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■ とかげ

1 名前:◆MidianP94o :2008/08/29(金) 23:52:50


転生無限者【てんせいむげんしゃ】

 生き続けるもの。
 死に続けるもの。
 無限に転生を繰り返すことで、死徒や妖魔とは異なる不老不死を可能とする。
 死ねば肉体を離れ、新たな躯に憑いたり生まれ変わったりするため、追跡は
困難を極める。死徒27祖のひとりアカシャの蛇≠ェ有名だが、教会や協会は
他にもタイプの異なる数人の転生無限者を存在していることを確認している。
 転生無限者が果たして人間なのか、それとも人外なのか。その定義は非常に
曖昧で、機関や研究者によって見解は異なる。

                ――――オーガスト・ダーレス『神秘学用語辞典』より

120 名前:◆MidianP94o :2008/11/17(月) 23:13:29












第二部「クーロン炎上」











.

121 名前:◆MidianP94o :2008/11/18(火) 00:06:16

Prologue


 ―――最上階のペントハウスから、彼女≠ヘクーロンの夜景を見下ろして
いた。正確には、クーロンの一部を。

 眠らない夜のリージョンに、ぽっかりと穿たれた闇の孔。ネオンの瞬きをま
ったく寄せ付けないあの区画こそ、彼女にとってもっとも因業深き地。
 いまは〈針の城〉などと戯けた名で呼ばれるスラム街。かつての妖魔租界だ。

 こうしてパノラマの窓辺からあの忌まわしきゴミ溜めを眺めて、何時間が経
ったろう。彼女は、あの火蜥蜴の少女を送り出してからいまのいままで、微動
だにせずじっと一点を、もっとも闇が濃い〈旧妖魔租界〉の中心部を見つめて
いた。些細な異変すら、見逃さないために。

 彼女に約束された永遠と比べれば、それは取るに足らない刹那の時だ。
 けれど、やはり長かった。ただ結果を待つために時間を重ねるというのは性
に合わない。何百年生きようと慣れることはない。
 結局、私は待つのが嫌いなだけなのだ。そう覚って彼女は自嘲した。

 誰かを見送ったりだとか、誰かになにかを託したりだとか、そういう類は自
分がもっとも苦手とする行為なのに。―――そうせざるを得なかったのは、ゾ
ズマの老獪さゆえか。それとも零姫の怯懦ゆえか。或いはその両方か。
 ……どのみち、卑怯なことに代わりはない。

 さらにしばらく、彼女は〈旧妖魔租界〉を見下ろし続けた。

 人間の眼では決して捉えることのできない変化を、彼女が目聡く霊視したの
はいったいどれほどの時間が流れた頃だろう。世界を構築するすべてのチャン
ネルを同時に視認する彼女の魔眼が紅蓮に燃え上がる。

 ゾズマの結界が―――

 破れた。

〈旧妖魔租界〉を覆っていた瘴気が、火焔天を中心に急速な勢いで晴れつつあ
る。あらゆる呪的要素、魔性の類が強制的にキャンセルされてしまっているの
だ。ゾズマが施術した忌まわしい上級妖魔殺しの結界も、糸がほどけるように
呆気なくディスペルされてしまった。
 そんな突飛な現象が顕現する理由など、ひとつしかない。

 彼女は静かに瞼を伏せた。
 窓辺に立ってから初めて、〈旧妖魔租界〉の夜景から眼を逸らした。

「……そうか」

 奥歯を噛み締め、痛切の声を漏らす。

「あの子は帰ってこないのか」

 だから待つのは嫌いなんだ。そう呟くと、彼女は踵を返し、パノラマビュー
の窓に背を向けた。

 もう待つのはやめだ。
 あの子のいない妖魔租界に価値などない。
 十二年前にゾズマがそうしたように。
 今度は私が灰にしてやる。
 燃やし尽くしてやる。

 そして零姫を―――

122 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/18(火) 23:58:53

 逝ってしまった。
 最後まで零姫の正体を知らないまま、イーリンは逝ってしまった。

 ……かわいそうな火蜥蜴。零姫のことだけじゃない。彼女は、自分のことさ
えも満足に知らなかった。

 例えば、彼女の生まれはクーロンから遠く離れたファシナトゥールの〈根っ
この町〉だということだとか。人間と魔物のあいのこと信じていたが、実は純
粋な人間だったことだとか。蜥蜴の血肉と魔眼は、後天的に移植≠ウれたも
のだとか。記憶も、消されていただけだったことだとか。
 ―――尽きぬ感謝と愛情をささげてきたマーマこと阿嬌は、実はシリウス領
事の腹心で、根っこの町からさらわれてきたイーリンを、この計画≠フため
に身請けしたことだとか。最後はイーリンへの愛情に負けて、主君を裏切り、
独断で零姫を殺めようとして、廃人にさせられてしまったことだとか。
 その他諸々、イーリンをイーリンとして構築する一切合切の事情を、しかし
イーリン本人はまったく知らなかった。
 知らないまま、逝ってしまった。

 それで、良かったのだろうか。

 真実を知れば、イーリンは発狂するかもしれない。
「リリーと一緒に外≠ヨと飛び出したい」という願いすらも、裏で、そう選
択するように仕組まれたものだったのだ。火蜥蜴の少女は最初から最後まで、
あの女の駒として利用され続けた。あまりに虚しく、あまりに哀れな人生だ。
 なにも知らずに死ねたのは、報われない彼女の人生の、たったひとつの幸福
だと―――そう考えることもできる。

 しかし、しかしだ。

 零姫は納得しない。
 零姫は認めない。
 すべてを知ってしまって、自分が如何に虚無的な存在かを気付いて、地獄の
苦難に悶えようとも―――零姫は、イーリンに生きて欲しかった。
 苦しみながらも生きて、生きて、生き抜いて欲しかった。
 他人のために死ぬなんて、とんでもない過ちだ。

「この、莫迦娘め!」

 微笑を浮かべたまま、瞳の焦点を曖昧にさせてゆくイーリンの肩を揺すって、
怒鳴りつける。

「どうして自分のために生きられぬ。どうして他人にばかり尽くそうとする。
おまえはイーリンなのじゃから、イーリンのために生きればよいのじゃ!」

 自分勝手だとか自分本位だとか、そんなことで悩んでいたらしいが、零姫か
ら見ればイーリンは主体性が欠落した娘だった。優しさに飢えるあまり、愛さ
れたいと思った相手に自分のすべてを預けてしまう娘だった。

「背負いすぎなのじゃ。悩みすぎなのじゃ。たかが人間の癖に、ゾズマに立ち
向かうじゃと?! 相手はかつての黒騎士筆頭じゃぞ。妖魔貴族の頂点に立っ
た武人じゃぞ。敵うわけがなかろう! 絶対に勝てぬ戦いで勝ちを拾おうとす
れば、どこかで歪みが生まれるに決まっておるのに―――」

 はた、と叫びを止める。
 零姫は、いま、自分が涙を流していることに気付いた。大粒の空知らぬ雨が
頬を濡らし、目を腫らす。―――こんなに無様に大泣きするなんて。久しくな
かった体験に、零姫は奮えた。
零姫として<Cーリンに会ったのは、ほんの一時間ほど前だ。なのに、彼女
の中でイーリンという娘はかけがえのない存在にまで育ってしまっていた。
 リリーと呼ばれた、あの白百合の娘の記憶が、零姫の凍てついた感情に火を
入れたのか。……まだ零姫が睡っていた頃の、もうひとりの自分が。

123 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/18(火) 23:59:04


 零姫は転生無限者である。
 先代の妖魔の君、オルロワージュの血の戒めから逃れるために、まさかの逆
吸血を果たし、自由を勝ち取った。
 現在の零姫は、厳密にはオルロワージュの血族ではない。妖魔でありながら
妖魔でもない。奇蹟の如き特異な存在だ。

 しかし、零姫にとって自由は呪いに等しかった。血の解放の代償として、零
姫は死≠ニいう絶対の自由を失ってしまったのだ。
 肉体が朽ちれば、転生し、生まれ変わって赤児から人生をやり直す。彼女が
寵姫零姫≠ニして記憶と魔力を取り戻すのは、九つから遅ければ二十五歳と
ばらつきがあるが、おおむね少女期で共通している。
 では、覚醒するまでまったくの別人なのかというと、決してそんなことはな
い。ひとつの肉体に宿る魂はひとつ。だから、あの白百合の娘も間違いなく零
姫だったのだ。ただ、寵姫零姫≠ニしての記憶が睡っていたというだけで。

 悲劇の始まりは、十三年前、クーロンの妖魔租界などに生まれ落ちてしまっ
たことだ。呪いの如し美貌を持つ零姫は赤児の時から美しく、すぐにシリウス
領事の目にとまった。あのとき、紅の魔人≠アとゾズマが横槍を入れなけれ
ば、今頃零姫は針の城――ファシナトゥールに建つ、本物の魔宮だ――で死ぬ
ことも生きることもできない拷問に苛まれ続けていただろう。
 ゾズマは運命の赤児≠ナある零姫を守るために、シリウス領事と、彼が支
配する妖魔租界を相手取った。たったひとりで戦争を始めた。
 当時、クーロンを魔界都市化させている原因となっていた妖魔租界をなんと
か排除したいと考えていたクーロン自治政府やIRPOの外交的圧力のせいで、フ
ァシナトゥールは援軍を送るに送れず、孤立したシリウス領事と妖魔租界の魑
魅魍魎どもはゾズマの鬼神の如き働きを前に、不死の命を散らせていった。

 妖魔租界を壊滅させることに成功したゾズマだったが、しかし、零姫を連れ
てクーロンから脱出するのは至難の業だった。一歩リージョンの外を出れば、
百万の妖魔が瞬く間に殺到するだろう。……それ以上に恐ろしいのは、零姫に
執心するあの女≠ェ直接挑んでくることだ。
 妖魔最強の武人として知られるイルドゥンをも凌駕すると言われるゾズマだ
ったが、あの女≠相手に、零姫を守りながら勝ち抜くことは不可能だと覚
った。―――覚ったからこそ、苦肉の策として、妖魔租界が燃え尽きた跡地に
上級妖魔殺し≠フ結界を張り、あの女≠ニの対決から逃れた。
あの女≠ウえ相手にしなければ、どんな刺客が送り込まれようとゾズマなら
対処できたからだ。
……しかし、結界は境界に過ぎず、外から内へと入れないように、内から外へ
も通行はできない。上級妖魔であるゾズマは、妖魔租界跡地に封印されたも同
然だった。―――そして、上級妖魔の素質を持つ運命の赤児≠焉B

 妖魔租界跡地は幼き零姫が垂れ流す魔力によって澱みを深め、魔界地区とし
てスラムを形成していった。〈針の城〉の誕生である。

 ―――これが、妖魔租界戦争のすべてだ。
 そして、零姫とゾズマがクーロンに流れ着いた事情でもある。

 ゾズマは他人との付き合い方を知らない男だ。目覚める前の話とはいえ、零
姫――つまりはリリーを――監禁したのは、愚かの極みとしか言えない。
 彼からすれば、零姫が覚醒するまで適当に時間を潰す。その程度の考えしか
なかったのだろうが、閉じ込められた当人はたまったものじゃない。
 そこが、結界の綻びとなった。あの女≠つけ込ませる疵となった。イー
リンを悲運へと走らせる原因となった。

 零姫に、ゾズマを責める気はない。
 彼は変人だが、ある意味、もっとも妖魔らしい妖魔だ。執着心というものが
なく、人間の感情を決して理解しない。風に流されるように、興味が赴くまま
に生きていく。―――だから、リリーの不満を理解できなかった。
 対するあの女≠ヘ、人間以上に人間らしい。だから、イーリンを利用する
ことを思い付いた。つくづく対照的な二人だ。

124 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/18(火) 23:59:18


 零姫は、目覚めた瞬間からあの女≠フ計画を見抜いた。あの女≠ェ覚え
ているかどうかは知らないが、零姫は前の人生で一度だけイーリンの魔力の
源≠目にしていた。そうでなくても、自分と同種の存在がいることは知って
いた。だから、イーリンのうちに潜むものを魔眼で見通したとき、非業の運命
までも確信してしまったのだ。

 ……だが、逃げられるところまで逃げるつもりだった。イーリンの言葉を信
じて、死を踏み台にして生きることの悦びを再確認したかった。
 まさか、火焔天からすら出られずに終わりを迎えてしまうなんて。自分が死
ねばイーリンだけは見逃してもらえるだろうと考えていただけに、零姫のショ
ックは計り知れない。自分の無策さが、あたら若い命を散らせてしまった。

 零姫の中の、リリーの部分が悲鳴をあげる。
 大声で、零姫を詰る。
 ……零姫は反抗する言葉を持たない。
 自責と自戒の嵐に飲まれて、いまにも溺死してしまいそうだ。
 どうして、こんなことになってしまったのか。
 こういうかたちでしか、終わらせることはできなかったのか。

 認めよう。
 零姫は、リリーが妬ましい。
 同じ零姫とは言え、零姫が零姫としてイーリンと過ごした時間は一時間にも
満たない。それに対して、リリーはどうか。彼女はイーリンとともに多くの時
間を過ごし、思い出を育んだ。イーリンが知る零姫とは、あくまでリリーとし
ての零姫なのだ。―――だからこそ、零姫とイーリンの関係はこれから築かれ
てゆくはずだったのに。

 火蜥蜴の娘の鼓動が、弱まっていく。

「イーリン! 莫迦娘のイーリン! 聞こえておるか!」

 零姫は必死で呼びかける。
 まだ彼女が生きているうちに。
 心の臓が止まる前に。

「わらわは諦めんぞ。死がなんじゃ。死んだ程度でなんだというのじゃ。おま
えが地獄に堕ちるのなら地獄へ、極楽へ昇るのなら極楽へ。おまえがこの火焔
天までわらわを迎えに来たように、わらわもおまえを必ず見つけ出してみせる!
だから待っておれ。百年かかろうと千年かかろうと、絶対に会いにゆくから!」

 そして、いつか一緒に、蒼穹の空の下で、ひなたぼっこでもしようではない
か。そう言い聞かせてやりたかったけれど、イーリンは最後に頬の筋肉を僅か
に緩めて微笑すると、そのまま生命の火を―――消した。

 イーリンは死んだ。彼女の躰は死体となった。

 涙は一瞬で枯れ果てた。

「……出てくるがよい、悪霊め。わらわが祓ってやる」

 先の情愛に満ちたものとは打って変わり、常の零姫が響かせる――否、それ
以上に凍えた――冷徹な声が、〈図書館〉に谺した。

「その躰はイーリンのものじゃ。イーリンだけのものじゃ。他の誰のものでも
なく、他の誰にも穢させぬ。例え一秒でも他人には盗ませぬ」

 零姫の背後で、炎の尾を持つ炎駒の麒麟が立ち上がった。妖力で編まれた実
体を持たない幻獣―――妖魔の中でも零姫だけが駆使できる幻術≠フ一端だ。
 幻とはいえ、古の神獣であることに代わりはない。

「アセルスの狗め。わらわは、おまえを決して許さんぞ」

 零姫は百年ぶりに、憎しみという感情を自覚した。

125 名前:火蜥蜴≠フイーリン? ◆LIZARD.khE :2008/11/19(水) 01:27:21
>>

 ……糞が。ああ畜生、胸糞悪ぃ。
 
 ようやくの「体」だ。待ちに待った自由の身だ、喜べよ俺……だなんて無理矢理誤魔化したところで
この気分の悪さは消えやしない。

 ……初めから分かっていたことだ。
 奴に利用されると知ったあの時から。
 こいつの中に無理矢理押し込められたあの時から。
 結末は一つしかない、こいつが死ななきゃ、俺は表に出られねえ。こいつが死ぬまで、俺はこいつの中で
見ていることしかできねえ。声さえも届きやしねえ。
 だから俺はこいつが死ぬのを待った、いや待たされた。
 そうするしか他になかったんだ。
 
 だからこそ、心底から――胸糞悪い。
 
 
 イーリン、イーリンと姫さんの呼ぶ声が聞こえる。「俺の耳」に聞こえる。
 もちろん俺に呼びかけている訳じゃない、その額面通りに、イーリンに呼びかけてんだ。
 だが俺も、久方ぶりの体の感覚を覚えつつある。主導権が入れ替わりつつある。
 その事実が更に俺の気分を悪くさせる。ああ全く、こんな皮肉があるものかよ。
 いっそもう、手に力を入れて起き上がってしまうべきかと逡巡しているうちに……
 
 頬が「俺の意志とは無関係に」、微笑を作った。
 
 ……なんだ、聞こえてたのかよお前にも。そっか。
 よかったな姫さん。報われたぜ。もっともこれだけじゃ足りないんだろうがな。
 だがしかし、これでもうこの体は――――俺のものだ。
 
 
「――――は。怖いじゃねえか姫さん。俺ごと、この体を荼毘に付そうって腹かよ?」
 
 打って変わって冷徹な声音の、零姫とやらの台詞を聞きながら、両目を開いて手足に力を入れ
片膝をつき、立ち上がって、埃を払って彼女を見やる。
 見えてるはずだ。
 俺の目。片目ではなく両目が爬虫類の、「とかげ」の眼となっていることが。
 蜥蜴の刺青、そいつが動いて服の内へと降りていく様が。
 それを見て案の定、零姫の表情が一層冷たくなる。ま……俺としてもこういう演出は嫌いじゃねえしな。
気を紛らわすにも丁度良い。ウォーミングアップと洒落込もうじゃねえか。

「ふん、思ったより体の馴染みがいいな。ずっと『同じ体』でいたせいか、それとも……姫さん、
 あんたのあいつへの思いのおかげか」

 おっと、更に険しくなりやがった。これ以上のお遊びは地雷踏みか。
 
「残念ながら、もうこの体は俺のもんだ。あんたが怒ろうがどうしようが、この現実は覆らねえよ。
 そうとも、あの活発な、あんたと共に外へ行こうとしたイーリンは……死んじまったよ。
 そいつは事実だ――だがな」
 
 幻獣の炎の明るさに目を細めながら、淡々と事実を口にする。
 実際、あれをけしかけられたら文字通りお陀仏だろうな。もっともどうせ俺は死ねねえんだが。
 だがそうかと言って、ここでこの体を奪われるわけにもいかねえ。
 俺にはまだやることがある。
 
「――ざけんな、誰が誰の狗だと?
 俺は俺だ、誰のもんでもありゃしねえ。てめえが許そうが許すまいが知った事じゃねえがな、
 あの女の狗呼ばわりだけは看過できねえな。それこそ一秒だって俺は奴に与した憶えはねえ。
 俺は只の、このくそったれな物語を見せ続けさせられた――――『とかげ』だ」

126 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/19(水) 23:55:53


 ……分かって、おる。

 啖呵を切られるまでもなく、零姫は充分に彼≠フ事情を理解していた。
 なにせ、零姫の知る彼≠ヘ、針の城に封印された存在だったのだから。
 イーリンがそうであったように、この爬虫類も被害者だ。あの女≠ノ利用
された駒なのだ。憎しみをぶつけるのは、お門違いもいいところだった。
 
 憤ってどうする。これは、そういう生き物なのだ。
 蜥蜴の尻尾が切られれば自然と新たな尻尾が生えてくるように、彼≠ヘ神
の摂理に基づいてイーリンの死体に憑依した。
 悪意があるどころか意識的ですらもない。彼≠ゥらしてみれば、ただ「イ
ーリンが死ねば顕現しろ」というプログラムに基づいただけだ。

 ……零姫とリリーの関係に似ている。
 零姫は彼≠フようにリリーの躰に憑いていたわけではなく、零姫自身がリ
リーだったのだけれど、見方を変えれば、リリーの躰を我が物顔で使っている
と解釈できなくもない。そう責められたところで、零姫の立場では「目覚めて
しまったものはしかたがない」としか答えられないのだが。
 ……それは、彼≠燗ッじだろう。
 だから、零姫は素直に怒りを収めたのだ。
 種は違えど、同じ無限転生者だ。その宿業は理解できる。

「とかげ……」

彼≠フ名を呟く。
 神を喰らったことで、決して死ねない呪いにかかってしまった男。死体から
死体へと憑依を繰り返すことで無限の転生を行う彼は、どういった経緯からか
数十年前に針の城の封印され、此度の策謀のために、十年前、イーリンの肉体
に魔術迷彩処理を施した上で埋め込まれた。
 なぜ、イーリンは蜥蜴の血肉を持っていたのか。人間でありながら、黄金に
輝く魔眼を持っていたのか。あの頬の刺青はなんだったのか。
 答えはすべて、このとかげ≠ェ握っていた。

 蜥蜴の血肉も魔眼も、とかげの魂を肉体に封印した副作用だったのだ。漏れ
出した特異性がイーリンの躰に侵食し、変異を呼んだ。
 零姫は知らないが、イーリンが不眠症になる切っ掛けとなった他人の夢
も、このとかげの記憶を無意識の世界で拾い取っていたからだった。

 つまり、イーリンの躰にとかげは同居していたということになる。
 死体にしか憑けない彼は、イーリンが存命中は表に出てくることは叶わなか
ったが―――彼女の死がスイッチとなって、こうして顕現を果たした。
 容姿も声もイーリンのままで、零姫の前に現れた。

127 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/19(水) 23:56:03


 なぜ、そんな回りくどいことをあの女≠ヘしたのか。それは、とかげには
魔術や妖術の類を強制的に無効化させる特質があるからだ。イーリンも似たよ
うな力を持っていたが、オリジナルは規模が桁違いだ。
 そこにいるだけで、周囲の霊力を消し飛ばしてしまう。魔術の計算式を分解
してしまう。零姫の背後の麒麟も、幻体を維持するだけでかなりの消耗を強い
られていた。……実に希有な特性だ。

あの女≠ヘ、そこに目をつけた。不可侵を誇る上級妖魔殺し≠フ結界も、
とかげの能力ならば内側から破れるのではないか、と。
あの女≠フ目論見は成功した。事実、彼が目覚めると同時にゾズマの結界は
解呪されてしまっている。いまの〈針の城〉は裸に等しい状態だ。
 十年以上も零姫を守っていた城塞は、消え去った。

 ―――すべてはこの瞬間のために。

 ゾズマの結界を破るために、イーリンは根っこの町からさらわれた。
 リリーと運命的な出会いを果たすように演出され、逃避行を裏で操作され、
火焔天で死にとかげが目覚めることすら計算されて―――ついにいま、十年越
しの念願が叶い、結界は消え去った。

あの女≠ヘ得意の絶頂にいるに違いない。十三年前の屈辱を見事に晴らして
みせたのだから。己の計画が一から十まで予定通りに成功したのだから。

 イーリンと同じく、とかげも道具以上の価値はない。〈針の城〉の結界が消
えたいま、あの女≠ェ直接零姫に手を下しに来るだろう。
 よもやクーロンにいるとは思わなかったが……ゾズマの胸に突き立つ魔剣が、
彼女の存在をはっきりと証明している。

「ならばここから早急に去るがよい」

 冷たい声のまま、零姫はとかげに言った。

「おまえの言う通り、それはおまえの躰じゃ。……イーリンの中で、おまえは
十年も待っていたのだから、そう主張する権利ぐらいはあろう。だから、その
躰でどこへなりとも自由に行ってしまうがよい」

 零姫がとかげを追い出そうとするのは、彼がイーリンの顔で、イーリンの声
で話しかけてくるのが、辛くてしかたがないから―――という理由だけではな
い。彼を丁寧に歓迎する時間的余裕などまったくないのだ。

 ここは、もうすぐ戦場になる。
 第二次妖魔租界戦争が始まろうとしているのだ。 

128 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/20(木) 01:55:12
>>

「へっ。話が早いじゃねえか。だが……そうもいかねえんだ。
 そりゃあ『はいそうですかではお言葉に甘えて』とズラかれるんなら、俺も苦労はしねえんだがな」
 
 実際、この言葉に嘘はない。
 俺には俺のやるべき事がある……探さなくちゃならない奴がいる。それ以外の者など、俺にとっては
何の関係もねえ。あの女も、この姫さんも、何もかも。
 おまけに俺は特異存在だ。居るだけで霊脈を歪ませ、結界に干渉し、余計なものを呼び寄せる……
一つ所に居てはろくな事にならねえ。叶うなら、さっさとここからおさらばしたいというのはだから本音だ。
 しかし。

「まずあんただ、姫さん。あんたは俺の『より』なんだよ。
 イーリンは今際の際まであんたを想っていた。この体にはその念が宿り、俺はそいつに縛られる。
 次の死体を探すまで、俺は残念ながらあんたから離れられねえんだよ。離れたが最後、この体は
 腐っちまうからな」

 もっとも、その『依』はこんな幻獣を作り出せるような強力な妖魔だと来ているんだからややこしい
話だが。おかげで随分と、体の調子は良い……飲み込んだあの「石」の力も相まって、例の幻魔とやらの
力をはね除けられる程度には。

「それでも出てけってんなら仕方ねえがな。俺自身はどうせ死ねやしねえし、こんなスラムなら
 死体なんぞ早々に見つかるだろ。そして代わりにイーリンは無縁仏だ。
 それであんたの気が済むってんなら、別に構わねえぜ?」
 
 相手にとって見知った人間のツラをして、あえてそんな風に突き放してやる。
 こう言われてなおも出て行けと言える人間は多くはない。
 まあ、こいつは人間じゃなく妖魔だが……表情見る限り、大して変わらねえだろ。
 
「まあそういうわけだ、悪いが付き合って貰うぜ。
 ……それに俺自身、あのクソ女には借りを返してやりたいんでな。
 その為にもこの、イーリンの体が必要なんだよ。他の死体じゃ意味がねえ。
 それにこっちは、あんたにとっても悪い話じゃねえはずだ」
 
 上手くいけば、だが……と心中で付け加える。
 正直言えば勝算はあまりない、馬鹿げていると俺自身思う。
 だがそれでも――このままで済ませる気は、毛頭ねえ。

129 名前:零姫 ◆MidianP94o :2008/11/21(金) 00:01:08



 ……こやつ、正気か。

 予想外の申し出に零姫は眉をひそめた。
 口調こそ乱暴だが、とかげの言い分はつまり「零姫の騎士になる」というこ
とだ。自殺志願も甚だしい。なんの義理があってそんな真似をするのか。せっ
かく取り憑いた躰をなぜ進んで壊そうとする。
 零姫にはとかげの考えが一分も理解できなかった。

 男性の魂を持つとかげが、なぜイーリンという女性の躰に宿るようになった
のか。それは、彼があの女≠ノ封印され、駒として利用されたからだ。
 つまり、一度は敗北しているのだ。
 無理もない。あの女≠ニ正面から対峙して、勝ちを収められる戦士がこの
世界にどれだけいる。ゾズマやイルドゥンですら厳しい戦いになるはずだ。
あの女≠ヘそれほどまでに強い。疑いようもなく妖魔最強である。彼の加勢
があったところで、勝算は変わらず絶望的なままだ。

 ―――負けると分かっている勝負に挑む愚か者は、ひとりで充分じゃ。

 それに、彼の躰は彼女の躰なのだ。
 もう、これ以上イーリンを傷付けたくはない。願わくば、せめて肉体だけで
も外≠ヨ連れて行ってやって欲しいとすら思っている。
 やはり、とかげを戦いには参加させられない。……しかし、零姫から離れれ
ば肉体が腐ってしまうというのだから性質が悪い。
 どうしたものか。

「あやつの狙いはわらわじゃ。わらわの側にいる限り、おまえは災厄に晒され
続けることになるぞ。であるならば、例え我が身が腐ろうとも、逃げられるだ
け逃げるのが得策というものであろう。……だから、わらわに構うな」

 零姫は素っ気ない口ぶりで言った。
 美しさが際立つからこそ、余計に冷たく見える彼女の横顔。これこそが本来
の零姫だ。誰にも興味を持たず、他人との関わりを拒絶する。
 イーリンに見せた感情の炎は、彼女の隠れた一面でしかない。

「これは、わらわの戦いじゃ」

 零姫の魔力は誰よりも高い。純粋な霊的スペックだけで比べれば、あの女
など零姫の足下にも及ばない。しかし、こと戦闘という分野において、零姫の
魔力はあまり役に立たず、逆にあの女≠フ武人としての力量は一個の軍に匹
敵するほど高かった。殺し合いになれば、まず勝てない。
 だから今日まで、零姫はあの女≠ニ剣を交えようなどとは思わなかった。
 逃げて、隠れて、一秒でも自分の生を伸ばすことに腐心していた。……しか
し今回だけは、零姫は自分の信念を曲げてあの女≠迎え撃つつもりだった。

 怒りがある。あの女≠、零姫は許せない。
 しかし、それ以上に―――悲しみが強い。
あの女≠ヘ憎いが、それ以上に自分自身が憎い。
 零姫は疲れを覚えていた。
 イーリンを守れなかった自分に、罰を与えたいとすら思っている。

 これは、そのための戦争だ。

130 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/21(金) 01:16:03
>>

 ……あーあ、見事に曲解してくれやがった。まあ、俺の言い方も悪かったかも知れねえけど。
 「借りを返す」なんぞと言っちまえば、確かにタイマンでも張ろうって思われるわな。
 だがこの姫さんも悲劇的に捉えすぎだぜ。……イーリンがどうしたかったのか、忘れちまったのかよ。
 
「あのな、姫さん……イーリンと共にいたのはあんただけじゃねえ。俺の望んだことじゃなかろうが、結局は
 俺もずっとこいつに付き合わされて……付き合ってきたんだよ。
 ふん……まあ、確かに俺らしくもねえ話だろうがな」
 
 本来なら俺は、適当な、しがらみの無さそうな死体を選んでずっと「生きて」きた。
 すぐに行方をくらませて、軽く変装をして、あまり人と関わらないようにしてきた。
 ……そうせざるを得ないんだから仕方がない。「とかげ」とは名ばかりに、俺は冷血ではいられねえタチ
らしい。あまり人と関わりすぎると情が移る。どうせ皆死んじまうのに、どうせ俺は異端なのに、どうせこの
手からこぼれ落ちてしまうというのに。
 だから誰とも関わらぬよう、俺は俺だと嘯いていつもは人の間をすり抜けていくことにしていた。
 いつもなら。
 
 ――――今度ばかりは別なんだよクソッタレが!
 
「ざっと十年……ああ十年間、こいつを『中』から見てきたんだぜ俺は。こんなクソくだらねえ、ろくな終わ
 り方もしねえと分かり切ってる三文芝居を、俺はずっと見てきたんだよ畜生が!
 責任者出てこい、ってやつだ。このまんま終わらせてたまるか、俺の気が済まねえんだよ!」
 
 情が移るだのなんだのという次元じゃねえ。
 ここまでさせられて、素知らぬ顔で居られるほど俺は冷血にはなれない。
 そんなだだ甘の自分にすら腹が立つが……どっちにせよこの最悪の気分は収めたくて仕方がねえ。
 
「だからだ、姫さん。俺は俺のしたいようにさせて貰うぜ」

 ではどうするか? んなもん、答えは決まっている。


「俺は――――イーリンの本懐を遂げさせる」


 そう言って、零姫の手を取った――先刻のイーリンと、同じように。


「逃げるぜ、一緒に。あの女の筋書きはここでご破算だ。成功率なんぞ関係ねえ。最後まで抗ってやる。
 この街からもあの女からも逃げおおせてやる――最悪の物語を、ぶち壊してやる。
 これが俺の戦いってやつだ。あんたと同じようにな」

 ついでに笑ってやろうか。
 もちろんそりゃ、悪人ヅラでだ。

131 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/21(金) 20:06:53
少し修正。


>>

 ……あーあ、見事に曲解してくれやがった。まあ、俺の言い方も悪かったかも知れねえけど。
 「借りを返す」なんぞと言っちまえば、確かにタイマンでも張ろうって思われるわな。
 だがこの姫さんも悲劇的に捉えすぎだぜ。……イーリンがどうしたかったのか、忘れちまったのかよ。
 
「あのな、姫さん……イーリンと共にいたのはあんただけじゃねえ。俺の望んだことじゃなかろうが、結局は
 俺もずっとこいつに付き合わされて……付き合ってきたんだよ。
 ふん……まあ、確かに俺らしくもねえ話だろうがな」
 
 本来なら俺は、適当な、しがらみの無さそうな死体を選んでずっと「生きて」きた。
 すぐに行方をくらませて、軽く変装をして、あまり人と関わらないようにしてきた。
 ……そうせざるを得ないんだから仕方がない。「とかげ」とは名ばかりに、俺は冷血ではいられねえタチ
らしい。あまり人と関わりすぎると情が移る。どうせ皆死んじまうのに、どうせ俺は異端なのに、どうせこの
手からこぼれ落ちてしまうというのに。
 だから誰とも関わらぬよう、俺は俺だと嘯いていつもは人の間をすり抜けていくことにしていた。
 いつもなら。
 
 ――――今度ばかりは別なんだよクソッタレが!
 
「ざっと十年……ああ十年間、こいつを『中』から見てきたんだぜ俺は。こんなクソくだらねえ、ろくな終わ
 り方もしねえと分かり切ってる三文芝居を、俺はずっと見てきたんだよ畜生が!
 責任者出てこい、ってやつだ! このまんま終わらせてたまるか、俺の気が済まねえんだよ!」
 
 情が移るだのなんだのという次元じゃねえ。
 「やがて死ぬ人間」に入れられたんだ。死を看取るまでただ黙って見ているしか術がなかった。
 それはこいつの一生を無理矢理背負わされたも同然だ。しかも当のイーリンにすら存在を知られずに!
 ここまでさせられて、素知らぬ顔で居られるほど俺は冷血にはなれない。
 そんなだだ甘の自分にすら腹が立つが……どっちにせよこの最悪の気分は収めたくて仕方がねえ。
 ましてやこんな馬鹿げた陰謀劇のおまけ付きとなりゃあ尚更だ。
 
「だからだ、姫さん。俺は俺のしたいようにさせて貰うぜ」

 ではどうするか? んなもん、答えは決まっている。


「俺は――――イーリンの本懐を遂げさせる」


 そう言って、零姫の手を取った――先刻のイーリンと、同じように。


「逃げるぜ、一緒に。あの女の筋書きはここでご破算だ。成功率なんぞ関係ねえ。最後まで抗ってやる。
 この街からもあの女からも逃げおおせてやる――最悪の物語を、ぶち壊してやる。
 だから今の俺はイーリンの体が必要なんだよ。『こいつと一緒に』脱出しなきゃ、意味がねえからな。
 『あんたの戦い』が知ったことか。これが俺の戦いってやつだ。あんたと同じように、な」

 ついでに笑ってやろうか。
 もちろんそりゃ、悪人ヅラでだ。

132 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/24(月) 20:40:26


 零姫は礼節を重んずる女だ。礼儀を軽んじる輩をもっとも忌み嫌う。無礼を
許しておけない性分だった。
 親しくもない他人に断りもなく触れられれば当然気分を害するし、それが異
性となると手厳しく叱責もする。
 とかげに手を握られたときも、やはり零姫は嫌悪に眉を寄せた。その馴れ馴
れしい振る舞いに、仕置きのひとつでもしてやろうかとすら考えた。

 ―――しかし、彼の指先の感触が、彼の肌から伝わる体温が、イーリンのも
のとまったく同じであることに気付いてしまい、零姫は何も言えなくなった。
 お仕置きどころか、手を払うことすらできなかった。

 ……この男は、卑怯じゃ。

 とかげはイーリンの指で零姫に触れ、イーリンの声で呼びかける。イーリン
のかんばせを向けて、イーリンの瞳で胸のうちを射貫く。
 抗えるわけがない。
 いまの零姫のもっとも弱い部分を、とかげは的確に突いてきた。
 彼はイーリンとはまったく別物で、もうイーリンはこの躰にいないというこ
とを、零姫は知っている。しかし、頭では理解していても、胸が納得しない。
とかげの表情に、イーリンの名残を求めてしまう。

 とかげとイーリン。
 変わったのは、右眼だけだった黄金の魔眼が、とかげが顕現してからは左眼
も開いたことか。……それと、頬の刺青が胸まで降りていったこと。
 この二つの変異に、零姫はだいぶ救われていた。
 顔面の刺青が無くなったお陰で、同じ顔と言えども印象はかなり異なる。
 両眼の魔眼も然りだ。片眼だけが瞳孔の細い黄金瞳なのと、両眼がそれなの
とでは表情の作りがやはり違う。
 とかげのかんばせからイーリンを探そうとして、逆に異なる点を見つけてし
まった零姫は、改めて「彼女はもういない」と自分に言い聞かせた。

 とかげの言葉を吟味するかのように、黙り込む。
 彼には感謝しなければならない。彼が一方的にまくし立ててくれたお陰で、
零姫は少しだけ冷静になることができた。とかげにはとかげの事情があるとい
うことを、落ち着いて考えることができた。

 ……不幸なのは、わらわだけではない。

 とかげだってそうだ。否、とかげのほうがはるかに辛いかもしれない。
 零姫は覚醒するその時までリリーの最深層で睡っていたけれど、とかげは自
らの意識を持ったまま、イーリンの躰に封印されていたのだ。
 彼はイーリンのクーロンでの生涯をずっと見守ってきた。見守っていながら
にして、なにもしてあげることができなかった。
 それは拷問に勝る苦痛だったに違いない。

 とかげのことをただの悪霊としか見なしていなかった零姫は、自分の了見の
狭さを素直に認めて、反省した。

133 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/24(月) 20:40:47


「……おまえの提案通り、一緒に行ってやらぬでもない」

 反省したのに偉そうな物言いが治らないのは、これしか零姫は他人との接し
方を知らないからだ。本音の部分では、いたく心を打たれていた。
 とかげはイーリンの裡にいた。彼は彼女の心の底までくまなく見渡していた
はずだ。自身が望む望まないに関わらず、強制的にイーリンのすべてを覗き見
させられていたはずだ。
 ―――そんなとかげだからこそ、イーリンの願いを、彼女がほんとうに望ん
でいたことを代弁できる。

 一緒に、外≠ヨ。

「よいの、だな」

 唇を震わせながら言う。

「わらわでも、よいのだな」

 それはとかげへの言葉というよりも、いまはいなくなってしまったイーリン
に手向ける最後の確認だった。

「リリーではなく、零姫であるわらわでも、おまえは誘ってくれるのじゃな。
一緒に行ってくれるのじゃな」

 イーリンは、どうして死んだ。なぜ死ななければならなかった。
 ―――それはリリーの夢を叶えるためだ。零姫を外≠フ世界へと連れ出す
ためだ。そのために愚かで一途な少女はすべてを捨てた。自分の命すらも平気
で投げ出した。
 これは、呪いに等しい。あまりに重い愛情を、零姫は背負わされてしまった。
 
 いまここであの女≠ヨの憎しみを破裂させ、命を賭して仇討ちに挑み、そ
して玉砕すれば、この呪いは解けるかもしれない。
 けれど、それではイーリンの死はどうなる。彼女の死が、まったくの無意味
になってしまうではないか。
 とかげは、そこまで考えていたのだ。

「……よかろう」

 イーリンは死に、リリーは消えてしまった。出会った二人はいないけれど、
躰はここに残っている。ならばまだ、零姫にもとかげにもできることがあるは
ずだ。死に逃避する前に、生きてやるべきことがあるはずだ。

「おまえがパートナーというのは大いに不服じゃが、互いに目的は一致してお
る。わらわはイーリンのため。おまえもイーリンのため」

 零姫はリリーとは違い、外≠知っている。無限の転生で、多くのリージ
ョンを巡った。例えクーロンが出ようとも、幸せは約束はされておらず、同じ
ように困難が待ち受けていることを、零姫は知り抜いていた。
 だが、それでも―――零姫はもう、ここには一秒たりともいたくはなかった。
 一秒でも疾くイーリンと一緒に、ここではないどこかへと行きたかった。

「クーロンなどクソ喰らえじゃ」

 イーリンの口ぶりを真似てから、零姫は笑った。微笑ではなく、イーリンの
ように快活に、笑った。

134 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/24(月) 21:54:16


「―――そうか。やはり、行ってしまうんだね」

 背後からかかった声に、零姫ははっと表情を驚かせて、振り向いた。

「ゾズマ……」

 胸に幻魔を突き立てた赤髪の魔人が、脚を引きずりながらとかげと零姫の近
くまで来ていた。本棚に肩を預けると、苦しそうに息を吐く。
「無茶をするでない」と忠告しかけるが、喉まで出かかった言葉を零姫はその
まま呑み込んだ。ゾズマは別に無茶をしているわけではない。この元筆頭騎士
は、ただそうしたいからしているだけ。気づかいが意味を為さない男なのだ。

「僕としては、火焔天に留まって欲しいところだけど……。なにせ、ここが一
番安全だから。けど、強制はしない。君がしたいようにすればいい」

 うむ、と零姫は頷いた。ゾズマは一度たりとも、零姫に何かを強いたことな
どなかった。リリーを閉じ込めた彼だけれど、零姫が目覚めたら、即座に〈図
書館〉の鍵も開いた。―――彼はただ、零姫が覚醒するまで、彼女の躰を守っ
ていただけなのだ。不器用というより、純粋すぎる男だった。
 あまりに純粋であるが故に、人間味を欠片も持ち合わせていない。
 それがゾズマという妖魔だ。

「わらわは行く。ゾズマ、今日まで迷惑をかけたな」

「……次に転生するときは、もうちょっとお淑やかな子を頼むよ。あの子はち
ょっと、元気がありすぎて僕の手には負えなかったから」

 ゾズマの手さえ焼かせたのだ。あの白百合の娘は本物の大物だった。

「おぬしはどうするのじゃ」

「僕は―――残るよ。この躰で火焔天の外へ行くのは賢くないからね。とても
じゃないけど、あの子からは逃れられない。ならば、ここで息を潜めるさ」

 それが一番妥当な選択だということは、零姫も分かっている。
〈針の城〉の第零層火焔天≠ヘ、ゾズマの最後の城。他のすべての層が陥落
しようとも、ここは〈紅の魔人〉の結界として機能し続ける。どうせあの女
と戦わなければならないのなら、自分のフィールドでやるべきだ。

 しかし、零姫の目的は外≠ヨと行くことだから―――

「ここで、お別れじゃな」

 ああ、とゾズマは頷いた。

「僕は心から願うよ。君が今度こそ寿命を全うしてくれることを」

 無限の転生を繰り返す零姫だったが、あの女≠ノ執着される以前から、ま
だオルロワージュが妖魔の君だった時代から、その生涯は短命のまま終わって
いた。どんなに長く生きても二十代半ばで果ててしまう。平均すれば寿命は十
代の前半で、年齢が二桁に達する前に死ぬことも珍しくなかった。

 そんな儚い生の連続に苦しむ零姫は、だから「せめて一度ぐらいは人間とし
て人生を全うしたい」と切に望んだ。零姫も妖魔もファシナトゥールも関係の
ない世界で、穏やかな営みに幸せを感じたいと。
 ゾズマは、その想いを汲んでくれたのだ。

135 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/24(月) 21:54:27


「今回限りの特別サービスだよ。次はない。僕はもう懲りたからね」

 幻魔からの侵食で発狂しかねないほどの痛みを覚えているはずなのに、顔に
汗を浮かべつつも、ゾズマは悪戯っぽく微笑んで、ウインクした。
 ふふ、と零姫もつられて笑う。しかし、次のゾズマの言葉を聞いてすぐに表
情に強張らせた。

「クーロンの外を目指す君たちに告げるのは、心苦しいのだけれど」

 ゾズマにしては珍しく、若干の躊躇いを見せつつ口にする。

「〈針の城〉は、この火焔天を除いて十層まですべて墜ちている。〈針の城〉
はいまや敵の城で、僕たちは完全に包囲されていて、君たちは敵陣の真っ直中
を通り抜けなければならない。とても愉快な状況だね」

「なんと……」

 結界が破られた瞬間から侵攻は始まるだろうと覚悟していたが、まさかもの
の数分で九割方が制圧されてしまうとは。あの女≠ヘ自分の軍を使えないは
ずだが、まさか単身でそこまでやってのけたのか。

「こんな事態を招いてしまった侘びというわけではないけれど、幻魔は僕が引
き受けよう。この魔剣が無いだけでも、あの子の力はだいぶ削げるからね」

「しかし、それではおぬしが―――」

「勘違いしちゃ駄目だよ、零姫様。僕は火蜥蜴の子みたいに、自分の命を燃や
し尽くしてまで……なんて情熱はない。あくまで死なない程度に粘るだけさ」

 それを聞いて安心した。イーリンに続いてゾズマまで自分のせいで死なれて
は、業が深すぎて窒息してしまう。

「ついでに、これも」

 ゾズマは赤鞘に収めた自分の愛刀を、零姫に渡そうとしたが、少し考えてか
らとかげに押しつけた。

「銘は嘯風弄月≠ニいう。月下美人と並び称される名刀だ。君にあげるよ。
これで、零姫様を守ってあげてくれ。クーロンを無事に出られたら、好きにし
て構わない。売れば一財産になるよ」

 イーリンはゾズマを怨敵と見なしていた。ゾズマも、イーリンを味方とは決
して思っていなかった。なのに、とかげに愛刀を譲ったのは、ゾズマはゾズマ
なりに、イーリンとリリーについて思うことがあったからだろう。
 なにせ、彼はこの数百年――オルロワージュとの決戦さえ含んでも――ここ
までの重傷を負わされたことは一度として無かった。たかが人間の小娘に、上
級妖魔の中でもトップクラスの力を持つ〈紅の魔人〉が敗れたのだ。
 ゾズマの性格なら、愉快に思わずにはいられないのだろう。

「この十二年―――鬱陶しいことも多かったけれど、その分だけ、退屈を忘れ
られた。君たちには感謝するよ」

 だから、いってらっしゃい―――と。
 ゾズマは火焔天をホームに見立てて、零姫ととかげを送り出した。

136 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/24(月) 23:50:20
>>

「くく……くははははははっ!」

 思わず声出して笑う。より正確に言えば笑うしかない。
 
 ダージョン……いや、ゾズマっつったか。野郎の言うことにはこの<針の城>が現状ここ中心部を除いて
既に敵地。クーロンから、どころかこの真っ赤に染まりきった状況からの脱出ゲーム開始の合図と来た
もんだ。

「サービス精神旺盛すぎてますます借りを返してやりたくなったぜあのクソ女。どっかのテレビゲームよ
ろしく俺に千人斬り無双でもしろってのかよ?」

 ……出来るかんなもん。こちとら別に戦闘のプロでもなんでもねえぞ。
 まあ、しかしそれはそれとしてだ。
 
「まあくれるってんならありがたく貰っとくが……いいのかよ? 俺にはてめえの無事を祈る義理はねえぜ
ダージョン様よ? 俺の義理はイーリンに対してのみだからな。……ま、その為にも姫さんはきっちり守
ってやるけどな」
 
 千人斬りしようがしまいが、確かに武器があるならありがたい。
 ――実際受けとった「嘯風弄月」とやらは、確かにその名に負けぬ名刀だった。それでいて俺としては
具合の良いことに霊刀の類でもない。銘から言っても、こいつは何かに染まりきることのない刀ということか。
案外に、俺の手に馴染むかも知れないな。
 鞘を挿しておけるようなもんはないが、まあそこは仕方ねえか。

「良し、と。……さて、姫さん」

 改めて、向き直る。
 反撃の狼煙って奴のために。
 
 
「結局の所、こいつは代理闘争だ。あんたの言うとおり、俺らはイーリンのためにここを脱出する。
だからこそ……死ねないぜ? 玉砕じゃねえ、絶対に生き延びてやる」

 まったく、こんなことは初めてだ。
 こんな身になって、どうせ死ねないと諦めることや、俺だけが生き残って後悔することはあっても……
絶対に生き延びてみせる、だなんて状況に放り込まれるなどとは。
 
 ――俺の本当の望みは「死」だ。無為な生など、もう重ねたくない。
 それなのに。
 それなのに……この気分は悪くない。明確な敵がいるからなのか、それとも「生き延びてやる」という
思いのためなのか。

 まあ、なんでもいい。とにかくやってやる。
 
「クソ食らえついでに、この最悪の状況とやらもクソ食らえと行くぜ、姫さん。どこまでも突っ走って、
目指すは馬鹿どものいない場所へ、だ!」

137 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/26(水) 20:58:19
よく考えたら俺別に「イーリンに義理がある」訳じゃねえよな。
んなわけで↓このように訂正だ。

「まあくれるってんならありがたく貰っとくが……いいのかよ? 俺にはてめえの無事を祈る義理はねえぜ
ダージョン様よ? 俺はただ俺の勝手で姫さんと逃げようってだけだからな。……ま、その為にも姫さんは
きっちり守ってやるが」

138 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/29(土) 22:55:58


 とかげの威勢の良さは、悲観的思考に陥りがちな零姫の気分をいくらか和ら
げてくれた。彼は彼なりに気を使って慰めようとしてくれているのだと解釈し
て、少しは認めてやってもいいかもしれぬな、などと考えたりする。
 ―――が、しかし。
 現実的な問題として、いま二人が置かれている状況はかなり厳しい。とかげ
が想像しているよりもはるかにだ。最悪を通り越して、絶望と断言してもいい
かもしれない。だから零姫も、一時は玉砕を覚悟したのだ。

 ……あの女≠ヘ本気じゃ。

 十年越しの計画が大成するのだ。とかげと零姫がクーロン脱出を試みる可能
性も当然考慮しているだろう。あの女≠ヘいったいどんな綿密な計画のもと、
最後の詰めとしてとかげを排除し、零姫を捕らえるのか。
 それが、見えてこない。

 クーロンは、治安こそ悪いが外交では非常に強い力を持っている。共同租界
には自国民を守るために、それぞれのリージョンが軍隊を駐留させているし、
IRPOの治安維持軍もターミナル港警備を名目に一個師団が常駐している。
 いくらあの女≠ナも、軍を率いて電撃的に攻め込んで一晩二晩で制圧する
なんて芸当は不可能だ。かといって戦闘が長引けば、トリニティやシュライク、
IRPOをも巻き込んで恐ろしい規模の戦争に発展してしまう。もう百年近くムス
ペルニブル制圧に忙殺されているあの女≠ノ、そんな余裕はない。
 動かせるとしても精々一部隊程度。可能性としてもっとも濃厚なのは、あ
の女≠ェ愚かでかつ無謀にも単身で乗り込んでいること。
 しかし、だとしたら。

 ……説明がつかぬ。

 ゾズマは確かに言った。〈針の城〉は火焔天を残して陥落した、と。
 それも結界が破れた瞬間にだ。いくらあの女≠ニいえど、物量に頼らずど
うしてそんな真似ができる。軍を動かさずに、どうやってあの女≠ヘ〈針の
城〉を制圧したのか。いま、この火焔天の外の様子はどうなっているのか。
〈針の城〉はいったいどうなってしまったのか。
 零姫は考える。考える……が、分からない。

 かつてはすべての霊脈を掌握し、自身の身体の一部として完璧に〈針の城〉
を理解していた零姫だったが、とかげの顕現により霊場は乱れに乱れ、いま
は縮地はおろか千里眼すら使用することは叶わない。
 地の利は完全に失せていた。
 ゾズマの言葉通り、火焔天で迎え撃つのがもっとも賢い選択だ。
 ……しかし、それでは外≠ヨは至れない。

「案じても道は開けぬ、か」

 零姫は結論する。ここはとかげという不確定因子に期待をよせるしかない。
あらゆる魔術的作用を否定するとかげの特異能力ならば、あの女≠フ算段を
狂わすことができるかもしれない。
 零姫ととかげの目的は、あの女≠斃すことではなく、生きたままクーロ
ンから脱出することなのだ。その程度の奇蹟ぐらい、期待してもいいはずだ。

 ―――イーリン、待っておれ。

「わらわが見せてやる。色彩に満ちた外≠フ景色を」

 無限転生の姫は、閉じられた世界の扉を開いた。

139 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/29(土) 22:56:14


 ―――開いて、絶句した。

「こ、これは何事じゃ」

 第零層火焔天≠ニはリリーを監禁すること――ゾズマから言わせれば零姫
を護ること――を目的とした建造物だ。多層都市〈針の城〉の中心にあり、高
層建築物の密集地帯である〈針の城〉において唯一の一階部分で完結した平屋
の低層建築物であった。外観は薄べったい箱状で、まるで黒檀の巨大な棺桶の
ようだった。面積の八割方を零姫の私室である〈図書館〉が閉めているため、
屋外に出るのは苦労しない。零姫もとかげと一緒に〈図書館〉を出てから、ほ
んの数分でゲートに辿り着いてしまった。

 ―――問題はそこからだ。

 零姫は火焔天と第一層月天(つきてん)≠フ境界の風景を直に見たことは
ない。……が、リリーのときに幾度となく霊視はした。彼女の視界≠ヘ〈針
の城〉の全層に及んでいるのだ。零姫が知らない〈針の城〉の風景などない。
 しかし、ゲートの向こう側に広がるそれは、驚愕で思考が真っ白になってし
まうほど、あまりに―――あまりに見知らぬ景色に成り果てていた。
 まるで異界に迷い込んでしまったかのようだ。誤ってワープゲートでもくぐ
ってしまったのではないか、とすら零姫は一瞬勘ぐった。
 それほどまでに、零姫の知る〈針の城〉とは異なる風景。

「―――いや」

 知っている。
 わらわは知っているぞ。
 確かにこの景色を見ているぞ。

 人工的な明かりの一切が見当たらなず、周囲は闇が支配している。目視でき
てしまうほど濃厚な瘴気が立ちこめ、まるで暗黒の霧のようだ。
 目を凝らして街並みを観察することで、ようやくここが〈針の城〉であると
知れるが、その変容の具合は絶望するほどに激しい。
 夜空へと突き立つあらゆるビルは荒廃し、窓という窓からは鏃のように尖っ
た枯れ枝が突き出している。攻撃的な荊がどこからともなく密生して、舗装さ
れた路地を引き裂き、ビルの壁を食い破っていた。
 印象で語るならば、荊と枯れ枝の津波に〈針の城〉が呑み込まれてしまった
かのようだ。枯れ枝にも荊にも生気というものがまるで感じられず、闇が凝固
して生成されたように見える。空気は澱みきって、夜空すら満足に窺えない。
 ―――そんな隠されたクーロンの空に、異常なまでにはっきりと浮かび上が
る血色の満月。

 こんなのは断じて〈針の城〉の景色ではない。
 しかし、零姫は知っている。
 この景色を知っている。
 クーロンよりも遥かに馴染み深いこの景色は―――

「針の城……」

 妖魔としての零姫の故郷。
 かつて彼女が逃げ出した場所と瓜二つの光景が、そこにはあった。

140 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/29(土) 22:57:07


 ―――そして、紅の満月を背負った女がひとり。

 零姫の視界の先で、二人を待ち受けていた。悠々自適に佇み、まるで、来訪
者は零姫ととかげのほうで、自分こそがこの城の主だと言いたげな態度で。

 女は特異な存在だった。チーパオ・ドレスにお団子頭というクーロンの伝統
衣装は今時演劇でも滅多にお目にかかれないほど時代錯誤なのだが、クーロン
ストリートの茶屋で給仕でもしていそうな町娘然として愛敬のある顔立ちのせ
いで、不思議と違和感はない。……が、その素朴な印象が、この異様な光景と
はまったく相容れず、余計に倒錯感を掻き立てている。

 クーロン女は自身に満ちた不遜な笑みを絶やさず、これまた伝統的な訛りで
零姫に声をかける。

「ニーハオ! ファシナトゥールにようこそ、アル」

 それは、かつてイーリンにシャオジエと呼ばれて、慕われていた女だった。

141 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/11/29(土) 23:18:57
加筆




 ―――そして、紅の満月を背負った娘がひとり。

 零姫の視界の先で、二人を待ち受けていた。
 悠々自適に佇み、まるで、来訪者は零姫ととかげのほうで、自分こそがこの
城の主だと言いたげな態度で。

 娘は特異な存在だった。
 チーパオ・ドレスにお団子頭というクーロンの伝統衣装は今時演劇でも滅多
にお目にかかれないほど時代錯誤なのだが、クーロンストリートの茶屋で給仕
でもしていそうな町娘然とした愛敬のある顔立ちのせいで、不思議と違和感は
ない。
 ……が、その素朴な印象が、この異様な光景とはまったく相容れず、余計に
倒錯感を掻き立てている。

「誰じゃ、あやつは」

 零姫は眉をよせた。自分たちを待ち受ける者がいるであろうことは想像して
いた。しかし、それは彼女ではない。てっきりあの女≠ェ待ち構えているも
のだとばかり思っていたのに。
 こんな娘、零姫は知らない。リリーとして過ごした時間まで遡っても、見た
ことも視たこともなかった。

 零姫が訝しむ一方で、クーロン娘は自信に満ちた不遜な笑みを絶やさず、こ
れまた伝統的な訛りで快活に声をあげる。

「ニーハオ、零姫様! ファシナトゥールにようこそ、アル」

 それは、かつてイーリンにシャオジエと呼ばれて、慕われていた女だった。

142 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/11/30(日) 21:23:26
>>

 ――は、やれやれ、なんとまあ。
 
 ほぼ全域が制圧済みだとは聞いてたが……蓋を開けてみればなるほど、こういう訳か。
 実際に姫さんが驚愕しているあたり、効果はあったんだろう。
 ついでに俺にとっても見覚えが無くもないが……まあそんなに動揺はしてねえな、我ながら。
 クソ忌々しい光景なのは確かだが、俺としてはそれ以上に……
 
「てめえは本当に小細工好きだな。なあ、シャオジエ?」

 目の前にこいつが居ることのほうが、よっぽど重大だ。
 ……クソ、初っぱなからこれかよ、ええ?

「初めまして、じゃねえよな。お久しぶりですってのも少し違うが。イーリンがお世話になって
ました、ってのが妥当なとこか? しっかし第一ステージでいきなり顔合わせとは俺としても
予想外だったぜ。姫さんはあんたのことを知るはずがねえんだから、俺への当てつけか?」

 その通り、実際姫さんの表情を見るに、知る由もなかった相手のはずだ。
 だが俺は知っている。……嫌になるほど知っている。
 だからこそ俺の今の台詞は不正解だともわかる。ああ、「俺への当てつけ」なんかじゃね
えだろうさ、こいつは……

「なあ、シャオジエ……ええと、てめえの本名なんつったかな。忘れちまったよ。まあ別に
んなもんは重要でもなんでもねえから構わねえだろ? てめえは『そんなもんじゃねえ』んだ
からな。……ったく、マジで小細工好きだよな。んな格好、恥ずかしくねえのかよ?」

 名探偵、皆を集めて「さて」と言い。……二人しか居ねえけど。
 
 実際、全く見た目は違う。ただの変装目的ってだけなら大したもんだ。霊格さえも異なって
見えるってんだから尚更だろう。現に姫さんですら気づいてねえしな。一体全体どんなカラク
リを用いてやがるんだか、俺があやかりたいほどだ。
 だが、ここにこうして現れりゃ当然そいつはぶち壊しだ。だからこそ、小細工好きだと言っ
ているんだが。……こいつ、何のためにここに現れやがった。こんな風にして俺と姫さんの
意表を突いて、その好きに俺らをやっちまおうって腹か?
 は、まさかな。それこそ必要もない。別にこんなとこで待つ必要なんぞあるわきゃねえんだから。
 だったら……まだ、勝機はあるか。
 せいぜい軽口叩いて、こいつの「小細工」に乗っかってやろう。
 

「姫さんに分からなくとも俺にはわかる。状況証拠が揃いすぎてるってやつだ。大体てめえ
自身、暴いて欲しくて俺らの前に現れたんだろ? 違うかよ、なあ……


  妖魔公さん、よ!」

143 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/01(月) 23:54:25


 シャオジエはとかげを見つめ続けた。初めは、くりくりと愛らしく動く大き
な瞳を丸くして。次に、蔑みを孕みつつ眼を細めて。
 感情に富んだ表情が死んでいく。愛敬は失せ、冷徹な殺意が小さな躰から放
射される。シャオジエからものの数秒で「喜」の色彩が抜け落ちた

 ―――やがて彼女は表情を歪ませて、苦痛を表現する。

「……醜い、アル」

 吐き捨てるように紡がれたシャオジエの言葉に追従するように、荊と枯れ枝
に蹂躙された〈針の城〉が奮えた。闇が蠢き、肉声となって夜に谺する。

 
  貴様はもう、なにも喋るな。

 
 ―――確かに、そう言った。〈針の城〉がとかげに語りかけた。ビルとビル
の隙間を走る風の音が女の声を作ったのだ。
 不気味な現象に零姫は「むぅ」と呻く。ここはいったいどこなのか。あのク
ーロン娘はいったい誰なのか。ようやく彼女にも分かりかけてきた。

 地面をびっしりと埋め尽くす荊が、シャオジエの脚に絡まっていく。脛に巻
き付き、太股を昇り、瞬く間にチーパオ・ドレスの姑娘を呑み込んでいくのだ
が―――異様な事態に晒されても、シャオジエの表情はまったく乱れない。
 変わらずとかげを見つめている。

「……なるほど、見えたわ」

 いまや胸まで荊に抱擁されたシャオジエを睨みながら、零姫は言う。

「なぜ、ファシナトゥールを留守にしてまであやつが直々にクーロンに乗り込
んできたのか。わらわを捕らえることのみが目的であるならば、手勢を差し向
ければよいものを……」

 ぎり、と奥歯を噛んでから、零姫は叫んだ。

「おまえは狂っておる!」

 荊が螺旋の渦を巻いて娘の矮躯に幾重も幾重も絡みつく。ついに、シャオジ
エは頭のてっぺんまで、完全に茨に呑み込まれた。

「ああ、そうさ!」

 なんと、荊の塊が声を張り上げた。シャオジエの声ではない。先程の、〈針
の城〉に谺した凜と透き通る女性の声だ。

「認めよう。私は狂っている! しかし、誰が私を狂わせた?! どうして私
は狂わなければいけなかったんだ?! すべて、すべて貴様のせいだろう!」

 零姫、と荊は叫んで―――蕾が開花するかのように、戒めを解いた。

 シャオジエはどこにもいなかった。ほどけた荊のドレスから姿を見せたのは、
恐ろしいほどに端正な顔立ちをした一人の少女だった。

 少女は、少女にあるまじき格好をしていた。
 胸の部分にたっぷりとフリルをあしらったブラウスに天鵞絨地のジュストコ
ールを羽織り、太股まで露わになったタイトなショートパンツに、オーバーニ
ーのレースソックスを組み合わせている。
 少年のような服装だった。
 少女は男装をしていた。
 しかし、それが奇矯にはまったく見えず、短く刈った浅葱色の髪との相乗効
果で、異性同性を問わずに感服してしまうほど美しく仕上がっていた。

144 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/01(月) 23:54:48


 少女は、上級妖魔の証である血色の瞳で零姫を睨む。零姫もまた、少女を睨
み返してから呻いた。

「アセルス!」

 妖魔公。
 男装の麗人。
 妖魔最強の剣客。
 闇を統べる者。
 魔法剣士。
 妖魔の君。

 通り名は多くあれど、彼女の真名はたったひとつしかない。

 妖魔アセルス。

 ―――すべての妖魔の頂点に立つ者が、ここにいる。

 ……しかし、零姫はまったく物怖じせずに怒鳴りつけた。

「アセルス。おぬし、自分の寵姫を喰いおったな!」

 ふん、とつまらなそうにアセルスは鼻を鳴らす。

「私が目指す永遠の、一つの完成系さ」
 
 だから、なのだ。
 だから、アセルスはゾズマにも零姫にも気付かれることなくクーロンに滞在
できた。魔女シャオジエ≠ニいう偽りの身分で、好き勝手に振る舞えた。
 ただの変装ではなく、魔術迷彩ですらない。
 彼女は完全な他人に成り代わっていたのだ。霊格はおろか魂でさえも、シャ
オジエとアセルスでは異なっていた。

 シャオジエの、容姿と声と愛らしさは―――元々は、蓮華姫≠ニいうアセ
ルスの寵姫のものだった。蓮華姫とアセルスは互いに好き合う仲であったが、
ファシナトゥール入りを果たす前に、不治の病に蝕まれて死亡した。
 アセルスには、そういった「愛し合っていたのに、結ばれずに失ってしまっ
た」お姫様が数多く存在する。
 ―――この妖魔の君は、蓮華姫に留まらずそのような永遠になってしまっ
た£桾Pたちの亡骸を取り込むことで、魂の婚姻を目指したのだ。

 もはやアセルスは、一匹の妖魔ではなかった。
 彼女は城であり軍であり世界であった。
 クーロンに顕現したこのファシナトゥールは、〈針の城〉を呑み込んだこの
針の城は、その一つ一つがアセルスの細胞であり内臓である。……つまり、こ
こは妖魔の君の体内と呼ぶに相応しい、閉じられた世界であった。

「アセルス、おぬしというやつは……大馬鹿じゃ」
 
 数十年会わないうちに変わり果ててしまったかつての戦友を前にして、零姫
は怒り以上の憐れみを抱いてしまった。

 対するアセルスの返答は―――

「この私の城に、イーリンを招き入れる」

 だから、イーリンの躰を返してもらおうか。
 そう、とかげに命令した。
 その口調は、紛うことなく命令だった。

145 名前:あせるす:2008/12/04(木) 13:22:14


 ―――イーリン。
 その名を口にするだけで胸が強く痛む。心が折れそうになってしまう。

 アセルスは流浪の魔女シャオジエ≠ニして、イーリンがまだ言葉すら満足
に操れない頃から面倒を見てきた。今日までの十年間、成長を見守り続けた。
根っこの町≠ゥら幼いイーリンをさらった当時は、無作為に選んだ贄程度に
しか思っていなかったが、イーリンが美しい少女へと育ってゆくにつれ、アセ
ルスの心のうちには火蜥蜴の彼女の存在が強く居座るようになった。

診察≠ニ称してイーリンの精神拘束を調整するとき、睡っていることをいい
ことに唇を奪った回数は――― 一度や二度では済まない。

 アセルスは火蜥蜴イーリンを愛していた。彼女が死んだ事実をもっとも悼ん
でいるのは他ならぬ自分自身だと、根拠もなく確信していた。
 寵姫にしてあげてもよかったのに、とすら考えている。
 彼女と一緒に永遠を生きたかった―――そう強く思えるからこそ、アセルス
は零姫を許せない。イーリンを殺した彼女が憎くてしかたがない。

 この魔女さえいなければ、私の火蜥蜴は死なずに済んだのに。

 確かにアセルスは、数十年前に封印したとかげを人造霊に偽装させてイーリ
ンに憑依させた。彼女が死ねば、自動的にとかげが顕現するように仕組んだ。
 しかし、それは保険に過ぎず、アセルスは「イーリンがリリーを結界の外へ
連れ出す」可能性に賭けていた。零姫を自分の手の届く範囲にまでおびき寄せ
ることができるのなら、とかげに利用価値はないのだから。

 結果は―――アセルスは期待と愛情を裏切られ、イーリンは〈針の城〉の中
心で事切れた。とかげは顕現し、結界は消滅し、保険は十全の役割を果たした。
「零姫を捕らえる」という十年越しの計画は、いままさに成就せんとしている。
が、そのために犠牲となったものは―――あまりに大きい。

「イーリン……」

 失いたく、なかった。

「イーリン―――」

 彼女の苦悩と葛藤を、もっと見ていたかった。

「イーリン!」

 一緒に、永遠になりたかった。


 ―――しかしもう、クーロンの火蜥蜴はどこにもいない。

146 名前:あせるす:2008/12/04(木) 13:22:33


「貴様のせいだ!」

 アセルスの美貌が憎悪に染まる。
 なぜ、零姫はイーリンが差し出した外≠ヨと続く手を取らなかったのか。
彼女が素直にイーリンの願いに従っていれば、イーリンは幻魔を使う必要はな
かったのに。零姫の優柔不断な態度がイーリンを殺した―――そう確信してい
るアセルスは、だからこそ余計に零姫を憎む。先代妖魔の君の血の縛りから唯
一抜け出した寵姫という事実だけでも憎悪に値するというのに。

 妖魔公アセルスの目的は三つある。

 ひとつめは、零姫を捕らえ、屈服させること。針の城の地下迷宮に突き落と
して、死ぬことも生きることも叶わぬ身にさせること。

 ふたつめは、妖魔の君という立場を省みての悲願。このままクーロンをファ
シナトゥール化させて、世界の中心であるターミナル港を占拠すること。
 リージョン・シップの航路を押さえてしまえば、人間社会への侵略は格段に
楽になり、より堅固な支配体制を確立できる。

 みっつめは―――
 いまのアセルスにとって、これこそが最大の目的かもしれない。
 いままで早世していった幾人もの寵姫をそうしてきたように、イーリンの亡
骸を自身の闇に受け入れる。自分と他者を分ける『肉体』という境界線を排除
することで、二人はようやく永遠へと至れるのだ。

 イーリンは、私だけのものだ。
 誰にも渡さない。
 まして、零姫などには絶対に。

「火蜥蜴の彼女の目指した外≠ヘここにある!」

 シリウスはぬるい。ゾズマもぬるい。彼等はファシナトゥールや針の城を騙
るだけで、その本質をまったく理解していなかった。
 この私が見せつけてやる。ファシナトゥールとはなんなのか。針の城とはな
んなのか。―――自由とはどこにあるのか、を。

 アセルスの血色の瞳が禍々しい輝きを帯びる。彼女が口元を歪ませると同時
に、荊が、城が、世界が地響きをあげて震え始めた。

 第二次妖魔租界戦戦争の始まりである。

147 名前:あせるす:2008/12/04(木) 13:23:11
逃げるなり攻撃するなり、自由にアクションしてくれて構わない

148 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/05(金) 22:14:46
>>

 ……ち。
 「俺もあやかりたい」なんて前言は撤回だ。寵姫を喰った、だと?
 吐き気を催す邪悪、ってのはこういう事を言うのかも知れねえな……はっきりいって、おぞましい。
永遠がどうとか知ったこっちゃねえ、こいつは確かに狂ってやがる。

「言ってろ馬鹿。てめえなんかにイーリンを渡してたまるかよ」

 吐き捨てる。狂王に諭してやる言葉なんぞねえ。
 姫さんは憐れんでるようだが……俺はむしろ呆れる、といった心境だぜ。

「……てめえでイーリンに俺を混ぜやがって、てめえが勝手にそこに現れといて、それでそのツラか?
本当に吐き気がしそうだな。弁えろよ、そもそも俺もてめえも、ただの脇役だろうがよ」

 そうとも、こいつはてめえで都合の良いように話をすり替えているだけだ。
 このクソッタレな物語の主役はイーリン。
 ああ確かにイーリンにとっちゃシャオジエは重要な人物だったろうさ。
 
 『シャオジエは』、な!

「今更出しゃばるんじゃねえよ。本当に分かってねえのか?
イーリンが慕っていたのは『シャオジエ』だ。てめえじゃねえんだよ悪の妖魔公。
俺がどんなに苦悩しようが、てめえがどんなにイーリンを想っていようが……俺らは
『イーリンの知らない』ただの脇役だ。それを弁えるどころか、てめえは……」

 鞘を構える。姫さんを庇うように前に立つ。
 ……王子様ごっこなぞ柄じゃねえな。そもそも逃げなきゃいけねえんだし。
 だから足は引き気味だ。姫さんにもそれはわかるだろう。
 だが……挑発のために言葉を繰ってるわけでもないのも、きっと読まれてるんだろうな。
 ああ、正直腹が立っている。だから言わずにはいられねえよ。
 あとはせいぜい……挑発として機能してくれることを祈って、
 
「……イーリンの慕っていたシャオジエまでもを殺しやがって。
 ああそうだぜ、てめえはたった今イーリンの目の前でシャオジエを、リュイ・チャンウェイを
 殺したんだよ。そんな奴がなに言ってんだ馬鹿。付き合ってられねえな。
 勝手に言ってろ、俺らは行くぜ。イーリンを待たせられねえんでな」
 
 イーリンの弔いの合図を、言い切った。
 ……さて、そんじゃ逃げるとしますか。

149 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/06(土) 00:04:05


 アセルスは、とかげを見ながらにしてとかげを見ていない。彼女が見つめる
のは、とかげの躰―――つまりはイーリンのかんばせであり、肢体だった。
 どれだけとかげが口舌の刃で鋭くアセルスを斬りつけようと、彼を用済みの
寄生虫としか認識していない彼女はまったく堪えない。
 アセルスには聞こえないのだ。愛するもの以外の、如何なる声も。

 しかし、だからといってとかげの啖呵が無駄に終わったわけでは決してない。
 アセルスには聞こえずとも、彼の言葉をはっきりと聞き届け、胸に刻み込ん
だ者が、ここにはいる。

「―――感謝するぞ」

 とかげが盾のように構えた鞘を押しのけて、零姫は一歩前に進んだ。その眼
には毅然とした意思の輝きが宿っている。

「とかげよ。おまえはわらわよりも――リリーよりも――イーリンと一緒にい
た時間が長い。あの娘がクーロンに流れてから今日までずっと見守り続けたお
まえは、だからこそ誰よりもイーリンという娘を理解しておる」

 そんなおまえが紡いだ言葉だからこそ、強い説得力を秘めておるのじゃ。
 ……そう語る零姫は、シャオジエ≠ニ呼ばれる女の存在すら知らない。
 イーリンとシャオジエがどんな関係で、イーリンはシャオジエにどんな感情
を抱いていたのか。まったく察することができない。
 だから、とかげの言葉が重く聞こえるのだ。

「わらわも決断した。はっきりと答えを見出した」

 零姫はアセルスをきっと睨み据えると、声を張り上げた。

「大馬鹿者のアセルス! おまえにだけは、絶対にイーリンは渡さぬ!」

 とかげの声は耳に入らなくても、さすがに零姫の言葉は意識せざるを得なか
ったのだろう。アセルスは表情に不快の相を走らせた。しかし、それが実力行
使へと至るよりも疾く―――先手必勝。零姫が攻撃に出た。

 炎の竜巻が吹き荒れ、闇を払う。

 零姫はわずか一瞬の挙動で鳳凰と燭陰の幻獣を編んでみせ、アセルスにけし
かけさせた。―――幻術による並行召喚。それもただの幻獣ではなく、四竜と
四霊という神獣クラスの二匹だ。超常的な魔力量と、それを使いこなす明智を
持つ零姫だから可能とする奇蹟の具現。
 炎より生まれ、炎を支配する竜と鳥が、アセルスと彼女を護る荊を瞬く間に
炎で焼き尽くした。一瞬で灰となる妖魔の君。あまりに呆気ない。

「まだじゃ!」

 零姫は当然、これで終わりなどとは思っていない。

「この城≠ノおる限り、あやつは不死身に限りなく近い。ここは奴の世界。
わらわは奴の心象風景を見ているに等しいのじゃ」

 では、どうすればいいのか。
 ――― 一歩でも遠くまで逃げるのじゃ、と零姫。
 とかげの手を引いて、駆け出した。
 ……イーリンがリリーを、そうするはずであったように、だ。

150 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 20:12:32


 アセルスを荊ごと焼き払い、第一層月天≠突破した零姫ととかげが次に
足を踏み入れるのは水星天=\――〈針の城〉の第三層にしてクーロン・マ
フィア直属の凶手集団黒死病≠フ総本山だ。

 三階建ての、ビルと呼ぶより家屋と呼んだほうがしっくりと来そうな建築物
が整然と建ち並ぶ、貧民街には似付かわしくない街並み。歪なものなど何ひと
つなく、どの建物も同じ表情をしている。暗殺集団として、凶手の個性を極限
まで殺す黒死病≠フ在り方を忠実に再現した光景。水星天≠ヘ〈針の城〉
の秩序の象徴であり、その秩序の執行者こそが黒死病≠ネのである。

「おかしい」

 零姫は呻くように言った。
 視界に広がる第二層の街並み。それは零姫がリリーとして、幾度となく霊視
し、時には縮地で訪れたこともある光景だった。
〈針の城〉として一切の不自然がない。人気がまったく感じられないことすら
凶手集団の根城ということを鑑みると、違和感を覚えるには値しない。
 ……しかし、だからこそおかしいのだ。
 妖魔アセルスによって、月天≠ヘあそこまで禍々しく闇に汚染されていた
というのに、どうして水星天≠ヘもとの〈針の城〉のまままなのか。
 アセルスによるファシナトゥール化が進んでいるのならば、ここも月天
と同様に変異が始まっていてもおかしくはないのに。
 アセルスの魔力は月天≠ワでしか及んでいなかったのか。第二層以降の階
層はこれから侵されていくのか。
 ……いや、それは考えにくい。
 ゾズマは確かに「〈針の城〉は完全に制圧された」と語った。完全に、と言
い切ったのだ。ならば、まったくの変異なしなど考えられない。

 とかげとともに家屋の平べったい屋根を道にして第三層へと目指しつつ、零
姫の紅の眼はせわしなく周囲を探ってアセルスの気配を探る。
 この静けさが凶兆を予告している、と零姫が確信を胸に抱いたとき―――彼
女が危惧していた変異≠ェ足下から顕現した。
 正確には、いまのいままで気付かなかっただけで、零姫が水星天≠ノ足を
踏み入れた瞬間から、変異≠ヘ始まっていた―――

 ずぼり、と零姫のはいていた草履が、足袋ごと沈む。先を急ぎすぎたあまり、
屋根を踏み抜いてしまったのだ。わらわはそんなに重くないぞ、と視線でとか
げに弁明しつつ、変な疑惑を与えてくれた脆い屋根に無言で抗議する。

「……ん、これは」

 零姫はすぐに気付いた。この家屋の屋根だけ他とは違う。外見はまったく同
じなのに材質が違う。奇妙なまでに柔らかくて弾力性がある。心なしか香ばし
い匂いまでしていた。まるでイーストで発酵させたブリヌイの生地ような……。
 いや、これは。

「ブリヌイそのものじゃ!」

151 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 20:12:46


 お菓子の家だ。この家屋はパンケーキでできている。
 零姫は、連なる他の建物に慌てて視線を向けた。見た目に不自然なところは
ないが、よくよく観察してみるとそれぞれ材質が異なる。明らかにチョコレー
トでできている建物まであった。
 零姫は奇怪な事実に愕然とする。まさか、第二層のすべての建物がお菓子で
きているのか。黒死病≠ェ甘党だなんていう話は、今日まで聞いたことがな
い。ということは、これは―――

 はっと我に返る。今までまったく人の気配というものを感じなかった水星
天=Bしかし、零姫は気付いた。向かいの家の三階の窓から、自分たちを凝視
する人影があることを。この階層に棲まう殺し屋のひとりだ。
 視線は見る間に増えてゆく。向かいの家だけでも数十。他の家屋からも、黒
いインパネスコートにボーラーハットという出で立ちの凶手どもが続々と姿を
現してくる。どれもゾズマの忠実な下僕であるはずだが……。

 凶手はみな揃って生気が失せていた。闇が濃すぎて表情を窺えない。零姫は
瞳に魔力を集中させて、視力を強化しようと試みた。―――その瞬間。

 ぱん、と凶手のひとりが破裂した。服だけを残し、黒い霧となって霧散した。

「なっ……!」

 零姫が戸惑ううちにも、凶手たちは連鎖するように弾けていく。糸が切れた
人形のように、主を失った衣服が地面に崩れ落ちた。
黒死病≠ヘいったいどれほどの規模を持つ組織なのか。構成員は何人いるの
か。零姫はまったく知らないが、恐らく、水星天≠ノ残っていた凶手は全滅
したに違いない。ひとり残らず弾けて、黒い霧となった。

 しかし、零姫が砂糖菓子の魔宮で本当の恐怖を味わうのはこれからだった。

 零姫はすぐに認識を改める。自分が黒い霧だと見なしたもの。その正体を、
強化した視力がはっきりと捉えてしまった。

 それは親指ほどの大きさの、コオロギによく似た昆虫だった。
 漆黒の躰に人を狂わす紋様を刻み、夜に鈍く輝く赤い瞳を持つ魔棲蟲。
 ファシナトゥールでも辺境に棲息しており、針の城住まいだった零姫にはあ
まり馴染みがない蟲だ。―――それが、一瞬にして十万も百万も発生した。
黒死病≠フ凶手を苗床にして、無限に生まれ落ちた。

 零姫は顔を引きつらせて後ずさった。いくら世慣れた姫君といっても、この
光景には生理的嫌悪を掻き立てられる。あまりに悪趣味で、あまりにおぞまし
すぎる。まさかアセルスとの戦いで、こんなものを見せつけられるとは。
 妖魔公の美意識からかけ離れた情景だ。

 一千万の羽音が空気を震わす。鼓膜を破りかねないほどの騒々しさ。魔棲蟲
の大軍は水星天≠構成するお菓子の家に突撃し、貪欲に家々を食い散らか
し始めた。一件につき何千匹という魔棲蟲が殺到し、一分とかからずに家を消
滅させてしまう。
 一匹一匹は非力といえど、あれほどの数が相手ではさばきようがない。魔棲
蟲の食欲の対象が自分たちに向けられる前に―――

「わらわは逃げる!」

 零姫は幻術で道徳天尊の白鹿を召喚すると、跨る―――というよりしがみつ
くようにして騎乗し、颯爽と逃げ去った。

152 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/07(日) 20:59:51
>>

 ……って、おい。
 マジ逃げやがったぞ姫さん!
 てめえ一蓮托生の俺を置いていく気か!
 
 とかなんとかわめいて追っかけても構わねえんだが、とりあえずパス。
 状況的には悪くねえし、露払いを引き受けてやっても良いだろう。
 ……いや違ぇ。逃げる仲間の後ろで”露払い”は確実におかしいな、くそ。
 
 
「は! あの女、俺が『何なのか』を忘れてんじゃねえのか?」

 つかさっきの俺の啖呵も聞いてねえようだったしな、舐められたもんだ。
 ――迫り来る虫、虫、虫。これぞ文字通り雲霞の如く、ってやつだ。御馳走食ってご機嫌です
僕たち、あとはデザートに俺と姫さんを、ってか?
 馬ぁ鹿。餌はどっちだ雑魚共が。身の程を知りやがれ。
 
「何の因果か俺は『とかげ』だ。そしててめえらはどんな姿形してようがただの『虫』だ。
なら――食ってやるのが礼儀ってもんだよなあ?」

 もちろん、口でばくばく食ってやる気はない。さすがにそんなグロは後免被る。
 だが俺の眼には見えている。奴らは虫の形をしたただの魔力体だ。
 そして余計な属性を持っちまったのが運の尽き、ってやつだ。
 
 剣は左手に持ち替え、”とかげの刺青”を右手に移し、掲げる。
 そら――餌の皆さんがやってきた。こいつらは一匹残らず「とかげの餌」だ!
 消えやがれ!
 片っ端から俺に食われちまえよ!
 何千だろうが何万だろうが、俺の力になるだけだ!
 
 
 
 
「――おおい! ”貸し1”だかんな姫さん!」
 
 聞こえてんのかどうか知らねえ……と言いたいとこだが聞こえてねえと俺が困る。
 ともあれ、一匹残らず魔力に還元して「食い尽くした」俺は、刺青を胸元に戻して成果を主張する。
 大声で。
 つかどこまで行ったんだあの姫さん。「イーリン」を置いてってどうすんだ全く。
 
 まあいい、行きますか。

153 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 22:42:23

「ほう、やるのう」

 滅多に他人を褒めることのない零姫が、心の底から感嘆した。あれほどまで
に大量の蟲を、すべてもとの不定形の魔力へ還してしまうとは。
魔≠ニいうカタチを混乱させる彼の能力と、昆虫の天敵である爬虫類の特性
が合わさって初めて可能となる芸当だ。

 白鹿から恐る恐る降り立った零姫は、周囲には虫一匹残っておらず、ただお
菓子の家だけが廃墟の如く食い散らかされていることを確認すると、ふぅ、と
安堵の吐息を漏らした。

「しかし―――」

 解せぬな、と零姫は呟く。
 思い出すだけでも身の毛がよだつ、魔棲蟲の大軍。あれはどう考えてもアセ
ルスの嗜好の産物ではない。ファシナトゥール化が進むこの〈針の城〉が、ア
セルスの心象風景の具現であるならば、彼女が忌み嫌うような概念がカタチと
なるなどあり得ないはずなのに。

 この城≠ヘ思った以上に複雑な構造をしているのかもしれぬのう。

 零姫は、慌てて逃げたために乱れた裾を整えると、蟲の大軍など見もしなか
ったと言いたげな表情で、遠く離れたとかげに話しかける。

「なにをぼさっとしておるのじゃ。敵を全滅させたいまが好機じゃ。さっさと
次の階層へ―――」

 行くぞ、と言いかけて唇を止めた。

 とかげの頭上に浮かぶ、深紅の満月に影がさす。零姫は初め、高層ビルが月
を隠したのかと思った。が、すぐにそんなことはあり得ないと考え直す。
 ここは〈針の城〉の第二層。高層建築物が密集する外周層とは距離が離れて
いる。こんなに間近で目視できるはずがない。
 ……なら、あの影はなんなのか。

 巨人だった。

 先程まで、どこにその巨体を隠していたのか。
 比喩でも誇張でもなく、天を衝く背丈。馬鹿馬鹿しすぎるほどに常識外れの
巨躯。人のかたちをした塔や山と考えたほうが、まだ納得できそうなほどの大
きさに、零姫はただただ呆然と見上げるしかなかった。
 あれほどまでに巨大な生物が存在するものなのか。
 サイクロプスやタイタン、ギガントなどといった所謂巨人≠ニ称される魔
物の類が小人となってしまうほどのオーバーサイズだ。
 この巨人、零姫の深い知識で思い当たるのはでいだらぼっち≠ニいう伝説
上の妖怪だが、あれは神に限りなく近しい存在だ。零姫の幻術ですら召喚は叶
わない。いくらアセルスといえども、顕現させることは不可能なはずだ。
 なら目の前のこれはなんなのか。

 巨人は衣服をまとっておらず、顔ものっぺらぼうのように表情がなく、ただ
眼らしき部分に亀裂が入っているだけだった。躰も起伏に乏しく、ただひとの
カタチをとっているだけのように思える。まるで出来の悪い人形だ。
 ただ大きさだけが狂気の域に達している。巨人が十歩も歩けば、〈針の城〉
の外へと出てしまうのではないだろうか。

 先の蟲の大軍といい、この巨人といい。あまりにも常軌を逸した展開の連続
に、零姫は驚きを通り越して疲れを覚えかけていた。

154 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 22:42:38


 巨人はゆっくりとした動作で手を振りあげた。

 まずい―――。

 零姫は白鹿に飛び乗ると、風の速さでとかげへと接近し、そのまま速度を緩
めず、体当たりするように彼を騎乗へと抱き上げた。
 直後に、巨人は腕を振り下ろす。お菓子の家が潰れるだけに留まらず、その
衝撃は地震となって周囲の家屋まで倒壊させた。
 零姫ととかげが乗る白鹿は軽快な足取りで宙を跳び、被害を免れたものの―
――すぐに巨人は躰を前傾にして、鹿を掴もうと逆の手を繰り出した。

 魔力で編まれたものといえども、幻獣には己の意思がある。逃げ切れないと
覚った白鹿は、零姫ととかげを振り落とすと、踵を還して巨人に突っ込んだ。
 雄々しくも麗しい大角を巨人の掌に突き立てた次の瞬間、自らを構築する魔
力を暴走させ、白鹿は自爆。見事に巨人の右手を消し飛ばしてみせた。

 ……が、巨人は痛がるそぶりも見せずに、左手一本でお菓子の家の残骸をす
くい取り、器用にこねくり回して、パテのように右手を補修しはじめた。

「こ、こいつは手に負えぬぞ」

 逃げるしかない。先の蟲の大軍のときと同じ結論に達した零姫は――今度は
とかげと一緒に――全速力で駆け出した。

 とかげはただでさえ身体能力が高い上に、魔石を呑み込んでさらにブースト
されている。脚力は相当なものだった。
 対する零姫は、正直に言って運動が苦手だ。足代わりの白鹿を早々に失って
しまったことを悔やみつつ、韋駄天走りの歩法でとかげの背中を追う。

 巨人は動きこそ緩慢だが、サイズがサイズだけに、僅かな挙動だけで距離を
詰められてしまう。一歩前に進むだけで水星天≠フ街並みは無惨に引き裂か
れ、腕を振るえば区画が消し飛んだ。

「ええい、埒が明かぬ!」

 ファシナトゥール化した〈針の城〉は、距離感が大きく狂ってしまっている
ため、どこまで走れば次の階層へとゆけるのか皆目見当が付かない。
 ……まぁ、そもそもの話として、次の階層に逃げ込んだところで巨人に追い
かけ回されている現状ではどうにもならないのかもしれないが。

 いい加減、零姫の息も切れ始めたとき―――他のお菓子でできた建物とは明
らかにおもむきの異なる、木造の建築物が視界に飛び込んできた。
 横に長い一階建ての平屋。基礎のコンクリートは建物の五倍も近くも突き出
して、まるで舞台のようになっている。あの独特の外観は、まさか―――

「……駅舎じゃと?」

 間違いない。クーロンには存在しないはずの鉄道だ。建物に並ぶようにして、
漆黒の汽車までもが停まっている。目を凝らせば、丁寧に線路まで敷かれてい
ることが分かる。

 如何にも怪しく不自然な建物だったが、進路の先にわざとらしく建っている
のだ。ここで左や右に曲がれば、巨人が振り下ろす拳の餌食になってしまう。
しかたがなしに零姫は得体の知れない駅舎へと駆けこんだ。

 駅のホームには少女がひとり、ハンドベルをからんからんと鳴らしながら突
っ立っている。……その少女の正体を知って、零姫はさらに混乱した。
 チーパオ・ドレスの上から車掌用の上衣を羽織り、制帽を頭に乗せたあの娘
は―――

155 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/07(日) 22:42:50


「妖魔鉄道快速便は、間もなく『水星天・翠玉姫駅』を発車するアルー。駆け
込み乗車は遠慮するよろしねー」

 シャオジエ、と。……そう、とかげに呼ばれていた少女。
 つい十数分前に、第一層月天≠ナ零姫たちと対峙したクーロン娘。
 ―――彼女が車掌を気取って、ホームに立っていた。

「アセルス、おまえどういうつもりじゃ!」

 ホームによじ登る零姫を見て、シャオジエは「あいやー」とわざとらしく驚
いてみせる。

「お客さん駄目アルよー。ちゃんと改札口通るネ。無賃乗車許さないヨ」

「戯けたことを抜かすな!」

 普段の清楚さを忘れてシャオジエの胸ぐらを掴もうとした零姫だったが、直
後に背後からの地響きを感じて、視線をクーロン娘から漆黒の汽車へと移した。

「あれは張りぼてか! ブリキの玩具か!」

「莫迦言っちゃいけないアルよ。ばりばり現役の魔列車ね。地獄まで超特急で
お送りするネ」

「ならばさっさと出せい。このままじゃおまえも汽車ごと潰されるぞ」

 零姫の背後を見やって、シャオジエは再び「あいやー」と呑気に驚く。

「あれは別の階層の姫ネ。どうして水星天≠ノいるアルか。翠玉姫の顕現が
弱まったせいで、他層からの侵食が始まったとか? ……どっちにしろおまえ
等、迷惑なことしてくれたアルね。あいつ、他の寵姫と仲悪かったアル。きっ
とわたしのことも嬉々として潰してくれるネ。―――って、おーい」

 零姫も――ついでにとかげも――シャオジエの言葉などまったく耳を貸さず、
さっさと客車に乗り込んでしまっていた。

「……仕方ないアルねー。あとでお金はしっかりともらうアルよ」

 シャオジエは溜息を吐くと、手旗を振って汽車に合図した。手旗信号に反応
して汽笛が吹き鳴らされる。ゆっくりと動き始める車輪と車体。車内で零姫は
「むぅ」と呻いた。優雅にボックスタイプの座席に腰かけているものの、内心
は巨人に追いつかれやしないかとかなり焦っている。
 しかし、汽車はスムーズに加速し、あっという間に巨人を引き離した。巨人
は見る間に彼方の風景へと追いやられてゆく。

「……取りあえず、一難は去ったのう」

 ―――が、次の一難が目前に迫っているのもまた事実。
 巨人から逃げ延びたいという一心で乗り込んでしまったが、危険の度合いで
はこの汽車も十二分に危うい。自ら棺桶に入りこんでしまったようなものだ。
 車掌を気取っていたあのクーロン娘―――シャオジエは、先のようにアセル
スの擬態なのか、それとも本当に寵姫なのか。それも分からない。
 そもそもこの汽車はどこに向かっているのか。零姫たちを降ろす気はあるの
か。なにもかもが分からない。

「とにかく、じゃ」

 対面する席に座るとかげに、ごほんと咳払いしてから話しかける。

「弁当でも食うかのう」

156 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/07(日) 23:37:09
>>

「弁当ってお前……当たり前だが俺はなんも用意してねえぞ。駅弁売りでも来るってのか?」
 
 ボックス席、姫さんの向かい。
 足組んで頬杖突いて(スカート穿いてるわけじゃねえんだから何の問題もない)、しかめっ面
してみせて、ぼやく。
 実際、イーリンは飯粒一つオレンジ一つたりとも用意せずに”火焔天”へ特攻してきた
ようだしな。まあ……それこそ、当たり前の話なんだろうが。

 んなことは、まあいい。
 それよりもなんなんだこのデタラメな展開は。まさかこんなとこでぶらり途中下車の旅、
なんて羽目になるとはこれっぽっちも予想してねえぞ。しかもあの女が車掌だとか、ぞっと
しねえ。何やら色々事情はあるようだが全くどんな呉越同舟だよおい。

 ……今更、俺らの因果についてあれこれ突っ込んでも意味ねえのかも知れねえけど。
 大体俺にしてみればそもそもあの時、あの娘に「入って」しまったのがこの因果の始まり、
って奴なんだしな。それで何年も封印された挙げ句、訳も分からねえままイーリンに入れられ……

「……あー。訳が分からねえのは始めっからか」

 思わず口に出した。ので姫さんが訝しんでくれた。
 たりめーだ。
 だが分からねえもんは分からねえ。
 ……暇つぶしでもしてみるか。気分転換じゃねえけど。
 
「なあ、姫さんよ」

 頬杖突くのをやめて、向き直って呼びかける。
 ま、それなりに真面目な話だからな。
 
「姫さん……っつーかリリーは、確か人間だったはずだよな? 少なくともイーリンはそう思ってたし」

 観念的な意味でならともかく、リリーは運命のなんたらだろうが人間だったはずだ。
 文字通りの人外存在だとは思っちゃいなかった。イーリンは元より、”中”で見ていた俺も
確かにリリーはただのませたガキだとしか思ってなかった。

「だが姫さん、今の俺から見ればあんたは明らかに妖魔だ。まああんだけの力が使えるんなら
尚更って奴だけどな。……こいつはどういうことだ。そもそもあの女、なんであんたを狙って
俺をけしかけた? まさかあんたも俺とおんなじような因縁でも持ってるんじゃねえだr


――うぇ」


 真面目な話してたのに自分で台無しにしちまった俺。
 だが許せ。
 「マジで駅弁売りに来やがった」んだから許せ。
 つーか売り子あの女じゃねえかよおい! 空気読め馬鹿!
 大体てめえの売る弁当なんぞぞっとしねえよ!

157 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/09(火) 00:15:16


 売りに来たのなら、買わずに無視するわけにもいくまい。零姫は遠慮無く、
弁当の売り子――要するにシャオジエなのだが――から、ファシナトゥール
名物妖魔弁当≠二つと、土瓶入りの煎茶を二人前注文した。
「まいどーアル」と調子のいい声が返ってくる。ついでに「あとで切符代も頂
くアルからねー」という余計な一言も。

「わらわのおごりじゃ、喰え」

 言いつつ、弁当箱の包装紙を開く。零姫もとかげも、人間としての食餌は必
要としない。だから、弁当など頼まずに黙って座っていればいいのだが、風流
と礼儀作法を重んじる零姫は、例えそこが魔性の坩堝であろとも鉄道に乗って
しまった以上は駅弁を食べなければならないと頑なに信じていた。

 沈黙がしばらく続く。零姫は背筋を伸ばし、無言で箸を動かした。
 たっぷりと時間をかけて弁当箱を空にすると、熱いお茶で一息をつく。車窓
から覗く風景が水星天≠フお菓子の街並みから二転も三転もした頃、ようや
く零姫は「さて」と止まっていた話題を再開した。

「おまえの言う通り、いまのわらわは確かに妖魔じゃ。そしてやはりおまえの
言う通り、リリーは人間じゃった。同じ肉体を持ちながら、なぜに不死者と定
命者という相反するふたつの属性を持つのか―――」

 零姫は自嘲じみた笑みを口元に浮かべた。

「それはわらわの魂が、妖魔として、オルロワージュめの寵姫として汚染され
てしまっているからじゃよ」

 魂の穢れは肉体にまで伝播する。零姫がいくら純粋な人間に生まれ変わろう
とも、覚醒のときを迎えれば自ずと躰も変容する。零姫が零姫であることと妖
魔であることは同類項なのだ。

「確かにわらわは無限転生者になることでオルロワージュめの血の縛りから解
放されたのじゃが……躰は捨てられても、魂の汚染までは洗いきれなんだ。こ
の躰はいまや自由の身じゃが、わらわの魂は未だオルロワージュめの血に縛ら
れたままなのじゃよ……」

 リリーがゾズマの結界の存在に気付き、自分は絶対に〈針の城〉から出られ
ないのだと諦念を抱いたのも、零姫覚醒の時期が近付いていたからだ。肉体の
変容―――つまり妖魔化が始まったことで、彼女は結界から出られなくなった。
 リリーがイーリンを連れ出すことに拘泥せず、ひとりで外≠目指す勇気
があったなら、少なくとも〈針の城〉を脱出することはできただろう。
 ……が、その場合はアセルスの魔手にほぼ確実に捕らわれてしまう。リリー
という少女の自由と幸福は、始めから存在しなかったのだ。

「あれは強い娘であった」

 湯飲みの水面に視線を落として零姫は言う。

「自分の運命を知った瞬間、すべての希望をイーリンに託しおったよ。……あ
の娘は本当に、イーリンが好きじゃったのじゃ」

 異なる人格を客観視するかの如き口振りだが、あくまでリリーとは「目覚め
る前の零姫」であり、とかげとイーリンの関係とはまったく違う。リリーの感
情も記憶も、すべては零姫のものだ。―――だからこそ、零姫は他人事のよう
に語らずにはいられない。我がこととして思い返すには、あまりに辛い喪失。
気持ちを落ち着けるまでもう少し時間が欲しかった。

 音をたてずにお茶を飲むと、零姫は不機嫌そうに「わらわのことなぞどうで
もいいのじゃ」と言い捨てた。

「それよりも問題はおまえじゃ」

 不躾に指をさす。

「どうしてアセルスに捕まるような失態を犯したのじゃ。わらわは前の生で、
針の城に封印されておるおまえを見たが……なぜそうなったのか、その経緯ま
では知らぬ」

 間抜けにも程があろう、と零姫は溜息を吐いた。汽車は二人を乗せたまま、
次なる層へと向かっていく。止まる気配はない。まだまだ雑談の時間はたっぷ
りとありそうだ。
 イーリンのためという利害の一致によって手を組んだ二人だが、ここで「イ
ーリンとリリー」ではなく、「とかげと零姫」という関係を作ってみるのも悪
くはないな―――と、無限転生の少女は列車に揺らされながら思ったのだった。

158 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/09(火) 16:40:25
>>

 「妖魔弁当」て……俺ぁ頭痛くなってきたぞ。死んでるのに。
 つーか本当に食えんのかよこれ……と思ったが、少なくとも姫さんは食ってるしなあ。
 まあ今更毒を食らって死ねるタマでもねえけどな……
 
 と思いつつ食った。
 食ったら予想以上に美味かった。
 美味かったのが尚更嫌すぎたが――――
 
 
「……あー、俺か? つーか見られてたのか、あんたに。こうなるとばつが悪いな……」

 爪楊枝を使いつつ(ご丁寧に箸袋の中に入ってた)、一服していたら今度は俺が面倒なことを
追求された。ので、とりあえず視線逸らして窓の外を眺める。
 ……眺めたかったが、当然外は暗く、窓はうっすらと鏡の役割を果たしてくれやがる。
 おかげで「イーリンのツラした」俺が、しかめっ面しているのが視界に飛び込んできて
余計気分が悪くなった。
 しゃーねーから向き直る。くそ。
 
「まあ……俺としちゃ『運が悪かった』と済ませたいところなんだがな。好き好んで、こんな
目に合ってるわけじゃねえよ。……丁度俺が『体』を失くしたときに、都合の良いことに
病気で死んだご令嬢の葬式があってな。そりゃ動き回るのには不向きだが、こういう奴は
イメージが固まってる分変装もしやすい。繋ぎには悪くないかと思ってそいつを借りたんだが」

 ご令嬢、のあたりを少し強調して、恥ずかしい告白を始める。
 まあここまで言えば、たぶん姫さんは察しが付くだろうとは思うんだが。
 
「ああそうだ、よりにもよってそいつは――あの女の寵姫候補だったんだよ」

 そいつを俺が奪ってしまった……と言われたって、俺はそんなこと分かるわけがねえ。
 だがそれが全て。見事にあの女の怒りを買っちまった、ってわけだ。
 
「逃げるには逃げたんだけどな。つってもまだ『体に慣れてない』上に元々ろくに動いてもない
ご令嬢の体だ。速攻、追いつかれてこのザマ、ってわけだ。頂いたばっかのその体は、ごく
あっさりとあの女の剣にかかって……」

 かかって……ああ?
 ちょっと待て、あの体は奴に斬られて……それでどうなった?
 いやもちろん、俺自身はそのまま奴に捕まったが、それは今は問題じゃねえ。
 “あの娘はどうなった?”
 俺は何とはなしに、あの後埋葬されなおしたか程度に思ってたが……まさか、いや、
あの「シャオジエ」の件を考えれば――――

「まさか、あの娘も喰われて『ここにいる』、ってんじゃねえだろうな、おい?」

 冗談じゃねえ。悪趣味にも程がある。
 死んだ人間を弔うどころか、てめえのうちに取り込んで閉じこめちまおうなんざ……
 
 
「……やっぱイーリンを渡すわけにはいかねえな、こいつは。何が永遠だ、気が知れねえ。
死ぬことも出来ねえ俺にしてみりゃそんなもんは」

 言いかけて、はたと気が付く。
 ……姫さんも似たようなもんだったな。クソ、言い過ぎたか。
 尚更ばつが悪いぜ。

159 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/09(火) 23:16:10


「ふむ」と零姫は重々しく頷いた。つまり、イーリンの躰にとかげを封印した
のは、結界を破壊するという目的の他に、復讐も含まれていたということか。
 ……ま、そんなところじゃろうな、と零姫は胸裏で嘆息した。あの色狂いの
妖魔が本気になるのは、いつだって女絡みのときだけだ。
 とかげからすればいい迷惑に違いない。そのご令嬢≠ニやらの若き死は、
とかげの憑依と一切関係がないものを。―――まぁ、そんな理屈をあの女にぶ
つけたところで聞く耳などまったく持とうとしないだろうが。

 零姫にも、だんだんと見えてきたことがある。
 まずは、この〈針の城〉について。リージョン・クーロンからかけ離れた風
景。異界の迷宮と化してしまった旧妖魔租界だが、アセルスの心象風景の具現
と断言してしまっていいだろう。桁違いに巨大な固有結界だ。
 とかげの想像通り、妖魔公は自分の内側に寵姫を何人も飼っている。自己と
いう器を箱庭にして、魂の補完を目指したのだ。だから、ノイズのように複数
の異なる心象風景が入り乱れる。あのお菓子の家や魔棲蟲、無貌の巨人などは
すべて、アセルスが取り込んだ寵姫の心象風景だろう。

「うーむ、まずいのう」

 もしも零姫の読みが的中しているのならば、二人はいま現在、アセルスの
世界≠ノいることになる。〈針の城〉が完全にアセルスに取り込まれる前に脱
出しなければ、永遠の時間をこの閉塞した闇で過ごすことになってしまう。

 ……とりあえずは、この汽車がどこに向かっているのか。あのクーロン娘は
なにを考えているのか。そこらへんから片づけていきたいところだが。

 その前にひとつ、とかげが気になることを口にした。

「死ぬこともできない―――か」

 ……そうか。この男は、死にたいのか。

 短い生を幾百と繰り返した零姫だが、自分以外の転生無限者と出会ったのは
初めてである。無限の死と生を約束された者は、どのような夢を持ち、なにに
苦しみ、どうやって生きようとしているのか―――少なからず興味があったの
だが、とかげのその一言で、零姫は己の感情に蓋をしめてしまった。

 零姫は人間を愛している。
 零姫は人間として生き、人間として死ぬことを望んでいる。
 零姫は生きたかった。人間としての生を満喫したかった。
 だから―――自己嫌悪に陥ることはあっても、後悔だけは絶対にしない。
 どんなに犠牲の屍を積み重ねようとも、自分は生きてみせる。
 その信念に基づいて、零姫はさすらい続けてきた。
 死を願ったことなど、一度もない。

 とかげにはとかげの事情がある。その程度のことは零姫にだって分かる。
 しかし叶うことならば、ファシナトゥールで享楽に耽る妖魔連中のように生
に飽いたりせず、生きることの喜びを知って欲しかった。

「死ぬために生きるというのでは、あまりに悲しかろう」

 言ってしまってから、零姫は後悔した。
 つい説教臭くなってしまうのは彼女の悪い癖だ。彼なりの事情があると分か
っているのなら、黙って聞き過ごすべきだったのに。

 ごほん、と零姫はわざとらしく咳をした。こうなったら最後まで責任を持っ
て言うしかない。

「わらわにしろおまえにしろ、いつかは必ず終わりが来る。そう考えたことは
ないのか。無限や永遠などというものが本当にあると信じておるのか」

 あの愚かで幼稚な妖魔公は信じている。盲信の域に達している。
 逆に、零姫はそういった類の寝言は一切信じていなかった。永遠などあるわ
けがない。自分もいつかは必ず果てる。だから、せめてその日までは―――

160 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/10(水) 00:27:13
>>

 姫さんも、俺と同じように何度も何度も「生き続けて」いるのだと、さっき聞かされた。
 ならばきっと、その心中も俺と同じようなもんだろう……そう、思ってたんだが。
 
「ふん……死ぬために生きるのは悲しい、ねえ」

 そんな風に言うからには、姫さんはそうは思っちゃいない、ってわけだろう。
 どこの誰として生まれてきても、必ず“零姫”としての自分が現れる、らしい。魂がそういう
形になってしまったんだと、さっき言ってたはずだ。
 それでもなお、この姫さんは「生きるために生き続けている」のだと……そういうことなのか。
 
「まあ、そりゃあな。最悪でも『世界の終わり』とかでも来ちまった日には、俺だってそのまま
死ねそうな気はする……っつーか、せめてそれぐらいは願ってるけどな。俺一人だけが生き
続けている世界、だなんてそれこそ恐ろしい話だ」

 あの性悪の“神様”のやることだ、それさえもあり得そうな気がしてしまうのが嫌だが。
 
「だが、そりゃいつだよ? 見えもしねえ、あるかどうかも分からねえ『ゴール』目指して
もう何百年だ。いい加減俺だって生き飽きるぜ、何より……なあ、姫さん」

 言いつつ、一瞬だけ、もう一度窓を見る。
 ……俺が見守り続け、もう死んでしまった、あいつの顔を見て。
 
「自分だけが死なず、周りの奴らが望む望まざるに関わらず『旅立って』いくのは……辛くねえのか?」

161 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/10(水) 23:26:05


 辛い。
 当然辛い。
 気が狂いかねないほどに辛い。
 いままで、自分のせいで何千何万という命が潰えていったと思っているのか。
 死んだものの中には血の繋がった家族がいた。心を許した友がいた。忠節を
尽くす家臣がいた。零姫は長い人生で、多くの愛すべき人と出会い、そのほと
んどと別れを告げた。零姫の生とは、他人の死で成り立っていると言っても過
言ではない。この業深き生を辛くないなどと言えようものか。
 
 しかし、そういった痛みに喘いでもなお、生への渇望が勝っているのもまた
事実。妖魔の姫君としての矜恃がそうさせるのだろうか。零姫は、自分が生き
て生きて生き続けることは使命だとすら考えていた。

 覚悟はとっくに決まっている。オルロワージュを逆吸血したあの夜、零姫は
自由とともに孤独を得たのだ。

 ―――が、その考えをとかげにまで押しつけるのは無粋というもの。

 孤独が辛いと漏らすとかげの思いは、零姫も痛いほどに理解できる。
 ただ少しだけとかげのほうが優しくて、その分だけ打たれ弱くて、だから死
を望むようになってしまったという―――それだけの話だ。
 零姫は自分が冷酷な女であることを重々承知していた。己の自由のために、
愛する男を見捨てた女だ。……優しさなど、とうに枯れ果てている。

 それに―――
 憎しみに駆られるままに玉砕しようとした零姫に、イーリンのために生きろ
と言ったのはとかげではないか。どんな主義主張を持っていようとも、あの瞬
間、死のうとしたのは零姫であり、生きようとしたのはとかげである。その事
実だけは、決して揺らがない。

「まあ―――」

 零姫は慎重に言葉を選んだ。彼の誇り高き優しさを傷付けないように。

「俺一人だけが生き続けている世界≠ネどという戯けた終末が、未来永劫訪
れないことだけはこの零姫が約束しよう」

 零姫は真顔で言った。その表情には、一分たりとも戯けた色はない。

「安心せい。わらわという無限転生者がいる限り、おまえがひとりぼっちにな
ることだけは絶対にないわ」

 気休めにすらならない言葉だが、零姫とて別にとかげを慰めるために言った
のではない。事実を口にしたまでだ。

 死を望む転生無限者と生に執着する転生無限者。対照的な二人が客車で揺ら
れながら向き合っているわけだが、少なくともいまのところは互いに「生きて
ここから出る」という共通の目的を持っている。
 ならばそろそろ、休憩の時間は終わらせて行動に移るとしようか。

「大馬鹿のアセルスめは、この心象世界の弱点にまるっきり気付いておらんよ
うじゃのう。大方、わらわたちを閉じ込めたことで特異絶頂になっておるのじ
ゃろう。相も変わらずおめでたい奴よ」

 反撃を始めるぞ。
 ―――そう言って、零姫はボックス席を立った。

162 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/11(木) 22:02:19
>>

 別に。
 別に、今更聖人君子を気取る気なんぞはさらさらねえ。
 “ただ一人を除いて”誰にも望まれなかった生が、その“ただ一人”の思いと、くそったれな
運命のイタズラ(運命なんて奴は神様が握ってるとか、よくある話だ)、その二つのためだけに
生かされ続ける羽目になった、ってだけの話だ。
 だから俺は死を渇望する。
 俺の生を願ってくれたあいつの所には行けず。
 俺の生を呪いやがった奴の尻尾も掴めず。
 つまるところ、俺の生はそれそのものが悲しい……なんてな、そんな自己憐憫はそれこそ
くそったれ、ってもんだが。……ただ、望んでも死ねない俺の周りに、望まずに死んでいく奴ら
が居た、というだけ。
 それでも生き続けていられるほど、俺は強くない……それだけだ。

 向こうとこっちじゃ、大元からして違うのかも知れねえ。境遇が違えば考え方も変わる。
 だから姫さんを傲慢と笑うのは簡単だ。だが俺にはむしろ……少しばかり、姫さんが眩しい。
 まったく……
 
「ひとりじゃなくふたり、が正解ってか? ったく、俺なんかと居たっていいことなんてありゃしねえぜ?」

 照れ隠し半分。
 だから「気持ちだけは受けとっておく」なんて言葉だって、絶対言ってやらねえ。
 どうせ望んでもいねえだろうし。

 その代わりに、もういい加減ぬるくなってきた茶をぐいっと一気飲み。
 しっかし渋いなこの茶は。おかげで気が引き締まるぜ。
 そして飲んだついでに勢いつけて、剣を片手に同じく立ち上がる。
 
「カウンターは懐に飛び込んでから、ってとこかこりゃ? ま、俺は好きなようにやらせて貰うが。
じゃ、とりあえず……機関室の見学とでも洒落込むか、良い機会だしな」

163 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/13(土) 21:35:17


「乗車券を確認するアルー」

 呑気な声を出しつつ、車掌役のシャオジエが前の車両から入ってきた。改札
鋏をぱちぱちと鳴らして零姫のほうに歩み寄る。

「ただ乗りは許さないアルよー」

 大した気楽さ加減だ。その脳天気さはアセルスに勝るとも劣らない。
 初めはこのクーロン娘がなにを企み、どんな罠に陥れようとしているのか、
零姫にはまったく見えなかった。しかし今なら断言できる。彼女はなにも考え
ていない。勢いと思い付きだけで生きている。
 もしもシャオジエがアセルスの忠実なら下僕であるのなら、この汽車はとっ
くに零姫たちをアセルスのもとへと運んでいただろう。
 なぜ、そうしないのか。なぜいたずらに時間を遊ばせ、敵であるはずの零姫
たちに反撃の好機さえ与えてしまうのか。
 理解できない。……当然だ。なぜなら彼女は莫迦なのだから。

 そんな性分だから、アセルスともうまくやっていけるのだろう。もしかした
ら、羨ましい女なのかもしれない。寵姫としては珍しいタイプだ。

 零姫は、通せんぼするようにシャオジエの進路の先に立った。
「乗車券乗車券」と改札鋏を鳴らして急かす彼女に、「そんなものはない」と
にべもなく言い放つ。

「そんなの酷いアル! 無賃乗車絶対反対アル! というか、よくよく考える
とさっきの弁当代ももらってないアル。どっちも耳揃えていますぐ払うアル。
一億万円クレジットで許してやるアル」

 ふむ、と零姫は神妙ぶって頷いた。

「これで足りるかのう」

 袖から巾着袋を取り出して、シャオジエに渡す。
 シャオジエは零姫の気前の良さに眼を丸くして驚いた。まさかこんなにあっ
さりと支払ってくれるなんて。この娘、もしかしたらかなりいい奴なのかもし
れない、とすら思ってしまう。
 しかし、シャオジエは自分が慎重かつしたたかな女である自負していた。本
当にこんな小さな布袋に大金が入っているのかどうか、袋の口を縛る紐をほど
き、貪るようにして中味を確認する。

「……やはりおまえ、莫迦じゃのう」

 巾着の紐―――封印を切ることによって、零姫が設定した呪いがスイッチ。
 麻痺の呪文が発動して、シャオジエを行動不能に陥らせる。「しまったアル
ー!」と痺れる舌で叫ぶクーロン娘に蔑みの眼を向けつつ、零姫は幻術で編ん
だヴァナルガンドの鎖で、シャオジエをあっという間に縛り上げた。
 麻痺の呪いは破れても、神を喰らう狼さえも拘束する鎖までは断ち切れまい。
悔しそうに歯噛みする愚かな寵姫を尻目に、零姫は背後に向けて叫んだ。

「こやつと汽車との魔術的関係は絶たれた! 進路を変えるならいまじゃ!」

164 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/13(土) 22:34:26
>>

 ………………なんか、すっげえイーリンが草葉の陰で泣いてそう(もしくは呆れてそう、或いは
うなだれてそう)な気がしてきたんだが。てめえシャオジエいいのかそれで。おい。
 まあ、俺には関係のねえ話だと言えばそうなんだが……
 姫さんの手練手管、つーことにしとくか、いちおう。
 
「……ま、了解と。なら俺は予定通り機関室へ行ってくるか。スピード上げてかっ飛ばさなきゃな」

 完全に拘束されたクーロン娘――そろそろシャオジエと呼びたくなくなってきた、色んな
意味で――を尻目に、俺はひらひら手を振ってお先に失礼。
 姫さんには姫さんの仕事があるからな、ここからは。
 “依“と離れるのはあんまり好ましい事じゃねえが……まあ、何とかなるだろう。



 それはそうと、だ。
 この列車、曲がりなりにも汽車であるというなら蒸気機関で動いているわけだ。俺もそれなりに
生きている以上、そういう知識は多少は身につけている。
 ……本来なら、と但し書きを付けるべきだろうがな。こんなとこで真っ当な「汽車」が走っている
わけがねえ。ましてや姫さんはさっき「魔術的関係」と言っていた。つまりこいつは魔法の乗り物
ってわけだ。
 魔法と言うからにはその動力部も便利な代物で出来てるんだろう。俺はそう当たりを付けてみて……
 
「……ち。半分は当たった、ってとこかこりゃ?」

 機関室、駆動系の心臓部は……は、確かに真っ当な蒸気機関なんぞじゃねえ。
 何しろ――何もねえのに燃えてやがる。石炭だのコークスだのなんぞは見あたらねえ。
 ま、燃料要らずってんならそりゃなんともリーズナブルな話だが……問題は、そういうわけ
でもなかった、ということだ。
 俺の予想は外れた、そいつは“便利な代物”であるどころか……
 
 
 魂を燃やす、という“悪趣味な代物”だったからだ。

165 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/13(土) 22:34:42
>> 続き

 つまり、こいつの燃料は歴として存在している。この<針の城>の住人……それこそ、さっき
虫どもに食い尽くされた凶手みてえな奴らを、体どころかその魂まで食い尽くしてこの魔列車
とやらは走っている、というわけだ。
 耳を澄ませば、燃える音に混じって怨嗟が聞こえる。
 目を懲らせば、炎の向こうに苦痛の形相まで見えてきそうだ。
 全く、どこまでも胸糞悪い……こんなもんに俺らは乗って、あの脳天気な馬鹿と付き合って、
さらには弁当まで食ってた、なんて反吐が出るぜ。

 もっとも、俺は正義の人でも何でもねえ。この機関そのものは悪趣味極まりねえが……
別に義憤に駆られて、こいつをぶっ壊してやるなんて義理も俺にはない。
 そもそも今はこいつを走らせなきゃならねえんでな。俺がこいつを止めちゃ意味がねえんだ。
 だから、その代わりに……
 
「恨みを晴らさせてやろうじゃねえか。こいつで更に燃えちまえよ、オーバーヒート寸前までな!」

 再び“とかげの刺青”を右手に持っていく。
 そしてその口を開けるように、拳を開き……さっき食った虫共の魔力を、炉へ向けて解き放つ。
 
 ――そら、食いついた!
 そりゃあそうだろう、自分らを殺った元凶が目の前に現れたんだ、怨嗟が燃え上がらねえ
わけがねえ!
 さしずめ、飛んで火に「入らせる」夏の虫、ってわけだ! ははは!
 
 さあ、こいつで更に燃えてしまえ、そうして列車を加速させろ。
 あとは姫さんが、上手くやってくれるだろうからな。

166 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/13(土) 23:17:30
 全く、どこまでも胸糞悪い……こんなもんに俺らは乗って、あの脳天気な馬鹿と付き合って、
さらには弁当まで食ってた、なんて反吐が出るぜ。

     ↓

 全く、どこまでも胸糞悪い……こんなもんに俺らは乗って、あの脳天気な馬鹿と付き合って、
さらには弁当まで食ってた、ってわけかよ。あの馬鹿と姫さんとの漫才めいたやりとりさえ、
こうなればいっそ薄ら寒い……反吐が出そうだ。

訂正。まあ大勢に影響ねえことだけどな。

167 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/14(日) 19:52:30
>>165を完全に書き直し。



 つまり、こいつの燃料は歴として存在している。この<針の城>の住人……それこそ、さっき
虫どもに食い荒らされた凶手みてえな奴らを、体どころかその魂まで食い尽くしてこの魔列車
とやらは走っている、というわけだ。
 耳を澄ませば、燃える音に混じって怨嗟が聞こえる。
 目を懲らせば、炎の向こうに苦痛の形相まで見えてきそうだ。
 全く、どこまでも胸糞悪い……こんなもんに俺らは乗って、あの脳天気な馬鹿と付き合って、
さらには弁当まで食ってた、ってわけかよ。あの馬鹿と姫さんとの漫才めいたやりとりさえ、
こうなればいっそ薄ら寒い……反吐が出そうだ。

 もっとも、俺は正義の人でも何でもねえ。この機関そのものは悪趣味極まりねえが……
別に義憤に駆られて、こいつをぶっ壊してやるなんて義理も俺にはない。
 そもそも今はこいつを走らせなきゃならねえんでな。俺がこいつを止めちゃ意味がねえんだ。
 だから、その代わりに……
 
「――恨みを晴らさせてやろうじゃねえか。喜べよ」

 ”とかげの刺青”を再び右手に持っていき……その手で剣を、嘯風弄月とやらを引き抜く。
 もっとも、半ばまでで良い。全部抜く必要はない。
 
 ……この刀は明らかに霊刀・妖刀の類じゃねえ。
 だが刀はそもそもそれ自体が殺傷のための道具だ。そいつが「ただ鋭利なだけの刀」
だろうが、魔力妖力の類を持ってなかろうが、ただ“殺せる”というだけでそれは良からぬものを
引きつけやすい。
 ましてや、俺という特異存在が、磁場・霊脈の類を歪ませ霊瘴を引き起こす俺がそれを
持っていたならどうなるか?

 そら、やってきたぜ――お前らを殺した奴らが! さっきの虫どものような奴らが!
 俺とこの刀に惹かれてな!
 さあ、更に怨嗟を燃やせ! こいつらを燃やし尽くしてやれ! 俺が手助けしてやるよ!
 そうして、この列車をどこまでも加速させちまいな!
 
 あとは姫さんが、上手くやってくれるだろうからな。

168 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/14(日) 23:08:17

「よくやった、とかげ」

 シャオジエをギャレーの冷蔵庫に放りこんできた零姫は、機関室まで韋駄天
すると、すでに列車を暴走させることに成功していたとかげの頭を「よしよし」
と撫でてやった。褒めるときは、素直に褒めてやらないと。

「……しかし、もしやとは思ったが、やはり〈針の城〉の住民を贄にしておっ
たか」

 零姫が想像するに、この汽車は心象風景の産物ではない。現実に存在する、
幽世と現世を繋ぐ魔列車を丸ごと取り込んでしまったのだ。
 この列車は生きている。生きて、ひとの魂を喰らう。魔導機械というよりも
幻獣や魔物の類だ。

 零姫の心が曇る。
 なんの罪もない〈針の城〉の住民たちが、自分のせいで劫火に灼かれ、身悶
え、絶叫し、その絶望のエネルギーが魔列車の動力となっている。
 自分さえいなければ、あるいは天寿を全うできたかもしれない数千人の命。
 零姫は胸裏で詫びた。悪いのはすべてわらわじゃ、と。

「だが、わらわは退かぬ」

 自分のせいで何万人死のうとも。何億人の命が潰えようとも。自由を決して
諦めない。あの澱んだ瘴気で満ちた世界には決して帰らない。
 零姫は覚悟を決めると、目を見開き、汽車が進む先を見据えた。

「レールはわらわが作る」

 ぱんと合掌すると、零姫は膝を折り、機関車の床に手をつけた。
 幻術の応用として、線路を魔力で編む。いままでシャオジエがどのようにし
て進路を決めていたのかは知らないが、これからはこの魔列車が進む先に線路
が生まれて、道が開ける。元来、列車の進路とは線路の軌道に従うものだが、
この機関車は己の進路に線路が従うのだ。
魔想レール≠ニ呼ばれる、想念で作られる線路だ。

 駅は終点まで必要ない。目指すはひたすらに外=Bこの〈針の城〉の最果
てにあるはずの、クーロン港だ。

169 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/14(日) 23:09:15


 その階層はもはや、〈針の城〉としてのカタチを完全に失っていた。

 第五層火星天=B司法の監視が及ばないという特権を利用して、芥子や大
麻草などの他に、魔棲の妖花まで大量に栽培していた〈針の城〉最大規模の田
園都市。精製工場がひしめき、ビルの庭という庭、屋上という屋上に緑を植え
ていた土星天≠ヘ、毎日何トンもの麻薬をクーロン・ストリートに出荷し、
市場の金をさらっていった。第六層の重工場区画とあわせて、ここは〈針の城〉
の生産拠点であり、クーロン・マフィアの資金源だった。

 ―――が、それもかつての話。

 アセルスによってファシナトゥール化した火星天≠ヘ違う。闇の瘴気に侵
され、現実という輪郭を失ってしまった火星天≠ヘ、もはや〈針の城〉にあ
って〈針の城〉ではない、異形の空間と化していた。

 目につくのは、花と花と花と花と―――ただひたすらに、花ばかり。
 宵闇の空を仰いで、何十万何百万――いや、幾千万かもしれない――という
花弁が、街を、世界を、夜を、支配していた。
土星天≠ェ麻薬栽培のための階層であったことを考えれば、花が咲き誇るこ
と自体はおかしくない。だが、この数は異常だ。限度を超えている。
 建ち連なっていたペンシルビルは花の苗床となってコンクリートの肌を隠し、
その重みで崩れたり、傾いたりしてしまっている始末。
 人間が居住するような隙間はない。道と呼べるような道さえも、用意されて
はいなかった。ここは、人間の足を必要としていないのだ。
 アネモネ、キンセンカ、クロッカスにサフラン、バンジー―――いまの火
星天≠ヘ狂い咲く花たちの楽園だった。

 そんな有機的な麗しの都で、忘却≠花言葉とする芥子が特別に咲き乱れ
る場所があった。ビルをいくつも潰して空き地を作り、スラムの一部とは思え
ないほどに立派な芥子畑となったそこには―――唯一の人影。
 夜しか知らないクーロンであるにも関わらず、レースの飾りがついた日傘を
優雅にさして花を愛でる彼女は、この花畑の、ひいてはファシナトゥール化し
た土星天≠フ管理者であった。
 この異形の風景は、日傘の女性の心象の具現だ。

 うなじまで伸ばした僅かに癖のある髪の色は、深みのある緑。土星天≠
埋め尽くす茎や葉と同色の、緑。あまりにも印象深い、緑。
 清潔感のあるブラウスに、タータンチェックのベストとスカートをあわせた
出で立ちは淑女然としており、立ち振る舞いの優雅さもあって、どこのご令嬢
かと思わせられるが―――口元にたたえた笑みを見れば、女性がただの淑女で
はないことは、素人でも察することができる。

 日傘の彼女は、美しい女性だった。
 容姿は紛うことなき人間のものだった。
 だが、彼女は怪物だった。
 この〈針の城〉に棲まう、他の誰よりも――もしかしたら、妖魔公と比較し
ても――恐ろしい怪物だった。
 棘がある、では済まない。恐怖が花のかたちをしたような、女性。
 彼女の笑みの凄惨さが、それをとくと物語っていた。
 
 女性はアセルスの寵姫であったが、アセルスの中に棲まう他の寵姫たちのよ
うに肉体を持たない、死した魂ではなかった。
 日傘の彼女は、生きながらにしてアセルスと同化した。彼女の肉体はいまで
も、幻想の彼方で向日葵畑に抱かれて睡っている。
 なぜ生きた肉体を持っているのに、アセルスの一部となる道を選んだのか。
いやそもそも、なぜここまで強大な力を持ちながら、他人の世界に囚われるこ
とを良しとしたのか。……それは、ここでしか為し得ない目的があったからだ。

170 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/14(日) 23:10:14


 アセルスの世界―――この〈針の城〉で言うなら、第六層土星天≠フ管理
者である白い霞の寵姫。彼女もまた、日傘の女性と同様に、生きたままアセル
スと融け合った奇特者だった。
 その寵姫は、日傘の女性に劣らず強大な力を持っている。リージョンの一つ
や二つ、容易く鎮めてしまうほどの、桁外れな力を。
 日傘の女性の目的は、そんな彼女を、自分の花の養分とすること。斃し、屈
服させ、鬱陶しい霞を払って土に還してやること。
 ―――強いものいじめ≠フためなら、日傘の女性は、他人の世界に潜り込
むことすら厭わなかった。どうせあそこ≠烽アこも、大した違いはない。
 土と水さえあれば、花はどこでも咲いてくれるのだから。
 ……まぁ、陽の光がないのだけは、面白くないけれども。

 今夜はどんな風にして虐めてやろうかしら。どんな風に虐められてしまうの
かしら。―――芥子の花を愛でながらそんな妄想に耽っていたときだった。
 妙な違和感を覚えて、ふと、足下に目をやる。

 いつの間にか、地面には鈍く錆びた鉄鋼の輝き。枕木にがっしりと支持され
た鉄道レールが、芥子の花畑を横断していた。

「これは……?」

 線路なんて。花で満ちた世界には、あまりに不似合いだ。日傘の女性は眉を
よせて訝しむ。―――が、すぐに、自分の世界が侵食されているんだというこ
とに気付いた。心象の景色がねじ曲げられている。
 いったい誰が。

 そのとき、彼方から、鼓膜を震わせる汽笛の音が響いた。
 線路が軋み、車輪が滑る。はっと日傘の女性が身構えたときにはもう遅い。
 鋼鉄の牛が、花弁の道を蹴散らし、蔦のトンネルを引き裂いて猛スピードで
突っ込んできていた。避ける暇もなかった。

 日傘の女性は、久しぶりに空を飛んだ。






「……ん、なんか轢いたかのう?」

 機関室で魔想レールの生成に勤しむ零姫は、汽車が感じた僅かな衝撃に首を
傾げた。ところ構わずにレールを敷いてしまっているため、ともすればひとを
轢きかねないと危惧していたところだ。
 ―――が、こんな狂った世界にいる類のやつを轢いたところで良心が咎める
はずもなし。零姫はすぐに忘れて、進路の調整に没頭した。

 さっきから寒気が止まらない。この階層はあまりに剣呑すぎる。一分一秒で
も疾く、突破してしまいたかった。

171 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/15(月) 01:21:47


 錐もみをしながら空を舞い、芥子のベッドに背中から落下した日傘の女性は、
しばらくそのまま、呆然と夜空を見上げていた。
 ―――服が汚れてしまったことよりも。日傘が折れてしまったことよりも。
無粋な鉄の車輪が、愛おしい花の根を引き裂いていったことが憎らしい。
 痛かったでしょう。辛かったでしょう。

「……私が」

 女性はゆっくりと立ち上がった。スカートの汚れを払って身なりを整えると、
折れた日傘を強引に閉じ、剣弁のように鋭く尖らせる。

「私がお仕置きをしてあげる」

 女の口元には、愉悦の笑み。
 あの妖怪仙人との遊びに熱中しすぎるあまり、周囲に気を配ることを忘れて
いた。いつの間にこんな活きのいい玩具を仕入れたのか。
 面白いじゃないか。面白いじゃないか。―――今夜はそれだけで、退屈を忘
れられる程度には。

 みんなで歓迎してあげましょう―――と、女性は傘を、オーケストラーの指
揮棒のように掲げてみせた。
火星天≠フ幾千万の花が、一斉に疾走する機関車を睨む。
 花から吐き出されるのは、非実体の光弾。一発一発は脆弱でも、数千万発も
放たれれば街ひとつが消し飛ぶ程度の威力にはなる。それが、八両編成の機関
車に殺到したのだ。レールに進路を支配される列車には、弾幕を縫うことはで
きない。あの醜くて歪な鋼鉄の塊は、ここで沈むのだ。



「なんじゃなんじゃなんじゃ?!」

 機関室で、零姫は驚きの声をあげる。
 突然の集中砲火。しかも、攻撃をしてくるのはこの街に狂い咲く無限の花々
だ。そのひとつひとつが、拳大の光弾を撃ち放ってくる。
 なんと苛烈な攻撃なのか。砲撃の豪雨だ。重爆撃だ。すべての車両に魔術障
壁を張って防御しているが、いつまでも耐えられるものじゃない。
 さっさとこの階層から脱出してしまわないと。
 零姫は頭を低くし、流れ弾に当たらないように気を付けながら、炉の炎をさ
らに激しく燃え上がらせた。
  
 そのとき、ギャレーでは着弾の衝撃で冷蔵庫の蓋が勢いよく開かれた。中か
ら、鎖で拘束されたシャオジエが飛び出す。

「この風景は、この弾幕は―――幻想嬌アル! 幻想嬌アル! 妖怪仙人と並
んで、寵姫の中でも一等危険な奴アル! 絶対に関わっちゃいけない怪物の中
の怪物アル! あいつは洒落にならないアル! やばすぎアル!」

 シャオジエは機関室へと走ろうとしたが、両手を縛る鎖は冷蔵庫に結わえ付
けられているため、ギャレーから出ることは叶わない。
 シャオジエはパニック状態のまま、ひとりで叫んだ。

「一巻の終わりアル! 絶対に虐められるアル! 誰か助けてー、アル!」



「―――あらあら、なんだか聞き覚えのある声が」

 囁くように独りごちるのは、緑の髪に赤い瞳を持つ火星天≠フ管理者。
 この世のすべての花の支配者。アセルスの二十六番目の寵姫幻想嬌=B

 幻想の姫君は、ふふ、と笑いをこぼす。弾幕に晒された機関車は、抵抗も虚
しく速度を緩めた。さらに仕上げとして、ジギタリスやオーキッドの花が急速
に成長して、機関車に絡みついて、鋼鉄の皮膚を食い破り始める。
 一時的ではあるだろうが、スピードはだいぶ失せた。これなら、足の遅い彼
女でも容易に追いつける。
 幻想の彼女は、客車の最後尾に取り付き、軽い足取りで乗り込んだ。
 魔砲で消し飛ばしてしまうのは簡単だけれど、それでは面白くない。花を散
らす愚かしさを、その身にしっかりと教え込まなければ。

「いまの私は、太陽の光から遠ざかって気が立っている。葩が時にそうされる
ように、私があなたたちの指を千切って、未来を占ってあげましょう」

 女のかたちをした暴力が、花の香りをたたえた災害が、魔列車に乗車した。

172 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/16(火) 00:57:07
>>

 ああまったく、バケモンの楽園かよここは! 何が悲しくて絨毯爆撃なんぞに晒されなきゃ
ならねえってんだ馬鹿野郎!
 ……実際、あんなもんに対抗できる手段なんぞこちとら持ち合わせてねえぞ。
 自分で言うのもなんだが、俺はただ死ねないってだけでろくな特技は持っちゃいねえ。剣の
扱いこそそれなりには出来るが、それだけだ。接近戦ならいざ知らず、あんな戦争紛いの事が
出来る奴なんぞ相手に出来るか。
 ……懐に飛び込んで一撃必殺でも狙うか?
 いや“死んでもいい”ならそれも手だろうが、今の俺はこの体を失くすわけにはいかねえ。
おまけにこの体は(イーリンには悪いが)所詮ガキの体だ。いくらスラム育ちだからって限度
がある。相手が悪すぎるぜ。
 あのミノタウロスキョンシー、ハダリーでも手駒に残ってりゃ話は別だったんだろうが……
あ? いや待てよ、ハダリーには確か……つーかあの「石」、イーリンが飲み込んで……

 ――くはは! 切り札ここにあり、ってやつか!
 つーか「あいつ」まで関わろうなんざどんな奇遇だよ全く。
 まあいい、温存して死ぬくらいなら使うっきゃねえだろうさ。
 相も変わらず爆撃が列車を揺さぶり、さらに後部から何かが絡みついたのか、線路から
凄まじい軋み音が聞こえてくる。正に絶体絶命って奴だからな。
 喚ぶ、もとい「再生」するなら、今しかねえだろ。


「ま、しかし本当……なあ姫さん? 俺らみたいな『死なない』奴が、実はここにもう一人
いるって言ったら、これこそ奇遇だと思わねえか?」

 軽口叩きつつ、どう「再生」するか考える。
 あの石はこの体の中にあるわけだから……俺の言霊で何とかなるか?
 ……いや、そう「気でも狂ったか」みてえなツラして見るなよ姫さん。慌てる乞食は貰いが
少ないんだぜ?

「いやマジ、いるんだよここに。イーリンの置き土産としてな。



 ――――出番だぜ、出てこいよ『百万回生きた猫ミリオンライヴズ』!」

173 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/16(火) 01:40:41
>> 続き

 果たして――上手くいった。
 俺の声は言霊となり、言霊は意味を持った形となり、意味を持った形は情報となり、
情報はデータとなり、データは命令となり、命令は体内の「石」に作用した。
 「石」はその中に封ぜられている奴を「再生」する。
 無数の文字のようなものが俺らの前に煌めき、形作る。
 そうして現れたのは……
 
 
「――はいはい、呼ばれて飛び出て〜ってあれ、あれれ? あんた、もしかして『とかげ』
かい? いやあこいつは驚いた! この期に及んでまたあんたと出会えるなんてさ!
世の中狭いねえ……いや、それとも『もう何度も会ってる』のかな、あたしは?」

「いや、お前がその“英霊“とやらになっちまってからは初めてだよ、ミリオン。
ってそれどころじゃねえ、悪いが昔話している暇はねえんだ」

「その『ミリオン』ってのはどうにかしとくれよ、そりゃあたしにはろくな名前もってうわ、
わたたたた!?」

 話してる途中で砲撃が飛んできた。振動でたたら踏む「ミリオン」。
 ……現れ、俺と話しているのは、黒い着物を着たただの少女だ。ただし、猫の耳に尻尾、
そして赤く尖った爪を持っていることを除けば、だが。
 所謂「化猫」というやつだ。しかも死んでもまた別の体で生まれ百万回生きたのだ、と言われる
トップクラスに奇妙な化猫だ。
 そんなだったから、俺とこいつ……「生前の」こいつとはちょっとした面識があったわけだが。
 
 ……しかしまさか、こんな形でこいつと再会することになるとはな。
 死ねない連中がこれで三人。そして敵さんは「永遠」を標榜していると来たもんだ。
 とち狂った話じゃねえか、まったくよ。
 
「いってて……ああもうなんだい、随分剣呑な状況じゃないか。ってああ、だからあたしを呼んだ
ってわけかい、とかげ? つまりこいつをなんとかしとくれと」

「ま、そういうわけだ。俺にはあいつを止める術がねえし、こっちの姫さんはこの列車を動かすのに
忙しくってな。お前に頼むしかないってわけだ。やってくれるか?」

「やってくれも何も、今のあたしは『そうするため』の存在みたいなもんだ、って知ってて
言ってんだろう? やってみせるさね……再生時間は保証できないけど、それでいいかい?」

「そりゃ仕方ねえだろ。撃退だけでも出来りゃ御の字ってやつだからな」

「はは、そいつは随分と過小評価してくれるじゃないかね? ちゃちゃっと片付けてくるさ、
待ってておくれよ」

 それじゃ行ってくるよ〜……と、場違いなほど明るい調子で後部車両へ飛んでいくミリオン。
 つーか飛べるのかよあいつ。英霊になったからなのかどうか知らねえけど。

 さて、と。あとはあいつの活躍に期待しつつ……姫さんにもカラクリを説明してやらなきゃいけねえかな?

174 名前:英霊・ミリオンライヴズ ◆C/1000000c :2008/12/16(火) 02:02:30
>> 続き

 なあんて安請け合いして出てきてみれば……あーあー、ほんと派手に弾幕かまして
くれちゃってるねえ。しかも撃ってきてるのは花かい。いや、まさかねえ……
 っとと、そんなことよりお仕事お仕事。
 まずはこの弾幕をなんとかしなくちゃいけないかな?
 
 とりあえず適当な車両に降りたって、と。
 首謀者はえーと……ああ、最後部から侵入してきてるあれがそうかな?
 じゃあ、弾幕遮断後、一気に突っ込みますか!
 
 ――あたしのこの爪はなんだって引き裂く。
 空間さえも引き裂いてみせる。
 両腕、振りかぶってぇ……目ぇ見開いて、ようく見ときな!
 
 
 
     面
     影
     を
     語
     る
     爪
     痕
     ――――<NOSTALGIC PAIN>!
 
 
 
「……っていう名前を付けてくれたのは、誰だったかねえ?」

 中空に残った“赤い爪痕”が飛んでくる弾幕を悉く遮断する。
 せいぜい数秒間しか遮断できないけど、列車の体勢を立て直すには十分。
 その間に連結部から最後部の車両に突っ込んで……突っ込みつつ、あたしは独りごちた。
 
 いや、うん、今のは嘘さ。独りごちたんじゃない、「あいつ」に話しかけてんのさ、あたしは。
 
「『面影を語る』だよ? まったく今のあたしにぴったりじゃあないか! 何せとかげどころか、
あんたの顔まで見る羽目になってんだからねえ……やれやれ、花が弾幕撃ってくるってんだから
まさかと思ったけどね。本当にあんたかい、世の中狭すぎじゃあないかね?」

 とっくに、あいつに聞こえる距離まで近づいているさ。
 いけ好かない、あのフラワーマスターとやらの真っ正面にね!
 
「それともあれかね? 妖怪同士惹かれあったりしてんのかね……そう思わないかい、風見の!」

175 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/02(金) 15:05:05



 奇蹟を目にした。
 零姫は、奇蹟に立ち会った。

 事態は、彼女たちが考えている以上に絶体絶命だった。車両の最後尾から乗
り込んできた咲き誇る花弁の寵姫は、シャオジエが絶叫する通り――あるいは
それ以上に――絶望的な力を有していた。
 ましてここはかりそめと言えど、妖魔公が花の姫君のために与えた彼女のた
めの階層。絶対的に有利な領地だ。向かい合えば、まず勝負にならない。

 アセルスに斃されるならいざ知らず、イーリンともリリーとも関わりのない、
暇を持てますだけの戦闘狂に未来を断たれるのか。通り魔に襲われて人生を終
えるかのような運命を受け容れろというのか。

 ―――断じて、否。

 零姫の胸に宿った疑問に答えを示したのはとかげだった。
 ……いや、正確にはイーリンか。
 イーリンの最後の足掻きが、自らの命と引き替えに手にした力が、あらゆる
理不尽を拒否した。零姫たちの終点は、ここではない。

「な、なにごとじゃ―――」

 人間の目では見ることのかなわない情報≠フ暴走を、零姫は霊視した。
 彼女の魔術回路をもってしても処理しきれない複雑かつ膨大な霊力の奔流が、
とかげの放った言霊によって指向性を与えられ、ひとのかたちを作り始める。

 零姫の混乱は深まるばかりだ。

 なんなのじゃこれは。まさか、イーリンめが呑み込んだ魔石か。はだりぃ
だとかいう屍体を動かしていた魔力装置なのか。
 ……疑問には思っておった。幻魔はアセルスめが与えたものじゃ。それは分
かる。しかし、この魔石はどこから、どういった経緯でイーリンめの手に渡っ
たのか。斯くも強力な魔石を、なぜ市井の娘が―――

 やがて荒れ狂う情報の渦は肉となり血となりこの世界に具現した。

 零姫よりも、さらに一回りは小さい座敷童のような少女。喪服の如き漆黒の
着物を左前に着こなして、底の厚い舞妓下駄を危うげに揺らしている。
 口元には挑戦的な八重歯が覗き、癖のある毛の間からは獣の耳が――あれは
猫のものか――が生えていた。
 外見だけならば、獣人の亜種だろうと片づけることもできる。しかし、矮躯
から発散される桁違いな霊力と、突然召喚されたにも関わらずまったく物怖じ
しない態度には狂気すら覚えてしまう。

百万回生きた猫(ミリオンライヴズ)=\――この猫娘を指して、とかげは
そう呼んだ。理不尽に抗う刃である。

176 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/02(金) 15:06:28


「―――ふふ」

 彼女の微笑は止まらない。
 彼女の嗤笑は終わらない。

 零姫の驚愕とは対照的に、火星天≠フ姫君は冷静だった。
 数十秒後には機関車を鉄屑に変えるはずだった自慢の弾幕が悉く遮断された
にも関わらず。対軍宝具に匹敵する威力と密度を誇る光弾の嵐が呆気なく攻略
されてしまったにも関わらず。……彼女は冷静だった。
 冷静に興味の矛先を変えた。

「死に続ける死の先にあなたが行き着く場所は、幻想の郷しかないと思ってい
たのだけれど……そう、まさかこんなとこに閉じこもっていただなんて」

 姫君は穏やかに笑う。それは植物の笑み。花の笑み。
 誰も知らない。人間の笑みなんて。獣の笑みなんて。植物や花が笑うことに
比べれば、ずっと恐怖が少ないことを。
 花は笑うのだ。彼女のように。

「伊予の星屑≠ネんてどうかしら? ……いや、貴方に合いそうな花を想像
していたの」

 車両に乗り込んできた猫娘に微笑みかけると、姫君は日傘を投げ捨て、変わ
りに胸のポケットから一枚のカードを取り出した。
 戯れに作ってみた、針の城―――妖魔公の世界では唯一のスペルカード。ル
ールに縛られない城内では必要のないものだが、やはりこれがないと気分が乗
らない。本当は木星天≠フ主を相手に使うつもりだったが―――
 この子が相手なら、出し惜しみなく宣言できる。

「たっぷりといじめてあげるわ」

 ―――妖花『妖魔城の開花』

 姫君の呟きと同時に、いままで展開していた弾幕が途切れる。数十秒ぶりに
訪れる静寂。嵐の前哨。暴風は静かに這い寄り―――車両と車両の連結部から
猛り始めた。線路の隙間から伸びた植物の蔦が、二人の乗る最後部車両の連結
器をねじ切る。牽引する力はなくなっても慣性が働いているため最後部車両だ
けは置き去りにされることはないと思われたが―――

 ぎい、と姫君と猫娘の足下で車輪が鈍い音を立てて動きを止めた。いつの間
にか線路に敷き詰められたタンポポの花が絡まって、車輪が回らなくなってし
まったのだ。慣性に突き動かされるままに車輪が滑る。フルブレーキ状態。
 こうなってしまったは、客車もただの待合室だ。

 姫君の目的は、密室を作ること。
 どちらかが屈服するまで出ることのかなわない牢獄を作ること。

 機関車が遠ざかる。残りの十両を牽引して遠ざかる。いま、この瞬間なら脱
出の余地はまだあるが―――当然、姫君は猫娘を逃すつもりなどない。

 彼女は自分の世界を圧縮した。
火星天≠フ密度を変えた。
 広大な花畑なんていらない。無限の花々なんていらない。いまは、指が届く
程度の距離で愛でられる花とその養分となるべき骸が一匹あればいい。
 第五層火星天≠ヘここ≠セけでいい。この客車が、針の城におけるわた
しの世界のすべてだ。

 急激な空間の圧縮によって、零姫たちを乗せる魔列車は強制的に第六層木
星天≠ヨと移動する。

 幻想の姫君の唯一の領地となったこの客車は、まさに棺桶だ。花を敷き詰め
て、この子を弔ってやろう―――そう考えて、ふふ、と彼女は笑った。

177 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/02(金) 15:08:38
うむ。
このままでは本気で別の闘争が始まってしまうので、回避回避回避じゃ。
このままミリオンめはいったんドロップアウト→後の合流か。
なんとかがんばって火星天(客車)から脱出する。
どっちかにすべてきだと考えておる。
どちらにせよ、火星天の姫君の出番はここでお終いだと考えてくれ。
これ以上しゃしゃらせはせん!

178 名前:英霊・ミリオンライヴズ ◆C/1000000c :2009/01/09(金) 00:04:40
>>

 一枚のカードを取り出し、宣言、数俊後に車両にかかる急制動、そして「おわたたたたたっ」と
たたらを踏みかけて座席にしがみつくあたし。ああかっこわる。
 あたしだってちったあかっこよく行きたいってのにさあ。まああんな(見かけによらない)
力業の奴を相手にするんじゃあ仕方ないか、ったく。

「あーもー、あいっかわらずやり方が乱暴だねえ、風見の。そんなにあたしとやり合いたい……
違うか、あたしを『いじめたい』ってのかい? あんたも大概、変わりゃしないね。
妖怪ってなそういうもんだって事かもしれないけど」

 車両が完全に止まるのを待って、一息つきつつ……「痛っ」 あれ?
 ふと見たら指先が切れて血が出ている。あー、さっきしがみついたときに座席のどっかで
切っちまったかな? 見た目ふるーい車両だもんねえこれ。
 ぺろり、とひと舐めしてみるけれど、とりあえず止まっちゃくれない。
 ま、いいか。どうせこれからいくらでも怪我をする羽目になるんだろう?
 下手すりゃ死ぬほど、さ。
 
「で? 見た感じ、このままあたしを車両ごと花で覆って嬲ってやろうって腹積もりかね?
『いじめる』というからには、あたしを速攻で殺ろうってわけでもないんだろうしさ。
おまけにとかげらは先に行かせちゃってるし……ま、それならあたしの役目は
果たされてるから、いいんだけどね?」

 ざわざわ、と植物の生い茂っていく音も、あちらこちらで緑も赤も白も黄色も揺らめく様も
見えるけれども、あたしは気にせず、フラワーマスターに笑いかける。
 何故って、気にする必要がないから。
 いじめる? 嬲る? 殺す? それがどうしたって?
 あたしは確かに百万回も生きてきたけど――“今のあたし”はもう、そんなものじゃあない。
 全く……
 
 
 
「――無意味なことさ」

179 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/09(金) 00:05:10
>> 続き


「あいつはな、姫さん。確かに昔は『百万回も生きてきた猫』だったそうだが……もう違うんだよ」

「あいつが“死ぬ前”に、俺に聞かせてくれた話でしかないから、詳しいことは知らねえがな。
……ああ、その通り。あいつは本当に死んでいる。と言っても幽鬼の類でもねえ。全然別だ」

「あいつが言うには――何らかの能力・技能を持つ奴を、その使い手の文字通りの心身と共に
ある種の媒体……まあ要するにあの『石』だな、に記録させる、そんな方法をどっかの奴らが
確立させたんだそうだ」

「何回も何千回も何十万回も生きて死んで繰り返してきたあいつは、ある時そいつを持ちだして……
つーかまあ、大方盗んできたってとこだろうが、最期にご丁寧にも俺を捜し出して言ったのさ」


「こいつで『ただの記録』になるつもりだ、そうすればもう嬉しいことも悲しいことも
引き継がなくて済む――ってな」


「石に記録された存在……英霊、って呼ぶらしいが、そいつはいつでも元通りの姿形で
『再生』されるが……それだけ、なんだそうだ」

「簡単に言えば、自分で考えて動いて喋って触れる立体映像みたいなもんだ。
俺らには……いや、そいつ自身にだって本物、実体に見えるだけで、実際には
魂もなにもない。だから再生が終われば……」


「跡形もなく、消え去る」


「もちろん、そいつが起こした事も残るし、俺らの記憶にだってそりゃ残る。
だが、そいつ自身は――何も覚えることなく、何も持って行くことなく、どこにも行かずに
消えるだけ、ってわけだ」

「ま、俺も実際にあいつを『再生』したのは初めてだがな。だがあいつ自身にはそんな事は分からない。
言ってただろ? 『もう何度も会ってるのか?』って。あいつは俺が自分を“初めて再生した”のか
“もう何度も再生しているのか”なんてことはわからねえんだよ。あいつの記憶は、石に記録された
その時までしか残らねえからな。追記は、出来ねえ」


「あいつはもうそういう存在……ってわけなんだそうだ」

180 名前:英霊・ミリオンライヴズ ◆C/1000000c :2009/01/09(金) 00:05:40
>> 続き

「伊予の星屑、ねえ。まあ別に何に例えてくれたっていいけどさ……風見の、
生憎とあたしは、もう紫陽花のようには居られなくってね。何にも変われやしないから」

 戯れに、指に膨れあがった血だまを弾き飛ばしてみる。
 散った鮮血は、けれど地に落ちることなく……ひらがなカタカナアルファベットキリル文字ギリシャ文字、
その他諸々の文字と化して、消え去る。
 あたしがただの記録、再生されたデータである事の、証。
 
「ま、でもね。どうしてもってんならあんたに、あたしとのお遊びの思い出を残してやるくらいは出来るさね。
花と散ってやろうか? もちろん――あたしの振るう技の記憶と一緒に、さ」

 もう一度指先を舌で舐め……にぃ、と猫らしく笑って、指を更に噛み切る。
 溢れる鮮血。またぺろり。

「赤猫って知ってるかい? 放火の隠語なんだそうだよ。
随分な話じゃないか。勝手にあたしら猫に例えちまってさ!
炎の揺らめきは赤猫の舌なんだってさ、ねえ……」

 あっちこっちから花が侵入してくる。あいつを守る矛となり盾となって。
 はん、でもさ……結局は植物だ、こいつには弱かろう?

「ならあたしも――猫の化生らしく、火を放ってやろうじゃないさ!」


       吻接の灯鬼たっ狂
――――<VOLCANIC LIBIDO>!!


 舐めた指先に滴る血潮、そいつを周囲に振りまく。
 『文字化け』した次の瞬間――あたりを焼き尽くす真っ赤な炎と化した。
 客車の何もかもを焼き尽くす大火と。
 
 
 とかげらには、もう見えないかも知れないがね……風見の、あんたが見てりゃ十分さ。
 何なら消え去るまで、付き合ってやるよ。

181 名前:英霊・ミリオンライヴズ ◆C/1000000c :2009/01/09(金) 00:10:49
これのどこがフェイドアウトだやる気満々だろ常考
……ってなもんだからさ、なんだったらもうちょいばっさり切り捨てちゃってもいいよ。
何でもご要望にお応えするさ。

ついでの与太話。
「英霊」としてのあたしがただの記録存在だってんなら……「本物のあたし」はやっぱりどっかで
生きて死んでを繰り返してるのかも知れないねえ。
あたしはただのコピーってだけでさ。
ま、そんなんだとしてもその「本物のあたし」とやらはとかげに合わす顔がないだろうけどさw

まあそんだけ。その辺掘り下げても下げなくてもどっちでもいいよ。

182 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/12(月) 20:22:41

 あらゆるものが炎に包まれ、あらゆるものが蒸発されゆく世界で、火星天
の姫君は愛しき花たちが灰へと変わる様子をおごそかに見守っていた。
 笑みはとうに消えている。さりとて、余裕を失っているわけでもなく、むっ
つりとした表情から怒りは感じられない。
 姫君のかんばせを彩る感情の色は何か。……あえて言葉を探すならば、戸惑
いと憐憫だ。姫君は、猫の娘を心底憐れんでいた。

 火を放ったことで、花は燃え尽き、やがてこの世界は崩れよう。植物に対し
て、これ程効果的な攻撃はない。猫娘の選択は間違っていない。
 ―――しかし、それは、姫君に対して有効的な攻撃≠ニイコールで結ばれ
るわけではない。

 花が燃えれば姫君の心は痛む。しかし躰は決して傷まない。彼女は妖怪であ
って花の精ではないのだから。
 花による攻撃を行えない環境に置かれたせいで、姫君はフラワーマスターと
してではなく、妖怪として戦わざるを得なくなってしまった。
 それは圧倒的な力で相手を押し潰す優雅さとは無縁の戦闘行為。そこにルー
ルはなく、明確な勝敗の境目もない。

 姫君は憂鬱そうに溜息を吐いて、

「……ほんと、何百万年生きても子供のままなのね」

 と呟いた。

 気怠げに右手をあげて、
 五指を開き、
 彼女は灼熱ごと、
 彼女は客車ごと、
 彼女は猫娘ごと、
 彼女は彼女の世界ごと―――

 津波の如し熱量の大砲で、太陽の如し光量の奔流で、すべてを撃ち抜き、蹂
躙する。世界は白亜に包まれ、闘争の舞台すら消滅した。

 この瞬間から、アセルスの城において第五層火星天≠ヘ存在しなくなる。

183 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/12(月) 20:22:56


 世界の圧縮によって火星天≠ゥら強制的に追い出された魔列車が次に走る
のは、第六層の木星天=B濃厚な霧が一帯に広がる視界ゼロの世界である。
 窓に頬を押しつけてもまともに外の景色を見ることは叶わない。進路もなに
もあったものではなく、ただ霧を切り開いて疾走するのみ。魔列車の走行を管
理する零姫としては、鉄路に障害物が置かれているかどうかすら確認できない
現状は恐ろしくてしかたがないのだが、だからといって対処する術などなく、
腹を括って走り去るより他に選択肢はない。

 時より、どこからともなく谺する「イヒヒヒヒー!」という哄笑を不気味に
思いながらも、零姫はとかげを連れて機関部から客車に戻った。
 彼とは話しておかなければならないことがある。―――ミリオンと呼んだあ
の化け猫はなんなのか。なぜ、とかげに力を貸したのか。

 ……因みにシャオジエは、改めて冷蔵庫に叩き込んでおいた。

「―――つまりあの化け猫は、転生無限者だったのじゃな」

 ボックス席でとかげと向き合う零姫は、いつになく真剣な表情で言った。

「死に続けて生き続ける転生無限者の、ひとつの完成系であり終焉でもあるわ
けじゃ。あのミリオンとやらにこれ以上の未来はなく、ただ永遠に記録された
現在≠ヘ再生し続ける。停滞すれば死ぬことも生きることもないからのう」

 そんなバケモノがイーリンの人造僵尸に埋め込まれたいたなんて。奇縁もこ
こに極まれり、だ。偶然で片付けるにはあまりに都合が良すぎる。……なにせ、
これでひとつの空間に三人もの転生無限者が集ったことになるのだから。

 死を願うとかげからすれば、永久に停滞≠キるミリオンは受け容れがたい
存在だろう。同様に、生を愛する零姫も、未来なきミリオンの再生≠ノは共
感できずにいる。同じ転生無限者でありながら、三者三様。こうも考え方が違
ってしまうものなのか。面白いと思う反面、寂しくもあった。

 時と場所が違えば、殺し合うしかなかった三人かもしれない。
 でもいまだけは、イーリンのために―――

「これだけは確認しておきたいのじゃが」
 
 零姫は躊躇いがちに切り出した。

「あの化け猫は、また再生≠ナきるのか?」

 話を聞く限り、こと戦闘力においてミリオンライヴスは飛び抜けている。
 彼女がいてくれれば、これからの道中もぐっと楽になるだろう。気は進まな
いが、いまは藁にでも縋りたい思いなのだ。利用できるものは利用しなければ。

184 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/15(木) 00:08:55
>>

「また“再生”出来るのか、ねえ……」


 さぞや、俺は苦虫を十匹や二十匹は余裕で噛み潰してるようなツラをしていることだろう。
姫さんにこんだけ慮ってもらってるんだからな。まあ外が視界ゼロなんだから、俺自身でも
窓を見れば自分でもそのツラを拝むことは出来るだろうが……別段、そんな気にもなれない。

 大方お察しの通り、俺はミリオンのとったやり方は気にくわない、と言っていい。
 仮に俺自身がそういう存在になる機会を得られたって、きっと蹴り飛ばすことだろう。
 ……もっとも、こんなのは理屈じゃねえ、ということも俺自身、いい加減理解できちゃいるが。
 
 俺が「死にたい」と思うことも、
 姫さんが「生きたい」と思うことも、
 ミリオンが「止めたい」と思ったことも、
 
 それぞれがそれぞれに選んだ答え、ってやつだ。
 今更変えられやしねえ。残される側に配慮なんぞしてたら、きりがねえからな。
 
 わかっちゃいる。
 わかっちゃいるが……実際に残される方は、それはそれでやはり気分の良いもんじゃ
ねえようだ。本当に、理屈じゃねえ。
 だから、俺は……


「出来るのか、と言われりゃ正直分からねえ、というところだけどな。
 ただ、さっき“再生”したばかりだからな。あいつがまだ戦ってるなら……」

185 名前:◆C/1000000c :2009/01/15(木) 00:09:22


『あーあ、やっぱ分が悪かったかねえ……あたしももう少し、粘っておきたかったんだけどな。
ま、仕方ないね。もう行くよ、とかげ、風見の。
“次のあたし”に会うようなら、またよろしく頼むさ。じゃあね』

186 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/15(木) 00:09:37
>> 続き

「……まだ戦ってるなら、追加再生とはいかねえだろうな。二重に再生できるとはあまり思えねえし。
しばらくは無理だと思っておくほうが無難だろ」


 本当にまだ戦ってるのかどうか、もちろん俺には分からねえ。
 とっくに消えちまってて、もう再生可能なのかも知れねえが……それでも俺は、そう答えていた。
 
 ……本音を言えば、さっきの今で“再生し直された”あいつを見たくねえからだ。
 今ふたたび再生すれば、あいつはまた俺を見て驚くのだろう。いや今に限らず、今後もずっとか?
 とんでもねえ茶番だ、ましてさっきの今じゃ尚更気分が悪すぎる。
 ……今頃になって少し後悔している。切り札を早々に切りすぎた。こんな気分に囚われる羽目に
なるなんざ……俺も焼きが回ったとしか言いようがねえ。「英霊」と化したあいつを見るってのが
どういう意味を持つのか、考えておくべきだったぜ、クソ!

 噛み潰している苦虫は、そろそろ三桁の大台に突入しようって雰囲気だろうなこりゃ。
 けったくそ悪ぃ。
 気分を切り替えるように――ように、じゃねえか。本当に切り替えだ――剣の鞘で床を突いて
席から立つ。


「そろそろ機関室に戻らねえか、姫さん? いい加減次のエリアに抜ける頃だろ」


 ――「石」を通じてか、あいつの別れの言葉が聞こえたような気がしたが、
 そんなものなど、気分もろともに押しやるようにして。

187 名前:あぼーん:あぼーん
あぼーん

188 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/18(日) 22:14:19


 言葉として伝えられずとも、その苦しげな表情を見れば、とかげの葛藤はい
やというほどに透けて見えてしまう。
 ……やはり、こやつは転生無限者として永劫を生きるには優しすぎる。零姫
は胸裏で溜息を吐いた。

「ふむ、そうか」

 そうとしか答えなかったのは、とかげの思慮を汲むためでもあったが、零姫
なりに打算を働かせたためでもあった。再生が可能であろうと不可能であろう
と、ミリオンの出番はここではないことだけは揺るがない事実だ。
 この狂った迷宮の主は英霊≠フ存在を感じ取っただろうか。イレギュラー
として認識しただろうか。あの隔絶された花畑―――第五層の寵姫を相手にア
セルスはどこまで干渉できるのか。
 いささか楽観的かもしれないが、妖魔の君の性格を考えると、未だにミリオ
ンは切り札として有効だと考えられる。

 ミリオンの再生機≠ナある魔石が、人造僵尸の動力源となっていたならば、
彼女もイーリンとは無関係ではないのだ。力を貸して欲しかったし、協力を拒
むのであれば強引に巻き込む気ですらいた。
 零姫はとかげとは違う。ミリオンはイーリンの下僕だった。ならば、主人の
ために忠義を尽くす義務がある。……零姫はそう、考えていた。
 手段や倫理を問うてる余裕はない。

 零姫は席を立つと、袴の裾を直した。
 とかげを先導して機関部へと向かうその表情は、厳しい。


 第六層木星天=\――霞に支配された階層は、最後まで車窓からの風景を
白く染めたまま、何事も起こらずに終着を迎えた。
 車掌役のシャオジエが猿轡を噛まされて監禁されているため、とかげも零姫
も知ることはなかったが、木星天≠フ寵姫こそアセルスの内なる城≠ェ生
まれる切っ掛けであり、同時に妖魔公の狂気の走りでもあった。
 個人と個人の境界を曖昧にし、隔てられた世界は融け合い、不完全は不完全
によって補われ、永遠は完成する。この方程式を実行に移した寵姫は、「いひ
ひひー」と不気味な笑い声を残すだけで、零姫たちには一切手出しをせず、大
人しく自分の階層を通過させた。

 そして一行は第七層土星天≠ヨと至る―――。

「ついに、ここまで来たか」

 現実の〈針の城〉は、第八層から十層までは外環部分として扱われ、イーリ
ンのようにマフィアとは無縁の人間も多数住み着いていた。
 アセルスの支配がどこまで完璧なのかは知らないが、この針の城≠ェ妖魔
公の内面世界でありながら同時に現実の〈針の城〉でもある以上、外≠ヨ近
付けば近付くほど支配も弱まるのが道理だ。
 これまでのように、あまりに現実離れした光景を見ることもなくなるだろう。
 そんな零姫の考えを裏付けるように、土星天≠フ風景は現実の第七層と変
わらないものであった。闇が濃厚で、ビルというビルに荊が絡みついていると
いう差異はあるものの―――そういう違う部分≠ェ分かりやすいお陰で、余
計に支配率が低いのだと安心できた。
 奇妙な旅路の終わりは、近い。

189 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/18(日) 22:14:33


 線路はビルとビルの隙間を縫うように細かくうねりながら敷かれ、時には建
物をトンネルに見立てて、屋内にまで侵入した。
 元々の〈針の城〉は機関車どころか自動車や馬車すら走るスペースが無かっ
たことを考えると、これはかなり強引な荒技だ。必然的にスピードは落ちる。
 零姫も魔想レールを生成するために、より深い集中を要した。

 七層さえ超えれば。
 八層にさえ至ってしまえば。
外≠ェ近い。
外≠ェ現実のものとなってきた。
 イーリンの想いが叶おうとしている。
 彼女の自由が、いま、開かれる。

 ―――だがそこに、最大の障害が立ち塞がった。

土星天≠フどこにそんな空間があったのか、高層の建物――それは、阿嬌が
飛び降りたビル屋敷≠セった――を通り抜けたその先は、地平線まで続く一
直線の道だった。
 あらゆるビルは、まるで線路を避けるように両脇に建ち並んでいる。
 零姫は当然、こんな鉄路は生成していない。何者かが干渉して、道を歪めた
のだ。そんな真似ができるのはこの階層の寵姫か、あるいは―――

 機関車の進路の先、線路の上に佇む人影ひとつ。
 闇色の風に煽られて、ジュストコールの裾が踊る。
 魔列車の疾走を阻む無謀な人影は少女だった。
 少女でありながら、少女にあるまじき格好をしていた。
 少年のような服装をしていた。
 少女は男装をしていた。

 少女の姿を魔眼で認めた瞬間、零姫は目を剥いて叫んだ。

「アセルス!」

 進路の遥か先で、妖魔の君ははっきりと零姫を睨み返してから、薄く嗤った。
 その笑みは戯れの終わりを告げていた。黙したまま、観光旅行はここまでだ
と語っていた。―――全ては二人の因縁から始まったのだ。ならば、二人が対
峙せずに、このまま外≠ヨなどと大人しく行かせるものか。
 
「……もう十分だろう? そろそろ、イーリンを帰してもらうぞ」

 アセルスの呟きは、零姫の耳にまで届く距離ではなかったが、彼女ははっき
りとアセルスの声≠聞き、そして―――激昂した。

「アセルス! おまえだけは……!」

 だが、憤激しながらも理性を残せるのが零姫という女だ。彼女の中の冷静な
部分が、アセルスとの対決だけは避けろと警鐘を鳴らしていた。

 魔列車が走る。
外≠目指して。
 迷宮の城主へと向かって。
 終点へと走る。

190 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/18(日) 22:44:13
>>

 「悪の親玉」のお出まし。物語の終わりは近い、ということか。
 
 ……誰の物語だ?
 切り札呼ばわりしたミリオンはもちろん、俺だってただのゲストキャラだ。イーリンの代わりに
現われただけの、俗に言うオルタナティブ。
 そしてイーリンはもういない。
 
 因縁を辿ればあの女と姫さんか?
 だがそんなことは勝手にやってろ。イーリンを、いや「イーリンとリリー」を巻き込むんじゃねえ。
 そしてリリーももういない。
 
 主役いねえヒロインもいねえ、いるのは代役と代役と悪役と脇役。
 ふざけた茶番の物語。
 代役の俺らは、そんな物語をきちっと終わらせるだけだ。
 イーリンのために、リリーのために。
 
 つまり。
 
「……お呼びじゃねえってんだよ。勝手に生きてろ、勝手に死んでろ。
 勝手に――轢かれてろや阿呆」
 
 機関の出力を上げる。オーバーヒートぎりぎり。
 にっくき悪役が目の前にいるせいか、加速度つけて炉心は燃え上がる。
 弾丸列車はひた走り――――
 
 
 ――は! わかってるさ、あのクソ女はそんなタマじゃねえ。
 絶対に何かある。いやさ本物かどうかさえ怪しいぜ、こんな世界じゃ。
 だがどっちにしろ、こんな列車に何かされるなら……
 
 
 激突コンマ数秒前。
 俺は姫さんを庇った。
 
 何故と問うんじゃないぜ姫さん? イーリンなら、そうするに決まってんだろう?

191 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/21(水) 00:52:42


それ≠ヘ闇の蒸気に隠れていたのか。あるいは、二人がアセルスを注視する
あまり、彼女の背後に控えるそれ≠ノ注意が向かなかったのか。
 どちらなのかは分からない。正解はどこにも見えない。
 ひとつのみ分かる真実は、魔列車が加速したことにより、二人は確実に己の
首を絞めてしまったということ。
 とかげはアセルスの挑発に乗ってしまったのだ。彼も零姫も、ここが妖魔公
の庭だということを知っていながら、それが意味する恐ろしさを十全には理解
していなかった。例え支配率が低かろうと、魔想レールに干渉して軌道を歪め
る程度のことは容易いのだ。

 汽笛が、死霊の絶叫の如き音で闇に響き渡る。蒸気が吹き出し、車輪は猛烈
な勢いで回転する。第五層での絨毯爆撃によって機関車の車体はだいぶ傷んで
いたが、動力源へのダメージは皆無に等しく、加速はスムーズに行われ、猛り
狂う鉄牛は華奢な小娘を挽き肉にせんと鉄路に沿って突撃した。

 妖魔公の口元の笑みは消えない。
 圧倒的な質量に肉薄されてなお不敵な態度を崩そうとせず、ショートパンツ
から伸びた細い素足を見せつけるように軽くレールを蹴った。
 アセルスの躰が宙に舞い上がる。魔列車との相対距離は車両一つ分。アセル
スの企みを見定めようと目を凝らしていた零姫は、そこでようやく、自分が罠
に嵌められたことに気付いた。

 ―――アセルスの背後には、漆黒の鋼鉄が控えていた。

 重甲冑の騎士を彷彿とさせる鋼の躰。蹂躙を目的とした凶器にしか見えない
無数の車輪。将軍に追従するように牽引される、十一両の客車。
 零姫は思わず呻く。

「……もう一台、じゃと」

 彼女たちが乗るそれと同型の機関車が、同じ線路上に、向き合うようにして
鎮座していた。稼働してはいない。だが、停車していようとも、これ程までに
大きな質量に進路を阻まれたら―――

 宙を舞うアセルスの爪先が、対面する汽車の煙突に触れた。
 その瞬間。

 二台の魔列車は、正面から激突した。

 接触の瞬間、とかげが零姫に覆い被さるようにして守ったのと同じ理由で、
零姫もまた、とかげを――いや、イーリンを――咄嗟に張り巡らした魔術障壁
で衝突の衝撃からガードした。
 充分にスピードの乗った機関車が、不動の機関車に突っ込んだのだ。その被
害は、どちらも鉄屑に還ってなお余りあるほどに酷かった。
 とかげと零姫を乗せた機関室は衝撃で浮き上がり、鼻面を中心に逆立ちした。
当然、二人は闇へと投げ出されることになる。
 脱線した機関車は地響きを立てながら転がり、線路の脇のペンシルビルに激
突。それでも勢いを殺せず、一階部分を丸ごと抉り取って、奥のビルにまで破
壊をもたらした。後続の客車は鞭の如く振り回され、連結部が引き千切れた車
両は宙を舞い、砲弾となって街に降り注いだ。
 接触事故というより、もはや爆弾の炸裂に近い。二台の機関車と計二十両の
客車は全損し、周辺一帯の建築物にも深刻な疵痕を残した。
 炉が壊れたことにより、燃料となっていた怨霊は逃げ出し、霊的エントロピ
ーの均衡を致命的なレベルまで狂わせる。

「なんて……めちゃくちゃな……やつ、じゃ」

 積み木のように折り重なった客車の残骸から、零姫はほうほうの体で這い出
した。打撲やすり傷で全身が痛んでいる。あれだけの惨事で、この程度の負傷
で済んだのは僥倖か。

192 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/21(水) 00:52:57


 零姫は線路上の砂利に這い蹲ったまま、首を左右に振ってとかげの姿を探し
た。機関室から放り出されるまでは、確かに魔術障壁で守った。しかし、それ
より後のことは分からない。果たしてとかげは無事なのだろうか。しっかりと
イーリンの躰を守れているだろうか。もしも客車やビルの瓦礫に潰されるよう
になってことになっていたら―――

「とかげ、生きておるのか! どこにいるのじゃ! 返事をせい!」

「―――相変わらず、病弱ぶっている割には頑丈だな」

 はっと息を殺す。零姫の呼びかけに応えたのはとかげではなかった。地面に
ひれ伏す零姫の目の前に、ブーツのヒールがざくりと落ちる。
 見上げるまでもなく、そこにはこの魔宮の城主が佇立していた。彼女も正面
衝突に巻き込まれたはずだというのに、傷はおろか、埃すら被っていない。
 蔑みの眼で零姫を見下ろしている。

「アセルス……!」

 起き上がろうとした零姫の肩を、アセルスは軽く蹴飛ばした。それだけで零
姫は砂利に頬を滑らせ、血を滲ませた。
 剣術を極めたアセルスは、ことこの間合いにおいては無敵に近い。いくら零
姫が魔術に長けていても、白兵戦では赤児以下の抵抗しかできなかった。

「よくも好き勝手に私の世界を荒らしてくれたな」

 ブーツの靴底が、零姫の後頭部を踏みつける。

「貴様が勝手に呼んだのじゃろうが……!」

「誰も荒らしてくれ、とは頼んでいない」

 足を離し、すぐに蹴り付ける。零姫の矮躯が一瞬浮き上がった。

 アセルスは手に提げた月下美人ではなく、腰に差した儀礼用の装飾短剣を抜
き放った。切れ味は鈍いが、だからこそ余計に痛みを与えることができる。
 咳き込む彼女の腹部をもう一度蹴ってから、アセルスは零姫の目の前にしゃ
がみ込んだ。その白い肌に刃を突き立てる前に、最後の確認として、妖魔公は
口を開く。

「……貴様は私に、なにか言うべきことがあるはずだ」

 アセルスなりの恩情のつもりだったのだろう。しかし零姫は迷いもせず、唇
から鮮血をこぼしながら、

「貴様は最低じゃ。人間としても、妖魔としても、屑にすら値せん」

 あらん限りの憎しみをこめて言い捨てた。

「……そうか。ならば苦しめ」

 アセルスは無表情のまま、短剣を振りあげて―――  

193 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/27(火) 00:52:44
>>

 ――振り上げた短剣は当然に振り下ろされる。
 止めねえと。
 そう思った。
 結果。


 その短剣は、横から突きだした俺の左腕に深々と、ってわけだ。
 ……なんて冷静に語ってられるか! いってえ……ッ! クソが!


「……お呼びじゃねえ、って言ってんだろうがサド野郎。手前勝手極みきりやがって」

 同じく放り出され、瓦礫に投げつけられ、痛む全身を引きずって姫さんを探し、極めて不吉な
会話を聞きつけ、それを頼りにしてようやく視界に飛び込んできた光景が、それ。
 俺も、この体も、多少の荒事には慣れてる。
 だからこそ……こうするより他になかった。いや、あったかも知れねえがとっさに出た判断が
それだった、って事かも知れねえが。
 もっとも、どのみち俺の剣は所詮我流だ。逆手持ちの短剣を、それも姫さんを傷つけずに
弾き飛ばす自信は今だってねえよ。おかげでこの体を更に傷つける羽目になっちまったが。
 世話もねえな。……イーリンならどうしてたろうな。もっとクレバーに立ち回ってたか?

「つーかあんたも律儀に付き合ってんじゃねえよ姫さん。とっとと逃げてくれ。
あんたチャンバラ出来るようなタマじゃねえだろ」

 刺さったもんを抜かせ――もちろん、更に痛えが、無視。
 死んでるっつーのに痛いなんて理不尽だがそれも無視。
 目の前の馬鹿も、背後に庇う姫さんも、何もかも、ある意味全部無視。
 俺一人で逃げれば助かるか? やってられるか馬鹿。「イーリンとリリー」で逃げなきゃ
意味がねえ。なら今は俺が悪役を引き受けるっきゃねえだろうが。

「いい加減うぜえぞ……『私の世界』だとかなんとか、引きこもりのタワゴトかよ。
ましてイーリンを弄んだ元凶の癖に、勝手に執着してんじゃねえ。
この体はもう俺のもんだ、何一つだって渡しゃしねえぞ」

 スラム育ちの、荒事慣れで、ろくに出るとこも出てねえイーリンの体。ああそうとも俺のもんだ。
だからこそ義理があるし、何より俺が許しゃしねえ。絶対に逃げてやる。
 その為にも……
 
「ほら何やってんだ、早く逃げろってんだよ!」

 不釣り合いかも知れない、頂きもんの刀の柄に手をかけ、もう一度姫さんに呼びかける。
 もちろん俺だって、隙あらば逃げる心算だが……今はやるっきゃねえだろ、クソ。 

194 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/02/21(土) 21:01:46


「貴様……」

 妖魔の麗人は顔を歪めて呻いた。
 声の低さが彼女の怒りの強さを物語っている。
 とかげが盾になって零姫を護った。自分の行動を阻害された。零姫が痛みに
喘ぐ表情を見られなかった。―――そんなことは、別にどうでもいい。
 アセルスが許せないのは、とかげが、己の都合でイーリンの∫[を傷付け
たからだ。アセルスが支配すべき寵愛の対象を、キズモノにしてくれたからだ。
 イーリンという少女の価値は、刃に肉を抉られ程度で落ちるものではない。
そんなことぐらいはアセルスも理解している。むしろ土に汚れ、血を流し、地
面に這いずるほど強く眩く輝く手合いの女だ。
 ……が、それはイーリンの魂あっての話。とかげが、零姫如きを庇うために
イーリンの肌を犠牲にするなど断じてあってはならない。決して見逃せない。

「貴様」

 激したアセルスは、もう一度呟くと、とかげの黄金瞳を睨み据えた。あらゆ
る魔術作用を無効化するとかげには、当然魔眼も通用しない。そう、分かって
いてもつい瞳に力をこめてしまう。

 イーリンの躰で私に刃を向けるなんて。
 絶対に許せない。

「貴様ぁ!」

 魔眼の猛りがとかげにではなく、彼女の世界≠侵しはじめたとき、もう
一人の怒れる妖魔が、とかげの背中に怒声を浴びせた。

「戯けめ! 勝手に傷付けおって、誰の躰じゃと思っておる!」

 躰の痛みも忘れて立ち上がり、ぽこりととかげの頭を叩く。

「庇うにしても、庇いかたというものがあろう! わらわを護るな、とは言わ
ぬ。せめて、もっと考えて護れ!」

 まさかそちらからも怒りが飛んでくるとは思わず、アセルスは一瞬だけ目を
丸めてしまった。いくらなんでも庇われた当人が、庇った人間を責めるのはお
門違いというものだろう。それも庇ってくれたのは、魂は違うとはいえイーリ
ンなのだ。涙を流して感動に打ち震えるべきではないか。
 驚きもつかの間、アセルスはすぐに怒りを取り戻す。
 この淫売はなんて自分勝手なのか。私だって、叶うことならイーリンに身を
挺して護られたいのに。それをはね付けて説教までするとは。
 わがままにも限度がある。やはりこいつだけは許せない。絶対に許せない。

「戯けているのは貴様だ、零姫。貴様等二人揃って、どこまで度し難いのか」

「黙るのは貴様じゃ! 口を挟むな! ……とかげよ、わらわ達の目的を忘れ
たのではあるまいな。イーリンの躰を外≠ヨと導くための脱出口で、そのイ
ーリンの躰を傷付けては本末転倒じゃろうが。二度とこんな真似は―――」

「貴様、私を無視したな!」

 アセルスは、殴るどころか刺し殺しかねない勢いで零姫に食ってかかるが、
二人の間にはとかげが嘯風弄月を構えて毅然と立っている。

「……そこをどけ、とかげ。爬虫類如きに私と対峙する資格があると思ってい
るのか」

 それともまさか、この私と刀で対するつもりではなかろうな。侮蔑を孕んだ
瞳で、アセルスはとかげと―――その背後の零姫を見据えた。

195 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/02/21(土) 22:30:11
>>


 …………あの、なあ……


「ごちゃごちゃ五月蠅えぞてめえら……」

 ったく、揃いも揃って――ああ、もちろん俺もだ、それくらいは認めてやる――手前勝手な
連中ばかりだ。
 後ろの姫さんは「イーリンを護りたい」
 当の俺は「イーリンとリリーを逃がしたい」
 それと……めんどくせ、約一名省略。まあ明後日のほう向いてんのは間違いねえが。
 ……噛み合ってねえな、全く。目の前のバカはもう論外だが、姫さんまでこんな調子じゃあな、
いい加減ぶちぎれるぞ、俺も。

「もう一回はっきり言うぞコラ。この体はもうお・れ・の・か・ら・だ・だ! 俺がどう立ち回ろうが
俺の勝手だ。ああ? 目的? 『俺とあんたで』逃げることだろうが。だってのにあんたが
殺られそうになってんのを我が身優先で見てろってのか? 第一、イーリンだったら自分の身を
優先させたってのか? 違うだろうがそんなもんは」

 イライラに身を任せた勢いで姫さんに説教。つーかまだ痛えもんは痛えんだよクソ。
 まあ、この程度の傷なら止血も治癒もすぐだけどな。そうでもなきゃ、こんな立ち回りするかよ。
 もちろん、だからって頭や心臓までくれてやる気もねえんだが……その辺くらい分かれ、姫さん。
 目の前のバカは知らん。
 
「大体俺だってな、好き好んで死んでやる気もねえよ。この体は全力で『死守』してやる。
あとは適材適所の理屈ってやつだ。あんたを死なせやしねえ、俺だって死ぬ気はねえ。
どっちも生きてんのが大前提なら、前衛後衛はっきりさせて動いた方がいいに決まってんだろうが」

 「イーリン」が大事なのはわかるが、姫さん自身を蔑ろにしちゃ意味がねえんだよ、俺にとっちゃ。
忘れてんのはどっちだ、全く。
 やれやれ、王子様ごっこも大変なもんだな、イーリンよ。
 目の前のバカは知らん。
 
「だからとっとと行ってくれって。せめて下がれ。このままじゃ動けるもんも動けねえだろうが」

 以上、説得終了! あとはチャンバラのお時間だくそったれ!
 
 目の前のバカは知らん。
 ガン無視だガン無視。
 どうせ今まで俺のほうが無視されてんだからおあいこだろうが。

196 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/03/05(木) 08:30:27


 喧嘩には自信がある。反論ならいくらでも用意できた。
 確かに零姫は白兵戦を得意としない。そこらの下級妖魔にすら劣るだろう。
そういう意味では後衛に徹しろというとかげの意見は妥当だ。
 が、いま二人を怒りの視線で貫いているのは妖魔公アセルスなのだ。妖魔最
強の剣客なのだ。彼女を前にして、前衛が誰か、後衛が誰かなどという議論を
するのはあまりにナンセンス。絶望的な力量の差に晒されて導き出される答え
はただ一つ―――対峙した者の敗北と死。
 とかげは論点をずらしている。誤魔化しを用いている。いくら口で「死ぬ気
はない」と言っても、説得力というものが欠けている。この窮地で、どちらも
斃れずに切り抜ける選択肢などというものが本当にあるのか。
 どちらを犠牲にして、どちらが生き残るか。―――優先すべき議論はそっち
ではないのか。

「……」

 とかげは死ぬ気なのか。お姫様を庇う騎士にでもなるつもりなのか。先走っ
た英雄願望の果てに、取り返しのつかない終末を迎えるつもりなのか。
 その程度の男だったのか。

 ―――いや。

 違う。そうじゃない。
 死を願う男だからこそ、死にたがりの魂だからこそ、ここでは死ねないと分
かっているはずだ。こんなところで果てては、彼の最後の拠り所である死
が穢される。妖魔公アセルスは静粛な死さえも許さぬ女だ。

 とかげの横顔を見てみろ。イーリンのかんばせで感情を表現する彼は、いま、
なにを思っている。あの自信に満ちた笑みが、死を受け容れる者のそれに見え
るか。……否、見えない。見えるはずがない。

 なぜ、そんな表情を作れるのか。
 どうして、そんな風に不敵に笑えるのか。

 ―――この大馬鹿者は生き残るつもりなのだ。
 アセルスと一対一で対峙して、それでもなお、希望を捨てていないのだ。
 なんたる傲岸不遜。うつけにも程がある。

「ふっ」

 思わず口から息が漏れる。気付けば零姫の口元にも笑みが浮かんでいた。

「とかげよ。別におまえが死のうが灼かれようが寵姫にされようがわらわの知
ったところではない。好きに料理されてしまえばいい。―――しかし、じゃ。
その肉体はイーリンのもの。その凛々しい横顔はイーリンのもの。一時の借り
物に過ぎぬということ頭に留めて……おまえが死ぬときはせめて、躰だけは護
りきるがよい」

 それともう一つ。そう言って、零姫はアセルスととかげに背中を向けた。

「わらわは自由じゃ。誰の言葉にも従わぬ。自由であるが故に、自分以外の何
人も信用せぬ。……故に、おまえの命令は受け容れぬし、おまえがアセルスを
相手にして生き残るとも思っておらぬ」

 わらわは逃げぬぞ。―――己の言葉と矛盾して、零姫は駆け出した。軽功で
躰を絹のように軽くして、舞うようにその場を離脱する。

 零姫は逃げない。とかげに殿(しんがり)を任せたりしない。
 自分がこの場に残っても足手まといに過ぎない事実を顧みれば、一時撤退し
つつ、この窮地を打開するなにか≠探すのが最良の策……の、はずだ。

 納得できない部分は多々ある。釈然としないことだらけだ。
 それでも零姫は駆けた。胸に燻る不安から目を背けて、自分に言い聞かせた。
 一緒に行くのじゃ。外≠目指すのじゃ、と。

197 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/03/05(木) 08:30:50


「ふむ」

 零姫の後ろ姿を見送るアセルスに、取り立てて焦燥の色は見えない。先程ま
での猛りすらだいぶ沈静していた。いまの彼女は醒めている。
 アセルスには自信があるのだ。いま零姫を逃がしたところで、どうせすぐに
補足できると。―――なにせ、ここはアセルスの世界であり、アセルスの胎内
なのだから。どこまで逃げようと、手中からこぼれ出ることは不可能だ。
 ならば精々、無様に足掻け。

 いまはそれよりも、優先して片付けるべき問題がある。

「とかげ……」

 妖魔の魔眼が転生無限者をきっと射貫く。
 雑魚と決めつけてきた相手に。零姫をゾズマの結界から燻り出すための道具
としか見なしていなかった相手に、ここまで邪魔される屈辱は如何ほどか。
 アセルスは静かな怒りをたたえて転生無限者を睨んだ。

「つくづく勘に障る男だな、貴様は。あの時もそうで……いまはあんな淫売に
味方し、挙げ句、この私と一対一で対峙するだと? 思い上がりも甚だしい。
いい加減、存在自体が鬱陶しくなってきたぞ」

 零姫をいたぶるために用いていた装飾短剣の切っ先をとかげの鼻先に向ける。

「いいだろう。願い通り貴様を殺してやるから、さっさとかかってこい」

 不愉快げにアセルスは言う。朱い月光に晒されて、刃が血色にきらめいた。

198 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/08(日) 21:32:42
>>

 ……ったく、やっと行ってくれたか。それにしたって命令がどうのこうのって、七面倒くせえ
科白並べ立てやがって。……自由、な。こちとら自由だった記憶なんぞほとんどありゃしねえ
ってのに。
 本当に好き勝手言ってくれるぜ。俺が生き残ると思ってねえだと? 知るかんなもん。
 どうせ死ぬときゃ死ぬ。それでいて死ねやしねえ。ならば死など恐れやしない。
 死中に活を見いだす、だ。相手がこの色ボケ妖魔公だろうが、関係ねえ!
 
 ともあれ姫さんは行ったんだ。これで思う存分に動ける。
 向けられた短剣から目を離さず、間合いを計る。
 鯉口を切りつつも剣は抜かず、間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る――――
 
 
 
 だけ、だ。
 
 け、かかってこいだと? 馬ぁ鹿、誰がわざわざ殺されに行ってやるかよ!
 業腹だが確かに姫さんの言うとおりだ、俺の剣なんぞ所詮我流、こいつと真っ向斬り合って
勝てようなんぞ思っちゃいねえよ。
 だが、別にこいつに「勝つ」必要なんて無いんだからな。
 防戦一方、それで十分だ。その為に姫さんを逃がしてんだ、姫さんの出来る「助太刀」を
期待して……な。

 ああ、全く我ながら馬鹿げたやり方だ。希望観測が強すぎて、まるでまともな戦法じゃねえ。
 だが「死中に活」なんてのは所詮そんなもんだ。理屈じゃねえ。悪あがきにこそ、活路は
あるもんだ。
 ましてや俺はとっくに死んでる。本当の死が来ないからこそ、死ぬことには慣れている。
 そんな俺が「生き延びてやる」と言ってるんだ、ならば死中に活、見いだせるに決まっている。
 
 どこまでだって悪あがいてやる。死んでも、時間を稼いでみせるさ。

199 名前:あせるす ◆1kpREIHIME :2009/03/09(月) 04:07:02

 暫くの沈黙が流れた。
 互いに睨み合ったまま微動だにしない剣士二人。
 もしこの場に第三者の人間がいたら、緊張で窒息死していたであろうと思わ
せるほど空気が張り詰めている―――が、それも初めの数十秒だけの話で、ア
セルスがとかげの意図を察すると、緊張は即座に失望と軽蔑に転じた。

 とかげの目的は外≠ヨと脱出することであって、アセルスを斃すことでは
ない。そこに彼特有の賢しさを加味すれば、「待ちに徹する」という結論に至
るのは当然のこと。彼に剣士の矜恃など期待できるわけもなく、必然、立ち会
いの場における崇高な礼法とも縁がない。
 彼はただ醜く生き足掻いているだけだ。浅ましく生き延びようとしているだ
けだ。所詮は爬虫類。地を這う動物に相応しい考え方だな―――とアセルスは
口を歪めてせせら笑った。

「死にたがりの貴様が、死にに来ないというのなら―――」

 一回転、二回転と手の中で短剣を器用に踊らせてから、改めて切っ先をとか
げへと向ける。

「―――私から殺しに行ってやる」

 瞬間、風景はコマ送りに変ずる。ただの一度の踏み込みで、二人の距離は肉
薄する。転移の魔術でも用いたかのようなスピード。突き出された刃は見惚れ
てしまうほどに無慈悲で、吐き気を催すほどに容赦がない。
 紫電の如き突きだった。雷光にも等しき疾さだった。
 狙いは心の臓―――アセルスには、無駄にイーリンの肉体を傷付ける意図は
ない。刃に篭められた呪いで、とかげの魂を魔術の鎖でがんじがらめにしてし
まえば、それで決着はつく。

200 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/11(水) 00:54:21
>>

 ふん、どうぞ存分に笑いやがれ。どうせ望まぬ生、どう生きようがどう死のうが俺の勝手だ。
 ましてやこんな真似、柄じゃねえのは先刻承知。好き好んで切った張ったしてたまるか。
 
 短剣の切っ先が再び向く――ち、もうやる気になったか。
 だがどう来る。
 ……斬りつけてくることはねえだろう。明らかに奴の分が悪すぎる。そもそもこいつは、俺など
とっとと片付けたいところだろう。ならば一撃必殺か。
 もっとも――俺の『心臓』は、別にあるようなもんなんだがな。
 
 
 果たして――――転瞬!
 
 
 俺もまた、奴に対し踏み込んだ。
 俺のほうが遅い? 構わねえ。
 案の定、左胸を狙ってきた短剣は逸れ、腕を掠め切り裂くが、それも構わねえ。
 構ってる暇はねえ。
 
 踏み込み――抜き打ち、払い抜け。
 「居合い・後の先」などとはおこがましくも――交錯する。

201 名前:あせるす ◆1kpREIHIME :2009/03/13(金) 00:29:57


 神速の刺突に対して、臆することなく前に進むなんて。
 根性だけは座っているのか、それとも恐怖や危機感が麻痺してしまうほど生
き疲れているのか―――果たしてとかげの狙い通り、アセルスが突き出した短
剣の切っ先は彼の腕の皮を裂くに留まった。

 ちっ―――と妖魔公は小さく舌を打つ。
 まさか私の突きをかわすとは。相手を侮りすぎたか。

 タイミングを合わせてとかげが抜刀する。
 アセルスの油断が生んだ隙に、うまくつけ込むかたちになったが―――間合
いの見切りに始まり、剣の冴えも、技のキレも、足の捌きも、彼の一太刀は何
もかもが稚拙だった。剣術と呼ぶにはあまりにも大胆で乱雑だ。野良犬に相応
しい喧嘩技でしかない。
 深く踏み込み過ぎたため、いまのアセルスはとかげに対して半身を無防備に
晒してしまっている格好だが、それでも余裕をもって捌ける自信が彼女にはあ
った。一度はとかげに勝利した身だ。彼の力量は分かり切っている。
 勝負にならない。

 ―――そのはず、だったのだが。

「っ?!」

 とかげが構える赤鞘の鯉口から閃光が迸った。
 少なくとも、アセルスにはそう見えた。

 白刃が鞘走り、〈針の城〉の闇に銀光の刀傷を残す。
 その一閃は、粗野であるが故に原始的な優美さを兼ね備えていた。
 虚飾とは無縁の純粋な一刀。
 危うく見惚れるところだったが、アセルスの剣士としての才覚が理性とは切
り離された部分で無意識に躰を操り、音速の勢いで後方に飛び退かせた。
 ただの一瞬でとかげの刃圏から脱出してみせたアセルスは、目を剥いて彼が
構える刀を睨んだ。その表情にはもはや不遜な余裕は微塵も窺えない。

「……そうか」

 呻くように妖魔は言う。

「それはゾズマの獲物だったか」

 道理で疾いわけだ。

 アセルスは、自嘲じみた笑みを口元に浮かべ―――

 そして、短剣を地面に落とした。
 彼女の、右腕ごと。

 とかげの抜き打ちの一刀は、アセルスの胴こそ薙げなかったものの、右腕の
肘から先を見事に断ち切っていた。致命傷には程遠いが、確実なダメージであ
ることには間違いない。とかげがついに一矢報いたわけだ。

 切り口から青い鮮血が噴き出し、地面に転がるアセルスの右腕に降りかかる。
 若き妖魔の君は、その光景をどこか他人事のような目つきで見下ろしていた
が、瞬きを二度と三度と繰り出すと、ようやく瞳に怒りらしい感情が灯った。

「……屈辱だ」

 呪詛のような呟き。
 否、それは本当に呪いの言葉だったのかもしれない。
 アセルスの一言に応じるかのように〈針の城〉の闇が蠢いた。線路や機関車
の残骸に密生していた荊が、やにわに騒ぎ始める。ぎちぎちと音をたててアセ
ルスの周りに集い、ついには彼女の右腕があった部分に巻き付いた。 
 ―――茨の義手、というわけだ。

 細い茨が何重にも巻き付いて作られた五指が、開いては閉じられる。
 悪くない感触。アセルスの世界で創られ、アセルスの魔力で編まれた義手な
のだから、馴染みがいいのは当然か。

「―――とかげよ」

 彼女は静かに呼びかける。

「そんなにも私と刃を交えたいというのなら」

 その願い、叶えてやろう。

 茨の義手が柄を掴み、右手に提げた鞘から引き抜かれるのは、いまはとかげ
が構えるゾズマの愛刀嘯風弄月≠ニ並び立つ稀代の神刀。
 この世でもっとも気高く、清廉なる無垢の刃。

月下美人≠ェ、紅い月の下に咲き誇った。

202 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/15(日) 22:12:22
>>

 いくらどうでも、何等かの傷を負わせられればつけいる隙もあるだろう。
 奴にあんなナマクラ短剣ではなく、例の刀を抜かせたところで、ダメージと合わせてトントンだ。
 ……その様にも判断した上での、斬り込みだったが。
 
 クソ――完全に裏目に出やがった! 腕を落としても意味がねえってかよ!
 デタラメにも程がある……それであの刀まで抜かせてりゃ世話もねえぞ。
 ましてやこちとら、空鞘手持ちのせいで片手持ちにせざるを得ねえってのに……
 
 どうする。
 実際どう動く。
 再び納刀……は、意味がねえ上に無理だ。抜刀なんぞは初速が全てだし、向こうが短剣
だからこそ、踏み込める意味があった。刀と刀ではメリットがねえ。第一、収める隙など奴が
くれるものか。
 このまま抜き身でやり合うしかねえが……斬り込んで互角に出来る相手とも思っちゃいねえ。
今度こそ本当に、防戦一方か?
 ……抜刀の勢いで畳みかけてた方がまだマシだったかも知れねえな。少し、臆しすぎたか。
 結果がこれでは、奴の怒りに油を注いだだけで……
 
 あー、くそ、めんどくせえ!
 
 
「は、刃を交えたい? 俺を殺りたい、の間違いだろ? 本当にてめえに殺されてたなら、
いっそそのほうが楽だったけどなあ! どっちにしろ、お門違いだろうがな。
それとも何か? こんな年端も行かねえガキの体、切り刻む趣味でもおありですか?
王子様気取りの色ボケ妖魔公さんはよ!」


 ……徹底的に挑発しきってやらあ。頭に血、上らせてやる。
 これで必殺狙いに来てくれたほうがまだしも御しやすい……はずだ。たぶん。
 後はこの剣と鞘と身躱しで、捌ききるしかねえか。
 
 イーリンを人質にするようで気は退けるが……済まねえな、本当。

203 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/03/19(木) 00:58:26


 悪足掻きのように思えるとかげの挑発だが、アセルスが相手の場合、使いど
ころを間違えなければあながち見当外れの行為とは言えなかった。
 なにせ彼女にとって、目下の最大の目的はイーリンの躰の奪取なのだから。
そこを指摘されるのは最大の痛点のはずだ。できうる限り傷付けたくないと考
えている。叶うことならば無傷で手に入れたい。
 その執着の強さは、魔列車を衝突させたとき、イーリンの周囲にだけとかげ
に覚られぬように魔術障壁を張ってしまったほどである。
 壊すわけにはいかない。だから、人質に取られるのは辛かった。

 ―――しかし、それはアセルスが月下美人を構えていなければ、の話。

 とかげは使いどころを過った。剣士としてのアセルスの性質を見誤った。

 妖魔社会の最高位に立つ妖魔の君≠ニして君臨するアセルスだが、その在
り方は限りなく俗人で、常に懊悩、逡巡、葛藤に嬲られて生きている。
 愛するものが人質に取られれば躊躇を覚えるし、挑発をされたら炉の如く激
昂する。良くも悪くも純粋なのだ。

 だが、それはあくまで妖魔≠ニしてのアセルスの在り方。ひとたび愛刀の
月下美人を抜き放てば、そこに立つのは剣士アセルスである。
 剣客としての彼女に迷いはない。あらゆる情念から解放された眼が見つめる
のは、己の生死にすら頓着しない無我の世界。
 月下美人を構えているときだけは、アセルスはアセルスであることを忘れる
ことができた。ただの名も無き剣士として、戦場に立つことができた。

 この瞬間、とかげと相対しているのは妖魔公アセルスではなく月下美人
という一振りの大刀―――と考えれば、いまの彼女に挑発などまったく通用し
ないことは、分かりすぎるぐらいに分かるはずだ。
 人は多情だが、剣は無情。いまのアセルスには、如何なる言葉も響かない。

 針のように細かく尖らせた集中力が、無言の気合いとともに炸裂する。
 踏み込みが無音ならば、刃が風を断つ音すらも無音。絶対的な静寂を乱すこ
となく放たれた右斜めからの斬り込みは、寸分違わずにとかげの鎖骨へ飛んだ。
 ただの袈裟懸けと呼べばいくらでも捌きようがあるかのように聞こえるが、
刃の疾さは尋常ではなく、音はおろか殺意すらも置き去りにしている。

 ―――この一太刀こそ、妖魔剣術が呼ぶところの心形剣≠ナある。

204 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/19(木) 23:32:59
>>

 ――あ?
 
 あ、
 やべえ、
 こいつ、表情が消えやがっ
 
 
 ……思わず剣を構えるも、反応できたのはそこまでだった。
 俊速の袈裟斬り。
 運良くも構えた剣にぶつかるも、それは世辞にも「受け止めた」とは言い難く、
火花散らして奴の刃は刃を滑り落ち、鐔が受け止めるも斬撃を殺しきれるはずもなく――

 ――俺の無謀の代償として、右腕を切り落とし。
 
 
「――――ぁああああああああああああっ!!」


 俺の、いやイーリンの喉が、イーリンの声で、絶叫を上げる。
 その声に突き動かされ、半ば本能的に、左手の鞘を突き入れる。
 剣を振り抜いた奴の横っ腹へと。
 
 
 ……くそ、くそくそ畜生! こいつ本当に俺を、イーリンの体を斬りやがった!
 冗談抜きに絶体絶命じゃねえかクソ!
 どうする、左手の鞘なんぞで戦えるわきゃねえぞ、鞘捨てて左手で剣を拾うか、それとも――――

205 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/03/20(金) 19:27:03


 普段ならば返す刀で首を刈りにいった。そうはしなかったのは、これが殺し
合いを目的とした立ち会いではないからだ。
 腕を切り落としただけで勝負はついている。それは、イーリンの躰を無駄に
傷付けたくないという思い以上に、とかげの転生≠招きたくないという意
図があったから。ここで彼を逃して大いに禍根を残すのは面倒だ。
 零姫との因縁も含めて、二人の無限転生者との決着は、絶対にこの〈針の城〉
でつけなければならない。

 ―――が、だからといって手加減をするつもりは微塵もなく。

 事実、とかげが反射的に突き出した鞘のこじりに対しても、アセルスは冷静
に対処した。冷静に―――なにも、しなかった。
 鞘といっても鉄拵えである。人外の膂力で繰り出せば、肋骨を砕き、肉を抉
る程度の威力は秘めている。アセルスほどの達人ならば、刃で払うことは不可
能でも紙一重で避けることはできたであろうに―――無抵抗と思われかねない
ほど従順に、とかげの反撃を受け容れてしまった。

 それは、特別に抵抗する理由が無かったから。

 鞘の尖端がアセルスの脇腹を抉った瞬間、とかげも違和感に気付いたはずだ。
 鞘越しに伝わるのは、肉を打つ感触ではない―――と。

 いつからだろうか。いつから、そこにアセルスはいなくなかったのか。
 虚ろと現(うつつ)が混濁した世界で、彼女を個体として認識するのはどだ
い不可能な話。この〈針の城〉そのものがアセルスであるのだから、目に見え
るアセルス≠討とうとしたところで―――まやかしばかりが残るだけ。

 月明かりの角度が微妙に変じ、事実が露呈する。
 幻が晴れた先には、渦を巻くように密生して佇立する茨の塊。
 まるで、茨でできた案山子のような風体。
 とかげが鞘を突き入れたのは、アセルスの変わり身だった。

 驚愕の暇を与えず、茨の案山子が蠢く。
 突き込まれた鞘に自ら体重を預けたかと思うと、抱きつくように崩れ落ち―
――あっという間に、とかげの全身に絡みついた。
 茨の拘束である。
 棘という棘が衣服を破り、白い肌に食い込む。
 赤い滴が蔦を濡らし、茨は歓喜に奮えた。

 それを嬲るような目つきで眺めるのは、妖魔公アセルスそのひと。闇から生
じた彼女が本物なのか、またしても幻影なのか、判別をつける手段はない。

 月下美人を地面に突き立てると、代わりにとかげの――いや、彼女に言わせ
ればイーリンの≠ゥ――右腕を拾う。
 切り離されてなお強情に構える嘯風弄月を引き剥がして投げ捨てると、半端
な角度で広げられた人さし指を自身の唇に導き―――優しく口に含んだ。

 口内でイーリンを感じるアセルスの表情に、恍惚が広がる。

 アセルスがシャオジエ≠演じていたとき、定期診療という大義名分のも
と、眠りに耽るイーリンの肌に幾度となく指と舌を這わせた。罪悪感に苦しみ
つつ、卑怯者めと自責しつつ、衝動を殺しきれずに肌を重ねた。
 あの頃、アセルスは悩んだ。零姫への憎しみをとるか、イーリンへの愛をと
るか、葛藤に心を荒らされた。
 しかし、いまやもはや零姫は篭の鳥。二百年近く続いた因縁にも決着がつこ
うとしている。零姫さえいなくなればイーリンは自由だ。彼女を利用する必要
はなくなり、この閉じられた世界で、一緒に永遠を過ごせるようになる。

 ―――この瞬間、イーリンの右腕が私の手の中にあるように、間もなく彼女
のすべてが私のものとなり、私と融け合い、私そのものとなる。

 そのためにも零姫を追わなければ。
 いつまでも爬虫類などと戯れている場合ではない。アセルスの目的はあくま
で零姫との決着。オルロワージュの血を継ぐ者は、この世に二人も必要ない。

「貴様は暫くそこで悶えていろ」

 アセルスは冷たく言い放つと、とかげに背を向けた。

206 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/21(土) 00:51:18
>>

 ……最悪の気分だ、なんてのは一体何度目だよおい。それでも、最悪には違いない以上、
否定する必要もないが。

 腕を切り落とせば速攻で腕を作り、かと思えば一転、全身これ現身と来たもんだ。
 今しがたこっちの腕を切り落としておきながら、その身を荊の塊に転じてやがったとか、デ
タラメここに極まれり。おかげでこちとら全身拘束。荊でぎちぎち。あっちもこっちも棘だらけ。
服はボロボロ、傷物だ。当然のように体中が痛え。もちろん右腕はそれ以上に痛え。全く何が
絶体絶命だ、この有様は、真っ当な勝負などとはほど遠い。
 だがそんなことさえ……ガキくせえイーリンの体を傷だらけにされたことさえ、「最悪」の理由
にはまだ足りねえ。この痛みだって、それ自体は俺のもんだ。慣れていると言えば慣れている。
 問題は、そんなことじゃねえ。
 
 
 ――右腕を、盗られた。
 イーリンの右腕を。
 この俺の眼前で。
 右腕を。
 指先を。
 腐れたツラして。
 
 
 怖気が走る。総身が寒気に冷え切り、激痛と言っていいはずの痛みさえ一瞬忘れる。
 
 ……俺は知っている。こいつがイーリンに生前、何をしてくれていたかを。
 ようく、知っている。
 むしろイーリンが眠っていたが故に、俺の存在は普段より浮上していた、と言ってもいい。
 だから何をされたか、よく覚えている。
 
 
 …………腐れ外道が。
 
 
 悲痛なツラして、それでも愛おしそうに、イーリンを愛撫。
 馬鹿馬鹿しい、巫山戯るな、全ての元凶。てめえに「悲痛なツラ」など浮かべる資格はねえ。
ああ? ご丁寧に、聞こえずとも構わず愛の言葉まで。一体どの口でそんな台詞を吐きやがる。
その所作は確かに繊細だった。端っからてめえでぶち壊しておきながら、だ。
 独善、文字通りのひとり「よがり」だ。自分でこの境遇に堕としておきながら、真摯に、真っ直ぐに
愛を語る? 全く気違いじみているとしか思えねえ……
 ましてや、この眼前の光景をや……だ。
 
 もちろん、俺のことだってイーリンは知りもしねえ。独善というなら俺も確かに独善だ。
 ただのエゴだ。
 俺の前で、魂って奴を冒涜するような真似が心底不快だってだけだ。
 虫酸が走る。こいつみたいな外道にゃ髪一本だってくれてやるわけにはいかねえ……まして
右腕を、なんぞ……

 だが現実として、どうにもならねえ。
 俺如きがどれだけ呪詛を送ろうが、奴に効く気配もねえ。
 奴は右腕を、イーリンの右腕を、まるで宝物のように、或いはお気に入りの玩具のように、
大事に抱えて背を向ける。もう声でも張り上げる以外に術はない。
 返せ、返しやがれ、それは俺のもんだ、俺が弔ってやると決めたものだ……その様に訴えるか?
聞く耳など持ちはしないだろう。いくらイーリンの声音だろうと……

 ……イーリンの、声音?
 …………そう、か。……ええい!

207 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/21(土) 00:51:48
>> 続き







「――――シャオ、ジエ? あたし……どうなってんだ? あたしの腕、どうしちまったんだ?
なあ、シャオジエ!」







 ――振り向けよ、「シャオジエ」。てめえに塩を送ってやるぜ。
 振り向けば、てめえの眼に映るはずだ。
 頬から胸元にかけて這う蜥蜴の刺青。
 片方の……「まともだったはず」の眼をつむり、もう片方の、金色の爬虫類の眼で見上げる、
燃えるような赤毛の少女の姿が。
 てめえの愛してやまない少女の姿が。
 「“火蜥蜴”のイーリン」の姿が。


 ふと、思いついた手段。文字通りの「最後の手段」だ。
 「魂を冒涜」というなら、こんなやり方は大概だろう。行きずりの死体に憑いているってん
ならいざ知らず、何年も見守ってきた人間の演技をしようなんざ、こんな俺だって気分良く
出来るはずがねえ。
 だからこそ――最後の手段たり得る。苦し紛れで破れかぶれだが、成功の可能性がある
なら賭けるしかねえ。こんな真似をしてでも、取り戻さなくちゃならねえ。

 俺は目的を違えない。
 「イーリンとリリー」を逃がす。この腐れ外道の魔の手から解放させる。
 例えあの右腕一本だって、残していけるわけはねえ。ずっと人の死を見続けてきた俺だ
からこそ、遺骸は換えの効かないものだとよく知っている。
 その為には手段を選ばん。何をしてでも取り戻す。
 
 振り向け、振り向け……こっちへ来い。
 ギリギリまで、演じてやる。

208 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/04/18(土) 18:43:08

 気付けば、軽功に頼らず自分の足で駆けていた。

 心の乱れが彼女から功夫を奪ったのか。
 生まれ落ちてから今日まで〈火焔天〉を離れたことなど数える程度しかなく、
その移動手段も転移に頼り切っていたリリーの躰には酷すぎる運動量。
 瞬く間に息は切れ、膝は笑い―――蔦にけつまずいて、零姫は地面に倒れこ
んだ。すぐにでも起き上がるべきなのに、思考が全身に行き渡らない。
 絶望が鉛となって小さな背中にのし掛かる。

 わらわは逃げぬ。必ず戻ってくる。―――そう、誓ったのに。

「なにも、見えぬ……」

 この昏い世界。妖魔公の傲慢と欺瞞で澱んだ闇の海で、たった一筋の光明を
求めて走ったのだが、アセルスの兇刃からイーリンを護る手立てが見つかる気
配はなかった。
 別に伝説の名刀を求めているわけではない。失われた古代の魔術を探してい
るわけでもない。アセルスの世界≠ノ罅を入れることができる概念の刃が欲
しいだけなのだ。この〈針の城〉の支配者の自我を揺るがせられるのであれば、
一本の縫い針でも構わない。

 けれど―――常に監視されているかのような不快感は、零姫が未だにアセル
スの掌の上にあることを示している。敵に利するような要素をあの女が世界
に残しておくわけがない。

 途方もない無力感が、意思の輝きを曇らせる。

 逃げたどころで無駄な足掻きでしかなかった。とかげと組んだところで外
になど行けるはずがなかった。
 勝敗は、ゾズマの結界が破れたときについていたのだ。あの紅の魔人すら十
年越しの闘争に敗れたのだ。逃げ回ることしかできない自分になにができる。

「なんと―――情けない」

 イーリンには手を差し伸べられるばかりで、自分から彼女にはなにもしてや
れなかった。とかげは危険を顧みずに護り抜こうとしてくれているのに、自分
はこうして地面に這い蹲ることしかできない。
深窓の少女≠気取るには泥だらけの衣装と傷だらけの躰が、容赦なく心を
苛んでくる。―――おまえは誰にも愛される資格などない、と。

 千年を生きてもこれか。
 永遠の転生を約束されても、この体たらくか。
 どうしてわらわは。
 どうしてわらわは―――

「……失うことしか、できないのじゃ」

 頬を伝い、唇へと流れた涙は―――絶望の味がした。

209 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/04/18(土) 18:43:34


 ―――その声は、アセルスから一切合切の理性を奪い去った。

 冷静に考えば、生命を停止したイーリンが魔術的な処置もせずに戻ってく
る≠アとなど絶対にあり得ないし、もしも意地の悪い奇蹟がそういった冗談を
見過ごしたとしても、イーリンの知るシャオジエとアセルスは容姿が違う。
 ゾズマやIRPOの目を誤魔化すために彼女は寵姫の影を借りたのだ。イーリン
が尊敬する姉≠ヘ、機関車の残骸のどこかに埋もれている。
 ここには、いない。

 しかし。
 愛情に理性を殺されたアセルスにそんな理屈が通じるはずもなく―――

「イーリン!」

 我を見失って振り返った。

 こんなカタチでの出会いは想定していなかった。アセルスとイーリン≠ヘ
もっと運命的に出会うはずだった。……イーリンの黄泉返りとは、アセルスの
心象風景に取り込み、魂を融け合わせることを指していた。
 なのに。

世界≠ェ揺らぐ。
世界≠ェ軋む。
〈針の城〉がアセルスそのものである以上、彼女の動揺は世界≠ノとって大
震災に等しい。立ちこめていた闇は薄れ、無限に増殖する茨は冗談のように呆
気なく枯れ果て、砂となって消えてゆく。
 とかげを拘束していた茨の鎖も例外ではなく、やせっぽちの少女は解放され
て地面に崩れ落ちた。アセルスは慌てて駆け寄り、肩を貸そうとしゃがみ込む。

「ほ、ほんとうに……」

 上ずった声で紡ぐ言葉は、ひどく場違いに聞こえた。

「君はイーリンなのか」

 アセルスの動揺は一瞬だった。単純な彼女の心象は、既にショック状態から
抜け出し、いまは熱い衝動に突き動かされている。
 もしも本当にイーリンが戻ってきたのならば、これに勝る悦びはない。
 想いの力がイーリンを呼び戻したのだ。

「この腕は……そう、君の指輪のサイズを知るために、ちょっと借りたんだ」

 そんな言い訳を紡いでいる間にも、〈針の城〉の闇は深まり、茨は湧き水の
ように茂り、元の姿を取り戻す。

 たった一瞬の動揺。
 たった一瞬の亀裂。
 ―――しかし稀代の魔女≠ナある彼女にとって、その一瞬は永遠にも等し
い好機だった。

210 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/04/18(土) 18:43:47

「とかげめ、やりおったな!」

 どんな手を使ったかは想像もつかないが、あのアセルスの頑なな世界≠
一瞬と言えども揺るがせた。絶対的な支配を打ち消した。
 この一瞬ならば―――零姫の力が通じる。運命さえも操るが故に、忌み子と
してクーロンの死神と成り果ててしまったリリーの魔力が通用する。
魔女≠フ本懐を発揮できる。

「吹けよ風! 急急如律令!」

 運命の風が、功徳とともに零姫の矮躯を運ぶ。茨の苗床と化したペンシルビ
ルの森を切り抜け、闇を裂き、運気が導く先にあるものは―――
 
「な、なんじゃこれは……」

それ≠ヘ〈針の城〉の象徴ともいえるコンクリートジャングルに打ち捨てら
れていた。まるで屍のように放置されていた。
 確かにリリーは、それ≠ノ跨るイーリンの姿を幾度となく霊視した。けれ
ど、いまこの絶体絶命の窮地を打開する概念武装として、なぜそれ≠ェ選ば
れたのか。なぜそれ≠ナなければいけなかったのか。
 功徳の導きとはいえ、零姫には理解できない。

 ……そもそも、彼女に扱えるのかも分からない。

「ええい! 躊躇しておる暇はないか」

 挫けかけた希望の柱を、とかげが支えてくれたのだ。
 この好機、絶対に逃すわけにはいかない。 

211 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/04/23(木) 23:23:53
>>

 ――上手くいった。
 上手くいきやがった。
 上手くいってしまった。

 そんな、快哉と若干の後悔がない交ぜのこの心境は、だが、奴の目の前では
おくびにも出すわけにはいかない。

「は、指輪……? 冗談きついぜ、そんなんで腕ごと持って行く奴があるかよ。
いくらあたしが“火蜥蜴“だからって、尻尾みたいに生え替わるってわけにはいかないんだぜ?」

 慎重に『台詞』を紡ぐ。俺が何年も何年も見続けてきた少女のそれと違わぬように。
 イーリンに悪いことをしている、そいつは分かっている。だが今となってはこれしか手だてがねえ。
 低級霊や式神相手とはわけが違う。ろくすっぽ武器も技能もねえ。
 唯一持ってた、例の刀は奴の向こう、地面に向かって聖剣よろしく……だ。
 抜く機会を、抜いて追い払って逃げる機会を作るためには……藁にもすがる、というもんだ。
 ……くそっ!
 
 台詞を選びつつ、握りっぱなしだった鞘を杖代わりに、ようよう立ち上がる。
 全身拘束の直後、おまけに片腕無くしてる……とはいえ、立ち上がるのに支障はない。
 体じゅうが棘痕で痛むのはまあ我慢。
 鞘を手放したくないので手は借りない。
 まあ、借りること自体後免被るってもんだが……
 
「で、シャオジエ。腕もだけど状況説明くらい寄越してくれたっていいだろ?
一体何が起きてどうなってんだよ、まったく……シャオジエも随分なイメチェンしてるしさ。
何だ、クーロン娘の次は王子様ごっこか?」

 これでいいのか、いけないのか、手探りのまま台詞を続ける。
 時間稼ぎだ、時間稼ぎ……何か、切り抜ける手段は、瞬間は、現われやしないか。
 右も左も分からない振りして辺りを見回し、耳を澄ませる。五感を研ぎ澄ませる。
 それでいて会話も続けつつ、だ。器用な真似だが、続けるしかない。
 
 
 
 
 
 ――――聞き慣れた、だがこの場で聞こえるはずのない音が聞こえてきたのは、その時だった。

212 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/05/18(月) 23:05:11


 ―――それは世界の果てから轟いた。

 少なくともアセルスはそう感じた。

 ぱぱぱぱぱ―――、と。
 空気でぱんぱんに膨らませた袋を連続して破裂させたかのような、軽い音。
 無機質でどこか間が抜けている。
〈針の城〉で耳にする音ではない。こんな異音、私は知らない。私は関知して
いない。私の世界には含まれていない音だ。
 どこから聞こえてくる。どうして聞こえる。
 アセルスは狼狽した。目に見えて戸惑った。この瞬間、愛おしきイーリンの
ことさえも忘却した。―――〈針の城〉の支配者として、認めてはならない事
態が起こりつつある。私の世界で、私の知らない音が鳴るだなんて。

「なんだ、なんなんだこの音は!」

 聞き慣れない音が響いた程度でなにを脅えるのか。そう、ひとは嘲笑うかも
しれない。しかし、ここはアセルスの世界で、アセルスの胎内で、アセルスそ
のものなのだ。すべてが自己≠ニいう調和に満たされているはずの空間で、
己の与り知らぬ異音が聞こえたならば、誰もが戸惑いを覚えるだろう。
 まして彼女は、この〈針の城〉に絶対の自信を抱いているのだから。

 なにを見落とした。どこで間違った。
 ……アセルスには分からない。
 ゾズマに幻魔を突き立てたとき勝利を確信してしまった彼女には、いまなぜ
自分が不明の状況に陥っているのか理解できない。

 音はまっすぐにこちらへと向かってきている。分かるのはそれだけだ。
 異音の正体は見えないし、視えない。アセルスが戸惑うことによって生じた
空間の綻びを的確にすり抜けている。

「なにが、」

 ぎり、と奥歯が軋む。同時に、世界≠覆う闇も緊張で張り詰めた。

「なにが起こっているんだ―――?」

213 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/05/18(月) 23:06:17
うむ! この隙に容赦なく月下美人を奪ってぶった切ってしまえい!

214 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/05/18(月) 23:44:10
>>

 ここにきて狼狽する奴の前で、俺自身はと言えば、その“音”の正体に気づいていた。
 よもや、というか、まさか、というか……場違いな音には違いないが、しかし間違いはねえ。
ある意味、とんでもないもんを姫さんは拾って来ちまったようだ……やれやれ。
 ま、本来のその音に比べりゃ、随分と危なっかしいけどな。
 
「あん? どうしたのさシャオジエ? つーかあたし無視か?」 
 
 ……ふん、どうやら本当にこいつには分からねえか。まあ、無理もないだろうがな。こんな
ことまで、知っていようはずが無い。
 ああそうとも――イーリンについて、てめえの知らないことなんざ山ほどあるってもんだ。
 幻想に耽るだけの馬鹿なてめえが知らないことがな。
 
 ――音はどんどん大きくなってくる。近付いてきている。
 じゃあ、俺はどうする? このまま演技を続けるか?
 もちろん答えはNO、だが……しかし実際何が出来る。頼みの剣まで、届きそうもないのは
相も変わらずだ。だが来るのを待ってるだけじゃ、せっかくのチャンスを棒に振りかねないのも
また確か。かといって素手でどうこうできるとも思えねえ。
 クソ、やっぱり八方塞がりなのか? イーリンの演技なんて真似までして、このザマか?
 ああ、せめてもうちょい剣が近くにありゃ……
 
 
 あ?
 
 
 いや……そうか、よし。
 
 
「はは、なんだよシャオジエ? そんなにこの音が気になるのか? 別に大したもんじゃねえだろ。
そりゃまあ、失くしたら大変なもんだったけどさ。どうやら届けてくれるみたいだ。助かったぜ」

 半分は既に、演技ではない……かもな。
 大体、こうなりゃこいつの反応なんぞもうどうでも良いからな。必要なのは機会を探ること
だけだ。狼狽から立ち直らせる前に、片を付ける。
 音はだいぶ大きくなってきた。もう、一押し。
 
「しっかしもう少ししっかりやってほしいけどなあ。ま、あいつじゃ仕方ねえか。
……まだわかんねえ、ってツラしてんな。この音はさ」
 
 
 
 
 
 
「――――『俺ら』の脱出の合図だ!」
 
 
 
 
 
 踏み込む。
 “生やした右腕”で、“月下美人の”柄を掴む。
 そう――奴の剣を!
 
 「尻尾みたいに生え替わらない」、確かに俺はそう言ったが――は! 大嘘だ!
 皮膚までいちどきに再生とはいかないが、生やすまでなら出来る。痛覚が剥き出しでも、
剣を握って斬り払うぐらいはしてみせる!
 そして得物は目の前にあった、ってわけだ! 斬られて貰うぜ、王子様よ!
 でもってもう一本、嘯風弄月を、こいつは左腕で――!

215 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/05/18(月) 23:45:27
ここに来て二刀流をせんとする

脳内にあるのは(なぜか)絶対に負けないヒーローなのはここだけの話。

216 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/09/03(木) 21:36:06



 まずは一閃、裂帛の斬撃。その軌跡に重なるようにして逆袈裟が一太刀。
 神刀二振りによる十字の剣閃は、型破りに乱暴でこそあったものの、刃を振るう者の
拓けた未来≠ノ対する希望を、不屈の精神を、真摯に描写していた。
 暴力と呼ぶにはあまりに感傷的な十文字の刃。―――吃驚と焦燥に我を失っていたア
セルスは、殺気を気取ることすらできず、正面から剣閃を浴びた。
 自分の左腕が落ちて、初めて彼女は自分が斬られたことに気付く。

「な―――」

 なぜ、私は斬られた。
 なぜ、イーリンは私を斬った。
 なぜ、彼女はそんな野蛮な表情を作っている。
 なぜ、なぜ―――

 呆然事実とはまさにこのこと。訳も分からぬまま親から平手打ちを食らった童子のよ
うに、アセルスはきょとんとした目つきでイーリンを見つめた。
「どうして……」と暗に語る魔眼が徐々に強張っていく。現実から目を背けようにも、
刀痕から流れ出す蒼血が逃避を許してくれない。
 ―――問いかけるまでもなく、答えはひとつしかなかった。

「……なんて、コト」

 要するに、彼女はイーリンではなく。
 こいつは初めから私を謀るつもりで。
 つまり、私の愛念を逆手に取った―――道化。

「そ、んな―――」


 ……とかげが追い打ちの太刀を用意しなかったのは、先の十文字の必殺を信じていた
からなのかもしれない。月下美人と嘯風弄月―――いくら妖魔の君といえども、なんの
防御もせずに正面から浴びれば致命傷は免れない、と。
 事実、アセルスは重傷だった。左肩から胸にかけて刃が通り抜けた。左手は二の腕か
ら斬り落とされ、胸の疵は心臓にまで達している。
 この世界≠ナの初めてのダメージらしいダメージが、まさかそのままゲームの終わ
りを告げる合図になろうとは。彼女の肉体と心の均衡が崩れたいま、針の城≠フ浸食
もキャンセルされるに違いない。―――違いないはずなのだが。

 アセルスは怒りで道理をねじ曲げた。敗者の法則を撥ね付けた。

「貴様……分かっているのか」

 自分が禁忌を侵したことを。
 もっともやってはならないことを、してしまったことを。
 この私の愛情を無惨に踏みにじったことを。

 私は、本当に―――

「喜んでいたんだぞ!」

 血の泡を吐きながらとかげに飛びかかる。
 半死人の抵抗……と侮るなかれ。月下美人が奪われたとしても、アセルスにはまだ幻魔
がある。この針の城≠ナもっとも醜く、もっとも利己的な―――つまり彼女自身に等し
い、恐るべき魔剣が。
 
 闇に手をかざし、距離の概念を歪めて、虚空の鞘から幻魔を引き抜―――けない。
 柄に手をかけられはするのだが、こっち側≠ノ持ち出すことができない。
 ―――火炎天≠ナ、シャオジエ/アセルスはイーリンを使って〈紅の魔人〉の胸に幻
魔を突き立てた。深紅の刃は、未だに彼の心臓に噛み付いたまま離れていない。
 離れてくれない。

「ゾズマ……!」

 彼は、自身の心臓を鞘に見立てて幻魔を封印しているのだ。
 アセルスは確かに霊視した。火炎天≠フ書棚で、脂汗を滝のように流しながらも涼し
げな笑みを消そうとしない上級妖魔の姿を。
 
 月下美人は奪われ、幻魔は封印させられた。
 妖魔の君の象徴ともいえる二つの刃をいっぺんに失ったアセルスは、一瞬だけ攻撃の手
段に悩み―――その一瞬の逡巡がすべてを手遅れにした。

 アセルスはまたもや油断した。怒りに囚われ、とかげに意識を傾けすぎたあまり、彼女
の世界≠フ果てから谺する奇怪な轟きを忘失してしまった。
 音は瞬く間に近づき、彼女の耳元で雄叫びをあげるまでになっていたというのに。

 まず、視界に黒い影が飛び込んだ。
 それが猛スピードで回転する車輪だと気付くより前に、アセルスの躰に鋼鉄の騎馬が突
撃する。浮遊感が訪れたが、すぐにそれは落下へと転じ、地面に墜落する。夜を踊るよう
にして跳ねられたアセルスは、まるで調律の狂った人形のように細かく痙攣した。
 霞む意識の中でほぞを噛む。―――まさか、あの音の正体はこいつだったのか。


「待たせたのう」

 後輪を滑らせて方向転換をした零姫は、それ≠ノ跨ったままとかげに手をさしのべた。

 まるで焼却炉にシートと車輪を無理矢理くっつけたかのような無骨なデザインは、クー
ロンでは高価ではあったが、見慣れないものではなかった。
それ≠ヘイーリンの足≠フ役割を果たしていたものであり、こうなってしまったいま、
唯一ともいえる忘れ形見だった。
 ―――そう、概念武装化された蒸気スクーターである。

「ほら、さっさと後ろに乗れい」

 照れを隠すように零姫は素っ気なく言った。

「約束通り一緒に外≠ヨと往ってやるわい。それものんすとっぷ≠ナじゃ!」

 アクセルを空吹かしする。蒸気機関から伸びる鉄筒が鬨の声をあげた。

217 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/09/03(木) 22:57:51

 とかげから受け取ったイーリンの一部を、大事そうに懐にしまう。

「よくやった。よくアセルスに取り込ませなかった……」

 とかげが後部座席に跨ったのを確認して零姫はアクセルを回した。
 臀部を棍棒で叩かれたかのような急発進。前輪が浮き上がり、危うくとかげもろとも
置き去りにされそうになる。
 いかにも拙い運転。
 ……幻獣の召還や使役は熟達している零姫でも、こういった無機物の乗り物にはまっ
たくと言っていいほど馴染みがなかった。いっぱしに運転してきたように見えるが、そ
れはこのスクーター≠フ操作方法が「ハンドルを回せば走り出す」という簡素極まり
ないからであり、零姫自身は四苦八苦しながら車体にしがみついている状況だった。

 そも蒸気スクーター≠ネどといっても、それはあくまでイーリンが残した記憶の形
骸であり、存在は極めて概念的で精密な機械とは程遠い。現実と心象が混濁した針の
城≠ノおけるイメージの産物に過ぎないのだ。
 だから石炭をくべなくてもタイヤは回る。このスクーターを動かすのは蒸気ではなく、
零姫の意志の輝きだ。彼女が走ると信じれば―――無骨な鉄馬は忠実に嘶く。


 ぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱ―――


 第七層土星天≠通過し、二人はついに第八層恒星天≠ヨと至る。
 第十層至高天≠フ先に待つ城外≠ヨ。更にリージョン港より向こう側にあるはず
の、本当の外≠ヨと―――迷いも躊躇も捨てて、二人を乗せたスクーターは快走する。
 恒星天≠いくら走れども真っ平らに舗装された道路しかなく、現実には剣山の如
く密集しているはずのペンシルビルの風景はどこにも見えなかった。
 アセルスの支配力が弱まった針の城≠ヘ、もはや零姫ととかげの意志の力を阻むほ
どの幻想を顕現できないでいるのだ。

 ―――行ける。

 小さな躰を更に前傾して、零姫はスピードを速めた。
 
 ―――イーリンを外へと、連れて行ける。

 胸に広がるのは希望。過去、幾千幾万と踏みにじられ、絶望へと置き換わった儚い感
情。それでも捨てきれず、諦められず、胸の奥底に隠し続けていた想い。
 それがゆっくりと花開いていくのを―――零姫は確かに感じた。

218 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/09/03(木) 22:58:11

 ―――ふざ、けるな。

 二人を乗せた鉄馬が走り去った地で。
 妖魔の君主は四肢を投げ出したまま、地響きの如き呻きを漏らした。
 例え致命傷に見えようとも、物理的なダメージにはなんの意味もない。ここは彼女の世
界なのだ。世界の支配者を殺したければ、世界そのものを破壊するしかない。

 そしていま、アセルスの世界≠ヘ脆く崩れ去ろうとしていた。

 少なくとも、クーロンに浸食した針の城≠ヘ限界を迎えている。アセルスの心理的ダ
メージが、あまりに大きいからだ。

 混沌を象徴する濃厚な闇は薄れ、非現実的な茨の大群は急速に枯れてゆく。どこからと
もなく眩い火が上がり、それは瞬く間に世界¢S体へと広がっていた。
 アセルスの城が燃えていく。
 策謀に策謀を重ね、とかげとイーリンを利用し、IRPOを出し抜き、十年以上の月日を注
いだ結果、ようやくゾズマの張った結界を破れたというのに―――クーロンを丸ごと取り
込み、零姫を捕らえるという悲願が炎に包まれてゆく。
 闇を蹴散らす焔の勢いはあまりに強い。

 クーロンが、燃える。

「―――まだだ」

 躰を引きずるようにして、アセルスは立ち上がる。

「例え、針の城≠失おうとも。我が世界の顕現に失敗しようとも。……私は諦めな
い。私は決して逃がさない。私は追い続ける」

 零姫もイーリンも私のものだ。

「バイコーン!」

 アセルスの声に応じて彼女の影が蠢いた。
 水面のような闇から巨馬が躍り出る。
 山羊の如き雄々しい二本の角を持ち、怖気を振るうほどに黒い毛並みを誇る魔獣――
―不純を司る二角獣バイコーン≠セ。

 アセルスは隻腕にも関わらず愛馬に跨ると、馬の腹を蹴って走らせた。

 とかげに負わせられた刀傷からは、鮮血の代わりにさらさらと闇が溢れ出している。
 アセルスが針の城≠ネのか、針の城≠ェアセルスなのか―――境界線が限りなく
曖昧になっている証拠だ。
 浄化の炎は高く高く上っていき、アセルスの世界≠現実の風景から猛烈な速度で
追い出していく。
 ……残された時間は少ない。

 赤炎の幕があがる。
 炎上する針の城≠ナ、いま、フィナーレとなる逃走/追走の劇が始まった。

219 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/09/03(木) 22:58:25

 ―――そして。
 
 鉄屑の墓地と化した機関車の残骸にて。

 自らの棺桶になるところだった冷蔵庫の扉を蹴破って、その寵姫は戻ってきた。
 大げさに頭をさすりながら呟く。「あいやー、死ぬとこだったアルよ」

 おどけたまなこが見据えるのは外≠フ方角。追う主と逃げる余所者がいるであろう
世界≠フ果て。
 彼女はしばらく立ち尽くし、考えた。
 自分は所詮寵姫であり、あのお方の所有物に過ぎない。これ以上首を突っ込むのは僭
越というもの。主君が私の姿を借りたのは、あくまで完璧な変装のためなのだ。
 他の寵姫同様に大人しく成り行きを見守ろう。別に零姫やらイーリンやらがどうなろ
うと、自分には関わり合いがないのだから。

 ―――しかし。

「……乗りかかった船ネ」

 そうして、道化もまた終幕へと参加する。

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