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■ とかげ

1 名前:◆MidianP94o :2008/08/29(金) 23:52:50


転生無限者【てんせいむげんしゃ】

 生き続けるもの。
 死に続けるもの。
 無限に転生を繰り返すことで、死徒や妖魔とは異なる不老不死を可能とする。
 死ねば肉体を離れ、新たな躯に憑いたり生まれ変わったりするため、追跡は
困難を極める。死徒27祖のひとりアカシャの蛇≠ェ有名だが、教会や協会は
他にもタイプの異なる数人の転生無限者を存在していることを確認している。
 転生無限者が果たして人間なのか、それとも人外なのか。その定義は非常に
曖昧で、機関や研究者によって見解は異なる。

                ――――オーガスト・ダーレス『神秘学用語辞典』より

65 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:28:08


 だけど、あたしが疑問を投げかけるために開いた唇は、リリーの言葉に遮ら
れた。彼女は表情を翳らせて言った。

「……そろそろ、ダージョンが帰ってきちゃう」

 タイムリミットか。いまの邂逅は、あたしがリリーを強引に呼び出したから
叶ったんだ。時間が短いのはしかたがない。別れを惜しむ気持ちを抑えて、あ
たしは尋ねる。

「次は―――」

 こんなこと、あたしから切り出すのは初めてだ。

「次はいつ、会える」

 いまになって、あたしの身を後悔が舐め始めた。
 リリーともっと話がしたい。リリーのことをもっと知りたい。彼女が見る夢
とはなんなのか。あたしのそれと、風景は同じなのか。彼女はどうして、自分
が自分で無くなってしまうことに耐えられるのか。リリーが言う運命≠チて
奴は、クーロンみたいなゴミ溜めのリージョンにも転がっているものなのか。
 いままで邪険に扱っていた分も含めて、思う存分に語り合いたい。

 ―――時間ならきっと、いくらでもあるさ。だって、ここでは夜が明ける
心配をする必要はないんだから。

 そうだろう、リリー?

「分かるでしょ、イーリン。次はないの」

「え……」

「これは別れ。これは別離。運命はいま、二人の絆を引き裂いたわ」

 冗談めかしてリリーは言う。だけど、表情は真剣そのものだ。感情を殺そう
と必死になって、逆に悲しみが顔にありありと刻まれてしまっている。
 ……魔女の癖に、自分に嘘を吐こうとなんて、らしくないことをするから。

「リリー……あんた、本気なのか。本気で紅の魔人に頼むつもりなのか。あた
しを守るために、自分の夢を犠牲にするつもりなのか」

 冗談だと思っていた。ただ思い付きを口にしているだけだと思っていた。
 リリーがあたしの事情を知ったのは、この部屋であたしに呼び出されたから
だ。まだ十分も経っていない。―――たったそれだけの時間で、すべてを捨て
る覚悟を決めたっていうのか。夢も、未来も、あたしのために犠牲にすると。

 ……駄目だ。そんなのは絶対に駄目だ。
 だって似合わないじゃないか。あんたはもっと、利己的な女のはずだ。自分
勝手で、他人の都合なんて考えなくて、甘いところばかりを摘もうとする。
 それがクーロンに咲いた百合(リリー)じゃなかったのか。

「この物語のフィナーレはハッピーエンドじゃないみたい。だけど、とっても
ロマンチック。だってお姫様は愛に殉じて眠りにつくんだから。大好きなひと
のことを想って、終わらない夢を見続けるんだから」

「リリー!」

「イーリン、知ってるでしょ? わたしは自分勝手なの。わがままなの。だか
ら、あなたの説得なんて聞かないわ。わたしはわたしのしたいようにする」

66 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:31:24


 ふざけるな。あたしは苛立ちに任せてリビングの壁を殴りつけた。拳が防呪
処理を施した壁紙を突き抜けて、石膏ボードの壁面をあっさりと貫通する。

「……そんなことをしても」

 低い声音で、呻くように言った。

「あたしは感謝しないぜ。あんたのことを想って泣いたりなんか、絶対にしな
い。これはあたしの問題だ。勘違いしたことは謝るけど……だからって、首を
突っ込むのはやめろ。あんたは、あんたのしたいことだけを―――」

「これは、私が望んだ物語よ」

「違う! あんたの目的は外≠ヨ行くことだ!」

 リリーは瞼を伏せると、ゆっくりと首を横に振った。

「その物語を完結させるには二つ足りないものがあるの。ひとつは結界。〈針
の城〉から出るには、わたしの魔力は育ちすぎてしまったわ。……もうひとつ
は、わたしが、わたしで居続けられる余裕。―――愉快よね、イーリン。わた
し、昨日まで、自分がどうして〈運命の赤児〉なのか、考えもしなかった。ど
うしてこんな強い力を持って生まれてしまったのか、知ろうとも思わなかった」

 あたしには理解できない。リリーはなにを言ってるんだ。彼女の語る足り
ないもの≠ニやらが、自分を犠牲にしてあたしを助ける理由になるとはとうて
い思えない。結界があるなら破ればいい。自分の力の由縁なんて、外≠ヨ出
てから探せばいい。―――どうしてそんなことで、未来への道を閉ざすんだ。

「イーリン、勘違いしないで。これは犠牲でも献身でもないの。初めからこの
物語にハッピーエンドは無かっただけ。物語の舞台は、最初から最後まで〈針
の城〉だったのよ。わたしが外≠ヨ行くシナリオなんて用意されていなかっ
たのよ。……だから、わたしはせめてもの抵抗として、あなたに未来をあげる。
そしてお姫様は醒めない眠りにつき、終わらない夢を見るの」

 でも、ひとつだけ望むことが許されるのなら。リリーがそう呟いたとき、彼
女の瞳からついに涙が溢れた。

「―――これから見る夢では、どうかイーリンと一緒になれますように」

 言葉には魔力が秘められていた。あたしが眼帯を外していたならば、リリー
を中心に霊路の門が開く様子をはっきりと霊視していただろう。
 彼女は跳ぶ気だ!

「リリー!」

 行かせない。話はまだ終わっていない。
 壁に突き刺さった腕を引き抜く。石膏ボードの破片に切り裂かれて、拳から
血が迸った。―――好都合だ。あたしの血は、あらゆる魔術を強制的にキャン
セルさせる。リリーの縮地だって中断させられるはずだ。

 どうしてあたしは蜥蜴の眼を開き、蜥蜴の血肉を持って生まれてきたのか。
いまなら答えに迷わない。はっきりと断言できる。それはこの瞬間のためだ。
人外の膂力と超常の能力でリリーを止めるためだ。彼女を行かせないためだ。

 あたしは手を伸ばす。
 力の限り叫んだ。
 彼女の名を。

67 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:31:48







 ―――ああ、だけど。

 あたしみたいな中途半端なバケモノじゃ、正真正銘のバケモノであるリリー
の術を止められるはずもなく。

 手を引き抜き、伸ばすというたったそれだけの挙動を最速で行ったにも関わ
らず、リリーの術の発動には間に合わず。

 あたしの指先は、空を切った。







.

68 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:32:32









 部屋には、もう、あたししかない。









.

69 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 21:34:44


 手を差し伸べたまま、無様に立ち尽くすことしかできない。あたしは瞬きす
ら忘れて、一瞬前までリリーが立っていた空間を見つめた。

 ……これで、お終いなのか。
 あたしは救われたのか。
 黒社会から制裁を受けることはないのか。明日からもクーロンで、今日と変
わらない日常を過ごすことができるのか。
 あたしの未来は約束されたのか。

「は、―――はは」

 渇いた笑いがこみ上げる。

「おかしいよな、どう考えても。……あたし、そんなに必死だったかな。大切
にしていたかな。誰かを犠牲にしてまで、守ろうとしていたかな」

 マーマが正気を取り戻したわけじゃない。
 あたしの余命が長くなったわけでもない。
 マーマはいまでも阿片中毒のまま。あたしの脳みそはいまでも蜥蜴の眼と血
肉に負荷に押し潰されて、悲鳴をあげたまま。
 なにも変わらない。変革は行われていない。くそみたいな今日が、くそまみ
れになってくそったれな明日へと続くだけだ。
 
 こんな、こんなくだらない人生のために、リリーはすべてを捨てたのか。

「誰が頼んだよ」

 あたしは頼んでいない。

「誰が喜ぶんだよ」

 あたしは喜ばない。

「誰が幸せになるんだよ」

 あたしは幸せにならない。

 心臓が痛む。痛哭の悲鳴を延々と繰り返す。あたしは胸を鷲づかみにして、
その場に跪いた。喉から、慟哭を伴った叫びが止めどなく溢れ出す。

「あたしが好きだったんだろう?! あたしのためになることをしたかったん
だろう!? なのに、なんだよこれは! あたしを哀しませて、苦しませて、
こんなの嫌がらせもいいとこじゃないか。誰も笑顔になれない。後味が悪いだ
けのくそみたいなエピソード。こんなセンスのない物語が、運命≠セってい
うのかよ! イヤだ! あたしはイヤだ! 絶対にイヤだ!」

 嘆きの悲鳴か、怨嗟の呪文か。あたしの言葉は、リーの耳にも届いているは
ずだ。しかし、返事はない。あたしの部屋は沈黙を守ったままだ。

 認めるしかない。
 リリーの物語は、終わってしまった。
 彼女は非日常の象徴に過ぎなかった。
 あたしとは別世界の人間だった。
 
 あたしは戻るんだ。
 日常へ。
 リリーが守ってくれた、今日という繰り返しへ。

70 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 22:48:59



                  * * * *


 帰ってきたときと違って、アパートメントから出て行くときは魔術迷彩どこ
ろか人影への警戒すらしなかった。糸が切れた人形か、はたまた夢遊病者のよ
うに、頼りない足取りで第七層を歩く。
 もしクーロン・マフィアがあたしを狙っているならば、絶好のカモだ。瞬き
する間にさらうことができる。……けど、そんな剣呑な気配は一向に訪れなか
った。〈針の城〉は常と変わらず、幽世の風景をビルディングの森に融け合わ
せているだけだ。

 一時期は死すら覚悟した。なのに、こんなに堂々と〈針の城〉を歩けてしま
うと、全部はあたしの早合点だったんじゃないかと疑ってしまう。あたしが殺
したのはクーロン・マフィアの凶手ではなく、ただのチンピラだったんじゃな
いか、と。

 リリーはきっと嘆願に成功したんだろう。彼女の自由と引き替えに、あたし
は命の保証を得た。
「二度と近付くな」なんて警告ぐらいはあると思ったけど、この様子では恐ら
く、マフィアは最後まで介入してこない。社会の影たらんとする彼等があたし
に望むのはすべてを忘れること。リリーという一輪の花があたしを惑わせた。
夢から醒めた以上は、現実を生きろ。―――そんな案配だろう。

 あたしはポケットに手を突っ込むと、やや猫背になって歩いた。

 日常は守られた。今日と変わらない明日が待っている。
 ……例えそうだとしても、変わらなくちゃいけないことだってあるはずだ。
 リリーになにもしてやれなかったあたしだけど、自分の尻だけは自分で拭い
たい。―――だから、最低限のケジメだけはつけようじゃないか。


                  * * * *


 三十分ほど待っただろうか。
 鍵が差し込まれ、ドアが開く。スイッチの場所では躰で覚えているのだろう。
暗闇の中でも、彼は迷うことなく電源を入れることができた。

「わあ!」

 室内灯があたしを照らすと同時に、ロートルは驚きの声をあげた。

「し、社長でしたか。いつの間にお戻りになったんですか」

 表情からも口調からも動揺が滲み出ている。……まあ、当然だろう。ハダリ
ーから事故の概要は聞いているはずだ。部下として、年長者として、あたしの
身を案じることに不自然はない。

「どうして事務所に顔を出さなかったんですか。私もハダリーも社長の帰りを
待っていたんですよ」

 問いかけは無視した。ロートルから視線を外し、ガス灯で照らされる部屋の
様子を見回した。可もなく不可もなし、といったところだろうか。適度にもの
はあるけど、決して雑多なわけじゃない。

71 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 22:51:19


「……あの、どうして私の部屋に」

 彼はきっと、「どうして鍵を開けて勝手に入ってきているのか」と尋ねたい
に違いない。答えは当然「二人きりになりたいから」だけど、それをわざわざ
告げてやる必要はない。

 ここではあたしが尋問役で、ロートルが回答役。この臆病な老人の疑問に答
えるつもりは一片もない。

「あの、お怪我は―――」

「ロートル、どうしてあたしを嵌めた」

「……は?」

 間の抜けた、醜い表情。
 思い付く語彙の中で、いちばんストレートな言葉を選んだつもりだったけど、
どうやら回転が鈍った老人の頭では理解が難しいらしい。
 ならば、とあたしは再度問い掛ける。

「どうして、一年前、マーマを嵌めた」

「あの、社長? 言ってることが理解しかねるのですが」

「答えろ、ロートル」

 静かに、だけど確たる恫喝を秘めて、あたしは言った。

「濡れ衣です。社長、あまりに突飛すぎます」

「……一年前、行方不明になったマーマをいちばん始めに見つけたのは、あん
ただった。そして今日、あたしがトラックにピアノを積んでグオワンホテルに
行くことを知っているのも、あんただけだ」

 ロートルは目を剥いた。

「そ、それが根拠だって言うんですか」

「名推理だろう?」

「無茶苦茶です! いくらなんでも強引すぎる。第一発見者でなにが悪いんで
すか。社長がホテルに行くことを知らなくたって、尾行すれば襲撃するのは簡
単じゃないですか。そんな理由じゃ、警察だって逮捕には動きませんよ」

「あたしは警察じゃない。だから、証拠も動機もいらない。必要なのは疑念だ
けだ。あたしはあんたを疑っている。そしていま、疑いの根を絶やそうとして
いる。―――疑わしきは皆殺し≠セ」

 ……あたしが名探偵の器じゃないことぐらい、あたし自身が深く理解してい
る。理不尽の代名詞であるクーロン・マフィアだって、こんな言いがかりで制
裁を加えたりはしない。
 けれど、あたしは確信していた。ロートルは間違いなく一枚噛んでいる。
 彼の立ち位置は、あたしを追い詰めるには絶景の場所過ぎた。……事実、グ
オワンホテルに問い合わせてみても、ピアノを購入したいなどと連絡した覚え
はないという答えしか返ってこなかった。
 すべてはロートルのでっち上げだ。
 警察相手なら言い逃れることはできるだろう。彼もまた「使いのもの」とや
らに騙されただけなんだ、と。……そう、警察相手なら、ね。

72 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/13(月) 23:35:11


「別にあんたが主犯格だなんて思っていないさ」

 座っていたテーブルから飛び降りる。ロートルと向き合うと、あたしの威圧
に押されたのか、彼は何歩か後じさった。その分だけ、あたしが詰め寄る。

「マーマの件にしろ、今日の件にしろ、駒に過ぎないんだろう? あんたみた
いな小物が、こんな大それた企てを実行に移せるはずがないからね」

 もっと早く疑いを持つべきだった。リリーよりも先に、この老人を怪しむべ
きだった。脳天気なあたしは、リリーを失う瞬間まで、ロートルを容疑者に数
えようとしなかった。……別に、信用していたわけじゃない。あたしがロート
ルに仲間意識を持ったことなんて一度もない。ただ、彼という存在があまりに
日常と密接し過ぎていたため、疑うという発想が湧かなかったんだ。

 ―――リリーの犠牲によって、改めて今回の事件について冷静に考えること
ができるようになったとき、ロートルの異端性は際立っていた。

 疑うな、というほうが無理がある。

 ……それに、証拠を揃えずにあたしがここまで強気に出られるのには、理由
がある。火蜥蜴≠ェ誰かを疑った場合、証拠なんて必要ないんだ。

「なあ、ロートル。あたし、ずっと疑問だったんだ。なんであんたは、ビルか
ら外に出ないんだろう。病的なまでに、外≠怖れるんだろう。……あんた
の言い分じゃ、マフィアに見つかったらやばいってことだったけど―――」

 一拍おいて、あたしは、いまや表情を蒼白に歪めた老人を睨み付けた。

「あんた、外に出られないんだろう」

 ロートルの顔が哀れなほどに引きつった。

 引きこもっているのじゃなく、閉じ込められている。
 例えば心臓に「所定の範囲より外に出ると爆散する」といった旨の呪文を刻
むのは、そこまで難しいことじゃない。
 ロートルは傀儡だ。悪意ではなく恐怖で動く、操り人形。……ならば、誰が
彼を操っているのか。どうしてあたしを狙うのか。その理由を、いまから覗か
せてもらおう。

「……社長」

「何度も言っただろう。あたしをそう呼ぶなって」

 毅然と言い放つ。

「あたしをそう呼んでいいのはハダリーだけだ」

 眼帯をずらし、〈蜥蜴の眼〉を開いた。

 ―――と同時に、ロートルはスーツの胸ポケットに差していた万年筆を、自
分の右眼に突っ込んだ。
 
 一瞬の出来事だった。潰れた水晶体から、液状のなにかがこぼれ出す。
 声にならない悲鳴をあげつつ、ロートルは左眼も同じように万年筆で突こう
とする。あたしは万年筆を握る彼の腕を掴んで、そのままへし折った。

 マフィア上がりは伊達じゃないということか。常人なら気絶しかねない肉体
的ダメージを負っているにも関わらず、なおもロートルは、無事な左手の指で
右眼を潰そうとした。あたしはすかさず、右手も叩き折った。

73 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 00:10:22


 両手を潰されたロートルはその場に膝から崩れ落ちながら、最後の足掻きと
して目を力強くつむった。あたしの瞳から逃れる術はそれしかない。
 ……けど、あまりに儚い抵抗だ。時間稼ぎにすらならない。

 瞼を引き千切ってやってもよかったけど、そこまでしなくても目を開かせる
方法はある。―――ロートルの腹に拳を叩き込んだ。それなりに手加減をして。
 彼は悶絶の呻きを吐き出すと同時に、目を見開く。瞼を閉じ続けるなんて意
思の力でどうこうできるわけがない。

 老人は左眼から血の涙を垂れ流す。残った右眼と、あたしの〈蜥蜴の眼〉の
視線が重なった。唇が「やめろ」と動きかけるが、もう遅い。

 ロートル。あんたの裡を視せてもらうぜ。

 黄金の魔眼を経由して精神世界にダイブする。
 彼の内側は恐怖の鎖に縛られて崩壊寸前だった。理性ある生物なら誰しも精
神防壁を持っているものだけど、ロートルのそれは肉体的なダメージと過剰な
脅えによって腐りかけの木材のように脆い。お陰で呆気なく侵入できた。

 あたしは魔女じゃない。ひとの精神を覗き見て、嬲って、支配するには知識
も経験も足りない。あくまで魔眼の力に寄った強引なクラッキングだ。
 だから、お目当ての情報をダイレクトに拾えはしない。右眼を通して頭に流れ
込んでくる膨大な情報を、いちいち取捨選択していかなければいけなかった。
 脳への負担はかなりのものだ。シャオジエがこの技を禁ずるのも理解できる。
他人の心を覗き見る度に、あたしは寿命を縮めていた。
 だけど、そのリスクを負うだけの価値は、ある。

 ロートルが何を怖れているのか。何を隠しているのか。そして何に関わって
いるのか。隠そうとすればするほど、精神世界では強調される。
 あたしはより強く輝く情報のもとへと泳ぎ、読み取っていった。

 ……浅いな。そして、腑に落ちない。

 それが初見の感想だった。
 彼があたしの監視役を任されていたこと。それは予想した通りだ。けど、マ
ーマとの関わりはどうだ。なぜ、マーマは一年前の夜、あんな目に合わなくて
はいけなかったのか。あの一件もロートルが絡んでいると当たりはつけていた
けど、彼の精神状態が不安定なせいで、真偽が確かめられない。
 もっと深く。もっと奥へと潜る必要がある。

 ―――阿嬌が廃棄されてからは、今まで彼女経由で接触していたあの女と直
接連絡を取らなければいけなくなった。

 あの女? そいつが黒幕か。

 ―――私は恐ろしい。阿嬌は最後まで真実を明かさなかったが、私の読みが
正しいなら、針の城から来たあの女の正体は……。

〈針の城〉から来た、か……。
 ここまで大胆なことをする奴だ。あの魔郷の住人であっても不自然はない。
けど、どうして〈針の城〉の人間があたしを狙う。
 そもそも、この情報だと、まるでマーマまでもがあたしを―――

 導かれるままに、意識の深層へと降りていく。
 あたしの侵入に気付いて、慌てて逃げゆく情報を見つけた。ロートルがもっ
とも露見を怖れる記憶か。すかさず追跡する。
針の城から来た女≠フ正体。ロートルとマーマの関わり。この二つの答えが
欲しくて、あたしは情報に手を伸ばした。

74 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 00:13:46


 指先が―――つまりあたしの意識が触れると同時に、その情報は赤熱した。
 視覚化するならば、ダイナマイトの導火線が根本から火花を噴き出したに等
しい光景。肉体から乖離したあたしの意識に寒気が走る。
 ロートルの精神に、こんな攻撃的な情報があるはずない。

 特定の条件をトリガーにして破壊活動を行う潜伏型プログラム。

 ―――こいつは論理爆弾(ロジックボム)だ!

「離脱……!」

 眼帯で目を隠すことはおろか、瞼を閉じる余裕すらない。あたしは視線を逸
らすことで、ロートルへの精神侵入を強制中断した。

 炸裂した論理爆弾はロートルの精神を容赦なく吹き飛ばす。
 理性も記憶もデリートされた老人は、その衝撃に耐えきれず、鼻と耳から血
を垂らして絶命した。
 ……強制中断が一瞬でも遅れていたら、あたしも爆発に巻き込まれていた。
 いや、ブービートラップとして仕掛けるつもりだったなら、トリガーと同時
に逃げ道を閉ざすことも可能だったはずだ。あの論理爆弾の目的は、証拠隠滅
に過ぎないってわけか。

「……それにしたって、他人の精神に自爆プログラムを仕込むなんて」

 生半可な術者じゃない。あたしのような、心霊工学を囓った程度のオカルト
マニアとは比べものにならないほどの実力を有している。
 リリーだって、こんな真似は不可能だろう。魔力の絶対値だけではなく、途
方もない魔道への造詣が必要だ。
 ……これも針の城から来た女≠フ仕業なのか。

 脱力してよりかかってきたロートルの死体を床に放ると、あたしは精神侵入
で得た情報を吟味した。
 真相に至れるような発見は皆無と言っていいだろう。小出しにされた情報は、
すべて倫理爆弾をトリガーさせるための餌だったんだ。

 思わず舌打ちをしてしまう。ひと一人殺して、この程度の収穫か。
 今日だけで二人も殺している。それもひとりは、空気のように扱っていたと
はいえ、物心がついたときからの付き合いだ。
 あたしの中の何かが壊れてしまったような気がする。日常は守られたかもし
れない。けど、もはや、あたしは昨日まであたしではなくなっている。
 暴力への抵抗が、自分でも驚くほど薄らいでしまっていた。
 必要なら、これからだって殺し続けるだろう。
針の城から来た女≠ニいうのがマーマを壊した張本人ならば――あたしから
リリーを奪った真犯人ならば――あたしはそいつを、絶対に許しはしない。

「殺してやる……」

 けど、その前に為すべきことがある。
 論理爆弾の起動成立は仕掛けた術者も気付いているはずだ。あたしが凶手を
殺したにも関わらず黒社会が動かないことも含めて、もはや事態が計画通りに
進んでいないのは自覚しているだろう。ならば、次の一手を打ってくるはずだ。
 どう動く。今度は何を仕掛けてくる。
 ……あたしに分かるはずがない。
 けど、何が危険かは分かる。

 あたしの弱点。あたしの心臓。―――マーマが狙われる可能性は十二分にあ
り得る。針の城から来た女≠ニ関わりがあるならば、尚更だ。

 あたしはビルから飛び出した。

75 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 20:13:24


 蒸気スクーターに跨って〈針の城〉へ。ビルの隙間の狭い路地を縫って第七
層まで辿り着く。目的地のビル屋敷=\――阿片窟は四方を雑居ビルに囲ま
れているため、屋外から近付くことはできない。あたしはスクーターを乗り捨
てると、屋内から駆け足でビル屋敷≠ヨと入った。

 入り口には立ち番が五人もいた。普段は一人しか置いていないのに、なぜ今
日はこんなに警戒が厚いのか。しかもみな揃って重武装だ。何かが起こってい
るのかもしれない。焦燥が歩の進みを急き立てる。立ち番があたしを制止しな
かったことがせめてもの救いか。

 普段は支配人室に閉じこもっているウォンだけど、この時はロビーに立って
他の客たちと積極的に会話をしていた。珍しいこともあるもんだ。
 無視して通り過ぎようとすると、慌てて呼び止めてきた。

「火蜥蜴!」

 相手にしている暇はない。だけど、運悪くエレベーターは一階で待機してい
なかった。待っている間にウォンが追いつく。

「阿嬌の様子を見に来たのか」

 あたしがこのビルに足を運ぶ理由なんてそれしかない。だけど、わざわざそ
れを尋ねるということは、特別な理由があるのか。
 ……こいつだって、ロートルと同じで信用はできない。

「火蜥蜴。おまえ、さっきまでどこにいたんだ。事務所にいたのか。だったら
教えてくれ。外の様子はどうだった」

 ウォンの言う外≠ニは〈針の城〉の城外のことだろう。彼の言動がおかし
いことに気付いて、あたしは初めてその爬虫類面に視線を向けた。

「どうって……なんでそんなことを聞くのさ」

 憮然と答える。

「おまえ、知らないのか?」

 ウォンは信じられない、と天を仰いだ。その大仰な身振りが余計にあたしを
苛立たせる。エレベーターはまだ来ないのか。

「クーロン・ストリートでクーデターだよ!」

「クーデター?」

「〈黒死病〉の奴等が、第二層から派遣されていた幹部をバラしたらしいんだ。
ストリートのほうはかなり混乱しているって聞いたぜ。下請けの連中どもと抗
争状態に陥っちまっているって」

 まったく気がつかなかった。いや、興味がないと言ったほうが正しいかもし
れない。ヤクザの戦争など知ったことか。
 
〈黒死病〉というのは、クーロン・マフィアが抱えている暗殺者集団の俗称だ。
 活動範囲は中心街に限定されている。マフィアに関わりのある暗殺組織は多
いけど、この〈黒社会〉が特別なのは組織の中枢である〈針の城〉直轄である
点だ。組織から委任されるかたちで利益を得る下請け組織とは違う。
 その役割は殺しから監視まで多岐にわたる。〈黒死病〉はクーロン・マフィ
アの中心街における手であり、目でもあった。

76 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 20:15:34


 そこまで重要な役割を担う〈黒死病〉の凶手どもが、〈針の城〉に反旗を翻
すなんてあり得ない。裏切るにしても、もっとうまくやるはずだ。いきなり殺
し合いから始めるなんて、素人以下の判断じゃないか。
 だからウォンもここまで驚いているのだろう。
 あたしは大体の事情を察知した。
 あたしを襲ったあのインバネスコートの蜘蛛遣い。あいつも〈黒死病〉の凶
手だったはずだ。理に叶わない行動が同じ組織によって再び行われた。考え得
る理由は一つ。―――いまの〈黒死病〉に理性はない。
 操られているんだろう。あのときと同じように。

 これが針の城から来た女≠フ次の一手なんだろうか。黒社会の瓦解を狙う
のならば、必殺とまでは言わずとも、手痛い一撃ではあるだろう。
 クーロンは大混乱に陥るに違いない。
 ……だけど、あたしと直接の関わりはない。

針の城から来た女≠フ目的は、クーロン・マフィアへの攻撃だったのか。
 そのためにあたしを利用した? ロートルに監視させた? ……それは考え
にくい。あたしをどう利用すれば、組織への攻撃になるっていうんだ。

 偽装クーデターにしたって、〈針の城〉から戦闘部隊が送り込まれれば容易
く鎮圧されるだろう。〈黒死病〉は確かにクーロン・ストリートにおける恐怖
の象徴だけれど、人外が蔓延る〈針の城〉を基準に見ればどうってことはない
相手だ。あの蜘蛛遣いがハダリーの敵ではなかった事実がそれを証明している。

 分からない。針の城から来た女≠フ目的が想像すらできない。
 どうしてあたしを監視した。どうしてあたしを嵌めようとした。どうしてマ
ーマを壊した。マーマとはいったいどんな関わりがあったんだ。

 目の前の視界が開ける。エレベーターが一階につき、扉が開いた。
 あたしは思考を中断して、エレベーターに乗り込んだ。ウォンもそれに続こ
うとしたけど、あたしの無言の威嚇がそれを押し止める。

「好きなだけ殺し合えばいいさ。あたしには関係ない」

 それだけ言い残して、扉を閉めた。

 
 マーマは無事だった。前に訪れたときと変わらず、気怠げに長煙管を吹かし
ている。理性の輝きも消えたままだ。
針の城から来た女≠ヘこれ以上マーマに危害を加えるつもりはないのか。そ
れともあたしの動きのほうが早かったのか。答えは見えないけれど、これで目
下の懸念は消えた。マーマが無傷なら、それでいい。

 さて、どうしたものか。

 マーマはこの阿片窟で最上級の待遇を受けている。警護も相応に厳重だ。
 彼女の無事が確認ができたら、あとはもうあたしにできることなんてない。
ウォンは信用できない男だけど、それでもここより安全な場所はないのだから。
下手に別の場所に動かすほうが、よっぽど危険だ。
 かといって、事務所に戻る気にもなれない。ウォンの言葉が真実ならば、今
頃クーロン・ストリート周辺は大騒動だ。わざわざ巻き添えを食いに行くこと
はない。事務所の警備はハダリーに任せよう。

「今日はゆっくりできそうだよ、マーマ」

 あたしは努めて優しい表情を作った。

77 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 21:51:32


「今日はここに泊まっちゃおうかな。ベッドこんなに広いんだし、あたしが邪
魔したって問題ないだろ?」

 なんて言いながら、ベッドの縁に腰かける。マーマはシーツに寝転んで阿片
を吸引していた。当然だけど、あたしの言葉なんて耳に入っていない。
 構わず語りかけた。

「マーマと一緒に寝るなんて、何年ぶりかなぁ。昔はあたし、マーマがいない
と絶対に寝ようとしなかったもんね」

 夢を見るのが怖かったからだ。
 ……でも、マーマは多くの人間が必要とされる立場だった。あたしのために
使える時間は限られている。目覚めて、横にマーマがいないと気付く度にあた
しは震えたものだ。恐怖のあまり、泣くことすらできなかった。それ程までに
孤独が怖かったんだ。
 やがて、マーマがあたしの有用性を気付き、故買屋商売を任せてくれるよう
になると、睡眠という行為自体忘れた。あたしは逃げるように心霊工学と死体
いじりに没頭し、添い寝の必要自体なくなった。
 
 なんでもっと早く思い付かなかったんだろう。マーマはもう、時間を縛られ
ることのない身だ。誰よりも自由になれたんだ。添い寝の時間だっていくらで
も作れる。―――睡眠が必要ならば、彼女の隣で取ればいいじゃないか。
 どんな悪夢にうなされても、マーマがいてくれたら恐怖を忘れられたあの頃
を思い出せ。今日までは仕事に追われて忙しかったけれど、明日からは暇もで
きるだろう。マーマと一緒に過ごす時間を、もっと増やさないと。

 でも……。
 いまでもあたしは、あの夢を悪夢だと決めつけることができるのか。
 自分が自分でなくなることが極端に怖かった。この世界から消えてしまうこ
とが耐えられなかった。……けど、いま、あたしが一番なりたくない人間はあ
たし自身だ。この世でいちばん軽蔑しているのは火蜥蜴<Cーリンだ。
 なら、もう、あの夢を怖れる必要もないじゃないか。

「ハ―――」

 自嘲の笑みがこぼれた。
 だったらどうするって言うんだ。リリーみたいに、あたしも眠りの世界へと
落ちてゆけって言うのか。真っ当な人間のように、睡眠を取れって言うのか。
 そして夢を見ろ、と。行けもしない外≠フ夢を。……あたしが握り潰して
しまった、リリーの夢を、だ。

「冗談じゃない」
 
 やはり悪夢だ。これから一生、あたしは眠る度に罪悪感にうなされなくちゃ
ならないんだから。

 表情が強張っていることに気付いて、慌てて取り繕った。

「ごめんごめん」

 マーマは気にしてないようだ。安心して、会話を再開する。

「そう言えば、さ。あたし、友達ができたんだ。信じられるか? このあたし
が、ハダリー以外で友達なんて上等なもんが作れたんだぜ」

 マーマはきっと信じないだろうなぁ。

78 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 21:53:33


 リリーのことをマーマに話して聞かせるのは楽しかった。いつになく冗舌に
なれた。身振り手振りすら交えて、リリーとの出会いから別れまで語ることが
できた。マーマも珍しく聞き入っているように見える。見えるだけだ。

「あいつには、色々と教えられたよ……」

 人間の絆。人と人はどうやって繋がりを作るのか。あたしは今日まで、その
答えを「自分自身の価値」と信じて疑わなかった。
 マーマはあたしに教えてくれた。イーリンの価値を。畸形である蜥蜴の眼と
血肉には、誰もが持ち得ない輝きが秘めていると気付かせてくれた。
 マーマにとってあたしは価値のある娘だった。だから女衒に売り飛ばさず、
自分の手で育ててくれた。あたしは、価値を見出してくれたマーマに感謝した。
自分を必要としてくれるマーマを愛した。
 人間の絆ってそういうもんだと確信していた―――。

「でも、リリーは……」

 彼女があたしを必要としたのは、外≠ヨ出るために必要不可欠な人材だっ
たからじゃないのか。一人で未知の大海に飛び出すには、寂しかったからじゃ
ないのか。リリーにとってのイーリンの価値とは、彼女の夢である外≠ノ付
随した代物じゃなかったのか。

「なのに、あいつは外≠ヨ行くことよりも、あたしを優先しやがった」

 理解できない。そんなの本末転倒じゃないか。どうしてあいつは、あんなに
憧れていた外≠ヨの羽ばたきを諦めてまで、あたしを救ったのか。

 ……考えられるとすれば、それは。

「外≠ヨ行くことよりも、あたしの命のほうが大事だったから」

 馬鹿馬鹿しい。そんなの絶対にあり得ない。
 ここをどこだって思っているんだ。不夜城クーロン。あらゆる善悪が煮えた
ぎる渾沌のリージョンだ。人の命の価値なんてあまりに儚い。
 あたしみたいなスラムの娘なら尚更だ。何かを捨ててまで守るような上等な
生き物じゃない。あたしなんて、人間でも魔物でもないただの畸形じゃないか。
 なのにリリーはどうして……。

「―――なんで、あたしなんかの、ために」

 価値だとか、有用性だとか、理由だとか。そういうことすら必要としない場
所に、リリーがいたとしか思えない。
 信じられない世界だ。マーマがいないだけで、歪んでしまったあたしには絶
対に行き着けない場所だ。

 あいつは本当に、〈運命の赤児〉だったんだな……。

「でも、もういない」

 あたしはどうすべきだったんだろうか。どうすれば、リリーを失わずに済ん
だんだろうか。彼女の願いに従って、さっさと外≠ヨ行ってしまえば良かっ
たのか。……そんなのは無理だ。だってあたしにはマーマがいるんだから。

79 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 21:57:34


「マーマ―――」
 
 教えて欲しい。あんたはなにを隠しているんだ。どうして一年前の夜、あん
な目に合わなくちゃいけなかったんだ。十年前、あたしを拾ったのはほんとに
偶然なのか。他の孤児と違い、あたしにだけあんなに優しくしてくれたのは、
あたしが他人にはない力を持っていたから、それだけなのか。

「……針の城から来た女≠チて誰なんだよ」

 そいつがあんたのボスなのか。十年も一緒にいたのにあたしは気付きもしな
かったけど、マーマはそいつに命令されてあたしを養っていたんじゃないのか。
 こんな疑い持ちたくない。マーマのことを信じていたい。でも、ロートルの
記憶の断片には、そうとしか思えない情報が散らばっていたんだ。

 マーマは騙していたのか、あたしを。
 あたしが信じていた価値は、理由は、すべて偽りだったのか。

『ああ? めんどくさいこと考えるんだね。だったらどうだって言うんだい。
いいからあんたはあたしのためだけに生きていればいいんだよ』

 取り繕う必要なんてない。いつもの調子でそう答えてくれれば、安心してあ
たしは明日からもマーマのために生きることができる。
 マーマとあたしの関係は、誰かに強制されたものなんかじゃなくて、マーマ
自身が見出し、必要としたものなんだって。
 そう答えてくれるだけでいいのに。

「……なにも、言ってくれないんだね」

 こんなに尽くしているのに。マーマだけを見てきたのに。あたしを生まれ変
わらせてくれるかもしれなかった友人さえも犠牲にしたっていうのに。
 その代価が無言かよ。

 弁解ぐらいしたらどうなんだ。
 慰めてくれたっていいだろう。
 優しく、してくれよ。

 ―――あたしの中の何かが、音をたてて崩れてゆく。

「いい加減にしてくれ。いつまでラリってんだよ!」

 マーマの手から長煙管を奪い取る。竹と真鍮でできたそれを、片手でへし折
った。マーマの胸ぐらを掴んで引き寄せる。あたしがあつらえさせたドレスが
乱れた。でも、マーマの虚ろな視線は床に投げ捨てた長煙管に向けられていた。
 いくら憎しみをこめて睨んでも、眼差しは返ってこない。

「分かっているのかよ……。あんた、分かっているのかよ」

 怒りに突き動かされているはずなのに。憤怒が躰を支配しているはずなのに。
なぜか、あたしの眼からは涙が溢れていた。右眼を覆う眼帯が濡れる。

「あんたはあたしの全てなんだぞ。あんたがいなかったら、あたしはもう、な
んにもなくなっちまうんだぞ」

 それなのに、あたしが信じてきた価値のすべてが偽りだったとしたら。

「あたし、どうすれば良いか分かんないよ……」

 リリーさえも、あたしにはいないんだから。

80 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 23:05:14


 気付いたらあたしはマーマを抱き締めていた。両腕を回し、肩に顔を埋めて
泣き暮れていた。口からは「畜生」だとか「どうして」だとか恨み言ばかりが
こぼれるけど、それが憎しみとしてかたちになることはない。

 怒ろうとしても無駄だ。嫌おうとしても無理だ。あたしはマーマから離れら
れない。あたしとマーマの関係が偽りだろうと真実だろうと、彼女はあたしが
持つ唯一の理由≠ネんだから。捨てられるはずがない。

 ……それに、針の城から来た女≠フ命令があろうとなかろうと、マーマと
過ごした十年間は疑いようもなく存在した。あたしは、その十年を間違いなく
生きた。あの思い出は絶対だ。

 マーマはあたしのすべてだ。
 いままでも、これからも。

 そうだ。これこそが絆≠ニ呼ぶべきものなんじゃないか。
 生半可な疑念じゃ揺るぎもしない愛情。
 あたしはマーマのために生きる。それだけを信じて今日まで生きてきたんだ
から、明日からもそうやって生きればいい。

 マーマの傲慢な笑みは二度と戻らないだろう。あの頃の思い出が再び現実に
なることは絶対にない。……でも、あたしが当時の輝きを忘れなければ、過去
を想って、生きてゆくことだってできる。

 マーマのために生きよう。この世界の誰もがマーマのことを忘れてしまって
も、あたしだけは想い続けよう。

 マーマの肉体は限界を迎えている。先は長くない。不死者に転生させるとい
う手段もあるけど、死霊術を囓ったあたしとしては、そこから生まれるものは
マーマであってマーマではない、別のなにかだと考えている。
 別人にしてしまうぐらいなら、人間のままで死なせるべきだ。

 ……そして、マーマが死んだとき、あたしの価値も消える。
 それは火蜥蜴<Cーリンそのものが消失するということ。
 躊躇いはない。充分すぎる人生だ。十年前、誰に拾われることもなく凍え死
んでいたかもしれない境遇を考えれば、お釣りだってくるだろう。
 マーマと一緒に、あたしも消えるんだ。

 心の枷が、ようやく落ちた気がする。

 吹っ切ってしまえば楽なものだ。笑顔さえ浮かべることができる。

「これからはずっと一緒だよ、マーマ」

 涙を拭う。マーマの乱れだ着衣を整えると、ベッドから立ち上がった。

「なんか喉が渇いちまったぜ」

 マーマも同じはずだ。いくら廃人だといっても、水分を取らないわけにはい
かないんだから。
 ワインやブランデーならこのペントハウスにもあるけど、アルコールという
気分じゃない。こういうときだからこそ、好物のオレンジジュースを飲みたい。
 そこらの従業員を掴まえれば、用意してくれるはずだ。ついでに、あたしが
折ってしまった長煙管の代わりも注文しないと。

 ベッドに背を向ける。寝室から離れて、あたしはエレベーターを目指した。

81 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 23:07:18


 ずっと一緒だと誓ったはずなのに。
 これからもマーマのために生きると決めたはずなのに。
 ……あたしはその直後に、マーマから目を離してしまった。
 取り返しのつかない、過ち。

 そして―――


 風が、あたしの背中を舐めた。


 冷たい、風。
 これまで浴びたどんな風よりも寒気立つ苦寒の風。
 あたしは立ち止まる。
 どうして、風なんかが吹くんだ。
 ここは屋内で、ビルの最上階で、それも最高級の部屋で……隙間風なんて吹
くはずがないのに。―――どうしてこんなに激しく風が吹き荒れるんだ。
 
 振り返る。入り口から寝室を見渡す。真っ先にマーマの姿を見たかったのに、
まず目についたのは風に煽られて踊るカーテンだった。

 窓が、開いている。

「どうして……」

 転落事故防止のために鍵をかけていたのに。外部からの呪的侵入を防ぐため、
封印すらしていたのに。―――どうして窓が開いているんだ。
 誰かが内側から開けたのか。

「ハ、ハ―――」

 喉からこぼれだす渇いた笑い。

「ウォンか? また勝手に入ってきたのか。懲りない奴だなぁ。換気がしたい
んだったら、まずあたしに言ってくれよ。じゃないとマーマが驚いちゃうじゃ
ないか。ゴメンよ、マーマ。ウォンの馬鹿が―――」

 ベッドの上にマーマの姿はない。
 ついさっきまで横になっていたはずなのに。
 忽然と消え失せてしまった。

「か、隠れん坊かい?」

 カーテンが踊る。
 ここは地上十二階。地上よりもはるかに風は強い。天気も乱れているようだ。
 だから、カーテンが踊る。花瓶が倒れ、香炉の煙が霧散する。

「……無茶すんなよ。どんなに若作りしたって、マーマはもう歳なんだからさ。
悪ふざけはやめて、大人しくベッドで寝ていてくれよ」

 カーテンが踊る。
 カーテンが踊る。

 マーマの姿はない。

82 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 23:08:39


 風が煩わしい。誰が窓を開けたんだ。
 ベッドから窓までの距離は、十歩以上ある。意識が曖昧な彼女が自分で開け
られるはずがない。誰かが開けたんだ。外側からは無理だから。誰かが内側か
ら鍵を開けて、誰かが護符を破って。マーマは隠れん坊をしていて。

 カーテンが踊る。
 カーテンが踊る。

 マーマが開けたはずがない。彼女は壊れているんだから。自分の意思なんて
持っていないんだから。マーマが開けたはずが、ない。

 カーテンが踊る。
 カーテンが踊る。

「……ウォン、窓閉めるからな。換気ならあとにしてくれ」

 マーマはまだ隠れん坊を続けている。この寝室は隠れるところがいっぱいあ
るから、見つけるのに手間取りそうだ。
 まず窓を閉めて、それから探してやろう。

 カーテンが踊る。
 カーテンが踊る。

 窓を開けたのはウォン。マーマは隠れん坊をしている。
 そうだ、そのはずだ。それしか考えられない。
 マーマは絶対に窓を開けない。マーマは立って歩いたりしない。
 だからあたしは落ち着いて窓を閉めればいいんだ。

 カーテンが踊る。

 ―――なのに、あたしは絨毯を蹴って。

 カーテンが、

 ―――躰に絡みつく鬱陶しいカーテンをレールから引き千切って。

 落ちて、

 ―――窓辺に手をかけると、身を乗り出して。

 カーテンが落ちて、

 ―――眼帯を毟り取って。

 落ちて、落ちて、

 ―――黄金の瞳で、窓から地上を見下ろした。


〈蜥蜴の眼〉が暗闇を払う。

 唇が震える。

 窓枠に置いた手に、力がこもる。

 あたしの視界の先には、花が咲いていた。

 夜の闇を染める赤い花が。

 マーマの花が、咲いていた。

83 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/16(木) 23:09:03








 落ちたのは、カーテンだけじゃなかった。








.

84 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/17(金) 00:03:28


「うわあああああああああああああ!」

 迷う必要なんてなかった。
 迷う余地なんてなかった。
 あたしも同じだ。
 あたしも窓から飛び降りた。
 マーマを追った。
 夜空に躍り出た。

 風が全身を包む。

 ……ただ、あたしの場合は墜落が目的じゃない。
 これは近道なんだ。
 エレベーターなんて待ってられない。
 階段なんて下りてられない。

 しばらくの自由落下のあと、ビルから突き出したカワラ≠ニかいう屋根飾
りに手をかけて、勢いを殺す。それから手を離して、落ちる。また掴んで、離
して、落ちる。それを三回繰り返して地上に降り立った。
 こんなまどろっこしい真似をせず、さっさと飛び降りてしまいたかったけれ
ど、あの高さから落下したらいくらあたしでも死ぬと分かっていたから。
 どんなバケモノでも死ぬって分かっていたから。
 ……まして、それが人間ならば。

「マーマ!」

 地上に咲いた花に駆け寄る。白かったはずのドレスが赤く染まっていた。
 どこから落ちたんだろうか。胸か、背中か、足か。やせ細った四肢が、曲が
れないはずの方向に曲がってしまっている。
 ……確かめるまでもなく、即死だった。
 マーマは自分が咲かせた花の中央で、今度こそ本当に壊れてしまった。

「そんな……」

 誰かが投げ落としたのか。
 無理だ。考えられない。
 あの部屋にはあたしとマーマしかいなかった。
 
 じゃあ、誰かが侵入してマーマを落としたのか。
 それも無理だ。鍵は外からは開けない。封印だってある。強引に侵入したな
らば、あたしが気付いたはずだ。

 なら、マーマが自分で―――

「……嘘だろう」
 
 マーマは自殺なんてする女じゃない。誰よりもしぶとく生き長らえようとし
た。例え浅ましかろうと、醜かろうと、生き残ったものが勝者だと信じていた。
 自ら死を選ぶなんて、絶対にあり得ないんだ。

 でも、事実としてマーマは飛び降りた。
 どうして……どうしてなんだ。
 問い掛ける余地すらない容赦のない死。マーマの最期は、あたしに疑問をぶ
つける猶予すら与えてくれなかった。

85 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/17(金) 00:04:42


「マーマ……」

 血の海から死体を抱き上げる。
 ふと、いま、眼帯をしていないことに気付いた。〈蜥蜴の眼〉は開かれてい
る。ひとの心を覗き見る魔眼。……もう何十度も試して、その度に無為に終わ
った行為。最後にもう一度だけ、試そう。
 心臓は止まっても、魂魄はまだ肉体に宿っているはずだ。

 焦点が定まらないまま夜空を見上げるマーマの瞳を、あたしの右眼が捉える。
 いままでと同じなら、ダイブしても真っ白な景色が広がるだけ。魂魄が消失
しているなら、ダイブすることすら不可能だ。
 けど、あたしの意識はマーマの精神世界へと誘われて―――

 ―――もっと早く、こうすべきだった。

 マーマの声が、右眼を通して頭に響く。
 ……これは精神の内側というより、死の瞬間、マーマが抱いた強力な思いだ。
 肉体に残留する思念。いわば、マーマの遺言。

 ―――イーリン、あなたは。

 久しぶりに聞くマーマの声は、記憶にあるよりずっと穏やかだった。

 ―――あなたは自由に生きなさい。

 呼吸が止まる。
 考えてもみなかった言葉が、あたしの頭の中に流れ込んでくる。

 ―――イーリン、あなたは自由よ。

「あたしは、自由……」

 残された思念はそれだけだった。
 それだけで十分だった。
 マーマがなにを考え、なにを理由に飛び降りたのか。
 すべて分かってしまった。

 あたしに自由を与えるため。

「そんなのって……」

 それじゃリリーと同じじゃないか。
 マーマがあたしに教えてくれた絆≠ニはぜんぜん違うじゃないか。
 マーマは、あたしに利用する価値を見出したから、近くに置いていてくれた
んじゃないのか。リリーみたいなわけの分からない理屈じゃなくて、「自分の
ため」という理由があったんじゃないのか。

 自由なんて、そんなの。

 ……これじゃ、まったくマーマのためになってないじゃんか。
 こんな終わり方でマーマは良かったのか。クーロン・ストリートの女傑が、
こんなかたちで幕を下ろしちまって良かったのか。

「良くない! 絶対に良くない!」

 勝手だ。あまりに勝手すぎる。

86 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/22(水) 22:34:39


 マーマは初めからそうだった。なにもかもが勝手だった。
 勝手にあたしを拾って、勝手にあたしを育てて、勝手にあたしに優しくして、
勝手にあたしから愛されて―――勝手に壊れて、勝手に死んだ。
 最後の最後まで、あたしを顧みようとしなかった。

 いまさら自由に生きろなんて、そんなの卑怯だ。
 マーマのために生きるって決めたのに。マーマがあたしのすべてだって気付
いたのに。……なんで、最後まで面倒を見てくれないんだ。

 自由なんていらない。
 不自由でいい。
 マーマさえいてくれれば、あたしは生きてゆけた。
 自由なんてあったところで―――

「どうして良いか、分からないだけだよ……」

 マーマの上半身を抱き締める。血まみれの胸に顔を埋めた。鼻先を強くこす
りつけた。……願いはひとつ。マーマと一緒になりたい。彼女が行こうとして
いるところに、あたしも連れて行って欲しい。ひとりはイヤなんだ。
 ……だけど、どんなに力を込めて抱いても、あたしはあたしで、マーマはマ
ーマだった。マーマは死んだ。あたしはまだ生きている。
 不安で、胸が押し潰されそうだ。

 いつの間にか、ウォンがあたしの背後に立っていた。騒ぎを聞きつけた立ち
番が呼んだのだろう。他にも何人か、見知った顔が遠巻きにマーマと、マーマ
を抱くあたしを眺めている。

 ウォンは顔色は蒼白だった。滑稽なまでに目を見開き、呆然と立ち尽くして
いる。「死んだのか」と答えを求めない呟きを夢中で繰り返す。
 あれだけマーマを厄介もの扱いしたのに、いざ願いが叶うと喜ぶどころか愕
然とするなんて。器が知れるな、なんて感想を抱くと同時に、ウォンの気持ち
も痛いほど理解できた。
 マーマは伝説だったんだ。クーロンの闇の歴史のひとつだったんだ。阿片中
毒にまで落ちぶれても、その事実が消えることはない。

 いま、ひとつの伝説が終わった。

 あたしだけじゃない。ウォンだけでもない。クーロンで生きる多くの人間が
阿嬌の呪縛から解放されたことになる。
 今日までのマーマは死んだも同然だった。いまは本当に死んでしまっている。
その違いが如何に大きいか、ウォンは身に染みて実感しているはずだ。

 マーマを抱きかかえて、立ち上がる。
 軽い。なんて軽いんだろう。マーマの背丈はあたしより頭一つ分は大きいの
に、あたしの両腕はマーマが着るドレスの重みしか感じていなかった。
 あんなにあたしをやせっぽちって馬鹿にしていた癖に……。

「―――頼みが、あるんだ」

 未だ驚愕から抜け出せないウォンと向き合う。

「これは契約にないことだけれど……もう、あんたしか頼れるやつがいないん
だ。仕事じゃなく、ビジネスとしてあたしのわがままを訊いて欲しい」

 目の上のたんこぶとしか思っていなかった小娘に唐突に下手に出られて、ウ
ォンは更に混乱した。どうにか「な、なんだ」とだけ言い返す。

87 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/22(水) 22:36:22


 あたしは顔を歪めながらも、なんとか嗚咽を飲み下した。

「……マーマを葬式に出してやってくれ」

 あたしがひとりで弔ってもよかった。あたしが手ずからマーマを灰にしても
よかった。二人の絆を確かめるには、むしろそうすべきだ。
 だけど、派手好きなマーマに密葬なんて似合わない。たくさんお金をかけて、
大勢の参列者を呼んで、ありだっけの花火を打ち上げるべきだ。
 うんざりするほど過剰な演出で、儀式張った取り決めで、マーマという伝説
が終わったことをクーロン中の人間に知らしめるんだ。
 ウォンならそれができる。彼もまた、マーマの子供だから。

 ウォンはすぐには返事をしなかった。マーマほどの大人物の葬式となれば、
それだけ出費も嵩む。だけど同時に収益も見込める。どちらに天秤の針が傾く
か、混乱しつつも計算を始めた。三十秒ほど悩んでから、「……いいだろう」
と警戒の念をこめながら言った。

「悪いね。頼んだよ」

 マーマの遺体をウォンに渡す。

「お、おい……」

 ウォンはマーマを受け止めたものの、バランスを崩して落としそうになる。
脇に立っていた立ち番が、慌ててマーマの背中を支えた。

 あたしはマーマの死に顔に一瞥をくれると、踵を返し、その場を去ろうとす
る。背中越しにウォンが呼び止めた。

「どこへ行くんだ。一緒にいてやらなくていいのか。まさか、俺に任せきりに
するつもりか」

 ウォンの意外そうな声。葬式の采配に首を突っ込んでくるものとばかり思っ
ていたのだろう。あたしは背中を向けたまま「任せると言ったはずだぜ」と答
えた。……あたしに、葬式に参列する資格はない。

 あたしは捨てられたんだ。
 最後の最後で、置き去りにされたんだ。
 いまのあたしは独りだ。
 どうしようもないまでに孤独だ。
 あたしには誰もいない。
 あたしには誰もいない。

 あたしは自由だった。死にたくなるほど自由だった。

「さようなら、母さん」

 多くの視線を背中に感じながら、あたしはビル屋敷≠ゥら去った。
 一年前から幾度となく通った阿片窟。
 マーマの最後の城。
 あたしを縛り付けていた鎖。
 唯一の、絆。
 ……もう二度と、訪れることはない。 

88 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 00:17:43


 足を止める。
 第十層まで歩いて、蒸気スクーターを第七層に置いてきてしまったことに気
付いた。考え事に没頭していて気が回らなかったとはいえ、間抜けな忘れ物を
したもんだ。このまま徒歩で帰るのはちょっと骨が折れる。

 ……帰るのは。

 帰る、か。
 
「いったい、どこへ帰るっていうんだろうな」

 中心街の事務所か。
 第八層の自宅か。
 ……どっちも間違いじゃない。マーマがいなくなったところで、あたしの資
産までが失われるわけじゃない。クーロンの火蜥蜴は未だにマーマの後継者で、
年齢に不相応なお金持ちサマのままだ。
 だけど、自由≠ノなってしまったあたしには、もう、本当の意味で帰る場
所なんてない。どこへ帰ってもあたしは独りのままだ。

 事務所へ帰ってどうする。アパートへ帰ってどうする。故買屋の仕事を続け
るのか。なんのために。生きるために。
 ……くだらない。心底くだらない。
 あたしは自由なんだ。
 もうマーマはいないんだ。
 なんでもできるけど、なんにもできない。
 理由がなければ目的もない。
 帰る場所だってない。

「―――社長」

 唐突に呼びかけられて、あたしは躰を硬直させた。別にあたしを指している
んじゃないと思いたかったけど、こんな間の抜けた声を出すやつがクーロンに
二人もいるはずがない。

「社長、オカエリナサヰ」

 牛頭の巨漢が、悪鬼の仮面で表情を殺してあたしを待っていた。ただでさえ
窮屈な〈針の城〉の路地は、筋肉の壁によって完全に分断されている。
 ……こいつ、ここでなにやってんだよ。
 
「誰が迎えに来いなんて言った。事務所の留守を任せただろう。中心街はいま、
やばいんだろう。どさくさに紛れて強盗に入られたらどうすんだよ」
 
 ていうか、なんであたしがここを歩いているって知っているんだよ。

「ずっと社長ヲ捜してヰマシタ」

 ハダリーはあたしの説教をきっぱりと無視した。
 あたしは「はぁ?」と問い返す。

「感じたンです」

「なにをだよ」

「社長が寂しガってヰるって」

「……っ」

89 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 00:20:09

 こいつ、なに言ってやがるんだ。単細胞の癖に、なに一丁前に気を使ってい
やがるんだ。あたしがいつ、慰めろなんてプログラミングしたよ。
 言葉だけの優しさなんていらない。本を朗読するように憐れまれても、ちっ
とも嬉しくない。リビングデッドに寂しいなんて感情が分かるものか。筋肉が
満載された脳みそに、あたしの痛みが理解できるものか。

 ―――それとも、まさか。

 分かるのか。理解できるのか。
 学習したっていうのか。
 オートマトン・ハダリーの自由意思≠ェ、孤独を学んだのか。

「ハダリー」

 自然と声音が低くなる。

「……ハヰ、社長」

「寂しいってなんだよ」

「分かりませン」

「分からないのかよ」

「ハヰ」

「分からないのに、あたしが寂しがっているって思ったのか」

 はい、とハダリーは頷いた。

「ダカラ迎えに来ましタ」

 理屈になってねえ。道理が繋がっていねえ。倫理立てた思考より直感を優先
するのなら、こいつはまだまだ不完全な筋肉達磨だ。自立/独立なんて夢のま
た夢。手のかかるガキのようなもんだ。マーマがいなくなってあたしが壊れて
しまったように、あたしがいなくちゃまともに動けない。

「……ハダリー、あんた、あたしがいなくなったらどうする」

 珍しく人造僵尸が返事に窮した。ない頭をフル回転させて答えを探している。
 答えなんて、見つかるはずがないのに。あたしですら答えられなかった、答
えたくなかった問いを、こんな死体に見つけられてたまるか。
 ……あんたを自由になんて絶対にさせないよ、ハダリー。

「申し訳ありまン。私には分かりませんン」

 だろうな。

「ひとつ、勉強させてやるよハダリー」

「ハヰ、社長」

「いま、あんたが抱いた思いが、寂しい≠チてやつだ」

90 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 00:23:39

 分かったのか分かっていないのか、ハダリーはお馴染みの「ハヰ、社長」と
いう返事を繰り返しただけだった。……別にあたしも、感動を抱かれることを
期待したわけじゃない。こいつはこれでいいんだ。馬鹿なままでいいんだ。

 ハダリーが事務所に帰ってやることの指示を出す。
 事業と不動産の処分。売値は問わないから、とにかく現金を作れ。在庫の商
品は全部同業に二束三文でくれてやれ。あたしの工房は、ハダリーの予備のパ
ーツと最低限の仕事道具を持ち出して、あとは念入りに破壊しろ。
 最後に「行け」と命令する。「ハヰ、社長」とハダリー。

「ハダリー」

「ハヰ」

「社長はやめろ」

「ハヰ、社長」

 くそったれめ。
 あたしはほんの少しだけ、笑ってもいい気分になれた。どん底に浸っている
ときでも馬鹿を見れば心は和むもんだ。

 認めざるを得ない。あたしはハダリーにすら依存している。自由になんてと
てもなれない。本物の孤独なんて考えられない。
 だけど、もうマーマはいない。
 その事実だけは絶対に揺るがないのなら。
 あたしの為すべきことはひとつ。

火蜥蜴≠フイーリンを縛る鎖はもう存在しない。誰もあたしを飼い慣らすこ
とはできない。あたしは―――自由だ。くそみたいに自由だ。


                  * * * *


 連絡も入れずに訪れたけれど、シャオジエはいつもの軽口も小言も封印して、
黙ってあたしを部屋に通してくれた。
 二十時間ぶりぐらいだろうか。前にこのスイートルームに訪れてから一日す
ら経っていないのに、室内の瀟洒なインテリアも、シャオジエの愛敬のある美
貌も、なにもかもが変わって見えた。……それはきっと、あたしが変わってし
まったからだろう。二十時間前のあたしはまだ、なにも失っていなかった。

「悪いけど時間がない。要点だけを話すぜ」

「阿嬌が死んだらしいアルね」

「知っていたのか」

 さすがはシャオジエ。情報の敏さは一級品だ。こんなお高いホテルに籠もっ
ていても、知るべきことはすべて知っている。

 シャオジエはがくりとうなだれた。

「阿嬌とワタシはずっと親友だったアルよ。お互いにたくさんお金儲けした仲
ネ。だからこの結果悲しいアル。火蜥蜴にかける言葉見つからないネ」

 いつもの茶化す口ぶりは影をひそめている。……ま、当然か。

「そういうのはどうでもいいんだ」

 シャオジエの慰めをあたしはばっさりと切り捨てた。 

91 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 01:22:20


 あたしがわざわざシャオジエのもとまで足を運んだのは、一緒にマーマとの
思い出を偲ぶためじゃない。マーマという後ろ盾がいなくなったいま、あたし
が頼れる唯一のオトナ=シャオジエに、利害の関係を無視して頼みたいことが
―――いや、縋り付きたいことがあったからだ。

「あたしは外≠ヨ行く」

 だからあんたのリージョン・シップに乗せてくれ。

 ……この頼みは、シャオジエの予想の範疇を大幅に逸するものだった。彼女
はマーマを失った悲しみすら忘却して、ただただ唖然と目を丸めた。

 しかたがない。シャオジエの反応は健全だ。どう予測すれば、あたしの口か
ら『外≠ヨ行く』なんて言葉が出ると思うのか。
 言ったあたし自身が、その不自然さに面はゆくなってくる。
 だけど、大真面目だった。真剣に頼んでいた。この望みを叶えてくれるのは
プライベート・シップを持つシャオジエだけだ。
 出入国管理証明書を持たないあたしは、正規の手段でクーロンを出ることは
できない。密出国の手段はいくらでもあるけど、クーロンの場合はその全てが
マフィアと絡んでいる。連中の手を借りるわけにはいかないんだ。

 正気なのか、本気なのか。―――そんなのは問うまでもなく、あたしの目を
見れば分かるはずだ。だから丸まっていたシャオジエの目も、次第に細められ、
商売人の鋭さを取り戻しただけで「馬鹿なことは考えるな」なんて馬鹿な説得
をしたりはしなかった。

「金はある。マーマの遺産をいまハダリーに処分させているとこだ」

「……理由を、聞いてもいいアルか?」

 どうしてクーロンから出て行くのか。どうして、あんなに拒んでいた外
へと行く気になったのか。

「もう、ここにはいられないからだ」

「だから、それはどうしてアルか」

 あたしは、唇の隙間からひゅっと息を吸い込んだ。

「ダージョンを―――〈紅の魔人〉を、殺すからだ」

 本当の驚愕は、ひとから表情を奪い去る。このときのシャオジエも、いつも
の大袈裟で嘘くさい反応はせず、無表情にあたしを睨んだだけだった。

「チケットは三枚用意してくれ。あたしとハダリーと―――」

 力をこめて、その名を口にした。

「リリーの分だ」

 マーマを失ってしまった。
 いちばん怖れていた事態を迎えてしまった。
 だからあたしには、もうなにも、怖れるものがない。
 ゆえに、あたしは自由だ。 

92 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 23:16:51


 あたしはシャオジエに語って聞かせた。
 三輪トラックで配送中に、巨大蜘蛛のモンスターに襲われたこと。そのモン
スターを使役していたのが、〈黒死病〉の凶手だったということ。黒社会に命
を狙われるかもしれなくなったあたしを、リリーが庇ったこと。……その代償
として、リリーは外≠諦め〈火焔天〉へ帰ってしまったこと。
 あたしがロートルを殺したこと。あたしの目の前で、マーマが投身自殺をし
たこと。……そしてあたしは自由になったこと。
 ―――シャオジエと別れてからいまに至るまでの二十時間。その間に起こっ
た一連の事件すべてを説明した。
 それを踏まえて、あたしは改めて断言する。

「リリーは外≠ヨ行く。あたしと一緒に行くんだ」

 そう決めた。自由なあたしが決断した。
 マーマもそうなることを望んでいるはずだ。
 あたしがあの阿片窟でリリーのことをマーマに教えなければ、きっとマーマ
は飛び降りなかったと思う。なんの根拠もない推測だけれど、マーマは自分が
あたしの枷になっていることに耐えられなかったんだ。
 だから、飛び降りた。
 あたしはその責任を取らなくちゃいけない。

 それまで黙っていたシャオジエが、ようやく口を開いた。

「自分の言ってることが、どれくらい難しくて、現実離れしていて、荒唐無稽
かは、分かっているアルな」

 ふん、と鼻を鳴らす。
〈妖魔租界戦争〉の発端と謂われる運命の赤児≠力ずくでさらってしまう
んだ。相手は妖魔租界を単身で壊滅させた伝説の魔人と、その配下のクーロン
・マフィア。常識を無視した愚行なのは間違いない。
 ちんけな故買屋の小娘になにができる。返り討ちに遭うのがオチだ。

 昨日までのあたしなら、やるだけ無駄とせせら笑っただろう。
 だけど、いまのあたしには諦める理由がない。例え愚かな真似だったとして
も、それでリリーとまた会えるのなら、彼女に夢の続きを見せてあげられるの
なら、いくらでも愚かになってやる。リリーがあたしを救ったように、今度は
あたしが彼女を救うんだ。

 それに、勝機はある。勝率は決して低くない。

「シャオジエ。あんた、このあたしが誰か分かっているのかい? 阿嬌の後継
者、火蜥蜴≠フイーリン様だぜ。そりゃ、〈紅の魔人〉に比べればいくらか
見劣りはするだろうけどさ。あたしだってクーロンではちょっとは名の知れた
女なんだ。一杯食わせるぐらいのことは、やってやる」

 今度はシャオジエが鼻で笑う番だった。

「一杯食わせるなんて、そんな甘い表現じゃ追いつかないアルよ」

「そうかもな。けど、勝つのはあたしだ」

 シャオジエは目を眇めた。あたしの断固たる口調の根拠を探している。ここ
まで自信を持つからには、相応の計画があるんだろうね、と無言で尋ねてくる。

93 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 23:20:29


「分かってはいると思うけれど、〈火焔天〉は〈針の城〉のど真ん中にあるア
ルよ。あそこだけは、ビルじゃなくて一個のお屋敷ネ。〈針の城〉の道は複雑
で地図なんてないけれど、どう足掻いても〈火焔天〉には辿り着けないの有名
な話。〈針の城〉の第一層から第十層までは、〈火焔天〉の城塞に過ぎないな
んて言う奴までいるくらいアルよ。……例外は上空からの侵入だけれども、ま、
それも火蜥蜴には厳しいネ」

 ああ、と頷く。〈火焔天〉に行きたいのなら、空を飛ぶか、乱立するペンシ
ルビルの屋上を飛び移れ。これは有名な攻略法だ。いくら高くそびえ立つ城塞
でも、理論上は、飛び越えてしまえばそれでお終いなのだから。
 けど、シャオジエの言う通り、その攻め方はあたしには難しい。第一にあた
しは空を飛べない。第二に、いくら身体能力が優れていると言っても、ビルの
屋上から屋上を飛び移るなんてアクロバットな真似はできない。
 九層や十層ならともかく、二層や三層の密集率が低く高度もまばらなビル群
の屋上では絶対に不可能だ。
 それに、「上が弱点」なんてことはクーロン・マフィアだって百も承知して
いる。飛び込んでも迎え撃たれる可能性がひじょうに高い。

「なら、どうするアルね。地上からの道は誰も知らないアルよ」

 道は地上にだけにあるとは限らない。上空だけが唯一の道でもない。あたし
のたったひとりの友達は、上でも下でもない第三の道≠使っていた。

「縮地法≠使って、リリーが監禁されている部屋に直接跳ぶ」

 シャオジエの表情が露骨に変わった。あからさまに、あたしを馬鹿にした目
つきになる。

「ワタシ、悲しいアル。火蜥蜴はもうちょっと賢い娘だと思っていたヨ」

 魔術回路すら持たない半端な小娘が、仙人の奥義である縮地法を使えるはず
がないだろう。ちょっとは考えてものを言え、悪童が。―――そう、言いたい
わけだ。ついでに「私ですら使えないんだから」もつけられるかもしれない。

 シャオジエの疑念はもっともだ。あたしに縮地法を使いこなせるはずがない。
 莫大な魔力と、それを扱う才覚を持ち合わせているリリーですら、縮地によ
る移動が可能なのは〈針の城〉の城内という極めて限定的な領域のみだった。
 だけど〈針の城〉の城内に限っては、リリーは霊走路網を書き換え、自分の
管理下に置き、どんな場所でも跳べるようになった

 霊走路網というのは霊脈の地図みたいなものだ。人体の血管の如き細かく走
る霊走路をすべて理解すれば、リリーのように、どこにでも現れて、どこから
でも消えるようなとんでもない真似もできるようになる。
 ……けど、そうじゃなくても。
 地図を読むとき、リリーのようにすべての道を暗記する奴はいないように、
目的地までの道―――たったひとつの霊脈の〈径(パス)〉を知るだけでも、
その霊走路のみを利用し、縮地法に応用することは可能だ。
 まぁ普通は、〈径〉を見つけることすら不可能なんだけれど。
 
 ……生憎とあたしは、リリーほどじゃなくても、普通ではなかった。

「あたしは自分の目で何度も見ているんだ。リリーがお気に入りの〈径〉を通
って、あたしの部屋に遊びに来る様子を」

 シャオジエは、はっと顔をあげた。
 あたしは中指で右眼の眼帯を撫でながら言った。

「自分で〈径〉を見つける必要はない。リリーが彼女の部屋からあたしの部屋
へと直接跳んできた〈径〉を、逆に辿ればいいだけだ」

 あたしの右眼なら、その〈径〉を視ることができる。

94 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 23:22:48


 もちろん、〈蜥蜴の眼〉だけでは縮地法は使えない。霊走路の〈径〉が視え
たところで、奇門遁甲の方位術を理解していなければ跳びようがない。
「天・地・人」の三式のうち、地を代表する奇門遁甲の術は、応用範囲が広く
触れやすい一方で、果てしなく奥が深い。一朝一夕で学べるものじゃなかった。
 しかし、覚えることはできなくても、入力≠キることはあたしにとって比
較的容易い。―――なんのためにハダリーがいるのか。なんのために「霊体計
算機」「霊体頭脳」などと呼ばれる人造霊があるのか。
 心霊工学の目的は、神秘の機械化だ。術理だけなら、どんな複雑な式でも人
造霊にプログラムさせることができる。

〈径〉をあたしが作り、術をハダリーが担い―――

「魔力はどうするアル? 奇門遁甲を知ったところで、仙丹がなければただの
星占いか健康法アルよ」

 その問題もすでにクリアしている。
 ハダリーの右眼に埋め込んだ魔石から供給しても良かったけど、そうなると
猫睛石の干渉を受けることになる。ハダリーの術の成功率が歪んでしまうかも
しれない。失敗すればあたしの躰はばらばらだ。あまり冒険はしたくない。
 だから、

「数秘機関(クラック・エンジン)を使う」

 三輪トラックが巨大蜘蛛に潰されたせいで、裸のエンジンが一個、事務所に
眠っていた。いまハダリーがあたしの部屋へ運んでいるはずだ。
 数秘機関の出力量ならばあたしを〈火焔天〉まで楽に送り込めるはずだ。

「呆れたアル」

 シャオジエは大袈裟に肩を竦めた。

「転移装置を作る気アルか。もう風水の範疇じゃないアルよ」

「仕掛けはいまから作る。〈針の城〉のあたしの部屋でね。ハダリーの手を借
りれば、大して時間はかからないさ」

「お姫様のベッドまでどうやって行くか、は分かったアル。……で、それから
はどうするアルか? 話を聞くとその縮地は一方通行の片道切符よ。〈径〉は
火蜥蜴しか視れないんだから、当然、跳べるのも火蜥蜴だけある。数秘機関も
ミノタウロスも置いてけぼり。それでどうやって帰るアルね」

「でっかい花火を上げるさ」

 帰りはリリーの縮地法に随伴つかまつりたいところだけれど、そううまく話
が進むとは思えない。いまの彼女には何らかの封印が施されていると考えるべ
きだ。そうでなければ、簡単に〈火焔天〉から逃げ出せてしまう。

「ハダリーに迎えに来てもらう」

 行きと違って、帰りは力ずくだ。
 ハダリー……いや、この場合、猫睛石と呼ぶべきか。支配率を大きく魔石寄
りにした彼女ならば、真っ当な攻略手段―――つまり、ビルの屋上から屋上へ
と飛び移って〈火焔天〉に侵入することもできる。
 あたしを護る必要もなく、力の制限を課せられることもなく、魔力の奔流に
突き動かされるままに稼働するハダリー/猫睛石の戦闘能力は、クーロン・マ
フィアの迎撃などいとも容易くはねのけてくれるはずだ。

 クーロン・ストリートのクーデター騒動も、マフィア連中の戦力を分散させ
るという意味で、あたしに有利に働いてくれるだろう。
 

95 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 23:26:16


 それでも、縮地法を成功させればいいだけの行きの道と違って、帰り道は大
きなリスクを伴う。賭となる部分が大きい。なにしろ、〈火焔天〉にはどれほ
どの兵力が詰め込まれているのか、常駐している凶手の戦闘力はどの程度なの
か、あたしにはまったく分からないからだ。リリーを人質にとろうとは考えて
いるが、それもどこまで通用するかは分からない。

 とにかく迅速に行動する。リリーの身柄を確保したら即座に離脱する。シャ
オジエが待つシップ・ターミナルまで逃げ込めれば、あたしの勝ちだ。

 ……しかし、このゲームに勝つためには、もっとも大きな難題がまだ残って
いる。それはシャオジエも分かっているはずだ。

「―――結界」

 彼女の呟きに、あたしは「ああ」と不機嫌に返事した。

 リリーを閉じ込めるために用意された、本物の檻。〈針の城〉より外の世界
を絶望させた忌まわしき鳥篭。これを取り除かない限り、〈火焔天〉からリリ
ーを連れ出せたところで、外≠ヨ行くことは叶わない。

 この結界の対処について、二つの手段をあたしは考えている。

 ひとつは、他人にならばできずとも、あたしにならできること。蜥蜴の血肉
を持つあたしなら、結界そのものを破壊することはできなくても、一部を一時
的に無効化することはできるかもしれない。

 もうひとつは、〈紅の魔人〉を殺すこと。
 結界を張ったのが彼ならば、殺せば結界は消滅する……かもしれない。消え
ない可能性もある。五分と五分の勝負だ。

 あたしの力では結界を破れず、〈紅の魔人〉を始末しても結界が消滅しなか
ったらどうするか。それは「あとで考える」しかない。
 どちらにせよ、クーロン・マフィアのボスである〈紅の魔人〉を殺せば〈針
の城〉は混乱に陥る。姿はいくらでも眩ませられるはずだ。

 ―――だから。
 リリーを救うということは、〈紅の魔人〉を殺すことと同義。
 あたしが、あたしの手で伝説を終わらせるんだ。

 よっぽどあたしの計画が面白かったのか、シャオジエの口元には笑みが広が
っていた。底意地の悪そうな微笑で尋ねてくる。

「〈紅の魔人〉をどうやって仕留めるつもりアルか。あのミノタウロスじゃ、
彼は斃せないアルよ」

「やってみなくちゃ分からないぜ」

 あたしのハダリーは最強だ。

「無理アル。甘く考えすぎネ」
 
 そう言うとシャオジエは、チーパオ・ドレスのスリットから素足を放り出し
た。太股のベルトにさしていた短剣を鞘ごと抜くと、あたしに投げて渡す。

「それ使うネ。あんな出来損ないの僵尸よりかは、良い働きするアルよ」 

96 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/10/28(火) 23:29:48

 短剣は、シャオジエにしては珍しくクーロン的な拵えではなく、共同租界の
外国人が携帯していそうな両刃のものだった。
 鞘は鉄製だろうか。表面に天鵞絨を張って高級感を出している。ハンドルの
部分には荊の蔦が彫金されている。装飾が過剰な分だけで、実用性に乏しいよ
うに思えるが……。

 ―――そんな感想も、鞘を払って刃を露わにしてみると一転した。

「こいつは……」

 成人男性の手首から指先程度の長さの刃は、光から見放されたかのように、
深い紅に沈んでいた。禍々しく毒々しい魔性の紅色だ。
 眼帯を外さずとも、肌から痺れるように伝わってくる濃密な魔力。ハダリー
の右眼の魔石と比べても遜色がないほどだ。……なるほど、シャオジエが請け
負うだけのことはある。こいつはとんでもない一品だ。

「ワタシの杖<Aル。大切に使うよろし」

 魔術師が自分の魔力を増幅させるために使用する杖は、あくまで概念上の道
具であって、実際に杖のカタチをしているわけではないと聞いていたが、シャ
オジエの場合は短剣のカタチをとっているというわけか。

「ありがたく使わせてもらうぜ」

「一億クレジット。現金でよろしくアル」

「あたしが死んだら、死体を売って金にしてくれ」

 軽口に軽口で応えつつ、短剣を鞘に収め、ブルゾンのポケットに突っ込む。
その動作だけでもかなりの緊張を強いられた。

 説明も終わり、必要な儀式はすべて済ませた。シャオジエは、あたしとリリ
ーをリージョン・シップに受け容れると約束してくれた。これで安心して、あ
たしは死地へと乗り込むことができる。

 別れ際に彼女は言った。

「これが最後かもしれないアルね」

「縁起でもないこと、言うなよ」

「成功したらクーロンはめちゃくちゃネ。旅行者としては、クーロン港による
のに制限がかかるような事態は、あまり嬉しくないアル」

「成功しなくたってもうめちゃくちゃだよ。クーロン・ストリートの騒ぎは、
IRPOが鎮圧部隊を出したらしいぜ。あたしはその騒動に便乗するだけさ」

 それもそうネ、とシャオジエは笑った。あたしも口元を緩めた。

 二度と会えないかも。そう考えると、もっとしんみりとした別れを演出する
べきだったかもしれない。けれど、そういう気分にはならなかった。
 マーマが死んでも、あたしが死ぬかもしれなくても、シャオジエは自分のペ
ースを崩さない。いつも通り、緊張感のない姑娘のままだ。だからまた会える
ことについても、疑いの余地を抱かせてくれなかった。
 あたしは彼女と会ったことで、初めて、この試みが成功するかもしれないと
思えるようになった。本当に、リリーを助け出せるかもしれない。
 一緒に、外≠ヨ行けるかもしれない。

 ……ありがとう、シャオジエ。

 感謝の念を胸に秘めて、あたしはホテルを後にした。

97 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/03(月) 21:01:33



                  * * * *


 第八層のあたしに部屋に戻ると、リビングのカーペットを剥ぎ取って床に直
接方位陣の下書きを書き込み始めた。
 携帯用の霊気羅針盤とあたしの右眼を頼りに、リリーが開いた〈径〉の残り
香を特定する。地道な作業で、時間が流水の如く流れていく。

 資産の整理を終えたハダリーが帰ってくると、下書きを中断して彼女の調整
に移った。非正規の手段で手に入れた陰陽五行の理気を人造霊にインストール
し、ハダリーを即席の風水師に仕上げる。
 魔法円や方位陣のような精緻さが求められる作業はハダリーの領分だ。調整
を済ませた彼女には、早速、あたしが書いた下書きの清書を頼んだ。
 ハダリーが筆代わりに使っているのはミスリル製の匕首だ。数秘機関を稼働
させ、鋼線で繋いだ匕首の切っ先に魔力を集中させる。これであたしやハダリ
ーのように、魔力回路を持たない術者でも、強力な魔力を内包した魔法円を書
くことが可能になる。方位陣の場合も同様だ。
 機械の正確さで方位陣を組み立てていくハダリーの背中を見守り、あたしは
満足そうに頷いた。

 集めた現金はすべてシュライクの架空口座に入金させた。一枚の磁気カード
があたしの全財産だ。

 シャオジエと別れてから六時間。ようやく方位陣が完成した。

「……ちょっと疲れた、かな」

 あたしの言葉に、ハダリーが首を傾げた。
 あたしも彼女も睡眠を必要としない。故買屋商売が忙しかったときは、一ヶ
月も二ヶ月も休息無しで駆け回ったことすらある。それに比べれば、この程度
の慌ただしさなど屁みたいなもの。どうしてあたしの口から「疲れた」なんて
言葉が出てくるのか理解できない―――そう言いたいのだろう。
 それでもハダリーは気を利かせて「少シ休ミマスカ」と言ってくれる。

「いや、大丈夫」

 時間が惜しい。クーロン・ストリートの様子が気にかかる。
 クーデターは鎮圧されたんだろうか。それとも混乱は未だに続いているのか。
続いているにしろ鎮められたにしろ、針の城から来た女≠ヘ目的を遂げたの
か。あたしを利用する気はもうないんだろうか。
 ……いま、クーロンではなにが起ころうとしているのか。

 分からないことが多すぎる。考えるな、とあたしは胸裏で言い聞かせた。
 あたしの目的はシンプルだ。リリーを助けて、シャオジエの船で外≠ヨ行
く。たったそれだけだ。他になにも、特別なことなんてしようとしていない。

 裏切られ続けてきた人生だった。
 笑うことより泣くことのほうが圧倒的に多かった。
 このまま夜に沈むのか。それとも陽光の下に飛び出すのか。
 ここが境界線だ。

 あたしはリリーに会いたい。彼女の見る夢を叶えてあげたい。
 そして一緒に―――

「……始めようぜ、ハダリー」

 あたしは静かに言った。

98 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/03(月) 21:01:46


 眼帯を引き千切ると、ハダリーに投げ渡す。
 ハダリーは仮面越しにあたしを見つめた。

 彼女の逡巡―――眼帯を手放すということは〈蜥蜴の眼〉を隠さないという
こと。常時魔眼を開きっぱなしにすれば、それだけあたしの躰に負荷がかかる。
 十年前、シャオジエから魔眼殺しの眼帯を渡されてから今日まで、眼帯を誰
かに預けたことなんて一度もなかった。だけど、これからの時間は……。
 右眼を隠す余裕なんて、ない。

〈蜥蜴の眼〉を眇めて、霊脈の流れから〈径〉の名残を見出す。
 ハダリーが数秘機関の出力を最大値まで上げた。方位陣が発光を初め、暗闇
の屋内を蛍光色で燃え上がらせる。

 かつ、かつ―――とあたしのエンジニアブーツの爪先がリズムを刻む。それ
にならって、ハダリーは奇怪な踊りを始めた。腰を屈め、足首をねじり、大袈
裟に足をあげながら方位順の外周をなぞる。
バカ歩き(シリー・ウォーク)≠ニ呼ばれる遁甲術特有の歩法だ。

 ハダリーの歩法のリズムに合わせて、あたしは床を踏む、踏む。

 霊脈のトンネルが開かれるのを、あたしの右眼は霊視し―――

 ハダリーになにか別れの言葉を言おうかと悩んだ。
 彼女とはこの後、火焔天で合流する予定だ。あたしは縮地法で移動し、ハダ
リーは自分の足で中央まで強行進撃する。
 地獄で会おう、とか。遅刻するなよ、とか。そういう軽口が必要な気がした
けれど、レイ・ラインのトンネルはあたしの迷いを待ってはくれなかった。
 ハダリーのバカ歩き≠ノ促されるままに、あたしは転移を初め、百億の距
離をゼロに詰めて、空間を跳躍した。


  リリー、とあたしは唇の内側で彼女の名を呟く。
  あの時、あんたがあたしを守ってくれたように。
  今度はあたしが、あんたを守る。


 跳躍は一瞬で終わった。感覚としては、視界が切り替わっただけ。風水術の
究極を成し遂げたという実感は薄い。
 あたしはベルトに差した短剣の柄に手を置きながら、周囲を見渡す。
 転移した先がリリーの居場所だというのは、彼女が幽閉されている事実を鑑
みれば当然の予測だ。転移先がクーロンのマーケットだったなんてことは絶対
にあり得ない。だから、ここにリリーがいるのは間違いないんだろうけれど。
 
 ……なんだ、ここは。

 あたしが転移した先は、幽閉や監禁という言葉から連想される場所とはかけ
離れていた。―――壁が見えないほど広い面積。空に届きかねないほど遠い天
井。雑多で狭苦しい〈針の城〉とは似つかわしくない贅沢な空間の使い方に、
あたしは戸惑いを隠せない。
 なによりも驚いたのは、ドーム状の広大な屋内に立ち並ぶ本棚の数だ。目に
つくのは本と本と本ばかり。さながら書籍の〈針の城〉だ。世界中の本という
本がここに蒐められているんじゃないかと錯覚させられる。
 リリーは、こんなところで十年以上のときを過ごしてきたのか。
 
「リリー!」

 彼女の名を叫びながら、あたしは〈図書室〉をさまよう。こんなのは予想外
だ。牢獄とまでは言わなくても、監禁されているからにはひとが一人居住でき
る程度の空間を想像していた。こんな馬鹿広い上に障害物が多い空間で、彼女
を見つけるまでにどれだけの時間がかかる。五分か、十分か。
 焦りによって冷静さを失いかけたあたしだったけれど、意外にも、リリーは
あたしの呼び声に素直に応じてくれた。

「―――こっちじゃ」

 鈴の音のような声が、〈図書館〉に響く。
 ……それは間違いなくリリーの声だった。けれども、あたしが知る彼女の声
に比べると、ずっと抑えられていて、あの媚びを孕んだ無邪気さは微塵も感じ
られなかった。つまり、同一でありながら別種の声。

99 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/03(月) 23:13:14


 声に誘われるがままに〈図書館〉を進む。
 迷宮の如く立ちはだかる本棚と本棚の狭間。ハダリーの身長よりも背の高い
脚立に腰かける人影を認めて、あたしは足を止めた。
 ……木製の脚立に座っているのはリリーだった。
 鈍器のような厳めしい装丁の本に視線を落としている。あたしには気付いて
いるはずなのに、見向きもしない。

 再会を喜ぶべきだ。会いたかったと素直な気持ちを告げるべきだ。
 けれど、あたしの口元は緊張したまま一向に緩もうとしない。脚立の上に座
す彼女を、黙って見上げることしかできない。
 目の前にリリーがいるのに。

 しかし、彼女は本当にリリーなのか。
 本を黙々と読み進める彼女の横顔は、幼いながらも、寒気を呼び起こすほど
に美しく、十二分に「女」として通用する。ひとを惑わす魔女のままだ。
 けれど、なにかが違う。なにもかもが違う。同じなのは容姿だけ。服装さえ
も、いつものドレスではなく、京風のキモノ≠まとっていた。
 髪も結い上げてるせいか印象がだいぶ違う。

 もっとも違和感を覚えるのは、あれだけ周囲を圧倒していた莫大な魔力が、
いまのリリーからはまったく感じられないことだ。
 リリーを魔女たらしめる魔力が、〈針の城〉をも支配した無限の魔力が枯
れてしまったのかと、一瞬だけ疑った。しかし、すぐにそうでないと気付く。
 リリーはあの魔力を持て余していた。あまりに強大なせいで押さえ込むこ
とができず、いつも躰から溢れさせていた。
 けれどいまの彼女は、自らの魔力を完全に制御下においている。支配しき
っている。だからこんなに静かなんだ。

 唇が震える。
 膝が笑う。

 リリーはあたしを見ない。頑なに読書を進める。
 この反応からして、すでにおかしいんだ。
 来るはずのないあたしが、来てしまった。それに対して、喜ぶなり、怒るな
りのアクションがあっていいはずじゃないか。
 なのに彼女は、あたしを見ようとしない。

 あたしは呆然と立ち尽くすことしかできなかった。不安に縛られ、恐怖に負
け、なにも尋ねることができなかった。

 そんなあたしの様子を気配だけで覚ったのか。リリーは本に目を落としたま
ま、眉を寄せて「―――愚かものめ」と呻いた。

「まさか、縮地の足跡を辿ってくるとはのう。とんでもない離れ業をしてくれ
たものじゃ。無謀も度が過ぎれば奇蹟となる良い見本か」

 耳を疑った。これがリリーの唇が出た言葉なのかと。

「なぜ来た。……そんな問いは今更したところで詮無きことじゃ。すぐにでも
立ち去れ―――と言っても、縮地での帰路は用意されておるまい」

 やれやれ、と彼女は大袈裟に嘆息を漏らす。

「ここでおまえを殺めれば、あの女の絵図通りにことが進んでしまう。しかし、
閉じ込めておくにはリスクが大きすぎる。……やはり、大人しく帰ってもらう
しかないのう」

100 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/03(月) 23:35:25


「あんたは誰だ!」

 ようやく、言えた。

「リリーはどこにいる!」

 訊きたくなかった。知りたくなかった。答えを聞いてしまったら、あたしは
二度と立ち直れない。けれど、このままこいつに喋らせておくのは我慢がなら
なかった。あたしはリリーに会いに来たんだ。彼女を取り戻しに来たんだ。

 リリーに酷似した少女は、やはり本を読みながら真実を告げた。
 残酷な、真実を。

「―――あの白百合の娘は、もう、どこにもいない」

 脚立を蹴り倒した。少女の矮躯が宙を舞う。あたしは抱き止めようとしたけ
れど、彼女は身軽な動作でくるりと反転すると、音もなく床に着地した。
 右の魔眼が、少女の魔力の流れをはっきりと識別している。

「暴力はやめよ」

 しれっと少女は言うと、立ったまま読書を再開した。

「なあ、教えてくれよ」

 縋るようにあたしは言う。
 
「リリーはどこなんだ。いったいどこに隠れているんだ」

 少女の返答は、あくまで冷淡だった。

「二度は言わん」

 胸ぐらを掴んで、絞め殺してやりたい衝動に駆られる。けれど、あたしは伸
ばした手を空中で止めた。
 別に、少女の魔力に阻まれたわけじゃない。暴力に身を任せる。その行為が
どれだけ虚しいのか、あたしは分かってしまったからだ。

 あたしの左眼は欺けても、右眼は決して誤魔化せない。目の前にいる彼女が
リリーはどこにもいないというのなら、きっとそれが真実なんだろう。

『イーリン、勘違いしないで。これは犠牲でも献身でもないの。初めからこの
物語にハッピーエンドは無かっただけ。物語の舞台は、最初から最後まで〈針
の城〉だったのよ。わたしが外≠ヨ行くシナリオなんて用意されていなかっ
たのよ』

『そしてお姫様は醒めない眠りにつき、終わらない夢を見るの』

 ―――こういうこと、だったのか。

 あたしはその場に跪いた。床に突っ伏し、大理石の冷たさを感じた。

 物語の舞台は最初から最後まで〈針の城〉。……あのときは、あたしの助命
を嘆願した代償として、外≠ヨ行けなくなることを指していたのだとばかり
思っていた。でも、そうじゃなかった。
 リリーは自分の運命を諦めていたんだ。

101 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/04(火) 01:10:23


「語れば、長くなる」

 あたしの絶望を見抜いたのか、少女は冷たく言い放つ。

「わらわが何者か。それを説明したところで、きっとおまえは理解できまい。
例え理解できたとしても、なにも変わらぬ。……しからば諦めよ。すべて忘れ
よ。不夜城に帰れ」

 少女はリリーだ。しかし、リリーじゃない。
 二重人格だったのか。それともリリーは表層意識で、少女は封印された意識
だったのか。……それがどういうことを意味するのか。どんな事情でそうなっ
たのか。彼女の言う通り、あたしには理解が及ばないだろう。
 
 リリーがどうして〈運命の赤児〉と呼ばれていたのか。なぜリリーの出生が
発端となって〈妖魔租界戦争〉は勃発したのか。その答えが、目の前にある。
 けれど、あたしはそんなことを知るためにここに来たんじゃない。
 ただリリーに会いたくて。リリーと一緒に外≠ヨと飛び出したくて、霊脈
のトンネルをくぐって来たんだ。……なのに、こんな結末。

 違う。そうじゃない。まだ終わりなわけがない。
 リリーはいないだって? なら、目の前に立つこいつは誰だっていうんだ。

 あたしは躰を起こすと、床に直接あぐらをかいた。

「一つだけ、聞きたいことがある」

 あたしの声が冷静だったことに意表を突かれたのか、本を読む少女の横顔に
僅かな同様が見えた。あたしは構わず言葉を続ける。

「リリーは死んだのか」

「……そう思ってくれて、構わぬ」

「ていうことは、死んでいないってことだな」

 リリーは諦めたのかもしれない。けれど、あたしは諦めない。

「おまえがそう思いたければ、そう思うがいい。しかし、あの娘が消えてしま
ったという事実は変わらぬ」

 あたしは返事もせず黙り込んだ。そして十秒ほど待ってから、まったく関係
のないことを呟いた。

「マーマが死んだんだ」

「……知っておる。だからここに、来たのじゃろう」

 ふ、とあたしは口元を緩ませた。この〈図書館〉に来て、初めての笑み。

「やっぱり、あんたがリリーだ」

 少女がリリー以上の力を持つのならば、〈針の城〉の様子は完全に把握して
いる。虫の羽音すら聞き漏らしはしないだろう。……しかし、それは注意して
いればの話だ。第八層の酔客がどうしただとか、第十層の地縛霊がなにをして
いるだとか、そんなことをいちいち意識してはいまい。
 なのに少女はマーマの自殺を知っていた。それは、あたしとマーマの関係を
彼女が知っているからだ。
 リリーの記憶を引き継いでいる。同じ肉体を持っているのだから、それは当
然だろう。でも、人格が入れ替わり、あたしとまったくの他人になったのなら
ば、あたしやマーマを気にかける理由なんて無いはずだ。

102 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/04(火) 01:10:38


 動揺は微々たるものだった。けれど、その僅かな隙をあたしは見逃さなかっ
た。―――あたしの言葉に反応して、少女の瞳が一瞬だけ泳いだ。本から目が
離れ、初めてあたしを見た。そのときの、少女の表情。瞳に秘められた哀切。
 どうして少女は頑なに読書に勤しんでいたのか。どうしてあたしを一瞥すら
しなかったのか。……もっと早く分かってやるべきだった。
 見るのが辛かったからだ。見たら感情を殺しきれなくなるからだ。

「……愚かなことを言う。受け容れがたい真理なのは分かるが、だからと言っ
て己を誤魔化しても、哀しみが深まるだけじゃぞ」

「違う。あんたはリリーだ。そうじゃないって言うのなら、リリーがあんただ
ったんだ。どっちでもいい。あたしにとってはどっちも同じことだ」

 少女はあたしを知っている。リリーの記憶を引き継いだように、感情も受け
継いでいる。―――いや、継ぐという表現そのものがが間違っているんだ。
 少女はリリーなのだから。リリーは少女なのだから。

「十年間、記憶喪失をしていた人間が、ふとした拍子で過去の記憶を取り戻し
た。そいつはもう他人なのか。十年の間活動していた人格とは別人なのか」

 あたしは、そうは思わない。

「リリーは眠る度に夢を見ると言っていた。不思議な夢で、自分では絶対に体
験しないものだと言っていた。それはあんたの記憶だったんじゃないか。リリ
ーは無意識の世界で、あんたの記憶を覗いていたんじゃないのか」

「……生意気な娘じゃ」

「それはあたしのことを言っているのか。それとも、リリーのことを言ってい
るのか。だとしたら、あんたも生意気だっていうことになるな」

 少女は本を盾にしてあたしの視線から逃げようとしたが、そうすることの情
けなさに気付いたのか、溜息をついてから、本を倒れた脚立の上に置いた。

「おまえと言葉遊びをする気はない。わらわと白百合の娘の関係の解釈につい
ては、おまえ自身が導き出した答えに従えば良かろう。……しかし、それでな
にが変わる。おまえはなにをしたいのじゃ」

 あたしは笑った。夢の中でしか見たことのない太陽を連想させる笑みを、口
元に精一杯広げた。
 いまこそ言おう。ずっと言えなかった言葉を。リリーが待っていた言葉を。


 
「一緒に外≠ヨ行こう」

 

 今度こそ、少女は目に見えて動揺した。躰を硬直させ、目を瞠った。
 本を読むか眠るか。火焔天での生活はそれしかないとリリーは言った。それ
はいまも変わっていないはずだ。目の前の少女は、本の世界に閉じ込められて
いる。広くて狭い空間に監禁されている。
 これは少女の望んだ生活なのか。
 そうでないとしたら―――


103 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/08(土) 21:22:40


「……痴れ言を言う」

 少女の自嘲めいた笑みがあたしの確信を鈍らせる。リリーはこんなに達観し
た表情をする奴じゃなかった。

「おまえは分かっておらんのじゃ。自分が何者なのか。わらわが何者なのか。
なにも知らぬから軽々しく『外へ』などと言える」

 そうかもしれない。いや、その通りだ。
 あたしは知らない。理解をしていない。どうしてこんなことになってしまっ
たのか。その答えを見つけられないまま、ただがむしゃらに結果を作ろうとし
ているだけだ。―――その指摘は否定せず受け容れよう。
 でも。

「だからなんだ」

 あたしは吐き捨てるように言った。

「なんにも知らない馬鹿で臆病なあたしが、周回遅れでようやく理解したんだ。
リリーが外≠ノ憧れる気持ちが、彼女とあたしの出会いが、どれだけ劇的で
かけがえのないものだったか。これさえ分かれば充分だ。他のなにもあたしは
知りたくない」

 繰り返すぜ。そう前置きしてから、あたしは右手を少女へと差し出した。

「一緒に行こう。一緒に見よう。リリーが夢見た世界へ。あたしたちみたいな
はぐれ者を照らしてくれる太陽があるリージョンへ」

 手を取って欲しかった。けれど、少女の返事は頑なだった。あたしから視線
を逸らし、床を睨んだまま答える。

「無理じゃ。そんな真似は不可能じゃ」

 そうじゃない。それは答えになっていない。

「あたしが聞きたいのは!」

 少女の細い手首を強引に掴んだ。リリーの顔をして、リリーの声をして、こ
んな煮え切らない態度を取る彼女が許せない。

「あんたが外≠ヨ行くことを望んでいるのか、いないのか。それだけだ!」

 死ぬまで本棚に隠れて、太陽を知らないまま〈針の城〉で時間を消費してい
って、それで心が満たされるのか。リリーに希望を与えた夢の正体が彼女の記
憶だというのなら、こんな荒涼とした世界で満足なんてできないはずだ。

 これじゃあ立場が逆だな、とあたしは胸裏で失笑した。
 つい数日前まで、リリーにどんなにしつこく誘われても応じなかったあたし
が、いまはリリー――の顔と声を持つ誰か――を相手に、必死になって外
へ行こうを説得しているなんて。
 リリーが感じていた期待と焦燥が、いまならよく分かる。一人では駄目なん
だ。一緒でなければ意味がないんだ。

 もしもあたしの想いが間違っているのなら、この手を振り切ってみせろ!

104 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/08(土) 21:25:26


 ―――けれど、少女はあたしの手を引き剥がそうとはしなかった。

 力ではあたしのほうが強いかもしれないけれど、その膨大な魔力を用いれば
容易にほどけるはずなのに。……そうは、しなかった。

 俯いたまま、少女は唇を震わせる。

「なんて残酷な企みなのじゃ。なんて無情な策なのじゃ。奴めはここまで見通
していたのか。わらわが感ずるこの苦しみまでも、読んでおったのか」

「なにを―――」

 言っているのか。

「ひとの心どころか魂さえも弄ぶ。悦びを幻惑させ、地獄を天国と偽る。これ
が、例え一時であろうと人間の心を持った者が思い付くことか」

 少女は首を横に振り、「いいや、違うな」と自分の言葉を自分で否定した。

「人間であればこそか。人間であったからこそ、非人を極められるのじゃ」

是(シー)≠ネのか不是(ブーシー)≠ネのか。少女はあたしの問いに答
えていない。だけれど、あんなにも凜としていた彼女が、気の毒なぐらいに落
ち込んでしまっているため、急かすどころか、慰めの言葉をかけることすらで
きなくなってしまった。手首を掴む力も弱まってしまう。

「……イーリンよ」

 狼狽するあたしの名を、少女は静かに呼んだ。
 どきり、と鼓動が跳ね上がる。
 初めて名前を呼ばれた。……いや、そうじゃない。リリーには何回も何百回
もイーリンと呼ばれている。なのにあたしは新鮮な衝撃にたじろぎ、胸のうち
から湧く興奮に恥じらいさえも覚えてしまった。

「わらわは、おまえに詫びねばならない」

「詫びるって……」

 謝ることなんてなんにもない。むしろ、謝るべきなのはあたしほうだ。

「わらわのせいで、おまえと白百合の娘―――二人の乙女に嘆きの道を進ませ
てしまった。人生を大きく狂わせてしまった。すべてはわらわの咎じゃ。
 おまえら二人だけではない。わらわはわらわの勝手のために、多くの命を犠
牲にした。わらわがいなければ、何千何万という人間が寿命を全うできたやも
しれぬ。そんなこと、オルロワージュめを逆吸血したときに覚悟したはずなの
にのう。こういう事態に直面する度に、わらわの胸は学習もせず痛むのじゃ」

 オルロワージュ。その名を聞いて、場違いなあたしの興奮が醒める。無学な
あたしだって知っている、先代の妖魔の君。百年も二百年も前に、現妖魔の君
であるアセルス公に斃されたのはあまりに有名な話だ。
 そんな歴史上の妖魔の名を、どうして少女は口に出す。

「幾人もの命を見捨てて。幾万人もの命を犠牲にして。それでもわらわは繰り
返す。懲りずに生きようとする。なぜだと思う? ……不思議なものじゃな。
その答えを、あの白百合の娘はわらわ以上に理解しておったわ」

 あたしはもう、少女の手首を掴んではいなかった。手首ではなく、彼女の手
を握っていた。いつの間にか、少女はあたしの指に指を絡めていた。

「―――わらわは自由になりたかったのじゃ。零姫の名さえも捨てて、あらゆ
るしがらみを振り切って、自由に生きたかったのじゃ」

105 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/09(日) 21:42:47


「れい、ひ……め?」

 本名なのか愛称なのか、それさえもあたしには分からない。戸惑うあたしを
見て、少女――零姫と呼ぶべきなのか――は「さすがに知らぬか」と苦笑した。

「妖魔世界の事情に多少なりとも精通しておれば、幻の第0寵姫≠フ名を知
っておるものなのじゃがな……さすがにそれをおまえに求めるのは酷か」

 喜ばしく思うぞ。わらわを知らぬ人間が、世界が、この世には多く残ってお
る。その事実が、わらわを自由へと走らせる根源となっているのじゃから。。
 ―――そう言って淡く微笑む零姫は、あまりに儚く、あまりに幸薄かった。

「行ける!絶対に行けるよ!」

 衝動的にあたしは叫んだ。零姫の冷たい手を握ったままで。

「やっぱりリリーはあんただ。あんたはリリーだ。だって、あんたもリリーも
同じものを夢見てる。同じ憧れを抱いている!リリーもそうだった。リリーも
あんたみたいに、昼を忘れた世界で窒素していた。もっと広い世界へと飛び出
したがっていた!」

 零姫の表情がついに崩れた。泣きながら笑い、笑いながら泣いている。

「……似ているのう。おまえは、若かりし頃のあ奴にそっくりじゃ」

 あいつって誰だ。

「迷いながらも、傷みながらも、前に進むことを諦めないその在り方は、遠か
りし日のアセルスめをいやがおうにも連想させられる。奴はそれさえも理解し
ておるのじゃろうか」

 衝撃のあまり、あたしの表情は凍結する。
 アセルス。まさか、こんなところでその名を耳にするはめになるとは思わな
かった。こいつはいったい何者なんだ。魔≠フ代名詞たる妖魔の君をスラム
育ちの娘に過ぎないあたしと重ねるなんて。
 似ているとか、似ていないだとか。そういう比較ができる相手じゃないこと
ぐらい、冷静に考えれば分かるだろうに。それとも零姫にとって、妖魔公アセ
ルスとはそれ程までに近しい存在なのか。

 混乱するあたしを余所に、決意を燃やした瞳であたしを見つめながら、零姫
が手を握り返す。

「例えその道の先に哀哭が牙を剥いていようとも、わらわは、おまえを肯定し
よう。わらわの負けじゃ。わらわはおまえを拒めぬ。拒めるはずが、ない」

「それって―――」

 一緒に行くってことなのか。

 声に出して確認しようとした瞬間、あたしでも零姫でもない、第三者の声が
〈図書館〉に響いた。

「その決断の意味を、君は分かっているんだろうね。聡明なる零姫様」

106 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/09(日) 22:36:04


 ―――声は、あたしが想像していたよりもずっと静かで、繊細で、胸の裏側
を狂わすほどに妖しげな色気を孕んでいた。
 驚かなければいけないシーンなのだろう。あたしはここで「誰だ」と叫びな
がら振り返るべきなんだろう。……けれど、〈火焔天〉に来た瞬間から、〈針
の城〉の中央に乗り込むと決めたその時から、あたしは覚悟を決めていた。 
 むしろ、予定外の出来事に時間を取られすぎたとさえ思っている。転移した
その瞬間から、殺し合いが始まってもおかしくないと思っていたのだから。

 あたしはリリー/零姫を背に庇うようにしながら、ゆっくりと振り返る。

「……諸悪の根源」

 燃え上がる紅髪――あたしのような赤毛とは違う、本物の紅だ――を逆立て
た魔人が、本棚の向こう、狭い廊下に佇立していた。溶岩の瞳をあたしと、あ
たしの背後の零姫に向けて、不敵な笑みを浮かべている。

 ……これが、紅の魔人。
 クーロンの凶つ者、ダージョン。
 こんな優男が、そうなのか。

 たくましい筋肉の鎧をまとっているものの、躰の線は女のように細い。長身
なせいで、細身の印象を余計に引き立てている。脚にぴったりと張りついたレ
ザーのパンツをはき、裸体の上半身に直に深紅のコートを羽織っていた。
 左手には、赤鞘の大刀を無造作に提げている。

 男でありながら女でもあり、同時に男でも女でもない。―――中性的で無性
的な風格をたたえた美丈夫。容姿だけを見れば、クーロン・マフィアのボスに
なんて、とても見えない。けれど、肌にびりびりと感じる威圧が、どうしよう
もないほどに男とあたしの格の違いを訴えていた。
 ……こいつは人間じゃない。

 紅の魔人は、あたしを一瞥しかしなかった。視線はすぐに零姫へと向けられ
る。あたしに向けた視線が、羽虫を見る視線ならば、零姫を見つめる視線は、
憐れみと慈愛が融け合った保護者のそれだ。

「零姫様、さっきの言葉は本気なのかい」

 かける言葉には、優しさすら篭められている。

「……王手じゃよ。もはやどうしようもない。アセルスは、わらわが思った以
上に、わらわの考えを、弱点を見抜いておる。どう足掻いたところで、今回
も≠らわの負けじゃ。ならばせめて、悔いのない道を選びたい」

「彼女はきっと、君がそうすることさえ読んでいる」

「……じゃろうな」

 気配で、零姫が俯くのが分かった。紅の魔人は小さく溜息を吐く。

「慣れないことをするものではないね。君の苦しみを少しでも和らげるために
動いたつもりだったのだけれど、結果として、余計に君を傷めてしまうことに
なってしまった。僕はやはり、観測者で在り続けるべきだった」

「言ってくれるな。わらわは感謝しておる。おまえがわらわを保護せなんだら、
わらわはまたしてもアセルスめの手中に落ちていた。奴にこれ以上辱められる
のは、絶対にゴメンじゃ」

107 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/11(火) 23:47:21


 あたしを置き去りにして二人に会話は進む。
 ダージョンはあたしをまるで相手にしていない。〈針の城〉の最深に侵入を
果たしたというのに、敵意も殺意も一切向けては来なかった。
 ……眼中にないってことか。

 認めざるを得ない。あたしは甘かった。伝説≠軽んじすぎた。
 あらゆるしがらみを振りほどいたあたしなら、捨て身で挑めばどんな敵でも
正気は見えてくると、そう考えていたのだけれど。いざ、こうして紅の魔人と
対峙してみると、自分の考えが如何に浅はかだったかを痛感させられる。
 桁が、違った。
 なまじ〈蜥蜴の眼〉が紅の魔人の力を霊視してしまうから、余計に絶望が深
まる。まるで動く魔力炉だ。ひとのカタチをした霊力場だ。
 斃せるはずがない。

 それでも、あたしは―――

「―――おい」

 会話を遮り、魔眼で睨み付ける。

「あたしはイーリンだ。火蜥蜴≠フイーリン」

 ダージョンは不気味なほど穏やかな視線を返した。しばらくの沈黙のあと、
「知っているよ」とだけ答える。

「リリーから聞いたのか」

「そういうことになるね」

「……あたしも、あんたのことはリリーから聞いている」

 奥歯が軋む音が、鼓膜の裏側で響いた。

「あたしは、あんたを許せない」

 すべての元凶。諸悪の根源。リリーから外≠奪った最凶の魔人。

「馬鹿なことを考えてはならんぞ」

 背後から零姫が口を挟んだ。

「ゾズマはおまえが思っているような男ではない。こやつはわらわを今日まで
守ってくれたのじゃ」

「ゾズマ?」

 それが、紅の魔人の名か。誰も知らなかった真名か。
 ゾズマ……当然のように聞き覚えはない。

「ゾズマ―――」

「なんだい、イーリン」

 茶目っ気をこめてダージョンは微笑む。挑発なのか、茶化しているだけなの
か。どちらにせよ、真面目にあたしを相手にする気は無いようだ。
 あたしは静かに、努めて静かに言った。

「あたしは、リリーを……零姫を、ここから連れてゆく」

108 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/13(木) 23:33:07


 覚悟を決めた発言。しかし、ダージョンの反応は「そうかい」と肩を竦める
だけだった。……なんなんだ、こいつは。
 ひとを小馬鹿にした態度。飄々として捉えどころがなく、リリーに対しても
さして執着を抱いていないように見える。こんな男が、リリーを、生まれたて
の赤児だった彼女が少女になるまで、十年以上も監禁していたというのか。
 とてもじゃないけれど、信じられない。

 ―――それに、さっき零姫が口にした「守った」ってどういうことだよ。

 リリーはダージョンに閉じ込められていると、そうはっきり語ったのに。
束縛から逃げ出し、外≠フ世界へ行きたいと、そう言ったのに。
 分からないことが多すぎる。
 零姫ってなんだよ。ゾズマって誰だよ。あたしが知っている〈妖魔租界戦争〉
と真実の間にはいったいどれだけ深い溝が走っているっていうんだ。
 或いはこいつ等なら、〈針の城から来た女〉の正体を知っているのかもしれ
ない。どうしてあたしを嵌めようとしたのか。どうしてマーマは廃人になって
しまったのか。クーロン・マフィア絡みなのだから、少なくともダージョンに
は思い当たる節があるはずだ。

 ……でも事実を確かめるには、あまりに時間が足りない。
 
 あたしがいまこの瞬間に確認すべきことは、ただひとつだ。
 リリー/零姫が外≠ヨと向かうのを、受け容れるのか、拒むのか。

 ダージョンは婀娜めく顔貌であたしを一瞥し、次に零姫を見つめ、また視線
をあたしに戻してから―――口笛でも吹くかのように、答えた。

「駄目だね。行くなら君ひとりで行けばいい」

「ゾズマ!」

 彼女にとっては予想外の言葉だったのだろう。零姫は驚愕に駆られるままに
声を荒げた。

「これ以上わらわに付き合う必要はない! このままでは、おまえまで奴に狙
われることになるぞ」

「どうせ、君が終われば次は僕さ」

「次などない! 終わりなどあるものか! わらわと奴から逃げ続け、奴はわ
らわを追い続ける。永遠のイタチごっこじゃ。それはおまえとて十二分に承知
していることじゃろう」

「そうかもね。でも―――」

 ダージョンの瞳の奥で光が鋭く瞬いた。

「今回≠ヘ僕が君の保護者だから。そういう役を進んで演じてしまったのだ
から。いくら無責任な僕でも、最後まで与えられた役目ぐらいは果たそうと思
っているんだ」

 そう言った彼は片眼をつむった。

「それに、君との付き合いは古い。追いつかれると分かっている逃亡劇なら、
当然止めるさ。……そこの火蜥蜴と一緒にクーロンから逃げ出して、あの子か
ら逃げ続けて、それでもやがては追いつかれて。―――破滅を約束された未来
を盲信するなんてあまりに儚いと思わないかい?」

109 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/14(金) 22:54:49


 ……答えは、出た。
 どんな理屈、どんな裏の事情があるかは知らないけれど、紅の魔人サマは零
姫を火焔天から解き放つつもりは毛頭ない。
 それで充分だ。その事実だけ分かれば、他のなにも、あたしはいらない。
 やっぱりこいつはあたしの敵だ。

 なおも言葉を返そうとする零姫を無言で押し止める。
 彼女は決断してくれた。あたしと一緒に行くと。二人で外≠目指すと。
 ……もう、あたしとリリーは離れない。
 誰にも二人の巣立ちを邪魔させない。
 あたしたちは自由だ。

「―――言っておくけれど、僕は強いよ」

 悪戯っぽい笑みを残したまま、ダージョンは大刀の鍔を鳴らした。たったそ
れだけの行為で、彼の言葉に偽りがないことを思い知らされる。
 なんてバケモノか。抜刀したわけでもないのに、剣気に押し潰されそうだ。

 他人よりちょっとだけ力が強くて。他人よりちょっとだけ見えないものが視
えて。他人よりちょっとだけ暴力に慣れ親しんでいる。
 ―――その程度でしかないあたしが、太刀打ちできる相手じゃない。

 目の前に立つ炎の彼は、たった一人で妖魔租界を壊滅させた男なんだ。
 クーロンの魔界都市〈針の城〉を作った男なんだ。
 あたしなんかになにができる。ちんけな故買屋に過ぎないあたしが、伝説と
対峙してどんな結果を残せる。

 嗚呼―――

 鉛の雨が全身に降り注ぐかのような絶望。ダージョンと向かい合うことで、
改めてあたしは自分の無力さを痛感した。

 マーマのお陰で今日まで生きてこられた。
 その認識は間違いじゃない。けど、それだけじゃなかったんだ。
 マーマだけではなく、もっと多くの、もっとたくさんのひとたちの力を借り
て、脆弱で臆病なあたしは今日までなんとか生きてこられた。
 なにがクーロンの火蜥蜴≠セ。なにが阿嬌の後継者だ。ただの甘ったれの
クソガキじゃないか。自分一人じゃなにも為せない小娘じゃないか。

 あたしは本当に弱い。
 怨敵を前にして、絶望することしかできないなんて。
 自分一人で窮地を切り抜けようとすらしないなんて。

 嗚呼―――

 この期に及んで、あたしはまだ。
 マーマだけじゃ飽きたらず。
 さらなる。
 犠牲を。

「……あたしはきっと、あんたを愛していた。唯一の親友だと思っていた」

 そんなかけがえのない友達を、あたしは―――

「ハダリィィぃーーーーーーっっっっ!!!!!」

 あたしの絶叫が谺すると同時に、〈図書館〉のドーム状の天窓が砕け散った。
 ガラス片のシャワーとともに降り注ぐのは、鋼鉄の筋肉をまとった牛頭人体
のモンスター・ミノタウロス。あたしの最高傑作にして、唯一無二の友であり、
そして……そして、マーマと同じように、あたしのために死ぬ女。

110 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/15(土) 22:00:38


 ハダリーは魔石の力を限界まで引き出している。支配率は完全に猫睛石に傾
き、暴走状態へと陥っていた。いまの彼女は一個の暴力装置に過ぎない。
 ゆえに、その動きはミノタウロスのスペックを大幅に上回っている。
 天窓を破って飛び降りてきたといっても、ただ自由落下に身を任せているわ
けじゃない。猫の如きしなやかな体捌きで宙を泳ぎ、室内を照らすシャンデリ
アを蹴っ飛ばして軌道をねじ曲げ、ダージョンの頭上へと殺到する。
 その速度は、音の壁すら破りかねないほどだ。

 無防備な頭上に、絶好のタイミングで不意打ち。まず間違いなく必殺が確定
する状況。ハダリー/猫睛石の強さを知り抜いているあたしは、普段ならば勝
利を確信したはずだ。それ程までにハダリー/猫睛石の攻撃は完璧だった。

 ……けれど、この状況は常識からあまりにかけ離れている。ハダリー/猫睛
石が牙を剥いた相手は、バケモノの中のバケモノだ。

 ダージョンが持つ大刀の鯉口が静かに切られ、銀光が迸る。
 まずは突き出した右拳が腕ごと断たれ、返す刀で胴を抜かれた。刹那の瞬間
に走った二つの剣筋が、生ける死者をただの死者へと戻す。
 さらに三つめの太刀で、ハダリーの首が―――飛んだ。

「うわああああああああああああ!」

 あたしは姿勢を低くしながら、紅の魔人へと突撃した。ベルトに挟んでいた
シャオジエの短剣を引き抜き、両手でしっかりと構える。
 紅の魔人は―――ダージョンの注意は、まだハダリーへと向けられたままだ。
 この隙をあたしは待っていた。たったひとりの友だちを餌にして、最凶の男
から致命の時を引き出した。あたしは最低の女だ。

 無駄のない筋肉で包まれたダージョンの胸板が視界に広がる。
 あと一歩だ。
 あと一歩、前に出られれば。
 この短剣の刃が、届く。

 三つに分断されたハダリーの亡骸は、慣性に引きずられたまま、まだ宙を舞
っている。

 ダージョンの大刀の刃が、あたしへと向けられた。直後に、あたしの魔眼が
あたしの死を未来視する。刀光が無慈悲にきらめいた。間に合わない。
 あと一歩なのに。たったの一歩が、あまりに遠い。
 ダージョンの剣は疾すぎる。

 駄目なのか。ハダリーを犠牲にしても、あたしは生き残れないのか。絶望が
総身を支配しかけたその時―――背後から零姫の叫びが響いた。

「殺してはならん! こやつの中には、あれが―――」

 ダージョンの注意が逸れる。切っ先の動きがほんの僅かに鈍った。

 ―――あたしの中に、なにがあるっていうんだ。

 確かめるどころか、疑問に意識を傾ける余裕すらない。あたしはただ、奇蹟
に縋り付き、がむしゃらになって最後の一歩を踏み出した。
 深紅の刃がダージョンの胸へと吸い込まれてゆく。短剣は、〈蜥蜴の眼〉が
霊視していた魔術障壁ごと、呆気なく彼の筋肉を貫いた。

 どう、とハダリーの死体が床を叩く。
 二秒とかかっていない、一瞬の決着だった。

111 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/15(土) 23:58:45


 短剣の柄から手を離す。深紅の刃に抉られたまま、ダージョンはその場に跪
いた。大刀が音をたてて床に転がる。

 ―――斃したのか。あたしは自由を勝ち取ったのか。

「愚か者!」

 零姫の叱咤の声が背中を叩く。あたしは緩慢な動作で振り向いた。笑顔を見
せて欲しかったけれど、彼女の表情は厳しい。

「あまりに無鉄砲過ぎる。ダガーなどで上級妖魔を殺しきれると思っておるの
か。手負いとなれば、いくら戯れを好むゾズマと言えども―――」

 そこで、零姫は言葉を止めた。眼を瞠り、表情を強張らせた。視線はあたし
を通り過ぎて、ダージョンへと向けられている。正確には、ダージョンの胸に
突き立つシャオジエの短剣に、だ。

「お、おぬし、そのダガーは―――」

「……やられたよ。まさか、そう来るとはねぇ」

 笑みこそ浮かべているものの、ダージョンのかんばせからは玉の汗が噴き出
し、先程までの余裕は消え失せている。彼も零姫同様、自分の胸から生える短
剣に注意を向けていた。

「ゾズマ、それは……」

「ああ、間違いなく幻魔だ。心臓に噛み付かれてしまった。これはだいぶ、骨
が折れるよ」

 幻魔。その名を聞いた瞬間、零姫の態度が豹変した。

「どこで手に入れたのじゃ?!」

 あたしの腕を掴んで、荒ぶる感情に流されるがまま詰め寄ってくる。

「どこで幻魔を渡されたのじゃ。おまえはすでに、アセルスと接触しておった
のか。奴は―――奴はまさか、クーロンにおるのか」

 またアセルスの名前が出てきた。ファシナトゥールの君主。妖魔の君。そん
なに頻繁に耳にしていい名前じゃないのに。……それに、ダージョンが上級妖
魔だっていうのは本当なのか。ただのバケモノじゃないとは思っていたけれど、
まさかファシナトゥールの貴族階級だったなんて。
 もしかすると、零姫もそうなのか。リリーがあんなに強大な魔力を有してい
たのは、人間じゃなかったからなのか。

 ……まぁ、どうでもいい話だ。
 あたしはダージョンを斃した。
 いまはその事実だけを、大事にしたい。

 これで、ようやく邪魔は無くなった。緊張する零姫の頬にそっと手を当てる。
安心させようと微笑みかけてから、あたしは言った。

「さあ、行こう―――」

外≠ヨ。……そう口にしかけるものの、直後にぐらりと視界が傾ぎ、あたし
は床に、受け身も取らずに倒れこんだ。

「イーリン!?」

112 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 12:55:20


 ……なんだ、コレ。
 大理石の硬質さにあたしは驚く。自分が置かれている状況が理解できない。
 どうしてあたしは床に伸びているんだ。どうして立ち上がろうとしても、躰
に力が入らないんだ。どうして―――

 零姫の声が遠くから聞こえる。

「なんて馬鹿なことをしたのじゃ。幻魔はアセルスの生命力で鍛えられた魔剣
じゃぞ。あ奴以外のものが使用すればどうなることか……」

 ……なるほど。
 ひと目見たときから、尋常ではない魔性を秘めた短剣だとは思ってはいたけ
れど、まさか妖魔公アセルスの武器だったとはね。
 だから、ダージョンが三重にも四重にも張っていた強力な魔術障壁を、ガラ
ス窓でも砕くかのようにあっさりと突き破ったのか。
 だから、まるで花が枯れゆくように、あたしの命の灯火が急速な勢いで衰え
ていっているのか。―――あの魔剣に、あたしの生命力は吸われたんだ。

 ダージョンの胸から濃厚な瘴気が噴き出しているのを、あたしの魔眼が霊視
した。胸の肉を抉った刃が変型し、彼の心臓にがっちりと根を張っている。
 なんておぞましい光景なんだろうか。武器というより、あれは一個の生命だ。
魔剣よりも魔物と呼んだほうが正しいんじゃないだろうか。
 致命こそは免れたらしいが、ダージョンのダメージは深刻らしい。魔剣の侵
食から身を守るのに精一杯で、あたしたちに意識を向ける余裕はないようだ。
 ……心臓を潰されて、それでもなお生きようとしているんだから、その不死
性の強さには感服する。あたしなんて、たった一度使用しただけでもう死にか
けている。魔剣に命を吸い尽くされてしまった。

「くそったれめ」

 せっかく、リリー/零姫を紅の魔人の戒めから解放することができたのに。
ようやく、外≠ノ繋がる道を拓くことができたのに。あたしの自由はこれか
らなのに。―――ここで、斃れてしまうなんて。
 こんなところで、終わってしまうなんて。
 
 納得がいかない。
 あまりに無情すぎる。
 イヤだ。マーマもハダリーも犠牲にして、なにもかもを捨て続けてリリーを
手に入れようとしたのに、結局なにも得られないまま、ひとりぼっちのままで
死ぬなんて―――絶対にイヤだ。

 行くんだ。
 あたしはリリーと一緒に。
外≠ヨ行くんだ。

「ああああああああ!」

 最後の命を燃やしてあたしは両腕を駆る。腰より下はもう感覚がないため、
起き上がることができない。無様に這い蹲って、前へと進んだ。

「もうやめよ!」と零姫が叫ぶ。あたしの躰を憂いての言葉だと思うと、悪い
気はしない。けれど、分かってくれ。ここでやめるわけにはいかないんだ。

 一分ほどかけて、数メートルの距離を進む。
 ダージョンに切断されたハダリーの生首が転がる位置まで到達すると、もう
二度と「社長」と口にすることのない親友の頭を抱き締めた。

113 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 12:55:50


 不気味な悪魔の仮面―――ハダリーの素顔と言っても過言ではない無機的な
表情に、あたしは震える指先で触れた。
 ハダリーとは、このミノタウロスの死体にインストールしたソフトウェア、
つまり人造霊のことを指す。彼女の肉体自体は、ハードウェア……ただ器に過
ぎない。人造霊(ソフト)が機能を停止すれば、ハードはもとの死体に戻る。
 それを有機的な死と捉えるべきかどうか、あたしは答えを持たない。分かる
のは、あたしの都合で、ハダリーも、この死体も、好き勝手に振り回してしま
ったという事実だけ。相も変わらず、あたしは最低だ。

 胸裏で侘びの言葉を繰り返しながら、あたしはそっとハダリーの仮面を剥い
だ。隠し続けていたミノタウロスの素顔が露わになる。魔石を埋め込み、媒介
機関や魔力血管の拡張手術を繰り返したせいで、仮面よりも醜悪に、おぞまし
いものとなってしまった死者の顔。―――でも、仮面というハダリーの絆が断
たれたことで、人造僵尸はいま、改めてもとの死体に戻った。

 ―――ハダリーも、あんたも、これで自由だよ。

 キャッツアイの魔石を死体の右眼からくりぬく。
 ハダリーが消失したいまでも、魔石は変わらず強い魔力を秘めていた。
 ……この力が、あたしには必要なんだ。

 ふっと微笑んでから、神秘の光を放つ魔石をあたしは一息で呑み込んだ。
 喉を硬質な感触が滑り、体内が途端に燃え上がる。

「馬鹿な!」

 零姫が狼狽の声をあげて、あたしの肩を抱く。

「いまのはなんじゃ。あれはなんの魔石じゃ。幻魔のみならず、あんなものま
で、どうしておまえは持っておるのじゃ。しかも―――しかもそれを呑み込む
などと、おまえは命が惜しくないのか! 無茶にも限度というものがあろう!」

「……そうじゃない」

 逆だ。
 命が惜しい。死にたくない。だから、魔石を取り込んだんだ。魔剣に吸い取
られたあたしの生命の代替として、魔石の力を借りるために。

「そんな貧相な躰で、耐えきれるわけがなかろう!」

「貧相は余計、だぜ……」

 はは、と渇いた笑い声をあげる。確かにあたしはやせっぽちだけれど、零姫
のほうがよほどにちびだ。

 力はだいぶ戻ってきた。あたしはゆっくりと立ち上がる。一瞬前まで死にか
けていたのが嘘のようだ。……けれど、躰の不調自体は変わらない。さっきと
違うのは、躰の内側が熱すぎて、中から融けてしまいそうなところだ。
 凍えているか、燃えているのか。そこが違うだけで、やはりあたしは死にか
けのままなんだろう。

 この躰で、どこまで行ける。リリー/零姫と一緒に、どこまで生ける。

「どうして、おまえはそこまで……」

 分かり切った問いを、零姫は涙混じりに口にする。
 ……そんなの、決まっているじゃないか。

「あんたと一緒に、外≠フ景色を見たいからだ」

114 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 21:26:25


 零姫の手を握り、〈図書館〉の外を目指す。火焔天の構造が分からないため、
どこをどう進めばいいのか分からない。とにかく〈図書館〉の出入り口を目指
そう。監禁されていたといっても、ダージョンは出入りしていたのだから、ど
こかに扉なり門なりがあるはずだ。

 ―――けど、あたしの躰は、そこまで保たなかった。

 派手に喀血すると、脇の本棚に体当たりでもするかのように寄りかかる。
 衝撃で本が何冊か、ばさばさと落ちてきてあたしの躰を叩いた。あたしはそ
のままずるずると床に座り込む。
 ……だ、駄目だ。とても無理だ。魔石の力を借りたところで、あたしという
肉体じゃ受け止めきれない。
 よくよく考えてみれば、当然のお話だ。魔術的強化を徹底的に施したハダリ
ーですら、魔石の出力を絞って管理していたんだ。素のまま呑み込めば、こう
いう結果になることは容易に想像がつく。

 馬鹿なのは分かっている。零姫に愚か者と詰られれば、否定する言葉はない。

 けれど、あたしは奇蹟に頼るしかなかった。そこに可能性があるのならば、
あたしのすべてを費やして、勝負に挑むしかなかった。
 ……その結果が、これか。

「イーリン! イーリン! しっかりせい!」

 ああ、なんてことだろう。零姫の声は深い悲しみに彩られている。あたしが
原因で、大好きな彼女を傷付けてしまっている。
 くそったれめ。あたしはリリー/零姫の笑顔が見たいのに、どうしてこんな
ことになってしまったのか。

「なぜじゃ! なぜ、そこまでするのじゃ。どうしてわらわなんぞのために死
のうとするのじゃ! 命まで賭けられるのじゃ!」

 それは、愚問が過ぎるってもんだぜ。

「だって、あんたはリリーじゃないか……」

 リリーは、あたしのために夢を捨てた。献身というものを教えてくれた。
 自分のためだけじゃなく、誰かのためにも生きられるということを、身をも
って証明してくれた。彼女は、あたしの未来だ。
 リリーがそうしてくれたように、あたしも、リリーのために尽くす。
 ……そしていま、あたしを抱いて涙を流してくれている少女は、零姫だけれ
ど、リリーでもあるんだ。彼女のためなら、あたしは自分さえも犠牲にできる。
 そうだ。あたしは、リリー/零姫のために、死ねる。
 もう、自分を失うことを怖れない。

 あたしの目的はなんだ。
 あたしの夢はなんだ。
外≠ヨ行くこと。
 リリーを外≠ヨと連れ出すこと。
 そのためにマーマは死んで、ハダリーも死んだんだ。それでもまだ犠牲が足
りないっていうのなら、今度はあたし自身を捨ててやる。
 リリーに自由を与えられるのなら、あたしは、なにも、いらない!

「ああああああああああああああああ!」

 力はあるんだ。魔石の力はいま、あたしの裡にある。足りないのはそれを制
御する器だ。あたしの肉体じゃ、魔石は飼い慣らせないんだ。

115 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 21:54:36


「イーリン、死ぬな!」

 死なないさ。このままじゃ、死ねないよ。零姫を外≠ヨと連れ出せる、そ
の確信が得られるまでは、死んでたまるか。

「莫迦者め。莫迦者め。こんなことをして、わらわが喜ぶと思ったのか。おま
えはなにも分かっておらんのじゃ」

 いや、分かるよ。なんにも知らない無知なあたしだったけれど、ダージョン
の胸に魔剣を突き立て、生命を吸われたとき、なんとなくだけれど、舞台の仕
掛けに気付いてしまった。気付かざるを得なかった。
 ……できれば、知らないまま果てたかったけれど、そうもいかない。
 だって、そうだろう?
 あの魔剣を、あたしは誰から託された。
〈針の城〉を統べるダージョンや、全知するリリー/零姫でさえ存在を察知で
きなかった魔女。あのひとなら、あたしとリリーの関係を知っていた。あのひ
となら、あたしに巨大蜘蛛にけしかけることもできた。あのひとなら、クーロ
ンストリートにも〈針の城〉にも近付かずに、マーマやロートルに命令を下す
ことができた。あのひとなら―――あたしに自覚させずに、あたしの行動を支
配することもできた。

 なんてことだろう。
 あたしは、あのひとに可愛がられていると思っていたのに。あのひとに、気
に入られていると思ったのに。……マーマの次に、好きだったのに。
 本物の家族だと、信じていたのに。

 莫迦野郎。大莫迦野郎。
 騙すなら、最後まで騙し通せっていうんだ。幸せのまま、あたしを死なせろ
っていうんだ。最後の最後に、後味の悪いもんを残しやがって。
 お陰で、せっかくリリーの腕の中で死ねるっていうのに、未練が残っちゃう
じゃないか。あんたが味方でいてくれないから、安心してくたばれないじゃな
いか。あんたが敵だから、あたしは、ここで死ぬわけにはいかなくなったんだ。

「零姫……結界は……晴れた、かな」

「……上級妖魔封じのあの結界は、街全体を術式として組んでおる。例えゾズ
マが死んでも消えることはないわ」

「そう、か……」

 上級妖魔封じ。
 だから、なのか。
 だから、リリーは〈針の城〉の外へと出られなかったのか。だから、ダージ
ョンは〈針の城〉に引きこもっていたのか。だから、あのひとは、直接、自分
の手でリリーをさらおうとはしなかったのか。
 こんな、回りくどいことをしたのか。

「なら……結界が……晴れた……ところで、安心……できない、か……」

「むしろ、最悪の状況になるわい」

 零姫の突っ込みに、あたしは不謹慎にも声を出して笑ってしまった。そうか、
あたしが状況を悪化させちまったのか。そいつは悪かったな。
 ……けれど、あの結界がある限り、リリーが外≠ヨと行けないのなら、い
つかは破らなければいけないんだ。

116 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 22:30:47


「おそらくだが、おまえの死と同時に、ゾズマの結界は消えるじゃろう」

「だろう、なぁ……」

「……知っておったのか」

「いや―――」

 確信はなかった。けれど、あたしの特異な躰は、どんな強力な魔術でも無効
化してしまう力を持っている。あたしの血を浴びせれば、頑固な呪縛も、たち
まち洗浄されてしまう。
 あのひとは、あたしになにを期待していたのか。あたしを利用して、なにを
得ようとしたのか。リリーを結界の外へと連れ出すことか。それとも、ダージ
ョンと対峙して、破れることか。……保険をかけて、両方の結末に対応してい
るとしたら、あたしの死は、いったいどんな意味を持つ。
 あのひとは、定期的にあたしの躰を診ていた。あのひとなら、あたし以上に、
あたしの躰の特異さを知っている。

 あたしはここで死ぬ。〈針の城〉の外までリリーを連れ出すことは叶わなか
った。その代わりに結界が消えてくれるなら……あのひとは、自ら〈針の城〉
に乗り込んで、リリーと接触できるというわけだ。
 あのひとの目的はリリーなんだ。十年前から、ダージョンが〈妖魔租界戦争〉
に勝利したときから、彼女はこの結末を計画していたんだ。

「駄目だ……」

 リリーは渡せない。リリーは誰にも奪わせない。彼女は自由だ。彼女は彼女
だけのものなんだ。

「うわあああああああああああああ!」

 死を振り払うために、声を張り上げる。

 最悪の人生だった。
 いやな思い出しかなかった。
 例えいいことがあっても、その直後に悲劇に見舞われた。
 世界はあたしを憎んでいると信じていた。
 悲しみがあたしのすべてだった。
 そんな最悪だらけのくそったれな人生だからこそ、あたしは、最後の最後に、
奇蹟に縋る。最後の最後まで、自分じゃない、他人の力に期待する。

 リリーを助けてくれ。
 零姫に笑顔を与えてくれ。
 あたしの代わりに、
 彼女を外≠ヨ。
 太陽の下へ。
 自由へ―――

117 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 22:30:58


「イーリン、気をしっかりと保て。わらわと一緒に外≠ヨ行くんじゃなかっ
たのか。おまえが、わらわと外≠フ架け橋となるんじゃなかったのか!」

 ああ、そうだよ畜生。
 ほんとはあたしだって行きたかったんだ。
 リリーと一緒に見たかったんだ。
 ほんとは悔しいんだ。
 死にたくないんだ。

「リリー、あたしの……分まで―――」

「イヤじゃ。聞きとうない! わらわは、白百合の娘は、おまえがいる外
を目指したのじゃ。おまえがおらん外≠ノ、どんな価値があるというのじゃ」

 いや、それは違う。
 リリーは外≠ヨと飛び出した。自分で霊路を拓いて、火焔天から飛び出し
た。その過程で、運命があたしとリリーを引き合わせたんだ。
 あたしはリリーがいなければ外≠ノ魅力を感じないけれど、リリーはあた
しがいなくても、外≠夢見ることはできる。あたしの目的はあんただけれ
ど、あんたの目的はあたしじゃなくて外≠ネんだ。

 ―――でも。
 最後にそう言ってくれたことは、ほんとに嬉しい。
 死にたくないけれど、もっと一緒に、どこまでも二人で生きたかったけれど、
こんなに幸せな気持ちで死ねるのなら……まぁそこそこ悪くはないぜ。

「イーリン、死ぬな!」

「リリー、生きて、くれ―――」

「イーリン!」

「あんたは……」

 あんたは自由だ。

「自由に、生きて……」

「イーリン!」

118 名前:火蜥蜴≠フイーリン ◆MidianP94o :2008/11/16(日) 22:31:08










     ―――ごめんね、マーマ。







         あたし、最高に親不孝だ。









.

119 名前:火蜥蜴≠フイーリン? ◆LIZARD.khE :2008/11/16(日) 23:29:37










     ―――ああ、そうかよ。







         は、ふざけんなよ。勝手に終わらせんな。
         「俺が」お前を、親不孝になんかさせてやらねえよ。

120 名前:◆MidianP94o :2008/11/17(月) 23:13:29












第二部「クーロン炎上」











.

121 名前:◆MidianP94o :2008/11/18(火) 00:06:16

Prologue


 ―――最上階のペントハウスから、彼女≠ヘクーロンの夜景を見下ろして
いた。正確には、クーロンの一部を。

 眠らない夜のリージョンに、ぽっかりと穿たれた闇の孔。ネオンの瞬きをま
ったく寄せ付けないあの区画こそ、彼女にとってもっとも因業深き地。
 いまは〈針の城〉などと戯けた名で呼ばれるスラム街。かつての妖魔租界だ。

 こうしてパノラマの窓辺からあの忌まわしきゴミ溜めを眺めて、何時間が経
ったろう。彼女は、あの火蜥蜴の少女を送り出してからいまのいままで、微動
だにせずじっと一点を、もっとも闇が濃い〈旧妖魔租界〉の中心部を見つめて
いた。些細な異変すら、見逃さないために。

 彼女に約束された永遠と比べれば、それは取るに足らない刹那の時だ。
 けれど、やはり長かった。ただ結果を待つために時間を重ねるというのは性
に合わない。何百年生きようと慣れることはない。
 結局、私は待つのが嫌いなだけなのだ。そう覚って彼女は自嘲した。

 誰かを見送ったりだとか、誰かになにかを託したりだとか、そういう類は自
分がもっとも苦手とする行為なのに。―――そうせざるを得なかったのは、ゾ
ズマの老獪さゆえか。それとも零姫の怯懦ゆえか。或いはその両方か。
 ……どのみち、卑怯なことに代わりはない。

 さらにしばらく、彼女は〈旧妖魔租界〉を見下ろし続けた。

 人間の眼では決して捉えることのできない変化を、彼女が目聡く霊視したの
はいったいどれほどの時間が流れた頃だろう。世界を構築するすべてのチャン
ネルを同時に視認する彼女の魔眼が紅蓮に燃え上がる。

 ゾズマの結界が―――

 破れた。

〈旧妖魔租界〉を覆っていた瘴気が、火焔天を中心に急速な勢いで晴れつつあ
る。あらゆる呪的要素、魔性の類が強制的にキャンセルされてしまっているの
だ。ゾズマが施術した忌まわしい上級妖魔殺しの結界も、糸がほどけるように
呆気なくディスペルされてしまった。
 そんな突飛な現象が顕現する理由など、ひとつしかない。

 彼女は静かに瞼を伏せた。
 窓辺に立ってから初めて、〈旧妖魔租界〉の夜景から眼を逸らした。

「……そうか」

 奥歯を噛み締め、痛切の声を漏らす。

「あの子は帰ってこないのか」

 だから待つのは嫌いなんだ。そう呟くと、彼女は踵を返し、パノラマビュー
の窓に背を向けた。

 もう待つのはやめだ。
 あの子のいない妖魔租界に価値などない。
 十二年前にゾズマがそうしたように。
 今度は私が灰にしてやる。
 燃やし尽くしてやる。

 そして零姫を―――

122 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/18(火) 23:58:53

 逝ってしまった。
 最後まで零姫の正体を知らないまま、イーリンは逝ってしまった。

 ……かわいそうな火蜥蜴。零姫のことだけじゃない。彼女は、自分のことさ
えも満足に知らなかった。

 例えば、彼女の生まれはクーロンから遠く離れたファシナトゥールの〈根っ
この町〉だということだとか。人間と魔物のあいのこと信じていたが、実は純
粋な人間だったことだとか。蜥蜴の血肉と魔眼は、後天的に移植≠ウれたも
のだとか。記憶も、消されていただけだったことだとか。
 ―――尽きぬ感謝と愛情をささげてきたマーマこと阿嬌は、実はシリウス領
事の腹心で、根っこの町からさらわれてきたイーリンを、この計画≠フため
に身請けしたことだとか。最後はイーリンへの愛情に負けて、主君を裏切り、
独断で零姫を殺めようとして、廃人にさせられてしまったことだとか。
 その他諸々、イーリンをイーリンとして構築する一切合切の事情を、しかし
イーリン本人はまったく知らなかった。
 知らないまま、逝ってしまった。

 それで、良かったのだろうか。

 真実を知れば、イーリンは発狂するかもしれない。
「リリーと一緒に外≠ヨと飛び出したい」という願いすらも、裏で、そう選
択するように仕組まれたものだったのだ。火蜥蜴の少女は最初から最後まで、
あの女の駒として利用され続けた。あまりに虚しく、あまりに哀れな人生だ。
 なにも知らずに死ねたのは、報われない彼女の人生の、たったひとつの幸福
だと―――そう考えることもできる。

 しかし、しかしだ。

 零姫は納得しない。
 零姫は認めない。
 すべてを知ってしまって、自分が如何に虚無的な存在かを気付いて、地獄の
苦難に悶えようとも―――零姫は、イーリンに生きて欲しかった。
 苦しみながらも生きて、生きて、生き抜いて欲しかった。
 他人のために死ぬなんて、とんでもない過ちだ。

「この、莫迦娘め!」

 微笑を浮かべたまま、瞳の焦点を曖昧にさせてゆくイーリンの肩を揺すって、
怒鳴りつける。

「どうして自分のために生きられぬ。どうして他人にばかり尽くそうとする。
おまえはイーリンなのじゃから、イーリンのために生きればよいのじゃ!」

 自分勝手だとか自分本位だとか、そんなことで悩んでいたらしいが、零姫か
ら見ればイーリンは主体性が欠落した娘だった。優しさに飢えるあまり、愛さ
れたいと思った相手に自分のすべてを預けてしまう娘だった。

「背負いすぎなのじゃ。悩みすぎなのじゃ。たかが人間の癖に、ゾズマに立ち
向かうじゃと?! 相手はかつての黒騎士筆頭じゃぞ。妖魔貴族の頂点に立っ
た武人じゃぞ。敵うわけがなかろう! 絶対に勝てぬ戦いで勝ちを拾おうとす
れば、どこかで歪みが生まれるに決まっておるのに―――」

 はた、と叫びを止める。
 零姫は、いま、自分が涙を流していることに気付いた。大粒の空知らぬ雨が
頬を濡らし、目を腫らす。―――こんなに無様に大泣きするなんて。久しくな
かった体験に、零姫は奮えた。
零姫として<Cーリンに会ったのは、ほんの一時間ほど前だ。なのに、彼女
の中でイーリンという娘はかけがえのない存在にまで育ってしまっていた。
 リリーと呼ばれた、あの白百合の娘の記憶が、零姫の凍てついた感情に火を
入れたのか。……まだ零姫が睡っていた頃の、もうひとりの自分が。

123 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/18(火) 23:59:04


 零姫は転生無限者である。
 先代の妖魔の君、オルロワージュの血の戒めから逃れるために、まさかの逆
吸血を果たし、自由を勝ち取った。
 現在の零姫は、厳密にはオルロワージュの血族ではない。妖魔でありながら
妖魔でもない。奇蹟の如き特異な存在だ。

 しかし、零姫にとって自由は呪いに等しかった。血の解放の代償として、零
姫は死≠ニいう絶対の自由を失ってしまったのだ。
 肉体が朽ちれば、転生し、生まれ変わって赤児から人生をやり直す。彼女が
寵姫零姫≠ニして記憶と魔力を取り戻すのは、九つから遅ければ二十五歳と
ばらつきがあるが、おおむね少女期で共通している。
 では、覚醒するまでまったくの別人なのかというと、決してそんなことはな
い。ひとつの肉体に宿る魂はひとつ。だから、あの白百合の娘も間違いなく零
姫だったのだ。ただ、寵姫零姫≠ニしての記憶が睡っていたというだけで。

 悲劇の始まりは、十三年前、クーロンの妖魔租界などに生まれ落ちてしまっ
たことだ。呪いの如し美貌を持つ零姫は赤児の時から美しく、すぐにシリウス
領事の目にとまった。あのとき、紅の魔人≠アとゾズマが横槍を入れなけれ
ば、今頃零姫は針の城――ファシナトゥールに建つ、本物の魔宮だ――で死ぬ
ことも生きることもできない拷問に苛まれ続けていただろう。
 ゾズマは運命の赤児≠ナある零姫を守るために、シリウス領事と、彼が支
配する妖魔租界を相手取った。たったひとりで戦争を始めた。
 当時、クーロンを魔界都市化させている原因となっていた妖魔租界をなんと
か排除したいと考えていたクーロン自治政府やIRPOの外交的圧力のせいで、フ
ァシナトゥールは援軍を送るに送れず、孤立したシリウス領事と妖魔租界の魑
魅魍魎どもはゾズマの鬼神の如き働きを前に、不死の命を散らせていった。

 妖魔租界を壊滅させることに成功したゾズマだったが、しかし、零姫を連れ
てクーロンから脱出するのは至難の業だった。一歩リージョンの外を出れば、
百万の妖魔が瞬く間に殺到するだろう。……それ以上に恐ろしいのは、零姫に
執心するあの女≠ェ直接挑んでくることだ。
 妖魔最強の武人として知られるイルドゥンをも凌駕すると言われるゾズマだ
ったが、あの女≠相手に、零姫を守りながら勝ち抜くことは不可能だと覚
った。―――覚ったからこそ、苦肉の策として、妖魔租界が燃え尽きた跡地に
上級妖魔殺し≠フ結界を張り、あの女≠ニの対決から逃れた。
あの女≠ウえ相手にしなければ、どんな刺客が送り込まれようとゾズマなら
対処できたからだ。
……しかし、結界は境界に過ぎず、外から内へと入れないように、内から外へ
も通行はできない。上級妖魔であるゾズマは、妖魔租界跡地に封印されたも同
然だった。―――そして、上級妖魔の素質を持つ運命の赤児≠焉B

 妖魔租界跡地は幼き零姫が垂れ流す魔力によって澱みを深め、魔界地区とし
てスラムを形成していった。〈針の城〉の誕生である。

 ―――これが、妖魔租界戦争のすべてだ。
 そして、零姫とゾズマがクーロンに流れ着いた事情でもある。

 ゾズマは他人との付き合い方を知らない男だ。目覚める前の話とはいえ、零
姫――つまりはリリーを――監禁したのは、愚かの極みとしか言えない。
 彼からすれば、零姫が覚醒するまで適当に時間を潰す。その程度の考えしか
なかったのだろうが、閉じ込められた当人はたまったものじゃない。
 そこが、結界の綻びとなった。あの女≠つけ込ませる疵となった。イー
リンを悲運へと走らせる原因となった。

 零姫に、ゾズマを責める気はない。
 彼は変人だが、ある意味、もっとも妖魔らしい妖魔だ。執着心というものが
なく、人間の感情を決して理解しない。風に流されるように、興味が赴くまま
に生きていく。―――だから、リリーの不満を理解できなかった。
 対するあの女≠ヘ、人間以上に人間らしい。だから、イーリンを利用する
ことを思い付いた。つくづく対照的な二人だ。

124 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/18(火) 23:59:18


 零姫は、目覚めた瞬間からあの女≠フ計画を見抜いた。あの女≠ェ覚え
ているかどうかは知らないが、零姫は前の人生で一度だけイーリンの魔力の
源≠目にしていた。そうでなくても、自分と同種の存在がいることは知って
いた。だから、イーリンのうちに潜むものを魔眼で見通したとき、非業の運命
までも確信してしまったのだ。

 ……だが、逃げられるところまで逃げるつもりだった。イーリンの言葉を信
じて、死を踏み台にして生きることの悦びを再確認したかった。
 まさか、火焔天からすら出られずに終わりを迎えてしまうなんて。自分が死
ねばイーリンだけは見逃してもらえるだろうと考えていただけに、零姫のショ
ックは計り知れない。自分の無策さが、あたら若い命を散らせてしまった。

 零姫の中の、リリーの部分が悲鳴をあげる。
 大声で、零姫を詰る。
 ……零姫は反抗する言葉を持たない。
 自責と自戒の嵐に飲まれて、いまにも溺死してしまいそうだ。
 どうして、こんなことになってしまったのか。
 こういうかたちでしか、終わらせることはできなかったのか。

 認めよう。
 零姫は、リリーが妬ましい。
 同じ零姫とは言え、零姫が零姫としてイーリンと過ごした時間は一時間にも
満たない。それに対して、リリーはどうか。彼女はイーリンとともに多くの時
間を過ごし、思い出を育んだ。イーリンが知る零姫とは、あくまでリリーとし
ての零姫なのだ。―――だからこそ、零姫とイーリンの関係はこれから築かれ
てゆくはずだったのに。

 火蜥蜴の娘の鼓動が、弱まっていく。

「イーリン! 莫迦娘のイーリン! 聞こえておるか!」

 零姫は必死で呼びかける。
 まだ彼女が生きているうちに。
 心の臓が止まる前に。

「わらわは諦めんぞ。死がなんじゃ。死んだ程度でなんだというのじゃ。おま
えが地獄に堕ちるのなら地獄へ、極楽へ昇るのなら極楽へ。おまえがこの火焔
天までわらわを迎えに来たように、わらわもおまえを必ず見つけ出してみせる!
だから待っておれ。百年かかろうと千年かかろうと、絶対に会いにゆくから!」

 そして、いつか一緒に、蒼穹の空の下で、ひなたぼっこでもしようではない
か。そう言い聞かせてやりたかったけれど、イーリンは最後に頬の筋肉を僅か
に緩めて微笑すると、そのまま生命の火を―――消した。

 イーリンは死んだ。彼女の躰は死体となった。

 涙は一瞬で枯れ果てた。

「……出てくるがよい、悪霊め。わらわが祓ってやる」

 先の情愛に満ちたものとは打って変わり、常の零姫が響かせる――否、それ
以上に凍えた――冷徹な声が、〈図書館〉に谺した。

「その躰はイーリンのものじゃ。イーリンだけのものじゃ。他の誰のものでも
なく、他の誰にも穢させぬ。例え一秒でも他人には盗ませぬ」

 零姫の背後で、炎の尾を持つ炎駒の麒麟が立ち上がった。妖力で編まれた実
体を持たない幻獣―――妖魔の中でも零姫だけが駆使できる幻術≠フ一端だ。
 幻とはいえ、古の神獣であることに代わりはない。

「アセルスの狗め。わらわは、おまえを決して許さんぞ」

 零姫は百年ぶりに、憎しみという感情を自覚した。

125 名前:火蜥蜴≠フイーリン? ◆LIZARD.khE :2008/11/19(水) 01:27:21
>>

 ……糞が。ああ畜生、胸糞悪ぃ。
 
 ようやくの「体」だ。待ちに待った自由の身だ、喜べよ俺……だなんて無理矢理誤魔化したところで
この気分の悪さは消えやしない。

 ……初めから分かっていたことだ。
 奴に利用されると知ったあの時から。
 こいつの中に無理矢理押し込められたあの時から。
 結末は一つしかない、こいつが死ななきゃ、俺は表に出られねえ。こいつが死ぬまで、俺はこいつの中で
見ていることしかできねえ。声さえも届きやしねえ。
 だから俺はこいつが死ぬのを待った、いや待たされた。
 そうするしか他になかったんだ。
 
 だからこそ、心底から――胸糞悪い。
 
 
 イーリン、イーリンと姫さんの呼ぶ声が聞こえる。「俺の耳」に聞こえる。
 もちろん俺に呼びかけている訳じゃない、その額面通りに、イーリンに呼びかけてんだ。
 だが俺も、久方ぶりの体の感覚を覚えつつある。主導権が入れ替わりつつある。
 その事実が更に俺の気分を悪くさせる。ああ全く、こんな皮肉があるものかよ。
 いっそもう、手に力を入れて起き上がってしまうべきかと逡巡しているうちに……
 
 頬が「俺の意志とは無関係に」、微笑を作った。
 
 ……なんだ、聞こえてたのかよお前にも。そっか。
 よかったな姫さん。報われたぜ。もっともこれだけじゃ足りないんだろうがな。
 だがしかし、これでもうこの体は――――俺のものだ。
 
 
「――――は。怖いじゃねえか姫さん。俺ごと、この体を荼毘に付そうって腹かよ?」
 
 打って変わって冷徹な声音の、零姫とやらの台詞を聞きながら、両目を開いて手足に力を入れ
片膝をつき、立ち上がって、埃を払って彼女を見やる。
 見えてるはずだ。
 俺の目。片目ではなく両目が爬虫類の、「とかげ」の眼となっていることが。
 蜥蜴の刺青、そいつが動いて服の内へと降りていく様が。
 それを見て案の定、零姫の表情が一層冷たくなる。ま……俺としてもこういう演出は嫌いじゃねえしな。
気を紛らわすにも丁度良い。ウォーミングアップと洒落込もうじゃねえか。

「ふん、思ったより体の馴染みがいいな。ずっと『同じ体』でいたせいか、それとも……姫さん、
 あんたのあいつへの思いのおかげか」

 おっと、更に険しくなりやがった。これ以上のお遊びは地雷踏みか。
 
「残念ながら、もうこの体は俺のもんだ。あんたが怒ろうがどうしようが、この現実は覆らねえよ。
 そうとも、あの活発な、あんたと共に外へ行こうとしたイーリンは……死んじまったよ。
 そいつは事実だ――だがな」
 
 幻獣の炎の明るさに目を細めながら、淡々と事実を口にする。
 実際、あれをけしかけられたら文字通りお陀仏だろうな。もっともどうせ俺は死ねねえんだが。
 だがそうかと言って、ここでこの体を奪われるわけにもいかねえ。
 俺にはまだやることがある。
 
「――ざけんな、誰が誰の狗だと?
 俺は俺だ、誰のもんでもありゃしねえ。てめえが許そうが許すまいが知った事じゃねえがな、
 あの女の狗呼ばわりだけは看過できねえな。それこそ一秒だって俺は奴に与した憶えはねえ。
 俺は只の、このくそったれな物語を見せ続けさせられた――――『とかげ』だ」

126 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/19(水) 23:55:53


 ……分かって、おる。

 啖呵を切られるまでもなく、零姫は充分に彼≠フ事情を理解していた。
 なにせ、零姫の知る彼≠ヘ、針の城に封印された存在だったのだから。
 イーリンがそうであったように、この爬虫類も被害者だ。あの女≠ノ利用
された駒なのだ。憎しみをぶつけるのは、お門違いもいいところだった。
 
 憤ってどうする。これは、そういう生き物なのだ。
 蜥蜴の尻尾が切られれば自然と新たな尻尾が生えてくるように、彼≠ヘ神
の摂理に基づいてイーリンの死体に憑依した。
 悪意があるどころか意識的ですらもない。彼≠ゥらしてみれば、ただ「イ
ーリンが死ねば顕現しろ」というプログラムに基づいただけだ。

 ……零姫とリリーの関係に似ている。
 零姫は彼≠フようにリリーの躰に憑いていたわけではなく、零姫自身がリ
リーだったのだけれど、見方を変えれば、リリーの躰を我が物顔で使っている
と解釈できなくもない。そう責められたところで、零姫の立場では「目覚めて
しまったものはしかたがない」としか答えられないのだが。
 ……それは、彼≠燗ッじだろう。
 だから、零姫は素直に怒りを収めたのだ。
 種は違えど、同じ無限転生者だ。その宿業は理解できる。

「とかげ……」

彼≠フ名を呟く。
 神を喰らったことで、決して死ねない呪いにかかってしまった男。死体から
死体へと憑依を繰り返すことで無限の転生を行う彼は、どういった経緯からか
数十年前に針の城の封印され、此度の策謀のために、十年前、イーリンの肉体
に魔術迷彩処理を施した上で埋め込まれた。
 なぜ、イーリンは蜥蜴の血肉を持っていたのか。人間でありながら、黄金に
輝く魔眼を持っていたのか。あの頬の刺青はなんだったのか。
 答えはすべて、このとかげ≠ェ握っていた。

 蜥蜴の血肉も魔眼も、とかげの魂を肉体に封印した副作用だったのだ。漏れ
出した特異性がイーリンの躰に侵食し、変異を呼んだ。
 零姫は知らないが、イーリンが不眠症になる切っ掛けとなった他人の夢
も、このとかげの記憶を無意識の世界で拾い取っていたからだった。

 つまり、イーリンの躰にとかげは同居していたということになる。
 死体にしか憑けない彼は、イーリンが存命中は表に出てくることは叶わなか
ったが―――彼女の死がスイッチとなって、こうして顕現を果たした。
 容姿も声もイーリンのままで、零姫の前に現れた。

127 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/19(水) 23:56:03


 なぜ、そんな回りくどいことをあの女≠ヘしたのか。それは、とかげには
魔術や妖術の類を強制的に無効化させる特質があるからだ。イーリンも似たよ
うな力を持っていたが、オリジナルは規模が桁違いだ。
 そこにいるだけで、周囲の霊力を消し飛ばしてしまう。魔術の計算式を分解
してしまう。零姫の背後の麒麟も、幻体を維持するだけでかなりの消耗を強い
られていた。……実に希有な特性だ。

あの女≠ヘ、そこに目をつけた。不可侵を誇る上級妖魔殺し≠フ結界も、
とかげの能力ならば内側から破れるのではないか、と。
あの女≠フ目論見は成功した。事実、彼が目覚めると同時にゾズマの結界は
解呪されてしまっている。いまの〈針の城〉は裸に等しい状態だ。
 十年以上も零姫を守っていた城塞は、消え去った。

 ―――すべてはこの瞬間のために。

 ゾズマの結界を破るために、イーリンは根っこの町からさらわれた。
 リリーと運命的な出会いを果たすように演出され、逃避行を裏で操作され、
火焔天で死にとかげが目覚めることすら計算されて―――ついにいま、十年越
しの念願が叶い、結界は消え去った。

あの女≠ヘ得意の絶頂にいるに違いない。十三年前の屈辱を見事に晴らして
みせたのだから。己の計画が一から十まで予定通りに成功したのだから。

 イーリンと同じく、とかげも道具以上の価値はない。〈針の城〉の結界が消
えたいま、あの女≠ェ直接零姫に手を下しに来るだろう。
 よもやクーロンにいるとは思わなかったが……ゾズマの胸に突き立つ魔剣が、
彼女の存在をはっきりと証明している。

「ならばここから早急に去るがよい」

 冷たい声のまま、零姫はとかげに言った。

「おまえの言う通り、それはおまえの躰じゃ。……イーリンの中で、おまえは
十年も待っていたのだから、そう主張する権利ぐらいはあろう。だから、その
躰でどこへなりとも自由に行ってしまうがよい」

 零姫がとかげを追い出そうとするのは、彼がイーリンの顔で、イーリンの声
で話しかけてくるのが、辛くてしかたがないから―――という理由だけではな
い。彼を丁寧に歓迎する時間的余裕などまったくないのだ。

 ここは、もうすぐ戦場になる。
 第二次妖魔租界戦争が始まろうとしているのだ。 

128 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/20(木) 01:55:12
>>

「へっ。話が早いじゃねえか。だが……そうもいかねえんだ。
 そりゃあ『はいそうですかではお言葉に甘えて』とズラかれるんなら、俺も苦労はしねえんだがな」
 
 実際、この言葉に嘘はない。
 俺には俺のやるべき事がある……探さなくちゃならない奴がいる。それ以外の者など、俺にとっては
何の関係もねえ。あの女も、この姫さんも、何もかも。
 おまけに俺は特異存在だ。居るだけで霊脈を歪ませ、結界に干渉し、余計なものを呼び寄せる……
一つ所に居てはろくな事にならねえ。叶うなら、さっさとここからおさらばしたいというのはだから本音だ。
 しかし。

「まずあんただ、姫さん。あんたは俺の『より』なんだよ。
 イーリンは今際の際まであんたを想っていた。この体にはその念が宿り、俺はそいつに縛られる。
 次の死体を探すまで、俺は残念ながらあんたから離れられねえんだよ。離れたが最後、この体は
 腐っちまうからな」

 もっとも、その『依』はこんな幻獣を作り出せるような強力な妖魔だと来ているんだからややこしい
話だが。おかげで随分と、体の調子は良い……飲み込んだあの「石」の力も相まって、例の幻魔とやらの
力をはね除けられる程度には。

「それでも出てけってんなら仕方ねえがな。俺自身はどうせ死ねやしねえし、こんなスラムなら
 死体なんぞ早々に見つかるだろ。そして代わりにイーリンは無縁仏だ。
 それであんたの気が済むってんなら、別に構わねえぜ?」
 
 相手にとって見知った人間のツラをして、あえてそんな風に突き放してやる。
 こう言われてなおも出て行けと言える人間は多くはない。
 まあ、こいつは人間じゃなく妖魔だが……表情見る限り、大して変わらねえだろ。
 
「まあそういうわけだ、悪いが付き合って貰うぜ。
 ……それに俺自身、あのクソ女には借りを返してやりたいんでな。
 その為にもこの、イーリンの体が必要なんだよ。他の死体じゃ意味がねえ。
 それにこっちは、あんたにとっても悪い話じゃねえはずだ」
 
 上手くいけば、だが……と心中で付け加える。
 正直言えば勝算はあまりない、馬鹿げていると俺自身思う。
 だがそれでも――このままで済ませる気は、毛頭ねえ。

129 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/21(金) 00:01:08



 ……こやつ、正気か。

 予想外の申し出に零姫は眉をひそめた。
 口調こそ乱暴だが、とかげの言い分はつまり「零姫の騎士になる」というこ
とだ。自殺志願も甚だしい。なんの義理があってそんな真似をするのか。せっ
かく取り憑いた躰をなぜ進んで壊そうとする。
 零姫にはとかげの考えが一分も理解できなかった。

 男性の魂を持つとかげが、なぜイーリンという女性の躰に宿るようになった
のか。それは、彼があの女≠ノ封印され、駒として利用されたからだ。
 つまり、一度は敗北しているのだ。
 無理もない。あの女≠ニ正面から対峙して、勝ちを収められる戦士がこの
世界にどれだけいる。ゾズマやイルドゥンですら厳しい戦いになるはずだ。
あの女≠ヘそれほどまでに強い。疑いようもなく妖魔最強である。彼の加勢
があったところで、勝算は変わらず絶望的なままだ。

 ―――負けると分かっている勝負に挑む愚か者は、ひとりで充分じゃ。

 それに、彼の躰は彼女の躰なのだ。
 もう、これ以上イーリンを傷付けたくはない。願わくば、せめて肉体だけで
も外≠ヨ連れて行ってやって欲しいとすら思っている。
 やはり、とかげを戦いには参加させられない。……しかし、零姫から離れれ
ば肉体が腐ってしまうというのだから性質が悪い。
 どうしたものか。

「あやつの狙いはわらわじゃ。わらわの側にいる限り、おまえは災厄に晒され
続けることになるぞ。であるならば、例え我が身が腐ろうとも、逃げられるだ
け逃げるのが得策というものであろう。……だから、わらわに構うな」

 零姫は素っ気ない口ぶりで言った。
 美しさが際立つからこそ、余計に冷たく見える彼女の横顔。これこそが本来
の零姫だ。誰にも興味を持たず、他人との関わりを拒絶する。
 イーリンに見せた感情の炎は、彼女の隠れた一面でしかない。

「これは、わらわの戦いじゃ」

 零姫の魔力は誰よりも高い。純粋な霊的スペックだけで比べれば、あの女
など零姫の足下にも及ばない。しかし、こと戦闘という分野において、零姫の
魔力はあまり役に立たず、逆にあの女≠フ武人としての力量は一個の軍に匹
敵するほど高かった。殺し合いになれば、まず勝てない。
 だから今日まで、零姫はあの女≠ニ剣を交えようなどとは思わなかった。
 逃げて、隠れて、一秒でも自分の生を伸ばすことに腐心していた。……しか
し今回だけは、零姫は自分の信念を曲げてあの女≠迎え撃つつもりだった。

 怒りがある。あの女≠、零姫は許せない。
 しかし、それ以上に―――悲しみが強い。
あの女≠ヘ憎いが、それ以上に自分自身が憎い。
 零姫は疲れを覚えていた。
 イーリンを守れなかった自分に、罰を与えたいとすら思っている。

 これは、そのための戦争だ。

130 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/21(金) 01:16:03
>>

 ……あーあ、見事に曲解してくれやがった。まあ、俺の言い方も悪かったかも知れねえけど。
 「借りを返す」なんぞと言っちまえば、確かにタイマンでも張ろうって思われるわな。
 だがこの姫さんも悲劇的に捉えすぎだぜ。……イーリンがどうしたかったのか、忘れちまったのかよ。
 
「あのな、姫さん……イーリンと共にいたのはあんただけじゃねえ。俺の望んだことじゃなかろうが、結局は
 俺もずっとこいつに付き合わされて……付き合ってきたんだよ。
 ふん……まあ、確かに俺らしくもねえ話だろうがな」
 
 本来なら俺は、適当な、しがらみの無さそうな死体を選んでずっと「生きて」きた。
 すぐに行方をくらませて、軽く変装をして、あまり人と関わらないようにしてきた。
 ……そうせざるを得ないんだから仕方がない。「とかげ」とは名ばかりに、俺は冷血ではいられねえタチ
らしい。あまり人と関わりすぎると情が移る。どうせ皆死んじまうのに、どうせ俺は異端なのに、どうせこの
手からこぼれ落ちてしまうというのに。
 だから誰とも関わらぬよう、俺は俺だと嘯いていつもは人の間をすり抜けていくことにしていた。
 いつもなら。
 
 ――――今度ばかりは別なんだよクソッタレが!
 
「ざっと十年……ああ十年間、こいつを『中』から見てきたんだぜ俺は。こんなクソくだらねえ、ろくな終わ
 り方もしねえと分かり切ってる三文芝居を、俺はずっと見てきたんだよ畜生が!
 責任者出てこい、ってやつだ。このまんま終わらせてたまるか、俺の気が済まねえんだよ!」
 
 情が移るだのなんだのという次元じゃねえ。
 ここまでさせられて、素知らぬ顔で居られるほど俺は冷血にはなれない。
 そんなだだ甘の自分にすら腹が立つが……どっちにせよこの最悪の気分は収めたくて仕方がねえ。
 
「だからだ、姫さん。俺は俺のしたいようにさせて貰うぜ」

 ではどうするか? んなもん、答えは決まっている。


「俺は――――イーリンの本懐を遂げさせる」


 そう言って、零姫の手を取った――先刻のイーリンと、同じように。


「逃げるぜ、一緒に。あの女の筋書きはここでご破算だ。成功率なんぞ関係ねえ。最後まで抗ってやる。
 この街からもあの女からも逃げおおせてやる――最悪の物語を、ぶち壊してやる。
 これが俺の戦いってやつだ。あんたと同じようにな」

 ついでに笑ってやろうか。
 もちろんそりゃ、悪人ヅラでだ。

131 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/21(金) 20:06:53
少し修正。


>>

 ……あーあ、見事に曲解してくれやがった。まあ、俺の言い方も悪かったかも知れねえけど。
 「借りを返す」なんぞと言っちまえば、確かにタイマンでも張ろうって思われるわな。
 だがこの姫さんも悲劇的に捉えすぎだぜ。……イーリンがどうしたかったのか、忘れちまったのかよ。
 
「あのな、姫さん……イーリンと共にいたのはあんただけじゃねえ。俺の望んだことじゃなかろうが、結局は
 俺もずっとこいつに付き合わされて……付き合ってきたんだよ。
 ふん……まあ、確かに俺らしくもねえ話だろうがな」
 
 本来なら俺は、適当な、しがらみの無さそうな死体を選んでずっと「生きて」きた。
 すぐに行方をくらませて、軽く変装をして、あまり人と関わらないようにしてきた。
 ……そうせざるを得ないんだから仕方がない。「とかげ」とは名ばかりに、俺は冷血ではいられねえタチ
らしい。あまり人と関わりすぎると情が移る。どうせ皆死んじまうのに、どうせ俺は異端なのに、どうせこの
手からこぼれ落ちてしまうというのに。
 だから誰とも関わらぬよう、俺は俺だと嘯いていつもは人の間をすり抜けていくことにしていた。
 いつもなら。
 
 ――――今度ばかりは別なんだよクソッタレが!
 
「ざっと十年……ああ十年間、こいつを『中』から見てきたんだぜ俺は。こんなクソくだらねえ、ろくな終わ
 り方もしねえと分かり切ってる三文芝居を、俺はずっと見てきたんだよ畜生が!
 責任者出てこい、ってやつだ! このまんま終わらせてたまるか、俺の気が済まねえんだよ!」
 
 情が移るだのなんだのという次元じゃねえ。
 「やがて死ぬ人間」に入れられたんだ。死を看取るまでただ黙って見ているしか術がなかった。
 それはこいつの一生を無理矢理背負わされたも同然だ。しかも当のイーリンにすら存在を知られずに!
 ここまでさせられて、素知らぬ顔で居られるほど俺は冷血にはなれない。
 そんなだだ甘の自分にすら腹が立つが……どっちにせよこの最悪の気分は収めたくて仕方がねえ。
 ましてやこんな馬鹿げた陰謀劇のおまけ付きとなりゃあ尚更だ。
 
「だからだ、姫さん。俺は俺のしたいようにさせて貰うぜ」

 ではどうするか? んなもん、答えは決まっている。


「俺は――――イーリンの本懐を遂げさせる」


 そう言って、零姫の手を取った――先刻のイーリンと、同じように。


「逃げるぜ、一緒に。あの女の筋書きはここでご破算だ。成功率なんぞ関係ねえ。最後まで抗ってやる。
 この街からもあの女からも逃げおおせてやる――最悪の物語を、ぶち壊してやる。
 だから今の俺はイーリンの体が必要なんだよ。『こいつと一緒に』脱出しなきゃ、意味がねえからな。
 『あんたの戦い』が知ったことか。これが俺の戦いってやつだ。あんたと同じように、な」

 ついでに笑ってやろうか。
 もちろんそりゃ、悪人ヅラでだ。

132 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/24(月) 20:40:26


 零姫は礼節を重んずる女だ。礼儀を軽んじる輩をもっとも忌み嫌う。無礼を
許しておけない性分だった。
 親しくもない他人に断りもなく触れられれば当然気分を害するし、それが異
性となると手厳しく叱責もする。
 とかげに手を握られたときも、やはり零姫は嫌悪に眉を寄せた。その馴れ馴
れしい振る舞いに、仕置きのひとつでもしてやろうかとすら考えた。

 ―――しかし、彼の指先の感触が、彼の肌から伝わる体温が、イーリンのも
のとまったく同じであることに気付いてしまい、零姫は何も言えなくなった。
 お仕置きどころか、手を払うことすらできなかった。

 ……この男は、卑怯じゃ。

 とかげはイーリンの指で零姫に触れ、イーリンの声で呼びかける。イーリン
のかんばせを向けて、イーリンの瞳で胸のうちを射貫く。
 抗えるわけがない。
 いまの零姫のもっとも弱い部分を、とかげは的確に突いてきた。
 彼はイーリンとはまったく別物で、もうイーリンはこの躰にいないというこ
とを、零姫は知っている。しかし、頭では理解していても、胸が納得しない。
とかげの表情に、イーリンの名残を求めてしまう。

 とかげとイーリン。
 変わったのは、右眼だけだった黄金の魔眼が、とかげが顕現してからは左眼
も開いたことか。……それと、頬の刺青が胸まで降りていったこと。
 この二つの変異に、零姫はだいぶ救われていた。
 顔面の刺青が無くなったお陰で、同じ顔と言えども印象はかなり異なる。
 両眼の魔眼も然りだ。片眼だけが瞳孔の細い黄金瞳なのと、両眼がそれなの
とでは表情の作りがやはり違う。
 とかげのかんばせからイーリンを探そうとして、逆に異なる点を見つけてし
まった零姫は、改めて「彼女はもういない」と自分に言い聞かせた。

 とかげの言葉を吟味するかのように、黙り込む。
 彼には感謝しなければならない。彼が一方的にまくし立ててくれたお陰で、
零姫は少しだけ冷静になることができた。とかげにはとかげの事情があるとい
うことを、落ち着いて考えることができた。

 ……不幸なのは、わらわだけではない。

 とかげだってそうだ。否、とかげのほうがはるかに辛いかもしれない。
 零姫は覚醒するその時までリリーの最深層で睡っていたけれど、とかげは自
らの意識を持ったまま、イーリンの躰に封印されていたのだ。
 彼はイーリンのクーロンでの生涯をずっと見守ってきた。見守っていながら
にして、なにもしてあげることができなかった。
 それは拷問に勝る苦痛だったに違いない。

 とかげのことをただの悪霊としか見なしていなかった零姫は、自分の了見の
狭さを素直に認めて、反省した。

133 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/24(月) 20:40:47


「……おまえの提案通り、一緒に行ってやらぬでもない」

 反省したのに偉そうな物言いが治らないのは、これしか零姫は他人との接し
方を知らないからだ。本音の部分では、いたく心を打たれていた。
 とかげはイーリンの裡にいた。彼は彼女の心の底までくまなく見渡していた
はずだ。自身が望む望まないに関わらず、強制的にイーリンのすべてを覗き見
させられていたはずだ。
 ―――そんなとかげだからこそ、イーリンの願いを、彼女がほんとうに望ん
でいたことを代弁できる。

 一緒に、外≠ヨ。

「よいの、だな」

 唇を震わせながら言う。

「わらわでも、よいのだな」

 それはとかげへの言葉というよりも、いまはいなくなってしまったイーリン
に手向ける最後の確認だった。

「リリーではなく、零姫であるわらわでも、おまえは誘ってくれるのじゃな。
一緒に行ってくれるのじゃな」

 イーリンは、どうして死んだ。なぜ死ななければならなかった。
 ―――それはリリーの夢を叶えるためだ。零姫を外≠フ世界へと連れ出す
ためだ。そのために愚かで一途な少女はすべてを捨てた。自分の命すらも平気
で投げ出した。
 これは、呪いに等しい。あまりに重い愛情を、零姫は背負わされてしまった。
 
 いまここであの女≠ヨの憎しみを破裂させ、命を賭して仇討ちに挑み、そ
して玉砕すれば、この呪いは解けるかもしれない。
 けれど、それではイーリンの死はどうなる。彼女の死が、まったくの無意味
になってしまうではないか。
 とかげは、そこまで考えていたのだ。

「……よかろう」

 イーリンは死に、リリーは消えてしまった。出会った二人はいないけれど、
躰はここに残っている。ならばまだ、零姫にもとかげにもできることがあるは
ずだ。死に逃避する前に、生きてやるべきことがあるはずだ。

「おまえがパートナーというのは大いに不服じゃが、互いに目的は一致してお
る。わらわはイーリンのため。おまえもイーリンのため」

 零姫はリリーとは違い、外≠知っている。無限の転生で、多くのリージ
ョンを巡った。例えクーロンが出ようとも、幸せは約束はされておらず、同じ
ように困難が待ち受けていることを、零姫は知り抜いていた。
 だが、それでも―――零姫はもう、ここには一秒たりともいたくはなかった。
 一秒でも疾くイーリンと一緒に、ここではないどこかへと行きたかった。

「クーロンなどクソ喰らえじゃ」

 イーリンの口ぶりを真似てから、零姫は笑った。微笑ではなく、イーリンの
ように快活に、笑った。

134 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/24(月) 21:54:16


「―――そうか。やはり、行ってしまうんだね」

 背後からかかった声に、零姫ははっと表情を驚かせて、振り向いた。

「ゾズマ……」

 胸に幻魔を突き立てた赤髪の魔人が、脚を引きずりながらとかげと零姫の近
くまで来ていた。本棚に肩を預けると、苦しそうに息を吐く。
「無茶をするでない」と忠告しかけるが、喉まで出かかった言葉を零姫はその
まま呑み込んだ。ゾズマは別に無茶をしているわけではない。この元筆頭騎士
は、ただそうしたいからしているだけ。気づかいが意味を為さない男なのだ。

「僕としては、火焔天に留まって欲しいところだけど……。なにせ、ここが一
番安全だから。けど、強制はしない。君がしたいようにすればいい」

 うむ、と零姫は頷いた。ゾズマは一度たりとも、零姫に何かを強いたことな
どなかった。リリーを閉じ込めた彼だけれど、零姫が目覚めたら、即座に〈図
書館〉の鍵も開いた。―――彼はただ、零姫が覚醒するまで、彼女の躰を守っ
ていただけなのだ。不器用というより、純粋すぎる男だった。
 あまりに純粋であるが故に、人間味を欠片も持ち合わせていない。
 それがゾズマという妖魔だ。

「わらわは行く。ゾズマ、今日まで迷惑をかけたな」

「……次に転生するときは、もうちょっとお淑やかな子を頼むよ。あの子はち
ょっと、元気がありすぎて僕の手には負えなかったから」

 ゾズマの手さえ焼かせたのだ。あの白百合の娘は本物の大物だった。

「おぬしはどうするのじゃ」

「僕は―――残るよ。この躰で火焔天の外へ行くのは賢くないからね。とても
じゃないけど、あの子からは逃れられない。ならば、ここで息を潜めるさ」

 それが一番妥当な選択だということは、零姫も分かっている。
〈針の城〉の第零層火焔天≠ヘ、ゾズマの最後の城。他のすべての層が陥落
しようとも、ここは〈紅の魔人〉の結界として機能し続ける。どうせあの女
と戦わなければならないのなら、自分のフィールドでやるべきだ。

 しかし、零姫の目的は外≠ヨと行くことだから―――

「ここで、お別れじゃな」

 ああ、とゾズマは頷いた。

「僕は心から願うよ。君が今度こそ寿命を全うしてくれることを」

 無限の転生を繰り返す零姫だったが、あの女≠ノ執着される以前から、ま
だオルロワージュが妖魔の君だった時代から、その生涯は短命のまま終わって
いた。どんなに長く生きても二十代半ばで果ててしまう。平均すれば寿命は十
代の前半で、年齢が二桁に達する前に死ぬことも珍しくなかった。

 そんな儚い生の連続に苦しむ零姫は、だから「せめて一度ぐらいは人間とし
て人生を全うしたい」と切に望んだ。零姫も妖魔もファシナトゥールも関係の
ない世界で、穏やかな営みに幸せを感じたいと。
 ゾズマは、その想いを汲んでくれたのだ。

135 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/24(月) 21:54:27


「今回限りの特別サービスだよ。次はない。僕はもう懲りたからね」

 幻魔からの侵食で発狂しかねないほどの痛みを覚えているはずなのに、顔に
汗を浮かべつつも、ゾズマは悪戯っぽく微笑んで、ウインクした。
 ふふ、と零姫もつられて笑う。しかし、次のゾズマの言葉を聞いてすぐに表
情に強張らせた。

「クーロンの外を目指す君たちに告げるのは、心苦しいのだけれど」

 ゾズマにしては珍しく、若干の躊躇いを見せつつ口にする。

「〈針の城〉は、この火焔天を除いて十層まですべて墜ちている。〈針の城〉
はいまや敵の城で、僕たちは完全に包囲されていて、君たちは敵陣の真っ直中
を通り抜けなければならない。とても愉快な状況だね」

「なんと……」

 結界が破られた瞬間から侵攻は始まるだろうと覚悟していたが、まさかもの
の数分で九割方が制圧されてしまうとは。あの女≠ヘ自分の軍を使えないは
ずだが、まさか単身でそこまでやってのけたのか。

「こんな事態を招いてしまった侘びというわけではないけれど、幻魔は僕が引
き受けよう。この魔剣が無いだけでも、あの子の力はだいぶ削げるからね」

「しかし、それではおぬしが―――」

「勘違いしちゃ駄目だよ、零姫様。僕は火蜥蜴の子みたいに、自分の命を燃や
し尽くしてまで……なんて情熱はない。あくまで死なない程度に粘るだけさ」

 それを聞いて安心した。イーリンに続いてゾズマまで自分のせいで死なれて
は、業が深すぎて窒息してしまう。

「ついでに、これも」

 ゾズマは赤鞘に収めた自分の愛刀を、零姫に渡そうとしたが、少し考えてか
らとかげに押しつけた。

「銘は嘯風弄月≠ニいう。月下美人と並び称される名刀だ。君にあげるよ。
これで、零姫様を守ってあげてくれ。クーロンを無事に出られたら、好きにし
て構わない。売れば一財産になるよ」

 イーリンはゾズマを怨敵と見なしていた。ゾズマも、イーリンを味方とは決
して思っていなかった。なのに、とかげに愛刀を譲ったのは、ゾズマはゾズマ
なりに、イーリンとリリーについて思うことがあったからだろう。
 なにせ、彼はこの数百年――オルロワージュとの決戦さえ含んでも――ここ
までの重傷を負わされたことは一度として無かった。たかが人間の小娘に、上
級妖魔の中でもトップクラスの力を持つ〈紅の魔人〉が敗れたのだ。
 ゾズマの性格なら、愉快に思わずにはいられないのだろう。

「この十二年―――鬱陶しいことも多かったけれど、その分だけ、退屈を忘れ
られた。君たちには感謝するよ」

 だから、いってらっしゃい―――と。
 ゾズマは火焔天をホームに見立てて、零姫ととかげを送り出した。

136 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/24(月) 23:50:20
>>

「くく……くははははははっ!」

 思わず声出して笑う。より正確に言えば笑うしかない。
 
 ダージョン……いや、ゾズマっつったか。野郎の言うことにはこの<針の城>が現状ここ中心部を除いて
既に敵地。クーロンから、どころかこの真っ赤に染まりきった状況からの脱出ゲーム開始の合図と来た
もんだ。

「サービス精神旺盛すぎてますます借りを返してやりたくなったぜあのクソ女。どっかのテレビゲームよ
ろしく俺に千人斬り無双でもしろってのかよ?」

 ……出来るかんなもん。こちとら別に戦闘のプロでもなんでもねえぞ。
 まあ、しかしそれはそれとしてだ。
 
「まあくれるってんならありがたく貰っとくが……いいのかよ? 俺にはてめえの無事を祈る義理はねえぜ
ダージョン様よ? 俺の義理はイーリンに対してのみだからな。……ま、その為にも姫さんはきっちり守
ってやるけどな」
 
 千人斬りしようがしまいが、確かに武器があるならありがたい。
 ――実際受けとった「嘯風弄月」とやらは、確かにその名に負けぬ名刀だった。それでいて俺としては
具合の良いことに霊刀の類でもない。銘から言っても、こいつは何かに染まりきることのない刀ということか。
案外に、俺の手に馴染むかも知れないな。
 鞘を挿しておけるようなもんはないが、まあそこは仕方ねえか。

「良し、と。……さて、姫さん」

 改めて、向き直る。
 反撃の狼煙って奴のために。
 
 
「結局の所、こいつは代理闘争だ。あんたの言うとおり、俺らはイーリンのためにここを脱出する。
だからこそ……死ねないぜ? 玉砕じゃねえ、絶対に生き延びてやる」

 まったく、こんなことは初めてだ。
 こんな身になって、どうせ死ねないと諦めることや、俺だけが生き残って後悔することはあっても……
絶対に生き延びてみせる、だなんて状況に放り込まれるなどとは。
 
 ――俺の本当の望みは「死」だ。無為な生など、もう重ねたくない。
 それなのに。
 それなのに……この気分は悪くない。明確な敵がいるからなのか、それとも「生き延びてやる」という
思いのためなのか。

 まあ、なんでもいい。とにかくやってやる。
 
「クソ食らえついでに、この最悪の状況とやらもクソ食らえと行くぜ、姫さん。どこまでも突っ走って、
目指すは馬鹿どものいない場所へ、だ!」

137 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/26(水) 20:58:19
よく考えたら俺別に「イーリンに義理がある」訳じゃねえよな。
んなわけで↓このように訂正だ。

「まあくれるってんならありがたく貰っとくが……いいのかよ? 俺にはてめえの無事を祈る義理はねえぜ
ダージョン様よ? 俺はただ俺の勝手で姫さんと逃げようってだけだからな。……ま、その為にも姫さんは
きっちり守ってやるが」

138 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/29(土) 22:55:58


 とかげの威勢の良さは、悲観的思考に陥りがちな零姫の気分をいくらか和ら
げてくれた。彼は彼なりに気を使って慰めようとしてくれているのだと解釈し
て、少しは認めてやってもいいかもしれぬな、などと考えたりする。
 ―――が、しかし。
 現実的な問題として、いま二人が置かれている状況はかなり厳しい。とかげ
が想像しているよりもはるかにだ。最悪を通り越して、絶望と断言してもいい
かもしれない。だから零姫も、一時は玉砕を覚悟したのだ。

 ……あの女≠ヘ本気じゃ。

 十年越しの計画が大成するのだ。とかげと零姫がクーロン脱出を試みる可能
性も当然考慮しているだろう。あの女≠ヘいったいどんな綿密な計画のもと、
最後の詰めとしてとかげを排除し、零姫を捕らえるのか。
 それが、見えてこない。

 クーロンは、治安こそ悪いが外交では非常に強い力を持っている。共同租界
には自国民を守るために、それぞれのリージョンが軍隊を駐留させているし、
IRPOの治安維持軍もターミナル港警備を名目に一個師団が常駐している。
 いくらあの女≠ナも、軍を率いて電撃的に攻め込んで一晩二晩で制圧する
なんて芸当は不可能だ。かといって戦闘が長引けば、トリニティやシュライク、
IRPOをも巻き込んで恐ろしい規模の戦争に発展してしまう。もう百年近くムス
ペルニブル制圧に忙殺されているあの女≠ノ、そんな余裕はない。
 動かせるとしても精々一部隊程度。可能性としてもっとも濃厚なのは、あ
の女≠ェ愚かでかつ無謀にも単身で乗り込んでいること。
 しかし、だとしたら。

 ……説明がつかぬ。

 ゾズマは確かに言った。〈針の城〉は火焔天を残して陥落した、と。
 それも結界が破れた瞬間にだ。いくらあの女≠ニいえど、物量に頼らずど
うしてそんな真似ができる。軍を動かさずに、どうやってあの女≠ヘ〈針の
城〉を制圧したのか。いま、この火焔天の外の様子はどうなっているのか。
〈針の城〉はいったいどうなってしまったのか。
 零姫は考える。考える……が、分からない。

 かつてはすべての霊脈を掌握し、自身の身体の一部として完璧に〈針の城〉
を理解していた零姫だったが、とかげの顕現により霊場は乱れに乱れ、いま
は縮地はおろか千里眼すら使用することは叶わない。
 地の利は完全に失せていた。
 ゾズマの言葉通り、火焔天で迎え撃つのがもっとも賢い選択だ。
 ……しかし、それでは外≠ヨは至れない。

「案じても道は開けぬ、か」

 零姫は結論する。ここはとかげという不確定因子に期待をよせるしかない。
あらゆる魔術的作用を否定するとかげの特異能力ならば、あの女≠フ算段を
狂わすことができるかもしれない。
 零姫ととかげの目的は、あの女≠斃すことではなく、生きたままクーロ
ンから脱出することなのだ。その程度の奇蹟ぐらい、期待してもいいはずだ。

 ―――イーリン、待っておれ。

「わらわが見せてやる。色彩に満ちた外≠フ景色を」

 無限転生の姫は、閉じられた世界の扉を開いた。

139 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/29(土) 22:56:14


 ―――開いて、絶句した。

「こ、これは何事じゃ」

 第零層火焔天≠ニはリリーを監禁すること――ゾズマから言わせれば零姫
を護ること――を目的とした建造物だ。多層都市〈針の城〉の中心にあり、高
層建築物の密集地帯である〈針の城〉において唯一の一階部分で完結した平屋
の低層建築物であった。外観は薄べったい箱状で、まるで黒檀の巨大な棺桶の
ようだった。面積の八割方を零姫の私室である〈図書館〉が閉めているため、
屋外に出るのは苦労しない。零姫もとかげと一緒に〈図書館〉を出てから、ほ
んの数分でゲートに辿り着いてしまった。

 ―――問題はそこからだ。

 零姫は火焔天と第一層月天(つきてん)≠フ境界の風景を直に見たことは
ない。……が、リリーのときに幾度となく霊視はした。彼女の視界≠ヘ〈針
の城〉の全層に及んでいるのだ。零姫が知らない〈針の城〉の風景などない。
 しかし、ゲートの向こう側に広がるそれは、驚愕で思考が真っ白になってし
まうほど、あまりに―――あまりに見知らぬ景色に成り果てていた。
 まるで異界に迷い込んでしまったかのようだ。誤ってワープゲートでもくぐ
ってしまったのではないか、とすら零姫は一瞬勘ぐった。
 それほどまでに、零姫の知る〈針の城〉とは異なる風景。

「―――いや」

 知っている。
 わらわは知っているぞ。
 確かにこの景色を見ているぞ。

 人工的な明かりの一切が見当たらなず、周囲は闇が支配している。目視でき
てしまうほど濃厚な瘴気が立ちこめ、まるで暗黒の霧のようだ。
 目を凝らして街並みを観察することで、ようやくここが〈針の城〉であると
知れるが、その変容の具合は絶望するほどに激しい。
 夜空へと突き立つあらゆるビルは荒廃し、窓という窓からは鏃のように尖っ
た枯れ枝が突き出している。攻撃的な荊がどこからともなく密生して、舗装さ
れた路地を引き裂き、ビルの壁を食い破っていた。
 印象で語るならば、荊と枯れ枝の津波に〈針の城〉が呑み込まれてしまった
かのようだ。枯れ枝にも荊にも生気というものがまるで感じられず、闇が凝固
して生成されたように見える。空気は澱みきって、夜空すら満足に窺えない。
 ―――そんな隠されたクーロンの空に、異常なまでにはっきりと浮かび上が
る血色の満月。

 こんなのは断じて〈針の城〉の景色ではない。
 しかし、零姫は知っている。
 この景色を知っている。
 クーロンよりも遥かに馴染み深いこの景色は―――

「針の城……」

 妖魔としての零姫の故郷。
 かつて彼女が逃げ出した場所と瓜二つの光景が、そこにはあった。

140 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/29(土) 22:57:07


 ―――そして、紅の満月を背負った女がひとり。

 零姫の視界の先で、二人を待ち受けていた。悠々自適に佇み、まるで、来訪
者は零姫ととかげのほうで、自分こそがこの城の主だと言いたげな態度で。

 女は特異な存在だった。チーパオ・ドレスにお団子頭というクーロンの伝統
衣装は今時演劇でも滅多にお目にかかれないほど時代錯誤なのだが、クーロン
ストリートの茶屋で給仕でもしていそうな町娘然として愛敬のある顔立ちのせ
いで、不思議と違和感はない。……が、その素朴な印象が、この異様な光景と
はまったく相容れず、余計に倒錯感を掻き立てている。

 クーロン女は自身に満ちた不遜な笑みを絶やさず、これまた伝統的な訛りで
零姫に声をかける。

「ニーハオ! ファシナトゥールにようこそ、アル」

 それは、かつてイーリンにシャオジエと呼ばれて、慕われていた女だった。

141 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/29(土) 23:18:57
加筆




 ―――そして、紅の満月を背負った娘がひとり。

 零姫の視界の先で、二人を待ち受けていた。
 悠々自適に佇み、まるで、来訪者は零姫ととかげのほうで、自分こそがこの
城の主だと言いたげな態度で。

 娘は特異な存在だった。
 チーパオ・ドレスにお団子頭というクーロンの伝統衣装は今時演劇でも滅多
にお目にかかれないほど時代錯誤なのだが、クーロンストリートの茶屋で給仕
でもしていそうな町娘然とした愛敬のある顔立ちのせいで、不思議と違和感は
ない。
 ……が、その素朴な印象が、この異様な光景とはまったく相容れず、余計に
倒錯感を掻き立てている。

「誰じゃ、あやつは」

 零姫は眉をよせた。自分たちを待ち受ける者がいるであろうことは想像して
いた。しかし、それは彼女ではない。てっきりあの女≠ェ待ち構えているも
のだとばかり思っていたのに。
 こんな娘、零姫は知らない。リリーとして過ごした時間まで遡っても、見た
ことも視たこともなかった。

 零姫が訝しむ一方で、クーロン娘は自信に満ちた不遜な笑みを絶やさず、こ
れまた伝統的な訛りで快活に声をあげる。

「ニーハオ、零姫様! ファシナトゥールにようこそ、アル」

 それは、かつてイーリンにシャオジエと呼ばれて、慕われていた女だった。

142 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/30(日) 21:23:26
>>

 ――は、やれやれ、なんとまあ。
 
 ほぼ全域が制圧済みだとは聞いてたが……蓋を開けてみればなるほど、こういう訳か。
 実際に姫さんが驚愕しているあたり、効果はあったんだろう。
 ついでに俺にとっても見覚えが無くもないが……まあそんなに動揺はしてねえな、我ながら。
 クソ忌々しい光景なのは確かだが、俺としてはそれ以上に……
 
「てめえは本当に小細工好きだな。なあ、シャオジエ?」

 目の前にこいつが居ることのほうが、よっぽど重大だ。
 ……クソ、初っぱなからこれかよ、ええ?

「初めまして、じゃねえよな。お久しぶりですってのも少し違うが。イーリンがお世話になって
ました、ってのが妥当なとこか? しっかし第一ステージでいきなり顔合わせとは俺としても
予想外だったぜ。姫さんはあんたのことを知るはずがねえんだから、俺への当てつけか?」

 その通り、実際姫さんの表情を見るに、知る由もなかった相手のはずだ。
 だが俺は知っている。……嫌になるほど知っている。
 だからこそ俺の今の台詞は不正解だともわかる。ああ、「俺への当てつけ」なんかじゃね
えだろうさ、こいつは……

「なあ、シャオジエ……ええと、てめえの本名なんつったかな。忘れちまったよ。まあ別に
んなもんは重要でもなんでもねえから構わねえだろ? てめえは『そんなもんじゃねえ』んだ
からな。……ったく、マジで小細工好きだよな。んな格好、恥ずかしくねえのかよ?」

 名探偵、皆を集めて「さて」と言い。……二人しか居ねえけど。
 
 実際、全く見た目は違う。ただの変装目的ってだけなら大したもんだ。霊格さえも異なって
見えるってんだから尚更だろう。現に姫さんですら気づいてねえしな。一体全体どんなカラク
リを用いてやがるんだか、俺があやかりたいほどだ。
 だが、ここにこうして現れりゃ当然そいつはぶち壊しだ。だからこそ、小細工好きだと言っ
ているんだが。……こいつ、何のためにここに現れやがった。こんな風にして俺と姫さんの
意表を突いて、その好きに俺らをやっちまおうって腹か?
 は、まさかな。それこそ必要もない。別にこんなとこで待つ必要なんぞあるわきゃねえんだから。
 だったら……まだ、勝機はあるか。
 せいぜい軽口叩いて、こいつの「小細工」に乗っかってやろう。
 

「姫さんに分からなくとも俺にはわかる。状況証拠が揃いすぎてるってやつだ。大体てめえ
自身、暴いて欲しくて俺らの前に現れたんだろ? 違うかよ、なあ……


  妖魔公さん、よ!」

143 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/01(月) 23:54:25


 シャオジエはとかげを見つめ続けた。初めは、くりくりと愛らしく動く大き
な瞳を丸くして。次に、蔑みを孕みつつ眼を細めて。
 感情に富んだ表情が死んでいく。愛敬は失せ、冷徹な殺意が小さな躰から放
射される。シャオジエからものの数秒で「喜」の色彩が抜け落ちた

 ―――やがて彼女は表情を歪ませて、苦痛を表現する。

「……醜い、アル」

 吐き捨てるように紡がれたシャオジエの言葉に追従するように、荊と枯れ枝
に蹂躙された〈針の城〉が奮えた。闇が蠢き、肉声となって夜に谺する。

 
  貴様はもう、なにも喋るな。

 
 ―――確かに、そう言った。〈針の城〉がとかげに語りかけた。ビルとビル
の隙間を走る風の音が女の声を作ったのだ。
 不気味な現象に零姫は「むぅ」と呻く。ここはいったいどこなのか。あのク
ーロン娘はいったい誰なのか。ようやく彼女にも分かりかけてきた。

 地面をびっしりと埋め尽くす荊が、シャオジエの脚に絡まっていく。脛に巻
き付き、太股を昇り、瞬く間にチーパオ・ドレスの姑娘を呑み込んでいくのだ
が―――異様な事態に晒されても、シャオジエの表情はまったく乱れない。
 変わらずとかげを見つめている。

「……なるほど、見えたわ」

 いまや胸まで荊に抱擁されたシャオジエを睨みながら、零姫は言う。

「なぜ、ファシナトゥールを留守にしてまであやつが直々にクーロンに乗り込
んできたのか。わらわを捕らえることのみが目的であるならば、手勢を差し向
ければよいものを……」

 ぎり、と奥歯を噛んでから、零姫は叫んだ。

「おまえは狂っておる!」

 荊が螺旋の渦を巻いて娘の矮躯に幾重も幾重も絡みつく。ついに、シャオジ
エは頭のてっぺんまで、完全に茨に呑み込まれた。

「ああ、そうさ!」

 なんと、荊の塊が声を張り上げた。シャオジエの声ではない。先程の、〈針
の城〉に谺した凜と透き通る女性の声だ。

「認めよう。私は狂っている! しかし、誰が私を狂わせた?! どうして私
は狂わなければいけなかったんだ?! すべて、すべて貴様のせいだろう!」

 零姫、と荊は叫んで―――蕾が開花するかのように、戒めを解いた。

 シャオジエはどこにもいなかった。ほどけた荊のドレスから姿を見せたのは、
恐ろしいほどに端正な顔立ちをした一人の少女だった。

 少女は、少女にあるまじき格好をしていた。
 胸の部分にたっぷりとフリルをあしらったブラウスに天鵞絨地のジュストコ
ールを羽織り、太股まで露わになったタイトなショートパンツに、オーバーニ
ーのレースソックスを組み合わせている。
 少年のような服装だった。
 少女は男装をしていた。
 しかし、それが奇矯にはまったく見えず、短く刈った浅葱色の髪との相乗効
果で、異性同性を問わずに感服してしまうほど美しく仕上がっていた。

144 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/01(月) 23:54:48


 少女は、上級妖魔の証である血色の瞳で零姫を睨む。零姫もまた、少女を睨
み返してから呻いた。

「アセルス!」

 妖魔公。
 男装の麗人。
 妖魔最強の剣客。
 闇を統べる者。
 魔法剣士。
 妖魔の君。

 通り名は多くあれど、彼女の真名はたったひとつしかない。

 妖魔アセルス。

 ―――すべての妖魔の頂点に立つ者が、ここにいる。

 ……しかし、零姫はまったく物怖じせずに怒鳴りつけた。

「アセルス。おぬし、自分の寵姫を喰いおったな!」

 ふん、とつまらなそうにアセルスは鼻を鳴らす。

「私が目指す永遠の、一つの完成系さ」
 
 だから、なのだ。
 だから、アセルスはゾズマにも零姫にも気付かれることなくクーロンに滞在
できた。魔女シャオジエ≠ニいう偽りの身分で、好き勝手に振る舞えた。
 ただの変装ではなく、魔術迷彩ですらない。
 彼女は完全な他人に成り代わっていたのだ。霊格はおろか魂でさえも、シャ
オジエとアセルスでは異なっていた。

 シャオジエの、容姿と声と愛らしさは―――元々は、蓮華姫≠ニいうアセ
ルスの寵姫のものだった。蓮華姫とアセルスは互いに好き合う仲であったが、
ファシナトゥール入りを果たす前に、不治の病に蝕まれて死亡した。
 アセルスには、そういった「愛し合っていたのに、結ばれずに失ってしまっ
た」お姫様が数多く存在する。
 ―――この妖魔の君は、蓮華姫に留まらずそのような永遠になってしまっ
た£桾Pたちの亡骸を取り込むことで、魂の婚姻を目指したのだ。

 もはやアセルスは、一匹の妖魔ではなかった。
 彼女は城であり軍であり世界であった。
 クーロンに顕現したこのファシナトゥールは、〈針の城〉を呑み込んだこの
針の城は、その一つ一つがアセルスの細胞であり内臓である。……つまり、こ
こは妖魔の君の体内と呼ぶに相応しい、閉じられた世界であった。

「アセルス、おぬしというやつは……大馬鹿じゃ」
 
 数十年会わないうちに変わり果ててしまったかつての戦友を前にして、零姫
は怒り以上の憐れみを抱いてしまった。

 対するアセルスの返答は―――

「この私の城に、イーリンを招き入れる」

 だから、イーリンの躰を返してもらおうか。
 そう、とかげに命令した。
 その口調は、紛うことなく命令だった。

145 名前:あせるす:2008/12/04(木) 13:22:14


 ―――イーリン。
 その名を口にするだけで胸が強く痛む。心が折れそうになってしまう。

 アセルスは流浪の魔女シャオジエ≠ニして、イーリンがまだ言葉すら満足
に操れない頃から面倒を見てきた。今日までの十年間、成長を見守り続けた。
根っこの町≠ゥら幼いイーリンをさらった当時は、無作為に選んだ贄程度に
しか思っていなかったが、イーリンが美しい少女へと育ってゆくにつれ、アセ
ルスの心のうちには火蜥蜴の彼女の存在が強く居座るようになった。

診察≠ニ称してイーリンの精神拘束を調整するとき、睡っていることをいい
ことに唇を奪った回数は――― 一度や二度では済まない。

 アセルスは火蜥蜴イーリンを愛していた。彼女が死んだ事実をもっとも悼ん
でいるのは他ならぬ自分自身だと、根拠もなく確信していた。
 寵姫にしてあげてもよかったのに、とすら考えている。
 彼女と一緒に永遠を生きたかった―――そう強く思えるからこそ、アセルス
は零姫を許せない。イーリンを殺した彼女が憎くてしかたがない。

 この魔女さえいなければ、私の火蜥蜴は死なずに済んだのに。

 確かにアセルスは、数十年前に封印したとかげを人造霊に偽装させてイーリ
ンに憑依させた。彼女が死ねば、自動的にとかげが顕現するように仕組んだ。
 しかし、それは保険に過ぎず、アセルスは「イーリンがリリーを結界の外へ
連れ出す」可能性に賭けていた。零姫を自分の手の届く範囲にまでおびき寄せ
ることができるのなら、とかげに利用価値はないのだから。

 結果は―――アセルスは期待と愛情を裏切られ、イーリンは〈針の城〉の中
心で事切れた。とかげは顕現し、結界は消滅し、保険は十全の役割を果たした。
「零姫を捕らえる」という十年越しの計画は、いままさに成就せんとしている。
が、そのために犠牲となったものは―――あまりに大きい。

「イーリン……」

 失いたく、なかった。

「イーリン―――」

 彼女の苦悩と葛藤を、もっと見ていたかった。

「イーリン!」

 一緒に、永遠になりたかった。


 ―――しかしもう、クーロンの火蜥蜴はどこにもいない。

146 名前:あせるす:2008/12/04(木) 13:22:33


「貴様のせいだ!」

 アセルスの美貌が憎悪に染まる。
 なぜ、零姫はイーリンが差し出した外≠ヨと続く手を取らなかったのか。
彼女が素直にイーリンの願いに従っていれば、イーリンは幻魔を使う必要はな
かったのに。零姫の優柔不断な態度がイーリンを殺した―――そう確信してい
るアセルスは、だからこそ余計に零姫を憎む。先代妖魔の君の血の縛りから唯
一抜け出した寵姫という事実だけでも憎悪に値するというのに。

 妖魔公アセルスの目的は三つある。

 ひとつめは、零姫を捕らえ、屈服させること。針の城の地下迷宮に突き落と
して、死ぬことも生きることも叶わぬ身にさせること。

 ふたつめは、妖魔の君という立場を省みての悲願。このままクーロンをファ
シナトゥール化させて、世界の中心であるターミナル港を占拠すること。
 リージョン・シップの航路を押さえてしまえば、人間社会への侵略は格段に
楽になり、より堅固な支配体制を確立できる。

 みっつめは―――
 いまのアセルスにとって、これこそが最大の目的かもしれない。
 いままで早世していった幾人もの寵姫をそうしてきたように、イーリンの亡
骸を自身の闇に受け入れる。自分と他者を分ける『肉体』という境界線を排除
することで、二人はようやく永遠へと至れるのだ。

 イーリンは、私だけのものだ。
 誰にも渡さない。
 まして、零姫などには絶対に。

「火蜥蜴の彼女の目指した外≠ヘここにある!」

 シリウスはぬるい。ゾズマもぬるい。彼等はファシナトゥールや針の城を騙
るだけで、その本質をまったく理解していなかった。
 この私が見せつけてやる。ファシナトゥールとはなんなのか。針の城とはな
んなのか。―――自由とはどこにあるのか、を。

 アセルスの血色の瞳が禍々しい輝きを帯びる。彼女が口元を歪ませると同時
に、荊が、城が、世界が地響きをあげて震え始めた。

 第二次妖魔租界戦戦争の始まりである。

147 名前:あせるす:2008/12/04(木) 13:23:11
逃げるなり攻撃するなり、自由にアクションしてくれて構わない

148 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/05(金) 22:14:46
>>

 ……ち。
 「俺もあやかりたい」なんて前言は撤回だ。寵姫を喰った、だと?
 吐き気を催す邪悪、ってのはこういう事を言うのかも知れねえな……はっきりいって、おぞましい。
永遠がどうとか知ったこっちゃねえ、こいつは確かに狂ってやがる。

「言ってろ馬鹿。てめえなんかにイーリンを渡してたまるかよ」

 吐き捨てる。狂王に諭してやる言葉なんぞねえ。
 姫さんは憐れんでるようだが……俺はむしろ呆れる、といった心境だぜ。

「……てめえでイーリンに俺を混ぜやがって、てめえが勝手にそこに現れといて、それでそのツラか?
本当に吐き気がしそうだな。弁えろよ、そもそも俺もてめえも、ただの脇役だろうがよ」

 そうとも、こいつはてめえで都合の良いように話をすり替えているだけだ。
 このクソッタレな物語の主役はイーリン。
 ああ確かにイーリンにとっちゃシャオジエは重要な人物だったろうさ。
 
 『シャオジエは』、な!

「今更出しゃばるんじゃねえよ。本当に分かってねえのか?
イーリンが慕っていたのは『シャオジエ』だ。てめえじゃねえんだよ悪の妖魔公。
俺がどんなに苦悩しようが、てめえがどんなにイーリンを想っていようが……俺らは
『イーリンの知らない』ただの脇役だ。それを弁えるどころか、てめえは……」

 鞘を構える。姫さんを庇うように前に立つ。
 ……王子様ごっこなぞ柄じゃねえな。そもそも逃げなきゃいけねえんだし。
 だから足は引き気味だ。姫さんにもそれはわかるだろう。
 だが……挑発のために言葉を繰ってるわけでもないのも、きっと読まれてるんだろうな。
 ああ、正直腹が立っている。だから言わずにはいられねえよ。
 あとはせいぜい……挑発として機能してくれることを祈って、
 
「……イーリンの慕っていたシャオジエまでもを殺しやがって。
 ああそうだぜ、てめえはたった今イーリンの目の前でシャオジエを、リュイ・チャンウェイを
 殺したんだよ。そんな奴がなに言ってんだ馬鹿。付き合ってられねえな。
 勝手に言ってろ、俺らは行くぜ。イーリンを待たせられねえんでな」
 
 イーリンの弔いの合図を、言い切った。
 ……さて、そんじゃ逃げるとしますか。

149 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/06(土) 00:04:05


 アセルスは、とかげを見ながらにしてとかげを見ていない。彼女が見つめる
のは、とかげの躰―――つまりはイーリンのかんばせであり、肢体だった。
 どれだけとかげが口舌の刃で鋭くアセルスを斬りつけようと、彼を用済みの
寄生虫としか認識していない彼女はまったく堪えない。
 アセルスには聞こえないのだ。愛するもの以外の、如何なる声も。

 しかし、だからといってとかげの啖呵が無駄に終わったわけでは決してない。
 アセルスには聞こえずとも、彼の言葉をはっきりと聞き届け、胸に刻み込ん
だ者が、ここにはいる。

「―――感謝するぞ」

 とかげが盾のように構えた鞘を押しのけて、零姫は一歩前に進んだ。その眼
には毅然とした意思の輝きが宿っている。

「とかげよ。おまえはわらわよりも――リリーよりも――イーリンと一緒にい
た時間が長い。あの娘がクーロンに流れてから今日までずっと見守り続けたお
まえは、だからこそ誰よりもイーリンという娘を理解しておる」

 そんなおまえが紡いだ言葉だからこそ、強い説得力を秘めておるのじゃ。
 ……そう語る零姫は、シャオジエ≠ニ呼ばれる女の存在すら知らない。
 イーリンとシャオジエがどんな関係で、イーリンはシャオジエにどんな感情
を抱いていたのか。まったく察することができない。
 だから、とかげの言葉が重く聞こえるのだ。

「わらわも決断した。はっきりと答えを見出した」

 零姫はアセルスをきっと睨み据えると、声を張り上げた。

「大馬鹿者のアセルス! おまえにだけは、絶対にイーリンは渡さぬ!」

 とかげの声は耳に入らなくても、さすがに零姫の言葉は意識せざるを得なか
ったのだろう。アセルスは表情に不快の相を走らせた。しかし、それが実力行
使へと至るよりも疾く―――先手必勝。零姫が攻撃に出た。

 炎の竜巻が吹き荒れ、闇を払う。

 零姫はわずか一瞬の挙動で鳳凰と燭陰の幻獣を編んでみせ、アセルスにけし
かけさせた。―――幻術による並行召喚。それもただの幻獣ではなく、四竜と
四霊という神獣クラスの二匹だ。超常的な魔力量と、それを使いこなす明智を
持つ零姫だから可能とする奇蹟の具現。
 炎より生まれ、炎を支配する竜と鳥が、アセルスと彼女を護る荊を瞬く間に
炎で焼き尽くした。一瞬で灰となる妖魔の君。あまりに呆気ない。

「まだじゃ!」

 零姫は当然、これで終わりなどとは思っていない。

「この城≠ノおる限り、あやつは不死身に限りなく近い。ここは奴の世界。
わらわは奴の心象風景を見ているに等しいのじゃ」

 では、どうすればいいのか。
 ――― 一歩でも遠くまで逃げるのじゃ、と零姫。
 とかげの手を引いて、駆け出した。
 ……イーリンがリリーを、そうするはずであったように、だ。

150 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 20:12:32


 アセルスを荊ごと焼き払い、第一層月天≠突破した零姫ととかげが次に
足を踏み入れるのは水星天=\――〈針の城〉の第三層にしてクーロン・マ
フィア直属の凶手集団黒死病≠フ総本山だ。

 三階建ての、ビルと呼ぶより家屋と呼んだほうがしっくりと来そうな建築物
が整然と建ち並ぶ、貧民街には似付かわしくない街並み。歪なものなど何ひと
つなく、どの建物も同じ表情をしている。暗殺集団として、凶手の個性を極限
まで殺す黒死病≠フ在り方を忠実に再現した光景。水星天≠ヘ〈針の城〉
の秩序の象徴であり、その秩序の執行者こそが黒死病≠ネのである。

「おかしい」

 零姫は呻くように言った。
 視界に広がる第二層の街並み。それは零姫がリリーとして、幾度となく霊視
し、時には縮地で訪れたこともある光景だった。
〈針の城〉として一切の不自然がない。人気がまったく感じられないことすら
凶手集団の根城ということを鑑みると、違和感を覚えるには値しない。
 ……しかし、だからこそおかしいのだ。
 妖魔アセルスによって、月天≠ヘあそこまで禍々しく闇に汚染されていた
というのに、どうして水星天≠ヘもとの〈針の城〉のまままなのか。
 アセルスによるファシナトゥール化が進んでいるのならば、ここも月天
と同様に変異が始まっていてもおかしくはないのに。
 アセルスの魔力は月天≠ワでしか及んでいなかったのか。第二層以降の階
層はこれから侵されていくのか。
 ……いや、それは考えにくい。
 ゾズマは確かに「〈針の城〉は完全に制圧された」と語った。完全に、と言
い切ったのだ。ならば、まったくの変異なしなど考えられない。

 とかげとともに家屋の平べったい屋根を道にして第三層へと目指しつつ、零
姫の紅の眼はせわしなく周囲を探ってアセルスの気配を探る。
 この静けさが凶兆を予告している、と零姫が確信を胸に抱いたとき―――彼
女が危惧していた変異≠ェ足下から顕現した。
 正確には、いまのいままで気付かなかっただけで、零姫が水星天≠ノ足を
踏み入れた瞬間から、変異≠ヘ始まっていた―――

 ずぼり、と零姫のはいていた草履が、足袋ごと沈む。先を急ぎすぎたあまり、
屋根を踏み抜いてしまったのだ。わらわはそんなに重くないぞ、と視線でとか
げに弁明しつつ、変な疑惑を与えてくれた脆い屋根に無言で抗議する。

「……ん、これは」

 零姫はすぐに気付いた。この家屋の屋根だけ他とは違う。外見はまったく同
じなのに材質が違う。奇妙なまでに柔らかくて弾力性がある。心なしか香ばし
い匂いまでしていた。まるでイーストで発酵させたブリヌイの生地ような……。
 いや、これは。

「ブリヌイそのものじゃ!」

151 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 20:12:46


 お菓子の家だ。この家屋はパンケーキでできている。
 零姫は、連なる他の建物に慌てて視線を向けた。見た目に不自然なところは
ないが、よくよく観察してみるとそれぞれ材質が異なる。明らかにチョコレー
トでできている建物まであった。
 零姫は奇怪な事実に愕然とする。まさか、第二層のすべての建物がお菓子で
きているのか。黒死病≠ェ甘党だなんていう話は、今日まで聞いたことがな
い。ということは、これは―――

 はっと我に返る。今までまったく人の気配というものを感じなかった水星
天=Bしかし、零姫は気付いた。向かいの家の三階の窓から、自分たちを凝視
する人影があることを。この階層に棲まう殺し屋のひとりだ。
 視線は見る間に増えてゆく。向かいの家だけでも数十。他の家屋からも、黒
いインパネスコートにボーラーハットという出で立ちの凶手どもが続々と姿を
現してくる。どれもゾズマの忠実な下僕であるはずだが……。

 凶手はみな揃って生気が失せていた。闇が濃すぎて表情を窺えない。零姫は
瞳に魔力を集中させて、視力を強化しようと試みた。―――その瞬間。

 ぱん、と凶手のひとりが破裂した。服だけを残し、黒い霧となって霧散した。

「なっ……!」

 零姫が戸惑ううちにも、凶手たちは連鎖するように弾けていく。糸が切れた
人形のように、主を失った衣服が地面に崩れ落ちた。
黒死病≠ヘいったいどれほどの規模を持つ組織なのか。構成員は何人いるの
か。零姫はまったく知らないが、恐らく、水星天≠ノ残っていた凶手は全滅
したに違いない。ひとり残らず弾けて、黒い霧となった。

 しかし、零姫が砂糖菓子の魔宮で本当の恐怖を味わうのはこれからだった。

 零姫はすぐに認識を改める。自分が黒い霧だと見なしたもの。その正体を、
強化した視力がはっきりと捉えてしまった。

 それは親指ほどの大きさの、コオロギによく似た昆虫だった。
 漆黒の躰に人を狂わす紋様を刻み、夜に鈍く輝く赤い瞳を持つ魔棲蟲。
 ファシナトゥールでも辺境に棲息しており、針の城住まいだった零姫にはあ
まり馴染みがない蟲だ。―――それが、一瞬にして十万も百万も発生した。
黒死病≠フ凶手を苗床にして、無限に生まれ落ちた。

 零姫は顔を引きつらせて後ずさった。いくら世慣れた姫君といっても、この
光景には生理的嫌悪を掻き立てられる。あまりに悪趣味で、あまりにおぞまし
すぎる。まさかアセルスとの戦いで、こんなものを見せつけられるとは。
 妖魔公の美意識からかけ離れた情景だ。

 一千万の羽音が空気を震わす。鼓膜を破りかねないほどの騒々しさ。魔棲蟲
の大軍は水星天≠構成するお菓子の家に突撃し、貪欲に家々を食い散らか
し始めた。一件につき何千匹という魔棲蟲が殺到し、一分とかからずに家を消
滅させてしまう。
 一匹一匹は非力といえど、あれほどの数が相手ではさばきようがない。魔棲
蟲の食欲の対象が自分たちに向けられる前に―――

「わらわは逃げる!」

 零姫は幻術で道徳天尊の白鹿を召喚すると、跨る―――というよりしがみつ
くようにして騎乗し、颯爽と逃げ去った。

152 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/07(日) 20:59:51
>>

 ……って、おい。
 マジ逃げやがったぞ姫さん!
 てめえ一蓮托生の俺を置いていく気か!
 
 とかなんとかわめいて追っかけても構わねえんだが、とりあえずパス。
 状況的には悪くねえし、露払いを引き受けてやっても良いだろう。
 ……いや違ぇ。逃げる仲間の後ろで”露払い”は確実におかしいな、くそ。
 
 
「は! あの女、俺が『何なのか』を忘れてんじゃねえのか?」

 つかさっきの俺の啖呵も聞いてねえようだったしな、舐められたもんだ。
 ――迫り来る虫、虫、虫。これぞ文字通り雲霞の如く、ってやつだ。御馳走食ってご機嫌です
僕たち、あとはデザートに俺と姫さんを、ってか?
 馬ぁ鹿。餌はどっちだ雑魚共が。身の程を知りやがれ。
 
「何の因果か俺は『とかげ』だ。そしててめえらはどんな姿形してようがただの『虫』だ。
なら――食ってやるのが礼儀ってもんだよなあ?」

 もちろん、口でばくばく食ってやる気はない。さすがにそんなグロは後免被る。
 だが俺の眼には見えている。奴らは虫の形をしたただの魔力体だ。
 そして余計な属性を持っちまったのが運の尽き、ってやつだ。
 
 剣は左手に持ち替え、”とかげの刺青”を右手に移し、掲げる。
 そら――餌の皆さんがやってきた。こいつらは一匹残らず「とかげの餌」だ!
 消えやがれ!
 片っ端から俺に食われちまえよ!
 何千だろうが何万だろうが、俺の力になるだけだ!
 
 
 
 
「――おおい! ”貸し1”だかんな姫さん!」
 
 聞こえてんのかどうか知らねえ……と言いたいとこだが聞こえてねえと俺が困る。
 ともあれ、一匹残らず魔力に還元して「食い尽くした」俺は、刺青を胸元に戻して成果を主張する。
 大声で。
 つかどこまで行ったんだあの姫さん。「イーリン」を置いてってどうすんだ全く。
 
 まあいい、行きますか。

153 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 22:42:23

「ほう、やるのう」

 滅多に他人を褒めることのない零姫が、心の底から感嘆した。あれほどまで
に大量の蟲を、すべてもとの不定形の魔力へ還してしまうとは。
魔≠ニいうカタチを混乱させる彼の能力と、昆虫の天敵である爬虫類の特性
が合わさって初めて可能となる芸当だ。

 白鹿から恐る恐る降り立った零姫は、周囲には虫一匹残っておらず、ただお
菓子の家だけが廃墟の如く食い散らかされていることを確認すると、ふぅ、と
安堵の吐息を漏らした。

「しかし―――」

 解せぬな、と零姫は呟く。
 思い出すだけでも身の毛がよだつ、魔棲蟲の大軍。あれはどう考えてもアセ
ルスの嗜好の産物ではない。ファシナトゥール化が進むこの〈針の城〉が、ア
セルスの心象風景の具現であるならば、彼女が忌み嫌うような概念がカタチと
なるなどあり得ないはずなのに。

 この城≠ヘ思った以上に複雑な構造をしているのかもしれぬのう。

 零姫は、慌てて逃げたために乱れた裾を整えると、蟲の大軍など見もしなか
ったと言いたげな表情で、遠く離れたとかげに話しかける。

「なにをぼさっとしておるのじゃ。敵を全滅させたいまが好機じゃ。さっさと
次の階層へ―――」

 行くぞ、と言いかけて唇を止めた。

 とかげの頭上に浮かぶ、深紅の満月に影がさす。零姫は初め、高層ビルが月
を隠したのかと思った。が、すぐにそんなことはあり得ないと考え直す。
 ここは〈針の城〉の第二層。高層建築物が密集する外周層とは距離が離れて
いる。こんなに間近で目視できるはずがない。
 ……なら、あの影はなんなのか。

 巨人だった。

 先程まで、どこにその巨体を隠していたのか。
 比喩でも誇張でもなく、天を衝く背丈。馬鹿馬鹿しすぎるほどに常識外れの
巨躯。人のかたちをした塔や山と考えたほうが、まだ納得できそうなほどの大
きさに、零姫はただただ呆然と見上げるしかなかった。
 あれほどまでに巨大な生物が存在するものなのか。
 サイクロプスやタイタン、ギガントなどといった所謂巨人≠ニ称される魔
物の類が小人となってしまうほどのオーバーサイズだ。
 この巨人、零姫の深い知識で思い当たるのはでいだらぼっち≠ニいう伝説
上の妖怪だが、あれは神に限りなく近しい存在だ。零姫の幻術ですら召喚は叶
わない。いくらアセルスといえども、顕現させることは不可能なはずだ。
 なら目の前のこれはなんなのか。

 巨人は衣服をまとっておらず、顔ものっぺらぼうのように表情がなく、ただ
眼らしき部分に亀裂が入っているだけだった。躰も起伏に乏しく、ただひとの
カタチをとっているだけのように思える。まるで出来の悪い人形だ。
 ただ大きさだけが狂気の域に達している。巨人が十歩も歩けば、〈針の城〉
の外へと出てしまうのではないだろうか。

 先の蟲の大軍といい、この巨人といい。あまりにも常軌を逸した展開の連続
に、零姫は驚きを通り越して疲れを覚えかけていた。

154 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 22:42:38


 巨人はゆっくりとした動作で手を振りあげた。

 まずい―――。

 零姫は白鹿に飛び乗ると、風の速さでとかげへと接近し、そのまま速度を緩
めず、体当たりするように彼を騎乗へと抱き上げた。
 直後に、巨人は腕を振り下ろす。お菓子の家が潰れるだけに留まらず、その
衝撃は地震となって周囲の家屋まで倒壊させた。
 零姫ととかげが乗る白鹿は軽快な足取りで宙を跳び、被害を免れたものの―
――すぐに巨人は躰を前傾にして、鹿を掴もうと逆の手を繰り出した。

 魔力で編まれたものといえども、幻獣には己の意思がある。逃げ切れないと
覚った白鹿は、零姫ととかげを振り落とすと、踵を還して巨人に突っ込んだ。
 雄々しくも麗しい大角を巨人の掌に突き立てた次の瞬間、自らを構築する魔
力を暴走させ、白鹿は自爆。見事に巨人の右手を消し飛ばしてみせた。

 ……が、巨人は痛がるそぶりも見せずに、左手一本でお菓子の家の残骸をす
くい取り、器用にこねくり回して、パテのように右手を補修しはじめた。

「こ、こいつは手に負えぬぞ」

 逃げるしかない。先の蟲の大軍のときと同じ結論に達した零姫は――今度は
とかげと一緒に――全速力で駆け出した。

 とかげはただでさえ身体能力が高い上に、魔石を呑み込んでさらにブースト
されている。脚力は相当なものだった。
 対する零姫は、正直に言って運動が苦手だ。足代わりの白鹿を早々に失って
しまったことを悔やみつつ、韋駄天走りの歩法でとかげの背中を追う。

 巨人は動きこそ緩慢だが、サイズがサイズだけに、僅かな挙動だけで距離を
詰められてしまう。一歩前に進むだけで水星天≠フ街並みは無惨に引き裂か
れ、腕を振るえば区画が消し飛んだ。

「ええい、埒が明かぬ!」

 ファシナトゥール化した〈針の城〉は、距離感が大きく狂ってしまっている
ため、どこまで走れば次の階層へとゆけるのか皆目見当が付かない。
 ……まぁ、そもそもの話として、次の階層に逃げ込んだところで巨人に追い
かけ回されている現状ではどうにもならないのかもしれないが。

 いい加減、零姫の息も切れ始めたとき―――他のお菓子でできた建物とは明
らかにおもむきの異なる、木造の建築物が視界に飛び込んできた。
 横に長い一階建ての平屋。基礎のコンクリートは建物の五倍も近くも突き出
して、まるで舞台のようになっている。あの独特の外観は、まさか―――

「……駅舎じゃと?」

 間違いない。クーロンには存在しないはずの鉄道だ。建物に並ぶようにして、
漆黒の汽車までもが停まっている。目を凝らせば、丁寧に線路まで敷かれてい
ることが分かる。

 如何にも怪しく不自然な建物だったが、進路の先にわざとらしく建っている
のだ。ここで左や右に曲がれば、巨人が振り下ろす拳の餌食になってしまう。
しかたがなしに零姫は得体の知れない駅舎へと駆けこんだ。

 駅のホームには少女がひとり、ハンドベルをからんからんと鳴らしながら突
っ立っている。……その少女の正体を知って、零姫はさらに混乱した。
 チーパオ・ドレスの上から車掌用の上衣を羽織り、制帽を頭に乗せたあの娘
は―――

155 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 22:42:50


「妖魔鉄道快速便は、間もなく『水星天・翠玉姫駅』を発車するアルー。駆け
込み乗車は遠慮するよろしねー」

 シャオジエ、と。……そう、とかげに呼ばれていた少女。
 つい十数分前に、第一層月天≠ナ零姫たちと対峙したクーロン娘。
 ―――彼女が車掌を気取って、ホームに立っていた。

「アセルス、おまえどういうつもりじゃ!」

 ホームによじ登る零姫を見て、シャオジエは「あいやー」とわざとらしく驚
いてみせる。

「お客さん駄目アルよー。ちゃんと改札口通るネ。無賃乗車許さないヨ」

「戯けたことを抜かすな!」

 普段の清楚さを忘れてシャオジエの胸ぐらを掴もうとした零姫だったが、直
後に背後からの地響きを感じて、視線をクーロン娘から漆黒の汽車へと移した。

「あれは張りぼてか! ブリキの玩具か!」

「莫迦言っちゃいけないアルよ。ばりばり現役の魔列車ね。地獄まで超特急で
お送りするネ」

「ならばさっさと出せい。このままじゃおまえも汽車ごと潰されるぞ」

 零姫の背後を見やって、シャオジエは再び「あいやー」と呑気に驚く。

「あれは別の階層の姫ネ。どうして水星天≠ノいるアルか。翠玉姫の顕現が
弱まったせいで、他層からの侵食が始まったとか? ……どっちにしろおまえ
等、迷惑なことしてくれたアルね。あいつ、他の寵姫と仲悪かったアル。きっ
とわたしのことも嬉々として潰してくれるネ。―――って、おーい」

 零姫も――ついでにとかげも――シャオジエの言葉などまったく耳を貸さず、
さっさと客車に乗り込んでしまっていた。

「……仕方ないアルねー。あとでお金はしっかりともらうアルよ」

 シャオジエは溜息を吐くと、手旗を振って汽車に合図した。手旗信号に反応
して汽笛が吹き鳴らされる。ゆっくりと動き始める車輪と車体。車内で零姫は
「むぅ」と呻いた。優雅にボックスタイプの座席に腰かけているものの、内心
は巨人に追いつかれやしないかとかなり焦っている。
 しかし、汽車はスムーズに加速し、あっという間に巨人を引き離した。巨人
は見る間に彼方の風景へと追いやられてゆく。

「……取りあえず、一難は去ったのう」

 ―――が、次の一難が目前に迫っているのもまた事実。
 巨人から逃げ延びたいという一心で乗り込んでしまったが、危険の度合いで
はこの汽車も十二分に危うい。自ら棺桶に入りこんでしまったようなものだ。
 車掌を気取っていたあのクーロン娘―――シャオジエは、先のようにアセル
スの擬態なのか、それとも本当に寵姫なのか。それも分からない。
 そもそもこの汽車はどこに向かっているのか。零姫たちを降ろす気はあるの
か。なにもかもが分からない。

「とにかく、じゃ」

 対面する席に座るとかげに、ごほんと咳払いしてから話しかける。

「弁当でも食うかのう」

156 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/07(日) 23:37:09
>>

「弁当ってお前……当たり前だが俺はなんも用意してねえぞ。駅弁売りでも来るってのか?」
 
 ボックス席、姫さんの向かい。
 足組んで頬杖突いて(スカート穿いてるわけじゃねえんだから何の問題もない)、しかめっ面
してみせて、ぼやく。
 実際、イーリンは飯粒一つオレンジ一つたりとも用意せずに”火焔天”へ特攻してきた
ようだしな。まあ……それこそ、当たり前の話なんだろうが。

 んなことは、まあいい。
 それよりもなんなんだこのデタラメな展開は。まさかこんなとこでぶらり途中下車の旅、
なんて羽目になるとはこれっぽっちも予想してねえぞ。しかもあの女が車掌だとか、ぞっと
しねえ。何やら色々事情はあるようだが全くどんな呉越同舟だよおい。

 ……今更、俺らの因果についてあれこれ突っ込んでも意味ねえのかも知れねえけど。
 大体俺にしてみればそもそもあの時、あの娘に「入って」しまったのがこの因果の始まり、
って奴なんだしな。それで何年も封印された挙げ句、訳も分からねえままイーリンに入れられ……

「……あー。訳が分からねえのは始めっからか」

 思わず口に出した。ので姫さんが訝しんでくれた。
 たりめーだ。
 だが分からねえもんは分からねえ。
 ……暇つぶしでもしてみるか。気分転換じゃねえけど。
 
「なあ、姫さんよ」

 頬杖突くのをやめて、向き直って呼びかける。
 ま、それなりに真面目な話だからな。
 
「姫さん……っつーかリリーは、確か人間だったはずだよな? 少なくともイーリンはそう思ってたし」

 観念的な意味でならともかく、リリーは運命のなんたらだろうが人間だったはずだ。
 文字通りの人外存在だとは思っちゃいなかった。イーリンは元より、”中”で見ていた俺も
確かにリリーはただのませたガキだとしか思ってなかった。

「だが姫さん、今の俺から見ればあんたは明らかに妖魔だ。まああんだけの力が使えるんなら
尚更って奴だけどな。……こいつはどういうことだ。そもそもあの女、なんであんたを狙って
俺をけしかけた? まさかあんたも俺とおんなじような因縁でも持ってるんじゃねえだr


――うぇ」


 真面目な話してたのに自分で台無しにしちまった俺。
 だが許せ。
 「マジで駅弁売りに来やがった」んだから許せ。
 つーか売り子あの女じゃねえかよおい! 空気読め馬鹿!
 大体てめえの売る弁当なんぞぞっとしねえよ!

157 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/09(火) 00:15:16


 売りに来たのなら、買わずに無視するわけにもいくまい。零姫は遠慮無く、
弁当の売り子――要するにシャオジエなのだが――から、ファシナトゥール
名物妖魔弁当≠二つと、土瓶入りの煎茶を二人前注文した。
「まいどーアル」と調子のいい声が返ってくる。ついでに「あとで切符代も頂
くアルからねー」という余計な一言も。

「わらわのおごりじゃ、喰え」

 言いつつ、弁当箱の包装紙を開く。零姫もとかげも、人間としての食餌は必
要としない。だから、弁当など頼まずに黙って座っていればいいのだが、風流
と礼儀作法を重んじる零姫は、例えそこが魔性の坩堝であろとも鉄道に乗って
しまった以上は駅弁を食べなければならないと頑なに信じていた。

 沈黙がしばらく続く。零姫は背筋を伸ばし、無言で箸を動かした。
 たっぷりと時間をかけて弁当箱を空にすると、熱いお茶で一息をつく。車窓
から覗く風景が水星天≠フお菓子の街並みから二転も三転もした頃、ようや
く零姫は「さて」と止まっていた話題を再開した。

「おまえの言う通り、いまのわらわは確かに妖魔じゃ。そしてやはりおまえの
言う通り、リリーは人間じゃった。同じ肉体を持ちながら、なぜに不死者と定
命者という相反するふたつの属性を持つのか―――」

 零姫は自嘲じみた笑みを口元に浮かべた。

「それはわらわの魂が、妖魔として、オルロワージュめの寵姫として汚染され
てしまっているからじゃよ」

 魂の穢れは肉体にまで伝播する。零姫がいくら純粋な人間に生まれ変わろう
とも、覚醒のときを迎えれば自ずと躰も変容する。零姫が零姫であることと妖
魔であることは同類項なのだ。

「確かにわらわは無限転生者になることでオルロワージュめの血の縛りから解
放されたのじゃが……躰は捨てられても、魂の汚染までは洗いきれなんだ。こ
の躰はいまや自由の身じゃが、わらわの魂は未だオルロワージュめの血に縛ら
れたままなのじゃよ……」

 リリーがゾズマの結界の存在に気付き、自分は絶対に〈針の城〉から出られ
ないのだと諦念を抱いたのも、零姫覚醒の時期が近付いていたからだ。肉体の
変容―――つまり妖魔化が始まったことで、彼女は結界から出られなくなった。
 リリーがイーリンを連れ出すことに拘泥せず、ひとりで外≠目指す勇気
があったなら、少なくとも〈針の城〉を脱出することはできただろう。
 ……が、その場合はアセルスの魔手にほぼ確実に捕らわれてしまう。リリー
という少女の自由と幸福は、始めから存在しなかったのだ。

「あれは強い娘であった」

 湯飲みの水面に視線を落として零姫は言う。

「自分の運命を知った瞬間、すべての希望をイーリンに託しおったよ。……あ
の娘は本当に、イーリンが好きじゃったのじゃ」

 異なる人格を客観視するかの如き口振りだが、あくまでリリーとは「目覚め
る前の零姫」であり、とかげとイーリンの関係とはまったく違う。リリーの感
情も記憶も、すべては零姫のものだ。―――だからこそ、零姫は他人事のよう
に語らずにはいられない。我がこととして思い返すには、あまりに辛い喪失。
気持ちを落ち着けるまでもう少し時間が欲しかった。

 音をたてずにお茶を飲むと、零姫は不機嫌そうに「わらわのことなぞどうで
もいいのじゃ」と言い捨てた。

「それよりも問題はおまえじゃ」

 不躾に指をさす。

「どうしてアセルスに捕まるような失態を犯したのじゃ。わらわは前の生で、
針の城に封印されておるおまえを見たが……なぜそうなったのか、その経緯ま
では知らぬ」

 間抜けにも程があろう、と零姫は溜息を吐いた。汽車は二人を乗せたまま、
次なる層へと向かっていく。止まる気配はない。まだまだ雑談の時間はたっぷ
りとありそうだ。
 イーリンのためという利害の一致によって手を組んだ二人だが、ここで「イ
ーリンとリリー」ではなく、「とかげと零姫」という関係を作ってみるのも悪
くはないな―――と、無限転生の少女は列車に揺らされながら思ったのだった。

158 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/09(火) 16:40:25
>>

 「妖魔弁当」て……俺ぁ頭痛くなってきたぞ。死んでるのに。
 つーか本当に食えんのかよこれ……と思ったが、少なくとも姫さんは食ってるしなあ。
 まあ今更毒を食らって死ねるタマでもねえけどな……
 
 と思いつつ食った。
 食ったら予想以上に美味かった。
 美味かったのが尚更嫌すぎたが――――
 
 
「……あー、俺か? つーか見られてたのか、あんたに。こうなるとばつが悪いな……」

 爪楊枝を使いつつ(ご丁寧に箸袋の中に入ってた)、一服していたら今度は俺が面倒なことを
追求された。ので、とりあえず視線逸らして窓の外を眺める。
 ……眺めたかったが、当然外は暗く、窓はうっすらと鏡の役割を果たしてくれやがる。
 おかげで「イーリンのツラした」俺が、しかめっ面しているのが視界に飛び込んできて
余計気分が悪くなった。
 しゃーねーから向き直る。くそ。
 
「まあ……俺としちゃ『運が悪かった』と済ませたいところなんだがな。好き好んで、こんな
目に合ってるわけじゃねえよ。……丁度俺が『体』を失くしたときに、都合の良いことに
病気で死んだご令嬢の葬式があってな。そりゃ動き回るのには不向きだが、こういう奴は
イメージが固まってる分変装もしやすい。繋ぎには悪くないかと思ってそいつを借りたんだが」

 ご令嬢、のあたりを少し強調して、恥ずかしい告白を始める。
 まあここまで言えば、たぶん姫さんは察しが付くだろうとは思うんだが。
 
「ああそうだ、よりにもよってそいつは――あの女の寵姫候補だったんだよ」

 そいつを俺が奪ってしまった……と言われたって、俺はそんなこと分かるわけがねえ。
 だがそれが全て。見事にあの女の怒りを買っちまった、ってわけだ。
 
「逃げるには逃げたんだけどな。つってもまだ『体に慣れてない』上に元々ろくに動いてもない
ご令嬢の体だ。速攻、追いつかれてこのザマ、ってわけだ。頂いたばっかのその体は、ごく
あっさりとあの女の剣にかかって……」

 かかって……ああ?
 ちょっと待て、あの体は奴に斬られて……それでどうなった?
 いやもちろん、俺自身はそのまま奴に捕まったが、それは今は問題じゃねえ。
 “あの娘はどうなった?”
 俺は何とはなしに、あの後埋葬されなおしたか程度に思ってたが……まさか、いや、
あの「シャオジエ」の件を考えれば――――

「まさか、あの娘も喰われて『ここにいる』、ってんじゃねえだろうな、おい?」

 冗談じゃねえ。悪趣味にも程がある。
 死んだ人間を弔うどころか、てめえのうちに取り込んで閉じこめちまおうなんざ……
 
 
「……やっぱイーリンを渡すわけにはいかねえな、こいつは。何が永遠だ、気が知れねえ。
死ぬことも出来ねえ俺にしてみりゃそんなもんは」

 言いかけて、はたと気が付く。
 ……姫さんも似たようなもんだったな。クソ、言い過ぎたか。
 尚更ばつが悪いぜ。

159 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/09(火) 23:16:10


「ふむ」と零姫は重々しく頷いた。つまり、イーリンの躰にとかげを封印した
のは、結界を破壊するという目的の他に、復讐も含まれていたということか。
 ……ま、そんなところじゃろうな、と零姫は胸裏で嘆息した。あの色狂いの
妖魔が本気になるのは、いつだって女絡みのときだけだ。
 とかげからすればいい迷惑に違いない。そのご令嬢≠ニやらの若き死は、
とかげの憑依と一切関係がないものを。―――まぁ、そんな理屈をあの女にぶ
つけたところで聞く耳などまったく持とうとしないだろうが。

 零姫にも、だんだんと見えてきたことがある。
 まずは、この〈針の城〉について。リージョン・クーロンからかけ離れた風
景。異界の迷宮と化してしまった旧妖魔租界だが、アセルスの心象風景の具現
と断言してしまっていいだろう。桁違いに巨大な固有結界だ。
 とかげの想像通り、妖魔公は自分の内側に寵姫を何人も飼っている。自己と
いう器を箱庭にして、魂の補完を目指したのだ。だから、ノイズのように複数
の異なる心象風景が入り乱れる。あのお菓子の家や魔棲蟲、無貌の巨人などは
すべて、アセルスが取り込んだ寵姫の心象風景だろう。

「うーむ、まずいのう」

 もしも零姫の読みが的中しているのならば、二人はいま現在、アセルスの
世界≠ノいることになる。〈針の城〉が完全にアセルスに取り込まれる前に脱
出しなければ、永遠の時間をこの閉塞した闇で過ごすことになってしまう。

 ……とりあえずは、この汽車がどこに向かっているのか。あのクーロン娘は
なにを考えているのか。そこらへんから片づけていきたいところだが。

 その前にひとつ、とかげが気になることを口にした。

「死ぬこともできない―――か」

 ……そうか。この男は、死にたいのか。

 短い生を幾百と繰り返した零姫だが、自分以外の転生無限者と出会ったのは
初めてである。無限の死と生を約束された者は、どのような夢を持ち、なにに
苦しみ、どうやって生きようとしているのか―――少なからず興味があったの
だが、とかげのその一言で、零姫は己の感情に蓋をしめてしまった。

 零姫は人間を愛している。
 零姫は人間として生き、人間として死ぬことを望んでいる。
 零姫は生きたかった。人間としての生を満喫したかった。
 だから―――自己嫌悪に陥ることはあっても、後悔だけは絶対にしない。
 どんなに犠牲の屍を積み重ねようとも、自分は生きてみせる。
 その信念に基づいて、零姫はさすらい続けてきた。
 死を願ったことなど、一度もない。

 とかげにはとかげの事情がある。その程度のことは零姫にだって分かる。
 しかし叶うことならば、ファシナトゥールで享楽に耽る妖魔連中のように生
に飽いたりせず、生きることの喜びを知って欲しかった。

「死ぬために生きるというのでは、あまりに悲しかろう」

 言ってしまってから、零姫は後悔した。
 つい説教臭くなってしまうのは彼女の悪い癖だ。彼なりの事情があると分か
っているのなら、黙って聞き過ごすべきだったのに。

 ごほん、と零姫はわざとらしく咳をした。こうなったら最後まで責任を持っ
て言うしかない。

「わらわにしろおまえにしろ、いつかは必ず終わりが来る。そう考えたことは
ないのか。無限や永遠などというものが本当にあると信じておるのか」

 あの愚かで幼稚な妖魔公は信じている。盲信の域に達している。
 逆に、零姫はそういった類の寝言は一切信じていなかった。永遠などあるわ
けがない。自分もいつかは必ず果てる。だから、せめてその日までは―――

160 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/10(水) 00:27:13
>>

 姫さんも、俺と同じように何度も何度も「生き続けて」いるのだと、さっき聞かされた。
 ならばきっと、その心中も俺と同じようなもんだろう……そう、思ってたんだが。
 
「ふん……死ぬために生きるのは悲しい、ねえ」

 そんな風に言うからには、姫さんはそうは思っちゃいない、ってわけだろう。
 どこの誰として生まれてきても、必ず“零姫”としての自分が現れる、らしい。魂がそういう
形になってしまったんだと、さっき言ってたはずだ。
 それでもなお、この姫さんは「生きるために生き続けている」のだと……そういうことなのか。
 
「まあ、そりゃあな。最悪でも『世界の終わり』とかでも来ちまった日には、俺だってそのまま
死ねそうな気はする……っつーか、せめてそれぐらいは願ってるけどな。俺一人だけが生き
続けている世界、だなんてそれこそ恐ろしい話だ」

 あの性悪の“神様”のやることだ、それさえもあり得そうな気がしてしまうのが嫌だが。
 
「だが、そりゃいつだよ? 見えもしねえ、あるかどうかも分からねえ『ゴール』目指して
もう何百年だ。いい加減俺だって生き飽きるぜ、何より……なあ、姫さん」

 言いつつ、一瞬だけ、もう一度窓を見る。
 ……俺が見守り続け、もう死んでしまった、あいつの顔を見て。
 
「自分だけが死なず、周りの奴らが望む望まざるに関わらず『旅立って』いくのは……辛くねえのか?」

161 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/10(水) 23:26:05


 辛い。
 当然辛い。
 気が狂いかねないほどに辛い。
 いままで、自分のせいで何千何万という命が潰えていったと思っているのか。
 死んだものの中には血の繋がった家族がいた。心を許した友がいた。忠節を
尽くす家臣がいた。零姫は長い人生で、多くの愛すべき人と出会い、そのほと
んどと別れを告げた。零姫の生とは、他人の死で成り立っていると言っても過
言ではない。この業深き生を辛くないなどと言えようものか。
 
 しかし、そういった痛みに喘いでもなお、生への渇望が勝っているのもまた
事実。妖魔の姫君としての矜恃がそうさせるのだろうか。零姫は、自分が生き
て生きて生き続けることは使命だとすら考えていた。

 覚悟はとっくに決まっている。オルロワージュを逆吸血したあの夜、零姫は
自由とともに孤独を得たのだ。

 ―――が、その考えをとかげにまで押しつけるのは無粋というもの。

 孤独が辛いと漏らすとかげの思いは、零姫も痛いほどに理解できる。
 ただ少しだけとかげのほうが優しくて、その分だけ打たれ弱くて、だから死
を望むようになってしまったという―――それだけの話だ。
 零姫は自分が冷酷な女であることを重々承知していた。己の自由のために、
愛する男を見捨てた女だ。……優しさなど、とうに枯れ果てている。

 それに―――
 憎しみに駆られるままに玉砕しようとした零姫に、イーリンのために生きろ
と言ったのはとかげではないか。どんな主義主張を持っていようとも、あの瞬
間、死のうとしたのは零姫であり、生きようとしたのはとかげである。その事
実だけは、決して揺らがない。

「まあ―――」

 零姫は慎重に言葉を選んだ。彼の誇り高き優しさを傷付けないように。

「俺一人だけが生き続けている世界≠ネどという戯けた終末が、未来永劫訪
れないことだけはこの零姫が約束しよう」

 零姫は真顔で言った。その表情には、一分たりとも戯けた色はない。

「安心せい。わらわという無限転生者がいる限り、おまえがひとりぼっちにな
ることだけは絶対にないわ」

 気休めにすらならない言葉だが、零姫とて別にとかげを慰めるために言った
のではない。事実を口にしたまでだ。

 死を望む転生無限者と生に執着する転生無限者。対照的な二人が客車で揺ら
れながら向き合っているわけだが、少なくともいまのところは互いに「生きて
ここから出る」という共通の目的を持っている。
 ならばそろそろ、休憩の時間は終わらせて行動に移るとしようか。

「大馬鹿のアセルスめは、この心象世界の弱点にまるっきり気付いておらんよ
うじゃのう。大方、わらわたちを閉じ込めたことで特異絶頂になっておるのじ
ゃろう。相も変わらずおめでたい奴よ」

 反撃を始めるぞ。
 ―――そう言って、零姫はボックス席を立った。

162 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/11(木) 22:02:19
>>

 別に。
 別に、今更聖人君子を気取る気なんぞはさらさらねえ。
 “ただ一人を除いて”誰にも望まれなかった生が、その“ただ一人”の思いと、くそったれな
運命のイタズラ(運命なんて奴は神様が握ってるとか、よくある話だ)、その二つのためだけに
生かされ続ける羽目になった、ってだけの話だ。
 だから俺は死を渇望する。
 俺の生を願ってくれたあいつの所には行けず。
 俺の生を呪いやがった奴の尻尾も掴めず。
 つまるところ、俺の生はそれそのものが悲しい……なんてな、そんな自己憐憫はそれこそ
くそったれ、ってもんだが。……ただ、望んでも死ねない俺の周りに、望まずに死んでいく奴ら
が居た、というだけ。
 それでも生き続けていられるほど、俺は強くない……それだけだ。

 向こうとこっちじゃ、大元からして違うのかも知れねえ。境遇が違えば考え方も変わる。
 だから姫さんを傲慢と笑うのは簡単だ。だが俺にはむしろ……少しばかり、姫さんが眩しい。
 まったく……
 
「ひとりじゃなくふたり、が正解ってか? ったく、俺なんかと居たっていいことなんてありゃしねえぜ?」

 照れ隠し半分。
 だから「気持ちだけは受けとっておく」なんて言葉だって、絶対言ってやらねえ。
 どうせ望んでもいねえだろうし。

 その代わりに、もういい加減ぬるくなってきた茶をぐいっと一気飲み。
 しっかし渋いなこの茶は。おかげで気が引き締まるぜ。
 そして飲んだついでに勢いつけて、剣を片手に同じく立ち上がる。
 
「カウンターは懐に飛び込んでから、ってとこかこりゃ? ま、俺は好きなようにやらせて貰うが。
じゃ、とりあえず……機関室の見学とでも洒落込むか、良い機会だしな」

163 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/13(土) 21:35:17


「乗車券を確認するアルー」

 呑気な声を出しつつ、車掌役のシャオジエが前の車両から入ってきた。改札
鋏をぱちぱちと鳴らして零姫のほうに歩み寄る。

「ただ乗りは許さないアルよー」

 大した気楽さ加減だ。その脳天気さはアセルスに勝るとも劣らない。
 初めはこのクーロン娘がなにを企み、どんな罠に陥れようとしているのか、
零姫にはまったく見えなかった。しかし今なら断言できる。彼女はなにも考え
ていない。勢いと思い付きだけで生きている。
 もしもシャオジエがアセルスの忠実なら下僕であるのなら、この汽車はとっ
くに零姫たちをアセルスのもとへと運んでいただろう。
 なぜ、そうしないのか。なぜいたずらに時間を遊ばせ、敵であるはずの零姫
たちに反撃の好機さえ与えてしまうのか。
 理解できない。……当然だ。なぜなら彼女は莫迦なのだから。

 そんな性分だから、アセルスともうまくやっていけるのだろう。もしかした
ら、羨ましい女なのかもしれない。寵姫としては珍しいタイプだ。

 零姫は、通せんぼするようにシャオジエの進路の先に立った。
「乗車券乗車券」と改札鋏を鳴らして急かす彼女に、「そんなものはない」と
にべもなく言い放つ。

「そんなの酷いアル! 無賃乗車絶対反対アル! というか、よくよく考える
とさっきの弁当代ももらってないアル。どっちも耳揃えていますぐ払うアル。
一億万円クレジットで許してやるアル」

 ふむ、と零姫は神妙ぶって頷いた。

「これで足りるかのう」

 袖から巾着袋を取り出して、シャオジエに渡す。
 シャオジエは零姫の気前の良さに眼を丸くして驚いた。まさかこんなにあっ
さりと支払ってくれるなんて。この娘、もしかしたらかなりいい奴なのかもし
れない、とすら思ってしまう。
 しかし、シャオジエは自分が慎重かつしたたかな女である自負していた。本
当にこんな小さな布袋に大金が入っているのかどうか、袋の口を縛る紐をほど
き、貪るようにして中味を確認する。

「……やはりおまえ、莫迦じゃのう」

 巾着の紐―――封印を切ることによって、零姫が設定した呪いがスイッチ。
 麻痺の呪文が発動して、シャオジエを行動不能に陥らせる。「しまったアル
ー!」と痺れる舌で叫ぶクーロン娘に蔑みの眼を向けつつ、零姫は幻術で編ん
だヴァナルガンドの鎖で、シャオジエをあっという間に縛り上げた。
 麻痺の呪いは破れても、神を喰らう狼さえも拘束する鎖までは断ち切れまい。
悔しそうに歯噛みする愚かな寵姫を尻目に、零姫は背後に向けて叫んだ。

「こやつと汽車との魔術的関係は絶たれた! 進路を変えるならいまじゃ!」

164 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/13(土) 22:34:26
>>

 ………………なんか、すっげえイーリンが草葉の陰で泣いてそう(もしくは呆れてそう、或いは
うなだれてそう)な気がしてきたんだが。てめえシャオジエいいのかそれで。おい。
 まあ、俺には関係のねえ話だと言えばそうなんだが……
 姫さんの手練手管、つーことにしとくか、いちおう。
 
「……ま、了解と。なら俺は予定通り機関室へ行ってくるか。スピード上げてかっ飛ばさなきゃな」

 完全に拘束されたクーロン娘――そろそろシャオジエと呼びたくなくなってきた、色んな
意味で――を尻目に、俺はひらひら手を振ってお先に失礼。
 姫さんには姫さんの仕事があるからな、ここからは。
 “依“と離れるのはあんまり好ましい事じゃねえが……まあ、何とかなるだろう。



 それはそうと、だ。
 この列車、曲がりなりにも汽車であるというなら蒸気機関で動いているわけだ。俺もそれなりに
生きている以上、そういう知識は多少は身につけている。
 ……本来なら、と但し書きを付けるべきだろうがな。こんなとこで真っ当な「汽車」が走っている
わけがねえ。ましてや姫さんはさっき「魔術的関係」と言っていた。つまりこいつは魔法の乗り物
ってわけだ。
 魔法と言うからにはその動力部も便利な代物で出来てるんだろう。俺はそう当たりを付けてみて……
 
「……ち。半分は当たった、ってとこかこりゃ?」

 機関室、駆動系の心臓部は……は、確かに真っ当な蒸気機関なんぞじゃねえ。
 何しろ――何もねえのに燃えてやがる。石炭だのコークスだのなんぞは見あたらねえ。
 ま、燃料要らずってんならそりゃなんともリーズナブルな話だが……問題は、そういうわけ
でもなかった、ということだ。
 俺の予想は外れた、そいつは“便利な代物”であるどころか……
 
 
 魂を燃やす、という“悪趣味な代物”だったからだ。

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