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■ とかげ

1 名前:◆MidianP94o :2008/08/29(金) 23:52:50


転生無限者【てんせいむげんしゃ】

 生き続けるもの。
 死に続けるもの。
 無限に転生を繰り返すことで、死徒や妖魔とは異なる不老不死を可能とする。
 死ねば肉体を離れ、新たな躯に憑いたり生まれ変わったりするため、追跡は
困難を極める。死徒27祖のひとりアカシャの蛇≠ェ有名だが、教会や協会は
他にもタイプの異なる数人の転生無限者を存在していることを確認している。
 転生無限者が果たして人間なのか、それとも人外なのか。その定義は非常に
曖昧で、機関や研究者によって見解は異なる。

                ――――オーガスト・ダーレス『神秘学用語辞典』より

166 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/13(土) 23:17:30
 全く、どこまでも胸糞悪い……こんなもんに俺らは乗って、あの脳天気な馬鹿と付き合って、
さらには弁当まで食ってた、なんて反吐が出るぜ。

     ↓

 全く、どこまでも胸糞悪い……こんなもんに俺らは乗って、あの脳天気な馬鹿と付き合って、
さらには弁当まで食ってた、ってわけかよ。あの馬鹿と姫さんとの漫才めいたやりとりさえ、
こうなればいっそ薄ら寒い……反吐が出そうだ。

訂正。まあ大勢に影響ねえことだけどな。

167 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/14(日) 19:52:30
>>165を完全に書き直し。



 つまり、こいつの燃料は歴として存在している。この<針の城>の住人……それこそ、さっき
虫どもに食い荒らされた凶手みてえな奴らを、体どころかその魂まで食い尽くしてこの魔列車
とやらは走っている、というわけだ。
 耳を澄ませば、燃える音に混じって怨嗟が聞こえる。
 目を懲らせば、炎の向こうに苦痛の形相まで見えてきそうだ。
 全く、どこまでも胸糞悪い……こんなもんに俺らは乗って、あの脳天気な馬鹿と付き合って、
さらには弁当まで食ってた、ってわけかよ。あの馬鹿と姫さんとの漫才めいたやりとりさえ、
こうなればいっそ薄ら寒い……反吐が出そうだ。

 もっとも、俺は正義の人でも何でもねえ。この機関そのものは悪趣味極まりねえが……
別に義憤に駆られて、こいつをぶっ壊してやるなんて義理も俺にはない。
 そもそも今はこいつを走らせなきゃならねえんでな。俺がこいつを止めちゃ意味がねえんだ。
 だから、その代わりに……
 
「――恨みを晴らさせてやろうじゃねえか。喜べよ」

 ”とかげの刺青”を再び右手に持っていき……その手で剣を、嘯風弄月とやらを引き抜く。
 もっとも、半ばまでで良い。全部抜く必要はない。
 
 ……この刀は明らかに霊刀・妖刀の類じゃねえ。
 だが刀はそもそもそれ自体が殺傷のための道具だ。そいつが「ただ鋭利なだけの刀」
だろうが、魔力妖力の類を持ってなかろうが、ただ“殺せる”というだけでそれは良からぬものを
引きつけやすい。
 ましてや、俺という特異存在が、磁場・霊脈の類を歪ませ霊瘴を引き起こす俺がそれを
持っていたならどうなるか?

 そら、やってきたぜ――お前らを殺した奴らが! さっきの虫どものような奴らが!
 俺とこの刀に惹かれてな!
 さあ、更に怨嗟を燃やせ! こいつらを燃やし尽くしてやれ! 俺が手助けしてやるよ!
 そうして、この列車をどこまでも加速させちまいな!
 
 あとは姫さんが、上手くやってくれるだろうからな。

168 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/14(日) 23:08:17

「よくやった、とかげ」

 シャオジエをギャレーの冷蔵庫に放りこんできた零姫は、機関室まで韋駄天
すると、すでに列車を暴走させることに成功していたとかげの頭を「よしよし」
と撫でてやった。褒めるときは、素直に褒めてやらないと。

「……しかし、もしやとは思ったが、やはり〈針の城〉の住民を贄にしておっ
たか」

 零姫が想像するに、この汽車は心象風景の産物ではない。現実に存在する、
幽世と現世を繋ぐ魔列車を丸ごと取り込んでしまったのだ。
 この列車は生きている。生きて、ひとの魂を喰らう。魔導機械というよりも
幻獣や魔物の類だ。

 零姫の心が曇る。
 なんの罪もない〈針の城〉の住民たちが、自分のせいで劫火に灼かれ、身悶
え、絶叫し、その絶望のエネルギーが魔列車の動力となっている。
 自分さえいなければ、あるいは天寿を全うできたかもしれない数千人の命。
 零姫は胸裏で詫びた。悪いのはすべてわらわじゃ、と。

「だが、わらわは退かぬ」

 自分のせいで何万人死のうとも。何億人の命が潰えようとも。自由を決して
諦めない。あの澱んだ瘴気で満ちた世界には決して帰らない。
 零姫は覚悟を決めると、目を見開き、汽車が進む先を見据えた。

「レールはわらわが作る」

 ぱんと合掌すると、零姫は膝を折り、機関車の床に手をつけた。
 幻術の応用として、線路を魔力で編む。いままでシャオジエがどのようにし
て進路を決めていたのかは知らないが、これからはこの魔列車が進む先に線路
が生まれて、道が開ける。元来、列車の進路とは線路の軌道に従うものだが、
この機関車は己の進路に線路が従うのだ。
魔想レール≠ニ呼ばれる、想念で作られる線路だ。

 駅は終点まで必要ない。目指すはひたすらに外=Bこの〈針の城〉の最果
てにあるはずの、クーロン港だ。

169 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/14(日) 23:09:15


 その階層はもはや、〈針の城〉としてのカタチを完全に失っていた。

 第五層火星天=B司法の監視が及ばないという特権を利用して、芥子や大
麻草などの他に、魔棲の妖花まで大量に栽培していた〈針の城〉最大規模の田
園都市。精製工場がひしめき、ビルの庭という庭、屋上という屋上に緑を植え
ていた土星天≠ヘ、毎日何トンもの麻薬をクーロン・ストリートに出荷し、
市場の金をさらっていった。第六層の重工場区画とあわせて、ここは〈針の城〉
の生産拠点であり、クーロン・マフィアの資金源だった。

 ―――が、それもかつての話。

 アセルスによってファシナトゥール化した火星天≠ヘ違う。闇の瘴気に侵
され、現実という輪郭を失ってしまった火星天≠ヘ、もはや〈針の城〉にあ
って〈針の城〉ではない、異形の空間と化していた。

 目につくのは、花と花と花と花と―――ただひたすらに、花ばかり。
 宵闇の空を仰いで、何十万何百万――いや、幾千万かもしれない――という
花弁が、街を、世界を、夜を、支配していた。
土星天≠ェ麻薬栽培のための階層であったことを考えれば、花が咲き誇るこ
と自体はおかしくない。だが、この数は異常だ。限度を超えている。
 建ち連なっていたペンシルビルは花の苗床となってコンクリートの肌を隠し、
その重みで崩れたり、傾いたりしてしまっている始末。
 人間が居住するような隙間はない。道と呼べるような道さえも、用意されて
はいなかった。ここは、人間の足を必要としていないのだ。
 アネモネ、キンセンカ、クロッカスにサフラン、バンジー―――いまの火
星天≠ヘ狂い咲く花たちの楽園だった。

 そんな有機的な麗しの都で、忘却≠花言葉とする芥子が特別に咲き乱れ
る場所があった。ビルをいくつも潰して空き地を作り、スラムの一部とは思え
ないほどに立派な芥子畑となったそこには―――唯一の人影。
 夜しか知らないクーロンであるにも関わらず、レースの飾りがついた日傘を
優雅にさして花を愛でる彼女は、この花畑の、ひいてはファシナトゥール化し
た土星天≠フ管理者であった。
 この異形の風景は、日傘の女性の心象の具現だ。

 うなじまで伸ばした僅かに癖のある髪の色は、深みのある緑。土星天≠
埋め尽くす茎や葉と同色の、緑。あまりにも印象深い、緑。
 清潔感のあるブラウスに、タータンチェックのベストとスカートをあわせた
出で立ちは淑女然としており、立ち振る舞いの優雅さもあって、どこのご令嬢
かと思わせられるが―――口元にたたえた笑みを見れば、女性がただの淑女で
はないことは、素人でも察することができる。

 日傘の彼女は、美しい女性だった。
 容姿は紛うことなき人間のものだった。
 だが、彼女は怪物だった。
 この〈針の城〉に棲まう、他の誰よりも――もしかしたら、妖魔公と比較し
ても――恐ろしい怪物だった。
 棘がある、では済まない。恐怖が花のかたちをしたような、女性。
 彼女の笑みの凄惨さが、それをとくと物語っていた。
 
 女性はアセルスの寵姫であったが、アセルスの中に棲まう他の寵姫たちのよ
うに肉体を持たない、死した魂ではなかった。
 日傘の彼女は、生きながらにしてアセルスと同化した。彼女の肉体はいまで
も、幻想の彼方で向日葵畑に抱かれて睡っている。
 なぜ生きた肉体を持っているのに、アセルスの一部となる道を選んだのか。
いやそもそも、なぜここまで強大な力を持ちながら、他人の世界に囚われるこ
とを良しとしたのか。……それは、ここでしか為し得ない目的があったからだ。

170 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/14(日) 23:10:14


 アセルスの世界―――この〈針の城〉で言うなら、第六層土星天≠フ管理
者である白い霞の寵姫。彼女もまた、日傘の女性と同様に、生きたままアセル
スと融け合った奇特者だった。
 その寵姫は、日傘の女性に劣らず強大な力を持っている。リージョンの一つ
や二つ、容易く鎮めてしまうほどの、桁外れな力を。
 日傘の女性の目的は、そんな彼女を、自分の花の養分とすること。斃し、屈
服させ、鬱陶しい霞を払って土に還してやること。
 ―――強いものいじめ≠フためなら、日傘の女性は、他人の世界に潜り込
むことすら厭わなかった。どうせあそこ≠烽アこも、大した違いはない。
 土と水さえあれば、花はどこでも咲いてくれるのだから。
 ……まぁ、陽の光がないのだけは、面白くないけれども。

 今夜はどんな風にして虐めてやろうかしら。どんな風に虐められてしまうの
かしら。―――芥子の花を愛でながらそんな妄想に耽っていたときだった。
 妙な違和感を覚えて、ふと、足下に目をやる。

 いつの間にか、地面には鈍く錆びた鉄鋼の輝き。枕木にがっしりと支持され
た鉄道レールが、芥子の花畑を横断していた。

「これは……?」

 線路なんて。花で満ちた世界には、あまりに不似合いだ。日傘の女性は眉を
よせて訝しむ。―――が、すぐに、自分の世界が侵食されているんだというこ
とに気付いた。心象の景色がねじ曲げられている。
 いったい誰が。

 そのとき、彼方から、鼓膜を震わせる汽笛の音が響いた。
 線路が軋み、車輪が滑る。はっと日傘の女性が身構えたときにはもう遅い。
 鋼鉄の牛が、花弁の道を蹴散らし、蔦のトンネルを引き裂いて猛スピードで
突っ込んできていた。避ける暇もなかった。

 日傘の女性は、久しぶりに空を飛んだ。






「……ん、なんか轢いたかのう?」

 機関室で魔想レールの生成に勤しむ零姫は、汽車が感じた僅かな衝撃に首を
傾げた。ところ構わずにレールを敷いてしまっているため、ともすればひとを
轢きかねないと危惧していたところだ。
 ―――が、こんな狂った世界にいる類のやつを轢いたところで良心が咎める
はずもなし。零姫はすぐに忘れて、進路の調整に没頭した。

 さっきから寒気が止まらない。この階層はあまりに剣呑すぎる。一分一秒で
も疾く、突破してしまいたかった。

171 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2008/12/15(月) 01:21:47


 錐もみをしながら空を舞い、芥子のベッドに背中から落下した日傘の女性は、
しばらくそのまま、呆然と夜空を見上げていた。
 ―――服が汚れてしまったことよりも。日傘が折れてしまったことよりも。
無粋な鉄の車輪が、愛おしい花の根を引き裂いていったことが憎らしい。
 痛かったでしょう。辛かったでしょう。

「……私が」

 女性はゆっくりと立ち上がった。スカートの汚れを払って身なりを整えると、
折れた日傘を強引に閉じ、剣弁のように鋭く尖らせる。

「私がお仕置きをしてあげる」

 女の口元には、愉悦の笑み。
 あの妖怪仙人との遊びに熱中しすぎるあまり、周囲に気を配ることを忘れて
いた。いつの間にこんな活きのいい玩具を仕入れたのか。
 面白いじゃないか。面白いじゃないか。―――今夜はそれだけで、退屈を忘
れられる程度には。

 みんなで歓迎してあげましょう―――と、女性は傘を、オーケストラーの指
揮棒のように掲げてみせた。
火星天≠フ幾千万の花が、一斉に疾走する機関車を睨む。
 花から吐き出されるのは、非実体の光弾。一発一発は脆弱でも、数千万発も
放たれれば街ひとつが消し飛ぶ程度の威力にはなる。それが、八両編成の機関
車に殺到したのだ。レールに進路を支配される列車には、弾幕を縫うことはで
きない。あの醜くて歪な鋼鉄の塊は、ここで沈むのだ。



「なんじゃなんじゃなんじゃ?!」

 機関室で、零姫は驚きの声をあげる。
 突然の集中砲火。しかも、攻撃をしてくるのはこの街に狂い咲く無限の花々
だ。そのひとつひとつが、拳大の光弾を撃ち放ってくる。
 なんと苛烈な攻撃なのか。砲撃の豪雨だ。重爆撃だ。すべての車両に魔術障
壁を張って防御しているが、いつまでも耐えられるものじゃない。
 さっさとこの階層から脱出してしまわないと。
 零姫は頭を低くし、流れ弾に当たらないように気を付けながら、炉の炎をさ
らに激しく燃え上がらせた。
  
 そのとき、ギャレーでは着弾の衝撃で冷蔵庫の蓋が勢いよく開かれた。中か
ら、鎖で拘束されたシャオジエが飛び出す。

「この風景は、この弾幕は―――幻想嬌アル! 幻想嬌アル! 妖怪仙人と並
んで、寵姫の中でも一等危険な奴アル! 絶対に関わっちゃいけない怪物の中
の怪物アル! あいつは洒落にならないアル! やばすぎアル!」

 シャオジエは機関室へと走ろうとしたが、両手を縛る鎖は冷蔵庫に結わえ付
けられているため、ギャレーから出ることは叶わない。
 シャオジエはパニック状態のまま、ひとりで叫んだ。

「一巻の終わりアル! 絶対に虐められるアル! 誰か助けてー、アル!」



「―――あらあら、なんだか聞き覚えのある声が」

 囁くように独りごちるのは、緑の髪に赤い瞳を持つ火星天≠フ管理者。
 この世のすべての花の支配者。アセルスの二十六番目の寵姫幻想嬌=B

 幻想の姫君は、ふふ、と笑いをこぼす。弾幕に晒された機関車は、抵抗も虚
しく速度を緩めた。さらに仕上げとして、ジギタリスやオーキッドの花が急速
に成長して、機関車に絡みついて、鋼鉄の皮膚を食い破り始める。
 一時的ではあるだろうが、スピードはだいぶ失せた。これなら、足の遅い彼
女でも容易に追いつける。
 幻想の彼女は、客車の最後尾に取り付き、軽い足取りで乗り込んだ。
 魔砲で消し飛ばしてしまうのは簡単だけれど、それでは面白くない。花を散
らす愚かしさを、その身にしっかりと教え込まなければ。

「いまの私は、太陽の光から遠ざかって気が立っている。葩が時にそうされる
ように、私があなたたちの指を千切って、未来を占ってあげましょう」

 女のかたちをした暴力が、花の香りをたたえた災害が、魔列車に乗車した。

172 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/16(火) 00:57:07
>>

 ああまったく、バケモンの楽園かよここは! 何が悲しくて絨毯爆撃なんぞに晒されなきゃ
ならねえってんだ馬鹿野郎!
 ……実際、あんなもんに対抗できる手段なんぞこちとら持ち合わせてねえぞ。
 自分で言うのもなんだが、俺はただ死ねないってだけでろくな特技は持っちゃいねえ。剣の
扱いこそそれなりには出来るが、それだけだ。接近戦ならいざ知らず、あんな戦争紛いの事が
出来る奴なんぞ相手に出来るか。
 ……懐に飛び込んで一撃必殺でも狙うか?
 いや“死んでもいい”ならそれも手だろうが、今の俺はこの体を失くすわけにはいかねえ。
おまけにこの体は(イーリンには悪いが)所詮ガキの体だ。いくらスラム育ちだからって限度
がある。相手が悪すぎるぜ。
 あのミノタウロスキョンシー、ハダリーでも手駒に残ってりゃ話は別だったんだろうが……
あ? いや待てよ、ハダリーには確か……つーかあの「石」、イーリンが飲み込んで……

 ――くはは! 切り札ここにあり、ってやつか!
 つーか「あいつ」まで関わろうなんざどんな奇遇だよ全く。
 まあいい、温存して死ぬくらいなら使うっきゃねえだろうさ。
 相も変わらず爆撃が列車を揺さぶり、さらに後部から何かが絡みついたのか、線路から
凄まじい軋み音が聞こえてくる。正に絶体絶命って奴だからな。
 喚ぶ、もとい「再生」するなら、今しかねえだろ。


「ま、しかし本当……なあ姫さん? 俺らみたいな『死なない』奴が、実はここにもう一人
いるって言ったら、これこそ奇遇だと思わねえか?」

 軽口叩きつつ、どう「再生」するか考える。
 あの石はこの体の中にあるわけだから……俺の言霊で何とかなるか?
 ……いや、そう「気でも狂ったか」みてえなツラして見るなよ姫さん。慌てる乞食は貰いが
少ないんだぜ?

「いやマジ、いるんだよここに。イーリンの置き土産としてな。



 ――――出番だぜ、出てこいよ『百万回生きた猫ミリオンライヴズ』!」

173 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2008/12/16(火) 01:40:41
>> 続き

 果たして――上手くいった。
 俺の声は言霊となり、言霊は意味を持った形となり、意味を持った形は情報となり、
情報はデータとなり、データは命令となり、命令は体内の「石」に作用した。
 「石」はその中に封ぜられている奴を「再生」する。
 無数の文字のようなものが俺らの前に煌めき、形作る。
 そうして現れたのは……
 
 
「――はいはい、呼ばれて飛び出て〜ってあれ、あれれ? あんた、もしかして『とかげ』
かい? いやあこいつは驚いた! この期に及んでまたあんたと出会えるなんてさ!
世の中狭いねえ……いや、それとも『もう何度も会ってる』のかな、あたしは?」

「いや、お前がその“英霊“とやらになっちまってからは初めてだよ、ミリオン。
ってそれどころじゃねえ、悪いが昔話している暇はねえんだ」

「その『ミリオン』ってのはどうにかしとくれよ、そりゃあたしにはろくな名前もってうわ、
わたたたた!?」

 話してる途中で砲撃が飛んできた。振動でたたら踏む「ミリオン」。
 ……現れ、俺と話しているのは、黒い着物を着たただの少女だ。ただし、猫の耳に尻尾、
そして赤く尖った爪を持っていることを除けば、だが。
 所謂「化猫」というやつだ。しかも死んでもまた別の体で生まれ百万回生きたのだ、と言われる
トップクラスに奇妙な化猫だ。
 そんなだったから、俺とこいつ……「生前の」こいつとはちょっとした面識があったわけだが。
 
 ……しかしまさか、こんな形でこいつと再会することになるとはな。
 死ねない連中がこれで三人。そして敵さんは「永遠」を標榜していると来たもんだ。
 とち狂った話じゃねえか、まったくよ。
 
「いってて……ああもうなんだい、随分剣呑な状況じゃないか。ってああ、だからあたしを呼んだ
ってわけかい、とかげ? つまりこいつをなんとかしとくれと」

「ま、そういうわけだ。俺にはあいつを止める術がねえし、こっちの姫さんはこの列車を動かすのに
忙しくってな。お前に頼むしかないってわけだ。やってくれるか?」

「やってくれも何も、今のあたしは『そうするため』の存在みたいなもんだ、って知ってて
言ってんだろう? やってみせるさね……再生時間は保証できないけど、それでいいかい?」

「そりゃ仕方ねえだろ。撃退だけでも出来りゃ御の字ってやつだからな」

「はは、そいつは随分と過小評価してくれるじゃないかね? ちゃちゃっと片付けてくるさ、
待ってておくれよ」

 それじゃ行ってくるよ〜……と、場違いなほど明るい調子で後部車両へ飛んでいくミリオン。
 つーか飛べるのかよあいつ。英霊になったからなのかどうか知らねえけど。

 さて、と。あとはあいつの活躍に期待しつつ……姫さんにもカラクリを説明してやらなきゃいけねえかな?

174 名前:英霊・ミリオンライヴズ ◆C/1000000c :2008/12/16(火) 02:02:30
>> 続き

 なあんて安請け合いして出てきてみれば……あーあー、ほんと派手に弾幕かまして
くれちゃってるねえ。しかも撃ってきてるのは花かい。いや、まさかねえ……
 っとと、そんなことよりお仕事お仕事。
 まずはこの弾幕をなんとかしなくちゃいけないかな?
 
 とりあえず適当な車両に降りたって、と。
 首謀者はえーと……ああ、最後部から侵入してきてるあれがそうかな?
 じゃあ、弾幕遮断後、一気に突っ込みますか!
 
 ――あたしのこの爪はなんだって引き裂く。
 空間さえも引き裂いてみせる。
 両腕、振りかぶってぇ……目ぇ見開いて、ようく見ときな!
 
 
 
     面
     影
     を
     語
     る
     爪
     痕
     ――――<NOSTALGIC PAIN>!
 
 
 
「……っていう名前を付けてくれたのは、誰だったかねえ?」

 中空に残った“赤い爪痕”が飛んでくる弾幕を悉く遮断する。
 せいぜい数秒間しか遮断できないけど、列車の体勢を立て直すには十分。
 その間に連結部から最後部の車両に突っ込んで……突っ込みつつ、あたしは独りごちた。
 
 いや、うん、今のは嘘さ。独りごちたんじゃない、「あいつ」に話しかけてんのさ、あたしは。
 
「『面影を語る』だよ? まったく今のあたしにぴったりじゃあないか! 何せとかげどころか、
あんたの顔まで見る羽目になってんだからねえ……やれやれ、花が弾幕撃ってくるってんだから
まさかと思ったけどね。本当にあんたかい、世の中狭すぎじゃあないかね?」

 とっくに、あいつに聞こえる距離まで近づいているさ。
 いけ好かない、あのフラワーマスターとやらの真っ正面にね!
 
「それともあれかね? 妖怪同士惹かれあったりしてんのかね……そう思わないかい、風見の!」

175 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/02(金) 15:05:05



 奇蹟を目にした。
 零姫は、奇蹟に立ち会った。

 事態は、彼女たちが考えている以上に絶体絶命だった。車両の最後尾から乗
り込んできた咲き誇る花弁の寵姫は、シャオジエが絶叫する通り――あるいは
それ以上に――絶望的な力を有していた。
 ましてここはかりそめと言えど、妖魔公が花の姫君のために与えた彼女のた
めの階層。絶対的に有利な領地だ。向かい合えば、まず勝負にならない。

 アセルスに斃されるならいざ知らず、イーリンともリリーとも関わりのない、
暇を持てますだけの戦闘狂に未来を断たれるのか。通り魔に襲われて人生を終
えるかのような運命を受け容れろというのか。

 ―――断じて、否。

 零姫の胸に宿った疑問に答えを示したのはとかげだった。
 ……いや、正確にはイーリンか。
 イーリンの最後の足掻きが、自らの命と引き替えに手にした力が、あらゆる
理不尽を拒否した。零姫たちの終点は、ここではない。

「な、なにごとじゃ―――」

 人間の目では見ることのかなわない情報≠フ暴走を、零姫は霊視した。
 彼女の魔術回路をもってしても処理しきれない複雑かつ膨大な霊力の奔流が、
とかげの放った言霊によって指向性を与えられ、ひとのかたちを作り始める。

 零姫の混乱は深まるばかりだ。

 なんなのじゃこれは。まさか、イーリンめが呑み込んだ魔石か。はだりぃ
だとかいう屍体を動かしていた魔力装置なのか。
 ……疑問には思っておった。幻魔はアセルスめが与えたものじゃ。それは分
かる。しかし、この魔石はどこから、どういった経緯でイーリンめの手に渡っ
たのか。斯くも強力な魔石を、なぜ市井の娘が―――

 やがて荒れ狂う情報の渦は肉となり血となりこの世界に具現した。

 零姫よりも、さらに一回りは小さい座敷童のような少女。喪服の如き漆黒の
着物を左前に着こなして、底の厚い舞妓下駄を危うげに揺らしている。
 口元には挑戦的な八重歯が覗き、癖のある毛の間からは獣の耳が――あれは
猫のものか――が生えていた。
 外見だけならば、獣人の亜種だろうと片づけることもできる。しかし、矮躯
から発散される桁違いな霊力と、突然召喚されたにも関わらずまったく物怖じ
しない態度には狂気すら覚えてしまう。

百万回生きた猫(ミリオンライヴズ)=\――この猫娘を指して、とかげは
そう呼んだ。理不尽に抗う刃である。

176 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/02(金) 15:06:28


「―――ふふ」

 彼女の微笑は止まらない。
 彼女の嗤笑は終わらない。

 零姫の驚愕とは対照的に、火星天≠フ姫君は冷静だった。
 数十秒後には機関車を鉄屑に変えるはずだった自慢の弾幕が悉く遮断された
にも関わらず。対軍宝具に匹敵する威力と密度を誇る光弾の嵐が呆気なく攻略
されてしまったにも関わらず。……彼女は冷静だった。
 冷静に興味の矛先を変えた。

「死に続ける死の先にあなたが行き着く場所は、幻想の郷しかないと思ってい
たのだけれど……そう、まさかこんなとこに閉じこもっていただなんて」

 姫君は穏やかに笑う。それは植物の笑み。花の笑み。
 誰も知らない。人間の笑みなんて。獣の笑みなんて。植物や花が笑うことに
比べれば、ずっと恐怖が少ないことを。
 花は笑うのだ。彼女のように。

「伊予の星屑≠ネんてどうかしら? ……いや、貴方に合いそうな花を想像
していたの」

 車両に乗り込んできた猫娘に微笑みかけると、姫君は日傘を投げ捨て、変わ
りに胸のポケットから一枚のカードを取り出した。
 戯れに作ってみた、針の城―――妖魔公の世界では唯一のスペルカード。ル
ールに縛られない城内では必要のないものだが、やはりこれがないと気分が乗
らない。本当は木星天≠フ主を相手に使うつもりだったが―――
 この子が相手なら、出し惜しみなく宣言できる。

「たっぷりといじめてあげるわ」

 ―――妖花『妖魔城の開花』

 姫君の呟きと同時に、いままで展開していた弾幕が途切れる。数十秒ぶりに
訪れる静寂。嵐の前哨。暴風は静かに這い寄り―――車両と車両の連結部から
猛り始めた。線路の隙間から伸びた植物の蔦が、二人の乗る最後部車両の連結
器をねじ切る。牽引する力はなくなっても慣性が働いているため最後部車両だ
けは置き去りにされることはないと思われたが―――

 ぎい、と姫君と猫娘の足下で車輪が鈍い音を立てて動きを止めた。いつの間
にか線路に敷き詰められたタンポポの花が絡まって、車輪が回らなくなってし
まったのだ。慣性に突き動かされるままに車輪が滑る。フルブレーキ状態。
 こうなってしまったは、客車もただの待合室だ。

 姫君の目的は、密室を作ること。
 どちらかが屈服するまで出ることのかなわない牢獄を作ること。

 機関車が遠ざかる。残りの十両を牽引して遠ざかる。いま、この瞬間なら脱
出の余地はまだあるが―――当然、姫君は猫娘を逃すつもりなどない。

 彼女は自分の世界を圧縮した。
火星天≠フ密度を変えた。
 広大な花畑なんていらない。無限の花々なんていらない。いまは、指が届く
程度の距離で愛でられる花とその養分となるべき骸が一匹あればいい。
 第五層火星天≠ヘここ≠セけでいい。この客車が、針の城におけるわた
しの世界のすべてだ。

 急激な空間の圧縮によって、零姫たちを乗せる魔列車は強制的に第六層木
星天≠ヨと移動する。

 幻想の姫君の唯一の領地となったこの客車は、まさに棺桶だ。花を敷き詰め
て、この子を弔ってやろう―――そう考えて、ふふ、と彼女は笑った。

177 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/02(金) 15:08:38
うむ。
このままでは本気で別の闘争が始まってしまうので、回避回避回避じゃ。
このままミリオンめはいったんドロップアウト→後の合流か。
なんとかがんばって火星天(客車)から脱出する。
どっちかにすべてきだと考えておる。
どちらにせよ、火星天の姫君の出番はここでお終いだと考えてくれ。
これ以上しゃしゃらせはせん!

178 名前:英霊・ミリオンライヴズ ◆C/1000000c :2009/01/09(金) 00:04:40
>>

 一枚のカードを取り出し、宣言、数俊後に車両にかかる急制動、そして「おわたたたたたっ」と
たたらを踏みかけて座席にしがみつくあたし。ああかっこわる。
 あたしだってちったあかっこよく行きたいってのにさあ。まああんな(見かけによらない)
力業の奴を相手にするんじゃあ仕方ないか、ったく。

「あーもー、あいっかわらずやり方が乱暴だねえ、風見の。そんなにあたしとやり合いたい……
違うか、あたしを『いじめたい』ってのかい? あんたも大概、変わりゃしないね。
妖怪ってなそういうもんだって事かもしれないけど」

 車両が完全に止まるのを待って、一息つきつつ……「痛っ」 あれ?
 ふと見たら指先が切れて血が出ている。あー、さっきしがみついたときに座席のどっかで
切っちまったかな? 見た目ふるーい車両だもんねえこれ。
 ぺろり、とひと舐めしてみるけれど、とりあえず止まっちゃくれない。
 ま、いいか。どうせこれからいくらでも怪我をする羽目になるんだろう?
 下手すりゃ死ぬほど、さ。
 
「で? 見た感じ、このままあたしを車両ごと花で覆って嬲ってやろうって腹積もりかね?
『いじめる』というからには、あたしを速攻で殺ろうってわけでもないんだろうしさ。
おまけにとかげらは先に行かせちゃってるし……ま、それならあたしの役目は
果たされてるから、いいんだけどね?」

 ざわざわ、と植物の生い茂っていく音も、あちらこちらで緑も赤も白も黄色も揺らめく様も
見えるけれども、あたしは気にせず、フラワーマスターに笑いかける。
 何故って、気にする必要がないから。
 いじめる? 嬲る? 殺す? それがどうしたって?
 あたしは確かに百万回も生きてきたけど――“今のあたし”はもう、そんなものじゃあない。
 全く……
 
 
 
「――無意味なことさ」

179 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/09(金) 00:05:10
>> 続き


「あいつはな、姫さん。確かに昔は『百万回も生きてきた猫』だったそうだが……もう違うんだよ」

「あいつが“死ぬ前”に、俺に聞かせてくれた話でしかないから、詳しいことは知らねえがな。
……ああ、その通り。あいつは本当に死んでいる。と言っても幽鬼の類でもねえ。全然別だ」

「あいつが言うには――何らかの能力・技能を持つ奴を、その使い手の文字通りの心身と共に
ある種の媒体……まあ要するにあの『石』だな、に記録させる、そんな方法をどっかの奴らが
確立させたんだそうだ」

「何回も何千回も何十万回も生きて死んで繰り返してきたあいつは、ある時そいつを持ちだして……
つーかまあ、大方盗んできたってとこだろうが、最期にご丁寧にも俺を捜し出して言ったのさ」


「こいつで『ただの記録』になるつもりだ、そうすればもう嬉しいことも悲しいことも
引き継がなくて済む――ってな」


「石に記録された存在……英霊、って呼ぶらしいが、そいつはいつでも元通りの姿形で
『再生』されるが……それだけ、なんだそうだ」

「簡単に言えば、自分で考えて動いて喋って触れる立体映像みたいなもんだ。
俺らには……いや、そいつ自身にだって本物、実体に見えるだけで、実際には
魂もなにもない。だから再生が終われば……」


「跡形もなく、消え去る」


「もちろん、そいつが起こした事も残るし、俺らの記憶にだってそりゃ残る。
だが、そいつ自身は――何も覚えることなく、何も持って行くことなく、どこにも行かずに
消えるだけ、ってわけだ」

「ま、俺も実際にあいつを『再生』したのは初めてだがな。だがあいつ自身にはそんな事は分からない。
言ってただろ? 『もう何度も会ってるのか?』って。あいつは俺が自分を“初めて再生した”のか
“もう何度も再生しているのか”なんてことはわからねえんだよ。あいつの記憶は、石に記録された
その時までしか残らねえからな。追記は、出来ねえ」


「あいつはもうそういう存在……ってわけなんだそうだ」

180 名前:英霊・ミリオンライヴズ ◆C/1000000c :2009/01/09(金) 00:05:40
>> 続き

「伊予の星屑、ねえ。まあ別に何に例えてくれたっていいけどさ……風見の、
生憎とあたしは、もう紫陽花のようには居られなくってね。何にも変われやしないから」

 戯れに、指に膨れあがった血だまを弾き飛ばしてみる。
 散った鮮血は、けれど地に落ちることなく……ひらがなカタカナアルファベットキリル文字ギリシャ文字、
その他諸々の文字と化して、消え去る。
 あたしがただの記録、再生されたデータである事の、証。
 
「ま、でもね。どうしてもってんならあんたに、あたしとのお遊びの思い出を残してやるくらいは出来るさね。
花と散ってやろうか? もちろん――あたしの振るう技の記憶と一緒に、さ」

 もう一度指先を舌で舐め……にぃ、と猫らしく笑って、指を更に噛み切る。
 溢れる鮮血。またぺろり。

「赤猫って知ってるかい? 放火の隠語なんだそうだよ。
随分な話じゃないか。勝手にあたしら猫に例えちまってさ!
炎の揺らめきは赤猫の舌なんだってさ、ねえ……」

 あっちこっちから花が侵入してくる。あいつを守る矛となり盾となって。
 はん、でもさ……結局は植物だ、こいつには弱かろう?

「ならあたしも――猫の化生らしく、火を放ってやろうじゃないさ!」


       吻接の灯鬼たっ狂
――――<VOLCANIC LIBIDO>!!


 舐めた指先に滴る血潮、そいつを周囲に振りまく。
 『文字化け』した次の瞬間――あたりを焼き尽くす真っ赤な炎と化した。
 客車の何もかもを焼き尽くす大火と。
 
 
 とかげらには、もう見えないかも知れないがね……風見の、あんたが見てりゃ十分さ。
 何なら消え去るまで、付き合ってやるよ。

181 名前:英霊・ミリオンライヴズ ◆C/1000000c :2009/01/09(金) 00:10:49
これのどこがフェイドアウトだやる気満々だろ常考
……ってなもんだからさ、なんだったらもうちょいばっさり切り捨てちゃってもいいよ。
何でもご要望にお応えするさ。

ついでの与太話。
「英霊」としてのあたしがただの記録存在だってんなら……「本物のあたし」はやっぱりどっかで
生きて死んでを繰り返してるのかも知れないねえ。
あたしはただのコピーってだけでさ。
ま、そんなんだとしてもその「本物のあたし」とやらはとかげに合わす顔がないだろうけどさw

まあそんだけ。その辺掘り下げても下げなくてもどっちでもいいよ。

182 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/12(月) 20:22:41

 あらゆるものが炎に包まれ、あらゆるものが蒸発されゆく世界で、火星天
の姫君は愛しき花たちが灰へと変わる様子をおごそかに見守っていた。
 笑みはとうに消えている。さりとて、余裕を失っているわけでもなく、むっ
つりとした表情から怒りは感じられない。
 姫君のかんばせを彩る感情の色は何か。……あえて言葉を探すならば、戸惑
いと憐憫だ。姫君は、猫の娘を心底憐れんでいた。

 火を放ったことで、花は燃え尽き、やがてこの世界は崩れよう。植物に対し
て、これ程効果的な攻撃はない。猫娘の選択は間違っていない。
 ―――しかし、それは、姫君に対して有効的な攻撃≠ニイコールで結ばれ
るわけではない。

 花が燃えれば姫君の心は痛む。しかし躰は決して傷まない。彼女は妖怪であ
って花の精ではないのだから。
 花による攻撃を行えない環境に置かれたせいで、姫君はフラワーマスターと
してではなく、妖怪として戦わざるを得なくなってしまった。
 それは圧倒的な力で相手を押し潰す優雅さとは無縁の戦闘行為。そこにルー
ルはなく、明確な勝敗の境目もない。

 姫君は憂鬱そうに溜息を吐いて、

「……ほんと、何百万年生きても子供のままなのね」

 と呟いた。

 気怠げに右手をあげて、
 五指を開き、
 彼女は灼熱ごと、
 彼女は客車ごと、
 彼女は猫娘ごと、
 彼女は彼女の世界ごと―――

 津波の如し熱量の大砲で、太陽の如し光量の奔流で、すべてを撃ち抜き、蹂
躙する。世界は白亜に包まれ、闘争の舞台すら消滅した。

 この瞬間から、アセルスの城において第五層火星天≠ヘ存在しなくなる。

183 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/12(月) 20:22:56


 世界の圧縮によって火星天≠ゥら強制的に追い出された魔列車が次に走る
のは、第六層の木星天=B濃厚な霧が一帯に広がる視界ゼロの世界である。
 窓に頬を押しつけてもまともに外の景色を見ることは叶わない。進路もなに
もあったものではなく、ただ霧を切り開いて疾走するのみ。魔列車の走行を管
理する零姫としては、鉄路に障害物が置かれているかどうかすら確認できない
現状は恐ろしくてしかたがないのだが、だからといって対処する術などなく、
腹を括って走り去るより他に選択肢はない。

 時より、どこからともなく谺する「イヒヒヒヒー!」という哄笑を不気味に
思いながらも、零姫はとかげを連れて機関部から客車に戻った。
 彼とは話しておかなければならないことがある。―――ミリオンと呼んだあ
の化け猫はなんなのか。なぜ、とかげに力を貸したのか。

 ……因みにシャオジエは、改めて冷蔵庫に叩き込んでおいた。

「―――つまりあの化け猫は、転生無限者だったのじゃな」

 ボックス席でとかげと向き合う零姫は、いつになく真剣な表情で言った。

「死に続けて生き続ける転生無限者の、ひとつの完成系であり終焉でもあるわ
けじゃ。あのミリオンとやらにこれ以上の未来はなく、ただ永遠に記録された
現在≠ヘ再生し続ける。停滞すれば死ぬことも生きることもないからのう」

 そんなバケモノがイーリンの人造僵尸に埋め込まれたいたなんて。奇縁もこ
こに極まれり、だ。偶然で片付けるにはあまりに都合が良すぎる。……なにせ、
これでひとつの空間に三人もの転生無限者が集ったことになるのだから。

 死を願うとかげからすれば、永久に停滞≠キるミリオンは受け容れがたい
存在だろう。同様に、生を愛する零姫も、未来なきミリオンの再生≠ノは共
感できずにいる。同じ転生無限者でありながら、三者三様。こうも考え方が違
ってしまうものなのか。面白いと思う反面、寂しくもあった。

 時と場所が違えば、殺し合うしかなかった三人かもしれない。
 でもいまだけは、イーリンのために―――

「これだけは確認しておきたいのじゃが」
 
 零姫は躊躇いがちに切り出した。

「あの化け猫は、また再生≠ナきるのか?」

 話を聞く限り、こと戦闘力においてミリオンライヴスは飛び抜けている。
 彼女がいてくれれば、これからの道中もぐっと楽になるだろう。気は進まな
いが、いまは藁にでも縋りたい思いなのだ。利用できるものは利用しなければ。

184 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/15(木) 00:08:55
>>

「また“再生”出来るのか、ねえ……」


 さぞや、俺は苦虫を十匹や二十匹は余裕で噛み潰してるようなツラをしていることだろう。
姫さんにこんだけ慮ってもらってるんだからな。まあ外が視界ゼロなんだから、俺自身でも
窓を見れば自分でもそのツラを拝むことは出来るだろうが……別段、そんな気にもなれない。

 大方お察しの通り、俺はミリオンのとったやり方は気にくわない、と言っていい。
 仮に俺自身がそういう存在になる機会を得られたって、きっと蹴り飛ばすことだろう。
 ……もっとも、こんなのは理屈じゃねえ、ということも俺自身、いい加減理解できちゃいるが。
 
 俺が「死にたい」と思うことも、
 姫さんが「生きたい」と思うことも、
 ミリオンが「止めたい」と思ったことも、
 
 それぞれがそれぞれに選んだ答え、ってやつだ。
 今更変えられやしねえ。残される側に配慮なんぞしてたら、きりがねえからな。
 
 わかっちゃいる。
 わかっちゃいるが……実際に残される方は、それはそれでやはり気分の良いもんじゃ
ねえようだ。本当に、理屈じゃねえ。
 だから、俺は……


「出来るのか、と言われりゃ正直分からねえ、というところだけどな。
 ただ、さっき“再生”したばかりだからな。あいつがまだ戦ってるなら……」

185 名前:◆C/1000000c :2009/01/15(木) 00:09:22


『あーあ、やっぱ分が悪かったかねえ……あたしももう少し、粘っておきたかったんだけどな。
ま、仕方ないね。もう行くよ、とかげ、風見の。
“次のあたし”に会うようなら、またよろしく頼むさ。じゃあね』

186 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/15(木) 00:09:37
>> 続き

「……まだ戦ってるなら、追加再生とはいかねえだろうな。二重に再生できるとはあまり思えねえし。
しばらくは無理だと思っておくほうが無難だろ」


 本当にまだ戦ってるのかどうか、もちろん俺には分からねえ。
 とっくに消えちまってて、もう再生可能なのかも知れねえが……それでも俺は、そう答えていた。
 
 ……本音を言えば、さっきの今で“再生し直された”あいつを見たくねえからだ。
 今ふたたび再生すれば、あいつはまた俺を見て驚くのだろう。いや今に限らず、今後もずっとか?
 とんでもねえ茶番だ、ましてさっきの今じゃ尚更気分が悪すぎる。
 ……今頃になって少し後悔している。切り札を早々に切りすぎた。こんな気分に囚われる羽目に
なるなんざ……俺も焼きが回ったとしか言いようがねえ。「英霊」と化したあいつを見るってのが
どういう意味を持つのか、考えておくべきだったぜ、クソ!

 噛み潰している苦虫は、そろそろ三桁の大台に突入しようって雰囲気だろうなこりゃ。
 けったくそ悪ぃ。
 気分を切り替えるように――ように、じゃねえか。本当に切り替えだ――剣の鞘で床を突いて
席から立つ。


「そろそろ機関室に戻らねえか、姫さん? いい加減次のエリアに抜ける頃だろ」


 ――「石」を通じてか、あいつの別れの言葉が聞こえたような気がしたが、
 そんなものなど、気分もろともに押しやるようにして。

187 名前:あぼーん:あぼーん
あぼーん

188 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/18(日) 22:14:19


 言葉として伝えられずとも、その苦しげな表情を見れば、とかげの葛藤はい
やというほどに透けて見えてしまう。
 ……やはり、こやつは転生無限者として永劫を生きるには優しすぎる。零姫
は胸裏で溜息を吐いた。

「ふむ、そうか」

 そうとしか答えなかったのは、とかげの思慮を汲むためでもあったが、零姫
なりに打算を働かせたためでもあった。再生が可能であろうと不可能であろう
と、ミリオンの出番はここではないことだけは揺るがない事実だ。
 この狂った迷宮の主は英霊≠フ存在を感じ取っただろうか。イレギュラー
として認識しただろうか。あの隔絶された花畑―――第五層の寵姫を相手にア
セルスはどこまで干渉できるのか。
 いささか楽観的かもしれないが、妖魔の君の性格を考えると、未だにミリオ
ンは切り札として有効だと考えられる。

 ミリオンの再生機≠ナある魔石が、人造僵尸の動力源となっていたならば、
彼女もイーリンとは無関係ではないのだ。力を貸して欲しかったし、協力を拒
むのであれば強引に巻き込む気ですらいた。
 零姫はとかげとは違う。ミリオンはイーリンの下僕だった。ならば、主人の
ために忠義を尽くす義務がある。……零姫はそう、考えていた。
 手段や倫理を問うてる余裕はない。

 零姫は席を立つと、袴の裾を直した。
 とかげを先導して機関部へと向かうその表情は、厳しい。


 第六層木星天=\――霞に支配された階層は、最後まで車窓からの風景を
白く染めたまま、何事も起こらずに終着を迎えた。
 車掌役のシャオジエが猿轡を噛まされて監禁されているため、とかげも零姫
も知ることはなかったが、木星天≠フ寵姫こそアセルスの内なる城≠ェ生
まれる切っ掛けであり、同時に妖魔公の狂気の走りでもあった。
 個人と個人の境界を曖昧にし、隔てられた世界は融け合い、不完全は不完全
によって補われ、永遠は完成する。この方程式を実行に移した寵姫は、「いひ
ひひー」と不気味な笑い声を残すだけで、零姫たちには一切手出しをせず、大
人しく自分の階層を通過させた。

 そして一行は第七層土星天≠ヨと至る―――。

「ついに、ここまで来たか」

 現実の〈針の城〉は、第八層から十層までは外環部分として扱われ、イーリ
ンのようにマフィアとは無縁の人間も多数住み着いていた。
 アセルスの支配がどこまで完璧なのかは知らないが、この針の城≠ェ妖魔
公の内面世界でありながら同時に現実の〈針の城〉でもある以上、外≠ヨ近
付けば近付くほど支配も弱まるのが道理だ。
 これまでのように、あまりに現実離れした光景を見ることもなくなるだろう。
 そんな零姫の考えを裏付けるように、土星天≠フ風景は現実の第七層と変
わらないものであった。闇が濃厚で、ビルというビルに荊が絡みついていると
いう差異はあるものの―――そういう違う部分≠ェ分かりやすいお陰で、余
計に支配率が低いのだと安心できた。
 奇妙な旅路の終わりは、近い。

189 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/18(日) 22:14:33


 線路はビルとビルの隙間を縫うように細かくうねりながら敷かれ、時には建
物をトンネルに見立てて、屋内にまで侵入した。
 元々の〈針の城〉は機関車どころか自動車や馬車すら走るスペースが無かっ
たことを考えると、これはかなり強引な荒技だ。必然的にスピードは落ちる。
 零姫も魔想レールを生成するために、より深い集中を要した。

 七層さえ超えれば。
 八層にさえ至ってしまえば。
外≠ェ近い。
外≠ェ現実のものとなってきた。
 イーリンの想いが叶おうとしている。
 彼女の自由が、いま、開かれる。

 ―――だがそこに、最大の障害が立ち塞がった。

土星天≠フどこにそんな空間があったのか、高層の建物――それは、阿嬌が
飛び降りたビル屋敷≠セった――を通り抜けたその先は、地平線まで続く一
直線の道だった。
 あらゆるビルは、まるで線路を避けるように両脇に建ち並んでいる。
 零姫は当然、こんな鉄路は生成していない。何者かが干渉して、道を歪めた
のだ。そんな真似ができるのはこの階層の寵姫か、あるいは―――

 機関車の進路の先、線路の上に佇む人影ひとつ。
 闇色の風に煽られて、ジュストコールの裾が踊る。
 魔列車の疾走を阻む無謀な人影は少女だった。
 少女でありながら、少女にあるまじき格好をしていた。
 少年のような服装をしていた。
 少女は男装をしていた。

 少女の姿を魔眼で認めた瞬間、零姫は目を剥いて叫んだ。

「アセルス!」

 進路の遥か先で、妖魔の君ははっきりと零姫を睨み返してから、薄く嗤った。
 その笑みは戯れの終わりを告げていた。黙したまま、観光旅行はここまでだ
と語っていた。―――全ては二人の因縁から始まったのだ。ならば、二人が対
峙せずに、このまま外≠ヨなどと大人しく行かせるものか。
 
「……もう十分だろう? そろそろ、イーリンを帰してもらうぞ」

 アセルスの呟きは、零姫の耳にまで届く距離ではなかったが、彼女ははっき
りとアセルスの声≠聞き、そして―――激昂した。

「アセルス! おまえだけは……!」

 だが、憤激しながらも理性を残せるのが零姫という女だ。彼女の中の冷静な
部分が、アセルスとの対決だけは避けろと警鐘を鳴らしていた。

 魔列車が走る。
外≠目指して。
 迷宮の城主へと向かって。
 終点へと走る。

190 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/18(日) 22:44:13
>>

 「悪の親玉」のお出まし。物語の終わりは近い、ということか。
 
 ……誰の物語だ?
 切り札呼ばわりしたミリオンはもちろん、俺だってただのゲストキャラだ。イーリンの代わりに
現われただけの、俗に言うオルタナティブ。
 そしてイーリンはもういない。
 
 因縁を辿ればあの女と姫さんか?
 だがそんなことは勝手にやってろ。イーリンを、いや「イーリンとリリー」を巻き込むんじゃねえ。
 そしてリリーももういない。
 
 主役いねえヒロインもいねえ、いるのは代役と代役と悪役と脇役。
 ふざけた茶番の物語。
 代役の俺らは、そんな物語をきちっと終わらせるだけだ。
 イーリンのために、リリーのために。
 
 つまり。
 
「……お呼びじゃねえってんだよ。勝手に生きてろ、勝手に死んでろ。
 勝手に――轢かれてろや阿呆」
 
 機関の出力を上げる。オーバーヒートぎりぎり。
 にっくき悪役が目の前にいるせいか、加速度つけて炉心は燃え上がる。
 弾丸列車はひた走り――――
 
 
 ――は! わかってるさ、あのクソ女はそんなタマじゃねえ。
 絶対に何かある。いやさ本物かどうかさえ怪しいぜ、こんな世界じゃ。
 だがどっちにしろ、こんな列車に何かされるなら……
 
 
 激突コンマ数秒前。
 俺は姫さんを庇った。
 
 何故と問うんじゃないぜ姫さん? イーリンなら、そうするに決まってんだろう?

191 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/21(水) 00:52:42


それ≠ヘ闇の蒸気に隠れていたのか。あるいは、二人がアセルスを注視する
あまり、彼女の背後に控えるそれ≠ノ注意が向かなかったのか。
 どちらなのかは分からない。正解はどこにも見えない。
 ひとつのみ分かる真実は、魔列車が加速したことにより、二人は確実に己の
首を絞めてしまったということ。
 とかげはアセルスの挑発に乗ってしまったのだ。彼も零姫も、ここが妖魔公
の庭だということを知っていながら、それが意味する恐ろしさを十全には理解
していなかった。例え支配率が低かろうと、魔想レールに干渉して軌道を歪め
る程度のことは容易いのだ。

 汽笛が、死霊の絶叫の如き音で闇に響き渡る。蒸気が吹き出し、車輪は猛烈
な勢いで回転する。第五層での絨毯爆撃によって機関車の車体はだいぶ傷んで
いたが、動力源へのダメージは皆無に等しく、加速はスムーズに行われ、猛り
狂う鉄牛は華奢な小娘を挽き肉にせんと鉄路に沿って突撃した。

 妖魔公の口元の笑みは消えない。
 圧倒的な質量に肉薄されてなお不敵な態度を崩そうとせず、ショートパンツ
から伸びた細い素足を見せつけるように軽くレールを蹴った。
 アセルスの躰が宙に舞い上がる。魔列車との相対距離は車両一つ分。アセル
スの企みを見定めようと目を凝らしていた零姫は、そこでようやく、自分が罠
に嵌められたことに気付いた。

 ―――アセルスの背後には、漆黒の鋼鉄が控えていた。

 重甲冑の騎士を彷彿とさせる鋼の躰。蹂躙を目的とした凶器にしか見えない
無数の車輪。将軍に追従するように牽引される、十一両の客車。
 零姫は思わず呻く。

「……もう一台、じゃと」

 彼女たちが乗るそれと同型の機関車が、同じ線路上に、向き合うようにして
鎮座していた。稼働してはいない。だが、停車していようとも、これ程までに
大きな質量に進路を阻まれたら―――

 宙を舞うアセルスの爪先が、対面する汽車の煙突に触れた。
 その瞬間。

 二台の魔列車は、正面から激突した。

 接触の瞬間、とかげが零姫に覆い被さるようにして守ったのと同じ理由で、
零姫もまた、とかげを――いや、イーリンを――咄嗟に張り巡らした魔術障壁
で衝突の衝撃からガードした。
 充分にスピードの乗った機関車が、不動の機関車に突っ込んだのだ。その被
害は、どちらも鉄屑に還ってなお余りあるほどに酷かった。
 とかげと零姫を乗せた機関室は衝撃で浮き上がり、鼻面を中心に逆立ちした。
当然、二人は闇へと投げ出されることになる。
 脱線した機関車は地響きを立てながら転がり、線路の脇のペンシルビルに激
突。それでも勢いを殺せず、一階部分を丸ごと抉り取って、奥のビルにまで破
壊をもたらした。後続の客車は鞭の如く振り回され、連結部が引き千切れた車
両は宙を舞い、砲弾となって街に降り注いだ。
 接触事故というより、もはや爆弾の炸裂に近い。二台の機関車と計二十両の
客車は全損し、周辺一帯の建築物にも深刻な疵痕を残した。
 炉が壊れたことにより、燃料となっていた怨霊は逃げ出し、霊的エントロピ
ーの均衡を致命的なレベルまで狂わせる。

「なんて……めちゃくちゃな……やつ、じゃ」

 積み木のように折り重なった客車の残骸から、零姫はほうほうの体で這い出
した。打撲やすり傷で全身が痛んでいる。あれだけの惨事で、この程度の負傷
で済んだのは僥倖か。

192 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/01/21(水) 00:52:57


 零姫は線路上の砂利に這い蹲ったまま、首を左右に振ってとかげの姿を探し
た。機関室から放り出されるまでは、確かに魔術障壁で守った。しかし、それ
より後のことは分からない。果たしてとかげは無事なのだろうか。しっかりと
イーリンの躰を守れているだろうか。もしも客車やビルの瓦礫に潰されるよう
になってことになっていたら―――

「とかげ、生きておるのか! どこにいるのじゃ! 返事をせい!」

「―――相変わらず、病弱ぶっている割には頑丈だな」

 はっと息を殺す。零姫の呼びかけに応えたのはとかげではなかった。地面に
ひれ伏す零姫の目の前に、ブーツのヒールがざくりと落ちる。
 見上げるまでもなく、そこにはこの魔宮の城主が佇立していた。彼女も正面
衝突に巻き込まれたはずだというのに、傷はおろか、埃すら被っていない。
 蔑みの眼で零姫を見下ろしている。

「アセルス……!」

 起き上がろうとした零姫の肩を、アセルスは軽く蹴飛ばした。それだけで零
姫は砂利に頬を滑らせ、血を滲ませた。
 剣術を極めたアセルスは、ことこの間合いにおいては無敵に近い。いくら零
姫が魔術に長けていても、白兵戦では赤児以下の抵抗しかできなかった。

「よくも好き勝手に私の世界を荒らしてくれたな」

 ブーツの靴底が、零姫の後頭部を踏みつける。

「貴様が勝手に呼んだのじゃろうが……!」

「誰も荒らしてくれ、とは頼んでいない」

 足を離し、すぐに蹴り付ける。零姫の矮躯が一瞬浮き上がった。

 アセルスは手に提げた月下美人ではなく、腰に差した儀礼用の装飾短剣を抜
き放った。切れ味は鈍いが、だからこそ余計に痛みを与えることができる。
 咳き込む彼女の腹部をもう一度蹴ってから、アセルスは零姫の目の前にしゃ
がみ込んだ。その白い肌に刃を突き立てる前に、最後の確認として、妖魔公は
口を開く。

「……貴様は私に、なにか言うべきことがあるはずだ」

 アセルスなりの恩情のつもりだったのだろう。しかし零姫は迷いもせず、唇
から鮮血をこぼしながら、

「貴様は最低じゃ。人間としても、妖魔としても、屑にすら値せん」

 あらん限りの憎しみをこめて言い捨てた。

「……そうか。ならば苦しめ」

 アセルスは無表情のまま、短剣を振りあげて―――  

193 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/01/27(火) 00:52:44
>>

 ――振り上げた短剣は当然に振り下ろされる。
 止めねえと。
 そう思った。
 結果。


 その短剣は、横から突きだした俺の左腕に深々と、ってわけだ。
 ……なんて冷静に語ってられるか! いってえ……ッ! クソが!


「……お呼びじゃねえ、って言ってんだろうがサド野郎。手前勝手極みきりやがって」

 同じく放り出され、瓦礫に投げつけられ、痛む全身を引きずって姫さんを探し、極めて不吉な
会話を聞きつけ、それを頼りにしてようやく視界に飛び込んできた光景が、それ。
 俺も、この体も、多少の荒事には慣れてる。
 だからこそ……こうするより他になかった。いや、あったかも知れねえがとっさに出た判断が
それだった、って事かも知れねえが。
 もっとも、どのみち俺の剣は所詮我流だ。逆手持ちの短剣を、それも姫さんを傷つけずに
弾き飛ばす自信は今だってねえよ。おかげでこの体を更に傷つける羽目になっちまったが。
 世話もねえな。……イーリンならどうしてたろうな。もっとクレバーに立ち回ってたか?

「つーかあんたも律儀に付き合ってんじゃねえよ姫さん。とっとと逃げてくれ。
あんたチャンバラ出来るようなタマじゃねえだろ」

 刺さったもんを抜かせ――もちろん、更に痛えが、無視。
 死んでるっつーのに痛いなんて理不尽だがそれも無視。
 目の前の馬鹿も、背後に庇う姫さんも、何もかも、ある意味全部無視。
 俺一人で逃げれば助かるか? やってられるか馬鹿。「イーリンとリリー」で逃げなきゃ
意味がねえ。なら今は俺が悪役を引き受けるっきゃねえだろうが。

「いい加減うぜえぞ……『私の世界』だとかなんとか、引きこもりのタワゴトかよ。
ましてイーリンを弄んだ元凶の癖に、勝手に執着してんじゃねえ。
この体はもう俺のもんだ、何一つだって渡しゃしねえぞ」

 スラム育ちの、荒事慣れで、ろくに出るとこも出てねえイーリンの体。ああそうとも俺のもんだ。
だからこそ義理があるし、何より俺が許しゃしねえ。絶対に逃げてやる。
 その為にも……
 
「ほら何やってんだ、早く逃げろってんだよ!」

 不釣り合いかも知れない、頂きもんの刀の柄に手をかけ、もう一度姫さんに呼びかける。
 もちろん俺だって、隙あらば逃げる心算だが……今はやるっきゃねえだろ、クソ。 

194 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/02/21(土) 21:01:46


「貴様……」

 妖魔の麗人は顔を歪めて呻いた。
 声の低さが彼女の怒りの強さを物語っている。
 とかげが盾になって零姫を護った。自分の行動を阻害された。零姫が痛みに
喘ぐ表情を見られなかった。―――そんなことは、別にどうでもいい。
 アセルスが許せないのは、とかげが、己の都合でイーリンの∫[を傷付け
たからだ。アセルスが支配すべき寵愛の対象を、キズモノにしてくれたからだ。
 イーリンという少女の価値は、刃に肉を抉られ程度で落ちるものではない。
そんなことぐらいはアセルスも理解している。むしろ土に汚れ、血を流し、地
面に這いずるほど強く眩く輝く手合いの女だ。
 ……が、それはイーリンの魂あっての話。とかげが、零姫如きを庇うために
イーリンの肌を犠牲にするなど断じてあってはならない。決して見逃せない。

「貴様」

 激したアセルスは、もう一度呟くと、とかげの黄金瞳を睨み据えた。あらゆ
る魔術作用を無効化するとかげには、当然魔眼も通用しない。そう、分かって
いてもつい瞳に力をこめてしまう。

 イーリンの躰で私に刃を向けるなんて。
 絶対に許せない。

「貴様ぁ!」

 魔眼の猛りがとかげにではなく、彼女の世界≠侵しはじめたとき、もう
一人の怒れる妖魔が、とかげの背中に怒声を浴びせた。

「戯けめ! 勝手に傷付けおって、誰の躰じゃと思っておる!」

 躰の痛みも忘れて立ち上がり、ぽこりととかげの頭を叩く。

「庇うにしても、庇いかたというものがあろう! わらわを護るな、とは言わ
ぬ。せめて、もっと考えて護れ!」

 まさかそちらからも怒りが飛んでくるとは思わず、アセルスは一瞬だけ目を
丸めてしまった。いくらなんでも庇われた当人が、庇った人間を責めるのはお
門違いというものだろう。それも庇ってくれたのは、魂は違うとはいえイーリ
ンなのだ。涙を流して感動に打ち震えるべきではないか。
 驚きもつかの間、アセルスはすぐに怒りを取り戻す。
 この淫売はなんて自分勝手なのか。私だって、叶うことならイーリンに身を
挺して護られたいのに。それをはね付けて説教までするとは。
 わがままにも限度がある。やはりこいつだけは許せない。絶対に許せない。

「戯けているのは貴様だ、零姫。貴様等二人揃って、どこまで度し難いのか」

「黙るのは貴様じゃ! 口を挟むな! ……とかげよ、わらわ達の目的を忘れ
たのではあるまいな。イーリンの躰を外≠ヨと導くための脱出口で、そのイ
ーリンの躰を傷付けては本末転倒じゃろうが。二度とこんな真似は―――」

「貴様、私を無視したな!」

 アセルスは、殴るどころか刺し殺しかねない勢いで零姫に食ってかかるが、
二人の間にはとかげが嘯風弄月を構えて毅然と立っている。

「……そこをどけ、とかげ。爬虫類如きに私と対峙する資格があると思ってい
るのか」

 それともまさか、この私と刀で対するつもりではなかろうな。侮蔑を孕んだ
瞳で、アセルスはとかげと―――その背後の零姫を見据えた。

195 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/02/21(土) 22:30:11
>>


 …………あの、なあ……


「ごちゃごちゃ五月蠅えぞてめえら……」

 ったく、揃いも揃って――ああ、もちろん俺もだ、それくらいは認めてやる――手前勝手な
連中ばかりだ。
 後ろの姫さんは「イーリンを護りたい」
 当の俺は「イーリンとリリーを逃がしたい」
 それと……めんどくせ、約一名省略。まあ明後日のほう向いてんのは間違いねえが。
 ……噛み合ってねえな、全く。目の前のバカはもう論外だが、姫さんまでこんな調子じゃあな、
いい加減ぶちぎれるぞ、俺も。

「もう一回はっきり言うぞコラ。この体はもうお・れ・の・か・ら・だ・だ! 俺がどう立ち回ろうが
俺の勝手だ。ああ? 目的? 『俺とあんたで』逃げることだろうが。だってのにあんたが
殺られそうになってんのを我が身優先で見てろってのか? 第一、イーリンだったら自分の身を
優先させたってのか? 違うだろうがそんなもんは」

 イライラに身を任せた勢いで姫さんに説教。つーかまだ痛えもんは痛えんだよクソ。
 まあ、この程度の傷なら止血も治癒もすぐだけどな。そうでもなきゃ、こんな立ち回りするかよ。
 もちろん、だからって頭や心臓までくれてやる気もねえんだが……その辺くらい分かれ、姫さん。
 目の前のバカは知らん。
 
「大体俺だってな、好き好んで死んでやる気もねえよ。この体は全力で『死守』してやる。
あとは適材適所の理屈ってやつだ。あんたを死なせやしねえ、俺だって死ぬ気はねえ。
どっちも生きてんのが大前提なら、前衛後衛はっきりさせて動いた方がいいに決まってんだろうが」

 「イーリン」が大事なのはわかるが、姫さん自身を蔑ろにしちゃ意味がねえんだよ、俺にとっちゃ。
忘れてんのはどっちだ、全く。
 やれやれ、王子様ごっこも大変なもんだな、イーリンよ。
 目の前のバカは知らん。
 
「だからとっとと行ってくれって。せめて下がれ。このままじゃ動けるもんも動けねえだろうが」

 以上、説得終了! あとはチャンバラのお時間だくそったれ!
 
 目の前のバカは知らん。
 ガン無視だガン無視。
 どうせ今まで俺のほうが無視されてんだからおあいこだろうが。

196 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/03/05(木) 08:30:27


 喧嘩には自信がある。反論ならいくらでも用意できた。
 確かに零姫は白兵戦を得意としない。そこらの下級妖魔にすら劣るだろう。
そういう意味では後衛に徹しろというとかげの意見は妥当だ。
 が、いま二人を怒りの視線で貫いているのは妖魔公アセルスなのだ。妖魔最
強の剣客なのだ。彼女を前にして、前衛が誰か、後衛が誰かなどという議論を
するのはあまりにナンセンス。絶望的な力量の差に晒されて導き出される答え
はただ一つ―――対峙した者の敗北と死。
 とかげは論点をずらしている。誤魔化しを用いている。いくら口で「死ぬ気
はない」と言っても、説得力というものが欠けている。この窮地で、どちらも
斃れずに切り抜ける選択肢などというものが本当にあるのか。
 どちらを犠牲にして、どちらが生き残るか。―――優先すべき議論はそっち
ではないのか。

「……」

 とかげは死ぬ気なのか。お姫様を庇う騎士にでもなるつもりなのか。先走っ
た英雄願望の果てに、取り返しのつかない終末を迎えるつもりなのか。
 その程度の男だったのか。

 ―――いや。

 違う。そうじゃない。
 死を願う男だからこそ、死にたがりの魂だからこそ、ここでは死ねないと分
かっているはずだ。こんなところで果てては、彼の最後の拠り所である死
が穢される。妖魔公アセルスは静粛な死さえも許さぬ女だ。

 とかげの横顔を見てみろ。イーリンのかんばせで感情を表現する彼は、いま、
なにを思っている。あの自信に満ちた笑みが、死を受け容れる者のそれに見え
るか。……否、見えない。見えるはずがない。

 なぜ、そんな表情を作れるのか。
 どうして、そんな風に不敵に笑えるのか。

 ―――この大馬鹿者は生き残るつもりなのだ。
 アセルスと一対一で対峙して、それでもなお、希望を捨てていないのだ。
 なんたる傲岸不遜。うつけにも程がある。

「ふっ」

 思わず口から息が漏れる。気付けば零姫の口元にも笑みが浮かんでいた。

「とかげよ。別におまえが死のうが灼かれようが寵姫にされようがわらわの知
ったところではない。好きに料理されてしまえばいい。―――しかし、じゃ。
その肉体はイーリンのもの。その凛々しい横顔はイーリンのもの。一時の借り
物に過ぎぬということ頭に留めて……おまえが死ぬときはせめて、躰だけは護
りきるがよい」

 それともう一つ。そう言って、零姫はアセルスととかげに背中を向けた。

「わらわは自由じゃ。誰の言葉にも従わぬ。自由であるが故に、自分以外の何
人も信用せぬ。……故に、おまえの命令は受け容れぬし、おまえがアセルスを
相手にして生き残るとも思っておらぬ」

 わらわは逃げぬぞ。―――己の言葉と矛盾して、零姫は駆け出した。軽功で
躰を絹のように軽くして、舞うようにその場を離脱する。

 零姫は逃げない。とかげに殿(しんがり)を任せたりしない。
 自分がこの場に残っても足手まといに過ぎない事実を顧みれば、一時撤退し
つつ、この窮地を打開するなにか≠探すのが最良の策……の、はずだ。

 納得できない部分は多々ある。釈然としないことだらけだ。
 それでも零姫は駆けた。胸に燻る不安から目を背けて、自分に言い聞かせた。
 一緒に行くのじゃ。外≠目指すのじゃ、と。

197 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/03/05(木) 08:30:50


「ふむ」

 零姫の後ろ姿を見送るアセルスに、取り立てて焦燥の色は見えない。先程ま
での猛りすらだいぶ沈静していた。いまの彼女は醒めている。
 アセルスには自信があるのだ。いま零姫を逃がしたところで、どうせすぐに
補足できると。―――なにせ、ここはアセルスの世界であり、アセルスの胎内
なのだから。どこまで逃げようと、手中からこぼれ出ることは不可能だ。
 ならば精々、無様に足掻け。

 いまはそれよりも、優先して片付けるべき問題がある。

「とかげ……」

 妖魔の魔眼が転生無限者をきっと射貫く。
 雑魚と決めつけてきた相手に。零姫をゾズマの結界から燻り出すための道具
としか見なしていなかった相手に、ここまで邪魔される屈辱は如何ほどか。
 アセルスは静かな怒りをたたえて転生無限者を睨んだ。

「つくづく勘に障る男だな、貴様は。あの時もそうで……いまはあんな淫売に
味方し、挙げ句、この私と一対一で対峙するだと? 思い上がりも甚だしい。
いい加減、存在自体が鬱陶しくなってきたぞ」

 零姫をいたぶるために用いていた装飾短剣の切っ先をとかげの鼻先に向ける。

「いいだろう。願い通り貴様を殺してやるから、さっさとかかってこい」

 不愉快げにアセルスは言う。朱い月光に晒されて、刃が血色にきらめいた。

198 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/08(日) 21:32:42
>>

 ……ったく、やっと行ってくれたか。それにしたって命令がどうのこうのって、七面倒くせえ
科白並べ立てやがって。……自由、な。こちとら自由だった記憶なんぞほとんどありゃしねえ
ってのに。
 本当に好き勝手言ってくれるぜ。俺が生き残ると思ってねえだと? 知るかんなもん。
 どうせ死ぬときゃ死ぬ。それでいて死ねやしねえ。ならば死など恐れやしない。
 死中に活を見いだす、だ。相手がこの色ボケ妖魔公だろうが、関係ねえ!
 
 ともあれ姫さんは行ったんだ。これで思う存分に動ける。
 向けられた短剣から目を離さず、間合いを計る。
 鯉口を切りつつも剣は抜かず、間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る。
 間合いを計る――――
 
 
 
 だけ、だ。
 
 け、かかってこいだと? 馬ぁ鹿、誰がわざわざ殺されに行ってやるかよ!
 業腹だが確かに姫さんの言うとおりだ、俺の剣なんぞ所詮我流、こいつと真っ向斬り合って
勝てようなんぞ思っちゃいねえよ。
 だが、別にこいつに「勝つ」必要なんて無いんだからな。
 防戦一方、それで十分だ。その為に姫さんを逃がしてんだ、姫さんの出来る「助太刀」を
期待して……な。

 ああ、全く我ながら馬鹿げたやり方だ。希望観測が強すぎて、まるでまともな戦法じゃねえ。
 だが「死中に活」なんてのは所詮そんなもんだ。理屈じゃねえ。悪あがきにこそ、活路は
あるもんだ。
 ましてや俺はとっくに死んでる。本当の死が来ないからこそ、死ぬことには慣れている。
 そんな俺が「生き延びてやる」と言ってるんだ、ならば死中に活、見いだせるに決まっている。
 
 どこまでだって悪あがいてやる。死んでも、時間を稼いでみせるさ。

199 名前:あせるす ◆1kpREIHIME :2009/03/09(月) 04:07:02

 暫くの沈黙が流れた。
 互いに睨み合ったまま微動だにしない剣士二人。
 もしこの場に第三者の人間がいたら、緊張で窒息死していたであろうと思わ
せるほど空気が張り詰めている―――が、それも初めの数十秒だけの話で、ア
セルスがとかげの意図を察すると、緊張は即座に失望と軽蔑に転じた。

 とかげの目的は外≠ヨと脱出することであって、アセルスを斃すことでは
ない。そこに彼特有の賢しさを加味すれば、「待ちに徹する」という結論に至
るのは当然のこと。彼に剣士の矜恃など期待できるわけもなく、必然、立ち会
いの場における崇高な礼法とも縁がない。
 彼はただ醜く生き足掻いているだけだ。浅ましく生き延びようとしているだ
けだ。所詮は爬虫類。地を這う動物に相応しい考え方だな―――とアセルスは
口を歪めてせせら笑った。

「死にたがりの貴様が、死にに来ないというのなら―――」

 一回転、二回転と手の中で短剣を器用に踊らせてから、改めて切っ先をとか
げへと向ける。

「―――私から殺しに行ってやる」

 瞬間、風景はコマ送りに変ずる。ただの一度の踏み込みで、二人の距離は肉
薄する。転移の魔術でも用いたかのようなスピード。突き出された刃は見惚れ
てしまうほどに無慈悲で、吐き気を催すほどに容赦がない。
 紫電の如き突きだった。雷光にも等しき疾さだった。
 狙いは心の臓―――アセルスには、無駄にイーリンの肉体を傷付ける意図は
ない。刃に篭められた呪いで、とかげの魂を魔術の鎖でがんじがらめにしてし
まえば、それで決着はつく。

200 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/11(水) 00:54:21
>>

 ふん、どうぞ存分に笑いやがれ。どうせ望まぬ生、どう生きようがどう死のうが俺の勝手だ。
 ましてやこんな真似、柄じゃねえのは先刻承知。好き好んで切った張ったしてたまるか。
 
 短剣の切っ先が再び向く――ち、もうやる気になったか。
 だがどう来る。
 ……斬りつけてくることはねえだろう。明らかに奴の分が悪すぎる。そもそもこいつは、俺など
とっとと片付けたいところだろう。ならば一撃必殺か。
 もっとも――俺の『心臓』は、別にあるようなもんなんだがな。
 
 
 果たして――――転瞬!
 
 
 俺もまた、奴に対し踏み込んだ。
 俺のほうが遅い? 構わねえ。
 案の定、左胸を狙ってきた短剣は逸れ、腕を掠め切り裂くが、それも構わねえ。
 構ってる暇はねえ。
 
 踏み込み――抜き打ち、払い抜け。
 「居合い・後の先」などとはおこがましくも――交錯する。

201 名前:あせるす ◆1kpREIHIME :2009/03/13(金) 00:29:57


 神速の刺突に対して、臆することなく前に進むなんて。
 根性だけは座っているのか、それとも恐怖や危機感が麻痺してしまうほど生
き疲れているのか―――果たしてとかげの狙い通り、アセルスが突き出した短
剣の切っ先は彼の腕の皮を裂くに留まった。

 ちっ―――と妖魔公は小さく舌を打つ。
 まさか私の突きをかわすとは。相手を侮りすぎたか。

 タイミングを合わせてとかげが抜刀する。
 アセルスの油断が生んだ隙に、うまくつけ込むかたちになったが―――間合
いの見切りに始まり、剣の冴えも、技のキレも、足の捌きも、彼の一太刀は何
もかもが稚拙だった。剣術と呼ぶにはあまりにも大胆で乱雑だ。野良犬に相応
しい喧嘩技でしかない。
 深く踏み込み過ぎたため、いまのアセルスはとかげに対して半身を無防備に
晒してしまっている格好だが、それでも余裕をもって捌ける自信が彼女にはあ
った。一度はとかげに勝利した身だ。彼の力量は分かり切っている。
 勝負にならない。

 ―――そのはず、だったのだが。

「っ?!」

 とかげが構える赤鞘の鯉口から閃光が迸った。
 少なくとも、アセルスにはそう見えた。

 白刃が鞘走り、〈針の城〉の闇に銀光の刀傷を残す。
 その一閃は、粗野であるが故に原始的な優美さを兼ね備えていた。
 虚飾とは無縁の純粋な一刀。
 危うく見惚れるところだったが、アセルスの剣士としての才覚が理性とは切
り離された部分で無意識に躰を操り、音速の勢いで後方に飛び退かせた。
 ただの一瞬でとかげの刃圏から脱出してみせたアセルスは、目を剥いて彼が
構える刀を睨んだ。その表情にはもはや不遜な余裕は微塵も窺えない。

「……そうか」

 呻くように妖魔は言う。

「それはゾズマの獲物だったか」

 道理で疾いわけだ。

 アセルスは、自嘲じみた笑みを口元に浮かべ―――

 そして、短剣を地面に落とした。
 彼女の、右腕ごと。

 とかげの抜き打ちの一刀は、アセルスの胴こそ薙げなかったものの、右腕の
肘から先を見事に断ち切っていた。致命傷には程遠いが、確実なダメージであ
ることには間違いない。とかげがついに一矢報いたわけだ。

 切り口から青い鮮血が噴き出し、地面に転がるアセルスの右腕に降りかかる。
 若き妖魔の君は、その光景をどこか他人事のような目つきで見下ろしていた
が、瞬きを二度と三度と繰り出すと、ようやく瞳に怒りらしい感情が灯った。

「……屈辱だ」

 呪詛のような呟き。
 否、それは本当に呪いの言葉だったのかもしれない。
 アセルスの一言に応じるかのように〈針の城〉の闇が蠢いた。線路や機関車
の残骸に密生していた荊が、やにわに騒ぎ始める。ぎちぎちと音をたててアセ
ルスの周りに集い、ついには彼女の右腕があった部分に巻き付いた。 
 ―――茨の義手、というわけだ。

 細い茨が何重にも巻き付いて作られた五指が、開いては閉じられる。
 悪くない感触。アセルスの世界で創られ、アセルスの魔力で編まれた義手な
のだから、馴染みがいいのは当然か。

「―――とかげよ」

 彼女は静かに呼びかける。

「そんなにも私と刃を交えたいというのなら」

 その願い、叶えてやろう。

 茨の義手が柄を掴み、右手に提げた鞘から引き抜かれるのは、いまはとかげ
が構えるゾズマの愛刀嘯風弄月≠ニ並び立つ稀代の神刀。
 この世でもっとも気高く、清廉なる無垢の刃。

月下美人≠ェ、紅い月の下に咲き誇った。

202 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/15(日) 22:12:22
>>

 いくらどうでも、何等かの傷を負わせられればつけいる隙もあるだろう。
 奴にあんなナマクラ短剣ではなく、例の刀を抜かせたところで、ダメージと合わせてトントンだ。
 ……その様にも判断した上での、斬り込みだったが。
 
 クソ――完全に裏目に出やがった! 腕を落としても意味がねえってかよ!
 デタラメにも程がある……それであの刀まで抜かせてりゃ世話もねえぞ。
 ましてやこちとら、空鞘手持ちのせいで片手持ちにせざるを得ねえってのに……
 
 どうする。
 実際どう動く。
 再び納刀……は、意味がねえ上に無理だ。抜刀なんぞは初速が全てだし、向こうが短剣
だからこそ、踏み込める意味があった。刀と刀ではメリットがねえ。第一、収める隙など奴が
くれるものか。
 このまま抜き身でやり合うしかねえが……斬り込んで互角に出来る相手とも思っちゃいねえ。
今度こそ本当に、防戦一方か?
 ……抜刀の勢いで畳みかけてた方がまだマシだったかも知れねえな。少し、臆しすぎたか。
 結果がこれでは、奴の怒りに油を注いだだけで……
 
 あー、くそ、めんどくせえ!
 
 
「は、刃を交えたい? 俺を殺りたい、の間違いだろ? 本当にてめえに殺されてたなら、
いっそそのほうが楽だったけどなあ! どっちにしろ、お門違いだろうがな。
それとも何か? こんな年端も行かねえガキの体、切り刻む趣味でもおありですか?
王子様気取りの色ボケ妖魔公さんはよ!」


 ……徹底的に挑発しきってやらあ。頭に血、上らせてやる。
 これで必殺狙いに来てくれたほうがまだしも御しやすい……はずだ。たぶん。
 後はこの剣と鞘と身躱しで、捌ききるしかねえか。
 
 イーリンを人質にするようで気は退けるが……済まねえな、本当。

203 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/03/19(木) 00:58:26


 悪足掻きのように思えるとかげの挑発だが、アセルスが相手の場合、使いど
ころを間違えなければあながち見当外れの行為とは言えなかった。
 なにせ彼女にとって、目下の最大の目的はイーリンの躰の奪取なのだから。
そこを指摘されるのは最大の痛点のはずだ。できうる限り傷付けたくないと考
えている。叶うことならば無傷で手に入れたい。
 その執着の強さは、魔列車を衝突させたとき、イーリンの周囲にだけとかげ
に覚られぬように魔術障壁を張ってしまったほどである。
 壊すわけにはいかない。だから、人質に取られるのは辛かった。

 ―――しかし、それはアセルスが月下美人を構えていなければ、の話。

 とかげは使いどころを過った。剣士としてのアセルスの性質を見誤った。

 妖魔社会の最高位に立つ妖魔の君≠ニして君臨するアセルスだが、その在
り方は限りなく俗人で、常に懊悩、逡巡、葛藤に嬲られて生きている。
 愛するものが人質に取られれば躊躇を覚えるし、挑発をされたら炉の如く激
昂する。良くも悪くも純粋なのだ。

 だが、それはあくまで妖魔≠ニしてのアセルスの在り方。ひとたび愛刀の
月下美人を抜き放てば、そこに立つのは剣士アセルスである。
 剣客としての彼女に迷いはない。あらゆる情念から解放された眼が見つめる
のは、己の生死にすら頓着しない無我の世界。
 月下美人を構えているときだけは、アセルスはアセルスであることを忘れる
ことができた。ただの名も無き剣士として、戦場に立つことができた。

 この瞬間、とかげと相対しているのは妖魔公アセルスではなく月下美人
という一振りの大刀―――と考えれば、いまの彼女に挑発などまったく通用し
ないことは、分かりすぎるぐらいに分かるはずだ。
 人は多情だが、剣は無情。いまのアセルスには、如何なる言葉も響かない。

 針のように細かく尖らせた集中力が、無言の気合いとともに炸裂する。
 踏み込みが無音ならば、刃が風を断つ音すらも無音。絶対的な静寂を乱すこ
となく放たれた右斜めからの斬り込みは、寸分違わずにとかげの鎖骨へ飛んだ。
 ただの袈裟懸けと呼べばいくらでも捌きようがあるかのように聞こえるが、
刃の疾さは尋常ではなく、音はおろか殺意すらも置き去りにしている。

 ―――この一太刀こそ、妖魔剣術が呼ぶところの心形剣≠ナある。

204 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/19(木) 23:32:59
>>

 ――あ?
 
 あ、
 やべえ、
 こいつ、表情が消えやがっ
 
 
 ……思わず剣を構えるも、反応できたのはそこまでだった。
 俊速の袈裟斬り。
 運良くも構えた剣にぶつかるも、それは世辞にも「受け止めた」とは言い難く、
火花散らして奴の刃は刃を滑り落ち、鐔が受け止めるも斬撃を殺しきれるはずもなく――

 ――俺の無謀の代償として、右腕を切り落とし。
 
 
「――――ぁああああああああああああっ!!」


 俺の、いやイーリンの喉が、イーリンの声で、絶叫を上げる。
 その声に突き動かされ、半ば本能的に、左手の鞘を突き入れる。
 剣を振り抜いた奴の横っ腹へと。
 
 
 ……くそ、くそくそ畜生! こいつ本当に俺を、イーリンの体を斬りやがった!
 冗談抜きに絶体絶命じゃねえかクソ!
 どうする、左手の鞘なんぞで戦えるわきゃねえぞ、鞘捨てて左手で剣を拾うか、それとも――――

205 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/03/20(金) 19:27:03


 普段ならば返す刀で首を刈りにいった。そうはしなかったのは、これが殺し
合いを目的とした立ち会いではないからだ。
 腕を切り落としただけで勝負はついている。それは、イーリンの躰を無駄に
傷付けたくないという思い以上に、とかげの転生≠招きたくないという意
図があったから。ここで彼を逃して大いに禍根を残すのは面倒だ。
 零姫との因縁も含めて、二人の無限転生者との決着は、絶対にこの〈針の城〉
でつけなければならない。

 ―――が、だからといって手加減をするつもりは微塵もなく。

 事実、とかげが反射的に突き出した鞘のこじりに対しても、アセルスは冷静
に対処した。冷静に―――なにも、しなかった。
 鞘といっても鉄拵えである。人外の膂力で繰り出せば、肋骨を砕き、肉を抉
る程度の威力は秘めている。アセルスほどの達人ならば、刃で払うことは不可
能でも紙一重で避けることはできたであろうに―――無抵抗と思われかねない
ほど従順に、とかげの反撃を受け容れてしまった。

 それは、特別に抵抗する理由が無かったから。

 鞘の尖端がアセルスの脇腹を抉った瞬間、とかげも違和感に気付いたはずだ。
 鞘越しに伝わるのは、肉を打つ感触ではない―――と。

 いつからだろうか。いつから、そこにアセルスはいなくなかったのか。
 虚ろと現(うつつ)が混濁した世界で、彼女を個体として認識するのはどだ
い不可能な話。この〈針の城〉そのものがアセルスであるのだから、目に見え
るアセルス≠討とうとしたところで―――まやかしばかりが残るだけ。

 月明かりの角度が微妙に変じ、事実が露呈する。
 幻が晴れた先には、渦を巻くように密生して佇立する茨の塊。
 まるで、茨でできた案山子のような風体。
 とかげが鞘を突き入れたのは、アセルスの変わり身だった。

 驚愕の暇を与えず、茨の案山子が蠢く。
 突き込まれた鞘に自ら体重を預けたかと思うと、抱きつくように崩れ落ち―
――あっという間に、とかげの全身に絡みついた。
 茨の拘束である。
 棘という棘が衣服を破り、白い肌に食い込む。
 赤い滴が蔦を濡らし、茨は歓喜に奮えた。

 それを嬲るような目つきで眺めるのは、妖魔公アセルスそのひと。闇から生
じた彼女が本物なのか、またしても幻影なのか、判別をつける手段はない。

 月下美人を地面に突き立てると、代わりにとかげの――いや、彼女に言わせ
ればイーリンの≠ゥ――右腕を拾う。
 切り離されてなお強情に構える嘯風弄月を引き剥がして投げ捨てると、半端
な角度で広げられた人さし指を自身の唇に導き―――優しく口に含んだ。

 口内でイーリンを感じるアセルスの表情に、恍惚が広がる。

 アセルスがシャオジエ≠演じていたとき、定期診療という大義名分のも
と、眠りに耽るイーリンの肌に幾度となく指と舌を這わせた。罪悪感に苦しみ
つつ、卑怯者めと自責しつつ、衝動を殺しきれずに肌を重ねた。
 あの頃、アセルスは悩んだ。零姫への憎しみをとるか、イーリンへの愛をと
るか、葛藤に心を荒らされた。
 しかし、いまやもはや零姫は篭の鳥。二百年近く続いた因縁にも決着がつこ
うとしている。零姫さえいなくなればイーリンは自由だ。彼女を利用する必要
はなくなり、この閉じられた世界で、一緒に永遠を過ごせるようになる。

 ―――この瞬間、イーリンの右腕が私の手の中にあるように、間もなく彼女
のすべてが私のものとなり、私と融け合い、私そのものとなる。

 そのためにも零姫を追わなければ。
 いつまでも爬虫類などと戯れている場合ではない。アセルスの目的はあくま
で零姫との決着。オルロワージュの血を継ぐ者は、この世に二人も必要ない。

「貴様は暫くそこで悶えていろ」

 アセルスは冷たく言い放つと、とかげに背を向けた。

206 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/21(土) 00:51:18
>>

 ……最悪の気分だ、なんてのは一体何度目だよおい。それでも、最悪には違いない以上、
否定する必要もないが。

 腕を切り落とせば速攻で腕を作り、かと思えば一転、全身これ現身と来たもんだ。
 今しがたこっちの腕を切り落としておきながら、その身を荊の塊に転じてやがったとか、デ
タラメここに極まれり。おかげでこちとら全身拘束。荊でぎちぎち。あっちもこっちも棘だらけ。
服はボロボロ、傷物だ。当然のように体中が痛え。もちろん右腕はそれ以上に痛え。全く何が
絶体絶命だ、この有様は、真っ当な勝負などとはほど遠い。
 だがそんなことさえ……ガキくせえイーリンの体を傷だらけにされたことさえ、「最悪」の理由
にはまだ足りねえ。この痛みだって、それ自体は俺のもんだ。慣れていると言えば慣れている。
 問題は、そんなことじゃねえ。
 
 
 ――右腕を、盗られた。
 イーリンの右腕を。
 この俺の眼前で。
 右腕を。
 指先を。
 腐れたツラして。
 
 
 怖気が走る。総身が寒気に冷え切り、激痛と言っていいはずの痛みさえ一瞬忘れる。
 
 ……俺は知っている。こいつがイーリンに生前、何をしてくれていたかを。
 ようく、知っている。
 むしろイーリンが眠っていたが故に、俺の存在は普段より浮上していた、と言ってもいい。
 だから何をされたか、よく覚えている。
 
 
 …………腐れ外道が。
 
 
 悲痛なツラして、それでも愛おしそうに、イーリンを愛撫。
 馬鹿馬鹿しい、巫山戯るな、全ての元凶。てめえに「悲痛なツラ」など浮かべる資格はねえ。
ああ? ご丁寧に、聞こえずとも構わず愛の言葉まで。一体どの口でそんな台詞を吐きやがる。
その所作は確かに繊細だった。端っからてめえでぶち壊しておきながら、だ。
 独善、文字通りのひとり「よがり」だ。自分でこの境遇に堕としておきながら、真摯に、真っ直ぐに
愛を語る? 全く気違いじみているとしか思えねえ……
 ましてや、この眼前の光景をや……だ。
 
 もちろん、俺のことだってイーリンは知りもしねえ。独善というなら俺も確かに独善だ。
 ただのエゴだ。
 俺の前で、魂って奴を冒涜するような真似が心底不快だってだけだ。
 虫酸が走る。こいつみたいな外道にゃ髪一本だってくれてやるわけにはいかねえ……まして
右腕を、なんぞ……

 だが現実として、どうにもならねえ。
 俺如きがどれだけ呪詛を送ろうが、奴に効く気配もねえ。
 奴は右腕を、イーリンの右腕を、まるで宝物のように、或いはお気に入りの玩具のように、
大事に抱えて背を向ける。もう声でも張り上げる以外に術はない。
 返せ、返しやがれ、それは俺のもんだ、俺が弔ってやると決めたものだ……その様に訴えるか?
聞く耳など持ちはしないだろう。いくらイーリンの声音だろうと……

 ……イーリンの、声音?
 …………そう、か。……ええい!

207 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/03/21(土) 00:51:48
>> 続き







「――――シャオ、ジエ? あたし……どうなってんだ? あたしの腕、どうしちまったんだ?
なあ、シャオジエ!」







 ――振り向けよ、「シャオジエ」。てめえに塩を送ってやるぜ。
 振り向けば、てめえの眼に映るはずだ。
 頬から胸元にかけて這う蜥蜴の刺青。
 片方の……「まともだったはず」の眼をつむり、もう片方の、金色の爬虫類の眼で見上げる、
燃えるような赤毛の少女の姿が。
 てめえの愛してやまない少女の姿が。
 「“火蜥蜴”のイーリン」の姿が。


 ふと、思いついた手段。文字通りの「最後の手段」だ。
 「魂を冒涜」というなら、こんなやり方は大概だろう。行きずりの死体に憑いているってん
ならいざ知らず、何年も見守ってきた人間の演技をしようなんざ、こんな俺だって気分良く
出来るはずがねえ。
 だからこそ――最後の手段たり得る。苦し紛れで破れかぶれだが、成功の可能性がある
なら賭けるしかねえ。こんな真似をしてでも、取り戻さなくちゃならねえ。

 俺は目的を違えない。
 「イーリンとリリー」を逃がす。この腐れ外道の魔の手から解放させる。
 例えあの右腕一本だって、残していけるわけはねえ。ずっと人の死を見続けてきた俺だ
からこそ、遺骸は換えの効かないものだとよく知っている。
 その為には手段を選ばん。何をしてでも取り戻す。
 
 振り向け、振り向け……こっちへ来い。
 ギリギリまで、演じてやる。

208 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/04/18(土) 18:43:08

 気付けば、軽功に頼らず自分の足で駆けていた。

 心の乱れが彼女から功夫を奪ったのか。
 生まれ落ちてから今日まで〈火焔天〉を離れたことなど数える程度しかなく、
その移動手段も転移に頼り切っていたリリーの躰には酷すぎる運動量。
 瞬く間に息は切れ、膝は笑い―――蔦にけつまずいて、零姫は地面に倒れこ
んだ。すぐにでも起き上がるべきなのに、思考が全身に行き渡らない。
 絶望が鉛となって小さな背中にのし掛かる。

 わらわは逃げぬ。必ず戻ってくる。―――そう、誓ったのに。

「なにも、見えぬ……」

 この昏い世界。妖魔公の傲慢と欺瞞で澱んだ闇の海で、たった一筋の光明を
求めて走ったのだが、アセルスの兇刃からイーリンを護る手立てが見つかる気
配はなかった。
 別に伝説の名刀を求めているわけではない。失われた古代の魔術を探してい
るわけでもない。アセルスの世界≠ノ罅を入れることができる概念の刃が欲
しいだけなのだ。この〈針の城〉の支配者の自我を揺るがせられるのであれば、
一本の縫い針でも構わない。

 けれど―――常に監視されているかのような不快感は、零姫が未だにアセル
スの掌の上にあることを示している。敵に利するような要素をあの女が世界
に残しておくわけがない。

 途方もない無力感が、意思の輝きを曇らせる。

 逃げたどころで無駄な足掻きでしかなかった。とかげと組んだところで外
になど行けるはずがなかった。
 勝敗は、ゾズマの結界が破れたときについていたのだ。あの紅の魔人すら十
年越しの闘争に敗れたのだ。逃げ回ることしかできない自分になにができる。

「なんと―――情けない」

 イーリンには手を差し伸べられるばかりで、自分から彼女にはなにもしてや
れなかった。とかげは危険を顧みずに護り抜こうとしてくれているのに、自分
はこうして地面に這い蹲ることしかできない。
深窓の少女≠気取るには泥だらけの衣装と傷だらけの躰が、容赦なく心を
苛んでくる。―――おまえは誰にも愛される資格などない、と。

 千年を生きてもこれか。
 永遠の転生を約束されても、この体たらくか。
 どうしてわらわは。
 どうしてわらわは―――

「……失うことしか、できないのじゃ」

 頬を伝い、唇へと流れた涙は―――絶望の味がした。

209 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/04/18(土) 18:43:34


 ―――その声は、アセルスから一切合切の理性を奪い去った。

 冷静に考えば、生命を停止したイーリンが魔術的な処置もせずに戻ってく
る≠アとなど絶対にあり得ないし、もしも意地の悪い奇蹟がそういった冗談を
見過ごしたとしても、イーリンの知るシャオジエとアセルスは容姿が違う。
 ゾズマやIRPOの目を誤魔化すために彼女は寵姫の影を借りたのだ。イーリン
が尊敬する姉≠ヘ、機関車の残骸のどこかに埋もれている。
 ここには、いない。

 しかし。
 愛情に理性を殺されたアセルスにそんな理屈が通じるはずもなく―――

「イーリン!」

 我を見失って振り返った。

 こんなカタチでの出会いは想定していなかった。アセルスとイーリン≠ヘ
もっと運命的に出会うはずだった。……イーリンの黄泉返りとは、アセルスの
心象風景に取り込み、魂を融け合わせることを指していた。
 なのに。

世界≠ェ揺らぐ。
世界≠ェ軋む。
〈針の城〉がアセルスそのものである以上、彼女の動揺は世界≠ノとって大
震災に等しい。立ちこめていた闇は薄れ、無限に増殖する茨は冗談のように呆
気なく枯れ果て、砂となって消えてゆく。
 とかげを拘束していた茨の鎖も例外ではなく、やせっぽちの少女は解放され
て地面に崩れ落ちた。アセルスは慌てて駆け寄り、肩を貸そうとしゃがみ込む。

「ほ、ほんとうに……」

 上ずった声で紡ぐ言葉は、ひどく場違いに聞こえた。

「君はイーリンなのか」

 アセルスの動揺は一瞬だった。単純な彼女の心象は、既にショック状態から
抜け出し、いまは熱い衝動に突き動かされている。
 もしも本当にイーリンが戻ってきたのならば、これに勝る悦びはない。
 想いの力がイーリンを呼び戻したのだ。

「この腕は……そう、君の指輪のサイズを知るために、ちょっと借りたんだ」

 そんな言い訳を紡いでいる間にも、〈針の城〉の闇は深まり、茨は湧き水の
ように茂り、元の姿を取り戻す。

 たった一瞬の動揺。
 たった一瞬の亀裂。
 ―――しかし稀代の魔女≠ナある彼女にとって、その一瞬は永遠にも等し
い好機だった。

210 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/04/18(土) 18:43:47

「とかげめ、やりおったな!」

 どんな手を使ったかは想像もつかないが、あのアセルスの頑なな世界≠
一瞬と言えども揺るがせた。絶対的な支配を打ち消した。
 この一瞬ならば―――零姫の力が通じる。運命さえも操るが故に、忌み子と
してクーロンの死神と成り果ててしまったリリーの魔力が通用する。
魔女≠フ本懐を発揮できる。

「吹けよ風! 急急如律令!」

 運命の風が、功徳とともに零姫の矮躯を運ぶ。茨の苗床と化したペンシルビ
ルの森を切り抜け、闇を裂き、運気が導く先にあるものは―――
 
「な、なんじゃこれは……」

それ≠ヘ〈針の城〉の象徴ともいえるコンクリートジャングルに打ち捨てら
れていた。まるで屍のように放置されていた。
 確かにリリーは、それ≠ノ跨るイーリンの姿を幾度となく霊視した。けれ
ど、いまこの絶体絶命の窮地を打開する概念武装として、なぜそれ≠ェ選ば
れたのか。なぜそれ≠ナなければいけなかったのか。
 功徳の導きとはいえ、零姫には理解できない。

 ……そもそも、彼女に扱えるのかも分からない。

「ええい! 躊躇しておる暇はないか」

 挫けかけた希望の柱を、とかげが支えてくれたのだ。
 この好機、絶対に逃すわけにはいかない。 

211 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/04/23(木) 23:23:53
>>

 ――上手くいった。
 上手くいきやがった。
 上手くいってしまった。

 そんな、快哉と若干の後悔がない交ぜのこの心境は、だが、奴の目の前では
おくびにも出すわけにはいかない。

「は、指輪……? 冗談きついぜ、そんなんで腕ごと持って行く奴があるかよ。
いくらあたしが“火蜥蜴“だからって、尻尾みたいに生え替わるってわけにはいかないんだぜ?」

 慎重に『台詞』を紡ぐ。俺が何年も何年も見続けてきた少女のそれと違わぬように。
 イーリンに悪いことをしている、そいつは分かっている。だが今となってはこれしか手だてがねえ。
 低級霊や式神相手とはわけが違う。ろくすっぽ武器も技能もねえ。
 唯一持ってた、例の刀は奴の向こう、地面に向かって聖剣よろしく……だ。
 抜く機会を、抜いて追い払って逃げる機会を作るためには……藁にもすがる、というもんだ。
 ……くそっ!
 
 台詞を選びつつ、握りっぱなしだった鞘を杖代わりに、ようよう立ち上がる。
 全身拘束の直後、おまけに片腕無くしてる……とはいえ、立ち上がるのに支障はない。
 体じゅうが棘痕で痛むのはまあ我慢。
 鞘を手放したくないので手は借りない。
 まあ、借りること自体後免被るってもんだが……
 
「で、シャオジエ。腕もだけど状況説明くらい寄越してくれたっていいだろ?
一体何が起きてどうなってんだよ、まったく……シャオジエも随分なイメチェンしてるしさ。
何だ、クーロン娘の次は王子様ごっこか?」

 これでいいのか、いけないのか、手探りのまま台詞を続ける。
 時間稼ぎだ、時間稼ぎ……何か、切り抜ける手段は、瞬間は、現われやしないか。
 右も左も分からない振りして辺りを見回し、耳を澄ませる。五感を研ぎ澄ませる。
 それでいて会話も続けつつ、だ。器用な真似だが、続けるしかない。
 
 
 
 
 
 ――――聞き慣れた、だがこの場で聞こえるはずのない音が聞こえてきたのは、その時だった。

212 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/05/18(月) 23:05:11


 ―――それは世界の果てから轟いた。

 少なくともアセルスはそう感じた。

 ぱぱぱぱぱ―――、と。
 空気でぱんぱんに膨らませた袋を連続して破裂させたかのような、軽い音。
 無機質でどこか間が抜けている。
〈針の城〉で耳にする音ではない。こんな異音、私は知らない。私は関知して
いない。私の世界には含まれていない音だ。
 どこから聞こえてくる。どうして聞こえる。
 アセルスは狼狽した。目に見えて戸惑った。この瞬間、愛おしきイーリンの
ことさえも忘却した。―――〈針の城〉の支配者として、認めてはならない事
態が起こりつつある。私の世界で、私の知らない音が鳴るだなんて。

「なんだ、なんなんだこの音は!」

 聞き慣れない音が響いた程度でなにを脅えるのか。そう、ひとは嘲笑うかも
しれない。しかし、ここはアセルスの世界で、アセルスの胎内で、アセルスそ
のものなのだ。すべてが自己≠ニいう調和に満たされているはずの空間で、
己の与り知らぬ異音が聞こえたならば、誰もが戸惑いを覚えるだろう。
 まして彼女は、この〈針の城〉に絶対の自信を抱いているのだから。

 なにを見落とした。どこで間違った。
 ……アセルスには分からない。
 ゾズマに幻魔を突き立てたとき勝利を確信してしまった彼女には、いまなぜ
自分が不明の状況に陥っているのか理解できない。

 音はまっすぐにこちらへと向かってきている。分かるのはそれだけだ。
 異音の正体は見えないし、視えない。アセルスが戸惑うことによって生じた
空間の綻びを的確にすり抜けている。

「なにが、」

 ぎり、と奥歯が軋む。同時に、世界≠覆う闇も緊張で張り詰めた。

「なにが起こっているんだ―――?」

213 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/05/18(月) 23:06:17
うむ! この隙に容赦なく月下美人を奪ってぶった切ってしまえい!

214 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/05/18(月) 23:44:10
>>

 ここにきて狼狽する奴の前で、俺自身はと言えば、その“音”の正体に気づいていた。
 よもや、というか、まさか、というか……場違いな音には違いないが、しかし間違いはねえ。
ある意味、とんでもないもんを姫さんは拾って来ちまったようだ……やれやれ。
 ま、本来のその音に比べりゃ、随分と危なっかしいけどな。
 
「あん? どうしたのさシャオジエ? つーかあたし無視か?」 
 
 ……ふん、どうやら本当にこいつには分からねえか。まあ、無理もないだろうがな。こんな
ことまで、知っていようはずが無い。
 ああそうとも――イーリンについて、てめえの知らないことなんざ山ほどあるってもんだ。
 幻想に耽るだけの馬鹿なてめえが知らないことがな。
 
 ――音はどんどん大きくなってくる。近付いてきている。
 じゃあ、俺はどうする? このまま演技を続けるか?
 もちろん答えはNO、だが……しかし実際何が出来る。頼みの剣まで、届きそうもないのは
相も変わらずだ。だが来るのを待ってるだけじゃ、せっかくのチャンスを棒に振りかねないのも
また確か。かといって素手でどうこうできるとも思えねえ。
 クソ、やっぱり八方塞がりなのか? イーリンの演技なんて真似までして、このザマか?
 ああ、せめてもうちょい剣が近くにありゃ……
 
 
 あ?
 
 
 いや……そうか、よし。
 
 
「はは、なんだよシャオジエ? そんなにこの音が気になるのか? 別に大したもんじゃねえだろ。
そりゃまあ、失くしたら大変なもんだったけどさ。どうやら届けてくれるみたいだ。助かったぜ」

 半分は既に、演技ではない……かもな。
 大体、こうなりゃこいつの反応なんぞもうどうでも良いからな。必要なのは機会を探ること
だけだ。狼狽から立ち直らせる前に、片を付ける。
 音はだいぶ大きくなってきた。もう、一押し。
 
「しっかしもう少ししっかりやってほしいけどなあ。ま、あいつじゃ仕方ねえか。
……まだわかんねえ、ってツラしてんな。この音はさ」
 
 
 
 
 
 
「――――『俺ら』の脱出の合図だ!」
 
 
 
 
 
 踏み込む。
 “生やした右腕”で、“月下美人の”柄を掴む。
 そう――奴の剣を!
 
 「尻尾みたいに生え替わらない」、確かに俺はそう言ったが――は! 大嘘だ!
 皮膚までいちどきに再生とはいかないが、生やすまでなら出来る。痛覚が剥き出しでも、
剣を握って斬り払うぐらいはしてみせる!
 そして得物は目の前にあった、ってわけだ! 斬られて貰うぜ、王子様よ!
 でもってもう一本、嘯風弄月を、こいつは左腕で――!

215 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/05/18(月) 23:45:27
ここに来て二刀流をせんとする

脳内にあるのは(なぜか)絶対に負けないヒーローなのはここだけの話。

216 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/09/03(木) 21:36:06



 まずは一閃、裂帛の斬撃。その軌跡に重なるようにして逆袈裟が一太刀。
 神刀二振りによる十字の剣閃は、型破りに乱暴でこそあったものの、刃を振るう者の
拓けた未来≠ノ対する希望を、不屈の精神を、真摯に描写していた。
 暴力と呼ぶにはあまりに感傷的な十文字の刃。―――吃驚と焦燥に我を失っていたア
セルスは、殺気を気取ることすらできず、正面から剣閃を浴びた。
 自分の左腕が落ちて、初めて彼女は自分が斬られたことに気付く。

「な―――」

 なぜ、私は斬られた。
 なぜ、イーリンは私を斬った。
 なぜ、彼女はそんな野蛮な表情を作っている。
 なぜ、なぜ―――

 呆然事実とはまさにこのこと。訳も分からぬまま親から平手打ちを食らった童子のよ
うに、アセルスはきょとんとした目つきでイーリンを見つめた。
「どうして……」と暗に語る魔眼が徐々に強張っていく。現実から目を背けようにも、
刀痕から流れ出す蒼血が逃避を許してくれない。
 ―――問いかけるまでもなく、答えはひとつしかなかった。

「……なんて、コト」

 要するに、彼女はイーリンではなく。
 こいつは初めから私を謀るつもりで。
 つまり、私の愛念を逆手に取った―――道化。

「そ、んな―――」


 ……とかげが追い打ちの太刀を用意しなかったのは、先の十文字の必殺を信じていた
からなのかもしれない。月下美人と嘯風弄月―――いくら妖魔の君といえども、なんの
防御もせずに正面から浴びれば致命傷は免れない、と。
 事実、アセルスは重傷だった。左肩から胸にかけて刃が通り抜けた。左手は二の腕か
ら斬り落とされ、胸の疵は心臓にまで達している。
 この世界≠ナの初めてのダメージらしいダメージが、まさかそのままゲームの終わ
りを告げる合図になろうとは。彼女の肉体と心の均衡が崩れたいま、針の城≠フ浸食
もキャンセルされるに違いない。―――違いないはずなのだが。

 アセルスは怒りで道理をねじ曲げた。敗者の法則を撥ね付けた。

「貴様……分かっているのか」

 自分が禁忌を侵したことを。
 もっともやってはならないことを、してしまったことを。
 この私の愛情を無惨に踏みにじったことを。

 私は、本当に―――

「喜んでいたんだぞ!」

 血の泡を吐きながらとかげに飛びかかる。
 半死人の抵抗……と侮るなかれ。月下美人が奪われたとしても、アセルスにはまだ幻魔
がある。この針の城≠ナもっとも醜く、もっとも利己的な―――つまり彼女自身に等し
い、恐るべき魔剣が。
 
 闇に手をかざし、距離の概念を歪めて、虚空の鞘から幻魔を引き抜―――けない。
 柄に手をかけられはするのだが、こっち側≠ノ持ち出すことができない。
 ―――火炎天≠ナ、シャオジエ/アセルスはイーリンを使って〈紅の魔人〉の胸に幻
魔を突き立てた。深紅の刃は、未だに彼の心臓に噛み付いたまま離れていない。
 離れてくれない。

「ゾズマ……!」

 彼は、自身の心臓を鞘に見立てて幻魔を封印しているのだ。
 アセルスは確かに霊視した。火炎天≠フ書棚で、脂汗を滝のように流しながらも涼し
げな笑みを消そうとしない上級妖魔の姿を。
 
 月下美人は奪われ、幻魔は封印させられた。
 妖魔の君の象徴ともいえる二つの刃をいっぺんに失ったアセルスは、一瞬だけ攻撃の手
段に悩み―――その一瞬の逡巡がすべてを手遅れにした。

 アセルスはまたもや油断した。怒りに囚われ、とかげに意識を傾けすぎたあまり、彼女
の世界≠フ果てから谺する奇怪な轟きを忘失してしまった。
 音は瞬く間に近づき、彼女の耳元で雄叫びをあげるまでになっていたというのに。

 まず、視界に黒い影が飛び込んだ。
 それが猛スピードで回転する車輪だと気付くより前に、アセルスの躰に鋼鉄の騎馬が突
撃する。浮遊感が訪れたが、すぐにそれは落下へと転じ、地面に墜落する。夜を踊るよう
にして跳ねられたアセルスは、まるで調律の狂った人形のように細かく痙攣した。
 霞む意識の中でほぞを噛む。―――まさか、あの音の正体はこいつだったのか。


「待たせたのう」

 後輪を滑らせて方向転換をした零姫は、それ≠ノ跨ったままとかげに手をさしのべた。

 まるで焼却炉にシートと車輪を無理矢理くっつけたかのような無骨なデザインは、クー
ロンでは高価ではあったが、見慣れないものではなかった。
それ≠ヘイーリンの足≠フ役割を果たしていたものであり、こうなってしまったいま、
唯一ともいえる忘れ形見だった。
 ―――そう、概念武装化された蒸気スクーターである。

「ほら、さっさと後ろに乗れい」

 照れを隠すように零姫は素っ気なく言った。

「約束通り一緒に外≠ヨと往ってやるわい。それものんすとっぷ≠ナじゃ!」

 アクセルを空吹かしする。蒸気機関から伸びる鉄筒が鬨の声をあげた。

217 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/09/03(木) 22:57:51

 とかげから受け取ったイーリンの一部を、大事そうに懐にしまう。

「よくやった。よくアセルスに取り込ませなかった……」

 とかげが後部座席に跨ったのを確認して零姫はアクセルを回した。
 臀部を棍棒で叩かれたかのような急発進。前輪が浮き上がり、危うくとかげもろとも
置き去りにされそうになる。
 いかにも拙い運転。
 ……幻獣の召還や使役は熟達している零姫でも、こういった無機物の乗り物にはまっ
たくと言っていいほど馴染みがなかった。いっぱしに運転してきたように見えるが、そ
れはこのスクーター≠フ操作方法が「ハンドルを回せば走り出す」という簡素極まり
ないからであり、零姫自身は四苦八苦しながら車体にしがみついている状況だった。

 そも蒸気スクーター≠ネどといっても、それはあくまでイーリンが残した記憶の形
骸であり、存在は極めて概念的で精密な機械とは程遠い。現実と心象が混濁した針の
城≠ノおけるイメージの産物に過ぎないのだ。
 だから石炭をくべなくてもタイヤは回る。このスクーターを動かすのは蒸気ではなく、
零姫の意志の輝きだ。彼女が走ると信じれば―――無骨な鉄馬は忠実に嘶く。


 ぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱ―――


 第七層土星天≠通過し、二人はついに第八層恒星天≠ヨと至る。
 第十層至高天≠フ先に待つ城外≠ヨ。更にリージョン港より向こう側にあるはず
の、本当の外≠ヨと―――迷いも躊躇も捨てて、二人を乗せたスクーターは快走する。
 恒星天≠いくら走れども真っ平らに舗装された道路しかなく、現実には剣山の如
く密集しているはずのペンシルビルの風景はどこにも見えなかった。
 アセルスの支配力が弱まった針の城≠ヘ、もはや零姫ととかげの意志の力を阻むほ
どの幻想を顕現できないでいるのだ。

 ―――行ける。

 小さな躰を更に前傾して、零姫はスピードを速めた。
 
 ―――イーリンを外へと、連れて行ける。

 胸に広がるのは希望。過去、幾千幾万と踏みにじられ、絶望へと置き換わった儚い感
情。それでも捨てきれず、諦められず、胸の奥底に隠し続けていた想い。
 それがゆっくりと花開いていくのを―――零姫は確かに感じた。

218 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/09/03(木) 22:58:11

 ―――ふざ、けるな。

 二人を乗せた鉄馬が走り去った地で。
 妖魔の君主は四肢を投げ出したまま、地響きの如き呻きを漏らした。
 例え致命傷に見えようとも、物理的なダメージにはなんの意味もない。ここは彼女の世
界なのだ。世界の支配者を殺したければ、世界そのものを破壊するしかない。

 そしていま、アセルスの世界≠ヘ脆く崩れ去ろうとしていた。

 少なくとも、クーロンに浸食した針の城≠ヘ限界を迎えている。アセルスの心理的ダ
メージが、あまりに大きいからだ。

 混沌を象徴する濃厚な闇は薄れ、非現実的な茨の大群は急速に枯れてゆく。どこからと
もなく眩い火が上がり、それは瞬く間に世界¢S体へと広がっていた。
 アセルスの城が燃えていく。
 策謀に策謀を重ね、とかげとイーリンを利用し、IRPOを出し抜き、十年以上の月日を注
いだ結果、ようやくゾズマの張った結界を破れたというのに―――クーロンを丸ごと取り
込み、零姫を捕らえるという悲願が炎に包まれてゆく。
 闇を蹴散らす焔の勢いはあまりに強い。

 クーロンが、燃える。

「―――まだだ」

 躰を引きずるようにして、アセルスは立ち上がる。

「例え、針の城≠失おうとも。我が世界の顕現に失敗しようとも。……私は諦めな
い。私は決して逃がさない。私は追い続ける」

 零姫もイーリンも私のものだ。

「バイコーン!」

 アセルスの声に応じて彼女の影が蠢いた。
 水面のような闇から巨馬が躍り出る。
 山羊の如き雄々しい二本の角を持ち、怖気を振るうほどに黒い毛並みを誇る魔獣――
―不純を司る二角獣バイコーン≠セ。

 アセルスは隻腕にも関わらず愛馬に跨ると、馬の腹を蹴って走らせた。

 とかげに負わせられた刀傷からは、鮮血の代わりにさらさらと闇が溢れ出している。
 アセルスが針の城≠ネのか、針の城≠ェアセルスなのか―――境界線が限りなく
曖昧になっている証拠だ。
 浄化の炎は高く高く上っていき、アセルスの世界≠現実の風景から猛烈な速度で
追い出していく。
 ……残された時間は少ない。

 赤炎の幕があがる。
 炎上する針の城≠ナ、いま、フィナーレとなる逃走/追走の劇が始まった。

219 名前:零姫 ◆1kpREIHIME :2009/09/03(木) 22:58:25

 ―――そして。
 
 鉄屑の墓地と化した機関車の残骸にて。

 自らの棺桶になるところだった冷蔵庫の扉を蹴破って、その寵姫は戻ってきた。
 大げさに頭をさすりながら呟く。「あいやー、死ぬとこだったアルよ」

 おどけたまなこが見据えるのは外≠フ方角。追う主と逃げる余所者がいるであろう
世界≠フ果て。
 彼女はしばらく立ち尽くし、考えた。
 自分は所詮寵姫であり、あのお方の所有物に過ぎない。これ以上首を突っ込むのは僭
越というもの。主君が私の姿を借りたのは、あくまで完璧な変装のためなのだ。
 他の寵姫同様に大人しく成り行きを見守ろう。別に零姫やらイーリンやらがどうなろ
うと、自分には関わり合いがないのだから。

 ―――しかし。

「……乗りかかった船ネ」

 そうして、道化もまた終幕へと参加する。

220 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/09/11(金) 22:44:54
>>216↓これ↓>>217-219、の順だな。
ちなみに赤字は追記な。……つーか、入れるつもりで書き忘れてた。


>>

 掴んだ月下美人でそのまま斬り上げ――同時に、左手の鞘を上空に放り投げる。
 空いた左手で嘯風弄月を掴み取り、反転一閃。
 俺流二刀十字斬、ってか。二刀を振るうにゃ流石に鞘は邪魔だからな。
 
 ……どうやら結構なダメージになったようだ。奴の驚愕のツラに胸がすく。
 もっともこれで致命傷だとは思わねえが……残念ながら追撃の余裕はない。
 即席二刀流はそうそう続かねえし、それに俺にはやるべきことがある。
 こいつを殺るのは決して「本懐」じゃあない。それよりも……片手フリーにしとかなけりゃな。
 
 驚愕が憤怒に塗り替えられていく様を油断無く見つめながらも、右の月下美人を地面に突き刺し
落ちてきた鞘を掴み、嘯風弄月を血振るい、納刀。
 そして…………姫さんが特攻して今に至る。
 いや、つーかやりすぎ。別にやりすぎて困ることはねえけど。
 むしろ「してやったり」ではあるけど。
 
 
「ああ、待ちくたびれたぜ。おかげでイーリンに泥を塗るハメになっちまった」
 
 実際、半分くらいは「見ればわかる」と言った案配だろう。衣服がボロボロってだけならまだしも、
右腕が「中の肉が剥き出し」となりゃあ、な。
 それに姫さんのことだ、おまけに俺が何をやらかしたかさえも、あのバカの様子から察しを付けるかも
知れねえしな。
 
 ……不甲斐ねえ、な。こうして我が身振り返ると。
 それでも、やっとの思いで掴んだ活路だ。不死者が死人の振りをする、なんて狼藉働いてまで
切り開いた脱出口だ。
 何としてでも逃げてやる――一緒に。
 そう。
 
 ……差し伸べられた手を取る代わりに、ある「もの」を拾い上げ、手渡す。
 
 そいつは、さっきの激突でアセルスが取り落としたもの。
 絶対に渡すべきではないもの。
 不甲斐ない俺が手放してしまった、俺のものではあったが、もう俺のものではないもの。
 ――切り落とされた、「イーリンの」、右腕。
 俺は自分の手で姫さんの手を握る代わりに、そいつを握らせた。
 ……今のこの血塗れの腕は、最早イーリンの腕ではない。こんな手では握れない。
 それにこいつを持って行かなけりゃ、目的は果たされない。拾っていくためには片手が必要……
と、そういうわけだ。
 
「ああ、気味悪いとか言うんじゃねえぞ? そいつも一緒に、弔ってやらなきゃいけねえからな。
 本当は俺が持って行くべきなんだろうが、まだまだ攻め手で手一杯になりそうなんでな。
 預かっといてくれや」
 
 手が空いたので、行きがけの駄賃とばかりに月下美人を引き抜いて、姫さんの後ろに跨る。
 これで全部だ。これで手の届くものは全部、奪い返してやった。
 奴の言う「喜び」、文字通りの偶さかの喜びさえもだ。
 あとは。
 
「それじゃ、仰るとおりノンストップで頼むぜ、姫さん!」
 
 逃げる、だけ。

221 名前:とかげ ◆LIZARD.khE :2009/09/11(金) 22:45:25
んで、つづき。


>>

 かくして物語は終局へ向けて、疾走する。文字通りに地の果てまでも。
 あちらこちらに火の手が上がるも、それは俺らの行く手を遮りはしない。
 行く手を阻む物は何も見えない。ゆえに、ただ前へひた走るのみであり、希望の未来へれっつらごー……
 
 か?
 
 ……はっ、まさか。
 
 絶対的な大前提、「この期に及んで奴が諦めるはずがない」。ゴールするまでは、油断なんか出来ねえ。
 ましてや姫さんはこいつの運転に手一杯だろう。だから警戒は俺の役目だ。
 抜き身の月下美人を右にぶら下げて、何かあればすぐに斬りかかれるよう、油断無く周囲を見据える。
 
 ……その右腕だが、思ったより治りが早い。薄皮がだいぶ形成されてきて、痛覚が抑えられてきている。
 ついでに全身を穿った荊の傷も、ほとんどが完治してきている。
 こいつは、俺の現在の『より』である姫さんの後ろにぴったりくっついているせいか。
 おまけにその姫さん自身も、希望が現実的になってきたとあって、かなり昂揚しているようだしな。
 全身に力が行き渡る感覚。俺だって昂揚しようと言うものだ。
 
 
 “共に外へと行ける”
 
 
 くく、こいつが正真正銘のイーリンとリリーだったら、最高の絵面だったんだろうがな。
 だが代役でも物語は物語だ。
 ハッピーエンドを迎えてみせる。
 警戒は怠らない、だが正直、何が来たって……負ける気はしねえ。雑魚の百や二百、斬り伏せてみせる。
 
 
 
 
 ――というその考えはやはりまだ甘かったのだと、僅かな後に思い知らされた。
 
 
 初めは、奇妙な閉塞感だった。
 
 前方には何もない。吹き上がる炎に煌々と照らされるその光景には未だ、俺らを阻む物は見えない。
 だというのに、何か袋小路へ突き進んでいるかのような感覚に襲われる。
 何なんだ。何があるってんだ?
 
 前方。何もない。
 後方。何もない。
 右方。何もない。
 左方。何もない。
 下方。轍が刻まれるだけ。
 上方。そもそも何もあるわきゃね……え、ええ!?
 
 我が目を疑うとはこの事だ。
 いや、実際には何があった訳じゃねえ。何もない。
 ――ただし、“地面があるのを除けば”、だ。
 
 それは紛れもなく地面だった。何しろ気づけば、土くれや雑草までが見えるほどにその“地面”が
近付いてきていたからだ。
 さらに程なくして、その“地面”がたわみ始める。
 慌てて前方を見やれば、ゴールが待っているはずの地平線までもが歪んでいた。
 ……素直にゴールさせる気は毛頭ねえってか、おい!
 
「くそ――おい姫さん! しっかり運転してくれよ! こりゃこの先あんたのアクセルワークにかかってんぞ!」

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