しいかもし
れない。ヤクザの戦争など知ったことか。
 
〈黒死病〉というのは、クーロン・マフィアが抱えている暗殺者集団の俗称だ。
 活動範囲は中心街に限定されている。マフィアに関わりのある暗殺組織は多
いけど、この〈黒社会〉が特別なのは組織の中枢である〈針の城〉直轄である
点だ。組織から委任されるかたちで利益を得る下請け組織とは違う。
 その役割は殺しから監視まで多岐にわたる。〈黒死病〉はクーロン・マフィ
アの中心街における手であり、目でもあった。

76 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 20:15:34


 そこまで重要な役割を担う〈黒死病〉の凶手どもが、〈針の城〉に反旗を翻
すなんてあり得ない。裏切るにしても、もっとうまくやるはずだ。いきなり殺
し合いから始めるなんて、素人以下の判断じゃないか。
 だからウォンもここまで驚いているのだろう。
 あたしは大体の事情を察知した。
 あたしを襲ったあのインバネスコートの蜘蛛遣い。あいつも〈黒死病〉の凶
手だったはずだ。理に叶わない行動が同じ組織によって再び行われた。考え得
る理由は一つ。―――いまの〈黒死病〉に理性はない。
 操られているんだろう。あのときと同じように。

 これが針の城から来た女≠フ次の一手なんだろうか。黒社会の瓦解を狙う
のならば、必殺とまでは言わずとも、手痛い一撃ではあるだろう。
 クーロンは大混乱に陥るに違いない。
 ……だけど、あたしと直接の関わりはない。

針の城から来た女≠フ目的は、クーロン・マフィアへの攻撃だったのか。
 そのためにあたしを利用した? ロートルに監視させた? ……それは考え
にくい。あたしをどう利用すれば、組織への攻撃になるっていうんだ。

 偽装クーデターにしたって、〈針の城〉から戦闘部隊が送り込まれれば容易
く鎮圧されるだろう。〈黒死病〉は確かにクーロン・ストリートにおける恐怖
の象徴だけれど、人外が蔓延る〈針の城〉を基準に見ればどうってことはない
相手だ。あの蜘蛛遣いがハダリーの敵ではなかった事実がそれを証明している。

 分からない。針の城から来た女≠フ目的が想像すらできない。
 どうしてあたしを監視した。どうしてあたしを嵌めようとした。どうしてマ
ーマを壊した。マーマとはいったいどんな関わりがあったんだ。

 目の前の視界が開ける。エレベーターが一階につき、扉が開いた。
 あたしは思考を中断して、エレベーターに乗り込んだ。ウォンもそれに続こ
うとしたけど、あたしの無言の威嚇がそれを押し止める。

「好きなだけ殺し合えばいいさ。あたしには関係ない」

 それだけ言い残して、扉を閉めた。

 
 マーマは無事だった。前に訪れたときと変わらず、気怠げに長煙管を吹かし
ている。理性の輝きも消えたままだ。
針の城から来た女≠ヘこれ以上マーマに危害を加えるつもりはないのか。そ
れともあたしの動きのほうが早かったのか。答えは見えないけれど、これで目
下の懸念は消えた。マーマが無傷なら、それでいい。

 さて、どうしたものか。

 マーマはこの阿片窟で最上級の待遇を受けている。警護も相応に厳重だ。
 彼女の無事が確認ができたら、あとはもうあたしにできることなんてない。
ウォンは信用できない男だけど、それでもここより安全な場所はないのだから。
下手に別の場所に動かすほうが、よっぽど危険だ。
 かといって、事務所に戻る気にもなれない。ウォンの言葉が真実ならば、今
頃クーロン・ストリート周辺は大騒動だ。わざわざ巻き添えを食いに行くこと
はない。事務所の警備はハダリーに任せよう。

「今日はゆっくりできそうだよ、マーマ」

 あたしは努めて優しい表情を作った。

77 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 21:51:32


「今日はここに泊まっちゃおうかな。ベッドこんなに広いんだし、あたしが邪
魔したって問題ないだろ?」

 なんて言いながら、ベッドの縁に腰かける。マーマはシーツに寝転んで阿片
を吸引していた。当然だけど、あたしの言葉なんて耳に入っていない。
 構わず語りかけた。

「マーマと一緒に寝るなんて、何年ぶりかなぁ。昔はあたし、マーマがいない
と絶対に寝ようとしなかったもんね」

 夢を見るのが怖かったからだ。
 ……でも、マーマは多くの人間が必要とされる立場だった。あたしのために
使える時間は限られている。目覚めて、横にマーマがいないと気付く度にあた
しは震えたものだ。恐怖のあまり、泣くことすらできなかった。それ程までに
孤独が怖かったんだ。
 やがて、マーマがあたしの有用性を気付き、故買屋商売を任せてくれるよう
になると、睡眠という行為自体忘れた。あたしは逃げるように心霊工学と死体
いじりに没頭し、添い寝の必要自体なくなった。
 
 なんでもっと早く思い付かなかったんだろう。マーマはもう、時間を縛られ
ることのない身だ。誰よりも自由になれたんだ。添い寝の時間だっていくらで
も作れる。―――睡眠が必要ならば、彼女の隣で取ればいいじゃないか。
 どんな悪夢にうなされても、マーマがいてくれたら恐怖を忘れられたあの頃
を思い出せ。今日までは仕事に追われて忙しかったけれど、明日からは暇もで
きるだろう。マーマと一緒に過ごす時間を、もっと増やさないと。

 でも……。
 いまでもあたしは、あの夢を悪夢だと決めつけることができるのか。
 自分が自分でなくなることが極端に怖かった。この世界から消えてしまうこ
とが耐えられなかった。……けど、いま、あたしが一番なりたくない人間はあ
たし自身だ。この世でいちばん軽蔑しているのは火蜥蜴<Cーリンだ。
 なら、もう、あの夢を怖れる必要もないじゃないか。

「ハ―――」

 自嘲の笑みがこぼれた。
 だったらどうするって言うんだ。リリーみたいに、あたしも眠りの世界へと
落ちてゆけって言うのか。真っ当な人間のように、睡眠を取れって言うのか。
 そして夢を見ろ、と。行けもしない外≠フ夢を。……あたしが握り潰して
しまった、リリーの夢を、だ。

「冗談じゃない」
 
 やはり悪夢だ。これから一生、あたしは眠る度に罪悪感にうなされなくちゃ
ならないんだから。

 表情が強張っていることに気付いて、慌てて取り繕った。

「ごめんごめん」

 マーマは気にしてないようだ。安心して、会話を再開する。

「そう言えば、さ。あたし、友達ができたんだ。信じられるか? このあたし
が、ハダリー以外で友達なんて上等なもんが作れたんだぜ」

 マーマはきっと信じないだろうなぁ。

78 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 21:53:33


 リリーのことをマーマに話して聞かせるのは楽しかった。いつになく冗舌に
なれた。身振り手振りすら交えて、リリーとの出会いから別れまで語ることが
できた。マーマも珍しく聞き入っているように見える。見えるだけだ。

「あいつには、色々と教えられたよ……」

 人間の絆。人と人はどうやって繋がりを作るのか。あたしは今日まで、その
答えを「自分自身の価値」と信じて疑わなかった。
 マーマはあたしに教えてくれた。イーリンの価値を。畸形である蜥蜴の眼と
血肉には、誰もが持ち得ない輝きが秘めていると気付かせてくれた。
 マーマにとってあたしは価値のある娘だった。だから女衒に売り飛ばさず、
自分の手で育ててくれた。あたしは、価値を見出してくれたマーマに感謝した。
自分を必要としてくれるマーマを愛した。
 人間の絆ってそういうもんだと確信していた―――。

「でも、リリーは……」

 彼女があたしを必要としたのは、外≠ヨ出るために必要不可欠な人材だっ
たからじゃないのか。一人で未知の大海に飛び出すには、寂しかったからじゃ
ないのか。リリーにとってのイーリンの価値とは、彼女の夢である外≠ノ付
随した代物じゃなかったのか。

「なのに、あいつは外≠ヨ行くことよりも、あたしを優先しやがった」

 理解できない。そんなの本末転倒じゃないか。どうしてあいつは、あんなに
憧れていた外≠ヨの羽ばたきを諦めてまで、あたしを救ったのか。

 ……考えられるとすれば、それは。

「外≠ヨ行くことよりも、あたしの命のほうが大事だったから」

 馬鹿馬鹿しい。そんなの絶対にあり得ない。
 ここをどこだって思っているんだ。不夜城クーロン。あらゆる善悪が煮えた
ぎる渾沌のリージョンだ。人の命の価値なんてあまりに儚い。
 あたしみたいなスラムの娘なら尚更だ。何かを捨ててまで守るような上等な
生き物じゃない。あたしなんて、人間でも魔物でもないただの畸形じゃないか。
 なのにリリーはどうして……。

「―――なんで、あたしなんかの、ために」

 価値だとか、有用性だとか、理由だとか。そういうことすら必要としない場
所に、リリーがいたとしか思えない。
 信じられない世界だ。マーマがいないだけで、歪んでしまったあたしには絶
対に行き着けない場所だ。

 あいつは本当に、〈運命の赤児〉だったんだな……。

「でも、もういない」

 あたしはどうすべきだったんだろうか。どうすれば、リリーを失わずに済ん
だんだろうか。彼女の願いに従って、さっさと外≠ヨ行ってしまえば良かっ
たのか。……そんなのは無理だ。だってあたしにはマーマがいるんだから。

79 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 21:57:34


「マーマ―――」
 
 教えて欲しい。あんたはなにを隠しているんだ。どうして一年前の夜、あん
な目に合わなくちゃいけなかったんだ。十年前、あたしを拾ったのはほんとに
偶然なのか。他の孤児と違い、あたしにだけあんなに優しくしてくれたのは、
あたしが他人にはない力を持っていたから、それだけなのか。

「……針の城から来た女≠チて誰なんだよ」

 そいつがあんたのボスなのか。十年も一緒にいたのにあたしは気付きもしな
かったけど、マーマはそいつに命令されてあたしを養っていたんじゃないのか。
 こんな疑い持ちたくない。マーマのことを信じていたい。でも、ロートルの
記憶の断片には、そうとしか思えない情報が散らばっていたんだ。

 マーマは騙していたのか、あたしを。
 あたしが信じていた価値は、理由は、すべて偽りだったのか。

『ああ? めんどくさいこと考えるんだね。だったらどうだって言うんだい。
いいからあんたはあたしのためだけに生きていればいいんだよ』

 取り繕う必要なんてない。いつもの調子でそう答えてくれれば、安心してあ
たしは明日からもマーマのために生きることができる。
 マーマとあたしの関係は、誰かに強制されたものなんかじゃなくて、マーマ
自身が見出し、必要としたものなんだって。
 そう答えてくれるだけでいいのに。

「……なにも、言ってくれないんだね」

 こんなに尽くしているのに。マーマだけを見てきたのに。あたしを生まれ変
わらせてくれるかもしれなかった友人さえも犠牲にしたっていうのに。
 その代価が無言かよ。

 弁解ぐらいしたらどうなんだ。
 慰めてくれたっていいだろう。
 優しく、してくれよ。

 ―――あたしの中の何かが、音をたてて崩れてゆく。

「いい加減にしてくれ。いつまでラリってんだよ!」

 マーマの手から長煙管を奪い取る。竹と真鍮でできたそれを、片手でへし折
った。マーマの胸ぐらを掴んで引き寄せる。あたしがあつらえさせたドレスが
乱れた。でも、マーマの虚ろな視線は床に投げ捨てた長煙管に向けられていた。
 いくら憎しみをこめて睨んでも、眼差しは返ってこない。

「分かっているのかよ……。あんた、分かっているのかよ」

 怒りに突き動かされているはずなのに。憤怒が躰を支配しているはずなのに。
なぜか、あたしの眼からは涙が溢れていた。右眼を覆う眼帯が濡れる。

「あんたはあたしの全てなんだぞ。あんたがいなかったら、あたしはもう、な
んにもなくなっちまうんだぞ」

 それなのに、あたしが信じてきた価値のすべてが偽りだったとしたら。

「あたし、どうすれば良いか分かんないよ……」

 リリーさえも、あたしにはいないんだから。

80 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 23:05:14


 気付いたらあたしはマーマを抱き締めていた。両腕を回し、肩に顔を埋めて
泣き暮れていた。口からは「畜生」だとか「どうして」だとか恨み言ばかりが
こぼれるけど、それが憎しみとしてかたちになることはない。

 怒ろうとしても無駄だ。嫌おうとしても無理だ。あたしはマーマから離れら
れない。あたしとマーマの関係が偽りだろうと真実だろうと、彼女はあたしが
持つ唯一の理由≠ネんだから。捨てられるはずがない。

 ……それに、針の城から来た女≠フ命令があろうとなかろうと、マーマと
過ごした十年間は疑いようもなく存在した。あたしは、その十年を間違いなく
生きた。あの思い出は絶対だ。

 マーマはあたしのすべてだ。
 いままでも、これからも。

 そうだ。これこそが絆≠ニ呼ぶべきものなんじゃないか。
 生半可な疑念じゃ揺るぎもしない愛情。
 あたしはマーマのために生きる。それだけを信じて今日まで生きてきたんだ
から、明日からもそうやって生きればいい。

 マーマの傲慢な笑みは二度と戻らないだろう。あの頃の思い出が再び現実に
なることは絶対にない。……でも、あたしが当時の輝きを忘れなければ、過去
を想って、生きてゆくことだってできる。

 マーマのために生きよう。この世界の誰もがマーマのことを忘れてしまって
も、あたしだけは想い続けよう。

 マーマの肉体は限界を迎えている。先は長くない。不死者に転生させるとい
う手段もあるけど、死霊術を囓ったあたしとしては、そこから生まれるものは
マーマであってマーマではない、別のなにかだと考えている。
 別人にしてしまうぐらいなら、人間のままで死なせるべきだ。

 ……そして、マーマが死んだとき、あたしの価値も消える。
 それは火蜥蜴<Cーリンそのものが消失するということ。
 躊躇いはない。充分すぎる人生だ。十年前、誰に拾われることもなく凍え死
んでいたかもしれない境遇を考えれば、お釣りだってくるだろう。
 マーマと一緒に、あたしも消えるんだ。

 心の枷が、ようやく落ちた気がする。

 吹っ切ってしまえば楽なものだ。笑顔さえ浮かべることができる。

「これからはずっと一緒だよ、マーマ」

 涙を拭う。マーマの乱れだ着衣を整えると、ベッドから立ち上がった。

「なんか喉が渇いちまったぜ」

 マーマも同じはずだ。いくら廃人だといっても、水分を取らないわけにはい
かないんだから。
 ワインやブランデーならこのペントハウスにもあるけど、アルコールという
気分じゃない。こういうときだからこそ、好物のオレンジジュースを飲みたい。
 そこらの従業員を掴まえれば、用意してくれるはずだ。ついでに、あたしが
折ってしまった長煙管の代わりも注文しないと。

 ベッドに背を向ける。寝室から離れて、あたしはエレベーターを目指した。

81 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 23:07:18


 ずっと一緒だと誓ったはずなのに。
 これからもマーマのために生きると決めたはずなのに。
 ……あたしはその直後に、マーマから目を離してしまった。
 取り返しのつかない、過ち。

 そして―――


 風が、あたしの背中を舐めた。


 冷たい、風。
 これまで浴びたどんな風よりも寒気立つ苦寒の風。
 あたしは立ち止まる。
 どうして、風なんかが吹くんだ。
 ここは屋内で、ビルの最上階で、それも最高級の部屋で……隙間風なんて吹
くはずがないのに。―――どうしてこんなに激しく風が吹き荒れるんだ。
 
 振り返る。入り口から寝室を見渡す。真っ先にマーマの姿を見たかったのに、
まず目についたのは風に煽られて踊るカーテンだった。

 窓が、開いている。

「どうして……」

 転落事故防止のために鍵をかけていたのに。外部からの呪的侵入を防ぐため、
封印すらしていたのに。―――どうして窓が開いているんだ。
 誰かが内側から開けたのか。

「ハ、ハ―――」

 喉からこぼれだす渇いた笑い。

「ウォンか? また勝手に入ってきたのか。懲りない奴だなぁ。換気がしたい
んだったら、まずあたしに言ってくれよ。じゃないとマーマが驚いちゃうじゃ
ないか。ゴメンよ、マーマ。ウォンの馬鹿が―――」

 ベッドの上にマーマの姿はない。
 ついさっきまで横になっていたはずなのに。
 忽然と消え失せてしまった。

「か、隠れん坊かい?」

 カーテンが踊る。
 ここは地上十二階。地上よりもはるかに風は強い。天気も乱れているようだ。
 だから、カーテンが踊る。花瓶が倒れ、香炉の煙が霧散する。

「……無茶すんなよ。どんなに若作りしたって、マーマはもう歳なんだからさ。
悪ふざけはやめて、大人しくベッドで寝ていてくれよ」

 カーテンが踊る。
 カーテンが踊る。

 マーマの姿はない。

82 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 23:08:39


 風が煩わしい。誰が窓を開けたんだ。
 ベッドから窓までの距離は、十歩以上ある。意識が曖昧な彼女が自分で開け
られるはずがない。誰かが開けたんだ。外側からは無理だから。誰かが内側か
ら鍵を開けて、誰かが護符を破って。マーマは隠れん坊をしていて。

 カーテンが踊る。
 カーテンが踊る。

 マーマが開けたはずがない。彼女は壊れているんだから。自分の意思なんて
持っていないんだから。マーマが開けたはずが、ない。

 カーテンが踊る。
 カーテンが踊る。

「……ウォン、窓閉めるからな。換気ならあとにしてくれ」

 マーマはまだ隠れん坊を続けている。この寝室は隠れるところがいっぱいあ
るから、見つけるのに手間取りそうだ。
 まず窓を閉めて、それから探してやろう。

 カーテンが踊る。
 カーテンが踊る。

 窓を開けたのはウォン。マーマは隠れん坊をしている。
 そうだ、そのはずだ。それしか考えられない。
 マーマは絶対に窓を開けない。マーマは立って歩いたりしない。
 だからあたしは落ち着いて窓を閉めればいいんだ。

 カーテンが踊る。

 ―――なのに、あたしは絨毯を蹴って。

 カーテンが、

 ―――躰に絡みつく鬱陶しいカーテンをレールから引き千切って。

 落ちて、

 ―――窓辺に手をかけると、身を乗り出して。

 カーテンが落ちて、

 ―――眼帯を毟り取って。

 落ちて、落ちて、

 ―――黄金の瞳で、窓から地上を見下ろした。


〈蜥蜴の眼〉が暗闇を払う。

 唇が震える。

 窓枠に置いた手に、力がこもる。

 あたしの視界の先には、花が咲いていた。

 夜の闇を染める赤い花が。

 マーマの花が、咲いていた。

83 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 23:09:03








 落ちたのは、カーテンだけじゃなかった。








.

84 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/17(金) 00:03:28


「うわあああああああああああああ!」

 迷う必要なんてなかった。
 迷う余地なんてなかった。
 あたしも同じだ。
 あたしも窓から飛び降りた。
 マーマを追った。
 夜空に躍り出た。

 風が全身を包む。

 ……ただ、あたしの場合は墜落が目的じゃない。
 これは近道なんだ。
 エレベーターなんて待ってられない。
 階段なんて下りてられない。

 しばらくの自由落下のあと、ビルから突き出したカワラ≠ニかいう屋根飾
りに手をかけて、勢いを殺す。それから手を離して、落ちる。また掴んで、離
して、落ちる。それを三回繰り返して地上に降り立った。
 こんなまどろっこしい真似をせず、さっさと飛び降りてしまいたかったけれ
ど、あの高さから落下したらいくらあたしでも死ぬと分かっていたから。
 どんなバケモノでも死ぬって分かっていたから。
 ……まして、それが人間ならば。

「マーマ!」

 地上に咲いた花に駆け寄る。白かったはずのドレスが赤く染まっていた。
 どこから落ちたんだろうか。胸か、背中か、足か。やせ細った四肢が、曲が
れないはずの方向に曲がってしまっている。
 ……確かめるまでもなく、即死だった。
 マーマは自分が咲かせた花の中央で、今度こそ本当に壊れてしまった。

「そんな……」

 誰かが投げ落としたのか。
 無理だ。考えられない。
 あの部屋にはあたしとマーマしかいなかった。
 
 じゃあ、誰かが侵入してマーマを落としたのか。
 それも無理だ。鍵は外からは開けない。封印だってある。強引に侵入したな
らば、あたしが気付いたはずだ。

 なら、マーマが自分で―――

「……嘘だろう」
 
 マーマは自殺なんてする女じゃない。誰よりもしぶとく生き長らえようとし
た。例え浅ましかろうと、醜かろうと、生き残ったものが勝者だと信じていた。
 自ら死を選ぶなんて、絶対にあり得ないんだ。

 でも、事実としてマーマは飛び降りた。
 どうして……どうしてなんだ。
 問い掛ける余地すらない容赦のない死。マーマの最期は、あたしに疑問をぶ
つける猶予すら与えてくれなかった。

85 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/17(金) 00:04:42


「マーマ……」

 血の海から死体を抱き上げる。
 ふと、いま、眼帯をしていないことに気付いた。〈蜥蜴の眼〉は開かれてい
る。ひとの心を覗き見る魔眼。……もう何十度も試して、その度に無為に終わ
った行為。最後にもう一度だけ、試そう。
 心臓は止まっても、魂魄はまだ肉体に宿っているはずだ。

 焦点が定まらないまま夜空を見上げるマーマの瞳を、あたしの右眼が捉える。
 いままでと同じなら、ダイブしても真っ白な景色が広がるだけ。魂魄が消失
しているなら、ダイブすることすら不可能だ。
 けど、あたしの意識はマーマの精神世界へと誘われて―――

 ―――もっと早く、こうすべきだった。

 マーマの声が、右眼を通して頭に響く。
 ……これは精神の内側というより、死の瞬間、マーマが抱いた強力な思いだ。
 肉体に残留する思念。いわば、マーマの遺言。

 ―――イーリン、あなたは。

 久しぶりに聞くマーマの声は、記憶にあるよりずっと穏やかだった。

 ―――あなたは自由に生きなさい。

 呼吸が止まる。
 考えてもみなかった言葉が、あたしの頭の中に流れ込んでくる。

 ―――イーリン、あなたは自由よ。

「あたしは、自由……」

 残された思念はそれだけだった。
 それだけで十分だった。
 マーマがなにを考え、なにを理由に飛び降りたのか。
 すべて分かってしまった。

 あたしに自由を与えるため。

「そんなのって……」

 それじゃリリーと同じじゃないか。
 マーマがあたしに教えてくれた絆≠ニはぜんぜん違うじゃないか。
 マーマは、あたしに利用する価値を見出したから、近くに置いていてくれた
んじゃないのか。リリーみたいなわけの分からない理屈じゃなくて、「自分の
ため」という理由があったんじゃないのか。

 自由なんて、そんなの。

 ……これじゃ、まったくマーマのためになってないじゃんか。
 こんな終わり方でマーマは良かったのか。クーロン・ストリートの女傑が、
こんなかたちで幕を下ろしちまって良かったのか。

「良くない! 絶対に良くない!」

 勝手だ。あまりに勝手すぎる。

86 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/22(水) 22:34:39


 マーマは初めからそうだった。なにもかもが勝手だった。
 勝手にあたしを拾って、勝手にあたしを育てて、勝手にあたしに優しくして、
勝手にあたしから愛されて―――勝手に壊れて、勝手に死んだ。
 最後の最後まで、あたしを顧みようとしなかった。

 いまさら自由に生きろなんて、そんなの卑怯だ。
 マーマのために生きるって決めたのに。マーマがあたしのすべてだって気付
いたのに。……なんで、最後まで面倒を見てくれないんだ。

 自由なんていらない。
 不自由でいい。
 マーマさえいてくれれば、あたしは生きてゆけた。
 自由なんてあったところで―――

「どうして良いか、分からないだけだよ……」

 マーマの上半身を抱き締める。血まみれの胸に顔を埋めた。鼻先を強くこす
りつけた。……願いはひとつ。マーマと一緒になりたい。彼女が行こうとして
いるところに、あたしも連れて行って欲しい。ひとりはイヤなんだ。
 ……だけど、どんなに力を込めて抱いても、あたしはあたしで、マーマはマ
ーマだった。マーマは死んだ。あたしはまだ生きている。
 不安で、胸が押し潰されそうだ。

 いつの間にか、ウォンがあたしの背後に立っていた。騒ぎを聞きつけた立ち
番が呼んだのだろう。他にも何人か、見知った顔が遠巻きにマーマと、マーマ
を抱くあたしを眺めている。

 ウォンは顔色は蒼白だった。滑稽なまでに目を見開き、呆然と立ち尽くして
いる。「死んだのか」と答えを求めない呟きを夢中で繰り返す。
 あれだけマーマを厄介もの扱いしたのに、いざ願いが叶うと喜ぶどころか愕
然とするなんて。器が知れるな、なんて感想を抱くと同時に、ウォンの気持ち
も痛いほど理解できた。
 マーマは伝説だったんだ。クーロンの闇の歴史のひとつだったんだ。阿片中
毒にまで落ちぶれても、その事実が消えることはない。

 いま、ひとつの伝説が終わった。

 あたしだけじゃない。ウォンだけでもない。クーロンで生きる多くの人間が
阿嬌の呪縛から解放されたことになる。
 今日までのマーマは死んだも同然だった。いまは本当に死んでしまっている。
その違いが如何に大きいか、ウォンは身に染みて実感しているはずだ。

 マーマを抱きかかえて、立ち上がる。
 軽い。なんて軽いんだろう。マーマの背丈はあたしより頭一つ分は大きいの
に、あたしの両腕はマーマが着るドレスの重みしか感じていなかった。
 あんなにあたしをやせっぽちって馬鹿にしていた癖に……。

「―――頼みが、あるんだ」

 未だ驚愕から抜け出せないウォンと向き合う。

「これは契約にないことだけれど……もう、あんたしか頼れるやつがいないん
だ。仕事じゃなく、ビジネスとしてあたしのわがままを訊いて欲しい」

 目の上のたんこぶとしか思っていなかった小娘に唐突に下手に出られて、ウ
ォンは更に混乱した。どうにか「な、なんだ」とだけ言い返す。

87 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/22(水) 22:36:22


 あたしは顔を歪めながらも、なんとか嗚咽を飲み下した。

「……マーマを葬式に出してやってくれ」

 あたしがひとりで弔ってもよかった。あたしが手ずからマーマを灰にしても
よかった。二人の絆を確かめるには、むしろそうすべきだ。
 だけど、派手好きなマーマに密葬なんて似合わない。たくさんお金をかけて、
大勢の参列者を呼んで、ありだっけの花火を打ち上げるべきだ。
 うんざりするほど過剰な演出で、儀式張った取り決めで、マーマという伝説
が終わったことをクーロン中の人間に知らしめるんだ。
 ウォンならそれができる。彼もまた、マーマの子供だから。

 ウォンはすぐには返事をしなかった。マーマほどの大人物の葬式となれば、
それだけ出費も嵩む。だけど同時に収益も見込める。どちらに天秤の針が傾く
か、混乱しつつも計算を始めた。三十秒ほど悩んでから、「……いいだろう」
と警戒の念をこめながら言った。

「悪いね。頼んだよ」

 マーマの遺体をウォンに渡す。

「お、おい……」

 ウォンはマーマを受け止めたものの、バランスを崩して落としそうになる。
脇に立っていた立ち番が、慌ててマーマの背中を支えた。

 あたしはマーマの死に顔に一瞥をくれると、踵を返し、その場を去ろうとす
る。背中越しにウォンが呼び止めた。

「どこへ行くんだ。一緒にいてやらなくていいのか。まさか、俺に任せきりに
するつもりか」

 ウォンの意外そうな声。葬式の采配に首を突っ込んでくるものとばかり思っ
ていたのだろう。あたしは背中を向けたまま「任せると言ったはずだぜ」と答
えた。……あたしに、葬式に参列する資格はない。

 あたしは捨てられたんだ。
 最後の最後で、置き去りにされたんだ。
 いまのあたしは独りだ。
 どうしようもないまでに孤独だ。
 あたしには誰もいない。
 あたしには誰もいない。

 あたしは自由だった。死にたくなるほど自由だった。

「さようなら、母さん」

 多くの視線を背中に感じながら、あたしはビル屋敷≠ゥら去った。
 一年前から幾度となく通った阿片窟。
 マーマの最後の城。
 あたしを縛り付けていた鎖。
 唯一の、絆。
 ……もう二度と、訪れることはない。 

88 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 00:17:43


 足を止める。
 第十層まで歩いて、蒸気スクーターを第七層に置いてきてしまったことに気
付いた。考え事に没頭していて気が回らなかったとはいえ、間抜けな忘れ物を
したもんだ。このまま徒歩で帰るのはちょっと骨が折れる。

 ……帰るのは。

 帰る、か。
 
「いったい、どこへ帰るっていうんだろうな」

 中心街の事務所か。
 第八層の自宅か。
 ……どっちも間違いじゃない。マーマがいなくなったところで、あたしの資
産までが失われるわけじゃない。クーロンの火蜥蜴は未だにマーマの後継者で、
年齢に不相応なお金持ちサマのままだ。
 だけど、自由≠ノなってしまったあたしには、もう、本当の意味で帰る場
所なんてない。どこへ帰ってもあたしは独りのままだ。

 事務所へ帰ってどうする。アパートへ帰ってどうする。故買屋の仕事を続け
るのか。なんのために。生きるために。
 ……くだらない。心底くだらない。
 あたしは自由なんだ。
 もうマーマはいないんだ。
 なんでもできるけど、なんにもできない。
 理由がなければ目的もない。
 帰る場所だってない。

「―――社長」

 唐突に呼びかけられて、あたしは躰を硬直させた。別にあたしを指している
んじゃないと思いたかったけど、こんな間の抜けた声を出すやつがクーロンに
二人もいるはずがない。

「社長、オカエリナサヰ」

 牛頭の巨漢が、悪鬼の仮面で表情を殺してあたしを待っていた。ただでさえ
窮屈な〈針の城〉の路地は、筋肉の壁によって完全に分断されている。
 ……こいつ、ここでなにやってんだよ。
 
「誰が迎えに来いなんて言った。事務所の留守を任せただろう。中心街はいま、
やばいんだろう。どさくさに紛れて強盗に入られたらどうすんだよ」
 
 ていうか、なんであたしがここを歩いているって知っているんだよ。

「ずっと社長ヲ捜してヰマシタ」

 ハダリーはあたしの説教をきっぱりと無視した。
 あたしは「はぁ?」と問い返す。

「感じたンです」

「なにをだよ」

「社長が寂しガってヰるって」

「……っ」

89 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 00:20:09

 こいつ、なに言ってやがるんだ。単細胞の癖に、なに一丁前に気を使ってい
やがるんだ。あたしがいつ、慰めろなんてプログラミングしたよ。
 言葉だけの優しさなんていらない。本を朗読するように憐れまれても、ちっ
とも嬉しくない。リビングデッドに寂しいなんて感情が分かるものか。筋肉が
満載された脳みそに、あたしの痛みが理解できるものか。

 ―――それとも、まさか。

 分かるのか。理解できるのか。
 学習したっていうのか。
 オートマトン・ハダリーの自由意思≠ェ、孤独を学んだのか。

「ハダリー」

 自然と声音が低くなる。

「……ハヰ、社長」

「寂しいってなんだよ」

「分かりませン」

「分からないのかよ」

「ハヰ」

「分からないのに、あたしが寂しがっているって思ったのか」

 はい、とハダリーは頷いた。

「ダカラ迎えに来ましタ」

 理屈になってねえ。道理が繋がっていねえ。倫理立てた思考より直感を優先
するのなら、こいつはまだまだ不完全な筋肉達磨だ。自立/独立なんて夢のま
た夢。手のかかるガキのようなもんだ。マーマがいなくなってあたしが壊れて
しまったように、あたしがいなくちゃまともに動けない。

「……ハダリー、あんた、あたしがいなくなったらどうする」

 珍しく人造僵尸が返事に窮した。ない頭をフル回転させて答えを探している。
 答えなんて、見つかるはずがないのに。あたしですら答えられなかった、答
えたくなかった問いを、こんな死体に見つけられてたまるか。
 ……あんたを自由になんて絶対にさせないよ、ハダリー。

「申し訳ありまン。私には分かりませんン」

 だろうな。

「ひとつ、勉強させてやるよハダリー」

「ハヰ、社長」

「いま、あんたが抱いた思いが、寂しい≠チてやつだ」

90 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 00:23:39

 分かったのか分かっていないのか、ハダリーはお馴染みの「ハヰ、社長」と
いう返事を繰り返しただけだった。……別にあたしも、感動を抱かれることを
期待したわけじゃない。こいつはこれでいいんだ。馬鹿なままでいいんだ。

 ハダリーが事務所に帰ってやることの指示を出す。
 事業と不動産の処分。売値は問わないから、とにかく現金を作れ。在庫の商
品は全部同業に二束三文でくれてやれ。あたしの工房は、ハダリーの予備のパ
ーツと最低限の仕事道具を持ち出して、あとは念入りに破壊しろ。
 最後に「行け」と命令する。「ハヰ、社長」とハダリー。

「ハダリー」

「ハヰ」

「社長はやめろ」

「ハヰ、社長」

 くそったれめ。
 あたしはほんの少しだけ、笑ってもいい気分になれた。どん底に浸っている
ときでも馬鹿を見れば心は和むもんだ。

 認めざるを得ない。あたしはハダリーにすら依存している。自由になんてと
てもなれない。本物の孤独なんて考えられない。
 だけど、もうマーマはいない。
 その事実だけは絶対に揺るがないのなら。
 あたしの為すべきことはひとつ。

火蜥蜴≠フイーリンを縛る鎖はもう存在しない。誰もあたしを飼い慣らすこ
とはできない。あたしは―――自由だ。くそみたいに自由だ。


                  * * * *


 連絡も入れずに訪れたけれど、シャオジエはいつもの軽口も小言も封印して、
黙ってあたしを部屋に通してくれた。
 二十時間ぶりぐらいだろうか。前にこのスイートルームに訪れてから一日す
ら経っていないのに、室内の瀟洒なインテリアも、シャオジエの愛敬のある美
貌も、なにもかもが変わって見えた。……それはきっと、あたしが変わってし
まったからだろう。二十時間前のあたしはまだ、なにも失っていなかった。

「悪いけど時間がない。要点だけを話すぜ」

「阿嬌が死んだらしいアルね」

「知っていたのか」

 さすがはシャオジエ。情報の敏さは一級品だ。こんなお高いホテルに籠もっ
ていても、知るべきことはすべて知っている。

 シャオジエはがくりとうなだれた。

「阿嬌とワタシはずっと親友だったアルよ。お互いにたくさんお金儲けした仲
ネ。だからこの結果悲しいアル。火蜥蜴にかける言葉見つからないネ」

 いつもの茶化す口ぶりは影をひそめている。……ま、当然か。

「そういうのはどうでもいいんだ」

 シャオジエの慰めをあたしはばっさりと切り捨てた。 

91 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 01:22:20


 あたしがわざわざシャオジエのもとまで足を運んだのは、一緒にマーマとの
思い出を偲ぶためじゃない。マーマという後ろ盾がいなくなったいま、あたし
が頼れる唯一のオトナ=シャオジエに、利害の関係を無視して頼みたいことが
―――いや、縋り付きたいことがあったからだ。

「あたしは外≠ヨ行く」

 だからあんたのリージョン・シップに乗せてくれ。

 ……この頼みは、シャオジエの予想の範疇を大幅に逸するものだった。彼女
はマーマを失った悲しみすら忘却して、ただただ唖然と目を丸めた。

 しかたがない。シャオジエの反応は健全だ。どう予測すれば、あたしの口か
ら『外≠ヨ行く』なんて言葉が出ると思うのか。
 言ったあたし自身が、その不自然さに面はゆくなってくる。
 だけど、大真面目だった。真剣に頼んでいた。この望みを叶えてくれるのは
プライベート・シップを持つシャオジエだけだ。
 出入国管理証明書を持たないあたしは、正規の手段でクーロンを出ることは
できない。密出国の手段はいくらでもあるけど、クーロンの場合はその全てが
マフィアと絡んでいる。連中の手を借りるわけにはいかないんだ。

 正気なのか、本気なのか。―――そんなのは問うまでもなく、あたしの目を
見れば分かるはずだ。だから丸まっていたシャオジエの目も、次第に細められ、
商売人の鋭さを取り戻しただけで「馬鹿なことは考えるな」なんて馬鹿な説得
をしたりはしなかった。

「金はある。マーマの遺産をいまハダリーに処分させているとこだ」

「……理由を、聞いてもいいアルか?」

 どうしてクーロンから出て行くのか。どうして、あんなに拒んでいた外
へと行く気になったのか。

「もう、ここにはいられないからだ」

「だから、それはどうしてアルか」

 あたしは、唇の隙間からひゅっと息を吸い込んだ。

「ダージョンを―――〈紅の魔人〉を、殺すからだ」

 本当の驚愕は、ひとから表情を奪い去る。このときのシャオジエも、いつも
の大袈裟で嘘くさい反応はせず、無表情にあたしを睨んだだけだった。

「チケットは三枚用意してくれ。あたしとハダリーと―――」

 力をこめて、その名を口にした。

「リリーの分だ」

 マーマを失ってしまった。
 いちばん怖れていた事態を迎えてしまった。
 だからあたしには、もうなにも、怖れるものがない。
 ゆえに、あたしは自由だ。 

92 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 23:16:51


 あたしはシャオジエに語って聞かせた。
 三輪トラックで配送中に、巨大蜘蛛のモンスターに襲われたこと。そのモン
スターを使役していたのが、〈黒死病〉の凶手だったということ。黒社会に命
を狙われるかもしれなくなったあたしを、リリーが庇ったこと。……その代償
として、リリーは外≠諦め〈火焔天〉へ帰ってしまったこと。
 あたしがロートルを殺したこと。あたしの目の前で、マーマが投身自殺をし
たこと。……そしてあたしは自由になったこと。
 ―――シャオジエと別れてからいまに至るまでの二十時間。その間に起こっ
た一連の事件すべてを説明した。
 それを踏まえて、あたしは改めて断言する。

「リリーは外≠ヨ行く。あたしと一緒に行くんだ」

 そう決めた。自由なあたしが決断した。
 マーマもそうなることを望んでいるはずだ。
 あたしがあの阿片窟でリリーのことをマーマに教えなければ、きっとマーマ
は飛び降りなかったと思う。なんの根拠もない推測だけれど、マーマは自分が
あたしの枷になっていることに耐えられなかったんだ。
 だから、飛び降りた。
 あたしはその責任を取らなくちゃいけない。

 それまで黙っていたシャオジエが、ようやく口を開いた。

「自分の言ってることが、どれくらい難しくて、現実離れしていて、荒唐無稽
かは、分かっているアルな」

 ふん、と鼻を鳴らす。
〈妖魔租界戦争〉の発端と謂われる運命の赤児≠力ずくでさらってしまう
んだ。相手は妖魔租界を単身で壊滅させた伝説の魔人と、その配下のクーロン
・マフィア。常識を無視した愚行なのは間違いない。
 ちんけな故買屋の小娘になにができる。返り討ちに遭うのがオチだ。

 昨日までのあたしなら、やるだけ無駄とせせら笑っただろう。
 だけど、いまのあたしには諦める理由がない。例え愚かな真似だったとして
も、それでリリーとまた会えるのなら、彼女に夢の続きを見せてあげられるの
なら、いくらでも愚かになってやる。リリーがあたしを救ったように、今度は
あたしが彼女を救うんだ。

 それに、勝機はある。勝率は決して低くない。

「シャオジエ。あんた、このあたしが誰か分かっているのかい? 阿嬌の後継
者、火蜥蜴≠フイーリン様だぜ。そりゃ、〈紅の魔人〉に比べればいくらか
見劣りはするだろうけどさ。あたしだってクーロンではちょっとは名の知れた
女なんだ。一杯食わせるぐらいのことは、やってやる」

 今度はシャオジエが鼻で笑う番だった。

「一杯食わせるなんて、そんな甘い表現じゃ追いつかないアルよ」

「そうかもな。けど、勝つのはあたしだ」

 シャオジエは目を眇めた。あたしの断固たる口調の根拠を探している。ここ
まで自信を持つからには、相応の計画があるんだろうね、と無言で尋ねてくる。

93 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 23:20:29


「分かってはいると思うけれど、〈火焔天〉は〈針の城〉のど真ん中にあるア
ルよ。あそこだけは、ビルじゃなくて一個のお屋敷ネ。〈針の城〉の道は複雑
で地図なんてないけれど、どう足掻いても〈火焔天〉には辿り着けないの有名
な話。〈針の城〉の第一層から第十層までは、〈火焔天〉の城塞に過ぎないな
んて言う奴までいるくらいアルよ。……例外は上空からの侵入だけれども、ま、
それも火蜥蜴には厳しいネ」

 ああ、と頷く。〈火焔天〉に行きたいのなら、空を飛ぶか、乱立するペンシ
ルビルの屋上を飛び移れ。これは有名な攻略法だ。いくら高くそびえ立つ城塞
でも、理論上は、飛び越えてしまえばそれでお終いなのだから。
 けど、シャオジエの言う通り、その攻め方はあたしには難しい。第一にあた
しは空を飛べない。第二に、いくら身体能力が優れていると言っても、ビルの
屋上から屋上を飛び移るなんてアクロバットな真似はできない。
 九層や十層ならともかく、二層や三層の密集率が低く高度もまばらなビル群
の屋上では絶対に不可能だ。
 それに、「上が弱点」なんてことはクーロン・マフィアだって百も承知して
いる。飛び込んでも迎え撃たれる可能性がひじょうに高い。

「なら、どうするアルね。地上からの道は誰も知らないアルよ」

 道は地上にだけにあるとは限らない。上空だけが唯一の道でもない。あたし
のたったひとりの友達は、上でも下でもない第三の道≠使っていた。

「縮地法≠使って、リリーが監禁されている部屋に直接跳ぶ」

 シャオジエの表情が露骨に変わった。あからさまに、あたしを馬鹿にした目
つきになる。

「ワタシ、悲しいアル。火蜥蜴はもうちょっと賢い娘だと思っていたヨ」

 魔術回路すら持たない半端な小娘が、仙人の奥義である縮地法を使えるはず
がないだろう。ちょっとは考えてものを言え、悪童が。―――そう、言いたい
わけだ。ついでに「私ですら使えないんだから」もつけられるかもしれない。

 シャオジエの疑念はもっともだ。あたしに縮地法を使いこなせるはずがない。
 莫大な魔力と、それを扱う才覚を持ち合わせているリリーですら、縮地によ
る移動が可能なのは〈針の城〉の城内という極めて限定的な領域のみだった。
 だけど〈針の城〉の城内に限っては、リリーは霊走路網を書き換え、自分の
管理下に置き、どんな場所でも跳べるようになった

 霊走路網というのは霊脈の地図みたいなものだ。人体の血管の如き細かく走
る霊走路をすべて理解すれば、リリーのように、どこにでも現れて、どこから
でも消えるようなとんでもない真似もできるようになる。
 ……けど、そうじゃなくても。
 地図を読むとき、リリーのようにすべての道を暗記する奴はいないように、
目的地までの道―――たったひとつの霊脈の〈径(パス)〉を知るだけでも、
その霊走路のみを利用し、縮地法に応用することは可能だ。
 まぁ普通は、〈径〉を見つけることすら不可能なんだけれど。
 
 ……生憎とあたしは、リリーほどじゃなくても、普通ではなかった。

「あたしは自分の目で何度も見ているんだ。リリーがお気に入りの〈径〉を通
って、あたしの部屋に遊びに来る様子を」

 シャオジエは、はっと顔をあげた。
 あたしは中指で右眼の眼帯を撫でながら言った。

「自分で〈径〉を見つける必要はない。リリーが彼女の部屋からあたしの部屋
へと直接跳んできた〈径〉を、逆に辿ればいいだけだ」

 あたしの右眼なら、その〈径〉を視ることができる。

94 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 23:22:48


 もちろん、〈蜥蜴の眼〉だけでは縮地法は使えない。霊走路の〈径〉が視え
たところで、奇門遁甲の方位術を理解していなければ跳びようがない。
「天・地・人」の三式のうち、地を代表する奇門遁甲の術は、応用範囲が広く
触れやすい一方で、果てしなく奥が深い。一朝一夕で学べるものじゃなかった。
 しかし、覚えることはできなくても、入力≠キることはあたしにとって比
較的容易い。―――なんのためにハダリーがいるのか。なんのために「霊体計
算機」「霊体頭脳」などと呼ばれる人造霊があるのか。
 心霊工学の目的は、神秘の機械化だ。術理だけなら、どんな複雑な式でも人
造霊にプログラムさせることができる。

〈径〉をあたしが作り、術をハダリーが担い―――

「魔力はどうするアル? 奇門遁甲を知ったところで、仙丹がなければただの
星占いか健康法アルよ」

 その問題もすでにクリアしている。
 ハダリーの右眼に埋め込んだ魔石から供給しても良かったけど、そうなると
猫睛石の干渉を受けることになる。ハダリーの術の成功率が歪んでしまうかも
しれない。失敗すればあたしの躰はばらばらだ。あまり冒険はしたくない。
 だから、

「数秘機関(クラック・エンジン)を使う」

 三輪トラックが巨大蜘蛛に潰されたせいで、裸のエンジンが一個、事務所に
眠っていた。いまハダリーがあたしの部屋へ運んでいるはずだ。
 数秘機関の出力量ならばあたしを〈火焔天〉まで楽に送り込めるはずだ。

「呆れたアル」

 シャオジエは大袈裟に肩を竦めた。

「転移装置を作る気アルか。もう風水の範疇じゃないアルよ」

「仕掛けはいまから作る。〈針の城〉のあたしの部屋でね。ハダリーの手を借
りれば、大して時間はかからないさ」

「お姫様のベッドまでどうやって行くか、は分かったアル。……で、それから
はどうするアルか? 話を聞くとその縮地は一方通行の片道切符よ。〈径〉は
火蜥蜴しか視れないんだから、当然、跳べるのも火蜥蜴だけある。数秘機関も
ミノタウロスも置いてけぼり。それでどうやって帰るアルね」

「でっかい花火を上げるさ」

 帰りはリリーの縮地法に随伴つかまつりたいところだけれど、そううまく話
が進むとは思えない。いまの彼女には何らかの封印が施されていると考えるべ
きだ。そうでなければ、簡単に〈火焔天〉から逃げ出せてしまう。

「ハダリーに迎えに来てもらう」

 行きと違って、帰りは力ずくだ。
 ハダリー……いや、この場合、猫睛石と呼ぶべきか。支配率を大きく魔石寄
りにした彼女ならば、真っ当な攻略手段―――つまり、ビルの屋上から屋上へ
と飛び移って〈火焔天〉に侵入することもできる。
 あたしを護る必要もなく、力の制限を課せられることもなく、魔力の奔流に
突き動かされるままに稼働するハダリー/猫睛石の戦闘能力は、クーロン・マ
フィアの迎撃などいとも容易くはねのけてくれるはずだ。

 クーロン・ストリートのクーデター騒動も、マフィア連中の戦力を分散させ
るという意味で、あたしに有利に働いてくれるだろう。
 

95 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 23:26:16


 それでも、縮地法を成功させればいいだけの行きの道と違って、帰り道は大
きなリスクを伴う。賭となる部分が大きい。なにしろ、〈火焔天〉にはどれほ
どの兵力が詰め込まれているのか、常駐している凶手の戦闘力はどの程度なの
か、あたしにはまったく分からないからだ。リリーを人質にとろうとは考えて
いるが、それもどこまで通用するかは分からない。

 とにかく迅速に行動する。リリーの身柄を確保したら即座に離脱する。シャ
オジエが待つシップ・ターミナルまで逃げ込めれば、あたしの勝ちだ。

 ……しかし、このゲームに勝つためには、もっとも大きな難題がまだ残って
いる。それはシャオジエも分かっているはずだ。

「―――結界」

 彼女の呟きに、あたしは「ああ」と不機嫌に返事した。

 リリーを閉じ込めるために用意された、本物の檻。〈針の城〉より外の世界
を絶望させた忌まわしき鳥篭。これを取り除かない限り、〈火焔天〉からリリ
ーを連れ出せたところで、外≠ヨ行くことは叶わない。

 この結界の対処について、二つの手段をあたしは考えている。

 ひとつは、他人にならばできずとも、あたしにならできること。蜥蜴の血肉
を持つあたしなら、結界そのものを破壊することはできなくても、一部を一時
的に無効化することはできるかもしれない。

 もうひとつは、〈紅の魔人〉を殺すこと。
 結界を張ったのが彼ならば、殺せば結界は消滅する……かもしれない。消え
ない可能性もある。五分と五分の勝負だ。

 あたしの力では結界を破れず、〈紅の魔人〉を始末しても結界が消滅しなか
ったらどうするか。それは「あとで考える」しかない。
 どちらにせよ、クーロン・マフィアのボスである〈紅の魔人〉を殺せば〈針
の城〉は混乱に陥る。姿はいくらでも眩ませられるはずだ。

 ―――だから。
 リリーを救うということは、〈紅の魔人〉を殺すことと同義。
 あたしが、あたしの手で伝説を終わらせるんだ。

 よっぽどあたしの計画が面白かったのか、シャオジエの口元には笑みが広が
っていた。底意地の悪そうな微笑で尋ねてくる。

「〈紅の魔人〉をどうやって仕留めるつもりアルか。あのミノタウロスじゃ、
彼は斃せないアルよ」

「やってみなくちゃ分からないぜ」

 あたしのハダリーは最強だ。

「無理アル。甘く考えすぎネ」
 
 そう言うとシャオジエは、チーパオ・ドレスのスリットから素足を放り出し
た。太股のベルトにさしていた短剣を鞘ごと抜くと、あたしに投げて渡す。

「それ使うネ。あんな出来損ないの僵尸よりかは、良い働きするアルよ」 

96 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 23:29:48

 短剣は、シャオジエにしては珍しくクーロン的な拵えではなく、共同租界の
外国人が携帯していそうな両刃のものだった。
 鞘は鉄製だろうか。表面に天鵞絨を張って高級感を出している。ハンドルの
部分には荊の蔦が彫金されている。装飾が過剰な分だけで、実用性に乏しいよ
うに思えるが……。

 ―――そんな感想も、鞘を払って刃を露わにしてみると一転した。

「こいつは……」

 成人男性の手首から指先程度の長さの刃は、光から見放されたかのように、
深い紅に沈んでいた。禍々しく毒々しい魔性の紅色だ。
 眼帯を外さずとも、肌から痺れるように伝わってくる濃密な魔力。ハダリー
の右眼の魔石と比べても遜色がないほどだ。……なるほど、シャオジエが請け
負うだけのことはある。こいつはとんでもない一品だ。

「ワタシの杖<Aル。大切に使うよろし」

 魔術師が自分の魔力を増幅させるために使用する杖は、あくまで概念上の道
具であって、実際に杖のカタチをしているわけではないと聞いていたが、シャ
オジエの場合は短剣のカタチをとっているというわけか。

「ありがたく使わせてもらうぜ」

「一億クレジット。現金でよろしくアル」

「あたしが死んだら、死体を売って金にしてくれ」

 軽口に軽口で応えつつ、短剣を鞘に収め、ブルゾンのポケットに突っ込む。
その動作だけでもかなりの緊張を強いられた。

 説明も終わり、必要な儀式はすべて済ませた。シャオジエは、あたしとリリ
ーをリージョン・シップに受け容れると約束してくれた。これで安心して、あ
たしは死地へと乗り込むことができる。

 別れ際に彼女は言った。

「これが最後かもしれないアルね」

「縁起でもないこと、言うなよ」

「成功したらクーロンはめちゃくちゃネ。旅行者としては、クーロン港による
のに制限がかかるような事態は、あまり嬉しくないアル」

「成功しなくたってもうめちゃくちゃだよ。クーロン・ストリートの騒ぎは、
IRPOが鎮圧部隊を出したらしいぜ。あたしはその騒動に便乗するだけさ」

 それもそうネ、とシャオジエは笑った。あたしも口元を緩めた。

 二度と会えないかも。そう考えると、もっとしんみりとした別れを演出する
べきだったかもしれない。けれど、そういう気分にはならなかった。
 マーマが死んでも、あたしが死ぬかもしれなくても、シャオジエは自分のペ
ースを崩さない。いつも通り、緊張感のない姑娘のままだ。だからまた会える
ことについても、疑いの余地を抱かせてくれなかった。
 あたしは彼女と会ったことで、初めて、この試みが成功するかもしれないと
思えるようになった。本当に、リリーを助け出せるかもしれない。
 一緒に、外≠ヨ行けるかもしれない。

 ……ありがとう、シャオジエ。

 感謝の念を胸に秘めて、あたしはホテルを後にした。

97 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/03(月) 21:01:33



                  * * * *


 第八層のあたしに部屋に戻ると、リビングのカーペットを剥ぎ取って床に直
接方位陣の下書きを書き込み始めた。
 携帯用の霊気羅針盤とあたしの右眼を頼りに、リリーが開いた〈径〉の残り
香を特定する。地道な作業で、時間が流水の如く流れていく。

 資産の整理を終えたハダリーが帰ってくると、下書きを中断して彼女の調整
に移った。非正規の手段で手に入れた陰陽五行の理気を人造霊にインストール
し、ハダリーを即席の風水師に仕上げる。
 魔法円や方位陣のような精緻さが求められる作業はハダリーの領分だ。調整
を済ませた彼女には、早速、あたしが書いた下書きの清書を頼んだ。
 ハダリーが筆代わりに使っているのはミスリル製の匕首だ。数秘機関を稼働
させ、鋼線で繋いだ匕首の切っ先に魔力を集中させる。これであたしやハダリ
ーのように、魔力回路を持たない術者でも、強力な魔力を内包した魔法円を書
くことが可能になる。方位陣の場合も同様だ。
 機械の正確さで方位陣を組み立てていくハダリーの背中を見守り、あたしは
満足そうに頷いた。

 集めた現金はすべてシュライクの架空口座に入金させた。一枚の磁気カード
があたしの全財産だ。

 シャオジエと別れてから六時間。ようやく方位陣が完成した。

「……ちょっと疲れた、かな」

 あたしの言葉に、ハダリーが首を傾げた。
 あたしも彼女も睡眠を必要としない。故買屋商売が忙しかったときは、一ヶ
月も二ヶ月も休息無しで駆け回ったことすらある。それに比べれば、この程度
の慌ただしさなど屁みたいなもの。どうしてあたしの口から「疲れた」なんて
言葉が出てくるのか理解できない―――そう言いたいのだろう。
 それでもハダリーは気を利かせて「少シ休ミマスカ」と言ってくれる。

「いや、大丈夫」

 時間が惜しい。クーロン・ストリートの様子が気にかかる。
 クーデターは鎮圧されたんだろうか。それとも混乱は未だに続いているのか。
続いているにしろ鎮められたにしろ、針の城から来た女≠ヘ目的を遂げたの
か。あたしを利用する気はもうないんだろうか。
 ……いま、クーロンではなにが起ころうとしているのか。

 分からないことが多すぎる。考えるな、とあたしは胸裏で言い聞かせた。
 あたしの目的はシンプルだ。リリーを助けて、シャオジエの船で外≠ヨ行
く。たったそれだけだ。他になにも、特別なことなんてしようとしていない。

 裏切られ続けてきた人生だった。
 笑うことより泣くことのほうが圧倒的に多かった。
 このまま夜に沈むのか。それとも陽光の下に飛び出すのか。
 ここが境界線だ。

 あたしはリリーに会いたい。彼女の見る夢を叶えてあげたい。
 そして一緒に―――

「……始めようぜ、ハダリー」

 あたしは静かに言った。

98 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/03(月) 21:01:46


 眼帯を引き千切ると、ハダリーに投げ渡す。
 ハダリーは仮面越しにあたしを見つめた。

 彼女の逡巡―――眼帯を手放すということは〈蜥蜴の眼〉を隠さないという
こと。常時魔眼を開きっぱなしにすれば、それだけあたしの躰に負荷がかかる。
 十年前、シャオジエから魔眼殺しの眼帯を渡されてから今日まで、眼帯を誰
かに預けたことなんて一度もなかった。だけど、これからの時間は……。
 右眼を隠す余裕なんて、ない。

〈蜥蜴の眼〉を眇めて、霊脈の流れから〈径〉の名残を見出す。
 ハダリーが数秘機関の出力を最大値まで上げた。方位陣が発光を初め、暗闇
の屋内を蛍光色で燃え上がらせる。

 かつ、かつ―――とあたしのエンジニアブーツの爪先がリズムを刻む。それ
にならって、ハダリーは奇怪な踊りを始めた。腰を屈め、足首をねじり、大袈
裟に足をあげながら方位順の外周をなぞる。
バカ歩き(シリー・ウォーク)≠ニ呼ばれる遁甲術特有の歩法だ。

 ハダリーの歩法のリズムに合わせて、あたしは床を踏む、踏む。

 霊脈のトンネルが開かれるのを、あたしの右眼は霊視し―――

 ハダリーになにか別れの言葉を言おうかと悩んだ。
 彼女とはこの後、火焔天で合流する予定だ。あたしは縮地法で移動し、ハダ
リーは自分の足で中央まで強行進撃する。
 地獄で会おう、とか。遅刻するなよ、とか。そういう軽口が必要な気がした
けれど、レイ・ラインのトンネルはあたしの迷いを待ってはくれなかった。
 ハダリーのバカ歩き≠ノ促されるままに、あたしは転移を初め、百億の距
離をゼロに詰めて、空間を跳躍した。


  リリー、とあたしは唇の内側で彼女の名を呟く。
  あの時、あんたがあたしを守ってくれたように。
  今度はあたしが、あんたを守る。


 跳躍は一瞬で終わった。感覚としては、視界が切り替わっただけ。風水術の
究極を成し遂げたという実感は薄い。
 あたしはベルトに差した短剣の柄に手を置きながら、周囲を見渡す。
 転移した先がリリーの居場所だというのは、彼女が幽閉されている事実を鑑
みれば当然の予測だ。転移先がクーロンのマーケットだったなんてことは絶対
にあり得ない。だから、ここにリリーがいるのは間違いないんだろうけれど。
 
 ……なんだ、ここは。

 あたしが転移した先は、幽閉や監禁という言葉から連想される場所とはかけ
離れていた。―――壁が見えないほど広い面積。空に届きかねないほど遠い天
井。雑多で狭苦しい〈針の城〉とは似つかわしくない贅沢な空間の使い方に、
あたしは戸惑いを隠せない。
 なによりも驚いたのは、ドーム状の広大な屋内に立ち並ぶ本棚の数だ。目に
つくのは本と本と本ばかり。さながら書籍の〈針の城〉だ。世界中の本という
本がここに蒐められているんじゃないかと錯覚させられる。
 リリーは、こんなところで十年以上のときを過ごしてきたのか。
 
「リリー!」

 彼女の名を叫びながら、あたしは〈図書室〉をさまよう。こんなのは予想外
だ。牢獄とまでは言わなくても、監禁されているからにはひとが一人居住でき
る程度の空間を想像していた。こんな馬鹿広い上に障害物が多い空間で、彼女
を見つけるまでにどれだけの時間がかかる。五分か、十分か。
 焦りによって冷静さを失いかけたあたしだったけれど、意外にも、リリーは
あたしの呼び声に素直に応じてくれた。

「―――こっちじゃ」

 鈴の音のような声が、〈図書館〉に響く。
 ……それは間違いなくリリーの声だった。けれども、あたしが知る彼女の声
に比べると、ずっと抑えられていて、あの媚びを孕んだ無邪気さは微塵も感じ
られなかった。つまり、同一でありながら別種の声。

99 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/03(月) 23:13:14


 声に誘われるがままに〈図書館〉を進む。
 迷宮の如く立ちはだかる本棚と本棚の狭間。ハダリーの身長よりも背の高い
脚立に腰かける人影を認めて、あたしは足を止めた。
 ……木製の脚立に座っているのはリリーだった。
 鈍器のような厳めしい装丁の本に視線を落としている。あたしには気付いて
いるはずなのに、見向きもしない。

 再会を喜ぶべきだ。会いたかったと素直な気持ちを告げるべきだ。
 けれど、あたしの口元は緊張したまま一向に緩もうとしない。脚立の上に座
す彼女を、黙って見上げることしかできない。
 目の前にリリーがいるのに。

 しかし、彼女は本当にリリーなのか。
 本を黙々と読み進める彼女の横顔は、幼いながらも、寒気を呼び起こすほど
に美しく、十二分に「女」として通用する。ひとを惑わす魔女のままだ。
 けれど、なにかが違う。なにもかもが違う。同じなのは容姿だけ。服装さえ
も、いつものドレスではなく、京風のキモノ≠まとっていた。
 髪も結い上げてるせいか印象がだいぶ違う。

 もっとも違和感を覚えるのは、あれだけ周囲を圧倒していた莫大な魔力が、
いまのリリーからはまったく感じられないことだ。
 リリーを魔女たらしめる魔力が、〈針の城〉をも支配した無限の魔力が枯
れてしまったのかと、一瞬だけ疑った。しかし、すぐにそうでないと気付く。
 リリーはあの魔力を持て余していた。あまりに強大なせいで押さえ込むこ
とができず、いつも躰から溢れさせていた。
 けれどいまの彼女は、自らの魔力を完全に制御下においている。支配しき
っている。だからこんなに静かなんだ。

 唇が震える。
 膝が笑う。

 リリーはあたしを見ない。頑なに読書を進める。
 この反応からして、すでにおかしいんだ。
 来るはずのないあたしが、来てしまった。それに対して、喜ぶなり、怒るな
りのアクションがあっていいはずじゃないか。
 なのに彼女は、あたしを見ようとしない。

 あたしは呆然と立ち尽くすことしかできなかった。不安に縛られ、恐怖に負
け、なにも尋ねることができなかった。

 そんなあたしの様子を気配だけで覚ったのか。リリーは本に目を落としたま
ま、眉を寄せて「―――愚かものめ」と呻いた。

「まさか、縮地の足跡を辿ってくるとはのう。とんでもない離れ業をしてくれ
たものじゃ。無謀も度が過ぎれば奇蹟となる良い見本か」

 耳を疑った。これがリリーの唇が出た言葉なのかと。

「なぜ来た。……そんな問いは今更したところで詮無きことじゃ。すぐにでも
立ち去れ―――と言っても、縮地での帰路は用意されておるまい」

 やれやれ、と彼女は大袈裟に嘆息を漏らす。

「ここでおまえを殺めれば、あの女の絵図通りにことが進んでしまう。しかし、
閉じ込めておくにはリスクが大きすぎる。……やはり、大人しく帰ってもらう
しかないのう」

100 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/03(月) 23:35:25


「あんたは誰だ!」

 ようやく、言えた。

「リリーはどこにいる!」

 訊きたくなかった。知りたくなかった。答えを聞いてしまったら、あたしは
二度と立ち直れない。けれど、このままこいつに喋らせておくのは我慢がなら
なかった。あたしはリリーに会いに来たんだ。彼女を取り戻しに来たんだ。

 リリーに酷似した少女は、やはり本を読みながら真実を告げた。
 残酷な、真実を。

「―――あの白百合の娘は、もう、どこにもいない」

 脚立を蹴り倒した。少女の矮躯が宙を舞う。あたしは抱き止めようとしたけ
れど、彼女は身軽な動作でくるりと反転すると、音もなく床に着地した。
 右の魔眼が、少女の魔力の流れをはっきりと識別している。

「暴力はやめよ」

 しれっと少女は言うと、立ったまま読書を再開した。

「なあ、教えてくれよ」

 縋るようにあたしは言う。
 
「リリーはどこなんだ。いったいどこに隠れているんだ」

 少女の返答は、あくまで冷淡だった。

「二度は言わん」

 胸ぐらを掴んで、絞め殺してやりたい衝動に駆られる。けれど、あたしは伸
ばした手を空中で止めた。
 別に、少女の魔力に阻まれたわけじゃない。暴力に身を任せる。その行為が
どれだけ虚しいのか、あたしは分かってしまったからだ。

 あたしの左眼は欺けても、右眼は決して誤魔化せない。目の前にいる彼女が
リリーはどこにもいないというのなら、きっとそれが真実なんだろう。

『イーリン、勘違いしないで。これは犠牲でも献身でもないの。初めからこの
物語にハッピーエンドは無かっただけ。物語の舞台は、最初から最後まで〈針
の城〉だったのよ。わたしが外≠ヨ行くシナリオなんて用意されていなかっ
たのよ』

『そしてお姫様は醒めない眠りにつき、終わらない夢を見るの』

 ―――こういうこと、だったのか。

 あたしはその場に跪いた。床に突っ伏し、大理石の冷たさを感じた。

 物語の舞台は最初から最後まで〈針の城〉。……あのときは、あたしの助命
を嘆願した代償として、外≠ヨ行けなくなることを指していたのだとばかり
思っていた。でも、そうじゃなかった。
 リリーは自分の運命を諦めていたんだ。

101 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/04(火) 01:10:23


「語れば、長くなる」

 あたしの絶望を見抜いたのか、少女は冷たく言い放つ。

「わらわが何者か。それを説明したところで、きっとおまえは理解できまい。
例え理解できたとしても、なにも変わらぬ。……しからば諦めよ。すべて忘れ
よ。不夜城に帰れ」

 少女はリリーだ。しかし、リリーじゃない。
 二重人格だったのか。それともリリーは表層意識で、少女は封印された意識
だったのか。……それがどういうことを意味するのか。どんな事情でそうなっ
たのか。彼女の言う通り、あたしには理解が及ばないだろう。
 
 リリーがどうして〈運命の赤児〉と呼ばれていたのか。なぜリリーの出生が
発端となって〈妖魔租界戦争〉は勃発したのか。その答えが、目の前にある。
 けれど、あたしはそんなことを知るためにここに来たんじゃない。
 ただリリーに会いたくて。リリーと一緒に外≠ヨと飛び出したくて、霊脈
のトンネルをくぐって来たんだ。……なのに、こんな結末。

 違う。そうじゃない。まだ終わりなわけがない。
 リリーはいないだって? なら、目の前に立つこいつは誰だっていうんだ。

 あたしは躰を起こすと、床に直接あぐらをかいた。

「一つだけ、聞きたいことがある」

 あたしの声が冷静だったことに意表を突かれたのか、本を読む少女の横顔に
僅かな同様が見えた。あたしは構わず言葉を続ける。

「リリーは死んだのか」

「……そう思ってくれて、構わぬ」

「ていうことは、死んでいないってことだな」

 リリーは諦めたのかもしれない。けれど、あたしは諦めない。

「おまえがそう思いたければ、そう思うがいい。しかし、あの娘が消えてしま
ったという事実は変わらぬ」

 あたしは返事もせず黙り込んだ。そして十秒ほど待ってから、まったく関係
のないことを呟いた。

「マーマが死んだんだ」

「……知っておる。だからここに、来たのじゃろう」

 ふ、とあたしは口元を緩ませた。この〈図書館〉に来て、初めての笑み。

「やっぱり、あんたがリリーだ」

 少女がリリー以上の力を持つのならば、〈針の城〉の様子は完全に把握して
いる。虫の羽音すら聞き漏らしはしないだろう。……しかし、それは注意して
いればの話だ。第八層の酔客がどうしただとか、第十層の地縛霊がなにをして
いるだとか、そんなことをいちいち意識してはいまい。
 なのに少女はマーマの自殺を知っていた。それは、あたしとマーマの関係を
彼女が知っているからだ。
 リリーの記憶を引き継いでいる。同じ肉体を持っているのだから、それは当
然だろう。でも、人格が入れ替わり、あたしとまったくの他人になったのなら
ば、あたしやマーマを気にかける理由なんて無いはずだ。

102 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/04(火) 01:10:38


 動揺は微々たるものだった。けれど、その僅かな隙をあたしは見逃さなかっ
た。―――あたしの言葉に反応して、少女の瞳が一瞬だけ泳いだ。本から目が
離れ、初めてあたしを見た。そのときの、少女の表情。瞳に秘められた哀切。
 どうして少女は頑なに読書に勤しんでいたのか。どうしてあたしを一瞥すら
しなかったのか。……もっと早く分かってやるべきだった。
 見るのが辛かったからだ。見たら感情を殺しきれなくなるからだ。

「……愚かなことを言う。受け容れがたい真理なのは分かるが、だからと言っ
て己を誤魔化しても、哀しみが深まるだけじゃぞ」

「違う。あんたはリリーだ。そうじゃないって言うのなら、リリーがあんただ
ったんだ。どっちでもいい。あたしにとってはどっちも同じことだ」

 少女はあたしを知っている。リリーの記憶を引き継いだように、感情も受け
継いでいる。―――いや、継ぐという表現そのものがが間違っているんだ。
 少女はリリーなのだから。リリーは少女なのだから。

「十年間、記憶喪失をしていた人間が、ふとした拍子で過去の記憶を取り戻し
た。そいつはもう他人なのか。十年の間活動していた人格とは別人なのか」

 あたしは、そうは思わない。

「リリーは眠る度に夢を見ると言っていた。不思議な夢で、自分では絶対に体
験しないものだと言っていた。それはあんたの記憶だったんじゃないか。リリ
ーは無意識の世界で、あんたの記憶を覗いていたんじゃないのか」

「……生意気な娘じゃ」

「それはあたしのことを言っているのか。それとも、リリーのことを言ってい
るのか。だとしたら、あんたも生意気だっていうことになるな」

 少女は本を盾にしてあたしの視線から逃げようとしたが、そうすることの情
けなさに気付いたのか、溜息をついてから、本を倒れた脚立の上に置いた。

「おまえと言葉遊びをする気はない。わらわと白百合の娘の関係の解釈につい
ては、おまえ自身が導き出した答えに従えば良かろう。……しかし、それでな
にが変わる。おまえはなにをしたいのじゃ」

 あたしは笑った。夢の中でしか見たことのない太陽を連想させる笑みを、口
元に精一杯広げた。
 いまこそ言おう。ずっと言えなかった言葉を。リリーが待っていた言葉を。


 
「一緒に外≠ヨ行こう」

 

 今度こそ、少女は目に見えて動揺した。躰を硬直させ、目を瞠った。
 本を読むか眠るか。火焔天での生活はそれしかないとリリーは言った。それ
はいまも変わっていないはずだ。目の前の少女は、本の世界に閉じ込められて
いる。広くて狭い空間に監禁されている。
 これは少女の望んだ生活なのか。
 そうでないとしたら―――


103 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/08(土) 21:22:40


「……痴れ言を言う」

 少女の自嘲めいた笑みがあたしの確信を鈍らせる。リリーはこんなに達観し
た表情をする奴じゃなかった。

「おまえは分かっておらんのじゃ。自分が何者なのか。わらわが何者なのか。
なにも知らぬから軽々しく『外へ』などと言える」

 そうかもしれない。いや、その通りだ。
 あたしは知らない。理解をしていない。どうしてこんなことになってしまっ
たのか。その答えを見つけられないまま、ただがむしゃらに結果を作ろうとし
ているだけだ。―――その指摘は否定せず受け容れよう。
 でも。

「だからなんだ」

 あたしは吐き捨てるように言った。

「なんにも知らない馬鹿で臆病なあたしが、周回遅れでようやく理解したんだ。
リリーが外≠ノ憧れる気持ちが、彼女とあたしの出会いが、どれだけ劇的で
かけがえのないものだったか。これさえ分かれば充分だ。他のなにもあたしは
知りたくない」

 繰り返すぜ。そう前置きしてから、あたしは右手を少女へと差し出した。

「一緒に行こう。一緒に見よう。リリーが夢見た世界へ。あたしたちみたいな
はぐれ者を照らしてくれる太陽があるリージョンへ」

 手を取って欲しかった。けれど、少女の返事は頑なだった。あたしから視線
を逸らし、床を睨んだまま答える。

「無理じゃ。そんな真似は不可能じゃ」

 そうじゃない。それは答えになっていない。

「あたしが聞きたいのは!」

 少女の細い手首を強引に掴んだ。リリーの顔をして、リリーの声をして、こ
んな煮え切らない態度を取る彼女が許せない。

「あんたが外≠ヨ行くことを望んでいるのか、いないのか。それだけだ!」

 死ぬまで本棚に隠れて、太陽を知らないまま〈針の城〉で時間を消費してい
って、それで心が満たされるのか。リリーに希望を与えた夢の正体が彼女の記
憶だというのなら、こんな荒涼とした世界で満足なんてできないはずだ。

 これじゃあ立場が逆だな、とあたしは胸裏で失笑した。
 つい数日前まで、リリーにどんなにしつこく誘われても応じなかったあたし
が、いまはリリー――の顔と声を持つ誰か――を相手に、必死になって外
へ行こうを説得しているなんて。
 リリーが感じていた期待と焦燥が、いまならよく分かる。一人では駄目なん
だ。一緒でなければ意味がないんだ。

 もしもあたしの想いが間違っているのなら、この手を振り切ってみせろ!

104 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/08(土) 21:25:26


 ―――けれど、少女はあたしの手を引き剥がそうとはしなかった。

 力ではあたしのほうが強いかもしれないけれど、その膨大な魔力を用いれば
容易にほどけるはずなのに。……そうは、しなかった。

 俯いたまま、少女は唇を震わせる。

「なんて残酷な企みなのじゃ。なんて無情な策なのじゃ。奴めはここまで見通
していたのか。わらわが感ずるこの苦しみまでも、読んでおったのか」

「なにを―――」

 言っているのか。

「ひとの心どころか魂さえも弄ぶ。悦びを幻惑させ、地獄を天国と偽る。これ
が、例え一時であろうと人間の心を持った者が思い付くことか」

 少女は首を横に振り、「いいや、違うな」と自分の言葉を自分で否定した。

「人間であればこそか。人間であったからこそ、非人を極められるのじゃ」

是(シー)≠ネのか不是(ブーシー)≠ネのか。少女はあたしの問いに答
えていない。だけれど、あんなにも凜としていた彼女が、気の毒なぐらいに落
ち込んでしまっているため、急かすどころか、慰めの言葉をかけることすらで
きなくなってしまった。手首を掴む力も弱まってしまう。

「……イーリンよ」

 狼狽するあたしの名を、少女は静かに呼んだ。
 どきり、と鼓動が跳ね上がる。
 初めて名前を呼ばれた。……いや、そうじゃない。リリーには何回も何百回
もイーリンと呼ばれている。なのにあたしは新鮮な衝撃にたじろぎ、胸のうち
から湧く興奮に恥じらいさえも覚えてしまった。

「わらわは、おまえに詫びねばならない」

「詫びるって……」

 謝ることなんてなんにもない。むしろ、謝るべきなのはあたしほうだ。

「わらわのせいで、おまえと白百合の娘―――二人の乙女に嘆きの道を進ませ
てしまった。人生を大きく狂わせてしまった。すべてはわらわの咎じゃ。
 おまえら二人だけではない。わらわはわらわの勝手のために、多くの命を犠
牲にした。わらわがいなければ、何千何万という人間が寿命を全うできたやも
しれぬ。そんなこと、オルロワージュめを逆吸血したときに覚悟したはずなの
にのう。こういう事態に直面する度に、わらわの胸は学習もせず痛むのじゃ」

 オルロワージュ。その名を聞いて、場違いなあたしの興奮が醒める。無学な
あたしだって知っている、先代の妖魔の君。百年も二百年も前に、現妖魔の君
であるアセルス公に斃されたのはあまりに有名な話だ。
 そんな歴史上の妖魔の名を、どうして少女は口に出す。

「幾人もの命を見捨てて。幾万人もの命を犠牲にして。それでもわらわは繰り
返す。懲りずに生きようとする。なぜだと思う? ……不思議なものじゃな。
その答えを、あの白百合の娘はわらわ以上に理解しておったわ」

 あたしはもう、少女の手首を掴んではいなかった。手首ではなく、彼女の手
を握っていた。いつの間にか、少女はあたしの指に指を絡めていた。

「―――わらわは自由になりたかったのじゃ。零姫の名さえも捨てて、あらゆ
るしがらみを振り切って、自由に生きたかったのじゃ」

105 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/09(日) 21:42:47


「れい、ひ……め?」

 本名なのか愛称なのか、それさえもあたしには分からない。戸惑うあたしを
見て、少女――零姫と呼ぶべきなのか――は「さすがに知らぬか」と苦笑した。

「妖魔世界の事情に多少なりとも精通しておれば、幻の第0寵姫≠フ名を知
っておるものなのじゃがな……さすがにそれをおまえに求めるのは酷か」

 喜ばしく思うぞ。わらわを知らぬ人間が、世界が、この世には多く残ってお
る。その事実が、わらわを自由へと走らせる根源となっているのじゃから。。
 ―――そう言って淡く微笑む零姫は、あまりに儚く、あまりに幸薄かった。

「行ける!絶対に行けるよ!」

 衝動的にあたしは叫んだ。零姫の冷たい手を握ったままで。

「やっぱりリリーはあんただ。あんたはリリーだ。だって、あんたもリリーも
同じものを夢見てる。同じ憧れを抱いている!リリーもそうだった。リリーも
あんたみたいに、昼を忘れた世界で窒素していた。もっと広い世界へと飛び出
したがっていた!」

 零姫の表情がついに崩れた。泣きながら笑い、笑いながら泣いている。

「……似ているのう。おまえは、若かりし頃のあ奴にそっくりじゃ」

 あいつって誰だ。

「迷いながらも、傷みながらも、前に進むことを諦めないその在り方は、遠か
りし日のアセルスめをいやがおうにも連想させられる。奴はそれさえも理解し
ておるのじゃろうか」

 衝撃のあまり、あたしの表情は凍結する。
 アセルス。まさか、こんなところでその名を耳にするはめになるとは思わな
かった。こいつはいったい何者なんだ。魔≠フ代名詞たる妖魔の君をスラム
育ちの娘に過ぎないあたしと重ねるなんて。
 似ているとか、似ていないだとか。そういう比較ができる相手じゃないこと
ぐらい、冷静に考えれば分かるだろうに。それとも零姫にとって、妖魔公アセ
ルスとはそれ程までに近しい存在なのか。

 混乱するあたしを余所に、決意を燃やした瞳であたしを見つめながら、零姫
が手を握り返す。

「例えその道の先に哀哭が牙を剥いていようとも、わらわは、おまえを肯定し
よう。わらわの負けじゃ。わらわはおまえを拒めぬ。拒めるはずが、ない」

「それって―――」

 一緒に行くってことなのか。

 声に出して確認しようとした瞬間、あたしでも零姫でもない、第三者の声が
〈図書館〉に響いた。

「その決断の意味を、君は分かっているんだろうね。聡明なる零姫様」

106 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/09(日) 22:36:04


 ―――声は、あたしが想像していたよりもずっと静かで、繊細で、胸の裏側
を狂わすほどに妖しげな色気を孕んでいた。
 驚かなければいけないシーンなのだろう。あたしはここで「誰だ」と叫びな
がら振り返るべきなんだろう。……けれど、〈火焔天〉に来た瞬間から、〈針
の城〉の中央に乗り込むと決めたその時から、あたしは覚悟を決めていた。 
 むしろ、予定外の出来事に時間を取られすぎたとさえ思っている。転移した
その瞬間から、殺し合いが始まってもおかしくないと思っていたのだから。

 あたしはリリー/零姫を背に庇うようにしながら、ゆっくりと振り返る。

「……諸悪の根源」

 燃え上がる紅髪――あたしのような赤毛とは違う、本物の紅だ――を逆立て
た魔人が、本棚の向こう、狭い廊下に佇立していた。溶岩の瞳をあたしと、あ
たしの背後の零姫に向けて、不敵な笑みを浮かべている。

 ……これが、紅の魔人。
 クーロンの凶つ者、ダージョン。
 こんな優男が、そうなのか。

 たくましい筋肉の鎧をまとっているものの、躰の線は女のように細い。長身
なせいで、細身の印象を余計に引き立てている。脚にぴったりと張りついたレ
ザーのパンツをはき、裸体の上半身に直に深紅のコートを羽織っていた。
 左手には、赤鞘の大刀を無造作に提げている。

 男でありながら女でもあり、同時に男でも女でもない。―――中性的で無性
的な風格をたたえた美丈夫。容姿だけを見れば、クーロン・マフィアのボスに
なんて、とても見えない。けれど、肌にびりびりと感じる威圧が、どうしよう
もないほどに男とあたしの格の違いを訴えていた。
 ……こいつは人間じゃない。

 紅の魔人は、あたしを一瞥しかしなかった。視線はすぐに零姫へと向けられ
る。あたしに向けた視線が、羽虫を見る視線ならば、零姫を見つめる視線は、
憐れみと慈愛が融け合った保護者のそれだ。

「零姫様、さっきの言葉は本気なのかい」

 かける言葉には、優しさすら篭められている。

「……王手じゃよ。もはやどうしようもない。アセルスは、わらわが思った以
上に、わらわの考えを、弱点を見抜いておる。どう足掻いたところで、今回
も≠らわの負けじゃ。ならばせめて、悔いのない道を選びたい」

「彼女はきっと、君がそうすることさえ読んでいる」

「……じゃろうな」

 気配で、零姫が俯くのが分かった。紅の魔人は小さく溜息を吐く。

「慣れないことをするものではないね。君の苦しみを少しでも和らげるために
動いたつもりだったのだけれど、結果として、余計に君を傷めてしまうことに
なってしまった。僕はやはり、観測者で在り続けるべきだった」

「言ってくれるな。わらわは感謝しておる。おまえがわらわを保護せなんだら、
わらわはまたしてもアセルスめの手中に落ちていた。奴にこれ以上辱められる
のは、絶対にゴメンじゃ」

107 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/11(火) 23:47:21


 あたしを置き去りにして二人に会話は進む。
 ダージョンはあたしをまるで相手にしていない。〈針の城〉の最深に侵入を
果たしたというのに、敵意も殺意も一切向けては来なかった。
 ……眼中にないってことか。

 認めざるを得ない。あたしは甘かった。伝説≠軽んじすぎた。
 あらゆるしがらみを振りほどいたあたしなら、捨て身で挑めばどんな敵でも
正気は見えてくると、そう考えていたのだけれど。いざ、こうして紅の魔人と
対峙してみると、自分の考えが如何に浅はかだったかを痛感させられる。
 桁が、違った。
 なまじ〈蜥蜴の眼〉が紅の魔人の力を霊視してしまうから、余計に絶望が深
まる。まるで動く魔力炉だ。ひとのカタチをした霊力場だ。
 斃せるはずがない。

 それでも、あたしは―――

「―――おい」

 会話を遮り、魔眼で睨み付ける。

「あたしはイーリンだ。火蜥蜴≠フイーリン」

 ダージョンは不気味なほど穏やかな視線を返した。しばらくの沈黙のあと、
「知っているよ」とだけ答える。

「リリーから聞いたのか」

「そういうことになるね」

「……あたしも、あんたのことはリリーから聞いている」

 奥歯が軋む音が、鼓膜の裏側で響いた。

「あたしは、あんたを許せない」

 すべての元凶。諸悪の根源。リリーから外≠奪った最凶の魔人。

「馬鹿なことを考えてはならんぞ」

 背後から零姫が口を挟んだ。

「ゾズマはおまえが思っているような男ではない。こやつはわらわを今日まで
守ってくれたのじゃ」

「ゾズマ?」

 それが、紅の魔人の名か。誰も知らなかった真名か。
 ゾズマ……当然のように聞き覚えはない。

「ゾズマ―――」

「なんだい、イーリン」

 茶目っ気をこめてダージョンは微笑む。挑発なのか、茶化しているだけなの
か。どちらにせよ、真面目にあたしを相手にする気は無いようだ。
 あたしは静かに、努めて静かに言った。

「あたしは、リリーを……零姫を、ここから連れてゆく」

108 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/13(木) 23:33:07


 覚悟を決めた発言。しかし、ダージョンの反応は「そうかい」と肩を竦める
だけだった。……なんなんだ、こいつは。
 ひとを小馬鹿にした態度。飄々として捉えどころがなく、リリーに対しても
さして執着を抱いていないように見える。こんな男が、リリーを、生まれたて
の赤児だった彼女が少女になるまで、十年以上も監禁していたというのか。
 とてもじゃないけれど、信じられない。

 ―――それに、さっき零姫が口にした「守った」ってどういうことだよ。

 リリーはダージョンに閉じ込められていると、そうはっきり語ったのに。
束縛から逃げ出し、外≠フ世界へ行きたいと、そう言ったのに。
 分からないことが多すぎる。
 零姫ってなんだよ。ゾズマって誰だよ。あたしが知っている〈妖魔租界戦争〉
と真実の間にはいったいどれだけ深い溝が走っているっていうんだ。
 或いはこいつ等なら、〈針の城から来た女〉の正体を知っているのかもしれ
ない。どうしてあたしを嵌めようとしたのか。どうしてマーマは廃人になって
しまったのか。クーロン・マフィア絡みなのだから、少なくともダージョンに
は思い当たる節があるはずだ。

 ……でも事実を確かめるには、あまりに時間が足りない。
 
 あたしがいまこの瞬間に確認すべきことは、ただひとつだ。
 リリー/零姫が外≠ヨと向かうのを、受け容れるのか、拒むのか。

 ダージョンは婀娜めく顔貌であたしを一瞥し、次に零姫を見つめ、また視線
をあたしに戻してから―――口笛でも吹くかのように、答えた。

「駄目だね。行くなら君ひとりで行けばいい」

「ゾズマ!」

 彼女にとっては予想外の言葉だったのだろう。零姫は驚愕に駆られるままに
声を荒げた。

「これ以上わらわに付き合う必要はない! このままでは、おまえまで奴に狙
われることになるぞ」

「どうせ、君が終われば次は僕さ」

「次などない! 終わりなどあるものか! わらわと奴から逃げ続け、奴はわ
らわを追い続ける。永遠のイタチごっこじゃ。それはおまえとて十二分に承知
していることじゃろう」

「そうかもね。でも―――」

 ダージョンの瞳の奥で光が鋭く瞬いた。

「今回≠ヘ僕が君の保護者だから。そういう役を進んで演じてしまったのだ
から。いくら無責任な僕でも、最後まで与えられた役目ぐらいは果たそうと思
っているんだ」

 そう言った彼は片眼をつむった。

「それに、君との付き合いは古い。追いつかれると分かっている逃亡劇なら、
当然止めるさ。……そこの火蜥蜴と一緒にクーロンから逃げ出して、あの子か
ら逃げ続けて、それでもやがては追いつかれて。―――破滅を約束された未来
を盲信するなんてあまりに儚いと思わないかい?」

109 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/14(金) 22:54:49


 ……答えは、出た。
 どんな理屈、どんな裏の事情があるかは知らないけれど、紅の魔人サマは零
姫を火焔天から解き放つつもりは毛頭ない。
 それで充分だ。その事実だけ分かれば、他のなにも、あたしはいらない。
 やっぱりこいつはあたしの敵だ。

 なおも言葉を返そうとする零姫を無言で押し止める。
 彼女は決断してくれた。あたしと一緒に行くと。二人で外≠目指すと。
 ……もう、あたしとリリーは離れない。
 誰にも二人の巣立ちを邪魔させない。
 あたしたちは自由だ。

「―――言っておくけれど、僕は強いよ」

 悪戯っぽい笑みを残したまま、ダージョンは大刀の鍔を鳴らした。たったそ
れだけの行為で、彼の言葉に偽りがないことを思い知らされる。
 なんてバケモノか。抜刀したわけでもないのに、剣気に押し潰されそうだ。

 他人よりちょっとだけ力が強くて。他人よりちょっとだけ見えないものが視
えて。他人よりちょっとだけ暴力に慣れ親しんでいる。
 ―――その程度でしかないあたしが、太刀打ちできる相手じゃない。

 目の前に立つ炎の彼は、たった一人で妖魔租界を壊滅させた男なんだ。
 クーロンの魔界都市〈針の城〉を作った男なんだ。
 あたしなんかになにができる。ちんけな故買屋に過ぎないあたしが、伝説と
対峙してどんな結果を残せる。

 嗚呼―――

 鉛の雨が全身に降り注ぐかのような絶望。ダージョンと向かい合うことで、
改めてあたしは自分の無力さを痛感した。

 マーマのお陰で今日まで生きてこられた。
 その認識は間違いじゃない。けど、それだけじゃなかったんだ。
 マーマだけではなく、もっと多くの、もっとたくさんのひとたちの力を借り
て、脆弱で臆病なあたしは今日までなんとか生きてこられた。
 なにがクーロンの火蜥蜴≠セ。なにが阿嬌の後継者だ。ただの甘ったれの
クソガキじゃないか。自分一人じゃなにも為せない小娘じゃないか。

 あたしは本当に弱い。
 怨敵を前にして、絶望することしかできないなんて。
 自分一人で窮地を切り抜けようとすらしないなんて。

 嗚呼―――

 この期に及んで、あたしはまだ。
 マーマだけじゃ飽きたらず。
 さらなる。
 犠牲を。

「……あたしはきっと、あんたを愛していた。唯一の親友だと思っていた」

 そんなかけがえのない友達を、あたしは―――

「ハダリィィぃーーーーーーっっっっ!!!!!」

 あたしの絶叫が谺すると同時に、〈図書館〉のドーム状の天窓が砕け散った。
 ガラス片のシャワーとともに降り注ぐのは、鋼鉄の筋肉をまとった牛頭人体
のモンスター・ミノタウロス。あたしの最高傑作にして、唯一無二の友であり、
そして……そして、マーマと同じように、あたしのために死ぬ女。

110 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/15(土) 22:00:38


 ハダリーは魔石の力を限界まで引き出している。支配率は完全に猫睛石に傾
き、暴走状態へと陥っていた。いまの彼女は一個の暴力装置に過ぎない。
 ゆえに、その動きはミノタウロスのスペックを大幅に上回っている。
 天窓を破って飛び降りてきたといっても、ただ自由落下に身を任せているわ
けじゃない。猫の如きしなやかな体捌きで宙を泳ぎ、室内を照らすシャンデリ
アを蹴っ飛ばして軌道をねじ曲げ、ダージョンの頭上へと殺到する。
 その速度は、音の壁すら破りかねないほどだ。

 無防備な頭上に、絶好のタイミングで不意打ち。まず間違いなく必殺が確定
する状況。ハダリー/猫睛石の強さを知り抜いているあたしは、普段ならば勝
利を確信したはずだ。それ程までにハダリー/猫睛石の攻撃は完璧だった。

 ……けれど、この状況は常識からあまりにかけ離れている。ハダリー/猫睛
石が牙を剥いた相手は、バケモノの中のバケモノだ。

 ダージョンが持つ大刀の鯉口が静かに切られ、銀光が迸る。
 まずは突き出した右拳が腕ごと断たれ、返す刀で胴を抜かれた。刹那の瞬間
に走った二つの剣筋が、生ける死者をただの死者へと戻す。
 さらに三つめの太刀で、ハダリーの首が―――飛んだ。

「うわああああああああああああ!」

 あたしは姿勢を低くしながら、紅の魔人へと突撃した。ベルトに挟んでいた
シャオジエの短剣を引き抜き、両手でしっかりと構える。
 紅の魔人は―――ダージョンの注意は、まだハダリーへと向けられたままだ。
 この隙をあたしは待っていた。たったひとりの友だちを餌にして、最凶の男
から致命の時を引き出した。あたしは最低の女だ。

 無駄のない筋肉で包まれたダージョンの胸板が視界に広がる。
 あと一歩だ。
 あと一歩、前に出られれば。
 この短剣の刃が、届く。

 三つに分断されたハダリーの亡骸は、慣性に引きずられたまま、まだ宙を舞
っている。

 ダージョンの大刀の刃が、あたしへと向けられた。直後に、あたしの魔眼が
あたしの死を未来視する。刀光が無慈悲にきらめいた。間に合わない。
 あと一歩なのに。たったの一歩が、あまりに遠い。
 ダージョンの剣は疾すぎる。

 駄目なのか。ハダリーを犠牲にしても、あたしは生き残れないのか。絶望が
総身を支配しかけたその時―――背後から零姫の叫びが響いた。

「殺してはならん! こやつの中には、あれが―――」

 ダージョンの注意が逸れる。切っ先の動きがほんの僅かに鈍った。

 ―――あたしの中に、なにがあるっていうんだ。

 確かめるどころか、疑問に意識を傾ける余裕すらない。あたしはただ、奇蹟
に縋り付き、がむしゃらになって最後の一歩を踏み出した。
 深紅の刃がダージョンの胸へと吸い込まれてゆく。短剣は、〈蜥蜴の眼〉が
霊視していた魔術障壁ごと、呆気なく彼の筋肉を貫いた。

 どう、とハダリーの死体が床を叩く。
 二秒とかかっていない、一瞬の決着だった。

111 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/15(土) 23:58:45


 短剣の柄から手を離す。深紅の刃に抉られたまま、ダージョンはその場に跪
いた。大刀が音をたてて床に転がる。

 ―――斃したのか。あたしは自由を勝ち取ったのか。

「愚か者!」

 零姫の叱咤の声が背中を叩く。あたしは緩慢な動作で振り向いた。笑顔を見
せて欲しかったけれど、彼女の表情は厳しい。

「あまりに無鉄砲過ぎる。ダガーなどで上級妖魔を殺しきれると思っておるの
か。手負いとなれば、いくら戯れを好むゾズマと言えども―――」

 そこで、零姫は言葉を止めた。眼を瞠り、表情を強張らせた。視線はあたし
を通り過ぎて、ダージョンへと向けられている。正確には、ダージョンの胸に
突き立つシャオジエの短剣に、だ。

「お、おぬし、そのダガーは―――」

「……やられたよ。まさか、そう来るとはねぇ」

 笑みこそ浮かべているものの、ダージョンのかんばせからは玉の汗が噴き出
し、先程までの余裕は消え失せている。彼も零姫同様、自分の胸から生える短
剣に注意を向けていた。

「ゾズマ、それは……」

「ああ、間違いなく幻魔だ。心臓に噛み付かれてしまった。これはだいぶ、骨
が折れるよ」

 幻魔。その名を聞いた瞬間、零姫の態度が豹変した。

「どこで手に入れたのじゃ?!」

 あたしの腕を掴んで、荒ぶる感情に流されるがまま詰め寄ってくる。

「どこで幻魔を渡されたのじゃ。おまえはすでに、アセルスと接触しておった
のか。奴は―――奴はまさか、クーロンにおるのか」

 またアセルスの名前が出てきた。ファシナトゥールの君主。妖魔の君。そん
なに頻繁に耳にしていい名前じゃないのに。……それに、ダージョンが上級妖
魔だっていうのは本当なのか。ただのバケモノじゃないとは思っていたけれど、
まさかファシナトゥールの貴族階級だったなんて。
 もしかすると、零姫もそうなのか。リリーがあんなに強大な魔力を有してい
たのは、人間じゃなかったからなのか。

 ……まぁ、どうでもいい話だ。
 あたしはダージョンを斃した。
 いまはその事実だけを、大事にしたい。

 これで、ようやく邪魔は無くなった。緊張する零姫の頬にそっと手を当てる。
安心させようと微笑みかけてから、あたしは言った。

「さあ、行こう―――」

外≠ヨ。……そう口にしかけるものの、直後にぐらりと視界が傾ぎ、あたし
は床に、受け身も取らずに倒れこんだ。

「イーリン!?」

112 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 12:55:20


 ……なんだ、コレ。
 大理石の硬質さにあたしは驚く。自分が置かれている状況が理解できない。
 どうしてあたしは床に伸びているんだ。どうして立ち上がろうとしても、躰
に力が入らないんだ。どうして―――

 零姫の声が遠くから聞こえる。

「なんて馬鹿なことをしたのじゃ。幻魔はアセルスの生命力で鍛えられた魔剣
じゃぞ。あ奴以外のものが使用すればどうなることか……」

 ……なるほど。
 ひと目見たときから、尋常ではない魔性を秘めた短剣だとは思ってはいたけ
れど、まさか妖魔公アセルスの武器だったとはね。
 だから、ダージョンが三重にも四重にも張っていた強力な魔術障壁を、ガラ
ス窓でも砕くかのようにあっさりと突き破ったのか。
 だから、まるで花が枯れゆくように、あたしの命の灯火が急速な勢いで衰え
ていっているのか。―――あの魔剣に、あたしの生命力は吸われたんだ。

 ダージョンの胸から濃厚な瘴気が噴き出しているのを、あたしの魔眼が霊視
した。胸の肉を抉った刃が変型し、彼の心臓にがっちりと根を張っている。
 なんておぞましい光景なんだろうか。武器というより、あれは一個の生命だ。
魔剣よりも魔物と呼んだほうが正しいんじゃないだろうか。
 致命こそは免れたらしいが、ダージョンのダメージは深刻らしい。魔剣の侵
食から身を守るのに精一杯で、あたしたちに意識を向ける余裕はないようだ。
 ……心臓を潰されて、それでもなお生きようとしているんだから、その不死
性の強さには感服する。あたしなんて、たった一度使用しただけでもう死にか
けている。魔剣に命を吸い尽くされてしまった。

「くそったれめ」

 せっかく、リリー/零姫を紅の魔人の戒めから解放することができたのに。
ようやく、外≠ノ繋がる道を拓くことができたのに。あたしの自由はこれか
らなのに。―――ここで、斃れてしまうなんて。
 こんなところで、終わってしまうなんて。
 
 納得がいかない。
 あまりに無情すぎる。
 イヤだ。マーマもハダリーも犠牲にして、なにもかもを捨て続けてリリーを
手に入れようとしたのに、結局なにも得られないまま、ひとりぼっちのままで
死ぬなんて―――絶対にイヤだ。

 行くんだ。
 あたしはリリーと一緒に。
外≠ヨ行くんだ。

「ああああああああ!」

 最後の命を燃やしてあたしは両腕を駆る。腰より下はもう感覚がないため、
起き上がることができない。無様に這い蹲って、前へと進んだ。

「もうやめよ!」と零姫が叫ぶ。あたしの躰を憂いての言葉だと思うと、悪い
気はしない。けれど、分かってくれ。ここでやめるわけにはいかないんだ。

 一分ほどかけて、数メートルの距離を進む。
 ダージョンに切断されたハダリーの生首が転がる位置まで到達すると、もう
二度と「社長」と口にすることのない親友の頭を抱き締めた。

113 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 12:55:50


 不気味な悪魔の仮面―――ハダリーの素顔と言っても過言ではない無機的な
表情に、あたしは震える指先で触れた。
 ハダリーとは、このミノタウロスの死体にインストールしたソフトウェア、
つまり人造霊のことを指す。彼女の肉体自体は、ハードウェア……ただ器に過
ぎない。人造霊(ソフト)が機能を停止すれば、ハードはもとの死体に戻る。
 それを有機的な死と捉えるべきかどうか、あたしは答えを持たない。分かる
のは、あたしの都合で、ハダリーも、この死体も、好き勝手に振り回してしま
ったという事実だけ。相も変わらず、あたしは最低だ。

 胸裏で侘びの言葉を繰り返しながら、あたしはそっとハダリーの仮面を剥い
だ。隠し続けていたミノタウロスの素顔が露わになる。魔石を埋め込み、媒介
機関や魔力血管の拡張手術を繰り返したせいで、仮面よりも醜悪に、おぞまし
いものとなってしまった死者の顔。―――でも、仮面というハダリーの絆が断
たれたことで、人造僵尸はいま、改めてもとの死体に戻った。

 ―――ハダリーも、あんたも、これで自由だよ。

 キャッツアイの魔石を死体の右眼からくりぬく。
 ハダリーが消失したいまでも、魔石は変わらず強い魔力を秘めていた。
 ……この力が、あたしには必要なんだ。

 ふっと微笑んでから、神秘の光を放つ魔石をあたしは一息で呑み込んだ。
 喉を硬質な感触が滑り、体内が途端に燃え上がる。

「馬鹿な!」

 零姫が狼狽の声をあげて、あたしの肩を抱く。

「いまのはなんじゃ。あれはなんの魔石じゃ。幻魔のみならず、あんなものま
で、どうしておまえは持っておるのじゃ。しかも―――しかもそれを呑み込む
などと、おまえは命が惜しくないのか! 無茶にも限度というものがあろう!」

「……そうじゃない」

 逆だ。
 命が惜しい。死にたくない。だから、魔石を取り込んだんだ。魔剣に吸い取
られたあたしの生命の代替として、魔石の力を借りるために。

「そんな貧相な躰で、耐えきれるわけがなかろう!」

「貧相は余計、だぜ……」

 はは、と渇いた笑い声をあげる。確かにあたしはやせっぽちだけれど、零姫
のほうがよほどにちびだ。

 力はだいぶ戻ってきた。あたしはゆっくりと立ち上がる。一瞬前まで死にか
けていたのが嘘のようだ。……けれど、躰の不調自体は変わらない。さっきと
違うのは、躰の内側が熱すぎて、中から融けてしまいそうなところだ。
 凍えているか、燃えているのか。そこが違うだけで、やはりあたしは死にか
けのままなんだろう。

 この躰で、どこまで行ける。リリー/零姫と一緒に、どこまで生ける。

「どうして、おまえはそこまで……」

 分かり切った問いを、零姫は涙混じりに口にする。
 ……そんなの、決まっているじゃないか。

「あんたと一緒に、外≠フ景色を見たいからだ」

114 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 21:26:25


 零姫の手を握り、〈図書館〉の外を目指す。火焔天の構造が分からないため、
どこをどう進めばいいのか分からない。とにかく〈図書館〉の出入り口を目指
そう。監禁されていたといっても、ダージョンは出入りしていたのだから、ど
こかに扉なり門なりがあるはずだ。

 ―――けど、あたしの躰は、そこまで保たなかった。

 派手に喀血すると、脇の本棚に体当たりでもするかのように寄りかかる。
 衝撃で本が何冊か、ばさばさと落ちてきてあたしの躰を叩いた。あたしはそ
のままずるずると床に座り込む。
 ……だ、駄目だ。とても無理だ。魔石の力を借りたところで、あたしという
肉体じゃ受け止めきれない。
 よくよく考えてみれば、当然のお話だ。魔術的強化を徹底的に施したハダリ
ーですら、魔石の出力を絞って管理していたんだ。素のまま呑み込めば、こう
いう結果になることは容易に想像がつく。

 馬鹿なのは分かっている。零姫に愚か者と詰られれば、否定する言葉はない。

 けれど、あたしは奇蹟に頼るしかなかった。そこに可能性があるのならば、
あたしのすべてを費やして、勝負に挑むしかなかった。
 ……その結果が、これか。

「イーリン! イーリン! しっかりせい!」

 ああ、なんてことだろう。零姫の声は深い悲しみに彩られている。あたしが
原因で、大好きな彼女を傷付けてしまっている。
 くそったれめ。あたしはリリー/零姫の笑顔が見たいのに、どうしてこんな
ことになってしまったのか。

「なぜじゃ! なぜ、そこまでするのじゃ。どうしてわらわなんぞのために死
のうとするのじゃ! 命まで賭けられるのじゃ!」

 それは、愚問が過ぎるってもんだぜ。

「だって、あんたはリリーじゃないか……」

 リリーは、あたしのために夢を捨てた。献身というものを教えてくれた。
 自分のためだけじゃなく、誰かのためにも生きられるということを、身をも
って証明してくれた。彼女は、あたしの未来だ。
 リリーがそうしてくれたように、あたしも、リリーのために尽くす。
 ……そしていま、あたしを抱いて涙を流してくれている少女は、零姫だけれ
ど、リリーでもあるんだ。彼女のためなら、あたしは自分さえも犠牲にできる。
 そうだ。あたしは、リリー/零姫のために、死ねる。
 もう、自分を失うことを怖れない。

 あたしの目的はなんだ。
 あたしの夢はなんだ。
外≠ヨ行くこと。
 リリーを外≠ヨと連れ出すこと。
 そのためにマーマは死んで、ハダリーも死んだんだ。それでもまだ犠牲が足
りないっていうのなら、今度はあたし自身を捨ててやる。
 リリーに自由を与えられるのなら、あたしは、なにも、いらない!

「ああああああああああああああああ!」

 力はあるんだ。魔石の力はいま、あたしの裡にある。足りないのはそれを制
御する器だ。あたしの肉体じゃ、魔石は飼い慣らせないんだ。

115 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 21:54:36


「イーリン、死ぬな!」

 死なないさ。このままじゃ、死ねないよ。零姫を外≠ヨと連れ出せる、そ
の確信が得られるまでは、死んでたまるか。

「莫迦者め。莫迦者め。こんなことをして、わらわが喜ぶと思ったのか。おま
えはなにも分かっておらんのじゃ」

 いや、分かるよ。なんにも知らない無知なあたしだったけれど、ダージョン
の胸に魔剣を突き立て、生命を吸われたとき、なんとなくだけれど、舞台の仕
掛けに気付いてしまった。気付かざるを得なかった。
 ……できれば、知らないまま果てたかったけれど、そうもいかない。
 だって、そうだろう?
 あの魔剣を、あたしは誰から託された。
〈針の城〉を統べるダージョンや、全知するリリー/零姫でさえ存在を察知で
きなかった魔女。あのひとなら、あたしとリリーの関係を知っていた。あのひ
となら、あたしに巨大蜘蛛にけしかけることもできた。あのひとなら、クーロ
ンストリートにも〈針の城〉にも近付かずに、マーマやロートルに命令を下す
ことができた。あのひとなら―――あたしに自覚させずに、あたしの行動を支
配することもできた。

 なんてことだろう。
 あたしは、あのひとに可愛がられていると思っていたのに。あのひとに、気
に入られていると思ったのに。……マーマの次に、好きだったのに。
 本物の家族だと、信じていたのに。

 莫迦野郎。大莫迦野郎。
 騙すなら、最後まで騙し通せっていうんだ。幸せのまま、あたしを死なせろ
っていうんだ。最後の最後に、後味の悪いもんを残しやがって。
 お陰で、せっかくリリーの腕の中で死ねるっていうのに、未練が残っちゃう
じゃないか。あんたが味方でいてくれないから、安心してくたばれないじゃな
いか。あんたが敵だから、あたしは、ここで死ぬわけにはいかなくなったんだ。

「零姫……結界は……晴れた、かな」

「……上級妖魔封じのあの結界は、街全体を術式として組んでおる。例えゾズ
マが死んでも消えることはないわ」

「そう、か……」

 上級妖魔封じ。
 だから、なのか。
 だから、リリーは〈針の城〉の外へと出られなかったのか。だから、ダージ
ョンは〈針の城〉に引きこもっていたのか。だから、あのひとは、直接、自分
の手でリリーをさらおうとはしなかったのか。
 こんな、回りくどいことをしたのか。

「なら……結界が……晴れた……ところで、安心……できない、か……」

「むしろ、最悪の状況になるわい」

 零姫の突っ込みに、あたしは不謹慎にも声を出して笑ってしまった。そうか、
あたしが状況を悪化させちまったのか。そいつは悪かったな。
 ……けれど、あの結界がある限り、リリーが外≠ヨと行けないのなら、い
つかは破らなければいけないんだ。

116 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 22:30:47


「おそらくだが、おまえの死と同時に、ゾズマの結界は消えるじゃろう」

「だろう、なぁ……」

「……知っておったのか」

「いや―――」

 確信はなかった。けれど、あたしの特異な躰は、どんな強力な魔術でも無効
化してしまう力を持っている。あたしの血を浴びせれば、頑固な呪縛も、たち
まち洗浄されてしまう。
 あのひとは、あたしになにを期待していたのか。あたしを利用して、なにを
得ようとしたのか。リリーを結界の外へと連れ出すことか。それとも、ダージ
ョンと対峙して、破れることか。……保険をかけて、両方の結末に対応してい
るとしたら、あたしの死は、いったいどんな意味を持つ。
 あのひとは、定期的にあたしの躰を診ていた。あのひとなら、あたし以上に、
あたしの躰の特異さを知っている。

 あたしはここで死ぬ。〈針の城〉の外までリリーを連れ出すことは叶わなか
った。その代わりに結界が消えてくれるなら……あのひとは、自ら〈針の城〉
に乗り込んで、リリーと接触できるというわけだ。
 あのひとの目的はリリーなんだ。十年前から、ダージョンが〈妖魔租界戦争〉
に勝利したときから、彼女はこの結末を計画していたんだ。

「駄目だ……」

 リリーは渡せない。リリーは誰にも奪わせない。彼女は自由だ。彼女は彼女
だけのものなんだ。

「うわあああああああああああああ!」

 死を振り払うために、声を張り上げる。

 最悪の人生だった。
 いやな思い出しかなかった。
 例えいいことがあっても、その直後に悲劇に見舞われた。
 世界はあたしを憎んでいると信じていた。
 悲しみがあたしのすべてだった。
 そんな最悪だらけのくそったれな人生だからこそ、あたしは、最後の最後に、
奇蹟に縋る。最後の最後まで、自分じゃない、他人の力に期待する。

 リリーを助けてくれ。
 零姫に笑顔を与えてくれ。
 あたしの代わりに、
 彼女を外≠ヨ。
 太陽の下へ。
 自由へ―――

117 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 22:30:58


「イーリン、気をしっかりと保て。わらわと一緒に外≠ヨ行くんじゃなかっ
たのか。おまえが、わらわと外≠フ架け橋となるんじゃなかったのか!」

 ああ、そうだよ畜生。
 ほんとはあたしだって行きたかったんだ。
 リリーと一緒に見たかったんだ。
 ほんとは悔しいんだ。
 死にたくないんだ。

「リリー、あたしの……分まで―――」

「イヤじゃ。聞きとうない! わらわは、白百合の娘は、おまえがいる外
を目指したのじゃ。おまえがおらん外≠ノ、どんな価値があるというのじゃ」

 いや、それは違う。
 リリーは外≠ヨと飛び出した。自分で霊路を拓いて、火焔天から飛び出し
た。その過程で、運命があたしとリリーを引き合わせたんだ。
 あたしはリリーがいなければ外≠ノ魅力を感じないけれど、リリーはあた
しがいなくても、外≠夢見ることはできる。あたしの目的はあんただけれ
ど、あんたの目的はあたしじゃなくて外≠ネんだ。

 ―――でも。
 最後にそう言ってくれたことは、ほんとに嬉しい。
 死にたくないけれど、もっと一緒に、どこまでも二人で生きたかったけれど、
こんなに幸せな気持ちで死ねるのなら……まぁそこそこ悪くはないぜ。

「イーリン、死ぬな!」

「リリー、生きて、くれ―――」

「イーリン!」

「あんたは……」

 あんたは自由だ。

「自由に、生きて……」

「イーリン!」

118 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 22:31:08










     ―――ごめんね、マーマ。







         あたし、最高に親不孝だ。









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119 名前:火蜥蜴≠フイーリン? ◆LIZARD.khE :2008/11/16(日) 23:29:37










     ―――ああ、そうかよ。







         は、ふざけんなよ。勝手に終わらせんな。
         「俺が」お前を、親不孝になんかさせてやらねえよ。

120 名前:◆MidianP94o :2008/11/17(月) 23:13:29












第二部「クーロン炎上」











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